大宝积经论 卷第三
後魏・北インド三蔵法師菩提流支訳
我を見ずして、どうして人無我を説くことができるのか。一つの相によって覚ることを示しているからである。ここにこの覚りの事があるので、常に観ずるのではないと説く。知るがゆえに、あの三つの事柄に戻る。凡夫が計り執って生じた常、凡夫が計る自らの異なる相を見ないからである。陰などの無常の事柄、どうして法空を説くことができるのか。一つの相によっても覚らないことを示しているからである。無常観ではないと説くがゆえに、知る。ここにこの覚らない事があるので、あの事柄に戻る。無常の趣きがゆえに、内外およびその中間は、凡夫が計り執って仮に説く相であり、その体性は覚知することができない。無常を得た者がもし計り執ったならば、説くことのできない事柄の中に横に安立する。どうして法無我を説くことができるのか。一つの相によって覚ることを示しているからである。ここにこの覚り、覚りの事があるので、あの事柄に戻る。その中で覚り見る聖智の境界は、ただ彼が自ら内に証知するのみで、他の人は説くことができない。それには六種の相がある。凡夫が計り執って仮に見て説く性とは似ていない。どのような六種か。色ではないもの、自ら測り指し示しても、これであると説くことができない。これは見ることができないもの、それゆえにそれを得ることができない。他に示して住しないもの、色根の境界を超えているがゆえに、その処で色などの根が住することができないからである。相がないもの、念を離れた性相がゆえである。記別がないもの、意識の境界を離れているがゆえである。執着がないもの、煩悩の事がないがゆえである。どうして横計執着の有辺を説くことができるのか。二種の勝れた相による正しい説き方と、その体性の相による正しい説き方を示しているからである。ここでどのような勝れた正しい説き方の性相か。その上上に八種あると知るべきである。あの事柄に戻る。常の正しい執着、無常の正しい執着。および常の正しい執着に依って、我ありという取り執り(我取)の正しい執着がある。および無常の執着に依って、我なしという執着がある。および我なしという取り執り(無我取)の執着に依って、実心を取るという大きな執着がある。我ありという執着に依って、実心を取らないと説く。その依り所もまた求める。さらに求めるものは、執着に依って、および執着と共に順じて依って、不実の心を取る。執取する不善などの執着、さらには染執の相を取る。五種の障り患いがある。染法の中に、顛倒の患い、誹謗の患い、発起の患い、粗悪の患い、無常の患いがある。実心を執取する執着に依る。その対治として、浄法の中に善などによって安立され、さらには浄得によって安立される。これが八種の諸勝安を成ずるのである。これらの八種の勝安について、菩薩は覚念に順ぜず、執着しないがゆえに、順ぜずと説かない。他に勧めないがゆえに、悟らずと説かない。他を動かさないがゆえに、ここで真実の執安とは、上に明らかなように、この八種の勝安の事柄の中において、凡夫が心を繋いで仮に用いる性の執安である。このような安があると言う。どうして誹謗の辺を説くことができるのか。また一つの相がゆえに、誹謗の事があることを示しているからである。ここに誹謗の事があるものは、あの邪法を信じるがゆえに、法無我を一切時に執して、一切法の相はないと言う。この義がゆえに、略説してこの横執誹謗の辺を離れ、六種の相を離れて、中道の義を顕わに説く。どうして諸法の証事を説くことができるのか。経に「迦葉よ、明と無明は異ならず別ならず、このように知る者を中道の真実正観と名づく。乃至、老死の滅もまた、二つなく別ならず」などとあるように。三種の相によって、証法の事を説き解釈する。あの本説の三種の事柄に戻る。および第四の因縁の事柄の中に、障りあり対治あり。有為無為に住して、性相の不可得を示し、勝事の不可得を示し、およびそれを習い已て如実智を証得する。ここで性相の不可得とは、凡夫が計り執うように、明と無明の性相が得られないことである。ここで勝事の不可得とは、所有するあの凡夫の横計執着の性相が滅し生じ集まることを、二つの相として見ないことである。ここで証得する智とは、説くところのあの智およびその依り所となる念相の行を念ぜず、および行が障げられないがゆえに、内智をもって法無我を証知するがゆえである。どうして菩薩の証法を説くことができるのか。回向発願して大菩提に向かうがゆえに、また一つの相がゆえである。もし空がゆえに諸法を空にしないならば、というような七句の説き方で、菩薩は衆生の利益のために、空がゆえに諸法を空にせず、煩悩を捨てない、この義はこのようである。無願がゆえに諸法を無願にしない。無相がゆえに諸法を無相にしない。再び業の生起する流れおよび念の生起する流れを現起させず、一切の諸行は無性であり、涅槃をもって世間の流れを滅する。どうしてこのように行じ已て、未だ煩悩苦悩の心を離れていないことを説くことができるのか。また一つの相の義がゆえである。諸法に性あり無性あるが如く、というような七句の説き方で、未だ滅していない諸怨障などの法を、如実に観証する。ここで如実に証するとは、あの障りなどの諸法に戻って、体性の行として法無我を見て染まらず、苦しまないことである。どうして勝れているのか。四種の相によって説くからである。見の勝相を示すがゆえに、あれに戻って遠く離れる勝れを示すがゆえに、禅定を失う乱れの勝れを示すがゆえに、心の乱れの勝れを示すがゆえに。ここで見の勝れとは、経に言う「迦葉よ、人がないがゆえに空というのではない。乃至、中際もまた空であるがゆえに、ただ人を見ないがゆえに空と説くのではない」という義である。この義はなぜか。衆生空に住する者は、法空を見ず、ただ法の自体が空であるのみである。未来において涅槃の中に於いて断滅の慢心を作り、心をもって善く観じて所取を取らず、乃至、行をもって能取の無我智を取る。仮名の性空に摂せられることを離れる。善く三時(過去・未来・現在)を観ぜず、それゆえに正しく真如智爾焰(対象)を観ずるのではない。空の仮名をもって妄りに法を取る慢心がゆえに、空に依って法無我の真実の空に依らないと言う。彼は本の所取である衆生空を滅さず、および法を取って生じる執着があるがゆえに、名相に退失する。この法の中において、菩薩はこのようではない。この義がゆえに、勝れた説き方を顕わし、菩薩の行が法無我を示すことを説くのである。「仏は迦葉に語った。汝らはまさに空に依るべし。乃至、仏法の中においては則ち退失するであろう」。ここにこの遠離がある。勝れて衆生無我に住するがゆえに。自我見は、凡夫の最も下劣な中に転じる。さらに最も下劣には二種の相があるがゆえに。一、苦を免れないこと。二、行苦であること。これが二相であるがゆえに、「迦葉よ、むしろ須弥山のように積もった衆生見を起こすとも、空見をもって増上慢を起こすことなかれ。なぜならば、迦葉よ、一切の諸見は空によって脱することができる。もし空見を起こすならば、彼は則ち治すことができないからである」と説く。この文はその義を顕わしている。むしろ須弥山のように積もった我見を起こすとは、我見は対治することができ、滅し得させることできるがゆえである。空見をもって増上慢を起こさないとは、法無我を見ないがゆえに増上慢を起こすと知るべきである。私は空がゆえに諸行が空であると見る。妄相執着の性空もまた空である。彼は不可得の体空であり、横に分別の性空を執し、横に安立して顛倒の処とするがゆえに。横に安立した執見がゆえに、空見を成ずる。もし空見を起こすならば、彼は対治と与することができず、それゆえ持つことができないと知るべきである。持つことができないがゆえに、生などの諸苦を免れず、一切時に煩悩の熱を離れない。楽行することができず、譬えば治すことのできない病人のようである。二種の執取を滅するがゆえに、前者のために二種の相があると説く。譬えば病人に良医が薬を与えるように。乃至、もし空見を起こすならば、私はその人を治すことができないと言う。この譬えは示している。譬えば病人が正しく養生せずに諸患を動かし、動く病因に順じ、動かない病因に前後に順じるがゆえに、二種の苦受を受けるように。このように人無我見は我見と同じく滅せず、および衆生空・法無我の執着を離れず、自ら煩悩の病に順ずるがゆえに、前後に二種の滅を取る。それゆえに滅と名づける。菩薩はこのようではない。ここで滅の善勝とは、経の「譬えば人が虚空を怖れるが如し」というようなものである。「人が空中において自ら念い分別して横に執着し計らい作った物を怖れるが如く、彼は已にこのように言う。この空を除け、この空を除け、というように」というようなものである。このように人無我の中に住して、法無我に住せず、我慢がゆえに怖畏を生ず。虚空の処、説くことのできない事柄の中に、横に虚空を執し、横に安立して執着し已て、執着がゆえに色などの想いを起こし、その断じる事を求める。菩薩はそうではない。ここにこの心の乱れの勝事があるがゆえに、「迦葉よ、譬えば絵師が、自ら恐怖の夜叉鬼の像を描くが如し」などと説く。このように行を失い乱れる者は、人無我に住するがゆえに、自ら分別して実有の境界を念う。彼は想などの倒錯がゆえに、顛倒を成ぜしめる。菩薩はそうではない。どうして因を説くのか。二種の譬えによって。一者は幻師の譬え。二者は二本の木が擦れ合う譬え。初めの譬えは、能取する者を観ずることを示す。人無我智はただ諸行を取るのみである。彼は法無我智をもって観ずる。この法無我智を能取および観と名づける。しかしながら、あの人無我智は法無我智の因となる。それがあるがゆえにこれがあるという譬えである。もし幻師が幻人の因となるように。譬えば幻人が食事をする、その師がこのようであるように、行者は法無我智をもって、衆生無我智は仮名の性を離れているがゆえに空であり、あの分別を離れているがゆえに寂であり、捨てるべき相であるがゆえに堅固なることなく、空で物がないがゆえに、不牢なる観は食事のようである。第二の譬えは示す。譬えば二つの実証得、ここで如実に証得する所有の観、彼の能取所取の寂静を思惟し、念の因を捨て離れず、永くあの内知決定智を生ず。ここで観ずる所取とは、衆生無我智の観を謂う。能取とは、行法無我智である。彼の二つは上下の二本の木が順ずるが如し。寂静思惟は寂静の因がゆえに、内に所証知し、決定知を生ず。これを真実証と名づける。この二木の譬えは、因があることを得られることを顕わす。譬えば二本の木を擦り合わせるがゆえに火が生じ、生じ已て還ってあの二本の木を焼くように。このように人無我・法無我智の行が因となり、この法無我智を生じ、縁によって内智決定の智を生ず。彼の行智の所有する妄念計執の性は、彼が如実に観じて能く焼く。どうして遍至空を説くのか。また一つの相の義がゆえに、あの法無我智の中に戻って如実に見るがゆえである。譬えば燈を点す時、一切の暗黒は皆自ら滅する、と言う。この譬えは解釈して説く。ここで如実に見るがゆえに、無智などは仮名の性を離れているがゆえに空である。このように執着しないがゆえに。取ることのできない寂滅であるがゆえに、覚らない。どうしてこのようにあの空を解釈するのか。一者には業の滅、煩悩の滅、これは現前の対治であるがゆえに。「迦葉よ、譬えば家宅の内、あるいは部屋、あるいは屋根裏の中、千年以来を過ぎて乃至その暗黒がある」と言う。諸結業はこの譬えで説く。ここに滅して至ることを失う者を顕わす。尋いで即ち生じる智慧の光明が、無始以来の諸業煩悩を滅することができる。もしこのように速やかに諸煩悩を滅することができるならば、どうして菩薩は久長に世間を行じるのか。二つの譬えは勝れた果を得ることを示すがゆえに。「迦葉よ、譬えば種を空中に蒔く」乃至「諸使(煩悩)が世間法に雑じって能く仏法を長ずる」と言う。雑穢の良田の中に能く種子を生長させる。このような譬えなどは、この事を示す。菩薩は涅槃に向かう心がゆえに、衆生を捨てず、仏法を得るがゆえに世間を願って取り、已に回向発願した諸善根がゆえに、長夜の中に行を行ずる。ここで涅槃は無為であり、虚空の如し。それに依るがゆえに諸仏法を長ぜず。世間は煩悩雑穢の田の如し。菩薩の大悲もまた煩悩雑穢の地処の如し。その地を持つがゆえに、能く菩薩の仏法を増長させる。
お尋ねします。どうして劣った有為の法の中にあって、菩薩の無上の仏法を増長させることができるのでしょうか。
迦葉よ、たとえば、泥深く湿った沼地にこそ、美しい蓮の花が咲くように、菩薩もまた同じです。生死の泥沼のような、邪な考えに囚われた衆生たちの中にあってこそ、菩薩は仏の教えを花開かせるのです。