顯識論一卷(從《無相論》出)
顕識論 一巻
真諦三藏譯
真諦三藏訳
一切三界但唯有識。何者是耶?三界有二種識:一者顯識、二者分別識。顯識者,即是本識,此本識轉作五塵四大等。何者分別識?即是意識,於顯識中分別作人天、長短、大小、男女、樹藤諸物等,分別一切法。此識聚分別法塵,名分別識。譬如依鏡色影色得起,如是緣顯識分別識得起。是分別若起,安立熏習力於阿梨耶識,由此熏力本識未來得生;緣此未來顯識,未來分別識得起。以此因義,是故生死無有前後。為顯此義,佛於《解節經》中說偈言:
一切の三界はただ識のみがある。それは何か?三界には二種の識がある。一つは顕識、もう一つは分別識である。
顕識とは、すなわち本識であり、この本識が転じて五塵(色・声・香・味・触)や四大(地・水・火・風)などとなる。
分別識とは何か?それは意識であり、顕識の中にあって、人や天、長短、大小、男女、樹木や蔓など、あらゆるものを区別し、一切の法を分別する。この識の集まりが法塵を分別することを、分別識という。
たとえば、鏡に映る色の影が現れるように、顕識を縁として分別識が生じる。この分別が起こると、その力が阿梨耶識に染み込み、習いとなる。この習いの力によって、本識は未来に生じるようになる。この未来の顕識を縁として、未来の分別識が生じる。
この因縁の道理によって、生死には前後がないことが明らかになる。この意味を表すために、仏は『解節経』の中で次の偈を説かれている。
「顯識起分別, 分別起熏習,
熏習起顯識, 故生死輪轉。」
「顕識が分別を起こし、分別が習気を起こす。 習気が顕識を起こすゆえに、生死は輪廻する。」
所言熏習者,一執著分別性、二觀習真實性。以此二義故名熏習。第一熏習者,增長阿梨耶識。阿梨耶識被增長,具足諸能,能生六道,受生諸識,以是義故生死圓滿。第二熏習者,名觀習真實性,此熏習能除執著分別性。是第一熏習被損壞故,阿梨耶識亦被損。阿梨耶識既被損,受生識亦被損。以阿梨耶識能生三界,由被損故得三界轉。依此轉依義具五種,如滅差別相中解說。
ここで言う薫習とは、一つは執着分別性に、二つは真実性を観ることにあります。この二つの意味によって薫習と呼ばれるのです。
第一の薫習は、阿頼耶識を増長させることです。阿頼耶識が増長されると、あらゆる能力を備え、六道を生み出し、生を受ける諸識を生じさせます。この意味において、生死の輪廻は円満に成り立つのです。
第二の薫習は、真実性を観る習いと呼ばれ、この薫習は執着分別性を取り除くことができます。第一の薫習が損なわれると、阿頼耶識もまた損なわれます。阿頼耶識が損なわれると、生を受ける識もまた損なわれます。阿頼耶識は三界を生み出す力を持っていますが、それが損なわれることによって、三界からの転換が得られるのです。
この転依の意味には五つの種類があり、それは滅の差別相の解説の中で説かれています。
顯識者有九種:一身識、二塵識、三用識、四世識、五器識、六數識、七四種言說識、八自他異識、九善惡生死識。其次分別識有二種:一有身者識、二受者識。
顕れる識には九種がある。第一は身識、第二は塵識、第三は用識、第四は世識、第五は器識、第六は数識、第七は四種の言説識、第八は自他異識、第九は善悪生死識である。次に、分別識には二種がある。第一は有身者識、第二は受者識である。
前九識中,第一身識者,謂轉作似身,是故識名身識。所言似者,如所執身相貌似身而非真實,故名似身。此識能作相似身,名為身識,即是五根。餘塵等八種識亦如是,即是唯識義也。所言身識者有五種,即眼根界等,是名身識,通是五根。
前九識のうち、最初の身識とは、身体に似たものへと転じる働きを指し、それゆえこの識を身識と呼びます。
ここで「似たもの」と言うのは、私たちが執着している身体の姿や形が、身体に似てはいるものの、真実の身体ではないからです。そのため「似た身体」と言うのです。
この識は、身体に似たものを作り出す働きがあり、それを身識と呼びます。つまり、これは五根(感覚器官)のことです。
他の八つの識(対象など)についても同様であり、これが唯識の意味するところです。
身識には五種類あり、それは眼根界など、つまり五根全体を指します。
第二塵識有六種,色界等乃至識塵,通名應受識。
第二の塵識には六種あり、色界などから識塵に至るまで、総じて応受識と名づける。
第三用識者,六種眼識界等,即是六識。大論名為正受識。
第三の「識」とは、六種の眼識界などを指し、すなわち六識のことです。大論ではこれを「正受識」と名付けています。
第四世識者,有三種,即三世,過去、未來、現在也。又生死相續不斷故名世。
第四の世を知る者には、三種があります。すなわち三世、過去・未来・現在です。また、生死が相続して絶えることがないゆえに、世と名づけるのです。
第五器識者,大論名處識也。略即器世界,謂外四大五塵,廣即十方三界等。
第五の器識とは、大論において「処識」と呼ばれるものです。簡略に言えば器世界、つまり外界の四大(地・水・火・風)と五塵(色・声・香・味・触)を指し、広く解釈すれば十方三界などの一切の世界を意味します。
第六數識者,算計量度。
第六の数識とは、計算し、推し量ることです。
第七四種言說識者,謂見、聞、覺、知四種。一切言說不出此四,若不說見即說聞;覺知亦爾。
第七四種言說識とは、見る、聞く、覚える、知るの四種を指します。すべての言説はこの四つを出ません。もし見ることを説かなければ、即ち聞くことを説き、覚えることと知ることについても同様です。
第八自他異識者,謂依處各異、六趣不同。依處者身也,六趣身謂自他異識。
第八に、自他が異なる識とは、依りどころがそれぞれ異なり、六つの世界が同じでないことをいう。依りどころとは身体のことで、六つの世界の身体が自他で異なる識を意味する。
第九善惡趣生死識者,一切生死不離兩道,善者人天、惡者四趣。此善惡道不離生死,即生即滅無停住故。
第九の善悪趣生死の識とは、一切の生死は二つの道を離れず、善なるものは人と天、悪なるものは四つの趣きである。この善悪の道は生死を離れず、生ずるや即ち滅し、留まり住むことがないからである。
又有身者,識者我見所覆。此識為我見貪愛所覆故受六趣生。此識為生死身,若有此識即有身識,此識若盡則生死身盡。我見生一切肉惑、貪愛生一切皮惑,故有生死身。若離愛我見,即無皮肉煩惱。若無皮肉煩惱,即無三界身,故身識受生死也。
また、身体を持つ者は、識が我見によって覆われている。この識は我見と貪愛によって覆われているため、六道の生を受ける。この識は生死の身体であり、もしこの識があれば身体の識があり、この識が尽きれば生死の身体も尽きる。我見はすべての肉の煩悩を生じ、貪愛はすべての皮の煩悩を生じる。それゆえに生死の身体があるのである。もし愛と我見を離れれば、皮肉の煩悩はなくなる。もし皮肉の煩悩がなければ、三界の身体もなくなる。それゆえに、身体の識は生死を受けるのである。
二受者識,意界名受者識,即三種意識:一謂阿梨耶識,是細品意識,恒受果報,不通善、惡,但是無覆無記;二陀那識,是中品意識,但受凡夫身果報;三者謂常所明意識,是麁品意識,通受善、惡、無記三性果。
二つの受ける意識があります。意界と呼ばれる受ける意識とは、つまり三種類の意識のことです。一つは阿頼耶識といい、これは微細な意識であり、常に果報を受けていますが、善や悪には通じず、ただ無覆無記です。二つ目は陀那識といい、これは中程度の意識であり、凡夫の身としての果報だけを受けます。三つ目は常に明らかである意識といい、これは粗大な意識であり、善・悪・無記の三性の果報を通して受けます。
五識亦爾。此三品意識,通能受用果報。但今據興廢為言,故呼梨耶識為受者識。又梨耶識是凡夫所計我處,由陀那執梨耶識作我境,能執正是陀那故。七識是我見體故,分別識有二種:一有身識、二身者識,合名意根。大本染污根即陀那識,二次第緣意根體,即緣本識作我境,自出彼緣相,彰顯識有九種。如上顯識唯是梨耶,若是分別識則是陀那及意識。陀那分別我,意識分別萬法。意識有三種分別,五識但有自性分別。熏習有四種方便:一忍、二名、三相、四世第一法。一忍有二:一廣、二略。一切眾生皆迷真實性,今修習先作廣觀、次作略觀,得入真實。所言廣者即觀四諦,苦集即是凡夫俗諦,滅道即聖人真諦。各有九種,觀苦九分,即三界各有三世成九。又欲界一有、色界四有、無色界四有,故為九種。集諦九分,即是九結分者,滅此九結為九滅諦。道諦九分者,九次第三摩提即九次第定。
五識もまた同様です。この三品の意識は、すべて果報を受用することができます。しかし今は、興起と廃絶の観点から言うので、阿梨耶識を受者識と呼びます。また、阿梨耶識は凡夫が我の拠り所と考えるところであり、阿陀那識が阿梨耶識を我の境として執着するからです。能執するのはまさに阿陀那識です。第七識は我見の本体です。分別識には二種類あります:一つは有身識、もう一つは身者識で、合わせて意根と呼びます。根本の染汚根は阿陀那識であり、二番目の次第縁の意根の本体は、本識を縁として我の境とし、自らその縁の相を現出します。これにより、識には九種類あることが明らかになります。上に示した通り、顕識はただ阿梨耶識のみです。もし分別識であれば、それは阿陀那識および意識です。阿陀那識は我を分別し、意識は万法を分別します。意識には三種類の分別があり、五識にはただ自性分別しかありません。熏習には四種類の方便があります:一に忍、二に名、三に相、四に世第一法です。忍には二種類あります:一つは広、もう一つは略です。一切の衆生は皆、真実性に迷っています。今、修行するにあたり、まず広観を行い、次に略観を行って、真実に入ります。広観とは四諦を観ることです。苦諦と集諦は凡夫の俗諦であり、滅諦と道諦は聖人の真諦です。それぞれに九種類あります。苦諦を九分に観るとは、三界それぞれに三世があり、合わせて九となることです。また、欲界に一有、色界に四有、無色界に四有があるので、九種類となります。集諦の九分とは九結の分けであり、この九結を滅することが九滅諦です。道諦の九分とは、九次第三摩提、すなわち九次第定です。
次略觀,先觀苦諦為八種者,觀四大四名,四大即色陰,四名即四陰,以為八種。苦集有八者,即八邪乖八聖道。滅諦八種者,滅八邪即名八種滅。道諦八者,修八聖道以為道諦。
次に観想を簡略に述べると、まず苦諦を八種類として観じるとは、四大と四名を観じることを指します。四大とは色陰であり、四名とは四陰(受・想・行・識)を指し、これらを合わせて八種とします。
苦集諦が八種であるとは、八つの邪道が八聖道に背くことを意味します。
滅諦が八種であるとは、八つの邪道を滅すること、すなわち八種の滅びを指します。
道諦が八種であるとは、八聖道を修めることが道諦であることを意味します。
次復略觀苦為七,六趣及中陰。集七者,即是七使。七使者,貪、瞋、癡、慢、疑、見欲界欲名欲使,色無色界名為有使,合為七種使,滅七使名七種滅。道諦七者,即七覺分。
次に、苦について七つに観る。それは六道と中有である。集について七つとは、すなわち七つの煩悩である。七つの煩悩とは、貪り、怒り、愚かさ、慢心、疑い、見解である。欲界の欲望を欲の煩悩といい、色界・無色界の欲望を有の煩悩といい、合わせて七つの煩悩となる。これら七つの煩悩を滅することが七つの滅である。道について七つとは、すなわち七つの覚りの要素である。
次略觀苦為六種,謂六種內入。集六種,謂六種貪愛,即六塵生六種貪。滅六貪為六滅。道六者,六種出離界:一出離殺他瞋修慈界、二出離逼惱瞋修悲界、三出離嫉妬瞋修喜界、四出離貪欲修捨界、五出離覺觀熏修念出入息界、六出離無明惑修無我界。修此六種名出離界。
次に、苦を観ずることを六種に略す。これは六種の内入(眼・耳・鼻・舌・身・意)をいう。集を六種とする。これは六種の貪愛、すなわち六塵(色・声・香・味・触・法)によって生ずる六種の貪りをいう。六貪を滅することが六滅である。道を六種とする。それは六種の出離界である。
一、他を殺す瞋りから出離し、慈の界を修めること。 二、人を逼悩する瞋りから出離し、悲の界を修めること。 三、嫉妬の瞋りから出離し、喜の界を修めること。 四、貪欲から出離し、捨の界を修めること。 五、覚観(雑念・妄想)から出離し、出入息(呼吸)に念を置く界を修めること。 六、無明の惑いから出離し、無我の界を修めること。
次略觀苦為五,即五陰。集為五,即五蓋。滅此五蓋為五種滅。道五者,即五根五,即五力等。
次に、苦を五つにまとめて観じる。それは五蘊のことである。集を五つにまとめる。それは五蓋のことである。この五蓋を滅することが五種の滅となる。道を五つにまとめる。それは五根、五力などのことである。
次略觀苦四種,即四念處,謂身受心法。集四者,即四取亦即四流。四取者,取只是貪,有四種貪,即是取有四種:一欲取、二見取、三戒取、四我語取。我語取者,是內取緣內五陰,貪色無色八禪定內法,名我語取。於中取名我語取。若貪欲界塵名外法,名為欲取。欲取者是斷見眾生、我語取是常見眾生,此兩法緣事起見取、戒取。取常見,緣理起。此四取,是受資糧。明受愛有三種:一遠離貪愛,即一切三塗眾生。二求得貪愛,即人天至三空;三安住貪愛,即非想非非想謂為涅槃。如四種取名集諦。滅四取名四滅諦。道諦四者謂四念處,即是四種般若:觀身通達苦諦、觀受通達集諦、觀心通達滅諦、觀法通達道諦。觀身為麁,觀三界身麁為苦,觀欲界身寒熱等為苦,觀色界身四威儀為苦,觀無色界心念念不住苦。觀受通達集諦者,眾生一切貪愛緣受故起,若無受貪不生,故觀受通達集諦。若觀心通達滅諦者,一切眾生安立我見於心中,是故眾生執我見則不信有滅,只由陀那識執梨耶是一是常,故我體非滅。觀心非我故信有滅以捨我見。觀人法二無我故,觀心通達滅諦。觀法通達道諦者,法有二:一淨品、二不淨品。觀不淨品為苦集,淨法為滅道。又不淨品即一切諸惑,淨品者一切治道故,應須通達道諦。
次に、苦しみの四種を簡略に観じる。これが四念処であり、すなわち身・受・心・法である。
集(原因)の四つとは、すなわち四取であり、また四流でもある。四取とは、「取」とは貪りのことであり、四種類の貪りがある。すなわち、取には四種類ある:一に欲取、二に見取、三に戒取、四に我語取である。
我語取とは、内側に向かって取ることで、内なる五蘊(色・受・想・行・識)を縁とし、色界・無色界の八つの禅定における内なる法(対象)に貪りを抱くことをいう。これを我語取と名づける。この中で「取」を我語取と呼ぶのである。
もし欲界の塵(対象)に貪りを抱くならば、それは外なる法に向かうものであり、欲取と呼ばれる。欲取は断見(死後は無になるという見解)を持つ衆生であり、我語取は常見(永遠不滅の実体があるという見解)を持つ衆生である。この二つの法は、事象を縁として見取と戒取を生じさせる。常見を取ることは、理(道理)を縁として起こる。
この四取は、受(感受)の糧(原因材料)となる。受と愛(渇愛)には三種類あることを明らかにする:一に遠離貪愛。これは一切の三塗(地獄・餓鬼・畜生)の衆生である。二に求得貪愛。これは人・天から三空(空無辺処・識無辺処・無所有処)までである。三に安住貪愛。これは非想非非想処を涅槃であると考えるものである。
四種の取を集諦(苦の原因としての真理)と名づけるように、四取を滅することが四滅諦(苦の滅尽としての真理)である。
道諦(苦を滅する道としての真理)の四つとは、四念処をいう。これは四種類の般若(智慧)である:身を観じて苦諦に通達し、受を観じて集諦に通達し、心を観じて滅諦に通達し、法を観じて道諦に通達する。
身を観ずることを粗(あら)いものとし、三界の身の粗さを苦と観ずる。欲界の身の寒熱などを苦と観じ、色界の身の四威儀(行・住・坐・臥)を苦と観じ、無色界の心の念念不住(一瞬もとどまらないこと)を苦と観ずる。
受を観じて集諦に通達するとは、衆生の一切の貪愛は受を縁として起こるからである。もし受がなければ貪りは生じない。ゆえに、受を観じて集諦に通達するのである。
もし心を観じて滅諦に通達するとは、一切の衆生は我見を心の中に安立(確立)している。それゆえ、衆生が我見を執れば、滅(涅槃)があることを信じない。ただ陀那識(第七末那識)が梨耶識(第八阿頼耶識)を一で常なるものと執着するがゆえに、我の本体は滅しないと考えるのである。心を観じてそれが我ではないと知れば、滅があることを信じ、我見を捨てることができる。人無我と法無我の二つを観ずるがゆえに、心を観じて滅諦に通達するのである。
法を観じて道諦に通達するとは、法には二種類ある:一に浄品(清浄なもの)、二に不浄品(清浄でないもの)である。不浄品を観じて苦・集とし、浄法を観じて滅・道とする。また、不浄品とは一切の諸惑(煩悩)のことであり、浄品とは一切の治道(煩悩を対治する道)のことである。ゆえに、道諦に通達すべきなのである。
次略觀苦三種,即觀三界為苦:觀欲界為苦苦;觀色界為壞苦,生住不停,樂壞時即苦故壞苦;觀無色界為行苦,生住壞三時皆苦。但眾生有二道,惡道為苦、善道為樂,捨此二邊謂為涅槃。此心有行有動,是故無常故苦也。集有三者即三毒,又三種:身見、戒取、疑。身見者,眾生著身見,執有常樂我淨,故住生死,不修出世道。戒取者,不肯修正道。疑者,疑不決了。滅諦滅此三種煩惱,即為三滅。道三者,謂戒、定、慧。
次に、苦しみの三種類を観じる。すなわち、三界を苦しみと観じるのである。
欲界を観じるのは「苦苦」である。色界を観じるのは「壊苦」である。生じ、住し、止まることがなく、楽が壊れる時、すなわち苦しみとなるゆえに壊苦という。無色界を観じるのは「行苦」である。生じ、住し、壊れる三つの時、すべてが苦しみである。
しかし、衆生には二つの道がある。悪道は苦しみであり、善道は楽である。この二辺を捨てたものを涅槃という。この心には行があり動きがある。ゆえに無常であり、苦しみである。
集諦の三つとは、すなわち三毒であり、また三種類である。すなわち、身見、戒取、疑である。
身見とは、衆生が身見に執着し、常・楽・我・浄があると執着するゆえに、生死に住し、出世の道を修めないことである。戒取とは、正しい道を修めようとしないことである。疑とは、疑って決して了達しないことである。
滅諦は、この三種の煩悩を滅すること、すなわち三つの滅である。道諦の三つとは、戒、定、慧をいう。
次略觀苦為二,謂身、心;又名、色亦是。集二者,十二因緣中謂無明、貪愛。滅此二種為二種滅。道諦二者即定、慧。
次に、苦を観るには二つに分けます。それは身と心であり、また名と色とも言います。集諦の二つとは、十二因縁の中の無明と貪愛を指します。この二つを滅するのが二つの滅諦です。道諦の二つとは、定と慧です。
次略觀苦為一,謂無常為苦。集者,謂不正思惟。滅此思惟為滅。道謂身念處,即總觀四念處名為身念處。又義若自思惟為道諦,不正思惟為集諦,欲令實慧分明故。
次に苦を観ずることを一つに略すとは、無常を苦とすることである。集とは、正しくない思惟をいう。この思惟を滅することが滅である。道とは身念処であり、すなわち四念処を総観することを身念処という。また別の意味では、自ら思惟することが道諦であり、正しくない思惟が集諦である。真実の智慧を明らかにするためである。
作廣略二種觀觀苦,一切法作九分乃至一分,餘三諦亦然。語言及分別熏習有四種方便處。語言熏習者,從忍名乃至自性法處。所言處者,即名為所及境界為處。分別熏習,從相至第一一切修得法。一切修得法處者,從下品至上品相第一一切為處。若人依名為思擇,是名語言熏習;若人離名句等直思擇義,是名分別熏習。
是顯識顯後兩識。兩識者:一四種言說識、二自他差別識,顯此兩識。餘七種識及分別識,此八種識緣語言熏習得起。又兩識:一身識、二受者識。及自他異識,此三識緣身見熏習得生。又善惡生死識,緣有分熏習得起。如是諸識,是名一切三界唯有識也(義疏九識第三合簡文義有兩:一明識體、二明識用。一識體者,出《唯識論》)。
論曰:一切三界唯有識。問曰:一切法只是三界,何用二言?答:兩義。一者分段是三界變易是界外,四種生死是一切也,二者廣言一切是。何謂十方?十方非三界,故云一切三界也。今唯有識者,上七種死唯識所顯現,離識無別體,故言三界唯有識也。界者自性義。自性有兩:一者不雜義,欲性異色,色非無色也。二者性是不改不轉為義,欲為欲、色為色、無色為無色,善惡亦爾,三性不改為義。唯有識者,離識無有別境也。由識見有似塵,離識塵無體也。
論曰:何者為識?所謂三界。
釋曰:前明離識無三界,此明離三界無識。又前明二識用。
論曰:識有二種,一顯識、二分別識。
釋曰:初一是本識,本識顯六塵也。次一是六識,六識分別此異彼也。又前一明所緣,後一明能緣。就顯識有二種迴轉:一迴轉作六塵、二迴轉作五根。次分別識迴轉作似我。如是意執二識計我也,即陀那與意識共作我見。陀那執本識起我體相,意識分別計我有種種差別用故。一切法不有不無,由六塵有六識,不可定無也;離六識無六塵,不可定有。又一切法不可定說有亦不可定說無也,人法二我不實故不可說有有,人法二空真實故不可言無。又義一切法決定有決定無,人法決定無,此人法二空是決定有。此三悉共顯俗是有、顯真是無。二明識用。
論曰:此分別識若起,安立熏習力於阿梨耶識中。
釋曰:熏習力者,譬如燒香熏習衣,香體滅而香氣猶在衣中名為熏衣。此香不可言有,香體滅故;不可言無,香氣在故,故名為熏。如六識起善惡,留在熏力於本識中,能得未來報,名為種子。若小乘義,正量部名為無失,譬如券約。故佛說偈:
「諸業不失, 無數劫中, 至聚集時,
與眾生報。」
摩訶僧祇柯部名為攝識,即是不相應行。譬如誦經,初一遍未得,第二遍誦攝前第一,如是乃至第十遍誦通利時即通攝前九。如是初識能變異在第一,如是乃至第九變異在第十中,第十能攝前九,即此第十變異之用名為攝識。有前九用,故不失前九也。薩婆多部名同隨得,同者與數處時等相應長,隨者與三性不相妨,而得者不失義,同亦不失、隨亦不失。譬如摩斗樓,此言榆華,取洛柯汁謂赤色汁,點摩斗樓華鬚,華鬚與赤色俱,後結實成熟則有赤色出,是名同時修得。赤色至果不失,故名同。同前有赤色出,是名同修得。赤色至果不失故名同,前來至後不失名隨,隨最後顯故名得也。若是他毘梨部名有分識。有者三有,即三界也。亦有七有:一中有、二生有、三業有、四死有,通前三有為七有也。慾色二界具四有,若無色界無中有。中有者,正辯名為向生處。處者,有因緣名處也。如十二因緣有支,是事有故是事有,是事生故是事生。有者是因,因有二:一前因、二同時因。如橘子生芽,是前時因,芽生則有並橘。同時因,行緣識、識緣名色、名色緣六入、六入緣觸受等是同時。所以言是事有故是事有者,為破外道生有義。外義云:一切眾生從自在天我有,故生死是有,言內義同。今破由前因生故得生。汝自在天無有,非生生死,有是生故,不得是有。故不得是有,故是有也。故佛立義是事有即有生,汝自在天是有,非是生生,不同內義。乃至從世性、微塵等生亦爾。又外道立無因有果,果自然生。故破外道,此物有是因有,故果事是也。所以明二義者,為明因緣具故得生。若此物有,故此物有是緣。若此物生故此物生,是明因義。有分者,生處即是生因生緣。此有分識體,是果報法,決是自性無記也。
四有者,從識支至六歲是生有;從七歲已上能分別生熟起貪至未捨命是業有;死有者唯一念中有即中陰。就業有中,六識起三種業,善、不善、不動等三業。有為有為有分識,所攝持六識自謝滅,由有分識攝持力用在。
問曰:何故立有分識?一期生中常緣一境,若生人天,此識見樓觀等事報。若起六識,用麁覆障,則不覺此識用。若生惡道,此識但緣火車等。若報起六識用強,則不覺此識緣也。若欲界六識緣欲境,凡夫不能覺,乃至無色亦然。若無色諸識滅,此有分識用則顯,如梨耶及意識也。
言種子者,此相續變異,能感未來果報,是名種子。相續無變異亦非種子,若但變異無相續亦非種子;相續變異不相離,故成種子。如螺白色非一非異。若白色是螺,螺則無三塵;若白色異螺,則見白色不得螺故。不可言定異,以不異故,名白螺也。相續變異亦爾,故成種子。緣此熏習力,本識未來得生者。
釋曰:緣熏習力種子若成,本識得生;緣未來顯識,未來分別六識得生也。是故生死無前後者。若離煩惱,業則不得生。若生死有前分,則別有前分眾生處起煩惱業感前分處;既無前分眾生起業,則無有前分生死,故知生死無始無初。四義明無。初一非本,若眾生初無後有者,此無不作有本,有二種過失:一者若無不能生後,若能生有則非無;二者平等過失,若虛空花生有事者,可得從無生有。二者不見離欲眾生生故,生死無初也。若生死初無貪欲等,後方有貪欲等者,離欲阿羅漢等無欲亦應生欲;以是羅漢更不生欲故,知生死無初。三者修行梵行無用故,故生死無初。一切聖人修八聖行,為滅令不生修梵行,離欲人更不生滅故,故知生死無初。四者生死有二種,一惡報、二善道。是善惡由善惡二因,不得無因。是生死初為善道、為惡道?若善道者,未有善因;若惡道者,未有惡因。離善惡二道,更無第三道故,知無初也。
難曰:初者自然不用因緣,後者須因緣。若爾者,是義不然。有二過:一即理不平等故、二因果不相似。若汝說生死不由因,後由因者則不平等,初後皆是生死,何故一由因、一不由因?二不相似者,果亦有因、因亦有因,因果皆有因故得相似,若相似能生同類。汝若前無因故,後亦應無因。若前無因、後有因者,則不能生。若能生者,豆應生麥,麥亦應生豆。而不然者,故知汝前為後果作因,前因不成因也。佛說偈,初句顯識即是梨耶,梨耶則果報識,分別識即是煩惱識。是從果報識起煩惱識,煩惱識即陀那等。次句明從煩惱起識、識起熏習,熏習即是業功能,能轉變本識成種子識也。次句從業起果報。次句總結生死輪轉。輪轉者,以不定故,或因轉作果、或果轉作因也。
所言熏習有二種者下,為顯二義:一顯生死方便名為邪亦名違逆,二顯涅槃方便名正亦名隨順。執著分別性者,一切諸法有三種性:一分別性、二依他性、三真實性。分別性者,名言所顯諸法。依他性者,一切諸法因果道理所顯。真實性者,一切諸法如如性。分別者,無相為其性。依他者,無生是其性。所言性者,自有五義:一者自性種類義,一切瓶衣等不離四大種類義,同是四大性,是自性義。二者因性義,一切四念處聖法所緣道理,緣此道理能生聖法,亦是因義。三者生義,若物無生則性不可見,生義可見,故性訓生。五分法身是生性義。如來正說眾生信樂生三種信:一信有真實道理、二信得五分法身功德、三自利利他德備修五分身。五分身生則顯至得性故,故五分法身生以此為性義。四不壞義,此性在凡夫不染、在聖不淨,故名不壞。五祕密藏義,親近則行淨、乖違則遠離。此法難得幽隱,故名祕密,即名藏義。生有四種:一觸生,如男女交會有子。二嗅生,如牛羊等類,雌雄有欲心,雄以鼻嗅雌等根則便有子。三沙生,如雞雀等,雌雀起欲心,以身坌塵沙之中,而有卵等生子。四聲生,如鶴孔雀等類,有欲心聞雄鳴聲,亦生卵生子。一切出卵不可食,皆有子也。分別性是無有空,分別無法可得故。依他性是不如空,如是破所執。真實性是自性空,無人法二我,是自性空也。復次分別性如空花,是極無。依他性異空花,似幻化非空有無,觀依他性不有不無故,能得道成聖。空無是斷,觀空無不能得道成聖。一切煩惱別執著分別性,一切諸法欲樂觀習真實性。執著、觀習此二屬依他性。此二種法是名熏習:一煩惱種子熏習、二道種子熏習也。第二熏習增長本識者,以同類故。本識緣如如起四謗,是虛妄熏習。種子、煩惱同是虛妄,是故熏習能增長本識。譬如甜物能增長淡,淡亦是甜性,同性故能增長。具足諸能者,明業有四種:一被作不被長,如利智人遇惡知識起不善業是作,復即追悔故不被長。二被長不被作,如羞慚人隨人修行,此善被增轉廣,不能自起若心故不作。三亦作亦長者,如人作善業復恒數習,此善業轉廣大也。四不作不長者,即無漏善業。若轉增長生死報名為作者,無漏能除生死,作者故不長。前三是業,後一分非。就前三中,取第三句亦作亦長,故云具足諸法。能生六趣者,即能得六趣生死果報,生阿梨耶識因。此生死圓滿身因熏習方便故生死得成,故云此因義生死圓滿。第二觀習真實性,觀三種無性是名觀習真實性。觀有四用:一者除觀、二滅觀、三證觀、四修觀。觀如如是苦諦性性,三諦亦然。觀四諦如如具四用,觀如如滅苦滅集,觀如如即證滅,會如如即修道也。能除執著分別性者,分別於無中作有,真實觀者顯有無與自性相違故云除。分別性是第一熏習被損壞者,現在被損、未來被壞。若損集諦,苦亦被損。阿梨耶識被損者,本有七重苦諦,三界即為三重。三重被損竟,阿梨耶識是受果報本,雖無惑業所引,不復入三界生,而在無流界中四種生死內受生,如是乃至無有生死位也。梨耶被損故受生亦被損。何以故?顯識是分別識,因顯識被損故,知分別識亦被損。此分別人我及六塵等識,又已滅盡,何止被損耶!今言被損者,據淨品為語。此與本識俱盡也,是阿梨耶能下者可滅除也。
顯識論