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  1. 金剛般若波羅蜜経観心釈終 (金剛般若波羅蜜經觀心釋終)
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金剛経観心釈 (金剛經觀心釋)

「金剛經觀心釋」について

明 · 智旭述 著

1,575 字 · 約 5 分

金剛経観心釈(こんごうきょうかんしんしゃく)は明代の高僧・智旭(ちきょく)によって著された重要な仏教経典の注釈である。智旭は明末の四大高僧の一人であり、天台宗(てんだいしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、禅宗(ぜんしゅう)などの諸宗の学説に精通していた。本書は観心法門(かんしんほうもん)を核心とし、金剛経の般若空性思想(はんにゃくうしょうしそう)を深く解明し、自心を観照(かんしょう)することによって空性の真理を体悟(たいご)することを強調する。智旭は天台宗の止観(しかん)と禅宗の心法(しんぽう)を結びつけ、金剛経の修行の要義を体系的に論述し、後世の学道人(がくどうにん)に対して明晰な修証(しゅしょう)の道筋を提供した。金剛経の重要な注釈の一つとして、本書は中国仏教史上において重要な地位を占め、特に禅宗と天台宗


金剛般若波羅蜜經觀心釋

金剛般若波羅蜜経 心観釈

菩薩沙彌 智旭際明 述
已申如實不空義, 如如演說不取著。
攝彼名句及文身, 融歸一念成觀行。
金剛者,喻現前一念心也。譬如金剛,體則無上至寶,相則純淨無雜,用則廣能利益。現前一念亦復如是,體即法界,相無塵染,用徧一切。復次,現前一念即是金剛。世間金剛之寶,假心為喻,乃世寶;似心非心,似世寶也。此現前一念金剛之心,即三般若。法界真體,名為實相;無塵染相,名為觀照;徧一切用,名為文字。達此一念三般若者,名波羅蜜,以即三德究竟之彼岸故。此一念性亘古亘今,常不變故,可軌持故,一切聖賢由此得成諸道果故,即名為經。

金剛とは、今この一瞬の心をたとえたものです。 ちょうど金剛石のように、その本質はこの上ない宝であり、姿は純粋で混じりけがなく、働きは広くあまねく利益をもたらします。 今この一瞬の心もまた同じです。その本質は法界そのものであり、姿は塵一つ汚れず、働きはすべてに遍く及びます。

さらに、今この一瞬の心こそが金剛そのものです。 世間にある金剛の宝は、心にたとえられたものですが、それは世の宝にすぎません。心に似て心ではなく、世の宝に似ているだけです。 しかし、この今この一瞬の金剛のような心は、三つの般若そのものです。 法界の真実の本質は「実相般若」と呼ばれ、 塵一つ汚れない清らかな姿は「観照般若」と呼ばれ、 すべてに遍く働きは「文字般若」と呼ばれます。

この一瞬の心に三つの般若がそなわっていることを悟ることを「波羅蜜」といいます。 なぜなら、それは三つの徳が究極の彼岸に至った境地だからです。 この一瞬の心の本性は、遠い過去から今に至るまで、常に変わることがなく、確かなよりどころとなるものであり、 すべての聖賢がこれによってさまざまな悟りの果実を得るのです。 ゆえに、これを「経」と名づけるのです。

復次,現前一念之性從來不異,名如;此外更無別法,名是;統攝自在,名我;了了印境,名聞;十世古今不離當念,名一時;虗靈絕待,名佛;豎窮橫徧,名在;含育出生一切諸法,名舍衛國;但悟惟心能降魔外,名戰勝;功德之林,名樹;性具功德周給一切,名給孤獨;萬善所集,名園。

さらに、今この一瞬の心の本性は、初めから変わることがない。これを「如」と呼ぶ。 このほかに別の法はない。これを「是」と呼ぶ。 すべてを統べ自在である。これを「我」と呼ぶ。 はっきりと境を映し知る。これを「聞」と呼ぶ。 十方三世の過去も未来も、今この一念を離れていない。これを「一時」と呼ぶ。 空しく霊妙で、対するものがない。これを「仏」と呼ぶ。 縦に窮まり、横に遍く満ちる。これを「在」と呼ぶ。 すべての諸法を包み育て生み出す。これを「舎衛国」と呼ぶ。 ただ心のみと悟れば、魔や外道を降伏させることができる。これを「戦勝」と呼ぶ。 功徳の林。これを「樹」と呼ぶ。 本性に備わった功徳がすべてのものに行き渡る。これを「給孤独」と呼ぶ。 あらゆる善が集まる園。これを「園」と呼ぶ。

復次,現前一念當體常徧,名大。出生福慧,名比丘。諸心、心所相應,名眾。一念具足百界,十如為千,自行化他十善各各互具為二百,五根、五力各各互具為五十,猶如海印炳現,無前無後,名俱。

さらに、現前の一念そのものが常に遍満していることを「大」と名づけます。福徳と智慧を生み出すことを「比丘」と名づけます。すべての心と心の働きが相応していることを「衆」と名づけます。一念が百界を具足し、十如が千となり、自ら実践し他を教化する十善がそれぞれ互いに具わって二百となり、五根と五力がそれぞれ互いに具わって五十となる様子は、まるで海印が明らかに現れるがごとく、前後なく、これを「倶」と名づけます。

復次,無有一法出過於心,名為世尊。一切時中常應觀察自心,名食時。自心本具慚愧法忍,名衣。自心事理和合相應,名鉢。歷陰、界、處觀察理性,名入城乞食。於一一法得見理性,名次第乞已。會事歸理,名還本處。觀理究竟,名飯食訖。全修在性,名收衣鉢。福慧明顯,名洗足。證於第一義空,名敷座而坐。

また、心を超える一つの法もない、これが世尊と呼ばれる所以です。常に自心を観察することが、まさに食事の時。自心が本来備えている慚愧と法忍が、衣。自心の事と理が和合して相応することが、鉢。五陰・十八界・十二処を通して理を観察することが、町に入って托鉢すること。一々の法において理を見ることが、順番に托鉢を終えること。事を理に帰することが、本来の場所に還ること。理を究竟まで観じることが、食事を終えること。全ての修行が本性に在ることが、衣鉢を収めること。福と慧が明らかになることが、足を洗うこと。第一義空を証することが、座を敷いて坐ること。

復次,相應解心所名。須菩提!此解有殊勝力,名為長老;諸心所中能為導首,名為在大眾中;不取空證,名從座起;順方便道,名偏袒右肩;右膝著地權不異實,名為合掌;如理觀察自覺聖智境界,名恭敬白佛;心性不可思議,故名希有;無量眾善,名諸菩薩;眾善不離一心,名善護念;一心具行眾善,名善付囑;一念照性,名善男子;一念寂性,名善女人;依寂照體起寂照用,名為發菩提心;用如其體,名為應住;永離昏擾,名為降伏其心;心之理性隨解現,故名。佛告須菩提:如理而觀,觀即如理,名善哉!善哉!

さらにまた、相応する心の働きを解き明かす名がある。須菩提よ、この理解には特別な力があり、それを「長老」と呼ぶ。すべての心の働きの中で先導する役割を果たすから、「大衆の中に在る」と名づけられる。空の境地に執着しないことを、「座より起つ」と言う。方便の道に順うことを、「右肩を偏袒する」と表す。右膝を地につけることは、権(方便)と実(真理)が異ならないことを示し、「合掌」と称される。理に従って観察し、自ら覚った聖なる智慧の境地を、「恭敬して仏に白す」と表現する。心の本性は計り知れないゆえに、「希有」と呼ばれる。無量の善い行いを、「諸菩薩」と名づける。多くの善が一心から離れないことを、「善く護念する」と言い、一心が多くの善を行じることを、「善く付嘱する」と表す。一瞬の念いで本性を照らすことを、「善男子」と呼び、一瞬の念いで静寂なる本性を、「善女人」と名づける。静寂と光明の本体に依り、静寂と光明の作用を起こすことを、「菩提心を発す」と言う。作用が本体のままであることを、「応に住すべし」と表し、永遠に昏さと乱れを離れることを、「心を降伏すべし」と説く。心の理なる本性は理解に従って現れるゆえに、このように名づけられる。仏は須菩提に告げた:理のままに観よ、観ることが即ち理のままであることを、「善き哉、善き哉」と讃えるのである。

復次,現前一念具足無量染淨種子及現行故,名為一切眾生之類。無明覆蔽,名為卵生;隱覆含藏,名為胎生;愛取所潤,名為濕生;非有現有,名為化生;心生像生,名為有色;覓心無像,名為無色;種種攀緣,名為有想;攀緣無性,名為無想;所緣不實,名非有想;能緣不斷,名非無想;無明妄想本性空寂,名為無餘涅槃;了妄不生,名為令入滅度;一心不生,萬法無咎。譬如翳除,空華悉殞,名為滅度無量無數無邊眾生;華性本空,非今始滅,名為實無眾生得滅度者;於一念中妄計宰主形相、眾緣相續,名我等四相;迷空計華,名非菩薩。

さらに、今この一瞬の心には、無量の染(けがれ)と浄(きよらか)の種子と、それが現に現れ出る働きがすべてそなわっているから、これを「一切衆生の類」と呼びます。

無明に覆われて暗い状態を「卵生」といい、 内に隠れて含み蔵している状態を「胎生」といい、 愛と執着によって潤される状態を「湿生」といい、 実在しないのに現れている状態を「化生」といいます。

心が像(かたち)を生み出す状態を「有色」といい、 心を探しても像がない状態を「無色」といいます。 さまざまなものに縁をとって執着する状態を「有想」といい、 縁をとるものに実体がない状態を「無想」といいます。 縁の対象が実在しない状態を「非有想」といい、 縁をとる働きが絶え間ない状態を「非無想」といいます。

無明と妄想の本性は空しく静寂であるから、これを「無余涅槃」といいます。 妄想が生じないことを悟ることを「(衆生を)滅度に入らしむ」といいます。 一心が生じなければ、すべての現象に過ちはありません。 たとえば、眼の病が除かれれば、空に浮かぶ花はすべて消え去るように、 これを「無量無数無辺の衆生を滅度せしむ」といいます。 花の本性はもとより空であって、今初めて滅したのではないから、 これを「実に衆生の滅度を得るもの無し」といいます。

一瞬の心の中で、勝手に支配者や形あるもの、さまざまな縁が続くものと 思い込むことを、「我・人・衆生・寿者」の四つの相といいます。 空を迷って花があると考える者は、菩薩とは呼べません。

復次,心無心相,名無所住;念念出生,名之為行。不取一法,名為布施;不染一法,名為持戒;不礙一法,名為忍辱;不捨一法,名為精進;不動一法,名為禪定;不昧一法,名為智慧;不壞一法,名為福德。不見一法有分劑相,名如虗空;不計一法異於般若,名如教住。

また、心に心という相がないことを、無所住(どこにもとどまらない)と名づけます。念々に生じ出ることを、行と名づけます。

一つの法をも執着しないことを、布施と名づけます。 一つの法にも染まらないことを、持戒と名づけます。 一つの法をも妨げないことを、忍辱と名づけます。 一つの法をも捨てないことを、精進と名づけます。 一つの法をも動かさないことを、禅定と名づけます。 一つの法をも見誤らないことを、智慧と名づけます。 一つの法をも壊さないことを、福德と名づけます。

一つの法にも分け隔ての相があると見ないことを、虚空の如しと名づけます。 一つの法も般若と異なると考えないことを、教えのままに住すると名づけます。

復次,現前一念,體即法界,名非身相;本原真如,名為如來;由觀心故,不毀三業,名為持戒;質直柔和,名為修福;一念覺故,名為一佛;念念相續,至無量念,善覺悟故,名為無量佛所;種諸善根,本覺之性,印持攝受,諸修德故,名為如來;悉知悉見,無量福德,了心無相,名無四相;行無相善,名無法相;離一切惡,名為無非法相;諦喻彼岸,觀智喻筏,安住實諦,觀解亦絕,名為法尚應捨。

さらに、今この一瞬の心のありようは、その本質が法界そのものであり、これを「身体や形にとらわれない姿」と呼ぶ。根源的な真実のあり方、それを「如来」と呼ぶ。心を観察することによって、身・口・意の三つの行いを損なわず、これを「戒律を保つ」と言う。素直で柔和な心、それを「福を修める」と言う。一瞬の目覚め、それを「一仏」と呼ぶ。その目覚めの瞬間が次々と続き、限りない瞬間に至るまで、善く目覚め続けること、これを「無量の仏の前で」と言う。あらゆる善い根を育てること、本来自分にそなわる覚りの本性が、すべての修行の徳を支え、受けとめ、包みこむこと、これを「如来」と呼ぶ。すべてを知り、すべてを見る、限りない福徳。心に形がないことを悟ること、これを「四つのとらわれがない」と言う。形にとらわれない善を行じること、これを「法という形にもとらわれない」と言う。すべての悪を離れること、これを「法でさえないという形にもとらわれない」と言う。真理を彼岸にたとえ、観察の智慧を筏にたとえる。真理に安らかに住すれば、観察や理解さえも絶たれる。これを「法でさえも捨てるべきである」と言う。

復次,現前一念即如來故亦即菩提,不應如來得於如來,不應菩提得於菩提,以能得所得、能說所說皆是即心自性,無能所故。此心之性即無為法,一切聖賢不離心性有修證故。現前心性即名為經,是法是常無變壞故,一切諸佛及菩提法無不依於心性而施設故。若達心法即知佛法,亦知一切眾生之法三無差別,非別更有諸佛法故。

また、今ここにある一つの心の働きは、そのまま如来であり、そのまま菩提でもあります。如来が如来を得ることもなければ、菩提が菩提を得ることもありません。なぜなら、得るものと得られるもの、説くものと説かれるものは、すべてこの心の自性そのものであり、得る者と得られる者という区別がないからです。

この心の本性は、無為の法であり、すべての聖者や賢者は、この心の本性を離れて修行や悟りを得ることはありません。今ここにある心の本性こそが、経典と呼ばれるものであり、この法は永遠であり、変わったり壊れたりすることはありません。すべての仏や菩提の法は、この心の本性に基づいて説かれているからです。

もし心の法を悟れば、仏の法も理解でき、またすべての衆生の法も理解できます。これら三つには違いがなく、別に仏の法が存在するわけではありません。

復次,現前一念即是法界,無內外故,故無出入,亦無往來,無道無果,無欲無離,無喧無寂,名為四果阿蘭那行。復次,現前一念光光相續,名為然燈;萬法所依,名為佛土;徧滿自在,名為大身;福田所宗,名為塔廟;一體三義,名金剛般若;究竟秘藏,名波羅蜜;如理觀心,名奉;觀成不失,名持。自此以後,雖有種種名句文身,以義攝取,亦復不離現前一念,可以意知,不復委釋。

さらにまた、眼前の一念そのものが法界である。内外の区別がないから、出入もなく、行き来もない。道もなく果もなく、執着もなく離れもなく、騒がしさもなく静けさもない。これを四果阿蘭那行という。

さらにまた、眼前の一念が光と光と連なり続けることを「燈を燃やす」といい、すべての法が依りどころとすることを「仏土」といい、あまねく満ちて自在であることを「大身」といい、福田のよりどころとなることを「塔廟」といい、一つの体に三つの意味があることを「金剛般若」といい、究極の秘蔵であることを「波羅蜜」という。理のままに心を観ずることを「奉」といい、観が成就して失わないことを「持」という。

これ以降、さまざまな名や句や文があっても、その意味をとらえれば、やはり眼前の一念から離れることはない。これは心で知ることができ、詳しく説明する必要はない。

如是微妙金剛義, 不離現前一念心,
觀心具足般若經, 亦復具足餘妙典,
十二分教二種藏, 乃至量等大千經,
於一念中悉剖出, 一切諸念亦復然。
如於念念剖大經, 一切根塵亦如是,
乃至無有少許塵, 而不具足法界藏。
如是正慧應了知, 一切惟心心一切,
若不觀心類說藥, 真藥現前亦不知,
是故我今稽首禮, 性具三德無遺者。
一一啟請勸觀心, 速登般若金剛岸。

このように微妙なる金剛の義は、 現前の一念の心より離れず、 心を観ずれば般若経を具足し、 また他の妙典をも具足す。

十二分教と二種の蔵、 さらには大千経に等しき量をも、 一念の中にことごとく剖出し、 一切の諸念もまたかくのごとし。

念念において大経を剖くがごとく、 一切の根塵もまたしかり、 少しの塵とて具わざるはなく、 ことごとく法界蔵を具足す。

かかる正慧をもって知るべし、 一切はただ心、心は一切なり。 もし心を観ずることなく薬を説かば、 真の薬現前すとも知るを得ず。

ここをもって我今稽首礼す、 性具の三徳遺すところなき者に。 ひとつひとつ啓請し心観を勧め、 速やかに般若金剛の岸に登らん。

金剛般若波羅蜜經觀心釋(終)

金剛般若波羅蜜経 観心釈


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