百法論義
百法明門論
天親菩薩 造
唐三藏法師玄奘奉 詔譯
大唐三蔵法師玄奘奉詔訳
明憨山沙門 德清 述
明の憨山沙門 德清 述す
佛說一大藏教。只是說破三界唯心。萬法唯識。及佛滅後。弘法菩薩解釋教義。依唯心立性宗。依唯識立相宗。各竪門庭。甚至分河飲水。而性相二宗不能融通。非今日矣。唯馬鳴大師作起信論。會相歸性。以顯一心迷悟差別。依一心法立二種門。謂心真如門。心生滅門。良以寂滅一心。不屬迷悟。體絕聖凡。今有聖凡二路者。是由一心真妄迷悟之分。故以二門為聖凡之本。故立真如門。顯不迷之體。立生滅門。顯一心有隨緣染淨之用。故知一切聖凡修證迷悟因果。皆生滅門收。其末後拈華為教外別傳之旨。乃直指一心。本非迷悟。不屬聖凡。今達磨所傳禪宗是也。其教中修行。原依一心開示。其所證入。依生滅門悟至真如門以為極則。其唯識所說十種真如。正是對生滅所立之真如耳。是知相宗唯識。定要會歸一心為極。此唯楞嚴所說一路涅槃門。乃二宗之究竟也。學人不知其源。至談唯識一宗。專在名相上作活計。不知聖人密意。要人識破妄相以會歸一心耳。故今依生滅門中。以不生滅與生滅和合成阿賴耶識。變起根身器界。以示迷悟之源。了此歸源無二。則妙悟一心。如指諸掌矣。
仏陀が説かれた一切の教えは、ただ三界は心のみ、万法は識のみであることを明らかにされたに過ぎません。仏陀が入滅された後、教えを広める菩薩たちが教義を解釈するに当たり、唯心に依って性宗を立て、唯識に依って相宗を立て、それぞれが自らの門戸を構えました。ついには河を分けて水を飲むほどにまでなり、性相二宗は融通することができず、これは今日に始まったことではありません。ただ馬鳴大師が『起信論』を著され、相を会して性に帰し、一心の迷悟の差別を顕わされました。一心の法に依って二種の門を立て、すなわち心真如門と心生滅門とを説かれました。まことに寂滅の一心は、迷悟に属さず、その体は聖凡を絶しています。今、聖と凡との二つの道があるのは、一心の真妄迷悟の分けによるものです。故に二門を以て聖凡の根本とし、真如門を立てて迷わざる体を顕わし、生滅門を立てて一心に随縁の染浄の用のあることを顕わされました。故に一切の聖凡の修証、迷悟、因果は、皆生滅門に収まることを知るべきです。その末後に拈華して教外別伝の旨とされたのは、まさに一心を直指し、本来迷悟に属さず、聖凡に属さないことを示されたのです。これが今、達磨によって伝えられた禅宗です。教えの中の修行は、もとより一心に依って開示され、その証入は、生滅門に依って悟り、真如門に至ることを以て極則とします。唯識で説かれる十種の真如は、まさに生滅に対して立てられた真如です。ここに相宗唯識は、必ず一心に会帰して極みとすべきことを知ります。これはただ『楞厳経』に説かれる一路涅槃門こそが、二宗の究竟であるからです。学ぶ人がその源を知らず、唯識一宗を論ずるに当たって、専ら名相の上で工夫し、聖人の密意が妄相を見破って一心に会帰させることを要としていることを知りません。故に今、生滅門の中に依って、不生滅と生滅とが和合して阿頼耶識を成し、根身器界を変起することを示し、以て迷悟の源を示します。これが帰源無二であることを了れば、妙に一心を悟ることは掌を指すが如く明らかです。
相宗百法者。正的示萬法唯識之旨也。以不生滅心與生滅和合成阿賴耶識。以此識有覺不覺義。其覺義者。乃一心真如。為一切眾生正因佛性。其不覺義者。乃根本無明。迷此一心而成識體。故此識有三分。謂自證分.見分.相分。又一師立四分。增證自證分。其證自證分。即不迷之真如。其自證分。乃真如一分迷中之佛性。是為本覺。以眾生雖迷。而本有佛性不失不壞。以有真如自體可證。故云自證。良由一心真如。有大智慧光明義故。今迷而為識。以湛寂之體。忽生一念。迷本圓明。則將本有無相之真如。變起虗空四大之妄相。名為相分。將本有之智光。變為能見之妄見。是為見分。是知一切眾生世界有相之萬法。皆依八識見相二分之所建立。故云萬法唯識。此實相宗之本源也。今唯識宗。但言百法者。始因彌勒菩薩修唯識觀。見得萬法廣博。鈍根眾生難以修習。故就萬法中最切要者。特出六百六十法。造瑜伽師地論以發明之。可謂簡矣。及至天親菩薩從兜率稟受彌勒相宗法門。又見其繁。乃就六百六十法中。提出綱要。總成百法。已盡大乘奧義。故造論曰。百法明門。謂明此百法。可入大乘之門矣。故欲知唯識。要先明此百法。以此百法。乃八識所變耳。以一切眾生。皆依此識而有生死。三乘聖人。皆依此識而有修證。通名世出世法。即此百法收盡。然一切聖凡。皆執為我。故論首標云。如世尊言。一切法無我。即顯此一無字。便見世尊出世說法四十九年。單單只說破聖凡之我見耳。我見既離。則八識無名。而一心之義顯矣。由是觀之。何相而不歸性耶。今言百法。通名有為無為世出世法。其世間名有為法有九十四。出世間名無為法有六。種故一切兩字。包括殆盡。雖云出世。猶未離我。故總無之。所以論主標一切法無我一句。為性相之宗本。則了無剩法矣。其有為法九十四者。謂一心法有八。心所法有五十一。色法有十一。不相應行法有二十四。然心法八者。謂眼識.耳識.鼻識.舌識.身識.意識.第七末那識。亦名意.亦名染淨依。俗呼傳送識。第八阿賴耶識。亦名無沒識。又名含藏識。此八識通名心王。以第八識乃自證分為生死主。其前七識乃屬見分。以為心用。故楞嚴云元以一精明分成六和合。八識心王。無善無惡。不會造業。其作善作惡者。乃心所也。故五十一心所。又名心使。如世人家之奴僕。主人固善。而奴僕作惡累及主耳。起信論中不分王所。但竪說三細六麤生起之相。通名五意。六種染心。但云心念法異一語而已。然心即八識心王。念即心所。法即善惡境界。此唯識相宗乃橫說八識王所業用。故不同耳。其五十一心所。分為六位。
相宗の百法は、正しく万法唯識の旨を示すものです。不生不滅の心と生滅する心が和合して阿頼耶識を成し、この識には覚と不覚の二つの意味があります。覚の意味とは、一心の真如であり、一切衆生の正因たる仏性です。不覚の意味とは、根本無明であり、この一心に迷って識体を成します。よってこの識には三分があり、自証分・見分・相分と呼ばれます。また、ある師は四分を立て、証自証分を加えます。その証自証分は、迷わない真如そのものです。自証分は、真如の一分が迷いの中にある仏性であり、これが本覚です。衆生は迷っていても、本来備わる仏性は失われず壊れません。真如の自体があり、それを証することができるからこそ、自証と言うのです。まさに一心の真如には、大いなる智慧光明の意味があるからです。
今、迷って識となると、澄み静かな体に、忽然と一念が生じ、本来の円明に迷います。すると、本来無相の真如が、虚妄なる虚空四大の妄相を引き起こし、これを相分と名づけます。本来の智光が、能見の妄見へと変わり、これが見分です。これにより、一切衆生の世界にある有相の万法は、すべて八識の見分・相分の二分によって建立されていることがわかります。故に「万法唯識」と言うのです。これが実に相宗の本源です。
今、唯識宗が百法のみを説くのは、初め弥勒菩薩が唯識観を修し、万法の広大さを見て、鈍根の衆生には修習が難しいと考えたからです。そこで万法の中でも最も肝要なものとして、特に六百六十法を選び出し、『瑜伽師地論』を造ってこれを明らかにしました。これは簡略と言えるでしょう。天親菩薩が兜率天で弥勒の相宗法門を受け継ぎ、さらにその煩雑さを見て、六百六十法の中から綱要を抽出し、総じて百法とまとめました。これで大乗の奥義は尽きており、故に『百法明門論』を造り、「この百法を明らかにすれば、大乗の門に入ることができる」と説いたのです。ですから、唯識を知ろうとするなら、まずこの百法を明らかにしなければなりません。この百法は、八識によって変現されたものにほかならないからです。
一切衆生は皆この識によって生死があり、三乗の聖人も皆この識によって修証があります。これらを通じて世間法・出世間法と名づけ、この百法によってことごとく収められます。しかし、一切の聖者も凡夫も、皆これを「我」と執着します。故に論の冒頭に「世尊の説く如く、一切法は無我である」と標榜し、この一つの「無」の字によって、世尊が出世して四十九年間説法されたのは、ただ聖凡の我見を説き破るためであったことが明らかになります。我見が離れれば、八識は名を失い、一心の意義が顕れるのです。ここから見れば、どのような相が性に帰しないことがありましょうか。
今、百法を通じて有為・無為、世間・出世間の法と名づけます。世間を名づけて有為法は九十四、出世間を名づけて無為法は六です。故に「一切」の二字をもって、ほぼすべてを包括しています。出世間と言えども、まだ我を離れていないため、総じて「無」とするのです。だから論主は「一切法無我」の一句を、性相の宗本として標榜し、これによって余すところなく法を了知するのです。
有為法九十四とは、一心法が八、心所法が五十一、色法が十一、不相応行法が二十四です。心法八とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・第七末那識(また意、染浄依とも名づけ、俗に伝送識と呼ぶ)、第八阿頼耶識(また無没識、含蔵識とも名づく)です。この八識を通じて心王と名づけます。第八識は自証分として生死の主であり、前七識は見分に属し、心の作用とします。故に『楞厳経』に「元来一つの精明が分かれて六つの和合となる」とあります。八識の心王は、善も悪もなく、業を造りません。善悪をなすのは、心所なのです。故に五十一の心所は、また心使とも呼ばれ、世間の家の奴僕のようです。主人は確かに善ですが、奴僕が悪を行えば主人に累が及びます。『起信論』では王と所を分けず、ただ縦に三細六粗の生起の相を説き、通じて五意・六種染心と名づけ、「心念法異」の一言で済ませています。しかし、心とは八識の心王、念とは心所、法とは善悪の境界です。この唯識相宗は横に八識の王所の業用を説くため、異なるのです。
五十一の心所は、六位に分けられます。
- 一.徧行五法。謂意.觸.受.想.思。
- 二.別境五法。謂欲.解.念.定.慧。
- 三.善心所有十一。謂信.進與慚.愧.無貪等三根.輕安.不放逸.行捨及不害。
- 四.根本煩惱有六。謂貪.嗔.癡.慢.疑.不正見。
- 五.隨煩惱二十。分小中大。小隨有十者。謂忿.恨.惱.覆.誑.諂.驕.害.嫉.慳。中隨二者。謂無慚并無愧。大隨八者。謂不信并懈怠.放逸及昏沉.掉舉.失正念.不正知.散亂。所言隨者。乃隨其根本煩惱分位差別。分小中大者。以有三義。一.自類俱起。二.徧染二性。謂不善有覆。三.徧諸染心。三義皆具名大。具一名中。俱無名小。
- 六.不定法四者。謂悔.眠.尋.伺。以此四法不定屬善屬惡故。此五十一心所。皆作善作惡之具也。而有麤細之不同。
徧行五者。乃善惡最初之動念也。雖有五法。其實總成一念。以第八識元一精明之體。本無善惡二路。其前五識。乃八識精明。應五根照境之用。同一現量。亦無善惡。其六七二識。正屬八識之見分。其七乃虗假。故楞伽云。七識不流轉。非生死因。其六識元屬智照。今在迷中。雖善分別。況是待緣。亦本無善惡。若無徧行五法。則一念不生。智光圓滿。現量昭然。即此名為大定。六根任運無為矣。無奈八識田中。含藏無量劫來善惡業習種子。內熏鼓發。不覺動念。譬如潛淵魚。鼓波而自踊。是為作意。警心令起。不論善惡。但只熏動起念處。便是作意。此生心動念之始也。由眾生無始以來。未甞離念。故今參禪看話頭。堵截意識不行。便是不容作意耳。觸則引心趣境。葢境有二。其習氣內熏者。乃無明因緣所變為境。發出現行。則以比似量所緣前塵影子為境。二境返觸自心。故名為觸。此妄境一現。則違順俱非境相。含受不捨。是名為受。境風飄鼓。安立自境。施設名言。故名為想。微細不斷。驅役自心。令造善惡。故名為思。其實五法圓滿。方成微細善惡總為一念。此最極微細。故云流注生滅。言徧行者。謂徧四一切心得行故。謂徧三性。八識。九地。一切時也。是為恒行心所。參禪只要斷此一念。若離此一念。即是真心。故起信云。離念境界。唯證相應故。
遍行五つとは、善悪の最初の動念である。五つの法があるが、実は総じて一念となる。第八識は元々一つの精妙明らかな体であり、本来善悪二つの道はない。前五識は、第八識の精妙明らかさが五根に応じて境を照らす作用であり、同じ現量であって、やはり善悪はない。第六・七の二識は、まさに第八識の見分に属する。第七識は虚仮であるから、『楞伽経』に「七識は流転せず、生死の因ではない」とある。第六識は元来智照に属するが、今迷いの中にあって、善く分別するとはいえ、縁を待つものであり、やはり本来善悪はない。もし遍行五法がなければ、一念も生じず、智光は円満し、現量は明らかとなる。これを大定といい、六根は任運無為となる。しかし、第八識の田の中には、無量劫以来の善悪の業習種子が含蔵されており、内から薫発して、知らずして動念する。例えるなら、深淵に潜む魚が波を立てて自ら躍るがごとし。これが作意であり、心を警めて起こさせる。善悪を問わず、ただ薫動して念を起こすところが作意である。これが生心動念の始まりである。衆生は無始以来、念を離れたことがないため、今、参禅して話頭を見ることは、意識の流れを遮断して作意を許さないことである。触は心を引いて境に向かわせる。境には二つあり、習気が内から薫るものは、無明の因縁によって変じた境であり、現行を発する。比似量によって縁づけられる前塵の影を境とする。二つの境が自心に返って触れるため、触という。この妄境が現れると、違順・倶非の境相を含受して捨てず、これを受という。境の風に飄われて、自らの境を安立し、名言を施設するため、これを想という。微細に絶え間なく、自心を駆り立てて善悪を造らせるため、これを思という。実は五法が円満して、初めて微細な善悪が総じて一念となる。これは最も極微細であるため、「流注生滅」という。遍行というのは、四つの一切の心に行き渡ることをいう。すなわち、三性・八識・九地・一切時に遍く行くことである。これが恒行心所である。参禅はただこの一念を断つことが要である。もしこの一念を離れれば、それが即ち真心である。故に『起信論』に「念を離れた境界は、ただ証に相応するのみである」とある。
別境五者。正是作善作惡之心也。前徧行五。雖起一念善惡。但念而未作。若肯當下止息。則業行自消。及至別境。則不能止矣。言別境者。謂別別緣境。不同徧行。此乃作業之心耳。因前徧行。作後善惡。體通麤細。欲者。樂欲。謂於所樂境。希望欲作。此正必作之心也。解者。勝解。謂於境決定。知其可作。不能已也。念者。明記。謂於可作境。令心分明記取不忘也。定。專一。謂於所觀境。專注一心也。慧。黠慧。謂於所作境。了然不疑也。此五別別緣境而生。若無此五。縱有善惡之念。亦不能作成事業。而此五法。不唯善惡。即出世修行。亦須此五乃能成辨也。上乃起業之心。下乃造作之業。其業不過善惡二途。其善業止有十一。其惡業則有根本煩惱六。隨煩惱二十。故世間眾生作善者少。而作惡者多也。
別境の五つは、まさに善をなす心、悪をなす心です。 前の遍行の五つは、たとえ一瞬の善悪の念が起こっても、それはただ思いに留まるだけで、まだ行動には至りません。もしその場で止めることができれば、業の行いは自然に消え去ります。 しかし別境に至ると、もう止めることができなくなります。 別境とは、それぞれ別々の対象に縁を結ぶことを言います。遍行とは異なり、これは実際に業をなす心なのです。 前の遍行によって、後の善悪が生じます。その性質は粗いものから細かいものまで通じています。
欲とは、楽欲のことです。好ましい対象に対して、それをなしたいと望む心です。これはまさに必ず行おうとする心です。 解とは、勝解のことです。対象に対して決断し、それがなせるものと知り、やめられなくなる心です。 念とは、明記のことです。なすべき対象に対して、心に明らかに記憶させ、忘れないようにする心です。 定とは、専一のことです。観じる対象に対して、一心に集中する心です。 慧とは、黠慧のことです。なすべき対象に対して、明らかに理解し、疑いを抱かない心です。
この五つは、それぞれ別々の対象に縁を結んで生じます。もしこの五つがなければ、たとえ善悪の念があっても、実際に事業を成し遂げることはできません。 また、この五つの法は善悪に限らず、出世間の修行においても、この五つが必要でなければ成し遂げることはできません。
以上が業を起こす心であり、以下が実際に造りなす業です。 その業は善悪の二つの道に過ぎません。善業は十一しかなく、悪業には根本煩悩が六つ、随煩悩が二十あります。 ですから、世間の衆生は善をなす者は少なく、悪をなす者が多いのです。
善十一者。善謂信.慚.愧.無貪等三根.勤.安.不放逸.行捨及不害。此十一法。收盡一切善業。世出世業以信為本。故首列之。慚者。謂自慚。云我如此丈夫之形。又解教法。敢作惡耶。有此慚心。則惡行自止。愧者。愧他。謂恐人譏呵。故不親惡人。不作惡事。經云。有慚愧者。可名為人。既具信心。加增慚愧。則善法自成矣。貪.嗔.癡三者。乃根本煩惱。亦名三毒。作善之人。此三不斷。何以為善。故皆無之。若無此三毒。是為三善根。勤者。精進也。既斷三毒。純一善心。必加精進勇猛。善行方增。此治懈怠之病。世有淳善之人。無精進力。軟暖因循。故終身無成。輕安者。謂離三毒麤重昏懵。如釋重負。則身心輕快安隱。堪任善行也。不放逸者。以縱貪嗔癡。無精進心。是為放逸。此不放逸。乃三根精進四法上防修之功能也。行捨者。由精進力。捨貪嗔癡。則令心平等正直。任運入道。以念念捨處。即念念入處。如人行路。不捨前步。則後步不進。故名行捨。以有此捨。令心不沉掉。故平等耳。言行蘊中捨者。以行陰念念遷流者。乃三毒習氣熏發妄想。不覺令心昏沉掉舉。若無此捨。不但昏掉將發現行。若能念念捨之。則昏掉兩捨。自然令心平等正直矣。初用力捨。名有功用。若捨至一念不生。則任運無功。自然合道矣。故予教人參禪做工夫。但妄想起時。莫與作對。亦不要斷。亦不可隨。但撇去不顧。自然心安。葢撇即捨耳。不害者。謂慈愍眾生。不為損惱。此專治嗔。不嗔則外不傷生。內全慧命。故為至善。如儒之仁。而善法繫之終焉。
善なるもの十一種とは、善とは信・慚・愧・無貪等の三根・勤・安・不放逸・行捨及び不害をいう。この十一の法は、一切の善業を収め尽くす。世間・出世間の業は信を本とする。ゆえにまずこれを掲げる。慚とは、自らを恥じることをいう。すなわち、「私はこのような立派な人間の形をし、また教法を理解しているのに、どうしてあえて悪をなすことができようか」と。この慚の心があれば、悪行はおのずから止む。愧とは、他を恥じることをいう。すなわち、人の嘲笑や叱責を恐れるゆえに、悪人に親しまず、悪事を行わない。経に云う、「慚愧ある者は、人と名づくべし」と。すでに信心を具え、さらに慚愧を増せば、善法はおのずから成るのである。貪・瞋・癡の三者は、根本煩惱であり、また三毒とも名づけられる。善を行う人が、この三つを断たなければ、どうして善といえようか。ゆえにすべて無くすのである。もしこの三毒がなければ、これが三善根となる。勤とは、精進のことである。すでに三毒を断ち、純粋に善心のみとなれば、必ず精進勇猛を加えねばならず、そうして善行は増すのである。これは懈怠の病を治す。世には純粋な善人であっても、精進の力がなく、柔弱で因循な者がおり、それゆえ終身成すところがない。軽安とは、三毒の粗重で昏懵たる状態を離れ、重荷を下ろしたかのように、身心が軽快で安穏となり、善行に堪えうることをいう。不放逸とは、貪瞋癡にふけり、精進の心がないことを放逸というが、この不放逸は、三根と精進の四法の上に防ぎ修めるはたらきである。行捨とは、精進の力によって貪瞋癡を捨て、心を平等正直ならしめ、おのずから道に入ることをいう。念念に捨てるところ、すなわち念念に入るところである。人が道を行くに、前の歩みを捨てなければ、後の歩みは進まない。ゆえに行捨と名づける。この捨があるゆえに、心が沈滞・掉挙することなく、平等となるのである。行蘊の中の捨というのは、行陰が念念に遷流するのは、三毒の習気が妄想を熏発し、知らず知らずのうちに心を昏沈・掉挙させるからである。もしこの捨がなければ、昏沈・掉挙が現行に現れよう。もし念念にこれを捨てれば、昏沈・掉挙の両者を捨て、おのずから心を平等正直ならしめるのである。初めは力を用いて捨てるので、有功用という。もし捨てて一念も生ぜざるに至れば、おのずから無功となり、自然に道に合うのである。ゆえに私は人に参禅して工夫することを教えるが、ただ妄想起これるとき、それと対抗せず、また断じようとせず、また従ってもならず、ただ払いのけて顧みなければ、自然に心安らかとなる。払うこと、すなわち捨てることである。不害とは、衆生を慈しみ憐れみ、損ない悩ますことをしないことをいう。これは専ら瞋を治める。瞋らなければ、外には生を傷つけず、内には慧命を全うする。ゆえに至善となる。儒の仁のごとく、善法はこれをもって終わるのである。
根本煩惱六者。謂貪.嗔.癡.慢.疑.不正見。此六煩惱。乃二種我法之根本。為二種生死之根本。一切枝末從此而生。然貪嗔癡。名為三毒。傷害法身。斷慧命者。唯此為甚。故首標之。慢乃我慢。疑乃不信。不正見即邪見。此三法障道之本。慢障無我。疑障正信。不正見障正知見。三乘能斷三毒。而不能斷此三法。外道之執。邪見更甚。所以修行難入正行者。此三煩惱之過也。法華名為十使煩惱。謂貪.嗔.癡.慢.疑。為五鈍使。不正見分五。謂身見.邊見.邪見.戒取.戒禁取為五利使。由此煩惱能使眾生漂流苦海。故名為使。
根本煩悩は六つあります。すなわち、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろかさ)・慢(おごり)・疑(うたがい)・不正見(ふせいけん)です。この六つの煩悩は、二種類の「我」と「法」の執着の根本であり、二種類の生死(輪廻)の根本でもあります。すべての枝葉のような煩悩は、ここから生じます。
しかし、貪・瞋・癡は「三毒」と呼ばれ、法身(仏の本質)を傷つけ、智慧の命を断つものとしては、これが最も甚だしいものです。そのため、最初に挙げられています。
慢とは「我慢」、疑とは「信じない心」、不正見とは「邪見」のことです。この三つは、悟りの道を妨げる根本的なものです。慢は「無我」を妨げ、疑は正しい信仰を妨げ、不正見は正しい知見を妨げます。三乗(声聞・縁覚・菩薩)の修行者は三毒を断つことができますが、この三つを断つことはできません。外道の執着は、邪見がさらに甚だしいのです。修行が正しい行いに入りにくいのは、この三つの煩悩の過ちによるものです。
法華経では「十使煩悩」と呼ばれます。すなわち、貪・瞋・癡・慢・疑は「五鈍使」、不正見はさらに五つに分かれ、身見・辺見・邪見・戒取・戒禁取を「五利使」とします。これらの煩悩は、衆生を苦しみの海に漂流させる働きがあるため、「使」と呼ばれるのです。
隨煩惱二十者。謂忿.恨.惱.覆.誑.諂.驕.害.嫉.慳。此十為小隨。無慚.無愧。此二為中隨。不信.懈怠.放逸.昏沉.掉舉.失正念.不正知.散亂。此八為大隨。所言隨者。以隨他根本煩惱而生故。言小中大者。以隨有三義。謂自類俱起。徧染二性。謂不善有覆。徧諸染心。具三名大。具一名中。大小俱起故。行相麤猛。各自為主。故名小隨。以忿等十法。各別而起故。其無慚無愧。則一切不善心俱。大小俱起。名中。由無慚愧則昏掉不信等。一齊俱起。故名為大。葢無慚愧及不信等。與上善法相返。義相對照可知。不必繁解。要知請詳唯識。
随煩悩二十とは、すなわち、忿(怒り)、恨(恨み)、惱(苛立ち)、覆(隠し立て)、誑(欺き)、諂(へつらい)、驕(驕り)、害(害意)、嫉(嫉妬)、慳(物惜しみ)。この十を小随と呼ぶ。無慚(恥じない心)、無愧(他を憚らない心)。この二つを中随と呼ぶ。不信(信じない心)、懈怠(怠け心)、放逸(気ままな心)、昏沈(ぼんやりした心)、掉挙(浮ついた心)、失正念(正しい気づきを失う心)、不正知(誤った知見)、散亂(乱れた心)。この八つを大随と呼ぶ。
「随」と言うのは、根本煩悩に随って生じるからである。「小・中・大」と言うのは、随に三つの意味があるからである。すなわち、自類とともに起こること、染汚の二性(不善と有覆)に遍く行くこと、あらゆる染汚心に遍く行くこと。この三つをすべて備えるものを大随とし、一つだけ備えるものを中随とする。大小の煩悩がともに起こり、その働きが粗く激しく、それぞれが自ら主となって現れるので、小随と呼ぶ。忿などの十の法は、それぞれ別々に起こるからである。
無慚と無愧は、すべての不善心とともに起こり、大小の煩悩がともに起こるので、中随と呼ばれる。無慚愧によって、昏沈・掉挙・不信などが一斉に起こるので、大随と呼ばれる。すなわち、無慚愧や不信などは、上に述べた善い心の働きとは反対のものであり、その意味は対照すればわかる。詳しく説明する必要はない。詳しく知りたい方は、唯識の教えを学んでください。
不定四者。謂悔.眠.尋.伺。論曰。不定謂悔眠。尋伺二各二。謂此二二。各具善惡二法。故不定於一。以不同前五位心所。定徧八識三性一切時一切地。此心所之差別也。悔不定者。如作惡之人。改悔為善。悔前惡行。如作惡之人。悔前惡事不作。故不定耳。眠謂睡眠。則令身不自在。心極暗昧。此非善惡。故名不定。即眠中作夢。亦不定善惡。論說眠能障觀。以眠為心所者。能令身心昏重之用。但非一定善惡耳。言尋伺者。乃作善作惡之心。將作之時。必返求於心。意言籌量。麤轉為尋。入細為伺。所謂麤細發言。言不定者。如讚佛菩薩。初尋後伺。方得妙辭。如刁訟之人。亦由尋入伺。方得成筭。故此二法為不定耳。如上五十一法名心所者。乃心家所有之法也。然八識心王不會造業。其造業者乃心所為之。以此與心相應故同時起耳。此心所法。又名心數。亦名心迹。亦名心路。謂心行處總名妄想。又名客塵。又名染心。又名煩惱。煩者擾也。惱者亂也。有此心所。擾亂自心。然清淨心中本無此事。如清冷水投以沙土。則土失留礙。水亡清潔。自然渾濁。名煩惱濁。今修行人專要斷此煩惱。方為真修。楞嚴經云。如澄濁水。沙土自沉。清水現前。名為初伏客塵煩惱。去泥純水。名為永斷根本無明。故修行人縱得禪定。未斷煩惱。但名清水現前。而沙土沉底。攪之又濁。況未得禪定而便自為悟道乎。如阿難蒙佛開示如來藏性。徹底分明。而自述所悟。但曰心迹圓明。以向來都是妄想用事。全不知不見。今日乃見此是煩惱。方得圓明了了耳。今人以妄想為悟心。豈非自顢耶。然此心所。名雖相宗。要人識破此妄想相。則容易妙悟本有真心矣。豈直專數名相而已哉。
已上雖分王所。總屬八識之見分。
以上は、王と所に分けてはいるものの、すべては八識の見分に属します。
十一色法者。謂眼.耳.鼻.舌.身五根。色.聲.香.味.觸.法六塵。此五根乃八識攬地水火風四大所成內身。為識所依之根。五塵亦是四大能所八法所造。為所受用境。其法塵乃外五塵落謝影子。屬六識所變。一半屬心。一半屬境。此十一法。通屬八識相分境。以唯識所現故。
十一の色法とは、眼・耳・鼻・舌・身の五根と、色・聲・香・味・觸・法の六塵を指します。
この五根は、八識が地・水・火・風の四大を集めて形成した内なる身体であり、識が依りどころとする根です。五塵もまた、四大の能所八法によって造り出されたもので、受け取られ、用いられる対象です。法塵は、外なる五塵が消え去った後に残る影のようなもので、六識によって変現され、半分は心に属し、半分は境に属します。
これら十一の法は、すべて八識の相分の境に通じます。なぜなら、それらは唯識によって現れ出たものだからです。
問曰。此五根身。乃眾生之內身。言攬四大所成。此義云何。
問い申します。この五つの根(感覚器官)を備えた身体は、衆生の内なる身体であり、四大(地・水・火・風)を集めて構成されていると言われます。この意味はどのようなものでしょうか。
答曰。楞嚴經云。迷妄有虗空。依空立世界。想澄成國土。知覺乃眾生。此言因迷一心。轉成阿賴耶識。則靈明真空。變為頑空。於頑空中。無明凝結成四大妄色。故云依空立世界。乃妄想澄凝所成之國土耳。由有四大妄色。則本有之智光。轉為妄見。以彼妄色為所見之境。妄見既久。則搏取四大少分為我。而妄見托彼四大以為我身。故四大本是無知。因妄見執受而有知。真心無量。今被無明封固。潛入四大以為心。所謂色雜妄想。想相為身。故云知覺乃眾生。是為五蘊之眾生耳。故內五根外六塵通屬八識之相分。故參禪必先內脫身心外遺世界者。正要泯此相見二分。單究八識無明本體。故身心世界不消。總是生死之障礙耳。所言分別我法二執者。以執身為我執。根塵為法執。二乘修行。但破身見。則出分段生死。其分別法執。從初信心。歷三賢位。直至初地。方破此執。豈易易哉。
二十四種不相應者。此乃色心分位。葢依前三法上一分一位假立得等之名。揀非心心所色等。故名不相應。以不與心王相應。以不能作善作惡。故非心所。但係唯識所計分位差別。以是我所執之法。故亦列在有為法數。義有多解。非所急務。故不必一一。恐妨正行耳。
二十四の不相応とは、これは色と心の分位(状態・段階)のことである。すなわち、先に述べた三法(心王・心所・色)の上に、ある一部分、ある一つの位(状態)を仮に立てて「得」などの名を付けたものである。心・心所・色などではないと区別するため、「不相応」と名づけている。
心王と相応しないため、善も悪もなすことができず、ゆえに心所ではない。ただ、唯識の教えで計られる分位の差別にすぎない。これもまた我の執着する法であるため、有為法の数に列せられている。
その意味については多くの解釈があるが、急を要する事柄ではない。したがって、いちいち詳しく述べる必要はなく、かえって正しい修行の妨げになる恐れがある。
此上九十四種名有為法。以是眾生生死之法。乃妄識所計。有造作故。故名有為。名世間法。下六無為。乃出世法。
これら九十四の法は、有為法と呼ばれます。これらは衆生の生死に関わる法であり、迷いの心が作り出した造作に過ぎません。ゆえに「有為」、すなわち世間の法と名づけられるのです。一方、残りの六つの無為法は、出世間の法となります。
無為法有六種者。謂虗空無為.擇滅無為.非擇滅無為.不動無為.受想滅無為.真如無為。此六種法。揀異有為。故立無為名。雖云出世法。實通小乘。以不動乃三果那含。受想滅乃滅盡定耳。虗空無為者。從喻得名。謂無為法。體若虗空。無所造作。下五無為。通以此喻。然此虛空喻。有大小不同。如華嚴云。若人欲識佛境界。當淨其意如虗空。遠離妄想及諸取。令心所向皆無礙。又云。清淨法身。猶若虗空。此則直指法界性空。即起信所云。如實空鏡。以體絕妄染。故如虗空。此乃大乘法性真空。實一心之別稱也。此中虗空。義通大小。正取虗豁無有造作。以作下五無為真諦之喻耳。擇滅無為者。擇謂揀擇。滅謂斷滅。由無漏智。斷諸障染。所顯真理。故立斯名。此在權教菩薩分斷分證。及二乘所證涅槃空法。正屬擇滅。故曰證滅高證無為。實在二乘。非擇滅者。謂不由擇力。緣缺所顯。即實教菩薩以如實觀。觀諸法性本自寂滅。以立此名。不動無為者。謂第四禪。離前三定。三災不至。無喜樂等動搖身心。得不動名。即五那含定。受想滅無為者。無所有處。想受不行。名受想滅無為。通滅盡定。此與不動皆屬二乘。真如無為者。理非倒妄。不妄不變。名為真如。以遠離依他徧計。此正唯識所證十種真如。若依起信。正是八識體中本覺。及真如門。乃對生滅之真如。未盡一心。故是相宗之極則。此上百法。乃總答云何一切法也。下答云何為無我。
言無我者。略有二種。一補特伽羅無我。二法無我。此二無我。直顯一心之源也。葢我法二執。有麤有細。麤者名分別我法二執。細者名俱生我法二執。此二種執。始從凡夫外道二乘。歷三賢十聖。直至等覺。方纔破盡。破此二執。即證一心。是名為佛。今此二無我。則麤細二執皆在此中。言補特伽羅。云數取趣。謂諸有情數數起惑造業。名為能取。當來五趣。名為所取。此葢就凡夫所執分別五蘊假我及外道所執之神我以取分段生死之苦者而言也。其實二乘所執蘊即離我。及涅槃我。與地上菩薩未破藏識。七地已前俱未離俱生我執。以取變易生死之微苦者。今論中但說凡夫分別之我。未及聖人。葢就相宗一往所談耳。其實佛意以聖教量盡皆破之。方極大乘之義也。法無我者。謂我所執之法也。凡夫法執。即身心世界六塵依報。外道所執妄想涅槃。二乘所執偏空涅槃。菩薩所執取證真如。論云。現前立少物。謂是唯識性。以有所得故。非實住唯識。以有證得。是為微細法執。所謂存我覺我。俱名障礙。故八地菩薩已證平等真如。尚起貪著。是謂微細法執。此執未空。故未盡異熟。尚屬因果。直至金剛道後異熟空時。即入果海。即起信云。菩薩地盡。覺心初起。心無初相。遠離微細念故。得見心性。名究竟覺。是則按此百法。前九十四。乃凡夫所執人法二我。六種無為。乃二乘菩薩所執人法二我。以雖證真如。猶屬迷悟對待。總屬生滅邊收。故今生滅情忘聖凡不立。方極一心之源。故皆無之。此實即相歸性之極則也。嗟今學者。但只分別名相。不達即相即性歸源之旨。致使聖教不明。而有志參禪者。欲得正修行路。可不敬哉。
「無我」という言葉には、大きく二種類あります。一つは「補特伽羅無我(人無我)」、もう一つは「法無我」です。この二つの無我は、直接に一つの心の根源を明らかにするものです。
そもそも「我」と「法」への執着には、粗いものと細かいものがあります。粗いものを「分別我法二執」、細かいものを「俱生我法二執」と言います。この二種類の執着は、凡夫や外道、二乗から始まり、三賢十聖を経て、等覚に至るまで、ようやく完全に破られます。この二つの執着を破ることが、一つの心を証することであり、それを「仏」と呼びます。
さて、この二つの無我の中には、粗い執着も細かい執着もすべて含まれています。「補特伽羅」とは「数取趣」、つまりすべての有情が繰り返し煩悩を起こし業を作ることを「能取」と言い、来世の五趣を「所取」と言います。これは、凡夫が執着する分別による五蘊の仮の我や、外道が執着する神我を指し、分段生死の苦を取る者について言ったものです。
実際には、二乗が執着する「蘊即離我」や「涅槃我」、また地上の菩薩で蔵識(阿頼耶識)を破っていない者、七地以前でまだ俱生我執を離れていない者たちは、変易生死の微細な苦を取っています。しかし、この論では主に凡夫の分別による我について述べており、聖人については触れていません。これは、法相宗の一往の説に基づくものです。実際の仏の意図は、聖なる教えの量によってすべてを破り尽くすことにより、大乗の真義を極めることにあります。
「法無我」とは、私が執着する「法」のことです。凡夫の法執は、身心・世界・六塵という依報です。外道の法執は、妄想の涅槃です。二乗の法執は、偏った空の涅槃です。菩薩の法執は、真如を証得しようと取ることです。論に云く、「現前に少物を立て、唯識性と謂う。所得あるが故に、実に唯識に住せず」。証得があるということは、微細な法執なのです。いわゆる「我を存し、我を覚る」ことは、どちらも障礙と名付けられます。そのため、八地の菩薩は平等真如を証得していても、なお貪着が起こります。これが微細な法執です。この執着が空じられないため、異熟(果報)が尽きず、まだ因果に属します。金剛道の後、異熟が空じられた時、初めて果海に入ります。『起信論』に云く、「菩薩地尽き、覚心初めて起こる。心に初相無く、微細なる念を遠離するが故に、心性を見ることを得、名けて究竟覚と為す」。
この『百法明門論』に照らせば、前の九十四法は凡夫が執着する人我と法我であり、六種の無為は二乗と菩薩が執着する人我と法我です。真如を証得していても、まだ迷いと悟りの対待に属し、総じて生滅の辺に収まるからです。だからこそ、生滅の情が忘れられ、聖も凡も立たず、初めて一つの心の根源を極めることができます。したがって、これらはすべて「無い」のです。これはまさに、相を即して性に帰する究極の則りです。
ああ、今の学ぶ者たちは、ただ名相を分別するだけで、相即性・帰源の旨を達しておらず、そのために聖なる教えが明らかにならず、禅に志す者が正しい修行の道を得ようとするならば、敬うことなくしてよいでしょうか。
百法論義(終)