No. 1627-A緇門崇行錄敘
緇門崇行錄 序
僧問沙門奚事。曰事道。事道孰為本。曰德行為本。僧云。甚矣。子之固也。利以慧入。鈍以福修。沙門者取慧焉足矣。德行奚為。予曰。先民有言。德行本也。又云。士之致遠者先器識。況無上菩提之妙道而可以受非其器乎哉。師子之乳。匪琉璃瓶貯之則裂。舉萬鈞之鼎而荷以一葉之舟。不顛趾而溺者幾希矣。今沙門稍才敏則攻訓詁業鉛槧如儒生。又上之則殘摭古德之機緣而逐聲響捕影跡。為明眼者笑。聽其言也超佛祖之先。稽其行也落凡庸之後。葢末法之獘極矣。予為此懼。集古善行。錄其要者。以十門羅之。何者。離俗染之謂僧。故清素居其首。清而不嚴。狂士之清也。攝身口意是諸佛教。故受之以嚴正。嚴正由師訓而成。師者人之模範也。故受之以尊師。親生而後師教。遺其親是忘本也。戒雖萬行以孝為宗。故受之以孝親。忠孝無二理。知有親不知有君。私也。一人有慶而我得優游於林泉。君恩莫大焉。故受之以忠君。忠盡於上交而惠乏於下及。則兼濟之道虧。故受之以慈物。慈近於愛。愛生著。出世之礙也。故受之以高尚。高尚非潔身長往而捨眾生也。欲其積厚而流光。故受之以遲重。遲重而端居無為。不可也。故受之以艱苦。勞而無功則苦難而退。因果不虗。故受之以感應終焉。十行修而德備。則任法之器也。地良矣而後佳種投。心醇矣而後至言入。無上菩提庶可希冀。不然。一鄙夫耳。人道未全焉知佛道。即使利根多慧。而慧彌多障彌重。將安用之。僧云。吾法一塵不立。十行何施。予曰。五蘊紛紜。四大叢沓。何謂無塵。僧云。四大本空。五蘊非有。予與一掌曰。學語之流如麻似粟。未在更道。僧無對。艴然而起。予笑曰。蔽面塵埃。子何不拭。慎之哉。毋升高不自卑。無妄談般若自取殃咎。無醉於虗名。修其德。殫其精誠。以致力於道。力極而心通。然後知不撥萬行不受一塵。終日不空終日不有。夫是之謂真慧。願吾子究心焉。予未聞道兼薄於德。今為此書。惟務救時獘而酬佛恩耳。明達之士苟不因人棄言。幸展轉以告夫禪者。
僧が沙門に問うた。「沙門は何をなすものか」と。 答えて言う。「道をなすものである」と。 「道をなすことにおいて、何を根本とするか」と問うと、 答えて言う。「徳行を根本とする」と。
僧が言う。「なんと甚だしいことか、あなたの頑迷さは。利根の者は智慧によって入り、鈍根の者は福徳によって修める。沙門たるもの、智慧を取ればそれで足りる。徳行など何の役に立とうか」と。
私は言う。「先人はこう言われた。『徳行は根本である』と。また、『遠大な志を成し遂げる者は、まず器量と見識を養う』とも。ましてや無上菩提の妙なる道は、その器でない者が受けられるものだろうか。獅子の乳は、瑠璃の瓶でなければそれを貯めておくと割れてしまう。万鈞の鼎を持ち上げて一枚の葉の舟に載せれば、転覆して溺れずにいられることはほとんどない。今、沙門は少し才能に敏であれば、儒者のように訓詁に励み書物に没頭する。さらに上を行く者は、古徳の機縁を断片的に拾い集め、声や響きを追い、影や跡を捕らえる。明眼の人には笑われるばかりだ。その言葉を聞けば、仏祖の先を行くかのようであるが、その行いを調べれば、凡庸の者よりも劣っている。まさに末法の弊害は極まれりである。私はこれを憂い、古の善き行いを集め、その要点を書き留め、十の門によって網羅した。なぜか。俗世の染まりを離れた者を僧という。ゆえに清らかで質素な行いをその最初に置く。清らかであっても厳格でなければ、狂士の清さにすぎない。身・口・意を制することは、諸仏の教えである。ゆえに厳正さをこれに続ける。厳正さは師の教えによって成る。師は人の模範である。ゆえに師を尊ぶことをこれに続ける。親が生み、その後師が教える。親を忘れることは、根本を忘れることである。戒は万行あれども、孝を宗とする。ゆえに親に孝行することをこれに続ける。忠と孝は二つの理ではない。親の存在を知りながら君の存在を知らなければ、私心である。一人の君主に慶事あれば、私は林泉に優游することができる。君の恩ほど大きなものはない。ゆえに君に忠を尽くすことをこれに続ける。忠は上に交わることに尽きるが、恵みが下に及ばなければ、兼ねて済す道は損なわれる。ゆえに物を慈しむことをこれに続ける。慈しみは愛に近い。愛が生じれば執着する。それは出世の妨げである。ゆえに高尚であることをこれに続ける。高尚とは、身を清くして長く去り、衆生を捨てることではない。その積み重ねが厚く、光を放つことを望むのである。ゆえに遅重であることをこれに続ける。遅重であって端座して無為であってはならない。ゆえに艱苦であることをこれに続ける。労して功がなければ、苦難に遭って退く。因果は虚しくない。ゆえに感応をもって終える。十の行いを修め、徳が備われば、法を受ける器となる。地が良くなってこそ、良き種が蒔かれる。心が純粋になってこそ、至高の言葉が入る。無上菩提は、はじめて望むことができる。そうでなければ、ただの卑しい者にすぎない。人の道も全うしていないのに、どうして仏の道を知ることができようか。たとえ利根で智慧が多くとも、智慧が増せば増すほど障りも重くなる。それをどう用いようか」と。
僧が言う。「我が法は一塵も立たず。十の行いなど、何の役に立とうか」と。 私は言う。「五蘊は紛れ、四大は重なり合う。どうして塵がないと言えようか」と。 僧が言う。「四大は本来空であり、五蘊は存在しない」と。 私は一掌を打って言う。「言葉だけを学ぶ者は麻や粟のように多い。まだ足りない、もう一度言え」と。 僧は答えられず、顔色を変えて立ち上がった。 私は笑って言う。「顔を覆う塵埃を、なぜ拭わないのか。慎むがよい。高みに昇って自ら卑下せず、般若を妄りに語って自ら災いを招くことなかれ。虚名に酔うことなく、その徳を修め、その精誠を尽くして、道に力を注ぐがよい。力が極まり、心が通じれば、そのとき初めて、万行を撥ね退けず、一塵も受けず、終日空ならず、終日有ならざることを知る。これを真の智慧という。どうか私の子よ、心を尽くして探究されたい。私は未だ道を聞かず、かつ徳も浅い。今この書を為すのは、ただ時弊を救い、仏恩に報いるためである。明達の士、もし人によって言葉を棄てず、幸いにも禅者に伝えて告げられることを願う」と。
萬曆十三年仲冬日 杭沙門 袾宏 識
万暦十三年仲冬の月 杭州の沙門 袾宏 記す