初篇說過戒第六
初篇で説いた過戒の第六
初、制意者,略有三意:一、為壞信心故,菩薩理宜弘護三寶,過惡揚善以生物信,何容說過廢黷信心乖利他行?故須深制也。二、招重釁故,故謂初心菩薩豈免微失,理應讚其實德成自正行,而反以惡心苟求其短,言陳彼過自負重愆,故須制也。三、背恩德故,謂由三寶恩及戒法防身,加成勝德當獲大果,理宜粉骨碎身護持遺寄,而今反以惡言說其罪,背恩之甚,故須制也。
まず、この戒を定める意図には、大きく三つの意味があります。
第一に、信心を壊すためです。菩薩は道理として三宝を広く守り伝え、過ちを改めて善を広め、人々に信心を生じさせるべきです。どうして過ちを口にして信心を損ない、他を利益する行いから外れてよいでしょうか。ですから深く戒めを定める必要があるのです。
第二に、重い罪を招くためです。初心の菩薩にどうして小さな過失がないといえましょうか。道理としては、その実際の徳をほめて自らの正しい行いを成すべきです。ところが反対に、悪心によってわざとその短所を探し、その過ちを口にするなら、自ら重い罪を負うことになります。ですから戒めを定める必要があるのです。
第三に、恩徳に背くためです。三宝の恩と戒の法が身を守り、すぐれた徳を加えて大きな果報を得させてくれます。道理としては、骨を砕き身を裂いてでも遺された教えを守り持つべきです。ところが今、反対に悪い言葉でその罪を説くなら、恩に背くこと甚だしいのです。ですから戒めを定める必要があるのです。
第二、釋名者,說在家、出家菩薩僧尼罪過戒。然位居不足,誰免其失?故云「罪過」。非理唱陳,故云「說」。防此業非,故云「戒」。此則語從所說為名,戒約所防受稱,皆依主釋。又說三寶長短,如經云云。
第二に、名を釈するとは、在家・出家の菩薩や僧尼の罪過を説く戒を説くことです。しかしその位は不足しているので、誰がその過ちを免れることができるでしょうか。それゆえ「罪過」といいます。道理に合わずに唱え述べるので、「説」といいます。この業の過ちを防ぐので、「戒」といいます。これはすなわち、語は説かれるところに従って名とし、戒は防ぐところに約して称を受けるのであり、いずれも依主釈です。また三宝の長短を説くことは、経に説かれている通りです。
第三、次第者,於此十戒中,初四同聲聞四重,後四同瑜伽菩薩四重,中間更加酤酒說過。酤酒麁顯故先辨,說過細隱故後論。
第三に、次第についてです。この十戒のうち、初めの四つは声聞の四重罪と同じであり、後の四つは瑜伽の菩薩の四重罪と同じです。その中間に、さらに酒を売ることと過ちを説くことを加えます。酒を売ることは粗く目立つので先に述べ、過ちを説くことは細かく隠れたことなので後に論じます。
第四、具緣成犯者,有七緣:一、是正境,如文四位。問:此中何故制說小乘僧尼過耶?答:俱是佛法相住持故,是自內眾故。問:何故不制說佛及法過?答:以彼無過故。若無失而說,則是謗故,屬第十戒修行之者。劣位有失,易嫌說,故制也。二、作彼想。三、作說過意。四、對外人。五、作外人想。六、言彰了。七、前人領解。故成犯也。
第四に、条件がそろって罪となる場合について述べます。七つの条件があります。第一は、正しい対象があることです。経文にある四つの位の通りです。問い:ここではなぜ、小乗の僧尼の過ちを説くことを禁じているのでしょうか。答え:僧尼はともに仏法を保持し存続させる者だからです。また、同じ内の僧団に属する者だからです。問い:なぜ仏や法の過ちを説くことは禁じないのでしょうか。答え:それらには過ちがないからです。もし過失がないのに説けば、それは誹謗となるので、第十の戒を修行する者の守るところに属します。劣った位の者には過失があり、とかく非難して説きやすいので、これを禁じるのです。第二は、その者をその者と思いなすことです。第三は、過ちを説こうとする心を持つことです。第四は、外部の者に対して行うことです。第五は、外部の者と思いなすことです。第六は、言葉によって明らかに示すことです。第七は、相手がその意味を理解することです。こうして罪が成立するのです。
第五、闕緣者。若闕初緣有五:一、自四境相差皆重;二、非境差,說已畢竟不知是非境,約心重方便;三、後知非境不喜應得中方便,喜自不犯應輕;四、帶疑不知重方便;五、後知輕方便。闕第二緣者,亦想、疑二別。初中,本迷後不知及後知生怖,俱不犯、輕方便,以說他眾生過、生自快心非無失故;二、後知生快,得重方便;三、轉想後不知及知已怖,俱重方便:四、後知已快,重方便。二、疑中,不知及知已怖,俱重方便,知已快得重,雖闕小心而過重故。闕第三緣,不作說過意言錯無犯,或正說法言次而論,或教誡門人皆不犯。闕第四緣,自眾來差畢竟不知,約心應重,後知喜不喜准得輕重二方便,疑亦同前可知。闕第五緣,想、疑等准前可知。闕第六緣,疾疾語等言不彰了得重方便。闕第七緣,無人領解亦重方便可知。
第五に、条件を欠く場合について述べます。もし第一の条件を欠く場合には、五つがあります。第一に、自分以外の四つの対象の違いはすべて重罪となります。第二に、対象が違っていても、説き終えた後にそれが対象でないと知らなかった場合は、心のあり方から見て重い方便罪となります。第三に、後になって対象でないと知り、喜ばなければ中程度の方便罪にあたり、喜べば自ら犯すことにはならず軽罪となるはずです。第四に、疑いを抱いたまま知らなければ重い方便罪となります。第五に、後になって知れば軽い方便罪となります。
第二の条件を欠く場合にも、また想と疑の二つの区別があります。想の場合、もともと迷っていて後にも知らず、また後に知って恐怖を生じた場合は、いずれも犯すことにならず軽い方便罪です。他人の衆生の過ちを説き、自ら快い心を生じたからといって過失がないわけではないからです。第二に、後になって知って快い心を生じた場合は、重い方便罪となります。第三に、想を転じて後にも知らず、また知って恐怖を生じた場合は、いずれも重い方便罪です。第四に、後になって知ってすでに快い心を生じた場合は、重い方便罪です。疑の場合、知らず、また知って恐怖を生じた場合は、いずれも重い方便罪です。知ってすでに快い心を生じた場合は重罪となります。小さい心を欠いてはいても、過ちが重いからです。
第三の条件を欠く場合、過ちを説こうという心を起こさず、言葉を誤って言ったならば犯すことにはなりません。あるいは正しく法を説いているうちに言葉のついでに論じた場合や、門人を教え诫める場合も、いずれも犯すことにはなりません。
第四の条件を欠く場合、自らの仲間が来て違いが生じ、ついに知らなかったときは、心のあり方から見て重罪となるはずです。後になって知り、喜んだ場合も喜ばなかった場合も、軽重二つの方便罪となるに準じます。疑の場合も前と同じで、同様に知ることができます。
第五の条件を欠く場合、想や疑などは前と同じと知ることができます。
第六の条件を欠く場合、急いで語るなどして言葉がはっきりしないときは、重い方便罪となります。
第七の条件を欠く場合、誰も理解する者がいなくても重い方便罪となることが知られます。
第六、輕重者,略約六位:一、約所說境,二、約所對人,三、約言辭,四、約心念,五、合辨,六、約自他。初中有六:一、見地上菩薩為物逆行,謂非而說;二、見三賢菩薩及四果聖人,微失而說;三、說自和上、闍梨之過;四、說傳法住持人過;五、說同類淨戒過;六、說破戒人、無戒人過。此六皆初重、次輕,應知。二、約所對人者,有五:一、對國王、大臣說其過,令彼捨信,破壞三寶;二、對外道惡人伺求過者,說其罪過,增彼邪見,誹謗佛法;三、信心白衣說過,壞其信心。上三位,初重,次中,後下。四、雖對自眾而快意說,得方便罪。五、為眾中舉罪呵責,及說向彼師,令彼教誨等,此不犯也。三、約言辭者,有二:一、以極鄙惡言磣切而說,二、以汎言而說。重輕可知。若作書與人等,亦同犯。四、約心者,有三:初、約惡心者,有三:初、約單:一、以癡心,謂說為德,不懼破戒等;二、瞋心,酬彼怨,說已暢情等;三、為貪利養,為名聞故,說他罪過,令名利向己等。二、約三雙、三單、一合,竝准前,此上輕重可知。二、約無記心,率爾輕心,忘念而說,亦犯非染污;三、善心,為調伏故等,要具五德(云云),撿取此則不犯。五、約合辨者,起上初心,以上初言,對上初人,說上初境為最重,餘次相合及非合,皆有輕重應知。六、約自他者,自己一說,過患猶輕,教他勸人,處處傳說,亦為重也。
第六に、軽い罪と重い罪についてです。おおよそ六つの観点から述べます。一には説く対象の境涯によること、二には説かれる相手によること、三には言葉づかいによること、四には心のあり方によること、五にはそれらを合わせて辨えること、六には自と他によることです。
初めのうちには六つあります。一には、地上の菩薩が衆生のために逆行するのを見て、それがよくないことだと説くことです。二には、三賢の菩薩や四果の聖人にわずかな過ちがあれば、それを説くことです。三には、自分の和尚や闍梨の過ちを説くことです。四には、法を伝えて住持する人の過ちを説くことです。五には、同じく浄戒を守る仲間の過ちを説くことです。六には、破戒の人や戒を持たない人の過ちを説くことです。この六つは、いずれも初めが重く、次が軽いと知るべきです。
二に、説かれる相手によることには、五つあります。一には、国王や大臣に向かってその過ちを説き、彼らに信を捨てさせ、三宝を破壊させることです。二には、外道の悪人で過ちを伺い求める者に向かってその罪過を説き、彼の邪見を増し、仏法を誹謗させることです。三には、信心ある在家の人に過ちを説き、その信心を壊すことです。以上の三つは、初めが重く、次が中ほどで、後が軽いです。四には、自分の仲間に向かってであっても、心のままに快く説くならば、方便の罪を得ます。五には、会衆のうちで罪を挙げて呵責するため、またかの師のもとに向かって説き、彼に教誨させるためなどは、これは犯しません。
三に、言葉づかいによることには、二つあります。一には、きわめて鄙悪な言葉で刺すように説くこと、二には、ありふれた言葉で説くことです。重い軽いは知られるでしょう。書面を人に与えるなどする場合も、同じく犯します。
四に、心によることには、三つあります。初めに、悪心によることには、三つあります。初めに、単独の場合についてです。一には、愚かな心で、説くことを功徳だと思い、破戒を恐れないなどです。二には、瞋りの心で、彼の怨みに報い、説き終えて気持ちが晴れるなどです。三には、利養を貪り、名聞のために、他人の罪過を説き、名利を自分に向けさせるなどです。二には、三双・三単・一合についてですが、いずれも前に準じます。以上の重い軽いは知られるでしょう。二に、無記の心によること、にわかで軽い心で、忘れ念じて説く場合も、染汚ではないが犯します。三に、善心によること、調伏のためなどで、必ず五つの徳を備えるならば、これを取り上げれば犯しません。
五に、合わせて辨えることについてです。前述の初めの心を起こし、前述の初めの言葉をもって、前述の初めの人に向かって、前述の初めの境涯を説くのが最も重く、残りは次々に合わさる場合も合わさらない場合も、みな軽重があると知るべきです。
六に、自と他によることについてです。自分が一度説くだけなら、過ちはまだ軽いですが、他人に教え勧めて、あちこちで伝え説かせるならば、これも重いのです。
第七、犯得報者,說菩薩及僧尼罪過,業道極重。如經中入拔舌地獄,耕其舌等云云。又如《不思議光菩薩經》中,饒財菩薩說賢天菩薩過故,九十一劫常墮淫女腹中生,生已棄之,為狐狼所食。一言之失,苦惱如是,足為龜鏡。
第七は、犯すことによって得る報いについてです。菩薩や僧尼の罪過を説くと、その業の道はきわめて重いものとなります。経典にあるように、舌を抜かれる地獄に堕ちて、その舌を耕されるなどと説かれています。また『不思議光菩薩経』には、饒財菩薩が賢天菩薩の過ちを説いたために、九十一劫のあいだ常に淫女の胎内に生まれ、生まれるやいなや捨てられて、狐や狼に食われたとあります。一言の過ちがこのような苦悩を生むのですから、十分に手本とすべきでしょう。
第八、修治行者,諸菩薩常應讚歎一切眾生所有功德,況於菩薩及內諸僧尼。是故常應歡喜讚嘆三寶功德已,見眾生少善,即便讚說。《諸法無行經》云:「若見破戒人,不說其過惡,應當念彼人,不久亦得道。」《涅槃經》云:為彼眾生全無善可讚,當念佛性之善而讚嘆之,勿說其過以自污心(云云)。
第八に、修行を修め整える者についてです。諸菩薩は、常にすべての衆生の持つ功徳を讃嘆すべきであり、ましてや菩薩や、内の諸々の僧尼に対してはなおさらです。ですから、常に喜んで三宝の功徳を讃嘆し終えたなら、衆生のわずかな善を見れば、すぐにそれを讃えて説くべきです。
『諸法無行経』にこう説かれています。「破戒の人を見ても、その過ちや悪を口にしてはならず、その人もまもなく道を得るであろうと心に念じるべきです。」
『涅槃経』にこう説かれています。その衆生に讃えるべき善がまったくない場合には、仏性の善を念じてこれを讃嘆し、その過ちを説いて自らの心を汚してはなりません。
第九、通局者,若慈心舉罪呵擯等,若因說彼惡行調伏等,若便王等力而方調伏等,應不犯。反此乃起一念嫌心欲說等,悉皆成犯。
第九は「通局」についてです。慈しみの心から罪を挙げて呵責し擯出する場合、あるいは相手の悪行を説いて調伏する場合、あるいは王などの力を借りて初めて調伏できる場合などは、犯しにはなりません。これに反して、少しでも嫌う心を起こして説こうとするなどすれば、すべて犯しとなります。
第十、釋文者,三分同前。初、舉過正制中二:先自他二位說四位持戒人,謂初二持菩薩戒,後二持聲聞戒。以俱是自佛法內眾,為人天福田,故不合說過。經云:「占匐華雖萎,猶勝諸餘花;破戒諸比丘,猶勝諸外道。」又經云:「有犯名菩薩,無犯名外道。」是故彼犯猶不可輕。如牛雖死,牛黃益人。破戒比丘猶能生於人天十種功德,如《十輪經》說。又《大悲經》中,諸出家人左手携男,右手携女,從一酒家至一酒家,不出賢劫當般涅槃等。是故見有少許佛法所被之處,皆應讚嘆。二、罪用說法四門,釋同前。一、約能說者:一、三毒染心,為說過因;二、罪為所求等,為說過緣;三、方便施設,便他識過,為說過法;四、常以說過為業。二、約所說者:一、不正說其過,俱說彼罪過因,令此前人知彼有過,為罪過因也;二、亦不正說過,而說彼造過之所為,亦令前怨領知過狀,故為說過罪緣;三、說其違犯淨戒之法,不說其彼過,彼已知故;四、說其處犯罪過之業。三、合釋者:一、謂內有說心;二、外遇惡緣境;三、曾見過法;四、陳說成業。四、自他分,可知。二、辨應行中,先簡非,謂外道惡人通說佛法內人非住正法,非修律儀行。又二乘人不信大乘,故亦說行大乘人言非法律。又此約菩薩,前約僧尼,如有威儀比丘等云云。二、教正,謂菩薩聞此,則應起悲心,不得起嗔嫌等心,俱應方便教化,令止說過,而生淨信。此為作業,故云常生等也。三、違理結犯中,聞他說過,忍不教勸,已為非理,況復聞已,自更助說?佛法中過,違害至深,是故結示重罪。
第十に、文を解釈します。三分の構成は前と同じです。
初めに、過ちを挙げて正しく制する中に二つあります。まず自他の二つの立場から四位の持戒の人を説きます。すなわち初めの二方は菩薩戒を持ち、後の二方は声聞戒を持つ人です。いずれも仏法の内の衆であり、人と天の福田であるため、過ちを説いてはならないのです。経に「占匐華は萎れていても、なお諸々の他の花に勝っています。破戒の諸々の比丘も、なお諸々の外道に勝っています」とあります。また経に「犯すことのある者は菩薩と名づけ、犯すことのない者は外道と名づける」とあります。ですから彼らが犯しても、なお軽んじてはなりません。牛は死んでも牛黄が人を益するようなものです。破戒の比丘もなお人と天に十種の功徳を生じさせることができます。『十輪経』に説かれる通りです。また『大悲経』の中には、諸々の出家者が左手に男を携え、右手に女を携えて、一つの酒家からまた一つの酒家へと巡り、賢劫を出でずしてまさに般涅槃するなどと説かれています。ですから少しでも仏法の及ぶところを見れば、みな讃嘆すべきなのです。
二つに、罪を用いて説法する四つの門について、解釈は前と同じです。
一、説く者について述べれば、第一に三毒に染まった心が過ちを説く因となり、第二に罪を求めることなどが過ちを説く縁となり、第三に方便をもって施設し、他人に過ちを識らせるのが過ちを説く法となり、第四に常に過ちを説くことを業とするのです。
二、説かれる内容について述べれば、第一にその過ちを正しく説くのではなく、もっぱら彼の罪過の因を説いて、目の前の人に彼に過ちのあることを知らせようとするのが罪過の因です。第二にまた正しく過ちを説くのではなく、彼が過ちを造ったその所為を説いて、目の前の怨みある者にも過ちの有様を領解させるのが、過ちを説く罪の縁です。第三にその浄戒に違犯する法を説き、彼の過ちそのものは説きません。彼がすでに知っているからです。第四にその罪を犯したところの業を説くのです。
三、合わせて解釈すれば、第一に内に説こうとする心があり、第二に外に悪しき縁の境に遇い、第三に以前に過ちの法を見ており、第四に陳述して業が成立するのです。
四、自他に分けることについては、知られる通りです。
二つに、行ずべきことを弁じる中で、まず非を簡び除きます。外道の悪人が通じて仏法の内の人を説いて、正法に住せず律儀の行を修めないと言うのは非です。また二乗の人は大乗を信じないため、同じく大乗を行う人を説いて「法律に非ず」と言うのも非です。またこれは菩薩について述べ、前は僧尼について述べたのであり、威儀ある比丘などについては云々とある通りです。
二つに、正を教えます。菩薩はこれを聞けば、ただちに悲心を起こすべきであり、嗔や嫌いなどの心を起こしてはなりません。みな方便をもって教化し、過ちを説くことを止めさせ、浄らかな信を生じさせるべきです。これを作業とするので、「常に生ず」などと説くのです。
三つに、理に違して罪を結ぶ中で、他人が過ちを説くのを聞いて、忍んで教え勧めないのは、すでに理に非ずとします。ましてや聞いたうえで、さらに自ら助けて説く場合はなおさらです。仏法の中での過ちは、違害がきわめて深いので、重罪と結んで示すのです。