界品第一
まず最勝なるものに礼拝し、 熱を離れ、益を豊かにする言葉、 その言葉は相応しく、 阿羅漢は実相を見るなど。
先というのは、先立つことです。頂礼というのは、清らかな信心をもって身をかがめて礼拝することです。最勝というのは、世尊が応供者(供養に値する者)から供養され、また一切の法の中で最も勝れているからです。また、世尊は一切の法、一切の種において自在を得ているから、最勝といいます。離熱というのは、焼き尽くすものから離れているという意味です。煩悩の熱は身心を焼くものですが、世尊はそれから離れているので、離熱といいます。これは自らの智慧と煩悩の断滅を成就したことです。その師がこのように説くのは、如来の自利が満たされていることを示しています。次に饒益という言葉を説くのは、世尊の言葉が一切の衆生を利益するからです。饒益とは、安穏のことです。安穏と饒益は、同じ意味の別の言い方です。これは世尊の利他が満たされていることを示しています。これは天人の師である世尊の自利利他の功徳が満たされていることを簡潔に説いたものです。その二つ、すなわち世尊などが完全に成し遂げたことゆえに、供養に値する者の中でも最も勝れているのです。その言葉が相応するというのは、道理と意義が示され、そのような功徳に相応する天人の師の言葉であり、これを礼拝することを法宝への礼拝といいます。羅漢が実相を見るなどというのは、天、人、阿修羅などから供養を受けるに値するから、阿羅漢といいます。これは無学(修行を完成した者)を説いています。実相とは四聖諦のことで、学びながらそれを見る者を実相を見る者といいます。これは学びの段階にある者を説いています。この学びの者と無学の者などが、第一義の僧です。これを礼拝することを僧宝への礼拝といいます。問い:なぜ礼拝するのですか?答え:
仏は覚慧の眼を開き、 もし諸法の衆を知るならば、 また他に現じ示す、 我今少分を説かん。
仏とは、一切の法を知り、一切の種を知る者であるから、仏と名付けられるのです。
「慧眼を開覚する」とは、妨げのない智慧の眼の意味です。 「若」とは、仏が説き、顕わし、宣べ、解き明かした法のことです。 「知」とは理解することです。 「法」とは保つことであり、自性を保ち、他に縁を為すから、法と名付けられるのです。 法には積み集まる性質があるから、法衆と呼ばれます。法衆と群聚は、同じ意味の異なる呼び方です。
「また他に顕現する」とは、自ら覚知した後に世間を利するため、他に示し現わすことです。 あるいは覚知しても他に説かない場合もあり、『昇摂波林経』に説かれている通りです。
「我今少分を説く」とは、あの仏の説かれた法の中から、私は今ほんの一部の法相だけを説くのであって、どうしてその意味をすべて説き尽くせましょうか。
問い:どのような法が仏の説かれたもので、あなたが説こうとしているのですか。 答え:いわゆる有漏と無漏、煩悩ありと煩悩なし、受蔭、諍いありと諍いなし、色ありと色なしなどです。私は今、これらを説こうとしているのです。
すべての煩悩に満ちた行いは、 我や楽や常や清らかさとは遠く離れている。 このような我や楽などを受け取る私たちは、 煩悩に満ちたものを見ることがないからである。