三慧經
三慧経
失譯人名今附涼錄
失訳者名 今涼録に付す
佛常欲得三人:一者、信;二者、問;三者、行。或有人但信不喜,已作為信,不欲行為。
仏は常に三種の人を得ようと願っています。第一は「信じる人」、第二は「問う人」、第三は「行う人」です。しかし、信じるだけで喜ばず、すでに信じていながら実践しようとしない人もいます。
喜有三亡:一者、不布施;二者、不行戒;三者、不定意。
楽しみが三つ失われることがあります。一つ目は、施し(とくに他の人へ与えること)をしないことです。二つ目は、戒律(道徳的なルール)を守らないことです。三つ目は、心を安定させない(瞑想などで集中しない)ことです。
當滅思想乃得道,要在不念。已滅思想,色亦滅,識亦滅。心有所念,是為四所有對,是為想——當有想、當無想、不離想、當離想。不出想,還就。當有想者,謂道想;當無想者,謂無色想;不離想者,謂不離經行想;當離想者,當離生死想;不出想,謂無道想,不出十二門;還就者,謂人生死,便不得脫。
想いを滅するべきである、そうして道に至るのである。肝要なのは、何も思わないことである。想いを滅し終えれば、色も滅し、識も滅する。心に想うことがあれば、それは「四有対」であり、これが「想」である。すなわち、想うべきこと、想うべきでないこと、想いを離れないこと、想いを離れるべきこと、そして想いを出さずに戻って執着すること、である。 想うべきこととは、道についての想いであり、想うべきでないこととは、無色界についての想いである。想いを離れないこととは、経行(歩く瞑想)の想いを離れないことであり、想いを離れるべきこととは、生死(迷いの世界)の想いを離れるべきことである。想いを出さないとは、道についての想いがなく、十二の入り口(感官と対象)から出ないことである。戻って執着するとは、人が生死の輪廻に落ち込んで、そこから解脱できないことである。
身譬如地,善意如禾,惡意如草。不去草穢,禾實不成;人不去惡意,亦不得道。人有瞋恚,是為地生蒺䔧。善意如電,來即明,去便復冥;邪念如雲覆日時,不見己惡意起,不見道。
人の身体は大地のようなものです。善い心は穀物の種、悪い心は雑草のようなものです。雑草を取り除かなければ、穀物は実りません。人が悪意を捨てなければ、道を得ることもできません。怒りの心が起これば、それは大地にいばらが生えるようなものです。善い心は稲妻のようなもので、訪れればたちまち周りを明るく照らし、去ればまた暗闇に戻ります。邪な思いは雲が太陽を覆うようなもので、自分の悪意が生じていることに気づかず、道も見えないのです。
學者,有苦;不學者,無有苦。學者有苦,譬如人種,當先犁去草穢,便多得收,是為先苦;不學者無有苦者,譬如地不犁續,自生蒺䔧諸惡物,是為不學無有苦。
学ぶ者には苦しみがある。学ばない者には苦しみがない。 学ぶ者に苦しみがあるとは、たとえば人が作物を育てるのに、まず犁(すき)で草や雑草を取り除き、それによって多くの収穫を得る——このように、先に苦しみがあるということである。 学ばない者に苦しみがないとは、たとえば田畑を耕さずにそのままにしておけば、自然にいばらや悪い草が生えてくる——このように、学ばないことには苦しみがない(が、後に大きな苦しみをもたらす)ということである。
行道,第一、可禁苦;第二、可禁樂;三者、不可禁苦;四者、不可禁樂。能樂得樂,便行道;能苦得苦,便行道。
修行の道には四つの場合があります。第一に、苦しみを禁じることができる場合。第二に、楽しみを禁じることができる場合。第三に、苦しみを禁じることができない場合。第四に、楽しみを禁じることができない場合。楽しみを得て楽しむことができれば、そのまま修行の道を歩みます。苦しみを得て苦しむことができれば、そのまま修行の道を歩みます。
有人行道得苦,便畏生死,能行道如是,不可與樂。
ある人は修行して苦しさを覚え、人生や死を恐れるようになる。そうして修行を続ける者には、快楽を与えてはならない。
有人得樂能行道,意不苦,如是不可與苦。
楽を得る人が道を行じるとき、心に苦しみはなく、このように苦しみに染まることはありません。
有人得樂能行道,得苦亦能行道,如是可與樂,不可與苦。
楽しみを得ても修行でき、苦しみを受けても修行できる。そのような者には楽しみを与えるべきだが、苦しみを与えてはならない。
有人得苦不能行道,得樂亦不能行道,如是當與苦,不可與樂。
苦しみに遭っても道を行えず、楽しみに遭っても道を行えない人には、そのような場合、楽しみを与えるべきではなく、苦しみを与えるべきである。
都有四求:一者、用身故求;二者、用願故求;三者、用癡故求;四者、用行故求。人欲保身、長壽,是為身求;欲得豪貴、妻子、珍寶,是為願求;祠祀、鎮壓,欲從得福,是為癡求;所行非法,欲家安隱得道,是為行求。
人には4つの求め方がある。 第一に、身体のために求めること。 第二に、願いのために求めること。 第三に、無知のために求めること。 第四に、行いのために求めること。
人が身体を保ち長寿を得ようと願うのは、身体のための求めである。 富貴や妻、珍宝を得ようと願うのは、願いのための求めである。 祭祀やまじないを行って福を得ようとするのは、無知のための求めである。 正しくない行いをしながら、家の安泰や悟りを得ようとするのは、行いのための求めである。
人有三不可保:一者、喜意;二者、財寶;三者、人命。身亦可念,亦不可念;計身諸惡露是為可念,意墮五樂是不可念。
人には三つの頼りにならないものがある。第一は喜びの心、第二は財産や宝物、第三は人の命である。身体もまた、執着すべき時とそうでない時がある。身体の様々な汚れ(不浄)を観察することは執着すべきであり、心が五つの楽しみ(五感の快楽)に落ちることは執着すべきではない。
善亦可念,亦不可念。謂得道意,是可念;不可念者,謂以得道意,當轉增上。惡亦可念,亦不可念。有過自悔,是可念;意起墮惡,是不可念。捨正念邪,是為惑;不別是非,是為疑。惡有二事:一為本,二為利。所作行是為本,受行福是為利,除是便得道。
善いことも念じるべきであり、また念じるべきではない。 つまり、悟りの境地を得たならばそれは念じるべきである。 しかし、悟りの境地を得た後に、さらに向上しようとすることは念じるべきではない。
悪いことも念じるべきであり、また念じるべきではない。 過ちを犯して自ら悔いるならば、それは念じるべきである。 しかし、悪い心が起きたならば、それは念じるべきではない。
正しい念を捨てて邪な念に心を向けること、これが惑いである。 善悪の区別がつかないこと、これが疑いである。
悪には二つの要素がある。第一に根本、第二に利益である。 行うところの行為が根本であり、その行為によって受ける福が利益である。 これらを除き去れば、悟りを得ることができる。
貪護謂已得復貪。念色為貪上,為非一意滅,故護貪為得道,貪護為墮生死。已得復護,故為貪護。
貪りを守るとは、すでに得たものに再び欲しがることです。色に対する執着が貪りの最たるものであり、心が一つにならないからこそ滅ぼすべきなのです。ゆえに、貪りを守るとは悟りを得ることのように見えて、実際は生死を繰り返す原因となります。すでに得たものを再び守ろうとするから、これを貪りの守りと呼ぶのです。
樂食者,謂歡喜。飽念食者,謂念三十七品經便飽。識食者,謂樂法。已隨痛痒為栽求,後復念為識求。
楽しんで食べるとは、喜びをもって味わうこと。満ち足りた思いを食べるとは、三十七道品の教えを心に刻んで満たされること。気づきを食べるとは、真理の教えを喜ぶこと。すでに感じ取った痛みや痒みを糧にして、それを越えた後に再び思うのが気づきを求める糧である。
一切世俗事皆屬身,一切名字皆屬意,一切不犯皆屬戒,除是無所有為道。一法復壞道行,謂不精進;一法壞人,謂慳貪。
あらゆる世俗のことは、すべて身体に関わる。 あらゆる名前や呼び名は、すべて心に関わる。 あらゆる過ちを犯さないことは、すべて戒めに関わる。 それらを除いた、何ものにもとらわれないことこそが道である。 一つのことが道の修行を損なう——それは“怠けること”である。 一つのことが人を損なう——それは“欲深く惜しむこと”である。
外惡因緣來向人,不受為忍;自身作惡,不出為辱己。過去莫復念,未來亦莫待,今見在當斷。非人所有,莫得憂;一切有意,皆為結。
外から悪い因縁が人に訪れても、それを受け止めずにいるのが「忍」です。自分自身で悪を行いながら、それを改めないことが、自分を辱めることなのです。過去のことは追わず、未来のことも待ち望まず、今この瞬間にあることを断ち切りなさい。自分が所有していないものについて心配してはなりません。あらゆる執着の心こそが、束縛のもとなのです。
有善意亦忘,有惡意亦忘。復用三因緣故:一者、不習念;二者、不數念;三者、不著意倒。是三事不復忘。
善い行いをしたことも、悪い行いをしたことも、忘れてしまうことがあります。これには三つの理由があります。第一に、繰り返し思い起こさないこと。第二に、何度も心に留めないこと。第三に、意識を集中してしっかりと心に刻まないこと。この三つのことをしないと、忘れてしまうのです。
從有可得無,有不可得有,是謂三十七品經意。生死意,生死無有數,所以覺者,種忘故。本意欲坐行道十日,不能竟十日,前世福薄故。多福者,欲十日坐行便得。身不欲行,用劣瘦極故;意不欲行,不念死、敗、苦、空故。
「有から無を得ることができるが、有の中に無を見出すことはできない。これが三十七道品の教えの真意である。
生死の心は数えきれないほどある。それに気づくのは、繰り返しの執着を忘れてしまうからだ。本来、十日間の修行をしようと決意しても、十日をまっとうできないことがある。それは前世の善い行いが足りなかったからだ。
善い行いを積んだ人は、十日間の修行をしようと思えば、すぐに成就する。
体が修行したがらないのは、疲れ果てているからだ。心が修行したがらないのは、死、衰え、苦しみ、空っぽであることを本当に理解していないからである。」
智慧有四相:一者、聞善語便不轉;二者、已聽便受著意;三者、已意當思惟念;四者、意已思惟念,復重問欲知其意。倒是少慧。
智慧には四つの特徴があります。 第一に、善い言葉を聞けばすぐに心が揺れ動かないこと。 第二に、聞いたことをしっかりと心に受け止めること。 第三に、受け止めたことを自分の心で深く考えること。 第四に、考えたことをさらに確かめるために、その意味を詳しく尋ねること。 これらがなければ、それは浅い知恵です。
有五百人行道,得定意,恐復失之,因取人令殺。人報言:「殺道人,令我得重罪。」道人言:「如人有怨家,欲殺之;不是身,為是我怨家,汝為我殺。佛言:『當殺意,勿殺身。』」
五百人の修行者が悟りの境地に達したものの、それを失うのを恐れて、ある人に「自分を殺してほしい」と頼みました。その人は答えました。「修行者を殺せば、私は重い罪を負うことになります。」すると修行者は言いました。「例えば、人に恨みを持つ敵がいるとして、その敵を殺したいと思うでしょう。しかし、本当に殺すべきなのは肉体ではなく、この心の中の敵(恨みの心)なのです。仏はこう教えています。『殺意を殺せ。肉体を殺すな』と。」
有道人得定意,時野火燒之,衣不然。人見之,謂是鬼,便斫之,刀折不入。用心一故,不燒;柔軟故,不入。
ある修行者が瞑想に入っていると、野原で火事が起きてその人を包み込んだが、衣服は燃えなかった。それを見た人が、これは鬼だと思い、刀で切りつけたが、刀は折れて切れなかった。心を一つに集中させていたから火に焼かれず、心が柔らかだったから刀も通らなかったのである。
有道人得定意,弟子呼之飯,不覺。因前牽臂,臂申丈餘,弟子大恐,因取結之。意結不可,復取解之。師禪覺,苦臂痛,問弟子,白如是。師言:「汝不解者,誤折我臂。」人得定意,柔軟如綿,在母腹中亦爾。
ある修行者が深い禅定に入りました。弟子が食事に呼びかけても気づきません。そこで弟子は師の腕に触れました。すると、腕が1丈以上も伸びてしまいました。驚いた弟子は腕を縛って元に戻そうとしましたが、うまくいきません。そこでまた縛りを解こうとしました。師が禅定から覚めると腕が痛み、弟子に事情を尋ねました。弟子が説明すると、師は言いました。「もし君が縛りを解かなかったら、私の腕は折れてしまっただろう。」禅定に入った人の身体は綿のように柔らかく、母親の胎内にいる赤ん坊のような状態になるのです。
有三因緣,覺人無所知:一者、問不如對;二者、不能問;三者、不能語。
三つの理由により、人は無知であることを悟る。第一に、問われても適切に答えられないこと。第二に、自ら問うことができないこと。第三に、言葉を発することができないこと。
取要要經譬喻說:人逢大水,但當取珍寶去,喻人在世間但當取善意去。
要約を取った経典の譬え話です。人が大水に遭ったなら、ただ珍宝だけを取って去るべきです。これは、人がこの世にあるなら、ただ善い思いだけを取って去るべきであるという譬えです。
不所念,不得道。何以故?不念道因緣。有道因緣,能得道。謂六波羅蜜、安般守意、三十七品經,是為道因緣。
念(おも)わなければ、道は得られない。なぜなら、道を求める縁(よすが)がないからだ。道を求める縁があってこそ、道は得られる。その道の縁とは、六波羅蜜、安般守意(あんぱんしゅい)、三十七品経である。これらが道を生み出す縁なのである。
有五因緣可信:一者、信佛;二者、信法;三者、信戒;四者、信經;五者、信善知識。信是五事,得道。
信ずべき五つの因縁があります。一つ目は仏を信じること、二つ目は法を信じること、三つ目は戒律を信じること、四つ目は経典を信じること、五つ目は善知識(良い教師)を信じることです。この五つを信じることで、悟りの道を得られます。
語有四法:一者、直語;二者、分別語;三者、問語;四者、止語。直語者,有黠人墮道得因緣直說。分別語者,為所以所受不諦,當分別本末重語說。問語者,人自意為是,墮因緣問之即自知。止語者,佛所不說,亦不說。
言葉には四つの方法があります。第一に「率直な語り」、第二に「分析する語り」、第三に「問いかける語り」、第四に「沈黙の語り」です。
「率直な語り」とは、賢い人が道理にかなった因縁を得た時、そのまま率直に説くことです。
「分析する語り」とは、受け取った教えが真実ではない場合に、その原因や背景を詳しく分析して、繰り返し説明することです。
「問いかける語り」とは、人が自分の考えが正しいと思っている時、因縁に従って問いかけることで、自ら気づかせることです。
「沈黙の語り」とは、仏が説かれなかったこと、そして説かないことです。
有四因緣問:一者、一切問;二者、分別問;三者、問問;四者、止問。一切世間非常、苦、空,行道得安隱已,說是為應語,是為一切問。若人求問眼事,莫持耳往報,是為分別問。若人持白物來言是黑物,因持黑物問之見為何等?是為問問。若人來問道何類?因報寒何等類;若問意何等類?因報風何等類;若問無為何等類?因報空何等類。是止問。
問答には四つの因縁があります。第一に「一切問(あらゆることについての問い)」、第二に「分別問(区別して問うこと)」、第三に「問問(問いそのものを問うこと)」、第四に「止問(問いを止めること)」です。
「一切の世間は無常であり、苦しみであり、空である。修行によって安らぎを得た」と説くことは、道理にかなった言葉であり、これが「一切問」です。
もし人が眼について尋ねてきたなら、耳の話で答えてはなりません。これが「分別問」です。
もし人が白いものを持って来て「これは黒いものだ」と言い、その黒いものについて「これは何か」と問うならば、これが「問問」です。
もし人が道とはどのようなものかと問うてきたなら、寒さとはどのようなものかと答える。もし心とはどのようなものかと問うなら、風とはどのようなものかと答える。もし無為とはどのようなものかと問うなら、空とはどのようなものかと答える。これが「止問」です。
有四顛倒:一者、非常,人意以為常;二者、以苦,人謂樂;三者、萬物皆空,人謂為實;四者、非身,貪以為有身。人墮顛倒如是,非常計常,以苦為樂,以空為實,非身以作身。人如是意,便得道。
四つの逆転した考え方があります。第一に、無常であるものを常だと思うこと。第二に、苦しみであるのに楽しいと考えること。第三に、すべてのものは空であるのに実在すると考えること。第四に、真の自己ではないものを自己だと執着すること。人はこのように逆転した考え方に陥り、無常を常と見なし、苦しみを楽とし、空を実在とし、自己でないものを自己とします。このような考え方を捨てると、悟りの道に至ることができます。
人意墮四顛倒故,計是為我身。諦挍計身中無所有;已無所有,便墮空;已墮空,便為無身;已無身,便墮無為。
人は四つの顛倒した見解に陥っているため、これを「自分の身体」だと思い込んでいます。しかし、身体をよく観察すれば、その中には実体は何もありません。実体がないと気づけば、執着は消え去ります。執着が消えれば、自分という固いものはなくなり、自分がないと気づけば、それは無為の境地に至ることになります。
人有四癡,常著四顛倒:一者、萬物非常,自以為常;二者、天下皆苦,人持作樂;三者、天下空,人以為有;四者、身非身,不可保,人以為身;五者、月始生時拜;六者、十五日盛明時,反踞視之;七者、女小時從人抱;八者、女大不可得見。
人は四つの愚かさを抱え、常に四つの倒錯した見方に執着しています。第一に、万物は無常であるのに、自らを常であると思い込むこと。第二に、世の中はすべて苦しみであるのに、人はそれを楽しみとする。第三に、世の中は実体がない空であるのに、人は実体があると思う。第四に、この身は本当の自分ではなく、永遠に保てないのに、人は自分自身のものだと思う。第五に、月が生まれ始める時を拝むこと。第六に、十五日で満月に輝く時、あえて逆さまになってそれを見ること。第七に、女の子が幼い時は人の抱くままにさせること。第八に、女の子が成長すると、もはや会うことができなくなること。
有四貴,亦有四賤:一者、道貴,人賤;二者、珍寶貴,人賤;三者、官位貴,人賤;四者、黠貴,癡賤。
四つの「尊いもの」と四つの「卑しいもの」があります。 第一に、道は尊く、人は卑しい。 第二に、宝は尊く、人は卑しい。 第三に、官位は尊く、人は卑しい。 第四に、賢さは尊く、愚かさは卑しい。
阿難言:「人得善知識,為得佛半!」佛言:「人得善知識,為得佛道。善知識難得!」
阿難が言いました。「善い友を得ることは、仏道の半分を得るようなものです。」 すると仏はお答えになりました。「善い友を得ることは、仏道そのものを得ることなのです。善い友に出会うことは、本当に難しいことなのです。」
何謂為道德?信為道;制身、口、意為德。
道徳とは何か? 信念が道であり、身・口・意を制することが徳である。
人當有三知識:一者、富家;二者、事貴;三者大尊者。以布施是為富家,以持戒為事貴者,守意念道為是事大尊者。
人には三つの知識あるべきです。第一は裕福な家系、第二は高貴な行い、第三は大いなる尊さです。施しを行うことにより裕福な家系となり、戒律を守ることにより高貴な行いとなり、心を保ち道を念じることが大いなる尊さとなるのです。
有內治生、外治生:索錢財、諸珍寶是為外治生;守意念道是為內治生。人不能自伏意,反欲伏他人意;能自伏意,他人意悉可伏。
内なる生計と外なる生計がある。金銭や宝物を求めることは、外なる生計である。心を守り、道を念じることは、内なる生計である。人は自分の心を制御できずに、かえって他人の心を制御しようとする。自分の心を制御できるならば、他人の心もすべて制御できるのである。
有內力、有外力,有內色、有外色,有內識、有外識。能制惡意,是為內力;能有所作,舉重瞋恚,是為外力。痛痒、思想、生死、識是為內色;地、水、火、風、空是為外色。意念為內識,眼見為外識。
内なる力と外なる力がある。内なる色と外なる色がある。内なる識と外なる識がある。悪意を抑えられるのが内なる力であり、何かをなすために重い怒りを起こさせるのが外なる力である。感覚、思考、生死、認識が内なる色である。地、水、火、風、空が外なる色である。意念が内なる識であり、眼に見えるものが外なる識である。
有四事大難:一者、與得道人共會大難,謂十二賢者;二者、聞經入心難,謂在八難處;三者、如本觀難,謂墮四顛倒;四者、如法行難,謂不能持戒。
四つの大きな難事があります。第一は、悟りを得た人と出会うことの難しさ—これは十二人の賢者を指します。第二は、教えを聞いて心に刻むことの難しさ—これは八つの苦難の境遇にあることを指します。第三は、物事を本来の姿のままに見ることの難しさ—これは四つの間違った見解に陥ることを指します。第四は、教えの通りに実践することの難しさ—これは戒律を守ることができないことを指します。
有五事,求道大難:一者、年老;二者、疾病;三者、縣官;四者、盜賊;五者、飢渴。是為五事,求道大難。
道を求める者には、五つの大きな困難があります。 第一に、年老いること。 第二に、病にかかること。 第三に、役所の取り調べや刑罰を受けること。 第四に、盗賊に襲われること。 第五に、飢えと渇きに苦しむこと。 これら五つが、道を求める上での大きな障りなのです。
有五事難:一者、值佛世難;二者、聞經難;三者、得善師難;四者、得善人難;五者、得作人難。
五つの難しいことがあります。第一に、仏の出世に遇うことは難しい。第二に、経典を聞くことは難しい。第三に、善き師を得ることは難しい。第四に、善き人を得ることは難しい。第五に、人として生まれることは難しい。
有五難:一者、貧,能布施難;二者、豪貴,能忍辱者難;三者、有事對吏,不欺者難;四者、與端正女人同床,意不亂者難;五者、制人命,不得傷害者難。
五つの難しいことがあります。第一に、貧しい者が布施をすることは難しいです。第二に、富貴な者が忍辱をすることは難しいです。第三に、役人と向き合うときに欺かないことは難しいです。第四に、端正な女と同床しても心が乱れないことは難しいです。第五に、人の命を握っていながら傷つけないことは難しいです。
有七難:一者、受經,能問難;二者、聞經,解意難;三者、與多智人對語,能自解難;四者、自教,復能教人者難;五者、自安隱,亦令人安隱難;六者、己自定意,亦令人定意難;七者、常不離法,至得佛道難。
七つの難しいこと: 第一に、経典を受けて、それについて問いを発することができることは難しい。 第二に、経典を聞いて、その意味を理解することができることは難しい。 第三に、多くの智を持つ人と対話して、自ら理解することができることは難しい。 第四に、自ら教え、さらに他人を教えることができることは難しい。 第五に、自ら安らかであり、また他人をも安らかにすることができることは難しい。 第六に、自ら心を定め、また他人の心をも定めさせることができることは難しい。 第七に、常に真理を離れず、ついに仏道を得ること(までの道のり)は難しい。
有十八事,人於世間甚大難:一者、值佛世難;二者、正使值佛,成就得為人難;三者、正使成得為人,在中國生難;四者、正使在中國,種姓家難;五者、正使在種姓家,四支、六情完具難;六者、正使四支、六情完具,有財產難;七者、正使得財產,得善知識難;八者、正使得善知識,智慧難;九者、正使智慧,謹慎心難;十者、正使謹慎心,能布施難;十一、正使能布施,欲得賢善有德人難;十二者、正使得賢善有德人,往至其所難;十三者、正使往至其所,得宜適難;十四者、正使得宜適,聽問難;十五者、正使受聽問,說忠政難;十六者、正使忠政,解智慧難;十七者、正使得解智慧,能受深經難;十八者、正使能解深經,復重難。是為十八事,人於世間大難。
世の中に生きる者にとって、次の十八のこと(は)非常に難しい。
一、仏が世に現れる時に出会うことは難しい。 二、たとえ仏に出会えても、人間として生まれられることは難しい。 三、たとえ人間として生まれても、仏法の盛んな中央の国に生まれることは難しい。 四、たとえ中央の国に生まれても、良い家柄に生まれることは難しい。 五、たとえ良い家柄に生まれても、手足や五感・心がすべて整っていることは難しい。 六、たとえ手足や五感・心が整っていても、財産を持つことは難しい。 七、たとえ財産を持っても、善い知識(師や友人)に出会うことは難しい。 八、たとえ善い知識に出会っても、智慧を得ることは難しい。 九、たとえ智慧を得ても、慎み深い心を持つことは難しい。 十、たとえ慎み深くても、布施を行うことは難しい。 十一、たとえ布施ができても、賢く善く徳のある人に出会うことは難しい。 十二、たとえ賢く善く徳のある人に出会っても、その人のもとへ行くことは難しい。 十三、たとえその人のもとへ行っても、ふさわしい時や機会を得ることは難しい。 十四、たとえふさわしい機会を得ても、教えを聞こうとすることは難しい。 十五、たとえ教えを聞いても、忠実で正しい行いを説くことは難しい。 十六、たとえ忠実で正しくても、智慧を理解することは難しい。 十七、たとえ智慧を理解しても、深い経典を受け入れることは難しい。 十八、たとえ深い経典を理解できても、それを繰り返し修行することは難しい。
以上が、世の中において非常に難しいという十八の事柄である。
有八處人,佛無那何?一者、瘂人;二者、聾人;三者、地獄中人;四者、餓鬼中人;五者、畜生中人;六者、邊地不知法義;七者、長生二十八天上;八者、受不精進行。是為八處人,佛無那何。
八つの場所にいる人は、仏陀でもどうにもできません。 一つ目は、唖の人。 二つ目は、聾の人。 三つ目は、地獄にいる人。 四つ目は、餓鬼にいる人。 五つ目は、畜生にいる人。 六つ目は、辺境の地で仏法の教えを知らない人。 七つ目は、長く二十八天に生まれている人。 八つ目は、不真面目な修行をする人。 これら八つの場所にいる人は、仏陀でもどうにもできないのです。
有五百人自說言:「我善。」佛言:「汝當善,當隨我後。」人言:「諾!」佛便行入火中,五百人皆止住,無敢隨者,言善人至難得。
五百人が口々に「私は善人です」と言いました。 すると仏は言われました。「汝らがもし善人であるなら、私についてきなさい。」 人々は「はい」と答えました。 そこで仏は火の中へ歩み入られました。 すると五百人はみな立ち止まり、従う者は一人もいませんでした。 「やはり本当の善人というのは、至って得難いものだ」と。
有人問佛:「佛教人作善,何等益?」佛言:「天下人惱,我故教之耳!」
ある人が仏に尋ねました。「仏は人々に善を行うよう教えていますが、その教えにはどのような利益があるのでしょうか?」
仏は答えました。「世の人々が苦しみ悩んでいるから、私は彼らを教え導いているだけなのだ。」
人復言:「人有心,當恣之。」佛言:「坐天下人恣心故,我止住百劫,乃得佛道。」
またある人が言いました。「人には心があります。だから思いのままにさせるべきです。」 仏は答えました。「世の中の人々が心のままに行動するからこそ、私は百もの劫(長い時間)にわたって修行を続け、ようやく仏の道を成就したのです。」
道有七事:一者、意喜布施不欲餘;二者、但欲聞;三者、但信;四者、但持戒;五者、但欲行;六者、欲學慧;七者、但欲脫去。
道には七つのことがあります。第一に、喜んで施しをしたいと願い、それ以外を望まないこと。第二に、ただ教えを聞こうとすること。第三に、ただ信じること。第四に、ただ戒律を守ること。第五に、ただ実践しようとすること。第六に、智慧を学ぼうとすること。第七に、ただ解脱を求めていくこと。
佛在世時得脫,轉後世但學慧,復轉後世但欲行,復轉後世但持戒,復轉後世但信,復轉後世但欲聞,復轉後世但欲布施。不但布施當復聞,不但聞當復信,不但信當復持戒,不但持戒當復行,不但行當復慧,不但慧當復脫去,是七事當并行。
仏陀が在世の時代には、人々は悟りを得ることができました。 しかし、後の世になると、人々は智慧だけを学び、 また後の世には、実践だけを志し、 また後の世には、戒律だけを守り、 また後の世には、信仰だけを持ち、 また後の世には、教えを聞くことだけを望み、 また後の世には、施しだけを行おうとしました。
しかし、施しだけでは足りず、さらに教えを聞くべきです。 ただ聞くだけでは足りず、さらに信仰を持つべきです。 ただ信仰するだけでは足りず、さらに戒律を守るべきです。 ただ戒律を守るだけでは足りず、さらに実践すべきです。 ただ実践するだけでは足りず、さらに智慧を得るべきです。 ただ智慧を得るだけでは足りず、さらに悟りへと至るべきです。 この七つの修行は、並行して行わなければなりません。
有五叢殘:一者、上世人長壽,今世人短壽;二者、上世人端正桃華色,今世人醜惡;三者、上世人多得道,今世人不能得;四者、上世人博達,通知經要,今世人不能通知;五者、上世人安隱,今世人多疾瘦。是為五叢殘世。
五つの衰退が世の中にあります。
第一に、昔の人は長生きでしたが、今の人は短命です。 第二に、昔の人は桃の花のように美しかったのに、今の人は醜くなりました。 第三に、昔の人は悟りを得た人が多かったのに、今の人は得られません。 第四に、昔の人は教えに詳しく経典の要点をよく知っていましたが、今の人は十分に知ることができません。 第五に、昔の人は穏やかで安らかでしたが、今の人は病気や悩みが多くなりました。
これらが五つの衰退した世の中です。
有長壽者道人,大富,財產無數,好作布施。有人言:「卿作布施大多!」道人報言:「我從佛聞,人在世間往來生死,其日不可數。今我所有布施,尚不能日用一錢,何以為多!佛說人得一切天下珍寶,不如聞佛一言。何以故?徒多財產,不能離世間故。」
ある長寿の修行者がおり、大変裕福で財産が無数にあり、施しを好んで行っていました。 ある人が言いました。「あなたは施しをしすぎです!」 修行者は答えて言いました。「私は仏から聞きました。人が世の中に生まれ変わり死に変わりする間、その日の数は数えきれないものです。今私が行っている施しすべてを合わせても、まだ一日に一銭を使うことにもなりません。どうして多いと言えるでしょう!仏は説かれました。人がこの世のすべての宝物を手に入れても、仏の一言を聞くことには及ばない、と。なぜなら、ただ財産が多いだけでは、世の中を離れることができないからです。」
山中揭鳥,尾有長毛,毛有所著,便不敢復去,愛之恐拔,罷為獵者所得,身坐分散而為一毛故。人散意念恩愛、財產,不得脫苦,用貪婬故。人治生,譬如蜂作蜜,採取眾華,勤苦積日,已成,人便攻取持去,亦不得自食,適自疲極。人東走西走,求是作是,合聚財寶,勤苦不可言。已命盡,他人得其財,身及得重罪,受苦不可量。人在世間,譬乘泥船渡河,當浮渡,船且壞。人身如泥船不可久,當疾行道。
山中の鳥がおり、尾に長い毛がある。その毛が何かに触れると、鳥はそれを離れることができなくなる。毛を引き抜かれるのを恐れて愛着するあまり、ついには狩人に捕らえられ、その一筋の毛が原因で体を引き裂かれてしまう。
人間もまた、思いや愛情、財産に心を奪われ、苦しみから逃れられない。それは貪欲と情欲のためである。
人の生き方は、まるで蜂が蜜を作るようなものだ。多くの花を集め、長い間苦労してようやく蜜を完成させる。すると、人々がそれを奪い去り、蜂自身は食べることもできず、ただ疲れ果てるだけである。
人は東へ西へと走り回り、あれを求めこれを為し、財宝を集めることに勤しみ、その苦労は言葉に尽くせない。しかし、命が尽きれば、他の者がその財を手にする。そして自身は重い罪を得て、計り知れない苦しみを受けるのだ。
人がこの世にあるのは、泥の船に乗って川を渡るようなものだ。浮かんで渡っている間に、船はやがて壊れてしまう。人の身は泥の船のように長くは持たない。早く道を求めよ。
金有四試:一者、燒;二者、磨;三者、鍛;四者、鍊。譬喻人亦有四試:一者、嬈;二者、共從事;三者、色;四、為制不止。
金には四つの試し方がある。第一に焼くこと、第二に磨くこと、第三に鍛えること、第四に錬ることである。人の場合にも四つの試し方がある。第一に惑わすこと、第二に共に行動すること、第三に外見、第四に制御しきれないことである。
欲得人相,有四因緣——一者、與共居;二者、共居當久;三者、當共語言;四者、共事——可以知之。
人の相を知りたいと思うなら、四つの因縁がある――第一に、共に居ること。第二に、共に長く居ること。第三に、共に語ること。第四に、共に事をなすこと――これによって知ることができる。
有四因緣知為道人:一者、聞惡亂意,即時轉念;二者、不說人惡;三者、自不墮論議;四者、能自護。如是知為道人自護。
仏道を歩む人には、四つの特徴がある。 第一に、悪い言葉や心を乱すものに触れても、すぐに心を切り替えられること。 第二に、他人の欠点や悪口を言わないこと。 第三に、無意味な議論に陥らないこと。 第四に、自らの心と行いをしっかりと守れること。 この四つを備えている者が、真の求道者であり、自らを護る者なのである。
今世四因緣乃受福:一者、有處;二者、有時;三者、業;四者、師。人有所止,得安隱、如意,是為處。如人年三十當富,十五時求不可得,至三十乃得,是為時。若人宜賈白珠亦餘物,從得利,是為業。遭得明人分別說經,心即開解,是為師。
世の中で幸せを得るには、四つの因縁がある。 第一に「場所」、第二に「時」、第三に「行い」、第四に「師」である。
人が落ち着ける場所があり、安心して思い通りに生活できること、それが「場所」である。 たとえば、人が三十歳で富を得る運命にあるとしても、十五歳の時にそれを求めても得ることはできない。三十歳になって初めて得られる。これが「時」である。 また、人が白い真珠や他の品物を売ることで利益を得る、それが「行い」である。 そして、賢明な師に出会い、経典の教えを説かれ、心が開けて理解できるようになること、それが「師」である。
有兄弟三人,各自謂高健無輩,共更持夜,二兄居前臥,小弟便獨坐。有一虫,名為不吉,來嚙其髀。弟便以手指之,虫便長大,復捶益大。其人瞋恚,取虫蹙踏,自致疲極,虫益大不止,其人便止休。一夜已竟,便呼仲兄起,虫復嚙之,兄復如小弟與共鬪,虫更長大至屋,如是疲極,復止休。二夜竟,便呼大兄起坐,虫復嚙之。大兄便持手指摩娑,虫復起,兄生意以㼜覆之,須臾極,虫便出㼜去。至明日二弟極不能復起,兄知二弟與虫共鬪,便問:「何以不起?」二弟慚不敢語。兄言:「與虫共鬪極耶?」弟言:「然!」兄語弟言:「後儻有不吉虫來,但以㼜覆之,不當指也!」譬喻如癡人得對,便瞋恚,從得罪。如弟與虫鬪,自致疲極。黠人見對來,便避之,是得福,譬如㼜覆不吉虫。
三人の兄弟がいた。それぞれが自分こそ最も強く、並ぶ者はいないと自負していた。ある夜、交代で起きて見張りをすることになった。最初の夜、上の二人の兄が先に横になり、末の弟が一人で座っていた。
そこに「不吉」という名の虫が現れ、弟の腿を噛んだ。弟は指でその虫をはじいたが、虫はかえって大きくなった。さらに拳で強く打つと、ますます大きくなった。弟は怒り、虫を踏みつけたが、自分が疲れ果てるだけで、虫は大きくなり続けて止まらない。ついに弟は諦めて休んだ。
一晩が明け、二番目の兄を起こした。するとまた虫が兄を噛んだ。兄も弟と同じように虫と格闘したが、虫は家の大きさほどにまで成長し、兄も疲れ果てて休んだ。
二晩が過ぎ、今度は一番上の長兄を起こして座らせると、再び虫が噛みついた。長兄は指で虫を優しく撫でた。虫がまた大きくなろうとした時、長兄は瓮(かめ)を思いついて、それを虫の上に伏せた。すると間もなく、虫は瓮から抜け出してどこかへ去って行った。
翌朝になると、下の二人の弟たちは疲れ果てて起き上がれなかった。兄が「どうして起きないのか」と尋ねると、弟たちは恥ずかしくて答えられなかった。兄は言った。「虫と闘って疲れたのだろう?」弟たちは「はい」と答えた。兄は続けて言った。「これからもし不吉な虫が来たら、ただ瓮をかぶせるがいい。指で触れてはいけない。」
これは譬えである。愚かな者は敵(問題)に直面すると、怒りにかられて争い、それによって自ら苦しみを受ける。それは弟たちが虫と闘って疲れ果てたのと同じである。賢い者は敵が来ると、それから身を避ける。これによって福を得るのである。それは瓮で不吉な虫を覆うようなものだ。
昔有道人為國王說經。王言:「佛在世,多人得道。今同說佛經,人不得道。佛為持道法去耶?」道人言:「譬天下極美不過葡萄酒,飲一升便可醉,持一升水澆一升酒中,飲之不能復醉。佛在世時說經,知人意態,譬如人飲一升酒便得醉,今我輩不知是。佛說經知人意態,應病與藥故,人多得道。」
昔、ある修行者が国王に経典を説いていました。 王が尋ねました。「仏が在世の頃は、多くの人が悟りを得た。今も同じように仏の経典を説いているのに、人は悟りを得ない。仏は、教えの道や法をどこかへ持っていってしまったのか?」 修行者は答えました。「譬えて言うなら、この世で最も素晴らしいものは葡萄酒です。一升飲めば酔うことができます。ところが、その一升の葡萄酒に一升の水を注いでしまえば、飲んでももう酔えなくなります。仏が在世の時に経典を説かれたのは、人の心のあり方をよく知っておられたからです。ちょうど人が一升の葡萄酒を飲めば酔うようなものです。ところが、今の我々はそのことを知りません。仏は経典を説く時、人の心の状態をよく理解し、病に応じて薬を与えるようにされたので、多くの人が悟りを得たのです。」
有國王飯諸比丘,天來指示王,是人得阿羅漢,是人菩薩,是人得道迹,是人不持戒。王悉覺知,持心正等,無有異意,諸天代其歡喜。
ある国王が比丘たちに食事を施しました。すると天人が現れて、王に示しました。「この人は阿羅漢を得た者」「この人は菩薩」「この人は道の跡を得た者」「この人は戒律を守っていない」。王はすべてを見抜きましたが、心を平等に保ち、差別する心を持ちませんでした。天人はそのことを喜びました。
有國王與人共爭高價浴佛,王輒舉高價不止。人言:「今我悉持所有財物、妻子,自身為奴婢,以浴佛。」王便不得。
ある国の王様が、ある人と激しく競り合って高額で仏様に湯灌(ゆかん)をお供えしようとしました。王はどんどん値段を上げて止まりません。その人が言いました。「今、私は持っている財産すべて、妻や子供、そして自分自身を奴隷として差し出し、仏様に湯灌をお供えします。」それを聞いて、王はそれ以上競うことができませんでした。
阿育王作八萬塔,臨命欲絕時,菩薩、阿羅漢有五百人共守護,更為說經,不使諸夫人得近與相見,欲令王上天故。
阿育王は八万の塔を建てました。そして命が尽きようとする時、五百人の菩薩と阿羅漢たちが共に王を守護し、更に経典を説き聞かせました。これは、后妃たちが近づいて会うことを許さず、王を天上に生まれ変わらせようとしたからです。
有小國王常起往伐。大國王思惟言:「亡身得惡,皆從貪愛故。我不如以國與之!」大國王捨國去,作白衣在他國,久後歸故國。有人白言,王便勅左右往捕取,殺之。臨當死時,呼其子囑一言:「慎勿忘也!汝勿念怨家,要當慈心!」
ある小さな国の王が、常に(大国を)攻めようと企てていました。大国の王は考えました。「身を滅ぼし悪を得るのは、すべて貪りの愛着からである。私は国を譲った方が良いだろう。」そこで大国の王は国を捨て去り、他国で平民として暮らしました。長い年月が過ぎて故国に戻ったところ、ある者が(そのことを)王に告げました。王はすぐに家来に命じて(元王を)捕まえ、殺させようとしました。死に臨んだ時、(元王は)我が子を呼んで一言言い遺しました。「決して忘れてはならない。敵を恨んではならない。必ず慈しみの心を持ちなさい。」
有國王治行不平,侵抂人民,受取非法,天為雨不時節。有女人言:「天雨不時節,王治行不平正故。」王以聞知,便呼女人令請雨,以三器著地,女人願,令雨墮中央器中,復令從一頭起,則如其願。王問:「何因緣得是?」女人白言:「我至誠故。」佛言:「有地乃有萬物,人有至誠乃有道。」
ある国王が国政を正しく行わず、人々を虐げ、不正に税を取り立てたため、天は時節をわきまえず雨を降らせました。ある女が言いました。「雨が時節に降らないのは、王の政治が正しくないからだ。」王はこれを聞くと、女を呼んで雨を祈らせました。三つの器を地に置き、女が願うと、雨は中央の器に降り注ぎ、また一端から降り始めました。その願いの通りになりました。王が問いました。「なぜこのようなことが可能なのか?」女は答えました。「私が心から誠実だからです。」仏は言われました。「地があるからこそ万物が存在し、人に至誠があればこそ道があるのです。」
有國王出行,見一女人端正無比,王意欲殺其夫,取是女人。旁臣言:「不當殺,當享之。」王國序其夫,以金指環與之,語言:「忘環者殺汝!」王私呼婦,令盜取環。以後,王呼問其夫環所在,夫求不知處,便勅臣殺之。令美飲食,夫恐,不敢食。人言:「卿當死,何不食?」夫適欲噉魚,因於魚腹中得環,是至誠所至。
ある王が外出した時、一人の非常な美女を見かけました。王は彼女の夫を殺して、その女を自分のものにしようと考えました。側近の臣が言いました。「殺すべきではありません。彼を遇するべきです。」そこで王はその夫を宮中に招き、金の指輪を与えて言いました。「この指輪をなくしたら、お前を殺す。」その後、王は密かに女を呼び、指輪を盗ませました。後日、王は夫に指輪のありかを問いただしましたが、夫はどこにあるかわからず、王は臣に命じて彼を殺そうとしました。その際、ごちそうを出させましたが、夫は恐れて食べることができません。人々が言いました。「もう死ぬ身だ、なぜ食べないのか。」夫が魚を食べようとしたところ、魚の腹の中から指輪が見つかりました。これこそ、誠の心がもたらした奇跡です。
有道人貧窮,舉十萬用治生。便先持三萬布施,持餘錢行賈。途中為賊所抄,王便以珍寶物匃與之。有大囊、小囊,餘人各取大囊去,道人自念言:「我錢少,不宜取大囊。」便取小囊去。其中悉有白珠,賣得六千萬。用至誠不貪故,得是珍寶。
ある修行者が貧しく、生活のため十万の金を借りた。まずそのうち三万を布施し、残りの金で商いに出かけた。道中で盗賊に襲われた時、国王が宝物を施し与えた。そこには大袋と小袋があり、人々はそれぞれ大袋を取っていった。修行者は心の中で考えた。「私は金が少ないのだから、大袋を取るべきではない。」そう思って小袋を取った。その中には白い真珠が詰まっており、売ると六千万の金を得た。誠実で貪らなかったゆえに、この宝を得たのである。
昔有國王徵國中諸盲人,令於象廐中觀象。中有持象足者,中有持象鼻者,中有持象耳者,中有持象尾者。去後共相問:「象何等類?」持象足者言:「象大如柱。」持象鼻者言:「象如繩索。」持象耳者言:「象如簸箕。」持象尾者言:「象如大杖。」皆共諍之,盲人各自信其意。譬如人各見少所經,不了其法,自謂大解,亦如是。
昔、ある国の王様が、国中の目の見えない人たちを集めて、ゾウのいる厩舎でゾウを観察させました。その中にはゾウの足を触った人、鼻を触った人、耳を触った人、尾を触った人がいました。その後、彼らは互いに「ゾウとはどんなものか?」と尋ね合いました。足を触った人は「ゾウは柱のように大きい」と言い、鼻を触った人は「ゾウは縄のようなものだ」と言い、耳を触った人は「ゾウは箕のようなものだ」と言い、尾を触った人は「ゾウは大きな杖のようなものだ」と言いました。皆で言い争いましたが、目の見えない人たちはそれぞれ自分の考えを信じて疑いませんでした。
これは、人がそれぞれ自分がほんのわずかに経験したことだけを見て、その教えの全体を理解できずに、自分は深く悟ったと思い込むのと同じことなのです。
有國王於城外大作伎樂戲,舉國中人民皆出行觀。城中有一家,其父有疾不能行步,家室共扶,將令行,言:「出城便止。」樹下不能自致,語家中言:「汝自行觀,來還乃持我歸。」時天帝釋化作一道人,過其邊,便呼病人:「汝隨我去,我能令汝病愈。」人聞之大喜,便起隨行。釋將上天至宮,見金銀好物甚眾多,欲從求之。人言:「勿得,可求匃瓶。」病人因前到釋所言:「我欲去,願持此瓶匃我。」釋即與之,語病人言:「中有物在,汝所願。」病人持歸,室家相對探之,轉得心中所願,金銀珍寶恣意皆得。大會宗親諸家內外,共相娛樂。醉飽已後,因取瓶跳之:「我受汝恩,令我富饒。」跳踢不止,便墮地破之,所求不復得。
ある国の王が、城外で盛大な音楽や舞踊などの催しを行いました。国中の人々が皆、これを見に出かけました。町の中のある家では、父親が病で歩けませんでした。家族が皆で支え、「町を出たら休もう」と言いながら連れて行こうとしましたが、木の下まで来て自力では行けなくなりました。病人は家族に言いました。「あなたたちは見物に行きなさい。帰りに私を家に連れて帰っておくれ」と。
その時、帝釋天(たいしゃくてん)が一人の修行者の姿に変わり、そのそばを通りかかって病人を呼びました。「私について来なさい。あなたの病気を治してあげよう」と。病人はこれを聞いて大喜びし、立ち上がって従いました。釋は彼を天に連れて行き、宮殿に着くと、金銀や美しい品々がたくさんあるのを見ました。病人はそれらを欲しがろうとしましたが、釋は言いました。「取ってはいけません。代わりに宝の瓶(かめ)を乞うがよい」と。
病人は進み出て釋に言いました。「私は帰りたいのです。どうかこの瓶を私にください」と。釋はすぐにそれを与え、病人に言いました。「中にものが入っています。あなたの願ったものが何でも出てくるでしょう」と。
病人は瓶を持って帰り、家族と共に中を探ってみると、心に願ったものは何でも出てきました。金銀や宝物も思うままに得られました。そこで親族や家の中の者たちを集めて大宴会を開き、共に楽しみました。皆が酔って満腹した後、病人は瓶を取り出して跳ねながら言いました。「お前のおかげで私は豊かになった」と。跳ねたり蹴ったりしているうちに、ついに瓶は落ちて割れてしまいました。それ以降、何も願ったものが得られなくなりました。
世間有黠人多無數,未有如彌勒者。彌勒尚復行學不厭,何況餘乎?佛已得道,坐行安般守意。佛言:「我從無數世以來與不厭,乃得佛。」後世人學當那得佛道!
世の中に賢い人は数えきれないほどいるが、弥勒に及ぶ者はいない。その弥勒でさえ、学びを尽くさずしてやまない。ましてや他の者たちはなおさらだ。仏はすでに悟りを得て、坐って安般守意(呼吸と心を整える修行)を行っていた。仏は言われた。「私は無数の過去世にわたって、この修行を飽きることなく続けてきたからこそ、仏となったのだ。後の世の人々が学ぶならば、どうして仏道を得られないことがあろうか!」
已持戒,不復作惡。有不信意故,復犯戒,便墮地獄。閻王問之,便對言:「我不作惡。」閻王復問:「汝不作惡,何為是中?」
戒律を守り、悪い行いをしなくなった人でも、もし心に確かな信がなければ、再び戒律を破って地獄に落ちてしまいます。
閻魔大王がその者を問い詰めると、彼は「私は悪いことをしていません」と答えます。すると閻魔大王は再び問います。「お前が悪いことをしていないのなら、なぜここにいるのだ?」
有尊者為賊人所折辱。有人言:「何以不殺之?」尊者言:「我人客未具故。」人復言:「我為卿出人客。」尊者言:「不也!我兵今自具如是,二十餘歲殺賊人,被病死。」人復言:「卿不殺之,今反自死!」尊者言:「我兵馬以具。何故?癡人當入地獄,是為兵馬具。」
ある尊師が賊に辱められた。ある人が言った。「どうして彼を殺さないのですか?」尊師は答えた。「私には、まだ準備が整っていないからです。」その人はまた言った。「私があなたのために準備を整えましょう。」尊師は言った。「いいえ。私の兵はすでに備わっています。この二十年余りの間、人を殺した賊は、病気で死にました。」その人はまた言った。「あなたが彼を殺さなかったのに、今度はあなた自身が死ぬのですか!」尊師は言った。「私の軍勢はすでに整っています。なぜなら、愚かな者は地獄に落ちる。それが軍勢の備えなのです。」
問曰:「何等為能知一萬事畢?」報曰:「一者謂無意、無念,萬事自畢。意有百念,萬事皆失。」
問う:「何を『一を知れば万事が終わる』というのか?」答え:「一とは、無意・無念のことである。そうすれば万事は自然に成就する。心にさまざまな思いがあれば、万事はすべて失われる。」
有道人夜行前未得道,人隨其後。後人有疑悔,前人舉手,五指頭出火,復以鑰開戶,後人乃覺悟,知為道人。
修行を終えていないある修行者が夜道を歩いていました。すると、その後ろから人がついてきました。 その後ろの人は疑いと後悔の念を抱いていました。 すると、前を行く修行者が手を挙げると、五本の指の先から火が吹き出しました。さらに、鍵を使って戸を開ける様子を見せました。 それを見た後ろの人はようやく悟り、この人が修行者であると知ったのです。
說:「經有六衰,有人言七衰,屋舍衰獨非衰耶?」佛謂人言:「我復饒汝一衰,癡為大衰。何以故?人說身事,反說屋舍,是為癡。」
ある人が言いました。「経典には『六つの衰え』があると説かれていますが、ある人は『七つ』だとも言います。家の衰えだけは衰えではないのでしょうか?」
仏はその人に言われました。「あなたのために、もう一つ衰えを加えてあげよう。『無知(おろかさ)』こそが大いなる衰えである。なぜなら、人は身体に関することを尋ねられているのに、家のことを答える。これこそが無知というものだ。」
有人墮海中,有人教食水盡,可得步出。人言:「我已飲,後水復來!」世俗如是,前後相趣不可極。
海に落ちた人がいて、ある人が「水を飲み干せば、歩いて出られる」と教えました。するとその人は言いました。「私はもう飲んだのに、また次の水がやって来る!」この世も同じです。前のものが去り、後のものが次々と訪れて、尽きることがないのです。
人欲相見,有四緣:一者、其人端正故;二者、宿命相愛;三者、名聞;四者、欲聞深經。安為知是隱為自藏?自藏者,不見惡態。
人が互いに会いたいと思うのには、四つの因縁があります。第一に、その人の見た目が整っているから。第二に、過去世からの縁で愛し合っているから。第三に、名声を聞いているから。第四に、深い教えを聞きたいと思うからです。では、「安らかでいること」とは、知りながらも自らを隠すことなのでしょうか?自らを隠すとは、悪い姿を見せないことです。
世間凡有千八道——佛一切已知,前世皆已學——從是不得道,故索知。
世の中には、実に千八百もの道がある。 仏はそれらすべてをすでに知っていた。 前世において、それらをすべて学んできたのだ。 だからこそ、その道では悟りを得ることはできないと知っている。 ゆえに、それらを求めることをしない。
問:「人語時,聲先生耶,意先生乎?」報:「意先生。何以?意覺聲,聲不能覺意故。」
問い:「人が話すとき、声が先に生じるのですか、それとも意識が先に生じるのですか?」 答え:「意識が先です。なぜなら、意識が声を知覚しても、声は意識を知覚できないからです。」
有人持珠度海,失亡其珠。人便持木斗,𭡾水棄岸上。海神言:「汝當何時盡是水?」人言:「生死棄之不置。」海神知其意大,出珠還之。
ある人が数珠を持って海を渡ろうとしたところ、数珠を落としてしまった。その人は木の枡を持ち出し、海水を汲んでは岸に捨てた。海の神が言った。「お前はいつになったらこの水をすべて捨て終えるつもりだ?」 人は答えた。「たとえ生まれ変わろうとも、この探索をやめることはない。」海の神はその人の強い意志を知り、数珠を取り出して返してやった。
三慧經
三慧経