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  1. 法華経安楽行義 (法華經安樂行義)
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法華経安楽行義 (法華經安樂行義)

「法華經安樂行義」について

陳 · 慧思說 著

7,046 字 · 約 23 分

『法華経安楽行義』は、南北朝時代の高僧・慧思大師によって説かれたもので、『法華経』の「安楽行品」に対する重要な注釈書です。慧思は中国仏教が隆盛した時代に活躍し、この著作を通じて、乱れた世の中で修行者が法華の精神を実践するための指針を示しました。そこでは、身・口・意・誓願の四つの安楽行が強調され、清らかで争いのない方法で精進することを説いています。 この論義は、日常生活の中でいかに心安らかに過ごし、一乗の実相にかなうかを体系的に明らかにし、天台宗の「止観双運」の修行体系の形成に礎を築きました。漢伝仏教における初期の権威ある論書として、法華思想を深めただけでなく、後の天台宗の発展に決定的な理論的基盤を提供し、仏教の教義と実践の両面において高い地位を占めています。


法華經安樂行義

法華経安楽行義

陳南嶽思大禪師說

南嶽思大禅師の説法

法華經者大乘頓覺。無師自悟疾成佛道。一切世間難信法門。凡是一切新學菩薩。欲求大乘超過一切諸菩薩疾成佛道。須持戒忍辱精進勤修禪定。專心勤學法華三昧。觀一切眾生皆如佛想。合掌禮拜如敬世尊。亦觀一切眾生皆如大菩薩善知識想。勇猛精進求佛道者。如藥王菩薩難行苦行。於過去日月淨明德佛法中。名為一切眾生喜見菩薩。聞法華經精進求佛。於一生中得佛神通。亦如過去妙莊嚴王。捨國王位以付其弟。王及群臣夫人太子內外眷屬。於雲雷音王佛法中出家。誦法華經專求佛道。過八萬四千歲一生具足諸佛神通受記作佛。爾時人民壽命大長八萬九千歲。與今閻浮提八十年四百日等。於三天下八十四年等。今時人壽命短促。惡世劫濁苦逼惱多。是故於此求道易得。觀一切眾生皆如佛想者。如常不輕菩薩品中說。勤修禪定者。如安樂行品初說。何以故。一切眾生具足法身藏與佛一無異。如佛藏經中說。三十二相。八十種好。湛然清淨。眾生但以亂心惑障。六情暗濁法身不現。如鏡塵垢面像不現。是故行人勤修禪定。淨惑障垢法身顯現。是故經言。法師父母所生清淨常眼耳鼻舌身意亦復如是。若坐禪時不見諸法常與無常。如安樂行中說。菩薩觀一切法。無有常住亦無起滅。是名智者所親近處。

法華経は、大乗の教えにおいて、自力で目覚めを達成するための教えです。師匠なしでも自ら悟りを開き、速やかに仏道を成就することができます。しかし、これは世の中のすべての人々が信じることが難しい教えでもあります。

新たに学び始めた菩薩の方々が、大乗の教えを求め、すべての菩薩を超えて速やかに仏道を成就したいと願うならば、戒律を守り、忍耐をもって修行し、精進し、坐禅に励むことが大切です。また、法華三昧を専ら学び、すべての衆生を仏のように見なし、合掌して礼拝し、仏を敬うように接するべきです。

さらに、すべての衆生を大菩薩や善知識のように思うことも大切です。勇猛に精進して仏道を求める者は、薬王菩薩のように難行苦行をいといません。薬王菩薩は、過去の日月浄明徳仏の教えにおいて、「一切衆生喜見菩薩」と呼ばれていました。彼は法華経を聞いて精進し、一生のうちに仏の神通力を得ました。

また、過去の妙荘厳王のように、王位を捨てて弟に譲り、王や家臣、后妃、太子、内外の家族とともに、雲雷音王仏の教えのもとで出家しました。彼らは法華経を読誦し、専ら仏道を求めました。八万四千歳を経て、一生のうちに仏の神通力を具え、成仏の記別を受けました。

当時の人々の寿命は非常に長く、八万九千歳で、これは今の閻浮提での八十年、四百日に相当します。また、三天の下での八十四年に相当します。しかし、現代の人々の寿命は短く、穢れた世の中です。時代の濁りや苦しみに悩むことが多い時代です。それゆえ、このような時代だからこそ、道を求めて悟りを得ることは容易です。

すべての衆生を仏のように見なすという教えは、常不軽菩薩品に説かれています。また、勤めて坐禅に励むことは、安楽行品の初めに説かれています。なぜなら、すべての衆生は法身の蔵を具えており、仏と何ら変わることがないからです。これは仏蔵経に説かれている通りです。三十二相や八十種好は、本来清らかであり、すべての衆生に備わっています。しかし、心が乱れ、煩悩の迷いによって覆われ、六感が濁っているため、法身が現れないのです。

ちょうど鏡が塵や垢で覆われると、顔が映らないのと同じです。それゆえ、修行者は坐禅を勤め、煩悩の覆いを清めて、法身を現すことが大切です。このことから、経典には「法師は父母から生まれた清らかな目・耳・鼻・舌・身・意を持つ」と説かれています。

坐禅をするとき、一切の諸法に常も無常も見ないこと、これが安楽行品に説かれた教えです。菩薩はすべての法を観察し、常住なるものもなく、生じることも滅することもないと知ります。これこそ、智者が親しむべき境地なのです。

欲求無上道 修學法華經
身心證甘露 清淨妙法門
持戒行忍辱 修習諸禪定
得諸佛三昧 六根性清淨
菩薩學法華 具足二種行
一者無相行 二者有相行
無相四安樂 甚深妙禪定
觀察六情根 諸法本來淨
眾生性無垢 無本亦無淨
不修對治行 自然超眾聖
無師自然覺 不由次第行
解與諸佛同 妙覺湛然性
上妙六神通 清淨安樂行
不游二乘路 行大乘八正
菩薩大慈悲 具足一乘行
湛深如來藏 畢竟無衰老
是名摩訶衍 如來八正道
眾生無五欲 亦非斷煩惱
妙法蓮華經 是大摩訶衍
眾生如教行 自然成佛道
云何名一乘 謂一切眾生
皆以如來藏 畢竟恒安樂
亦如師子吼 涅槃中間佛
世尊實性義 為一為非一
佛答師子吼 亦一亦非一
非一非非一 云何名為一
謂一切眾生 皆是一乘故
云何名非一 非是數法故
云何非非一 數與及非數
皆不可得故 是名眾生義
問曰。云何名為妙法蓮華經。云何復名一乘義。云何復名如來藏。云何名為摩訶衍。云何復名大摩訶衍。如大品經說摩訶言大。衍者名乘。亦名到彼岸。云何更有大摩訶衍。云何復名眾生義。答曰。妙者眾生妙故。法者即是眾生法。蓮華者是借喻語。譬如世間水陸之華。各有狂華虛誑不實。實者甚少。若是蓮華即不如此。一切蓮華皆無狂華。有華即有實。餘華結實顯露易知。蓮華結實隱顯難見。狂華者喻諸外道。餘華結果顯露易知者。即是二乘。亦是鈍根菩薩次第道行優劣差別。斷煩惱集亦名顯露易知。法華菩薩即不如此。不作次第行。亦不斷煩惱。若證法華經畢竟成佛道。若修法華行不行二乘路。問曰。餘華一華成一果。蓮華一華成眾果。一華一果者豈非一乘。一華成眾果者豈非次第。答曰。諸水陸華。一華成一果者甚少。墮落不成者甚多。狂華無果可說。一華成一果者。發聲聞心即有聲聞果。發緣覺心有緣覺果。不得名菩薩佛果。復次鈍根菩薩修對治行。次第入道登初一地。是時不得名為法雲地。地地別修證非一時。是故不名一華成眾果。法華菩薩即不如此。一心一學眾果普備。一時具足非次第入。亦如蓮華一華成眾果。一時具足。是名一乘眾生之義。是故涅槃經言。或有菩薩善知從一地至一地。思益經言。或有菩薩不從一地至一地。從一地至一地者。是二乘聲聞及鈍根菩薩。方便道中次第修學。不從一地至一地者。是利根菩薩。正直捨方便不修次第行。若證法華三昧眾果悉具足。問曰。云何名眾生妙。云何復名眾生法耶。答曰。眾生妙者。一切人身六種相妙。六自在王性清淨故。六種相者。即是六根。有人求道受持法華讀誦修行。觀法性空知十八界無所有性。得深禪定具足四種妙安樂行。得六神通父母所生清淨常眼。得此眼時善知一切諸佛境界。亦知一切眾生業緣色心果報。生死出沒上下好醜一念悉知。於眼通中具足十力十八不共三明八解一切神通悉在眼通一時具足。此豈非是眾生眼妙。眾生眼妙即佛眼也。云何名種種。有二。一名凡種。二名聖種。凡種者。不能覺了。因眼見色生貪愛心。愛者即是無明為愛。造業名之為行。隨業受報。天人諸趣遍行六道。故稱行也。相續不絕名之為種。是名凡種。聖種者。因善知識善能覺了。眼見色時。作是思惟。今見色者誰能見耶。眼根見耶。眼識見耶。空明見耶。為色自見意識對耶。若意識對盲應見色。若色自見亦復如是。若空明見。空明無心。亦無覺觸不能見色。若眼識能見。識無自體假托眾緣。眾緣性空無有合散。一一諦觀。求眼不得。亦無眼名字。若眼能見。青盲之人亦應見色。何以故。根不壞故。如是觀時。無眼無色亦無見者。復無不見。男女等身本從一念無明不了妄念心。生此妄念之心。猶如虛空身如夢如影如焰如化。亦如空華求不可得。無斷無常眼對色時則無貪愛。何以故。虛空不能貪愛。虛空不斷無明不生於明。是時煩惱即是菩提。無明緣行即是涅槃。乃至老死亦復如是。法若無生即無老死。不著諸法故稱聖種。凡種聖種無一無二。明與無明亦復如是。故名為眼種相妙。耳鼻舌身意亦復如是。六自在王性清淨者。一者眼王。因眼見色生貪愛心。愛者。即是無明。一切煩惱皆屬貪愛。是愛無明無能制者。自在如王。性清淨者。如上觀眼義中說。用金剛慧覺了愛心。即是無無明無老死。是金剛慧其力最大。名為首楞嚴定。譬如健將能伏怨敵。能令四方世界清淨。是金剛智慧亦復如是。能觀貪愛無明諸行即是菩提涅槃聖行。無明貪愛即是菩提金剛智慧。眼自在王性本常淨無能污者。是故佛言。父母所生清淨。常眼。耳鼻舌身意亦復如是。是故般若經說六自在王性清淨。故龍樹菩薩言。當知人身六種相妙。人身者即是眾生身。眾生身即是如來身。眾生之身同一法身不變易故。是故華嚴經歡喜地中言。其性從本來寂然無生滅。從本已來空永無諸煩惱。覺了諸法爾。超勝成佛道。凡夫之人若能覺此諸陰實法。如涅槃中。迦葉問佛。所言字者其義云何。佛告迦葉有十四音名為字義。所言字者名為菩提。常故不流。若不流者即是無盡。夫無盡者即是如來金剛之身。問曰。云何名常故不流。答曰。眼常故名為不流。云何名常。無生故常。問曰。云何無生。答曰。眼不生故。何以故。眼見色時及觀眼原求眼不得。即無情識亦無有色。眼界空故即無斷常。亦非中道。眼界即是諸佛法界。覺知此眼無始無來處亦無無始。猶若虛空非三世攝。如般若經中。曇無竭菩薩語薩陀波崙言。善男子空法不來不去。空法即是佛。無生法無來無去。無生法即是佛。無滅法無來無去。無滅法即是佛。是故當知眼界空故。空者即是常。眼空常故。眼即是佛眼無貪愛。愛者即是流。流者即是生眼。無貪愛即無流動。若無流動即無有生眼。不生故無來無去。無生即是佛眼。既無生即無有滅。滅者名為盡。眼既無滅。當知無盡。眼既非盡。無來無去。亦無住處。眼無盡即是佛。菩薩以是金剛智慧知諸法如。無生無盡眼等諸法如即是佛故名如來。金剛之身覺諸法如故名為如來。非獨金色身如來也。得如實智故稱如來。得眼色如實智。耳聲鼻香舌味身觸意法如實智故名如來。金剛之身如法相解。如法相說。如言無生。來言無滅。佛如是來。更不復去。乘如實道故名如來。問曰。佛何經中說眼等諸法如名為如來。答曰。大強精進經中。佛問鴦崛摩羅。云何名一學。鴦崛答佛。一學者名一乘。乘者名為能度之義。亦名運載。鴦崛摩羅十種答佛一答有二種足。二十答。今且略說以鴦崛摩羅第五答中乃至第六答。以此二處四種答中總說眼等如來義。云何名為五。所謂彼五根。此則聲聞乘。非是如來義。云何如來義。所謂彼眼根。於諸如來常。決定分明見。具足無減修。所謂彼耳根。於諸如來常。決定分明聞。具足無減修。所謂彼鼻根。於諸如來常。決定分明嗅。具足無減修。所謂彼舌根。於諸如來常。決定分明甞。具足無減修。所謂彼身根。於諸如來常。決定分明觸。具足無減修。所謂彼意根。於諸如來常。決定分明識。具足無減修。云何名為六。所謂六入處。是則聲聞乘。非是如來義。所謂眼入處。於諸如來常。明見來入門。具足無減修。所謂耳入處。於諸如來常。明聞來入門。具足無減修。所謂鼻入處。於諸如來常。明嗅來入門。具足無減修。所謂舌入處。於諸如來常。明甞來入門。具足無減修。所謂身入處。於諸如來常。明觸來入門。具足無減修。所謂意入處。於諸如來常。決定分明識。淨信來入門。具足無減修。是故初發心。新學諸菩薩。應善觀眼原。畢竟無生滅。耳鼻舌身意。其性從本來。不斷亦非常。寂然無生滅。色性無空假。不沒亦不出。性淨等真如。畢竟無生滅。聲香味觸法。從本已來空。非明亦非暗。寂然無生滅。根塵既空寂。六識即無生。三六如如性。十八界無名。眾生與如來。同共一法身。清淨妙無比。稱妙法華經。是故大集中。佛告淨聲王。汝名曰淨聲。當淨汝自界。自界眼界空。即持戒清淨。眼界空寂故。即佛土清淨。耳鼻舌身意。性畢竟空寂。是名諸如來。修習淨土義。問曰。云何名為安樂行。云何復名四安樂。云何復名二種行。一者無相行。二者有相行。答曰。一切法中心不動故曰安。於一切法中無受陰故曰樂。自利利他故曰行。復次四種安樂行。第一名為正慧離著安樂行。第二名為無輕讚毀安樂行。亦名轉諸聲聞令得佛智安樂行。第三名為無惱平等安樂行。亦名敬善知識安樂行。第四名為慈悲接引安樂行。亦名夢中具足成就神通智慧佛道涅槃安樂行。復次二種行者。何故名為無相行。無相行者。即是安樂行。一切諸法中。心相寂滅畢竟不生。故名為無相行也。常在一切深妙禪定。行住坐臥飲食語言。一切威儀心常定故。諸餘禪定三界次第。從欲界地。未到地。初禪地。二禪地。三禪地。四禪地。空處地。識處。無所有處地。非有想非無想處地。如是次第有十一種地差別不同。有法無法二道為別。是阿毘曇雜心聖行。安樂行中深妙禪定即不如此。何以故。不依止欲界。不住色無色。行如是禪定。是菩薩遍行。畢竟無心想。故名無相行。復次有相行。此是普賢勸發品中。誦法華經散心精進。如是等人不修禪定不入三昧。若坐若立若行。一心專念法華文字。精進不臥如救頭然。是名文字有相行。此行者不顧身命。若行成就即見普賢金剛色身乘六牙象王住其人前。以金剛杵擬行者眼。障道罪滅。眼根清淨得見釋迦。及見七佛。復見十方三世諸佛。至心懺悔。在諸佛前五體投地。起合掌立得三種陀羅尼門。一者總持陀羅尼。肉眼天眼菩薩道慧。二者百千萬億旋陀羅尼。具足菩薩道種慧法眼清淨。三者法音方便陀羅尼。具足菩薩一切種慧佛眼清淨。是時即得具足一切三世佛法。或一生修行得具足。或二生得。極大遲者三生即得。若顧身命貪四事供養不能勤修。經劫不得。是故名為有相也。問曰。云何名為一切法中心不動故曰安。一切法中無受陰故曰樂。自利利他曰行。答曰。一切法者。所謂三毒四大五陰十二入十八界十二因緣。是名一切法也。菩薩於是一切法中用三忍慧。一者名為眾生忍。二者名法性忍。三者名法界海神通忍。眾生忍者。名為生忍。法性忍者名為法忍。法界海神通忍者名為大忍。前二種忍名破無明煩惱忍。亦名聖行忍。聖人行處故名聖行。凡夫能行即入聖位。是為聖行。大忍者。具足五通及第六通。具足四如意足。而對十方諸佛及諸天王。面對共語一念能覺一切凡聖故名大忍。於諸神通心不動。聖道具足名為聖忍。三忍者。即是正慧離著安樂行。問曰。云何名為生忍。復名眾生忍。云何名不動忍。復名之為安。答曰。生忍名為因。眾生忍者名之為果。因者眾生因。果者眾生果。因者是無明。果者是身行。正慧觀於因破無明斷一切煩惱。一切法畢竟無和合。亦無聚集相亦不見離散。是菩薩知集聖諦微妙慧是名生忍。若無和合不動不流即無有生。眾生忍者名為身行諸受。受為苦。受有三。苦受。樂受。不苦不樂受。何以故。被打罵時觀苦受。打為身苦。罵為心苦。飲食衣服細滑供養名為身樂。及諸摩觸亦名身樂。稱揚讚歎名為心樂。卒得好布施。眼見未受。及其受已亦名心樂。觀此無明受及與苦樂。受苦時。起忍辱慈悲不生嗔心。受樂時。觀離受心不貪著。受不苦不樂時。遠離捨心不生無明。一切諸受畢竟空寂無生滅。故此三受皆從一念妄心生。菩薩觀此供養打罵讚歎毀呰。與者受者如夢如化。誰打誰罵誰受誰喜誰恚。與者受者皆是妄念。觀此妄念。畢竟無心無我無人。男女色像怨親中人頭等六分如虛空影無所得故。是名不動。如隨自意三昧中說。菩薩自於十八界中心無生滅。亦教眾生無生滅。始從生死終至菩提。一切法性畢竟不動。所謂眼性色性識性。耳鼻舌身意性。乃至聲香味觸法性。耳識因緣生諸受性。鼻舌身意識因緣生諸受性。無自無他畢竟空故。是名不動。自覺覺他故名曰安。自斷三受不生。畢竟空寂無三受故。諸受畢竟不生。是名為樂。一切法中心無行處。亦教眾生一切法中。心無所行。修禪不息。并持法華。故名為行。如鴦崛摩羅眼根入義中說。亦如涅槃中佛性如來藏中說。安樂行義者眾多非一。今更略說。一切凡夫陰界入中。無明貪愛起受念著。純罪苦行不能自安。生死不絕。是故無樂。名為苦行。一切二乘諸聲聞人陰界入中能對治觀。不淨觀法能斷貪婬。慈心觀法能斷瞋恚。因緣觀法能斷愚癡。別名字說名為四念處。是四念有三十七種差別名字名為道品。觀身不淨及能了知。此不淨身是無明根本空無生處。不淨觀法能破身見男女憎愛。及中間人皆歸空寂。是名破煩惱魔。觀十八界三受法外苦受陰內苦受陰。知是苦受陰身心所行受念著處一切皆苦。捨之不著內樂受。外樂受。內外樂受。觀此樂受。心貪著故能作苦因。捨之不受知樂受一切皆空。苦樂二觀能破世諦。心住真諦初捨苦樂。便得不苦不樂。以貪著故。復是無明。復更觀此不苦不樂受。無所依止無常變壞。何以故。因捨苦樂得不苦樂。苦樂二觀既無生處亦無滅處。畢竟空寂不苦不樂從何處生。如是觀時。空無所得亦無可捨。既無可捨亦復不得無可捨法。若無世諦則無真諦。真假俱寂。是時即破陰入界魔。觀心無常生滅不住。觀察是心本從何生。如此觀時。都不見心亦無生滅。非斷非常不住中道。如此觀已即無死魔。法念處中觀一切法。若善法。若不善法。若無記法。皆如虛空不可選擇。於諸法中畢竟心不動。亦無住相得不動三昧。即無天子魔因捨三受得此解脫。名為苦樂行。因果俱名為聲聞非菩薩道。鈍根菩薩亦因此觀無取捨為異。何以故。色心三受畢竟不生。無十八界故。無有內外受取。既無受即無可捨。觀行雖同無三受間故巧慧方便能具足。故是名安樂行。安樂行中觀則不如此。正直捨方便但說無上道。文殊師利菩薩白佛言。世尊。是諸菩薩於後惡世。云何能說是經。佛告文殊師利。若菩薩摩訶薩。於後惡世欲說是經。當安住四法。一者安住菩薩行處及親近處。能為眾生演說是經。云何名為菩薩行處。若菩薩摩訶薩住忍辱地。柔和善順而不卒暴。心亦不驚。又復於法無所行而觀諸法如實相。亦不行不分別。是名菩薩摩訶薩行處。云何名為住忍辱地。略說有三種忍。一者眾生忍。二者法忍。三者大忍。亦名神通忍。眾生忍者有三種意。第一意者。菩薩受他打罵輕辱毀呰。是時應忍而不還報。應作是觀。由我有身令來打罵。譬如因的然後箭中。我若無身誰來打者。我今當勤修習空觀。空觀若成無有人能打殺我者。若被罵時。正念思惟。而此罵聲隨開隨滅。前後不俱。審諦觀察亦無生滅如空中響。誰罵誰受。音聲不來入耳。耳不往取聲。如此觀已都無瞋喜。二種意者。菩薩於一切眾生都無打罵。恒與軟語將護彼意。欲引導之。於打罵事心定不亂。是名眾生忍。眾生若見菩薩忍即發菩提心。為眾生故。故名眾生忍。第三意者。於剛強惡眾生處為調伏。令改心。故或與麁言毀呰罵辱。令彼慚愧得發善心。名眾生忍。云何名辱。不能忍者即名為辱。更無別法。問曰。打罵不瞋慈悲軟語可名為忍。剛惡眾生處菩薩是時不能忍耐。狀似嗔想打拍罵辱。摧伏惡人。令彼受苦。云何復得名為忍辱。答曰。打罵不報。此是世俗戒中外威儀忍。及觀內空音聲等空身心空寂不起怨憎。此是新學菩薩息世譏嫌。修戒定智方便忍辱。非大菩薩也。何以故。諸菩薩但觀眾生有利益處。即便調伏為護大乘護正法故。不必一切慈悲軟語。涅槃中說。譬如往昔仙豫國王護方等經。殺五百婆羅門。令其命終入阿鼻地獄發菩提心。此豈非是大慈大悲。即是大忍。涅槃復說有德國王護覺德法師。并護正法故。殺一國中破戒惡人。令覺德法師得行正法。王命終後即生東方阿閦佛前。作第一大弟子。臣兵眾亦生阿閦佛前。作第二第三弟子。諸破戒黑白惡人。命終皆墮阿鼻地獄。於地獄中自識本罪。作是念言。我為惱害覺德法師。國王殺我。即各生念發菩提心。從地獄出。還生覺德及有德國王所。為作弟子求無上道。此菩薩大方便忍。非小菩薩之所能為。云何而言非是忍辱。覺德法師者迦葉佛是。有德國王釋迦佛是。護法菩薩亦應如此。云何不名大忍辱也。若有菩薩行世俗忍。不治惡人。令其長惡敗壞正法。此菩薩即是惡魔非菩薩也。亦復不得名聲聞也。何以故。求世俗忍不能護法。外雖似忍純行魔業。菩薩若修大慈大悲。具足忍辱建立大乘及護眾生。不得專執世俗忍也。何以故。若有菩薩將護惡人。不能治罰。令其長惡惱亂善人。敗壞正法。此人實非外現詐似。常作是言。我行忍辱。其人命終與諸惡人俱墮地獄。是故不得名為忍辱。云何復名住忍辱地。菩薩忍辱能生一切佛道功德。譬如大地生長一切世間萬物。忍辱亦復如是。菩薩修行大忍辱法。或時修行慈悲軟語。打罵不報。或復行惡口麁言。打拍眾生。乃至盡命。此二種忍皆為護正法調眾生故。非是初學之所能為。名具足忍法忍者。有三種意。第一意者。自修聖行。觀一切法皆悉空寂。無生無滅亦無斷常。所謂一切法觀眼根空。耳鼻舌身意根空。眼色空。聲香味觸法皆空。觀眼識空耳鼻舌身意識空。無我無人無眾生無造無作無受者。善惡之報如空華。諸大陰界入皆空。三六十八無名號。無初無後無中間。其性本來常寂然。於一切法心不動。是名菩薩修法忍。第二意者。菩薩法忍悉具足。亦以此法教眾生。觀上中下根差別。方便轉令住大乘。聲聞緣覺至菩薩。三種觀行合同一。色心聖行無差別。二乘凡聖從本來。同一法身即是佛。第三意者。菩薩摩訶薩以自在智觀眾生。方便同事調伏之。或現持戒行細行。或現破戒無威儀。為本誓願滿足故。現六道身調眾生。是名菩薩行法忍方便具足化眾生。大忍者名神通忍。云何名為神通忍。菩薩本初發心時。誓度十方一切眾生。勤修六度法。施戒忍辱精進禪定。三乘道品。一切智慧。得證涅槃。深入實際。上不見諸佛下不見眾生。即作是念。我本誓度一切眾生。今都不見一切眾生。將不違我往昔誓願。作是念時。十方一切現在諸佛。即現色身。同聲讚歎此菩薩言。善哉善哉。大善男子。念本誓願莫捨眾生。我等諸佛初學道時。發大誓願廣度眾生。勤心學道既證涅槃。深入實際不見眾生。憶本誓願即生悔心顧念眾生。是時即見十方諸佛同聲讚歎。我亦如汝念本誓願。莫捨眾生。十方諸佛說是語時。菩薩是時聞諸佛語。心大歡喜即得大神通。虛空中坐盡見十方一切諸佛。具足一切諸佛智慧。一念盡知十方佛心。亦知一切眾生心數。一念悉能遍觀察之。一時欲度一切眾生。心廣大故名為大忍。具足諸佛大人法故。名曰大忍。為度眾生。色身智慧對機差別。一念心中現一切身。一時說法一音能作無音音聲。無量眾生一時成道。是名神通忍。柔和善順者。一者自柔伏其心。二者柔伏眾生。和者。修六和敬持戒修禪智及證解脫法。乃至調眾生瞋恚及忍辱持戒及毀禁皆同涅槃相。所謂六和者。意和身和口和戒和利和及見和。善順者。善知眾生根性。隨順調伏是名同事六神通攝。柔和者名為法忍。善順者名為大忍。而不卒暴者。學佛法時。不怱怱卒暴。取證外行威儀。及化眾生亦復如是。心不驚者。驚之曰動。卒暴怱怱即是驚動。善聲惡聲乃至霹靂。諸惡境界及善色像。耳聞眼見心皆不動。解空法故。畢竟無心。故言不驚。又復於法無所行者。於五陰十八界十二因緣中諸煩惱法。畢竟空故無心無處。復於禪定解脫法中無智無心亦無所行。而觀諸法如實相者。五陰十八界十二因緣。皆是真如實性。無本末無生滅。無煩惱無解脫。亦不行不分別者。生死涅槃無一無異。凡夫及佛無二法界。故不可分別。亦不見不二故言不行不分別。不分別相不可得。故菩薩住此無名三昧。雖無所住而能發一切神通不假方便。是名菩薩摩訶薩行處。初入聖位即與等。此是不動真常法身非是方便緣合法身。亦得名為證如來藏乃至意藏。

問います。どうして「妙法蓮華経」というのですか。どうしてまた「一乗の義」というのですか。どうしてまた「如来蔵」というのですか。どうして「摩訶衍」というのですか。どうしてまた「大摩訶衍」というのですか。大品経に説くように、摩訶とは大という意味です。衍とは乗という意味です。また到彼岸ともいいます。どうしてさらに「大摩訶衍」があるのですか。どうしてまた「衆生の義」というのですか。

答えます。「妙」とは衆生が妙であるからです。「法」とはすなわち衆生の法です。「蓮華」とはたとえを用いた言葉です。たとえば世間の水や陸の花には、それぞれ狂華といって偽りで実のないものが多く、実を結ぶものはごくわずかです。しかし蓮華はそうではありません。すべての蓮華には狂華がなく、花があれば必ず実があります。他の花は実を結ぶのがあらわで分かりやすいのですが、蓮華は実を結ぶのが隠れたり現れたりして見分けにくいのです。狂華とは諸外道にたとえたものです。他の花が実を結ぶのがあらわで分かりやすいとは、すなわち二乗のことです。また鈍根の菩薩が次第に道を行じる優劣の区別でもあります。煩悩を断じ集を断じることも、あらわで分かりやすいといいます。法華の菩薩はそうではありません。次第の行をなさず、また煩悩を断じません。もし法華経を証すれば、必ず成仏の道を得ます。もし法華の行を修すれば、二乗の道を行きません。

問います。他の花は一つの花が一つの果を結びます。蓮華は一つの花が多くの果を結びます。一つの花が一つの果とは、これこそ一乗ではないですか。一つの花が多くの果を結ぶとは、これこそ次第ではないですか。

答えます。もろもろの水や陸の花で、一つの花が一つの果を結ぶものはごくわずかです。堕落して果を結ばないものは非常に多いのです。狂華は果がないので論じられません。一つの花が一つの果を結ぶとは、声聞の心を発せばすなわち声聞の果があり、縁覚の心を発せば縁覚の果があって、菩薩や仏の果とはいえないのです。また鈍根の菩薩は対治の行を修し、次第に道に入って最初の一地に登ります。この時はまだ法雲地とはいえません。地ごとに別々に修して証するのは一時ではありません。ですから一つの花が多くの果を結ぶとはいわないのです。法華の菩薩はそうではありません。一つの心で一つの学びをなし、多くの果がことごとく備わります。一時に具足して次第に入るのではありません。ちょうど蓮華が一つの花で多くの果を結び、一時に具足するようなものです。これを一乗の衆生の義といいます。ですから涅槃経にいいます。「あるいは菩薩はよく一地から一地へと至ることを知る」と。思益経にいいます。「あるいは菩薩は一地から一地へと至らない」と。一地から一地へと至るとは、二乗の声聞および鈍根の菩薩が方便の道の中で次第に修学することです。一地から一地へと至らないとは、利根の菩薩が正直に方便を捨てて次第の行を修しないことです。もし法華三昧を証すれば、多くの果がすべて具足します。

問います。どうして「衆生が妙」というのですか。どうしてまた「衆生の法」というのですか。

答えます。衆生が妙とは、一切の人の身に六種の相が妙であるということです。六自在王の性が清浄であるからです。六種の相とは、すなわち六根です。ある人が道を求めて法華を受持し読誦し修行し、法性の空を観じて十八界に所有の性がないことを知り、深い禅定を得て四種の妙安楽行を具足し、六神通を得て、父母から生まれた清浄な常眼を得ます。この眼を得た時、よく一切の諸仏の境界を知り、また一切衆生の業縁と色心の果報を知ります。生死の出没や上下・好醜を一念にことごとく知ります。眼通の中に十力・十八不共・三明・八解を具足し、一切の神通がことごとく眼通の中に一時に具足します。これはまさに衆生の眼が妙であるということではないですか。衆生の眼の妙とは、すなわち仏眼です。

どうして「種種」というのですか。二つあります。一つは凡種、二つは聖種です。凡種とは、よく覚了できないことです。眼によって色を見て貪愛の心を生じます。愛とはすなわち無明であり、愛のために業を造るのを行といいます。業に従って報を受け、天人諸趣に六道を遍く行くので、行と称します。相続して絶えないのを種といいます。これを凡種といいます。

聖種とは、善知識によってよく覚了できることです。眼が色を見る時、こう思惟します。今、色を見る者は誰が見るのか。眼根が見るのか。眼識が見るのか。空や明がみるのか。色が自ら見るのか、意識が対するのか。もし意識が対するなら、盲人も色を見るはずです。もし色が自ら見るなら、これも同じです。もし空や明が見るなら、空や明には心がなく、また覚触もないので色を見ることはできません。もし眼識が見ることができるなら、識には自体がなく仮に多くの縁に託っています。多くの縁の性は空で、合ったり散ったりすることはありません。一つ一つ諦かに観じて、眼を求めても得られず、また眼という名前もありません。もし眼が見ることができるなら、青盲の人も色を見るはずです。なぜなら根が壊れていないからです。このように観じる時、眼もなく色もなく、見る者もありません。また見ないこともありません。男女などの身はもともと一念の無明の了らない妄念の心から生じます。この妄念の心はちょうど虚空のようであり、身は夢のよう、影のよう、炎のよう、幻のようです。また空華のようで求めることはできません。断もなく常もなく、眼が色に対する時、貪愛はありません。なぜなら虚空は貪愛することができないからです。虚空は断じないので、無明は生じても明は生じません。この時、煩悩はすなわち菩提であり、無明縁行はすなわち涅槃です。乃至老死もまた同じです。法がもし無生ならすなわち老死もありません。諸法に著さないので聖種と称します。凡種も聖種も一つもなく二つもありません。明と無明もまた同じです。ゆえに眼の種の相が妙と名づけます。耳・鼻・舌・身・意もまた同じです。

六自在王の性が清浄とは、第一に眼王です。眼によって色を見て貪愛の心を生じます。愛とはすなわち無明です。一切の煩悩はみな貪愛に属します。この愛の無明を制するものはなく、自在なこと王のようです。性が清浄とは、上述の眼を観じる義の中で説いたとおりです。金剛慧を用いて愛の心を覚了すれば、すなわち無無明・無老死です。この金剛慧はその力が最も大きく、首楞厳定と名づけます。たとえば健将が怨敵を伏せ、四方の世界を清浄にできるようなものです。この金剛智慧もまた同じです。貪愛無明の諸行を観じて、すなわち菩提涅槃の聖行とすることができます。無明貪愛はすなわち菩提金剛智慧です。眼自在王の性はもと常に清浄で、汚すことのできるものはありません。ですから仏は言われました。「父母から生まれた清浄な常眼」と。耳・鼻・舌・身・意もまた同じです。ですから般若経に六自在王の性が清浄であると説いています。それゆえ龍樹菩薩は言いました。「まさに知るべきです。人の身には六種の相が妙であることを。人の身とはすなわち衆生の身です。衆生の身とはすなわち如来の身です。衆生の身は同一の法身で変わることがないからです」と。ですから華厳経の歓喜地の中で言います。「その性はもとより寂然として生滅がなく、もとより空で永遠に諸煩悩がない。諸法を覚了することはそのとおりで、超勝して成仏の道を成す」と。

凡夫の人で、もしこの諸陰の実法を覚ることができるなら、涅槃経の中で迦葉が仏に問いました。「おっしゃる字の義はどのようなものですか」と。仏は迦葉に告げました。「十四音があり、これを字の義と名づける。おっしゃる字とは菩提と名づける。常であるがゆえに流れない。もし流れないならすなわち無尽である。無尽とはすなわち如来の金剛の身である」と。

問います。どうして「常であるがゆえに流れない」というのですか。

答えます。眼が常であるがゆえに流れないと名づけます。どうして常と名づけるのですか。無生であるがゆえに常です。

問います。どうして無生なのですか。

答えます。眼が生じないからです。なぜなら眼が色を見る時、および眼の原を観じて眼を求めても得られず、すなわち情識もなく色もありません。眼界が空であるがゆえに断も常もなく、また中道でもありません。眼界はすなわち諸仏の法界です。この眼を覚知すれば、始めもなく来処もなく、また無始もありません。ちょうど虚空のようで三世に摂されません。般若経の中で曇無竭菩薩が薩陀波崙に語ったようにです。「善男子よ、空法は来ることも去ることもない。空法はすなわち仏である。無生法は来ることも去ることもない。無生法はすなわち仏である。無滅法は来ることも去ることもない。無滅法はすなわち仏である」と。ですからまさに知るべきです。眼界が空であるがゆえに、空とはすなわち常です。眼が空で常であるがゆえに、眼はすなわち仏眼で貪愛がありません。愛とはすなわち流れです。流れとはすなわち眼を生じることです。眼に貪愛がなければすなわち流動がありません。もし流動がなければすなわち生じる眼がありません。生じないがゆえに来ることも去ることもありません。無生はすなわち仏眼です。すでに無生ならすなわち滅もありません。滅とは尽と名づけます。眼はすでに滅がありません。まさに知るべきです、無尽であることを。眼はすでに尽きることがないので、来ることも去ることもなく、また住処もありません。眼が無尽であることはすなわち仏です。菩薩はこの金剛智慧によって諸法の如をを知ります。無生無尽で眼などの諸法の如がすなわち仏であるので、如来と名づけます。金剛の身で諸法の如を覚るがゆえに如来と名づけます。決して金色の身の如来だけではないのです。如実智を得たがゆえに如来と称します。眼と色の如実智を得、耳と声・鼻と香・舌と味・身と触・意と法の如実智を得たので如来と名づけます。金剛の身は法相のままに解し、法相のままに説きます。如に言えば無生であり、来に言えば無滅です。仏はこのように来て、さらに去りません。如実の道に乗るがゆえに如来と名づけます。

問います。仏はどの経の中で眼などの諸法の如を如来と名づけると説かれたのですか。

答えます。大強精進経の中で、仏は鴦崛摩羅に問われました。「どうして一学と名づけるのか」と。鴦崛は仏に答えました。「一学とは一乗と名づける。乗とは能く度するという意味である。また運載とも名づける」と。鴦崛摩羅の十種の答仏で、一つの答に二種があり、合わせて二十答です。今はしばらく略して鴦崛摩羅の第五答から第六答までを説きます。この二処の四種の答の中で、総じて眼などの如来の義を説きます。

どうして五と名づけるのですか。「いわゆるかの五根は、これはすなわち声聞乗であり、如来の義ではない。どうして如来の義か。いわゆるかの眼根は、諸如来において常に決定分明に見、具足して減なく修す。いわゆるかの耳根は、諸如来において常に決定分明に聞き、具足して減なく修す。いわゆるかの鼻根は、諸如来において常に決定分明に嗅ぎ、具足して減なく修す。いわゆるかの舌根は、諸如来において常に決定分明に甞め、具足して減なく修す。いわゆるかの身根は、諸如来において常に決定分明に触れ、具足して減なく修す。いわゆるかの意根は、諸如来において常に決定分明に識り、具足して減なく修す」と。

どうして六と名づけるのですか。「いわゆる六入処は、これはすなわち声聞乗であり、如来の義ではない。いわゆる眼入処は、諸如来において常に明らかに見て来入門し、具足して減なく修す。いわゆる耳入処は、諸如来において常に明らかに聞いて来入門し、具足して減なく修す。いわゆる鼻入処は、諸如来において常に明らかに嗅いで来入門し、具足して減なく修す。いわゆる舌入処は、諸如来において常に明らかに甞めて来入門し、具足して減なく修す。いわゆる身入処は、諸如来において常に明らかに触れて来入門し、具足して減なく修す。いわゆる意入処は、諸如来において常に決定分明に識り、浄信して来入門し、具足して減なく修す」と。

ですから初めて心を発した新学の諸菩薩は、まさによく眼の原を観じるべきです。畢竟じて生滅がありません。耳・鼻・舌・身・意も、その性はもとより断もなく常もなく、寂然として生滅がありません。色性は空も仮もなく、没することも出ることもなく、性は浄らかで真如に等しく、畢竟じて生滅がありません。声・香・味・触・法は、もとより空で、明でもなく暗でもなく、寂然として生滅がありません。根と塵がすでに空寂なら、六識はすなわち無生です。三と六の如如の性、十八界は名もありません。衆生と如来は同じく一法身を共にし、清浄で妙なること比べようがありません。これを妙法華経と称します。ですから大集経の中で、仏は浄声王に告げました。「汝の名は浄声という。まさに汝の自界を浄めるべきである。自界とは眼界が空であること。すなわち持戒清浄である。眼界が空寂であるがゆえに、すなわち仏土が清浄である。耳・鼻・舌・身・意も、性は畢竟空寂である。これを諸如来の浄土を修習する義と名づける」と。

問います。どうして「安楽行」というのですか。どうしてまた「四安楽」というのですか。どうしてまた「二種の行」というのですか。一つは無相行、二つは有相行です。

答えます。一切法の中で心が動かないので安といいます。一切法の中で受陰がないので楽といいます。自利利他のために行といいます。また四種の安楽行があります。第一は正慧離著安楽行と名づけます。第二は無軽讃毀安楽行と名づけ、また諸声聞を転じて仏智を得させる安楽行とも名づけます。第三は無悩平等安楽行と名づけ、また敬善知識安楽行とも名づけます。第四は慈悲接引安楽行と名づけ、また夢中に具足成就して神通智慧仏道涅槃を得る安楽行とも名づけます。

また二種の行とは何ですか。どうして無相行と名づけるのですか。無相行とは、すなわち安楽行です。一切の諸法の中で、心相が寂滅して畢竟じて生じないので、無相行と名づけます。常に一切の深妙な禅定にあり、行住坐臥・飲食・語言において、一切の威儀に心が常に定まっているからです。その他の禅定は三界の次第で、欲界地・未到地・初禅地・二禅地・三禅地・四禅地・空処地・識処・無所有処地・非有想非無想処地と、このように次第に十一種の地の区別があります。有法・無法の二道で区別されます。これは阿毘曇雑心の聖行です。安楽行の中の深妙な禅定はそうではありません。なぜなら欲界に依止せず、色・無色にも住まず、このような禅定を行じるからです。これは菩薩の遍行で、畢竟じて心想的がないので、無相行と名づけます。

また有相行とは、これは普賢勧発品の中で、法華経を誦し散心で精進することです。このような人々は禅定を修せず三昧に入りません。坐るか立ちるか行くかして、一心に法華の文字を専念し、精進して臥さず、頭の火を救うようにします。これを文字有相行と名づけます。この行者は身命を顧みません。もし行が成就すれば、すなわち普賢の金剛色身が六牙の象王に乗ってその人の前に住するのを見ます。金剛杵を以て行者の眼に拟すれば、障道の罪が滅し、眼根が清浄になって釈迦を見ることができます。また七仏を見ます。また十方三世の諸仏を見ます。至心に懺悔し、諸仏の前に五体投地し、起って合掌して立つと、ただちに三種の陀羅尼門を得ます。第一は総持陀羅尼で、肉眼・天眼・菩薩道慧を得ます。第二は百千万億旋陀羅尼で、菩薩道種慧を具足し法眼が清浄です。第三は法音方便陀羅尼で、菩薩の一切種慧を具足し仏眼が清浄です。この時、すなわち一切三世の仏法を具足して得ます。あるいは一生の修行で具足して得、あるいは二生で得、最も遅い者でも三生で得ます。もし身命を顧み、四事の供養を貪って勤修できないなら、劫を経ても得られません。ですから有相と名づけるのです。

問います。どうして「一切法の中で心が動かないので安といい、一切法の中で受陰がないので楽といい、自利利他を行という」のですか。

答えます。一切法とは、いわゆる三毒・四大・五陰・十二入・十八界・十二因縁です。これを一切法と名づけます。菩薩はこの一切法の中で三忍慧を用います。第一は衆生忍と名づけ、第二は法性忍と名づけ、第三は法界海神通忍と名づけます。衆生忍とは生忍と名づけます。法性忍とは法忍と名づけます。法界海神通忍とは大忍と名づけます。前の二種の忍は破無明煩悩忍と名づけ、また聖行忍とも名づけます。聖人の行処であるがゆえに聖行と名づけます。凡夫が能く行すればすなわち聖位に入ります。これが聖行です。大忍とは、五通および第六通を具足し、四如意足を具足し、十方の諸仏および諸天王に対して、面と向かって共に語り、一念に一切の凡聖を覚ることができるので大忍と名づけます。諸神通において心が動かず、聖道が具足するのを聖忍と名づけます。三忍とは、すなわち正慧離著安楽行です。

問います。どうして「生忍」と名づけ、また「衆生忍」と名づけるのですか。どうして「不動忍」と名づけ、また「安」と名づけるのですか。

答えます。生忍は因と名づけ、衆生忍は果と名づけます。因とは衆生の因、果とは衆生の果です。因とは無明であり、果とは身行です。正慧で因を観じて無明を破り一切の煩悩を断ちます。一切法は畢竟じて和合せず、また聚集の相もなく、離散も見ません。この菩薩が集聖諦の微妙な慧を知るのを生忍と名づけます。もし和合がなく動かず流れなければ、すなわち生がありません。衆生忍とは身行の諸受と名づけます。受は苦です。受に三つあります。苦受・楽受・不苦不楽受です。なぜなら打たれ罵られる時は苦受を観じます。打たれるのは身の苦、罵られるのは心の苦です。飲食や衣服や細滑な供養は身の楽と名づけます。および諸々の摩触もまた身の楽と名づけます。称揚讃歎は心の楽と名づけます。にわかに良い布施を得て、眼に見てまだ受けず、また受けてしまっても、心の楽と名づけます。この無明の受および苦楽を観じます。苦を受ける時は、忍辱慈悲を起こして嗔心を生じません。楽を受ける時は、受を離れる心を観じて貪著しません。不苦不楽を受ける時は、捨心を遠離して無明を生じません。一切の諸受は畢竟空寂で生滅がないからです。この三受はみな一念の妄心から生じます。菩薩はこの供養・打罵・讃歎・毁呰を観じて、与える者も受ける者も夢のよう、幻のようです。誰が打ち誰が罵り誰が受け誰が喜び誰が怒るのでしょう。与える者も受ける者もみな妄念です。この妄念を観じて、畢竟じて心もなく我もなく人もありません。男女の色像・怨親中人・頭などの六分は虚空の影のようで得るところがないからです。これを不動と名づけます。随自意三昧の中で説くようにです。菩薩は自ら十八界の中で心に生滅がなく、また衆生に生滅がないことを教えます。始めは生死から終わりは菩提に至るまで、一切の法性は畢竟じて動きません。いわゆる眼性・色性・識性、耳・鼻・舌・身・意の性、乃至声・香・味・触・法の性、耳識の因縁から生じる諸受の性、鼻・舌・身・意識の因縁から生じる諸受の性は、自もなく他もなく畢竟空であるからです。これを不動と名づけます。自ら覚り他を覚るので安と名づけます。自ら三受を断じて生じず、畢竟空寂で三受がないからです。諸受は畢竟じて生じない、これを楽と名づけます。一切法の中で心に行処がなく、また衆生に一切法の中で心に行くところがないことを教え、禅を修して息まず、あわせて法華を持するので行と名づけます。鴦崛摩羅の眼根入の義の中で説くようにです。また涅槃の中の仏性・如来蔵の中で説くようにです。

安楽行の義は多く一つではありません。今さらに略して説きます。一切の凡夫は陰・界・入の中で、無明貪愛が受念著を起こし、純粋な罪の苦行で自ら安んじることができず、生死が絶えません。ですから楽がなく、苦行と名づけます。一切の二乗の諸声聞人は陰・界・入の中で対治の観ができ、不浄観の法で貪婬を断ち、慈心観の法で瞋恚を断ち、因縁観の法で愚癡を断ちます。別に名字を説いて四念処と名づけます。この四念に三十七種の区別の名字があり、道品と名づけます。身の不浄を観じ、よく知ることができます。この不浄の身は無明の根本で空で生処がありません。不浄観の法は身見・男女の憎愛を破ることができます。および中間の人もみな空寂に帰します。これを破煩悩魔と名づけます。十八界の三受の法を観じ、外の苦受陰・内の苦受陰は、これが苦受陰で身心の行じるところ、受念著の処は一切みな苦であると知ります。これを捨てて著さず、内の楽受・外の楽受・内外の楽受は、この楽受を観じます。心が貪著するがゆえに苦の因を作ることができます。これを捨てて受けず、楽受は一切みな空であると知ります。苦楽の二観は世諦を破ることができ、心は真諦に住し、初めに苦楽を捨て、たちまち不苦不楽を得ます。貪著するがゆえに、またこれは無明です。さらにこの不苦不楽受を観じ、依止するところがなく無常に変壊します。なぜなら苦楽を捨てて不苦不楽を得るからです。苦楽の二観はすでに生処もなく滅処もなく、畢竟空寂で不苦不楽はどこから生じるのでしょう。このように観じる時、空で得るところもなく捨てるべきものもありません。すでに捨てるべきものがなければ、また捨てるべきものがない法も得ません。もし世諦がなければすなわち真諦もありません。真も仮もともに寂まり、この時すなわち陰・入・界の魔を破ります。心の無常で生滅が住まないのを観じ、この心がもとどこから生じたかを観察します。このように観じる時、心も見えずまた生滅もありません。断でも常でもなく中道にも住しません。このように観じ終わればすなわち死魔がありません。法念処の中で一切の法を観じます。善法であれ不善法であれ無記法であれ、みな虚空のように選択できません。諸法の中で畢竟じて心が動かず、また住相もなく不動三昧を得ます。すなわち天子魔がありません。三受を捨ててこの解脱を得るので、苦楽行と名づけます。因果ともに声聞と名づけ、菩薩道ではありません。鈍根の菩薩もまたこの観によって取捨がなく異なります。なぜなら色心の三受は畢竟じて生じず、十八界がないからです。内外の受取がありません。すでに受がなければすなわち捨てるべきものもありません。観行は同じでも三受の間がないので、巧慧方便がよく具足できます。ですからこれを安楽行と名づけます。安楽行の中の観はそうではありません。正直に方便を捨ててただ無上道を説きます。

文殊師利菩薩が仏に白しました。「世尊よ、これらの菩薩は後の悪世において、どうしてよくこの経を説くことができるのでしょうか」と。仏は文殊師利に告げました。「もし菩薩摩訶薩が後の悪世においてこの経を説こうとするなら、まさに四法に安住すべきである。第一は菩薩の行処および親近処に安住し、よく衆生のためにこの経を演説することである。どうして菩薩の行処と名づけるか。もし菩薩摩訶薩が忍辱の地に住し、柔和善順で卒暴でなく、心もまた驚かない。また法において行じるところがなくて諸法の実相を観じ、また行じもせず分別もしない。これを菩薩摩訶薩の行処と名づける。

どうして忍辱の地に住すると名づけるか。略して三種の忍を説きます。第一は衆生忍、第二は法忍、第三は大忍です。また神通忍とも名づけます。衆生忍に三種の意があります。第一の意とは、菩薩が他に打たれ罵られ軽辱毁呰される時、この時まさに忍んで報復してはなりません。こう観じるべきです。私に身があるために打ち罵りに来るのだと。たとえば的があるために矢が当たるようなものです。私に身がなければ誰が打つでしょう。私は今まさに勤めて空観を修習すべきです。空観がもし成れば、私を打ち殺す人はありません。罵られる時は、正念に思惟します。この罵声は開くに従ってすぐ滅し、前後ともに俱なりません。審かに諦かに観察すればまた生滅がなく、空中の響のようです。誰が罵り誰が受けるのでしょう。音声は耳に入らず、耳は声を取りに行きません。このように観じ終われば、すべてに瞋も喜もありません。第二の意とは、菩薩は一切の衆生に対してすべて打罵がなく、常に軟語で彼の意を護り、これを導こうとします。打罵の事において心が定まり乱れません。これを衆生忍と名づけます。衆生がもし菩薩の忍を見ればすなわち菩提心を発します。衆生のためであるがゆえに衆生忍と名づけます。第三の意とは、剛強な悪い衆生の処で調伏し、その心を改めさせるために、あるいは麁い言葉で毁呰罵辱し、彼をして慚愧して善心を発させるのを衆生忍と名づけます。

どうして辱と名づけるか。忍ぶことができないのをすなわち辱と名づけます。別の法はありません。

問います。打罵に瞋らず慈悲の軟語は忍と名づけられます。剛悪な衆生の処で菩薩はこの時忍耐できず、姿は嗔想で打ち叩き罵辱し、悪人を摧伏して彼をして苦を受けさせます。どうしてまた忍辱と名づけることができるのですか。

答えます。打罵に報いないのは、これは世俗戒の中の外の威儀の忍です。および内の空・音声の空などを観じて、身心空寂で怨憎を起こさないのは、これは新学の菩薩が世の譏嫌を息め、戒・定・智の方便忍辱を修すのであり、大菩薩ではありません。なぜなら諸菩薩はただ衆生の利益ある処を観じて、すぐに調伏するのは大乗を護り正法を護るためであるからです。必ずしも一切が慈悲の軟語とは限りません。涅槃に説くようにです。たとえば昔、仙豫国王が方等経を護り、五百の婆羅門を殺し、その命終して阿鼻地獄に入って菩提心を発させたようなものです。これこそ大慈大悲ではないですか。すなわち大忍です。涅槃にまた説きます。有徳国王が覚徳法師を護り、あわせて正法を護るために、一国の中の破戒の悪人を殺し、覚徳法師をして正法を行じさせました。王は命終の後、ただちに東方の阿閦仏の前に生じ、第一の大弟子となりました。臣や兵衆もまた阿閦仏の前に生じ、第二・第三の弟子となりました。諸々の破戒の黒白の悪人は、命終してみな阿鼻地獄に堕ちました。地獄の中で自ら本の罪を識り、こう念じました。我々は覚徳法師を悩害したために国王は我々を殺した。すなわちそれぞれ念を生じて菩提心を発し、地獄から出て、また覚徳および有徳国王のところに生まれ、弟子となって無上道を求めました。これは菩薩の大方便忍で、小菩薩のなしうるところではありません。どうして忍辱でないといえましょうか。覚徳法師とは迦葉仏です。有徳国王とは釈迦仏です。護法の菩薩もまたこのようであるべきです。どうして大忍辱と名づけないのでしょう。

もし菩薩が世俗の忍を行じて悪人を治めず、彼をして悪を長じさせ正法を敗壊させるなら、この菩薩はすなわち悪魔であって菩薩ではありません。また声聞とも名づけられません。なぜなら世俗の忍を求めて法を護ることができないからです。外見は忍のようでも純粋に魔業を行じています。菩薩がもし大慈大悲を修し、忍辱を具足して大乗を建立し衆生を護るなら、専ら世俗の忍に執着してはなりません。なぜならもし菩薩が悪人を護り、治罰できず、彼をして悪を長じさせ善人を悩乱し正法を敗壊させるなら、この人は実にそうではなく外に詐り似て現し、常にこう言います。私は忍辱を行じていると。その人は命終して諸々の悪人とともに地獄に堕ちます。ですから忍辱と名づけることはできません。

どうしてまた忍辱の地に住すると名づけるか。菩薩の忍辱は一切の仏道の功徳を生じることができます。たとえば大地が一切の世間の万物を生長させるようなものです。忍辱もまた同じです。菩薩は大忍辱の法を修行し、ある時は慈悲の軟語を行じ打罵に報いず、あるいはまた悪口麁言を行じ、衆生を打ち叩き、乃至命を尽くします。この二種の忍はみな正法を護り衆生を調伏するためであり、初学のなしうるところではありません。

具足忍と名づけます。法忍に三種の意があります。第一の意とは、自ら聖行を修し、一切法を観じてみな空寂で、無生無滅また断常もないとします。いわゆる一切法を観じて眼根は空、耳・鼻・舌・身・意根は空、眼・色は空、声・香・味・触・法はみな空です。眼識は空、耳・鼻・舌・身・意識は空と観じます。我もなく人もなく衆生もなく、造るものも作るものも受者もありません。善悪の報は空華のようです。諸々の大陰・界・入はみな空です。三と六の十八は名号がありません。初もなく後もなく中間もありません。その性はもとより常に寂然としています。一切法において心が動かない、これを菩薩の法忍を修すと名づけます。第二の意とは、菩薩の法忍がことごとく具足し、またこの法を以て衆生を教え、上中下の根の区別を観じ、方便で転じて大乗に住させます。声聞・縁覚から菩薩まで、三種の観行は同じ一つに合し、色心の聖行に差別がありません。二乗も凡聖ももとより同一の法身で、すなわちこれ仏です。第三の意とは、菩薩摩訶薩が自在智を以て衆生を観じ、方便で同事してこれを調伏します。あるいは持戒の細行を現し、あるいは破戒で威儀のないのを現し、本の誓願を満足させるために六道の身を現して衆生を調伏します。これを菩薩の法忍を行じ方便具足して衆生を化すと名づけます。

大忍とは神通忍と名づけます。どうして神通忍と名づけるか。菩薩がもと初めて心を発した時、十方一切の衆生を度せんと誓い、勤めて六度の法を修し、施・戒・忍辱・精進・禅定、三乗の道品、一切の智慧で涅槃を証し、深く実際に入ります。上には諸仏を見ず、下には衆生を見ません。すなわちこう念じます。私はもと一切の衆生を度せんと誓った。今ことごとく一切の衆生を見ない。私の往昔の誓願に違うのではないかと。こう念じる時、十方の一切現在の諸仏は、すなわち色身を現し、同音にこの菩薩を讃歎して言われます。「善哉善哉、大善男子よ。本の誓願を念じて衆生を捨ててはならない。我々諸仏は初めて道を学んだ時、大誓願を発して広く衆生を度し、勤心に道を学び、すでに涅槃を証し、深く実際に入って衆生を見ない。本の誓願を憶いすなわち悔心を生じ、衆生を顧念した。この時、すなわち十方の諸仏が同音に讃歎するのを見た。我も汝のように本の誓願を念じ、衆生を捨ててはならない」と。十方の諸仏がこの語を説く時、菩薩はこの時諸仏の語を聞き、心に大歓喜し、すなわち大神通を得ます。虚空中に坐してことごとく十方の一切の諸仏を見、一切の諸仏の智慧を具足し、一念に十方の仏心をことごとく知り、また一切衆生の心数を知り、一念にことごとく遍くこれを観察でき、一時に一切の衆生を度そうとします。心が広大であるので大忍と名づけます。諸仏の大人の法を具足するがゆえに大忍と名づけます。衆生を度するために、色身の智慧は機に対していて差別し、一念の心の中に一切の身を現し、一時に説法し、一音で能く無音の音声を作し、無量の衆生が一時に成道します。これを神通忍と名づけます。

柔和善順とは、第一に自らその心を柔伏し、第二に衆生を柔伏します。和とは、六和敬を修し、持戒・修禅・智および解脱の法を証し、乃至衆生の瞋恚や忍辱・持戒や毀禁を調伏し、みな涅槃の相と同じにします。いわゆる六和とは、意和・身和・口和・戒和・利和および見和です。善順とは、よく衆生の根性を知り、随順して調伏するのを同事六神通摂と名づけます。柔和を法忍と名づけ、善順を大忍と名づけます。

卒暴でないとは、仏法を学ぶ時、怱怱と卒暴でなく、証を取り外の威儀を行じ、および衆生を化するのもまた同じです。心が驚かないとは、驚とは動という意味です。卒暴怱怱とはすなわち驚動です。善声・悪声乃至霹靂、諸々の悪い境界および善い色像を、耳に聞き眼に見ても心はみな動きません。空法を解するがゆえに、畢竟じて心がないからです。ですから不驚と言います。

また法において行じるところがないとは、五陰・十八界・十二因縁の中の諸煩悩の法は、畢竟空であるがゆえに心もなく処もありません。また禅定・解脱の法の中でも智もなく心もなく、また行じるところもありません。諸法の実相を観じるとは、五陰・十八界・十二因縁は、みな真如実性であり、本末もなく生滅もなく、煩悩もなく解脱もないことです。また行じもせず分別もしないとは、生死・涅槃は一つもなく異もなく、凡夫および仏は二つの法界もありません。ですから分別できません。また不二も見ないので行じもせず分別もしないといいます。分別の相は得られないので、菩薩はこの無名三昧に住します。住するところはないけれども、よく一切の神通を発して方便を仮りません。これを菩薩摩訶薩の行処と名づけます。初めて聖位に入ればすなわち等しくなります。これは不動の真常法身であり、方便の縁合の法身ではありません。また如来蔵乃至意蔵を証すると名づけることもできます。

法華經安樂行義

法華経安楽行義


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