本無品第十四
第十四章 本無の章
善業白佛言:「諸法隨次無所著,無想如虛空,是經無所從生,諸法索之無所得。」
善業が仏に申し上げた。「諸々の法は、順を追って進んでも、何一つ執着するところがありません。その想いも虚空の如く、この経典もまた、どこから生じたということもありません。諸々の法を求めて探しても、得るものは何もないのです。」
愛欲天子、梵天子言:「善業所為,如如來教,但說虛空慧。」
愛欲天子と梵天子が申し上げました。「善い行いによる教えは、如来の教えのとおりでございます。ただ、虚空の智慧についてお説きください。」
善業言:「如來是隨如來教。何謂隨教?如法無所從生為隨教,是為本無,無來原亦無去迹。諸法本無,如來亦本無無異。隨本無,是為隨如來本無。如來本無立,為隨如來教。與諸法不異,無異本無。無作者,一切皆本無,亦復無本無,等無異。於真法中本無,諸法本無,無過去當來今現在,如來亦爾,是為真本無。闓士得本無如來名,地為六震,是為如來說本無,是為弟子善業隨如來教。復次,五陰、溝港、頻來、不還、應儀、緣一覺不受,是為隨教。」
善業が言いました。「如来は、まさに如来の教えに従っておられます。では、『教えに従う』とは何でしょうか。諸法は生じることもなく、そのまま法のままに従うことを『教えに従う』といいます。これはすなわち『本無(ほんむ)』であり、来たる源もなく、去る跡もありません。すべてのものは元から無であり、如来もまた元から無であって、違いはありません。この『本無』に従うこと、それが如来の『本無』に従うことです。如来は『本無』に立っておられるので、それが如来の教えに従うことなのです。諸法と異なることはなく、異なることのない『本無』です。作り手はなく、すべては本無であり、さらに『本無』そのものもなく、等しく異なることはありません。真実の法においては本無であり、諸法は本無で、過去・未来・現在という区別もありません。如来もまた同じです。これが真の『本無』です。菩薩がこの本無を得て如来の名を得ると、大地は六種に震動します。これが如来が説く本無であり、これが弟子の善業が如来の教えに従うということです。さらに、五陰、預流、一来、不還、阿羅漢、独覚も執着しないこと、これが『教えに従う』ことです。」
秋露子白佛言:「本無甚深,天中天!」
舎利弗が仏に申し上げました。「本来(本無)というのは、まことに深遠でございます。天中天(仏)よ。」
當說本無時,二百比丘得應儀,五百比丘尼得溝港道,五百諸天人皆得無所從生法樂於中立,六十闓士新學得應儀道。
そのとき、本無(ほんむ)について説かれるや、二百人の比丘は阿羅漢(あらかん)の位を得、五百人の比丘尼は預流果(よるか)の道を得た。また、五百の天人たちは、すべて無生法忍(むしょうほうにん)の喜びの中に安住し、六十人の新しく学ぶ菩薩たちは、阿羅漢の道を得た。
佛語秋露子:「是六十人過世時,各供養五百佛,皆布施、持戒、忍辱、精進、棄定、不知空。雖空,不得明度、變謀明慧之護,今皆墮應儀道中。闓士有道得空,無色無願,不得明度、變謀明慧,便中墮彼兩道。譬若大鳥,其身二萬里,無翅,從天上自投,中欲還,寧能不?」
仏が舎利弗に語られた。「この六十人の者たちは、過去世においてそれぞれ五百の仏に供養し、みな布施、持戒、忍辱、精進、禅定を修行したが、空を理解しなかった。空を説いても、般若波羅蜜(智慧の完成)と善巧方便(巧みな手段)の保護を得なかったので、今はみな阿羅漢の境地に堕ちてしまった。菩薩は道を得て空・無相・無願を体得しても、般若波羅蜜と善巧方便を得なければ、結局その二つの境地(声聞と縁覚)に堕ちてしまう。たとえば、長さ二万里もある大鳥が、翼がなくて、天から自ら飛び降り、途中で戻ろうとしても、それは可能だろうか?」
對曰:「不能。」
答えは「できません」。
「至地,欲令身不痛,寧能不痛乎?」
「地に至ろうとする時、自分の体が痛まないようにしたいと願うけれど、本当に痛まないようにできるだろうか?」
對曰:「不能。或悶、或死。何以故?其身大而無翅。正使闓士如恒沙劫作布施、持戒、忍辱、精進、求色定,不入空、不入明度,不得變謀明慧,心大起索佛道,一切欲作佛,便中道得應儀、緣一覺。若於佛所,具如上行,又聞佛一切智,皆念求如色,是為不持如來戒定慧,不知一切智,但聞聲心相,如聞耳,便從是作無上平等最正覺,會不能得,便中道墮彼。何以故?不得深法故。」
答えて言う。「できません。あるいは気を失い、あるいは死ぬでしょう。なぜなら、その身は大きくて翼がないからです。たとえ菩薩が恒河の砂の数の劫もの間、布施・持戒・忍辱・精進を行い、色界の禅定を求めても、空に入らず、般若波羅蜜に入らず、巧みな方便である智慧を得なければ、心に大きく仏道を求める思いを起こし、一切の者をして仏になろうとしても、途中で阿羅漢や縁覚の位に留まってしまうでしょう。もし仏のもとで、前述のような行を完全に行い、また仏の一切智について聞いても、すべて色のごとくに求めるならば、それは如来の戒・定・慧を保つことにならず、一切智を知らずに、ただ声や心の表象を聞くだけで、耳で聞くのと同じようにして、それによって無上平等の正覚を成そうとしても、結局は得られず、途中でそこに堕ちてしまうでしょう。なぜなら、深い法を得ていないからです。」
秋露子白佛言:「如佛所說,念中慧闓士離深法,便得應儀、緣一覺。若真欲得無上正真道最正覺者,當學明度、變謀明慧。」
秋露子(舍利弗)對佛說:「如同佛所說的,在禪定中修習智慧的菩薩,若能遠離深奧的法義,就能證得阿羅漢或緣覺的果位。如果有人真正想要成就無上正等正覺、圓滿覺悟的佛果,就應當學習般若波羅蜜多,以及善巧方便的智慧。」
愛欲天子、梵天子白佛言:「難曉明度無上正真道。」
愛欲天子と梵天子が仏に申し上げた。「無上の正しい真理を得る智慧(明度)は、理解し難く、悟り難いものでございます。」
善業言:「難了,天中天!如我念是惠者,無上正真道易得耳。何以故?無有,當何從得佛。何以故?諸法皆空,索法不可得。當作佛者,索法無所得。是求佛易得耳。」
善業が申し上げました。「難しくて理解しがたいことでございます、天中天よ。私がこの智慧を思うならば、無上の正しい真実の道は得やすいものでございます。どうしてでしょうか。何もないのですから、どこから仏を得ることができましょうか。どうしてでしょうか。すべての法は空であり、法を求めて得ることはできません。仏になろうとする者が法を求めても、得るものは何もありません。それゆえ、仏を求めることは易しいのでございます。」
秋露子言:「如所說者難得。何以故?空不念當作佛。是法如虛空,設易得者,何以恒沙闓士皆逮?」
秋露子尊者说:“像您所说的法门,实在难得。为什么呢?因为空性并不想着要成佛。这个法如同虚空一样,如果容易获得的话,为什么像恒河沙那么多的菩萨们,都已经证得(却仍然视之为难得)呢?”
報言:「云何,用五陰逮乎?」
お答えします。「どのようにして五陰(心と体の五つの要素)によって悟りに達するのですか?」
曰:「不也。」
「いいえ、そうではありません。」
「離五陰逮乎?」
五蘊を離れていますか?
「不也。」
「いいえ、そうではありません。」
「云何?」
「どういうことですか?」
秋露子曰:「五陰本無,寧逮乎?」
秋露子が言った、「五蘊はもともと存在しないものだ。それにどうして捕らわれることがあろうか。」
曰:「不也。」
「いいえ、そうではありません。」
「離之有法逮者不?」
曰:「不也。」
「云何,是本無使逮不?」
曰:「不也。」
「離之有法使逮不?」
曰:「不也。是法不得何所法使逮者。」
秋露子曰:「如子所說,大士等遊都無逮者。佛說三有德之人求應儀、緣一覺、至佛道。於三不計三,為求一道。如善業所說。」
滿祝子語秋露子:「善業說一道,當問。」
秋露子言:「說一道,我用是故問。」
答曰:「云何,於本無中見三道耶?」
曰:「不見也。何以故?從本無中不可得三事。」
善業言:「本無一事得乎?」
曰:「不也。」
「於本無中得一道乎?」
曰:「不也。」
善業言:「設是諦不可得者,何故復說應儀、緣一覺、佛?如所說道,本無無異,聞本無心不懈怠,是必得最正覺。」
佛言:「如爾無異,持佛威神,使若說本無等無異。」
秋露子問:「何等為覺?」
佛言:「無上正真道即是也。」
善業問佛:「何等為成就於闓士?」
佛言:「一切人皆等視,慈心加哀,不得瞋恚。作是立,當作是學。」