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title: "吳都法乘 · 石像大士記"
description: "吴都法乘由明代学者周永年编纂，是一部汇集佛教文献的地方性佛教典籍。该书成书于明代万历年间，主要辑录了苏州地区（古称吴都）的佛教寺院、高僧事迹、碑铭诗文等相关资料，反映了当时江南佛教的兴盛状况。全书内容涵盖寺院沿革、僧传、塔铭、艺文等多个方面，具有重要的地方佛教史料价值。作为明代佛教文献的代表作之一，吴都法乘不仅保存了大量珍贵的佛教历史资料，也为研究江南地区佛教发展、寺院文化及佛教与文人士大夫的互动提供了重要参考，在中国佛教史和地方文化研究中占有独特地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmaxr3qh200c5jr04tjrru31i"
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### 石像大士記

徐恪

有聖人馬得大圓通能以善應妙行不拘一方而随感示現無作妙力不遺一物而自在成就夫何故本如來藏真音聞體如水中月遍一切處觀音大士化導無礙本有如是故佛與辟夫聲聞等身随其得度而為說法人與非人險難諸境随其恐怖而施無畏則妙相示現妙力成就可思議哉吴興󰑻逵少侍親嘉禾以瘵疾常齋茹誦觀音夢白衣人鍼其耳疾遂愈逵善丹青弟寧事鑱刻因願以觀音像于石且首欲繪相為法不敢以意取而祈以夢證心思頗勤十年如是也一夕夢觀音行道之相及覺能追之故󰑻氏所傳吴人以為應夢觀音焉逵慶曆丙戌自秀如杭復來蘇募眾立像徃返經畫二十年晚得鍾離智先者助馬凢舉大緣無能為之資則誘募必以眾力逵寠且寡助獨其心至誠終始不倦雖道途之久覊旅之困世情之艱難人不堪其憂逵晏如也吴俗善樂好施視逵所為孰不散所有以為助積日月之施足以成其志因訪太湖之洞庭得石尋餘玉潤而金聲寧像之惟相之肖其𤥖冠纓服圓容麗質世人皆能為獨行之相夢感心得如有所授而不自知雖大巧在前其能毫髮加損耶若廈屋以為帡幪欄楯以為防限大小之材偹締構者皆以良石熙寧癸丑得地於蘇州虎丘劍池之西南明年九月朔立宇置像随各就緒又得時公卿大夫觀音經墨妙終卷僅百數勒之石壁以永其傳斯時之盛事也且靈明虗寂無相可取上机喻馬中下蔽蒙随其流轉不以相示之則不信不以善導之則不入此西方聖人於有為△中随所建立或具以威儀而有名相飾以莊嚴而為功德皆以漸次使之信入而已世之佛像其土木　甓金碧丹雘取於所募甚眾而所積且勤然成非其材寓非其地一失經始則獘不旋踵斯石蔵之湖津融結成就浸漬澡雪其體堅其質粹而成之得其材飛甍峻宇喬松絕嶺青蘿白雲氣象洒落叢林之冠而寓之得其地則創制之美　具於此足以副聖相感通之意在物所謂供養承事依歸瞻仰者愈久而不厭其利可勝計哉夫即相論道而道不異相即方丈之室尋尺之像華蔵之道塲普門之法身於是乎在以至大千亦復如是何適而非真耶元祐丙寅季春初吉日徐恪記　住山慧先立

> ある聖なる菩薩がいて、大きな悟りを得ていました。 それは、善巧に衆生の心に応じ、一つの方法に執着することなく、その感応に従って様々な姿を現します。 何の作為もない不思議な力によって、一つのものも取りこぼさず、すべてを自在に成就させます。 なぜなら、その本源は如来の蔵（真如の世界）であり、真実の音を聞く本体は、まるで水中の月のように、あらゆる場所に遍満しているからです。 観音大士は化導に障りがなく、本来このような力を持っています。 そのため、仏は声聞（弟子たち）などの身となって、人々の悟りに応じて教えを説き、 人や人ならざるもの、様々な困難や恐怖の境遇にある者には、その恐怖に応じて無畏（恐れない心）を施します。 このように、妙なる相を現し、妙なる力を成就することは、まことに思い測ることなどできましょうか。 \*\*呉興（ごこう）の逵（き）\*\* という人は、幼い頃に嘉禾（かか）で両親に仕えていましたが、病にかかり、常に精進料理を食べて観音経を誦していました。 ある夜、夢に白衣の人が現れて、その耳に鍼（はり）を施したところ、病は治ってしまいました。 逵は絵が巧みで、弟の寧（ねい）は彫刻を得意としていました。 そこで、観音像を石に刻むことを願い、まずその像の姿を描くために、自分の勝手な想像で描くことを避け、夢による確かな証拠を求めました。 その思いは十年にも及ぶほど、誠実なものでした。 ある夜、夢に観音が道を行く姿を見ました。目が覚めると、その姿をありありと描くことができました。 そのため、呉の人々はこの像を「応夢観音」と呼びました。 逵は慶暦丙戌（1046年）に秀州（しゅうしゅう）から杭州（こうしゅう）へ行き、さらに蘇州（そしゅう）に来て、人々に呼びかけて像を建てました。 往復して計画を練ること二十年。 晩年にようやく鍾離智先（しょうりちせん）という人の助けを得ました。 大きな事業を起こすにも資金がなく、人々の力を借りて勧募（寄付を募る）するしかありませんでした。 逵は貧しく、助ける人も少なかったですが、ただその心だけは至誠で、初めから終わりまで倦むことがありませんでした。 長い旅の疲れや、旅先での苦労、世の中の厳しさに、人はその憂いに耐えられないと思うような状況でも、逵は平然としていました。 呉の人々は善行を好み、施しを喜ぶ風習がありました。 逵の行いを見て、誰が持っているものを惜しんで寄付しないことがありましょうか。 長年の寄付が積もり積もって、ついにその志を成就させるのに十分となりました。 そこで、太湖（たいこ）の洞庭（どうてい）にある石を探しに行き、一丈（約3m）余りの石を得ました。 その石は玉のように潤い、金のような音がしました。 寧が像を刻みましたが、その姿はまことに似ていました。 頭飾りや冠、襟や装身具、丸く麗しい姿は、誰でも作ることができるものでしたが、 ただ、行く姿の像というのは、夢で感じ取った心が授けたものであり、本人も気づかないうちにそうなったのです。 たとえどんな名工が前にいても、その像に毛一本ほどの増減を加えることができたでしょうか。 大きな建物を覆いとし、欄干を防護の限りとし、大小の材を備えて、建築する者は皆、良い石を用いました。 熙寧癸丑（1073年）、蘇州虎丘（ここう）の剣池（けんち）の南西に土地を得ました。 翌年の九月朔日（ついたち）、建物を建て像を安置し、それぞれが成就しました。 さらに、当時の公卿や士大夫たちが書いた観音経の墨跡が百幅近くも集まり、それを石の壁に刻んで永遠の伝承としました。 これが当時の盛大な出来事でした。 そもそも、霊妙で明らかでありながら虚しく静かなものには、形相（すがた）というものはありません。 上の根機の者はそれで悟りますが、中以下の者は愚かに覆われて、流転に従ってしまいます。 形相をもって示さなければ信じず、善く導かなければ入ることができません。 このため、西方の聖人（仏）は、\*\*有為（うい）の世界において、様々なものを建立されました。\*\* 威儀を備えて名相（形や名前）を持ち、荘厳をもって飾って功徳とする。 これらはすべて、段階を経て人々を信じさせ、悟りへと導くための方便なのです。 世の中の仏像は、土や木、金や碧、丹や朱で作られ、多くの寄付を集め、その努力も大変なものです。 しかし、材料が適切でなかったり、場所がふさわしくなかったりすると、いったん作り始めても、すぐに壊れてしまいます。 この石は、湖のほとりに蓄えられ、長い年月をかけて形づくられ、浸され洗われて、その体は堅く、質は純粋です。 これを材料とすることで、良い材料を得たことになります。 高くそびえる軒、険しい松林、山々に絡まる青い蔦、白い雲。 その気象は清らかで、叢林（寺院）の中でも最も優れています。 ここに安置することで、ふさわしい場所を得たことになります。 このように、\*\*制作の美しさと設置の適切さが共に整い、\*\* 聖なる相の感応の意味に十分にかなっています。 人々が供養し、仕え、帰依し、仰ぎ見ることは、時が経っても飽きることがなく、その利益は計り知れません。 つまり、形相をもって道を論じれば、道は形相と異ならないのです。 一丈四方の部屋や、一尺の像の中に、華蔵（けぞう）の道場や普門（ふもん）の法身が存在しています。 これを大千世界に広げても、また同じです。 どこに行っても、真実でないものがありましょうか。 \*\*元祐丙寅（1086年）春の初めの吉日 徐恪記す 住山 慧先 建立\*\*