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  1. 浄名経関中釈抄 (淨名經關中釋抄)
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  3. 不思議品 (不思議品)
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浄名経関中釈抄 (淨名經關中釋抄)


不思議品

不可思議の章

我為法來非為床坐者。身子若意云。我從菴園本為法來。非為床坐。而相此中忽然念床。非本心也 非有色受相行識之者。此一段文淨名不以法性無生故無法可求也。復次文殊奉命五百八千為法隨從。然忻法之情既慇。保著之心亦固。既情慇執固所已。前品雖略明三觀。但得天子發心而未能深悟無生法忍。今將因念座欲顯不思議品之大用。故先遣滯法之心忘彼求取之意。諸來隨從自然息機會。□遺喪滯。近即得法眼淨。遠能不二法門也。陰界處等名數廣如林苑明也 無見苦求者。四諦有二種。小乘以見苦斷集證滅修道為四。此苦實苦為深諦。乃至滅道亦然。大乘了苦無生名苦。真諦乃至集滅亦然。此之四諦即一真諦。此乃名四而體。一不同前小乘名四而體四也。思答云。知苦無生名苦諦。知集無和合名集聖諦。以不二相觀名道聖諦。法本不生今則無滅名滅聖諦。此大乘無生四諦也。若遺教經云。佛說苦諦。真實是苦。不可令異。集真是因等。此即是小乘四諦也。又大涅槃經云。凡夫有苦無諦(生樂想故)二乘有苦有諦(覺陰苦故)菩薩解苦無苦而有真諦(覺陰無生故)故迦旃延章云。五陰凋達空無所起。是苦義(此亦覺苦無生名苦義也)下文又云。依於諸法實相之義明宣無常苦空非我(此亦了苦無主名實相)上來所引若苦等無生者。即無見苦求乃至無斷集求等。若言我當見苦斷集證滅修道者。此既不了生。是乖實相。非真言論。名戲論也 由旬者。或云踰闍那。或云由延俞旬踰繕那。此云計合應爾。謂計度量合爾。同此方驛也。古聖王一日行俱舍十六里。餘經論或三十六十八十。無定數也。見應法師經音 此座高廣吾不能昇者。如來昔日鹿苑說小乘生滅四諦十二緣斷三界九地惑。至非相想九解脫床證盡無生智。名坐解脫床。如來撫接二乘乃云。我與汝等三人同坐解脫床。此諸聲聞等不了如來隨宜所說實理如來同坐此解脫床。故法花云。佛說一解脫義等不得此法。二乘既謂佛同坐。豈能進求。今將欲奪小乘解脫使知非真床。今證不思議解脫之真座。然理不可頓悟必有漸。故假燈王之床座因遣權即實也。故法花云。汝等但離虛妄名為解脫。其實未得一切解脫。何故喻床。答。解脫止息故如來床也 有神通非不思議者。二乘神通增小減大。既未證大小之本一。謂物有大小之定相故。作通運用增減於大小耳。既有作增減。故見大小之異形。故名思議也。菩薩知窮中道權觀實圓妙理大小之形智冥妙體之用。如明鏡無心而愛惡自辨。真通不運而修短自移。此法身本有之神通。豈二乘初定運力有心之神通哉。問。二乘有心之通與菩薩本有之通何。答。懸殊。二乘於有為報得自心上假定力以現通。心運即有。心亡即無。菩薩悟達法性體用剋圓。法性體常用焉生滅。法性本有用豈修成。復以寂滅而常用。用而常寂理。無異體之用。亦無離用之體。既其即體即用。豈有心於運用哉。此菩薩法性之通。豈二乘定力之通也 我等何為永絕其根者。昔聞隨宜所謂實與佛同座解脫床。今聞別有解脫名不思議。量已外用之不如。亦審內證之非實。又增大士之行數越三祇。我今斷結。生涯甚近既無進修之分。故致永絕之哀。又審已證不與佛同。即名轉酪成生蘇教(花嚴初二果乘未益名乳。阿含轉凡成聖如轉乳為酪。昔謂三乘同證第九解脫。今乃知佛不同。悔其取小。名生蘇。若至般若。佛令聲聞為菩薩。轉教既教許。傳人未蒙記。會教不教人為熟蘇。若至法花涅槃教。昔己傳人今授記。即醍醐教)又聞。聲聞執佛同解脫果理不進求。故此經偏折解脫不同。遂懷絕分之歎言。若至法花涅槃聞一毫之善理至佛果。一地所生一雨所閏。一切眾生皆有佛性。凡有心者滅皆作佛。即自悔昔折其同 佛子所應得者。我亦得之何念歎之有。理妙根麁教不同可□。故令一音之教有不同之解。而法師未能深取經旨。而聞絕分之言。便之定性二乘永無佛性。此蓋未深喻至人權實之說 凡夫下劣不能如是逼迫菩薩者。凡夫者凡夫人也。下劣者二乘及地前菩薩名下劣位人也。故無垢稱經云。凡夫劣位非其所堪也。

私は法を求めて来たのであって、座る場所を求めて来たのではありません。舎利弗よ、もしあなたが「私は菴羅樹園から本来法を求めて来たのであって、座る場所を求めて来たのではない。しかしここに来て突然座る場所のことを思うのは、本来の心ではない」と考えるならば、それは色・受・想・行・識という五蘊の存在を認めないということです。この一節の文は、維摩居士が法性が無生であるからといって求めるべき法がないと言っているのではありません。また、文殊菩薩が命を受けて五百の声聞や八千の菩薩が法を求めて従って来ましたが、法を喜ぶ心が深ければ深いほど、執着する心も固くなります。すでに情が深く執着が固いので、前の品で三観を少し説明しただけで、天子たちは発心したものの、まだ深く無生法忍を悟ることはできませんでした。今、座る場所を思うことをきっかけに、不思議品の大いなる働きを明らかにしようとしているのです。だからまず、法に執着する心を遣り、求める心を忘れさせます。そうすれば、従って来た者たちは自然に機会を失い、執着を捨て去ることができます。近くでは法眼浄を得、遠くでは不二法門に至ることができるのです。陰・界・処などの名数については、林苑で詳しく説明されています。

苦を見て求めることがないとは、四諦には二種類あります。小乗では、苦を見て、集を断ち、滅を証し、道を修めることを四諦とします。この苦は実に苦であるという深い真理であり、集・滅・道も同様です。大乗では、苦が無生であることを了知することを苦諦とし、集・滅・道についても同様です。この四諦は一つの真諦であり、名は四つでも本体は一つです。これは前に述べた小乗のように名も四つ、本体も四つというのとは異なります。思答によれば、苦が無生であることを知ることを苦諦とし、集が和合しないことを知ることを集聖諦とし、不二の相で観ることを道聖諦とし、法は本来生じないので今も滅しないことを滅聖諦とします。これが大乗の無生四諦です。もし『遺教経』に「仏が苦諦を説く、真実は苦である、異なることを許さない。集は真実に因である」などとあるのは、これは小乗の四諦です。また『大涅槃経』には、「凡夫には苦はあっても諦はない(楽と思うから)。二乗には苦もあり諦もある(五陰の苦を覚るから)。菩薩は苦を解して苦がなく、真諦がある(五陰が無生であることを覚るから)」とあります。だから迦旃延の章に「五陰が空に達して起こることがない、これが苦の意味である(これも苦が無生であることを覚って苦の意味と名づける)」とあります。下文にも「諸法実相の義に依って無常・苦・空・無我を明らかに宣べる(これも苦に主体がないことを了知して実相とする)」とあります。上に引用したように、もし苦などが無生であるならば、苦を見て求めることもなく、集を断じて求めることもないのです。もし「私は苦を見、集を断ち、滅を証し、道を修めよう」と言うならば、これは生を了知しておらず、実相に背き、真実の言論ではなく、戯論と言うのです。

由旬とは、あるいは踰闍那、あるいは由延・俞旬・踰繕那とも言います。これは「計合応爾」と訳し、計り量って合うべきであるという意味で、この方の駅に同じです。古の聖王が一日に行く距離は『倶舎論』では十六里、他の経論では三十里・六十里・八十里とあり、定まった数はありません。応法師の経音を参照してください。

この座は高く広く、私は昇ることができません。如来はかつて鹿野苑で小乗の生滅四諦・十二因縁を説き、三界九地の惑を断ち、非想非非想処の九次第定の解脱の座に至って尽無生智を証し、解脱の座に坐すと名づけました。如来は二乗を導くために「私はあなたがた三人と共に解脱の座に坐す」と言われました。これらの声聞たちは、如来が随宜に説かれた実理、如来と同じこの解脱の座に坐すことを了知しませんでした。だから『法華経』に「仏は一つの解脱の義を説かれたが、我等はこの法を得ていない」とあります。二乗は仏と同じ座に坐すと思っているので、どうしてさらに求めることができましょうか。今、小乗の解脱を奪い取り、真実の座ではないことを知らせ、不思議解脱の真実の座を証させようとしています。しかし道理は頓悟できないので、必ず漸次があります。だから燈王の床座を借りて、権を遣り実に即するのです。だから『法華経』に「あなたがたはただ虚妄を離れることを解脱と名づけるが、実は一切の解脱を得ていない」とあるのです。なぜ床に譬えるのですか。答え、解脱は止息するから如来の床なのです。

神通があっても不思議ではないとは、二乗の神通は小を増し大を減じます。すでに大小の根本が一つであることを証しておらず、物には大小の定まった相があると思っているので、神通を運用して大小を増減させるのです。すでに作意して増減するので、大小の異なる形を見るのです。だから思議と言うのです。菩薩は中道を極め、権を観て実の円妙の理に達し、大小の形は智が妙体に冥合した用です。明鏡が無心であるのに愛憎が自ずから弁別されるように、真の神通は運用しないのに長短が自ずから移るのです。これは法身本来の神通であり、どうして二乗の初定の運力有心の神通と比べられましょうか。問う、二乗の有心の神通と菩薩の本来の神通はどう違うのですか。答え、懸隔があります。二乗は有為の報得の自心上に仮の定力を以って神通を現じます。心が運用すればあり、心が亡ければ無くなります。菩薩は法性の体用が円満であることを悟り達します。法性の体は常に用いて生滅せず、法性の本有の用はどうして修成できましょうか。また寂滅にして常に用い、用いて常に寂滅する理は、体と異なる用はなく、用を離れた体もありません。すでに即体即用であるならば、どうして運用に心を用いることがありましょうか。この菩薩の法性の神通は、どうして二乗の定力の神通と比べられましょうか。

我等はどうして永遠にその根を絶たれるのでしょうか。かつては随宜に説かれた実理を聞き、仏と同じ解脱の座に坐すと思っていました。今、別に解脱があり、不思議と名づけられることを聞き、己が外用が及ばないことを量り、また内証が真実でないことを審らかにしました。また大士の行は三阿僧祇劫を超えています。私は今、煩悩を断じたが、生涯が近く、すでに進修の分がありません。だから永遠に絶たれる悲しみを致すのです。また、己が証したことが仏と同じでないことを審らかにすれば、それは転酪成生蘇の教え(『華厳経』では初めの二乗は未だ益がないので乳と名づける。『阿含経』では凡夫を転じて聖者とすることを乳を転じて酪とするようにする。かつては三乗が同じく第九解脱を証すると言われたが、今はじめて仏が同じでないことを知り、小を取ったことを悔いるので生蘇と名づける。もし『般若経』に至れば、仏は声聞に菩薩のため転教させ、教えは許されても人には未だ記別がなく、教えを会して人を教えないので熟蘇とする。もし『法華経』『涅槃経』の教えに至れば、かつてはすでに人に伝え、今は記別を授けるので醍醐の教えとする)と言います。また聞く、声聞は仏と同じ解脱の果報に執着して道理を進んで求めない。だからこの経は特に解脱が同じでないことを折伏し、遂に分を絶たれる嘆きを懐くと言うのです。もし『法華経』『涅槃経』に至り、一毫の善の理が仏果に至り、一つの地から生じ一つの雨に潤され、一切衆生には皆仏性があり、凡て心あるものは皆作仏することを聞けば、即ち自らかつて同じであると折伏したことを悔いるのです。

仏子が得るべきものは、私も得ています。どうして嘆くことがありましょうか。道理は妙ですが根機は粗であり、教えが同じでないので、一音の教えに異なる解釈があるのです。しかし法師はまだ経の主旨を深く取らず、分を絶たれる言葉を聞いて、定性二乗は永遠に仏性がないと思い込んでいます。これはまだ至人の権実の説を深く理解していないからです。

凡夫下劣はこのように菩薩を逼迫することはできません。凡夫とは凡夫人のことです。下劣とは二乗および地前の菩薩を下劣位の人と名づけます。だから『無垢称経』に「凡夫劣位はその堪えるところではない」とあります。


文殊師利問疾品
觀眾生品

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