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四諦論 (四諦論)


四諦論略說品第二

第二品 四諦の概要

問:四諦次第云何?答:

問:四諦の順序はどのようになっているのですか? 答: まず「苦諦」があります。これは私たちの人生には、苦しみや悩みが満ちているという現実を教えています。 次に「集諦」です。これは苦しみの原因は、私たちの執着や欲望にあることを示しています。 三番目に「滅諦」があります。これは苦しみを完全に乗り越えた、本当の安らぎの境地があることを説いています。 最後に「道諦」です。これはその安らぎに至るための具体的な実践の道を示しています。 この順序は、まず現状を正しく認識し、その原因を理解し、目指すべき理想を知り、最後にその方法を学ぶという、実践的な流れになっています。

麁橫重結所, 依道怖事果,
病火怨衣債, 熱毒逼害境。

粗く横たわる重い結びつきの所、 道に依り、怖れ、事、果。 病、火、怨み、衣、借金、 熱、毒、逼り、害する境。

欲顯麁大境故說苦諦。得苦相已,此法何因生?故說集。此法盡何處?次說滅。此法因何得?故次說道。復次無始橫網是名苦,橫根名集,永離橫根是名為滅,能拔除者說名為道。復次極重名苦,執重名集,捨名滅,能滅執名道。復次結處名苦,是結名集,結盡名滅,觀過名道。復次取亦如是。復次依處名苦,世間凡夫雖為取陰所害,猶起依著,如依怨家謬為親友。依所安愛名集,因此安愛住三有獄不求出離,譬如狂囚。無依愛名滅,無方所依止故。如《瞿提經》說:能滅依愛名道,觀依過故,如觀燒屋。復次六道名苦,以無樂故,猶如穢廁。業煩惱名集,為道因故。離道名滅,無假名物故,譬如火滅。如《鹿頭經》說:能引出諸道,故名為道。如《婆羅呵馬王經》說。復次怖畏名苦,我愛名集,無畏處名滅,上實樂故運至無畏處名道。復次作事名苦,事因名集,拔除事因名滅,能拔名道。復次似果名苦,似種子名集,似種子壞名滅,似種子壞因名道。復次苦如病,集如病因,滅如無病,道如治病藥。復次苦如火,集如薪,滅如火盡,道如火盡因。復次似怨名苦,結恨名集,除結恨名滅,能除因名道。復次似衣名苦,似塵名集,塵淨名滅,淨因名道。復次苦如債,集如貧,滅如離貧,道如財物。復次苦如燒熱,集如燒熱因,滅如清涼,道如涼具。復次苦毒發,集諦如毒,滅如離毒,道如阿伽陀。復次苦如逼惱,集如能惱,滅如離惱,道如離惱因。復次苦如殺害,集如能害者,滅如離殺,道如離殺因。復次苦應知,集應除,滅應得,為此三事故修聖道。次第如此。四諦體相云何?偈曰:

苦諦とは、粗大な境涯を明らかにするために説かれる。 苦しみの相を理解したならば、ではこの苦しみは何によって生じるのか? —— それが集諦である。 その苦しみはどこで尽きるのか? —— 次に滅諦が説かれる。 この苦しみを滅するには、どのような道によるのか? —— ゆえに道諦が説かれる。

また、始まりのない迷いの網を「苦」と名づけ、その迷いの根を「集」と名づけ、 その迷いの根を永遠に離れることを「滅」と名づけ、 その迷いの根を抜き去る力を「道」と名づける。

さらに、非常に重いものを「苦」と名づけ、 その重みに執着することを「集」と名づけ、 その執着を手放すことを「滅」と名づけ、 執着を滅する方法を「道」と名づける。

また、縛りのあるところを「苦」と名づけ、 その縛りそのものを「集」と名づけ、 縛りが尽きることを「滅」と名づけ、 その過ちを観察することを「道」と名づける。

また、執取についても同じである。

また、よるところを「苦」と名づける。 世間の凡夫は、執取の陰に害されながらも、なおそれに依りすがる。 あたかも怨敵を誤って親友と思い込むように。 その依りすがる愛着を「集」と名づける。 その愛着によって三界の牢獄に留まり、出離しようとしない。 それはさながら狂った囚人のようである。 依りすがる愛着のないことを「滅」と名づける。 方所に依ることがないからである。 『瞿提経』に説かれているように、依りすがる愛着を滅することができること ―― それを「道」と名づける。 その依りすがる過ちを観察するからである。例えて言えば、燃える家を観察するようなものである。

また、六道を「苦」と名づける。 楽しみがないからである。それはまるで汚れた便所のようなものである。 業と煩悩を「集」と名づける。 それらが苦しみの道の原因となるからである。 その苦しみの道を離れることを「滅」と名づける。 仮に名づけられたものがないからである。あたかも火が消えたようなものである。 『鹿頭経』に説かれているように、あらゆる道から導き出すことができること、それを「道」と名づける。 『婆羅呵馬王経』に説かれている通りである。

また、恐れを「苦」と名づけ、 我執(自己愛)を「集」と名づけ、 恐れのない境地を「滅」と名づける。 そこには優れた真実の楽しみがあるからである。 その恐れのない境地に至らしめるものを「道」と名づける。

また、作り出される働き(結果)を「苦」と名づけ、 その働きの原因を「集」と名づけ、 その原因を取り除くことを「滅」と名づけ、 取り除く力を「道」と名づける。

また、結果に似たものを「苦」と名づけ、 種子に似たものを「集」と名づけ、 種子が壊れることに似たものを「滅」と名づけ、 種子を壊す原因に似たものを「道」と名づける。

また、「苦」は病のようなものであり、 「集」は病の原因のようなものであり、 「滅」は病のない状態のようなものであり、 「道」は病を治す薬のようなものである。

また、「苦」は火のようなものであり、 「集」は薪のようなものであり、 「滅」は火が消えることのようなものであり、 「道」は火を消す方法のようなものである。

また、怨敵に似たものを「苦」と名づけ、 恨みを結ぶことを「集」と名づけ、 恨みを取り除くことを「滅」と名づけ、 その取り除く原因を「道」と名づける。

また、衣类(頼りとするもの)に似たものを「苦」と名づけ、 塵(汚れ)に似たものを「集」と名づけ、 塵が清められることを「滅」と名づけ、 清める方法を「道」と名づける。

また、「苦」は借金のようなものであり、 「集」は貧困のようなものであり、 「滅」は貧困から離れることのようなものであり、 「道」は財物のようなものである。

また、「苦」は焼け焦げる熱さのようなものであり、 「集」はその熱さの原因のようなものであり、 「滅」は清涼なことのようなものであり、 「道」は涼を得るための道具のようなものである。

また、「苦」は毒が発することのようなものであり、 集諦は毒そのもののようなものであり、 「滅」は毒を離れることのようなものであり、 「道」は阿伽陀(万能の解毒薬)のようなものである。

また、「苦」は苦しめられることのようなものであり、 「集」は苦しめる原因

似真理足品, 有為相影識,
虛妄一切三, 逼有等十二。

真理のごとく見えるものに心を奪われ、 あらゆる現象は影のようなものと知れ。 虚妄なるものすべては三つに分類され、 強制的な存在など、十二の種類があると説かれる。

有諸法師說真似二諦:生者貪愛果,故名為真苦;道者業果,名為似苦。生因貪愛,名為真集;牽六道業;名為似集。生因愛盡,名為真滅;六道因盡,名為似滅。能滅生因正智,名為真道;戒等方便能離道因,說名似道。又理足論師說:識為真苦,與此相應色等亦名為苦;自愛名真集,與此相應業等亦名為集;自愛盡為真滅,由此盡故餘盡亦名為滅;正見名真道,若此不生餘不至滅,由此生故餘亦名道。又假名部說:諦有三種,一苦品、二品諦、三聖諦。苦品者,謂五取陰苦。品諦者,逼惱為相苦。聖諦者,是苦一味。集品者謂貪愛集,品諦者能生為相,集聖諦是集一味。滅品者謂沙門果,滅品諦者寂靜為相,滅聖諦者一味為相。道品者謂八分聖道,道諦者直離為相,道聖諦者一味為相。又分別部說:一切有為皆苦,由無常故,非初諦故苦。為離此故,於世尊所修淨梵行,是苦聖諦。一切因皆名集,以能生故,非第二諦故集。為斷此故,於世尊所修淨梵行,是集聖諦。一切有為寂離名滅,由寂靜故,非第三諦故滅。為證此滅,於世尊所修淨梵行,是滅聖諦。一切善法皆是道,能出離故,非第四諦故道。為習此道,於世尊所修淨梵行,是名聖諦。又說執相為煩惱,煩惱及煩惱所起業名集,若從此有有名集聖諦,有生名苦聖諦,如此從第二諦生第一諦。若心捨離執相達無相界,由此因故煩惱,煩惱所起業斷,由此斷故無復因緣,有不更生,此不更生名滅聖諦。此法能令心捨離執相證無相界,是正見等名滅道聖諦。如執相,餘影似道妄分別等亦如是。又《分別論》中說:世尊不依一切苦假說苦諦。若爾,何為為顯無記果?執取陰性體相故假說苦諦、假說苦因法。為別離此故,於世尊所修淨梵行,是真苦諦。不依一切因假說集諦,為顯能生後有因性體相故,假說集諦、假說集因法。為斷此故,於世尊所修淨梵行,是真集諦。不依一切滅假說滅諦,為顯輪轉道斷性體相故,假說滅諦、假說滅因法。為證至故,於世尊所修淨梵行,是真滅諦。不依一切道假說道諦,為顯能除惑道性體相故,假說道諦因法。為修此故,於世尊所修淨梵行,是真道諦。又《藏論》說:略明苦有二種,一與憎會、二與愛離。此二二處,一身、二心。因愛三種故,則成三苦。集諦有三,愛、見及業。愛見二惑名為後集,由此已有業麁妙集。滅諦有三,一見一處惑滅、二欲一處惑滅、三有一處惑滅。道諦有三,一見道、二修道、三成守道,此三即三根。復說:苦者逼相,集者生相,滅者寂靜相,道者能出離相。復說:苦者有相,集者能有相,滅者離相,道者能離相。

様々な法師が、真の二諦と似て非なる二諦を説いています。すなわち、生は愛欲の果報であるから、これを真の苦と名付けます。道(修行の道)は業の果報であるから、これを似た苦と名付けます。生は愛欲を因とするから、これを真の集と名付けます。六道の業を牽くから、これを似た集と名付けます。生の因である愛欲が尽きることを、真の滅と名付けます。六道の因が尽きることを、似た滅と名付けます。生の因を滅ぼす正しい智慧を、真の道と名付けます。戒などの方便で道の因から離れることを、似た道と名付けます。

また、理足論師は次のように説きます。識を真の苦とし、これと対応する色なども苦と名付けます。自己愛を真の集とし、これと対応する業なども集と名付けます。自己愛が尽きることを真の滅とし、これが尽きるゆえに他のものが尽きることも滅と名付けます。正見を真の道とし、これが生じなければ他も滅に至らず、これが生じるゆえに他も道と名付けます。

また、仮名部は次のように説きます。諦には三種ある。一に苦品、二に品諦、三に聖諦である。苦品とは、五取陰の苦である。品諦とは、逼悩を相とする苦である。聖諦とは、苦そのものである。集品とは貪愛の集であり、品諦とは生を起こすことを相とし、集聖諦とは集そのものである。滅品とは沙門果であり、滅品諦とは寂静を相とし、滅聖諦とはそのままの相である。道品とは八つの支分からなる聖道であり、道諦とはまっすぐに離れることを相とし、道聖諦とはそのままの相である。

また、分別部は次のように説きます。全ての有為は苦である。それは無常であるからであり、第一諦だから苦なのではない。これを離れるために、世尊のもとで清らかな梵行を修める。これが苦聖諦である。全ての因は集と名付けられる。それは生を起こすことができるからであり、第二諦だから集なのではない。これを断つために、世尊のもとで清らかな梵行を修める。これが集聖諦である。全ての有為が寂滅し離れることを滅と名付ける。それは寂静であるからであり、第三諦だから滅なのではない。この滅を証得するために、世尊のもとで清らかな梵行を修める。これが滅聖諦である。全ての善法は道である。それは出離できるからであり、第四諦だから道なのではない。この道を修習するために、世尊のもとで清らかな梵行を修める。これを聖諦と名付ける。

また、ある者は、執着する相を煩悩とし、煩悩と煩悩から生じる業を集と名付け、これより有が生じることを集聖諦とし、生を受けることを苦聖諦として、このように第二諦から第一諦が生じると説く。もし心が執着する相を捨て離れて無相の界に達するならば、この因によって煩悩と煩悩から生じる業は断たれ、この断によってもはや因縁がなく、再び生まれることはない。この再び生まれないことを滅聖諦と名付ける。この法は心に執着する相を捨て離れ、無相の界を証得させる。これが正見などであり、滅道聖諦と名付ける。執着する相と同様に、他の影や似た道、妄分別などもまた同じである。

また、『分別論』にはこう説かれています。世尊は一切の苦に依って仮に苦諦と説くのではない。では、何のためか。無記の果報を示すためである。取の陰の性質や体の相を捉えて、仮に苦諦、苦因の法と説くのである。これを別離するために、世尊のもとで清らかな梵行を修める。これが真の苦諦である。一切の因に依って仮に集諦と説くのではない。後の有を生じさせる因の性質や体の相を示すために、仮に集諦、集因の法と説くのである。これを断つために、世尊のもとで清らかな梵行を修める。これが真の集諦である。一切の滅に依って仮に滅諦と説くのではない。輪廻の道が断たれる性質や体の相を示すために、仮に滅諦、滅因の法と説くのである。これに至るために、世尊のもとで清らかな梵行を修める。これが真の滅諦である。一切の道に依って仮に道諦と説くのではない。惑いを除く道の性質や体の相を示すために、仮に道諦、道因の法と説くのである。これを修めるために、世尊のもとで清らかな梵行を修める。これが真の道諦である。

また、『蔵論』にはこう説かれています。苦を大まかに説くと二種ある。一には嫌なものと会うこと、二には愛するものと離れることである。この二つには二つの場所がある。一つは身、二つは心である。愛には三種があるから、三つの苦が成立する。集諦には三つある。愛、見、および業である。愛と見の二つの惑いを後集と名付け、これによってすでに業の粗妙な集がある。滅諦には三つある。一に見の一つの場所の惑いが滅すること、二に欲の一つの場所の惑いが滅すること、三に有の一つの場所の惑いが滅することである。道諦には三つある。一に見道、二に修道、三に成守道であり、この三つはすなわち三つの根である。

また、苦は迫る相、集は生じる相、滅は寂静の相、道は出離できる相であるとも説かれている。また、苦は有るという相、集は有させるという相、滅は離れるという相、道は離れさせるという相であるとも説かれている。


1 思擇品
3 分別苦諦品

CBETA コード: T1647

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