二法品第二之一
二法品 第二 の一
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有苾芻成就二分,於現法中多諸憂苦,無喜樂住,有災有患、有惱有燒、有罪有責,為諸有情同梵行者之所訶毀,身壞命終生諸惡趣。云何為二?一、於根門不能守護;二、於飲食不善知量。諸有苾芻成就此二,於現法中多諸憂苦,無喜樂住,有災有患、有惱有燒、有罪有責,為諸有智同梵行者之所訶毀,身壞命終生諸惡趣。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞きました。
「比丘たちよ、知るがよい。もし比丘が二つのことを身につけているならば、現世において多くの憂いや苦しみがあり、喜びや楽しい住まいはなく、災いや悩み、苦しみや焼けるような煩い、罪や非難があり、同じく清らかな行いをする修行者たちからも非難され、命終わった後には悪い趣に生まれることになる。その二つとは何か。一つは、感覚の入り口を守ることができないこと。二つは、飲食において量を知ることができないことである。比丘たちよ、この二つを身につけた比丘は、現世において多くの憂いや苦しみがあり、喜びや楽しい住まいはなく、災いや悩み、苦しみや焼けるような煩い、罪や非難があり、智慧ある同じく清らかな行いをする修行者たちからも非難され、命終わった後には悪い趣に生まれるのである。」
その時、世尊はこの意味を重ねて、次のように偈で説かれた。
「若不能守護, 眼等六根門,
飲食不知量, 成不信懈怠。
彼於現法中, 身心多受苦,
及有災有患, 有惱有燒然;
行住與坐臥, 若覺若夢中,
由彼二因緣, 恒有罪有責。
居聚落空閑, 眾中及靜處,
有智常訶責, 當生惡趣中。」
もし、眼や耳などの六つの感覚の門を守ることができず、 食べ物や飲み物の量を知らなければ、 信仰心を持たず、怠ける者となってしまう。 そうした者は、今この人生において、 心と体に多くの苦しみを受け、 災いや悩み、悩乱や焼かれるような苦しみを抱える。
歩いていようと、立っていようと、座っていようと、横になっていようと、 目覚めていようと、夢の中にいようと、 その二つの原因によって、常に罪や責めがある。 村に住んでいようと、閑かな場所にいようと、 大勢の中にいようと、静かな所にいようと、 賢者たちは常にそれを非難し、 そうした者は悪い世界に生まれることになる。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有苾芻成就二分,於現法中多諸喜樂,無憂苦住,無災無患、無惱無燒、無罪無責,為諸有智同梵行者之所稱讚,身壞命終生諸善趣。云何為二?一、於根門能自守護;二、於飲食能善知量。諸有苾芻成就此二,於現法中多諸喜樂,無憂苦住,無災無患、無惱無燒、無罪無責,為諸有智同梵行者之所稱讚,身壞命終生諸善趣。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊( Buddha)からこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。もしある比丘が二つの点を身につけているならば、現世において多くの喜びと楽しみを得て、憂いや苦しみなく過ごし、災いも患いもなく、悩みも焼き尽くすこともなく、罪も責められることもなく、賢明な同梵行者たちから称賛され、身体が壊れ命が終われば、善い趣に生まれることになる。
その二つとは何か? 第一に、感覚の門(根)を自ら守ること。第二に、飲食について適量をよく知ることである。
比丘たちよ、この二つを成就した比丘は、現世において多くの喜びと楽しみを得て、憂いや苦しみなく過ごし、災いも患いもなく、悩みも焼き尽くすこともなく、罪も責められることもなく、賢明な同梵行者たちから称賛され、身体が壊れ命が終われば、善い趣に生まれるのである。」
その時、世尊はこの教えを再び要約して、次の偈(詩)を説かれました。
「若自能守護, 眼等六根門,
飲食善知量, 成就信精進。
彼於現法中, 身心多受樂,
及無災無患, 無惱無燒然;
行住與坐臥, 若覺若夢中,
由彼二因緣, 恒無罪無責。
居聚落空閑, 眾中及靜處,
有智常稱讚, 當生善趣中。」
自らの眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚の門をしっかりと守り、 食事の量を適切に知り、 確かな信仰と精進を身につけるならば、 その人は現世において、 心身ともに多くの安らぎを味わうでしょう。
また、災いもなく、悩みもなく、 苦しみにも焼かれることもありません。
歩いていようと、立っていようと、 座っていようと、横になっていようと、 目覚めていようと、夢の中にいようと、 この二つの善い行い(六根を守ることと食事を知ること)によって、 常に過ちや責めを受けることはありません。
村に住もうと、閑かな場所にいようと、 人の中にいようと、静かな所にいようと、 智慧ある人は常に称賛され、 やがて善い世界に生まれ変わるのです。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二種法能生焦惱。云何為二?謂有一類補特伽羅唯造眾惡、唯作凶狂、唯起雜穢,不修眾善、不習調柔、不救怖畏,彼於後時身嬰重疾,遍體發生增上猛利嚴切苦受,楚毒垂終不可醫療。受此苦時呻吟怨歎,作是念言:『我從昔來唯造眾惡、唯作凶狂、唯起雜穢,不修眾善、不習調柔、不救怖畏。若諸有情唯造眾惡、唯作凶狂、唯起雜穢,不修眾善、不習調柔、不救怖畏,彼之所趣,我定當往。』彼由唯造眾惡等故,心生焦惱,及以不修眾善等故,心生焦惱。如是名為有二種法能生焦惱。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞きました。
「比丘たちよ、知るがよい。二つの法があり、それが心に焦りと悩みを生み出す。その二つとは何か。
ある者は、ただ悪を積み、ただ乱暴に振る舞い、ただ汚れた行いを起こし、善を積まず、心を穏やかにせず、恐れから救おうとしない。 その後、その者は重い病にかかり、全身に激しく鋭い苦しみが生じ、死の間際にあり、治療も及ばなくなる。その苦しみを受けて、うめき嘆きながら、こう思う。 『私はこれまで、ただ悪を積み、ただ乱暴に振る舞い、ただ汚れた行いを起こし、善を積まず、心を穏やかにせず、恐れから救おうとしなかった。もし、ただ悪を積み…などの行いをした者たちが行くところがあるならば、私はまさにそこへ行くのだろう。』 彼は、ただ悪を積んだことなどによって心に焦り悩みを生じ、また、善を積まなかったことなどによって心に焦り悩みを生じる。
これらを、心に焦りと悩みを生み出す二つの法と名付ける。」
この時、世尊はこの意味をまとめて、次の偈を説かれました。
「有二法能生, 愚者心焦惱,
謂唯作罪業, 及不修福因。
後遭病苦時, 呻吟而怨歎,
恨有罪無福, 心悔惱焦然。
有罪無福人, 所生諸惡趣,
我亦當隨往, 決定無有疑。」
二つのことがあり、愚かな者の心に苦悩を生みます。 それは、ただ罪だけを積み、福徳の因を修めないことです。 後に病や苦しみに遭った時、苦しみ嘆き、 罪があって福徳がないことを悔やみ、心は後悔と苦悩に焦がれます。 罪はあっても福徳のない人は、生まれ変わるあらゆる悪い境涯に、 私もまた必ず従って行くことになる、これは疑いようもありません。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二種法,心不焦惱。云何為二?謂有一類補特伽羅唯修眾善、唯習調柔、唯救怖畏,不造眾惡、不作凶狂、不起雜穢,彼於後時身嬰重疾,遍體發生增上猛利嚴切苦受,楚毒垂終不可醫療。受此苦時,雖有呻吟而無怨歎,作是念言:『我從昔來唯修眾善、唯習調柔、唯救怖畏,不造眾惡、不作凶狂、不起雜穢。若諸有情唯修眾善、唯習調柔、唯救怖畏,不造眾惡、不作凶狂、不起雜穢,彼之所趣,我定當往。』彼由唯修眾善等故,心不焦惱,及以不造眾惡等故,心不焦惱。如是名為有二種法,心不焦惱。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、このようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知るがよい。二つの法があり、心を悩ませ焦らせることはない。その二つとは何か。すなわち、ある種の人は、ただ善い行いを積み、ただ穏やかさを身につけ、ただ怖れから救い求める。悪行を為さず、荒々しい行いをせず、汚れた心を起こさない。そのような人が後に、重い病にかかり、全身に耐え難い激しい苦しみが生じ、その苦しみは死の間際まで続き、もはや治癒の術もない。この苦しみを受ける時、たとえうめき声をあげることはあっても、恨み言や嘆きは言わない。こう心に念じる。『私はこれまで、ただ善い行いを積み、ただ穏やかさを身につけ、ただ怖れから救い求めてきた。悪行を為さず、荒々しい行いをせず、汚れた心を起こさなかった。もし、ただ善い行いを積み、ただ穏やかさを身につけ、ただ怖れから救い求め、悪行を為さず、荒々しい行いをせず、汚れた心を起こさなかった者が行くべき境地があるならば、私は必ずそこへ行くであろう。』彼は、ただ善い行いなどを積んできたゆえに、心は焦らず悩まない。また、悪行などを為さなかったゆえに、心は焦らず悩まない。これを、二つの法があり、心を悩ませ焦らせることがない、というのである。」
その時、世尊はこの意味を再度まとめて、次の偈を説かれた。
「有二法能生, 智者心歡喜,
謂唯修福業, 及不作罪因。
後遭病苦時, 呻吟無怨歎,
慶有福無罪, 不悔惱焦然。
有福無罪人, 所生諸善趣,
我亦當隨往, 決定無有疑。」
心を喜ばせる二つの行いがある。 それは、ただただ善い行いを積むことと、 悪い行いの原因を作らないことだ。 そうすれば、病の苦しみに見舞われた時にも、 うめきながらも恨み言は言わないだろう。 「善い行いを積み、罪のない身で良かった」と喜び、 後悔や苦しみに焦り悩むことはない。 善い行いを積み、罪のない人は、 さまざまな良い世界に生まれ変わる。 私も必ず、そのあとに続いて行くのだ。 そのことに、少しの疑いもない。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!為汝略說二速通行。云何為二?一者樂行;二者苦行。謂由樂行證彼速通,及由苦行證彼速通。所修加行無澁難故,所得諸根皆猛利故,是則名為樂速通行。所修加行有澁難故,所得諸根皆猛利故,是則名為苦速通行。是名略說二速通行。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は尊師(世尊)からこう聞きました。「修行者(苾芻)よ、あなたに二つの速やかな悟りへの道を簡潔に説こう。その二つとは何か。第一は楽行、第二は苦行である。楽行によって速やかな悟りを得ること、また苦行によって速やかな悟りを得ること、これらを指す。修行において努力が滞りなく進み、得られた能力(諸根)がすべて鋭利である場合、これを楽による速やかな悟りの道と名付ける。修行において努力に困難が伴うものの、得られた能力がすべて鋭利である場合、これを苦による速やかな悟りの道と名付ける。これが、二つの速やかな悟りの道の簡潔な説明である。」その時、尊師はこの教えをまとめて、次の詩(頌)を唱えられた。
「今為汝略說, 二種速通行,
謂樂行、苦行, 因斯證速通。
無澁難加行, 有猛利諸根,
由是大仙尊, 名樂速通行。
有澁難加行, 有猛利諸根,
由是大仙尊, 名苦速通行。」
「今からあなたに、手短に二つの速やかなる悟りの道をお伝えしましょう。 すなわち、楽行と苦行です。これによって、速やかに悟りが証されるのです。 心の働きに滞りがなく、修行に難がなく、しかも鋭い能力を持つ者―― これにより大仙(仏陀)は、これを『楽速通行』と名づけました。 心の働きに滞りがあり、修行に難があり、しかも鋭い能力を持つ者―― これにより大仙は、これを『苦速通行』と名づけました。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!為汝略說二遲通行。云何為二?一者樂行;二者苦行。謂由樂行證彼遲通,及由苦行證彼遲通。所修加行無澁難故,所得諸根皆羸鈍故,是則名為樂遲通行。所修加行有澁難故,所得諸根皆羸鈍故,是則名為苦遲通行。是名略說二遲通行。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのようにお聞きしました。
「比丘たちよ、あなたたちのために簡潔に二つの『遅い修行の道』について説こう。その二つとは何か。第一に楽行、第二に苦行である。
楽しい修行によって遅い悟りに至る道、そして苦しい修行によって遅い悟りに至る道である。
修行の実践に困難がなく、得られた能力がすべて鈍い場合、これを『楽行による遅い道』と呼ぶ。 修行の実践に困難があり、得られた能力がすべて鈍い場合、これを『苦行による遅い道』と呼ぶ。
以上が、簡潔に説いた二つの遅い修行の道である。」
その時、世尊はこの教えをまとめて、次の詩句を唱えられた。
「今為汝略說, 二種遲通行,
謂樂行、苦行, 因此證遲通。
無澁難加行, 有羸鈍諸根,
由是大仙尊, 名樂遲通行。
有澁難加行, 有羸鈍諸根,
由是大仙尊, 名苦遲通行。」
今、あなたのために大まかに説明しよう。 二つの「遅い修行の道」がある。 それを「楽行」と「苦行」と言う。 これによって、悟りに達するのが遅い道とされる。
修行が苦しくなく、進めやすいけれども、 知る力が弱く、鈍い人の場合、 それゆえ、大きな悟りを開いた方は、 「楽であっても遅い修行の道」と呼んだ。
修行が苦しく、進めにくく、 さらに知る力も弱く、鈍い人の場合、 それゆえ、大きな悟りを開いた方は、 「苦しくて遅い修行の道」と呼んだ。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有一類補特伽羅,成就二法,不能發生白淨善法;設已發生,不能決定;設已決定,不能圓滿。彼於如是白淨善法能為障礙、能作衰損、能生憂悔,身壞命終,如棄重擔,墮於地獄受諸劇苦。云何為二?一者惡戒;二者惡見。諸有一類補特伽羅,成就如是所說二法,定不能生白淨善法;設復已生,不能決定,廣說乃至身壞命終,如棄重擔,墮於地獄受諸劇苦。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞き及んでいます。「比丘たちよ、知るがよい。もしある衆生が、二つの法を成就しているならば、清らかで善い法を生じさせることができない。たとえ生じさせたとしても、それを確かなものとすることができない。たとえ確かなものとしたとしても、それを円満させることができない。そのような者は、この清らかで善い法に対して妨げとなり、衰退をもたらし、憂いや後悔を生じさせる。やがて肉体が滅び、命が尽きるとき、重い荷を下ろすようにして地獄に落ち、激しい苦しみを受けることとなる。では、その二つとは何か。第一に、悪しき戒律(悪戒)である。第二に、悪しき見解(悪見)である。ある種の衆生が、今述べた二つの法を成就しているならば、必ず清らかで善い法を生じさせることができず、たとえ生じさせたとしても確かなものとすることができない。さらに詳しく言えば、肉体が滅び、命が尽きるとき、重い荷を下ろすようにして地獄に落ち、激しい苦しみを受けることとなるのである。」
その時、世尊はこの意味を改めてまとめ、次の偈(うた)を説かれた。 「悪しき戒律と悪しき見解を持つ者は、 清らかで善い法を成就することがない。 このような者は、命終の後、 地獄に落ちて苦しみを受ける。」
「若成就二法, 謂惡戒、惡見,
彼人終不能, 生白淨善法。
雖生而不定, 設定不圓滿,
於白淨善法, 能衰損障礙。
彼臨命終時, 有憂悔悲惱,
如棄捨重擔, 定生地獄中。」
もし、この二つの法(悪い戒律と悪い見解)を身につけてしまえば、 その人は決して清らかな善い法を生み出すことができません。 たとえ善い法が生まれても不安定で、たとえ安定しても完全ではありません。 清らかな善い法に対して、衰えや損ない、妨げをもたらすのです。 その人は命の終わりに臨む時、憂いや悔い、悲しみ、苦しみに満たされます。 重い荷物を下ろすようにして、必ず地獄に生まれ落ちるのです。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有一類補特伽羅,成就二法,定能發生白淨善法;若先已生,能令決定;若先已定,能令圓滿。彼於如是白淨善法不為障礙、不作衰損、不生憂悔,身壞命終,如棄重擔,生天趣中受諸快樂。云何為二?一者善戒;二者善見。諸有一類補特伽羅,成就如是所說二法,決定能生白淨善法;若先已生,能令決定,廣說乃至身壞命終,如棄重擔,生天趣中受諸快樂。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、知るがよい。もしある人が二つの法を成就するならば、必ず清らかな善法を生じさせる。もしすでに生じていたならば、それを確かなものとし、もしすでに確かであったならば、それを円満にさせる。その人は、このような清らかな善法に対して妨げとならず、衰えさせず、憂いや悔いを生じさせず、身が壊れ命が終わるとき、重い荷物を捨てるかのように、天界に生まれて様々な楽しみを受ける。その二つとは何か。第一は善き戒めであり、第二は善き見解である。ある人がこのように説かれた二つの法を成就するならば、必ず清らかな善法を生じさせ、もしすでに生じていたならば、それを確かなものとし、広く説けば、身が壊れ命が終わるとき、重い荷物を捨てるかのように、天界に生まれて様々な楽しみを受けるのである。」
その時、世尊はこの意味をまとめて、次の偈を説かれた。
「若成就二法, 謂善戒、善見,
彼人終定能, 生白淨善法。
若生而決定, 決定必圓滿,
於白淨善法, 不衰損障礙。
彼臨命終時, 無憂悔悲惱,
如棄捨重擔, 定生天趣中。」
もし二つの法を成就するならば、それを“善き戒”と“善き見”といいます。 その人は最後には必ず、清らかな善い法を生み出せるようになります。 もしそれが生まれ、確かなものとなれば、必ず完全に満たされるのです。 清らかな善い法において、衰えたり妨げられたりすることはありません。 その人は命の終わりに臨んでも、憂いや悔い、悲しみや苦しみはありません。 まるで重い荷を下ろすように、確かに天の世界に生まれていくのです。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有一類補特伽羅,成就二法,臨命終時能生憂悔,身壞命終,墮諸惡趣,生地獄中。云何為二?謂作、不作。云何為作?謂身惡行、語惡行、意惡行,是名為作。云何不作?謂身妙行、語妙行、意妙行,是名不作。諸有一類補特伽羅,成就如是所說二法,臨命終時能生憂悔,身壞命終,墮諸惡趣,生地獄中。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。もしある者が二つの事柄を備えているならば、命終の時に憂い悔いを生じ、身が朽ち命終わった後、悪い境遇に落ち、地獄に生まれることになる。その二つとは何か?『為すこと』と『為さないこと』である。 『為すこと』とは何か?身体による悪行、言葉による悪行、心による悪行、これらを『為すこと』という。 『為さないこと』とは何か?身体による善行、言葉による善行、心による善行、これらを『為さないこと』という。 ある者が、このように説かれた二つの事柄を備えているならば、命終の時に憂い悔いを生じ、身が朽ち命終わった後、悪い境遇に落ち、地獄に生まれるのである。」 その時、世尊はこの意味をまとめて、次のような偈を説かれた。
「諸有愚癡人, 作三種惡行,
不作三妙行, 引餘過令生。
彼臨命終時, 決定有憂悔,
死墮諸惡趣, 生於地獄中。」
愚かな人々は、 三つの悪行を犯し、 三つの善行を行わず、 その結果、さらなる過ちを招きます。
そのような人は、命が終わる時、 必ず後悔に苛まれ、 死後は悪い場所に落ち、 地獄に生まれ変わります。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有一類補特伽羅,成就二法,臨命終時不生憂悔,身壞命終,昇於善趣,生天界中。云何為二?謂作、不作。云何為作?謂身妙行、語妙行、意妙行,是名為作。云何不作?謂身惡行、語惡行、意惡行,是名不作。諸有一類補特伽羅,成就如是所說二法,臨命終時不生憂悔,身壞命終,昇於善趣,生天界中。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私はこのように聞きました。
「比丘たちよ、知るがよい。もしある人が、二つの法を成就しているならば、臨終の際に憂い悔いることなく、身が壊れて命が終わった後、善い趣に昇り、天の世界に生まれる。その二つとは何か。『作すこと』と『作さないこと』である。
『作すこと』とは何か。身体による善い行い、言葉による善い行い、心による善い行い、これを作すという。
『作さないこと』とは何か。身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行い、これを作さないという。
このように説かれた二つの法を成就する者は、臨終の際に憂い悔いることなく、身が壊れて命が終わった後、善い趣に昇り、天の世界に生まれるのである。」
その時、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次のように偈を説かれた。
「諸有智慧人, 作三種妙行,
不作三惡行, 引餘德令生。
彼臨命終時, 決定無憂悔,
死昇諸善趣, 生於天界中。」
智慧ある人々は、三つの善い行いを実践し、三つの悪い行いを避けます。それによって他の徳を引き寄せ、育てるのです。
そのような人は、命の終わりに臨んでも、決して心配や後悔がありません。死ねば善い世界へと昇り、天の世界に生まれ変わります。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二妙智,應修令生;能得未得、能觸未觸、能證未證,能超愁歎、能滅憂苦、能會正理、能獲甘露、能證涅槃。云何為二?一者法智;二者類智。法智生時,便能無倒,遍知有為。於有為法既遍知已,便能令彼感後有因,不得生起增長廣大。類智生時,便能如實斷滅無明;滅無明故,便無戲論;無戲論故,便無尋伺;無尋伺故,便無樂欲;無樂欲故,便無愛憎;無愛憎故,便無慳嫉;無慳嫉故,便無種種執持刀杖違害鬪諍、互相罵辱、不真實語、相離間語、諸雜穢語及餘無量惡不善法;無彼諸惡不善法故,感後有業,便不增長;感後有業不增長故,諸業滅盡;業滅盡故,眾苦滅盡;苦滅盡故,生死路絕。此路絕已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是名為有二妙智,應修令生;能得未得、能觸未觸、能證未證,能超愁歎、能滅憂苦、能會正理、能獲甘露、能證涅槃。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から私はこう聞きました。「比丘たちよ、知るべきである。二つの優れた智慧がある。それを修めて生じさせよ。そうすれば、未だ得ざるものを得、未だ触れざるものに触れ、未だ証せざるものを証し、憂い悲しみを超え、苦しみを滅し、正しい道理にかなり、甘露を得て、涅槃を証することができる。その二つとは何か。第一は法智であり、第二は類智である。法智が生じるとき、その智慧によって、迷いなく有為の世界をありのままに知り尽くす。有為の法をありのままに知り尽くせば、後の生存を招く原因が生じたり、大きくなったりするのを防ぐことができる。類智が生じるとき、その智慧によって、無明を断ち滅ぼす。無明が滅びれば、虚妄な分別はなくなる。虚妄な分別がなければ、あれこれと探し求めることもない。探し求めることがなければ、欲しいと思うこともない。欲しいと思うことがなければ、好き嫌いもない。好き嫌いがなければ、けちや妬みもない。けちや妬みがなければ、様々な武器を手にして争ったり、ののしり合ったり、嘘をついたり、仲違いさせたり、無駄話をしたり、その他無数の悪い行いをすることもない。それら悪い行いがなければ、後の生存を招く業も増えていくことがない。後の生存を招く業が増えていかなければ、業は尽きてしまう。業が尽きれば、苦しみも尽きる。苦しみが尽きれば、生死の道は絶たれる。生死の道が絶たれたならば、自ら知る。『私はもう新たに生まれることはない。清らかな行いは完成し、なすべきことはなされ、もはや再び迷いの世界に戻ることはない』と。これらを二つの優れた智慧という。それを修めて生じさせよ。未だ得ざるものを得、未だ触れざるものに触れ、未だ証せざるものを証し、憂い悲しみを超え、苦しみを滅し、正しい道理にかなり、甘露を得て、涅槃を証することができるのである。」
その時、世尊はこの教えを簡潔にまとめて、次のように偈で説かれた。
「有二種妙智, 應修習令生,
能得未得等, 謂法智、類智。
若法智生時, 遍知有為法,
便能令後有, 因不生不增。
若類智生時, 無明便斷滅,
由此展轉法, 絕生死輪迴。
自知我生盡, 及梵行已立,
所作皆已辦, 更不受後有。」
「二つの優れた智慧がある―― それを修めて生じさせるべきものである。 いまだ得ざるものを得させる、 すなわち法智と類智である。
法智が生じたとき、 すべてのつくられたもの(有為法)をありのままに知る。 それによって、新たな生存をもたらす原因が、 生じることも、増えることもなくなる。
類智が生じたとき、 無明は断ち滅ぼされる。 こうして次々と、この理法によって、 生死の輪廻(迷いの流れ)は絶たれる。
自ら知る――「我が生は尽きた。 清らかな行い(梵行)はすでに完成した。 なすべきことはすべて成し遂げられ、 もはや再び迷いの生存を受けることはない」と。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二妙智,應正尋思、應善稱量、應審觀察;能得未得、能觸未觸、能證未證,能超愁歎、能滅憂苦、能會正理、能獲甘露、能證涅槃。云何為二?謂世間智及出世智。
世尊より、このようにお聞きしました。 「比丘たちよ、知るべきである。二つの優れた智慧がある。それらを正しく考え、よく計り、よく観察するならば、得られざるものを得、触れざるものに触れ、証せざるものを証することができる。また、憂いや嘆きを超え、苦しみを滅し、正しい道理にかない、甘露を得て、涅槃を証することができる。その二つとは何か。すなわち、世間の智慧と出世間の智慧である。」
「世間智者,謂於色蘊能正了知此為色蘊;於受、想、行及識蘊中亦復如是。於其地界能正了知此為地界;於水、火、風及空識界亦復如是。於其眼界能正了知此為眼界,於其色界及眼識界亦復如是;於其耳界能正了知此為耳界,於其聲界及耳識界亦復如是;於其鼻界能正了知此為鼻界,於其香界及鼻識界亦復如是;於其舌界能正了知此為舌界,於其味界及舌識界亦復如是;於其身界能正了知此為身界,於其觸界及身識界亦復如是;於其意界能正了知此為意界,於其法界及意識界亦復如是。於如此等世俗法中,如是如是,如實了知,智見通慧,現觀等覺,周遍照了,名世間智。
世の中の智者は、色の集まり(色蘊)について「これが色の集まりである」と正しく理解します。受、想、行、識の集まりについても同じです。また、地の領域(地界)について「これが地の領域である」と正しく理解し、水、火、風、空、識の領域についても同じです。眼の領域(眼界)について「これが眼の領域である」と正しく理解し、色の領域や眼の認識の領域についても同じです。耳の領域について「これが耳の領域である」と正しく理解し、声の領域や耳の認識の領域についても同じです。鼻の領域について「これが鼻の領域である」と正しく理解し、香りの領域や鼻の認識の領域についても同じです。舌の領域について「これが舌の領域である」と正しく理解し、味の領域や舌の認識の領域についても同じです。体の領域について「これが体の領域である」と正しく理解し、触れるものの領域や体の認識の領域についても同じです。心の領域について「これが心の領域である」と正しく理解し、心の対象の領域や心の認識の領域についても同じです。このように、日常世界の様々な事柄について、そのままに如実に理解し、智慧や見解、通達の力、直接の観察、さとり、そして広くあまねく照らし出すこと、これを世間の智慧といいます。
「諸聖弟子,於此所說世間智中,應正尋思,應善稱量,應審觀察:此世間智正修習時,為能令彼生法有情永脫生不?為能令彼老法有情永脫老不?病法、死法、愁法、歎法、憂法、苦法、不安隱法,亦復如是。既審察已,能正了知:此世間智正修習時,不能令彼生法有情永脫於生,不能令彼老法有情永脫於老,病法、死法、愁法、歎法、憂法、苦法、不安隱法,亦復如是。所以者何?此世間智非賢聖法,非能永出、非趣涅槃、非能永厭、非能永離、非能永滅、非能永寂,非真通慧、非正等覺,不證涅槃;是感生法,是感老法、病法、死法、愁法、歎法、憂法、苦法、不安隱法。彼於如是尋思稱量審觀察時,於世間法住怖畏想,於出世法住安靜想。以於世間生怖畏故,都無執受;無執受故,不生渴愛;不渴愛故,便自內證究竟涅槃。證涅槃已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。是名於此世間智中,應正尋思、應善稱量、應審觀察。
諸々の聖なる弟子たちよ、ここに説かれた世間の智慧について、正しく思索し、善く秤量し、審らかに観察すべきである。
「この世間の智慧を正しく修習するとき、それは生ある者たちを永遠に生から解放することができるだろうか。老いる者たちを永遠に老いから解放することができるだろうか。病、死、愁い、嘆き、憂い、苦しみ、不安についても同様である。」
こうして審らかに観察した後、正しく知るべきである。
「この世間の智慧を正しく修習するとき、それは生ある者たちを永遠に生から解放することはできない。老いる者たちを永遠に老いから解放することはできない。病、死、愁い、嘆き、憂い、苦しみ、不安についても同様である。」
なぜか。この世間の智慧は聖なる法ではなく、永遠の解脱をもたらさず、涅槃に趣かず、永遠の厭離をもたらさず、永遠の離脱をもたらさず、永遠の消滅をもたらさず、永遠の寂静をもたらさないからである。真の通達でもなく、正しい覚りでもなく、涅槃を証することもない。これは生を感ずる法であり、老、病、死、愁い、嘆き、憂い、苦しみ、不安を感ずる法である。
彼がこのように思索し、秤量し、審らかに観察するとき、世間の法については恐怖の想いを抱き、出世間の法については安穏の想いを抱く。世間について恐怖を生じるがゆえに、何ものにも執着しない。執着しないがゆえに、渇愛を生じない。渇愛しないがゆえに、自ら内に証して究竟の涅槃に達する。涅槃を証した後、自ら了知する。
「我が生は尽きた。梵行は既に立てられた。為すべきことは成し遂げられた。もはや後の生存は受けない。」
これが、この世間の智慧において、正しく思索し、善く秤量し、審らかに観察すべきことである。
「出世智者,謂於一切蘊界處中能正了知,如是諸法是無常性、苦性、病性、癰性、箭性、惱性、害性、怖性、熱性、壞性、滅性、災性、橫性、有疫癘性、虛性、偽性、空性、妄性、無實我性、難保信性。於如是等諸法性中如實了知,智見通慧,現觀等覺,周遍照了,名出世智。諸聖弟子,於此所說出世智中,應正尋思、應善稱量、應審觀察:此出世智正修習時,為能令彼生法有情永脫生不?為能令彼老法有情永脫老不?病法、死法、愁法、歎法、憂法、苦法、不安隱法,亦復如是。既審察已,能正了知:此出世智正修習時,定能令彼生法有情永脫於生,定能令彼老法有情永脫於老,病法、死法、愁法、歎法、憂法、苦法、不安隱法,亦復如是。所以者何?此出世智是賢聖法,是能永出、是趣涅槃、是能永厭、是能永離、是能永滅、是能永寂,是真通慧、是正等覺、能證涅槃;非感生法,非感老法、病法死法、愁法歎法、憂法苦法、不安隱法。彼於如是尋思稱量審觀察時,於出世法生珍寶想;於世間法生下賤想。以於出世生珍寶故,便生歡喜;生歡喜故,其心安適;心安適故,身得輕安;身輕安故,便受悅樂;受悅樂故,心得寂定;心寂定故,能實知見;實知見故,能深厭背;深厭背故,能正離欲;正離欲故,能得解脫。得解脫已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。是名於此出世智中,應正尋思、應善稱量、應審觀察。如是名為有二妙智,應正尋思、應善稱量、應審觀察;能得未得、能觸未觸、能證未證,能超愁歎、能滅憂苦、能會正理、能獲甘露、能證涅槃。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世の中を超えた智慧とは、あらゆる五蘊、十八界、十二処において、次のように正しく知ることです。これらの諸法は無常であり、苦であり、病であり、腫れ物であり、矢であり、悩ましであり、害であり、恐れであり、熱であり、壊れゆくものであり、滅するものであり、災いであり、横難であり、疫病であり、虚ろであり、偽りであり、空であり、妄りであり、実在する自己はなく、頼りにならないものである、と。
このような諸法の性質を、ありのままに知り、智慧と見解、通達と観慧、現前の観察と等しい覚り、あまねく照らし明らかにすること、これを「世を超えた智慧」と呼びます。
尊い弟子たちは、ここに説かれた世を超えた智慧について、正しく思索し、よく評価し、綿密に観察すべきです。すなわち、「この世を超えた智慧を正しく修習するとき、それは、生ある者をして永遠に生から解脱させることができるだろうか?老いる者をして永遠に老いから解脱させることができるだろうか?」と。病、死、愁い、嘆き、憂い、苦しみ、不安についてもまた同じです。
こうして綿密に観察したならば、次のように正しく知るのです。「この世を超えた智慧を正しく修習するとき、それは必ず、生ある者をして永遠に生から解脱させ、老いる者をして永遠に老いから解脱させる。病、死、愁い、嘆き、憂い、苦しみ、不安についてもまた同じである。」
なぜなら、この世を超えた智慧は聖者の法であり、永遠に世を出るものであり、涅槃へと向かうものであり、永遠に厭い離れるものであり、永遠に滅し、永遠に寂滅するものであるからです。それは真実の通達と智慧であり、正しい等しい覚りであり、涅槃を証するものです。決して生を感ずる法ではなく、老、病、死、愁い、嘆き、憂い、苦しみ、不安を感ずる法でもありません。
このように思索し、評価し、綿密に観察するとき、彼は世を超えた法に対して宝のような想いを抱き、世間の法に対しては下賤な想いを抱きます。世を超えた法に宝の想いを抱くゆえに、喜びが生じます。喜びが生じるゆえに、心は安らかになります。心が安らかなゆえに、身体は軽安を得ます。身体が軽安であるゆえに、快い感覚を受けます。快い感覚を受けるゆえに、心は寂静に定まります。心が寂静に定まるゆえに、ありのままに見知ることができます。ありのままに見知るゆえに、深く厭い離れることができます。深く厭い離れるゆえに、正しく欲を離れることができます。正しく欲を離れるゆえに、解脱を得ることができます。
解脱を得たならば、自ら次のように知ります。「我が生は尽きた。梵行は立てられた。為すべきことは為し遂げられた。もはや後世の生存はない」と。
これを、この世を超えた智慧において、正しく思索し、よく評価し、綿密に観察する、と言います。
このように、二つの優れた智慧があると説かれました。これらを正しく思索し、よく評価し、綿密に観察するならば、未だ得ざるものを得、未だ触れざるものに触れ、未だ証せざるものを証し、愁いや嘆きを超え、憂いや苦しみを滅し、正しい道理にかなうこととなり、甘露を得、涅槃を証することができるのです。
そのとき、世尊はこの意味を再びまとめて、次の偈を説かれました。
【偈】 世を超えた智慧こそ、聖者の宝。 これを修する者は、安らぎを得る。 生、老、病、死の苦しみを超え、 永遠の平和、涅槃に至る。
「有二種妙智, 知者應尋思,
謂世出世間, 能正盡眾苦。
應觀世間智, 發生怖畏想,
都無有執受, 展轉證涅槃;
應觀出世智, 發生珍寶想,
由此生歡喜, 便得身輕安。
輕安故悅樂, 悅樂故心定,
由心得定故, 便能生覺支;
覺支觀聖諦, 永斷諸疑網,
無疑無所取, 永脫眾苦邊。」
次の二つの妙なる智慧を、知者はよく考え求めるべきである。 それは世間の智慧と出世間の智慧であり、これによって苦しみを正しく尽くすことができる。 世間の智慧は、恐れの思いを起こすものと観ずべきである。 そこには何一つ執着すべきものはなく、転々と悟りへと至る。 出世間の智慧は、宝のようなものと観ずべきである。 これによって喜びが生まれ、身体に軽やかな安らぎが得られる。 軽やかな安らぎがあるからこそ、楽しく心地よい。 楽しく心地よいからこそ、心は定まる。 心が定まったからこそ、覚りの支えが生じる。 覚りの支えによって聖なる真理を観察し、あらゆる疑いの網を断ち切る。 疑いがなくなり、執着するものもなくなって、ついにすべての苦しみの境を超え脱するのである。
重攝前經嗢柁南曰:
重ねて先の経をまとめると、次の偈のようになります。
二根、二焦惱 二行、二戒見
二作及不作 二智有二種
二つの根、二つの煩悩 二つの行、二つの戒と見解
二つの作と不作 二つの智慧には二種がある
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有苾芻為欲矯誑諸眾生故、為求名譽遠所聞故、為求利養及恭敬故而出家者,不名真實於如來所修行梵行。若有苾芻為通達故、為遍知故而出家者,是名真實於如來所修行梵行。所以者何?是諸苾芻為通達故、為遍知故而出家已,便能如實通所通達、知所遍知。既能如實通所通達、知所遍知,便能如實斷所應斷、修所應修、證所應證。既能如實斷、修、證已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是若有為通達故、為遍知故而出家者,是名真實於如來所修行梵行。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのようにお聞きしました。
「修行者たちよ、知っておきなさい。もし修行者が、人々を欺こうとして、名声を得ようとして、利益や尊敬を得ようとして出家するなら、その人は如来のもとで真実の清らかな修行をしているとは言えません。
しかし、もし修行者が、真理を悟るために、すべてをあるがままに知るために出家するなら、その人は如来のもとで真実の清らかな修行をしている者です。なぜなら、その修行者は、悟り、あるがままに知るために出家した後、悟るべきものを正しく悟り、知るべきものを正しく知るからです。そして、その通りに悟り、知ったならば、断つべきものを正しく断ち、修めるべきものを正しく修め、体得すべきものを正しく体得します。こうして正しく断ち、修め、体得したならば、自ら『私は生を尽くし、清らかな行いは完成し、なすべきことは成し遂げ、再び迷いの世界に生まれることはない』と知るのです。
このように、真理を悟るために、あるがままに知るために出家する者こそ、如来のもとで真実の清らかな修行をしている者なのです。」
その時、世尊はこの教えを強調して、次のように偈でお示しになりました。
「為矯誑名譽, 利養及恭敬,
非真修梵行, 是虛妄出家。
為通達遍知, 速證最上義,
是真修梵行, 非虛妄出家。」
「見せかけの名誉や利益、そして尊敬のために、 真実の修行をするのではなく、見せかけだけの出家をする者もいる。
しかし、真実を悟り、完全に理解し、速やかに最高の真理を証得するために、 真に修行する者こそ、真の出家であり、見せかけの出家ではない。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有苾芻為欲矯誑諸眾生故、為求名譽遠所聞故、為求利養及恭敬故而出家者,不名真實於如來所修行梵行。若有苾芻為律儀故、為正斷故而出家者,是名真實於如來所修行梵行。所以者何?是諸苾芻為律儀故、為正斷故而出家已,便能如實守護六根、不虧禁戒,及能速證最上正斷。既能如實守護六根、不虧禁戒,及能速證最上正斷,便能如實斷所應斷、修所應修、證所應證。既能如實斷、修、證已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是若有為律儀故、為正斷故而出家者,是名真實於如來所修行梵行。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から私はこう聞きました。「比丘たちよ、知っておきなさい。もし比丘が、人々を惑わし名声を得るため、また遠くに評判を広めさせるため、さらには利益や尊敬を得るために出家したのであれば、その人の修行は如来のもとでの真実の清らかな行いとは言えません。 一方、もし比丘が戒律を守るため、また正しい精進(正断)のために出家したのであれば、それが如来のもとでの真実の清らかな行いであるのです。なぜなら、そのような比丘は戒律を守り、正しい精進のために出家した後、的確に六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を守り、戒律を欠くことなく、やがて最も優れた正しい精進を速やかに実証するからです。 そして六根を守り戒律を保ち、最上の正しい精進を実証すると、今度は的確に断つべきものを断ち、修めるべきものを修め、証すべきものを証します。こうして断・修・証を成し遂げたなら、自ら悟ります。『我が生は尽きた。清らかな行いは完成した。なすべきことは成し遂げた。もはや再び迷いの世界に生まれることはない』と。 このように、戒律を守るため、正しい精進のために出家する者こそ、如来のもとで真実の清らかな行いを修行する者なのです。」 そのとき、世尊はこの教えをまとめて次の偈を説かれました。
「為矯誑名譽、 利養及恭敬,
非真修梵行, 是虛妄出家。
為正斷律儀, 速證最上義,
是真修梵行, 非虛妄出家。」
名誉や利益や尊敬を得るために偽って、 本当の修行者を装うのは、出家とは言えない。 正しい戒律を守り、速やかに最高の真理を体得するために 生きるのが真の修行であり、偽りの出家ではない。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有苾芻為欲矯誑諸眾生故、為求名譽遠所聞故、為求利養及恭敬故而出家者,不名真實於如來所修行梵行。若有苾芻為求厭背、為求離欲而出家者,是名真實於如來所修行梵行。所以者何?是諸苾芻為厭背故、為離欲故而出家已,便能如實厭背離欲。既離欲已,便得解脫。既解脫已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是若有為厭背故、為離欲故而出家者,是名真實於如來所修行梵行。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、知るがよい。もし比丘が、衆生を欺こうとして、名声を遠くに聞こえさせようとして、あるいは利益や供養を求めて出家するならば、その者は如来のもとで真実に梵行を修行しているとは言えない。しかし、もし比丘が、厭離(けんり)を求め、欲望を離れるために出家するならば、その者こそ、如来のもとで真実に梵行を修行しているのである。なぜなら、その比丘は厭離のため、離欲のために出家した後、如実に厭離し、欲望を離れるからである。欲望を離れたならば、解脱を得る。解脱を得たならば、自ら知る。『我が生は尽き、梵行は立てられ、なすべきことは成し遂げられ、もはや後世の生存はない』と。このように、厭離のため、離欲のために出家する者こそ、如来のもとで真実に梵行を修行しているのである。」その時、世尊はこの意味をあらためてまとめて、次の偈を説かれた。
「為矯誑名譽、 利養及恭敬,
非真修梵行, 是虛妄出家。
為厭背離欲, 速證最上義,
是真修梵行, 非虛妄出家。」
名誉や利得、尊敬を求めるために、 偽って修行に励むのは、 真の修行者ではない。 それは虚しい出家である。
欲望を厭い離れるため、 速やかに最上の真理を悟るために 修行するのが、 真の修行者であり、虚しくない出家である。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!一切如來、應、正等覺,所說法門略有二種。云何為二?一者於惡應正了知;二者於惡應深厭背。一切如來、應、正等覺,略說如是二種法門。所以者何?諸修行者,於諸惡法應正了知;既於惡法正了知已,便能厭背;既厭背已,便能離欲;既離欲已,便得解脫。得解脫已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是行者,永斷諸愛及眾結縛,無倒現觀,正盡苦邊。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私はこのようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知るがよい。全ての如来、応供、正等覚者が説かれた教えの門は、大きく分けて二つある。その二つとは何か。第一に、悪について正しく知り尽くすこと。第二に、悪について深く厭い離れることである。全ての如来、応供、正等覚者は、この二つの教えの門を簡潔に説かれた。それはなぜか。修行する者たちは、あらゆる悪い法を正しく知り尽くすべきだからである。悪い法を正しく知り尽くしたならば、それらに対して厭い離れることができる。厭い離れたならば、欲望から離れることができる。欲望から離れたならば、解脱を得ることができる。解脱を得たならば、自ら悟る。『我が生は尽きた。梵行は完成した。為すべきことは為した。もはや再び迷いの世界に生まれることはない』と。このように修行する者は、あらゆる愛着と様々な束縛を永遠に断ち切り、倒錯した見解なく現に真理を観察し、苦しみの果てを正しく尽くすのである。
その時、世尊はこの意味を再びまとめて、偈を説かれた。
「悪を正しく知り、悪を深く厭う。 これが諸仏の説かれた教えである。 悪を知り、厭い離れれば、 欲望を離れ、解脱を得る。」
「當知諸如來, 應正等覺者,
哀愍眾生故, 說二種法門;
於眾惡正知, 及厭背離欲,
心解脫自在, 正盡眾苦邊。」
知るべきである。全ての如来、正しく目覚めた方々は、 衆生を哀れみ、二つの法門を説かれた。 すなわち、あらゆる悪を正しく知ること、 そして、それを厭い離れ、欲を離れること。 心は解脱して自在となり、 苦しみの果てを完全に尽くすのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二種法,若修、若習、若多修習,能斷二法。云何二法,若修、若習、若多修習,能斷二法?謂不淨觀及慈悲觀,能斷貪欲及與瞋恚。所以者何?一切已貪、現貪、當貪,皆由作意思惟淨相。一切已瞋、現瞋、當瞋,皆由作意思惟怨相。一切已斷、現斷、當斷所有貪欲,皆由作意修不淨觀。一切已斷、現斷、當斷所有瞋恚,皆由作意修慈悲觀。於不淨觀若修、若習、若多修習,決定能斷一切貪欲。於慈悲觀若修、若習、若多修習,決定能斷一切瞋恚。若欲決定斷貪欲者,當勤精進修不淨觀。若欲決定斷瞋恚者,當勤精進修慈悲觀。修不淨觀,無有貪欲而不能斷。修慈悲觀,無有瞋恚而不能斷。如是名為有二種法,若修、若習、若多修習,能斷二法。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私はこう聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。二つの修行法がある。これを修め、慣れ親しみ、繰り返し実践すれば、二つの煩悩を断つことができる。 その二つの修行法とは何か。 『不浄観』と『慈悲観』である。この二つは、貪欲と怒りを断つ。 なぜか。過去に貪り、今貪り、未来に貪るすべては、清らかだというイメージに心を向けることから生じる。 過去に怒り、今怒り、未来に怒るすべては、敵だというイメージに心を向けることから生じる。 すでに断ち切られた、今断ち切られている、そしてこれから断ち切られるべきすべての貪欲は、不浄観を心の拠り所として修めることによる。 すでに断ち切られた、今断ち切られている、そしてこれから断ち切られるべきすべての怒りは、慈悲観を心の拠り所として修めることによる。 不浄観を修め、慣れ親しみ、繰り返し実践すれば、必ずすべての貪欲を断つことができる。 慈悲観を修め、慣れ親しみ、繰り返し実践すれば、必ずすべての怒りを断つことができる。 もし、どうしても貪欲を断ち切りたいと思うならば、怠らず精進して、不浄観を修めなさい。 もし、どうしても怒りを断ち切りたいと思うならば、怠らず精進して、慈悲観を修めなさい。 不浄観を修めて、断ち切れない貪欲はない。 慈悲観を修めて、断ち切れない怒りはない。 このように、この二つの修行法を修め、慣れ親しみ、繰り返し実践すれば、二つの煩悩を断つことができるのである。」 そのとき、世尊はこの教えを要約して、次のように偈を説かれた。
「修習多修習, 二法斷二法,
謂不淨、慈悲, 斷貪欲、瞋恚。
是故有智者, 當觀自饒益,
修不淨、慈悲, 斷貪欲、瞋恚。」
修行を重ね修めることで、二つの法が二つの煩悩を断つ。 すなわち、**不浄観**は貪欲を断ち、**慈悲観**は怒りを断つ。 ゆえに賢い人は、自らの利益となるこの教えをよく観察し、 不浄観と慈悲観を修めて、貪欲と怒りを断ち切るべきである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!其涅槃界略有二種。云何為二?一者有餘依涅槃界;二者無餘依涅槃界。云何名為有餘依涅槃界?謂諸苾芻得阿羅漢,諸漏已盡,梵行已立,所作已辦,已捨重擔、已證自義、已盡有結、已正解了,心善解脫、已得遍知。宿行為緣,所感諸根猶相續住,雖成諸根,現觸種種好醜境界而能厭捨,無所執著,不為愛恚纏繞其心,愛恚等結皆永斷故。
私が世尊(仏)からこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。涅槃の世界には、大まかに二つの種類がある。その二つとは何か。第一に『余依ありの涅槃界』、第二に『余依なき涅槃界』である。
では、『余依ありの涅槃界』とは何か。それは、ある比丘たちが阿羅漢(悟りを開いた者)となり、すべての煩悩が尽き、清らかな修行(梵行)はすでに確立し、なすべきことはすべて成し遂げ、重い荷を下ろし、自らの悟りの目的を果たし、生存への執着(有結)を完全に断ち、正しく理解し、心が完全に解脱し、一切を遍く知り尽くしている状態をいう。
だが、過去の行い(宿行)の縁によって感覚する器官(諸根)は、なおもそのまま続いて存在している。これらの器官は備わっていながら、現に様々な良い・悪い対象(境)に触れても、それらを厭い離れることができ、何ものにも執着しない。愛や怒りが心を縛ることはなく、そうした愛や怒りの束縛は、すでに永遠に断たれているのである。」
「彼於諸色,求欲見時,雖復以眼觀於諸色,而不發起貪、瞋、癡等。雖復有眼及好醜色而無貪欲亦無瞋恚。所以者何?愛恚等結皆永斷故。彼於諸聲,求欲聞時,雖復以耳聽於諸聲,而不發起貪、瞋、癡等。雖復有耳及好醜聲而無貪欲亦無瞋恚。所以者何?愛恚等結皆永斷故。彼於諸香,求欲嗅時,雖復以鼻嗅於諸香,而不發起貪、瞋、癡等。雖復有鼻及好醜香而無貪欲亦無瞋恚。所以者何?愛恚等結皆永斷故。彼於諸味,求欲甞時,雖復以舌甞於諸味,而不發起貪、瞋、癡等。雖復有舌及好醜味而無貪欲亦無瞋恚。所以者何?愛恚等結皆永斷故。彼於諸觸,求欲覺時,雖復以身覺於諸觸,而不發起貪、瞋、癡等。雖復有身及好醜觸而無貪欲亦無瞋恚。所以者何?愛恚等結皆永斷故。彼於諸法,求欲知時,雖復以意知於諸法,而不發起貪、瞋、癡等。離諸貪欲,證得究竟寂滅涅槃。作是思惟:世尊為彼怖畏諸有阿賴耶者、恒為斷見所繫縛者,令知業果無失壞故,所說正法現見、應時、易見、饒益、智者內證、一切世間真實對治,謂能除滅憍慢渴愛,害阿賴耶,斷諸徑路,證真空性,離諸貪欲,證得究竟寂滅涅槃。如是名為有慧眼者能正觀察。如是名為由二纏故,令諸天人——一類怯劣,一類勇猛——有慧眼者能正觀察。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
彼は、様々な色を見ようとする時、たとえ眼でそれらを見ても、貪りや怒りや無知などを起こすことがありません。たとえ眼があり、美しい色や醜い色があっても、貪欲も怒りもありません。なぜなら、愛着や怒りといった煩悩の結びつきは、すべて永遠に断ち切られているからです。彼は、様々な音を聞こうとする時、たとえ耳でそれらを聞いても、貪りや怒りや無知などを起こすことがありません。たとえ耳があり、心地よい音や不快な音があっても、貪欲も怒りもありません。なぜなら、愛着や怒りといった煩悩の結びつきは、すべて永遠に断ち切られているからです。彼は、様々な香りを嗅ごうとする時、たとえ鼻でそれらを嗅いでも、貪りや怒りや無知などを起こすことがありません。たとえ鼻があり、良い香りや悪い香りがあっても、貪欲も怒りもありません。なぜなら、愛着や怒りといった煩悩の結びつきは、すべて永遠に断ち切られているからです。彼は、様々な味を味わおうとする時、たとえ舌でそれらを味わっても、貪りや怒りや無知などを起こすことがありません。たとえ舌があり、美味しい味やまずい味があっても、貪欲も怒りもありません。なぜなら、愛着や怒りといった煩悩の結びつきは、すべて永遠に断ち切られているからです。彼は、様々な感触を感じようとする時、たとえ体でそれらを感じても、貪りや怒りや無知などを起こすことがありません。たとえ体があり、心地よい感触や不快な感触があっても、貪欲も怒りもありません。なぜなら、愛着や怒りといった煩悩の結びつきは、すべて永遠に断ち切られているからです。彼は、様々な法(現象)を知ろうとする時、たとえ心でそれらを知っても、貪りや怒りや無知などを起こすことがありません。あらゆる貪欲を離れ、究極の寂滅・涅槃を証得します。そして、こう考えます。『世尊は、あらゆる存在に執着し(阿頼耶)、常に断見に縛られている者たちのために、因果の法則が失われないことを知らせるために、この正しい教えを説かれた。この教えは、現に見え、時に適い、理解しやすく、利益をもたらし、智者が自ら内証するものであり、一切の世間に対する真実の対治法である。すなわち、慢心と渇愛を除き去り、阿頼耶(執着)を滅ぼし、あらゆる迷いの道筋を断ち切り、真実の空性を証得し、あらゆる貪欲を離れ、究極の寂滅・涅槃を証得するものである。』これを、智慧の眼を持つ者が正しく観察する、と言うのです。また、このように二つの束縛(纏)によって、天人たちの一部は臆病になり、一部は勇猛になりますが、智慧の眼を持つ者は、これを正しく観察することができます。」
その時、世尊はこの意味をまとめて、次の偈を説かれました。
「由二纏所纏, 令諸天人眾,
一類有怯劣, 一類有勇猛。
有慧眼聲聞, 能如實觀察,
能除慢厭離, 究竟證涅槃。
復如實了知, 佛所說正法,
能滅斷常見, 及二愛無餘。
有慧眼龍王, 能普雨法雨,
滅諸煩惱焰, 令證大清涼。」
「煩わしさに縛られることで、 天や人の多くは、 ある者は臆病になり、 ある者は勇ましくなります。
しかし、智慧の眼を持つ弟子は、 このことをありのままに観察し、 傲慢を除き、厭い離れて、 ついに悟りを実証します。
また、仏の説かれた正しい教えを ありのままに理解し、 断見と常見の二つを滅ぼし、 さらに二つの執着も残さずに除きます。
智慧の眼を持つ龍王のように、 法の雨を広く降らせて、 あらゆる煩悩の炎を消し、 人々を大きな清らかな安らぎへ導くのです。」
本事經卷第三
本事経 巻第三