まず、「盂蘭盆」という名称の意味について説明します。これは盂蘭盆法会で供養することを指す名前です。「盂蘭」はサンスクリット語の「ウランバナ」が正しい音写で、「逆さ吊りの苦しみを救う」という意味です。地獄・餓鬼・畜生の三悪道での極度の苦しみは、言葉で表せない程であり、これを「逆さ吊り」に例えたのです。この供養法を行うことで、その苦しみが解かれるので、「救い」と呼びます。「盆」は中国語で、食べ物を入れる清らかな容器のこと。一切の鉢や碗を総称して「盆」と言います。後の人々がこれを誤解して、一つの大きな皿に食物を全て盛り、皆で同じものを供養しましたが、これは戒律に大きく反し、僧侶たちはそれを享受しませんでした。凡夫も聖者も、僧伽の食器に触れてはならないという決まりがあるからです。今「盂蘭盆」と言うのは、様々な清らかな碗や鉢に、清らかな美味しい食べ物を盛り、十方の僧侶に供えることで、慈しみ深い父母を、あたかも逆さ吊りの苦しみから救うようなものだからです。「逆さ吊り」は救われる対象であり、「盆」は救う手段。対象と手段を合わせて「盂蘭盆」と呼びます。また、対象から手段へと名前を移して、この盆を「逆さ吊りを救う盆」とも言います。
三界における分段の生死も、変易の生死も、すべて苦しみの報いであり、餓鬼だけが「逆さ吊り」と呼ばれるわけではありません。凡夫の四つの倒錯した見解、二乗の四つの倒錯した見解も、すべて「逆さ吊り」の原因です。欲界には禅定という食べ物がなく、三界には煩悩を離れた清らかな飲み物が欠けています。偏った真理だけを求める者は俗諦という法財を欠き、仮の位に留まる者は中道という真実の味を失っています。これらはすべて「逆さ吊り」の結果です。
碗や鉢を盆とし、百種類の味わいや五種の果実を食べ物として、餓鬼の逆さ吊りを解く。心を落ち着けることを盆とし、十の修行の支えを食べ物として、欲界の逆さ吊りを解く。四つの観想を盆とし、四つの真理を観察する修行を食べ物として、三界の逆さ吊りを解く。広大な誓願を盆とし、六つの波羅蜜や多くの行いを食べ物として、四つの枯れた状態の逆さ吊りを解く。一心を盆とし、思いを超えた観慧を食べ物として、両極端の逆さ吊りを解く。このように広げていけば、結局は碗や鉢と百味の食物を、正しい因縁の境としていることが分かります。もし実際の事象という境がなければ、道理を観じる心も寄る辺がありません。もし道理を観じる心がなければ、事象における功徳も深くありません。この説を見て、事象を廃そうとするなら、目連尊者が神通力を得た時、すでに四つの観想という盆や四つの真理という食べ物を成就していたのに、なぜ母親は餓鬼道から抜け出せなかったのでしょう?
「仏説」の二字については、通常の解釈通りです。「経」という語も通称であり、通常の解釈通りですので、ここでは詳しく述べません。
次に、心の観点から名称を解釈します。清らかな戒律を器とし、無作の四諦という思いを超えた観慧を食べ物として、自身の本性に具わる一体三宝に供養します。八つの倒錯からの「逆さ吊り」を完全に解き、一つの真実の境地に至ります。無明を父、貪愛を母とするなら、その瞬間に明るく解脱した状態となります。智慧を母、方便を父とするなら、自然に無功用の境地に入ります。これを「盂蘭盆」と名付けるのです。