また、修行を成就する者は、身体への執着という煩悩の汚れから遠ざかるがゆえに。これは何を意味するのでしょうか。菩薩の十善業道は、我見などの汚れから離れているからです。その時、清浄な業道と呼ばれます。それゆえ、菩薩は修行を成就し、その経典の中で説かれていますように、「清浄な戒とは、我相への戯論に執着しないことである」と。このようなわけで、修行を成就すると言われるのです。
また、修行を成就する者は、一切種清浄を成就するがゆえに、こう言われます。これは何を意味するのでしょうか。菩薩が善業道の一切種、一切の眷属を清浄に修行するとき、その菩薩は善業道を成就する修行者であると知るべきです。経典の中で、無尽意菩薩が次のように説かれています。
「舎利弗よ、菩薩の戒の衆(実践項目)には六十六の事柄があり、それらを清浄に修め整えることは尽きることがありません。どのようなものが六十六の事柄でしょうか。
一、他の衆生に苦しみや悩みを起こさないこと。 二、他人の財物を盗もうとしないこと。 三、他人の妻女を決して邪な目で見ないこと。 四、すべての衆生を欺かないこと。 五、初めから二枚舌を使わず、自分の眷属に満足を知ること。 六、悪口を言わず、乱暴な言葉に耐えること。 七、無駄な飾り言葉を使わず、常に善く語ること。 八、他人の楽しみを貪り嫉まないこと。 九、初めから怒りや恨みを持たず、悪い言葉に耐えること。 十、正しい見解を持ち、邪な道を軽んじないこと。 十一、仏を深く信じ、心が濁らないこと。 十二、法に従順に信じ、善き法を法とするがゆえに。 十三、僧を敬い信じ、聖なる衆を尊重するがゆえに。 十四、五体を地に投じて仏を念じるがゆえに。 十五、五体を地に投じて法を思惟するがゆえに。 十六、五体を地に投じて僧を敬うがゆえに。 十七、禁戒を堅持し、少しの戒めも犯さず、捨てないこと。 十八、欠けることのない戒を持ち、他の乗(教え)に依らないこと。 十九、破れることのない戒を持ち、悪い所に生まれないこと。 二十、荒れることのない戒を持ち、煩悩に交じらないこと。 二十一、汚れることのない戒を持ち、ひたすら白き法(善法)を増長すること。 二十二、深い戒を持ち、思いのままに回向し自在を得ること。 二十三、称賛される戒を持ち、智者に非難されないこと。 二十四、純粋な善の戒を持ち、正念正知であること。 二十五、非難されない戒を持ち、一切の戒が散らからないこと。 二十六、善く堅固な戒を持ち、諸根(感官)を防護すること。 二十七、名聞高い戒を持ち、諸仏に念ぜられること。 二十八、足るを知る戒を持ち、厭うことがないこと。 二十九、少欲の戒を持ち、貪り惜しむ心を断つこと。 三十、本性清浄の戒を持ち、身心が寂滅すること。 三十一、阿蘭若(閑静処)の戒を持ち、喧騒を離れること。 三十二、聖なる種姓の戒を持ち、他人の意を求めないこと。 三十三、威儀の戒を持ち、一切の善根を得て自在であること。 三十四、説かれた通りに行う戒を持ち、人々が皆喜ぶこと。 三十五、慈心の戒を持ち、衆生を護ること。 三十六、悲心の戒を持ち、諸々の苦に耐え忍ぶこと。 三十七、喜心の戒を持ち、怠惰にならないこと。 三十八、捨心の戒を持ち、愛憎を離れること。 三十九、自らを省みる戒を持ち、心が善く分別すること。 四十、欠けや不足を求めない戒を持ち、他人の心を護ること。 四十一、善く摂する戒を持ち、善く守護すること。 四十二、慧施(智慧による布施)の戒を持ち、衆生を教化すること。 四十三、忍辱の戒を持ち、心に怒りや妨げがないこと。 四十四、精進の戒を持ち、退転しないこと。 四十五、禅定の戒を持ち、諸々の禅の支えを増長すること。 四十六、智慧の戒を持ち、多聞の善根に飽き足りないこと。 四十七、多聞の戒を持ち、広く学び堅固であること。 四十八、善知識に親近する戒を持ち、菩提の成就を助けること。 四十九、悪知識を遠離する戒を持ち、悪道を捨て遠ざかること。 五十、身を惜しまない戒を持ち、無常の相を観ること。 五十一、命を惜しまない戒を持ち、善根を勤めて行うこと。 五十二、後悔しない戒を持ち、心が清浄であること。 五十三、邪な生活(邪命)をしない戒を持ち、心の行いが清浄であること。 五十四、焦がれない戒を持ち、究竟して清浄であること。 五十五、焼かれない戒を持ち、善き行いを修めること。 五十六、慢心のない戒を持ち、心が高ぶらないこと。 五十七、浮つかない戒を持ち、諸々の欲を遠離すること。 五十八、高ぶらない戒を持ち、心が平らかで真っ直ぐであること。 五十九、柔和な戒を持ち、心に突き当たるものがないこと。 六十、調伏された戒を持ち、悩み害がないこと。 六十一、寂滅の戒を持ち、心に垢や穢れがないこと。 六十二、言葉に従順な戒を持ち、説かれた通りに行うこと。 六十三、衆生を化導する戒を持ち、摂取の法を離れないこと。 六十四、正法を護る戒を持ち、真実の如くに背かないこと。 六十五、頌の如く成就する戒を持ち、諸々の衆生に対して心が平等であること。 六十六、仏に親近する戒を持ち、仏の三昧に入り、一切の諸仏法を具足すること。」
これゆえに、成就修行と名づけられるのです。
また、修行を成就する者は、共通ならざる果報を成じるゆえに。これは何を明らかにするのか?諸菩薩が十善業道を修行して成就し、菩提心を摂取するゆえに、この義によって菩提を得る時に共通ならざる果報を成じる。ゆえにこれを修行成就と名づけると知るべし。『聖者娑伽羅龍王経』の中で説かれているように、「龍王よ、殺生を離れた人は十種の清浄法を得る。殺生を遠離し、一切の善根を阿耨多羅三藐三菩提に廻向すれば、その人は菩提を得る時に心自在なるがゆえに、寿命は無量である」と。このように説かれている。
お尋ねします:「業道の意味を説明すべきです。業道の意味とはどのようなものでしょうか?」
答えはこうです。「次に説く、なぜ造作によって業相と呼ばれるのか?つまり、業は道であり、地獄へと導くことができるから業道と呼ばれるのです。また、身と口による七つの業は、それ自体の相が業道であり、残りの三つは意に相応する心です。さらに、その業自体が道を作り出すことができるから業道と呼ばれます。これは何を明らかにしているのでしょうか?心こそが業であり、その心と七つの業が共に起こることを道と呼び、残りの三つがそれと相応することを業道と呼ぶのです。」
質問:「もし業そのものが道であり、すべて地獄などに導くものだというなら、なぜ残りの三つは業道ではないのですか?」
答えて曰く、「あの七つの業のごとく、この三つはそれらの根本を作るがゆえに、相応するがゆえに、あの業のごとくにはできないがゆえに、業道とは名づけられない。」
問いがあります。「あらゆる美味を味わい、酒を飲み、肉を食べ、手を振り上げて打ち、あらゆる戯れ笑いなど、このような悪い行い。また、あらゆる礼拝、供養、敬意を表し、酒などを遠ざけるなど、このような善い行い。なぜ、これらを業道として説かないのでしょうか?」
答えて言う:「酒などを遠ざけるのは、ただ心の働きによって七つの業を起こすものであり、身や口の業によるものではありません。それゆえ、これは業道とは言えません。もし心と相応して行われるならば、それもまた業道となります。」