正明心佛觀慧第四
夫念佛三昧者。實使群生超三界生極樂之徑路也。始自鷲嶺敷宜。次羨廬山繼軌。十方稱讚諸祖傳持。自昔至今。有自來矣。但其說或不能一。致後學不得其歸。獨天台三觀法門理冠群經。超乎眾說。稟教得旨。其益難思。故後學不可不以此為舟航也。夫三觀者。一念即空即假即中也。自我如來恢揚。至於智者妙悟。所謂空則一切皆空。假則一切皆假。中則一切皆中。俱破俱立。俱非破立。圓融絕待。難議難思。統諸部之玄門。廓生佛之境智。極萬法之源底。顯淨土之圓修。念佛三昧非此法門。則有所未盡也。四明大師發揚妙旨。以論後學。今悉用其語。求生淨土。雖不外乎世間小善及彼事想。若非以大乘圓妙三觀法門。釋彼十六觀經奧旨。使人開解起行。何由必生。十六觀者。初觀落日。所以先標送想向彼佛也。初心行人雖了根塵皆是法界。而心想羸劣。勝境難現。是故如來設異方便。即以落日為境。想之令起觀中之日。圓人妙解。知能想心本具一切依正之法。今以具日之心。緣於即心之日。令本性日顯現其前。斯乃以法界心。緣法界境。起法界日。既皆法界。豈不即空假中。此猶總示。若別論三觀成日劫者。以根境空寂。則心日無礙。以緣起假立。故累想日生。以其心日皆法界。故當體顯現。日觀既成。則三觀同在一心。非一非三。而一而三。不可思議。日觀既爾。餘觀例爾。應知十六皆用即空假中一心三觀。以為想相之法。次觀清水。復想成氷。良以彼土琉璃為地。此地難想。且令想氷。氷想若成。寶地可見。如上且以所見落日及氷。以為方便。次觀地觀樹觀池。及以總觀樓地池等。已上六觀皆所以觀彼土之依報也。至於觀華座者。為三聖之親依。觀寶像者。類三聖之真體。欲觀於佛。先觀於座。真佛難觀。要先觀像。乃至普觀往生。雜觀佛菩薩等七觀。皆所以觀彼土之正報也。後三觀者。明三輩九品之人自此而生彼也。既然修因不同。是故感果差降。今亦觀者。為令行人識別三品優劣。捨於中下而修習上品往生故也。然諸觀皆用經所示相。憶持在心。為所觀境。仍了自心本具此法。託境想成。發明心目。又經題云佛說觀無量壽佛經者。佛是所觀勝境。舉正報以收依果。述化主以包徒眾。觀雖十六。言佛便周。則當但觀彼佛也。欲觀彼佛者。則當先觀彼佛如虛空量。端嚴微妙廣大色身。一一身分八萬四千相。一一相中八萬四千隨形好。一一好中八萬四千光明。一一光明之中一一世界海。彼世界海中。一切十方諸佛菩薩聲聞緣覺僧眾。一一微妙廣大。不可具說。但當憶想令心眼見。見此事者。即見十方諸佛。以見諸佛故。名念佛三昧。作是觀者。名觀一切佛身。以觀佛身故。亦見佛心。佛心者大慈悲是。以無緣慈攝諸眾生。作此觀者。捨身他世。生諸佛前。得無生忍。又云。觀無量壽佛者。從一相好入。但觀眉間白毫。極令明了。見眉間白毫者。八萬四千相好自然當現。見無量壽佛者。即見十方無量諸佛。得見無量諸佛故。諸佛現前授記。是為遍觀一切色身相。故知十六妙觀以觀佛為要。八萬相好都想難成。故令但觀眉間毫相如五須彌。此想若成。八萬皆現。此為要門也。若修前諸觀。心得流利。觀已宏深。則可稱彼毫量而觀。使八萬相好自然皆現。疏中令觀劣應毫相。乃為未修前諸觀者。及為雖修觀未成者。故於佛身別示初心可觀之相。為三昧門也。又慈雲法師但令直想阿彌陀佛丈六金軀坐於華上。專繫眉間白毫一相。其毫長一丈五尺。周圍五寸。外有八稜。中表俱空。右旋宛轉在眉中間。瑩淨明徹不可具說。顯映金顏。分齊分明。作此想時。停心注想堅固勿移。此想若成。則三昧現前矣。是故觀佛三昧經云。若人至心繫念。端坐觀念色身。當知心如佛心。與佛無異。雖在塵勞。不為諸塵之所覆蔽。作是觀者。是真念佛。是知觀佛功德。其事如是。又彼世尊相好光明微妙廣大。眾生狹劣想念難成。佛令於真身觀前先令想像。佛必坐座。又先觀座。座觀若成。則當想像。經云。諸佛如來是法界身。入一切眾生心想中。是故汝等心想佛時。是心即是三十二相八十隨形好。是心作佛。是心是佛。諸佛正遍知海從心想生。是故應當一心繫念諦觀彼佛。夫法界身者報佛法性之身也。滿足始覺名為報佛。究顯本覺名法性身。始本相冥能起應用。然非眾生能感。則諸佛亦豈能應。能感如水。能應如日。是故始覺合本。猶白月昇天。應入淨想。如影現百川。有感有應。此二道交。是為入眾生心想之義也。又法界身者即佛身也。無所不遍故。以法界為體。若能得此觀佛三昧。則觀解心契入佛體。佛體入觀解心。斯乃始覺解於本覺。是故本覺入於始覺。有解有入。此二相應。是為入眾生心想中也。當知今之心觀非直於陰心觀本性佛。乃託他佛以顯本性。是故先明應佛入我想心。次明佛心全是本覺。故應佛顯。知本性明。託外義成。惟心觀立。二義相成。是今觀法。又經中云是心作佛是心是佛者。所以示今觀佛。當明修性不二之旨。言作佛者。此有二義。一者淨心能感他方應佛。謂諸佛法身本無色相。由眾生淨心依於業識熏佛法身故。能見佛勝應色相。二者三昧能成自己果佛。謂眾生以淨心想。成就觀佛三昧。故能使自己終成作佛。此之二義。初作他佛。次作己佛。當知果佛從證。非是自然。即是而作。全性成修。顯非性德自然是佛也。言是佛者亦有二義。一者心即應佛。前言性本無相心感故有。則心佛有無條然永異。今泯此見。故則眾生之心全是應佛。以離此心外更無佛故。二者心即果佛。既心是果佛。故知無有成佛之因。以眾生心中已有如來結加趺坐。豈待當來方成果佛。此之二義。初是應佛。次是果佛。當知果佛本具。非從緣成則作而是。全修成性。顯非修德因緣成佛也。若以作是顯於三觀。則空破假立。皆名為作。二邊之觀也。不破不立。名之為是。中道之觀也。全是而作。則三諦俱破俱立。全作而是。則三諦俱非破立。即中之空假名作。則能破三惑立三法。故感他佛三身圓應。能成我心三身當果。即空假之中名是。則全惑即智。全障即德。故心是應佛。心是果佛。故知作是之義一心修者。乃不思議之三觀。為十六觀之總體。一經之妙宗也。文出此中。義遍初後。是故行者當用此意修淨土因。或曰。何不依經所說惟以事想直生淨土。乃顯慧觀之門。使初心難入耶。答曰。觀慧事想乃至人中微善。但得一心。皆可生於淨土。但麁妙之不同耳。麁則惟彼事想。妙則專乎心觀。疏云。良以圓解全異小乘。小昧惟心。佛從外有。是故心佛其體不同。大乘行人知我一心具諸佛性。託境修觀佛相乃彰。今觀彌陀依正為緣。熏乎心性。心性所具極樂依正由熏發生。心具而生。豈離心性。全心是佛。全佛是心。終日觀心。終日觀佛。其旨明矣。又應了知。法界圓融不思議體作我一念之心。亦復舉體作生作佛作依作正作根作境。一心一塵至一極微。無非法界全體而作。既一一法全法界作。故趣舉一。即是圓融法界全分。既全法界。有何一物不具諸法。以一切法一一皆具一切法故。是故今家立於惟色惟香等義。又云。毘盧遮那遍一切處。一切諸法皆是佛法。所謂眾生性德之佛。非自非他非因非果。即是圓常大覺之體。故知果佛圓明之體。是我凡夫本具性德。故四三昧通名念佛。若此觀門託彼安養依正之境。用微妙觀專就彌陀顯真佛體。雖託彼境。須知依正同居一心。心性周遍。無法不造。無法不具。若一毫法從心外生。則不名為大乘觀也。又仁王般若經云。佛問波斯匿王。汝以何相而觀如來。王言。觀身實相。觀佛亦然。無前際中際後際。不住三際。不離三際。不住五蘊。不離五蘊。不住四大。不離四大。不住六處。不離六處。不住三界。不離三界。乃至非見聞覺知。心行處滅。言語道斷。同真際。等法性。我以此相觀如來身。佛言。應如是觀。若他觀者。名為邪觀。此義益明矣。又云。若其然者。何不直觀彼土真身之妙。而又此經教人先修像觀耶。答。娑婆教主稱讚樂邦。務引眾生出離五濁。教觀彼佛六十萬億那由他由旬之法身。而先之以華上寶像者。開示方便使觀麁見妙也。繼之以丈六八尺之像者。隨順下凡使觀小見大也。蓋麁妙異想。悉從性而起修。小大殊形。咸自本而垂迹。能觀之性初無差別。所觀之境寧可度量。是故圓頓之談一音普被。開示其次第而非漸。隨順其根器而非偏。並啟觀門全彰實相。像教之源豈不在茲。此是念佛三昧單提直截之旨。始終不二之談。大乘圓頓之道。如日月普照天下後世。使知真妄之心即一而不同。而理有所詣也。可謂不離日用。解行觀慧悉皆具足。學者可不盡其心哉。
さて、仏を念じる三昧(念仏三昧)とは、実に、迷える全ての生きとし生けるものを三界(欲界・色界・無色界)から超え出させ、極楽浄土に生まれさせてくれる道筋である。その教えは、釈尊が霊鷲山で説き広められたことに始まり、その後、廬山の慧遠大師がその教えを受け継いだ。十方の仏陀たちが称賛し、歴代の祖師たちが伝え守ってきた。昔から今日に至るまで、そうした由緒ある流れがあるのである。
しかし、その教えには時に統一された解釈がなく、後から学ぶ者たちが帰依するべき拠り所を得られないこともあった。ただ、天台宗の三観という法門だけは、その理屈があらゆる経典の中で最も優れ、他説を超越している。この教えを受け、その真意を得れば、その利益は思い計ることも難しい。だからこそ、後学の者は、この三観の法門を航海における船や航路のようにして、拠り所としなければならないのである。
では、三観とは何か。それは、一つの念がそのまま「空」であり、「仮」であり、「中」である、ということである。我が仏・釈尊がこの教えを広められてから、智者大師が見事に悟りを開かれた。その悟りとは、所謂「空」と言えば一切は全て空であり、「仮」と言えば一切は全て仮であり、「中」と言えば一切は全て中である、ということだ。そして、それらは同時に全てを打ち破り(破)、全てを立て(立)、同時に破立のどちらでもない(非破非立)。円満に融合し、比較や対立を絶しており、思議を絶している。この三観は、あらゆる経典の奥深い教えを統べ、迷える衆生と悟った仏陀の境界と智慧を明らかにし、森羅万象の根源にまで達し、浄土へ至る円満な修行法を顕わにする。念仏三昧も、この三観の法門なくしては、その真髄を極めたとは言えないのである。
四明尊者(知礼大師)はこの素晴らしい教えの真髄を明らかにし、後世の学徒のために論じられた。私は今、その言葉をすべて用いて、浄土への往生を願うこととする。往生は、世間的な小さな善行や、仏の姿を思い描くだけの事相的な観想だけに依存するものではない。もし、大乗仏教の円満で絶妙な三観の法門を用いて、『観無量寿経』の十六観の奥深い教えを解き明かし、人々にその意味を理解させ、実践に導くことがなければ、どうして必ず往生できると言えようか。
十六観とは、まず初めに夕日を観想することから始まる。これは、まず西方の彼の仏(阿弥陀仏)を思い慕う心を表すためである。初めて心を起こしたばかりの修行者は、自分の感官(六根)や外界(六塵)が全て法界そのものであると理解してはいても、心の想いの力は弱々しく、素晴らしい境地を現し出すことは難しい。それゆえ、如来は特別な方便を設けられた。すなわち、夕日を観想の対象(境)とし、それを想い続けることで、観想の中に日を現れさせよ、と。円かなる悟りを開いた者は、巧みな理解によって、自らの想いを起こす心が、本来、全ての依報(環境)と正報(主体)を具えていることを知っている。そこで今、日を具えたこの心を用いて、即ち心そのものである日を縁として、本性に具わる日を目の前に顕現させるのである。これは、法界の心をもって法界の境を縁じ、法界の日を起こすことに他ならない。これらが全て法界であるならば、どうして即空・即仮・即中でないことがあろうか。これは全体を示す説明である。
もし個別に三観によって日の観想が成就する過程を論じれば、次のようになる。感官(根)と対象(境)は共に空寂であるから、心と日は互いに障りなく融け合う(空観)。縁起によって仮に立てられているから、繰り返し想うことで日が生じる(仮観)。心も日も共に法界であるから、その本体において顕現する(中観)。日の観想が成就すれば、三観は一つの心に同居する。一つでもなく三つでもなく、一つであり三つであり、その働きは思議を絶しているのである。
日の観想がこのようであるならば、他の観想も全てこれに準ずる。知るべきである。十六観は全て、即空・即仮・即中・一心三観を用いて、形相を想い描く方法としているのである。
次に、清水を観想し、さらにそれが氷に変わることを想う。これは、あの極楽世界の琉璃の地は想像し難いので、まず氷を想わせ、その氷の想いが成就すれば、宝玉の地が見えるようになるという方便である。以上、まずは眼前の夕日や氷を観ることを手がかり(方便)とした。
次に、大地(地観)、宝樹(樹観)、宝池(池観)、そして総観として楼閣・宝地・宝池などを観想する。これら六つの観想は、全てあの極楽世界の環境(依報)を観ずるものである。
続いて、蓮華の台座(華座観)を観じるのは、阿弥陀仏・観音・勢至の三聖が直接よりどころとされるものである。宝像(宝像観)を観じるのは、三聖の真のお姿に擬えるものである。仏を観ようとするならば、まずその座(華座)を観よ。真の仏を直接観ることは難しいので、まずは像を観よと教えられている。さらに、普観(普往生観)、雑想観(雑観)など七つの観想は、全てあの世界の主体(正報)を観ずるものである。
最後の三観(上輩観・中輩観・下輩観)は、三輩九品の異なる人々が、この世界からあの世界へ往生する様子を明かすものである。因としての修行が同じではないので、果としての報いにも優劣の差があるのである。これを観ずるのは、修行者に三品の優劣を識別させ、中品や下品を捨てて上品往生を修めるようにさせんがためである。
しかし、これらの全ての観想は、経典に示された形相を心に憶え保ち、それを観想の対象(所観の境)とする。そして、自らの心が本来この形相(法)を具えていることを了解し、その対象に依り添って想いを凝らし、完成させることによって、心の目(心眼)を開き明らかにするのである。
また、経典の題名に「仏説観無量寿仏経」とあるのは、仏が観想される優れた対象(勝境)であることを示す。正報(主体)を挙げて依報(環境)も含め、教化の主(釈尊)を述べてその教えを受ける弟子たちも包括するのである。観想は十六あると言っても、「仏」と言えば全てを網羅する。それならば、ただあの仏(阿弥陀仏)を観ずればよいのである。
あの仏を観たいと思うならば、まず、あの仏の姿は虚空のように広大無辺であると観ずべきである。その姿は端厳で微妙、広大な色身であり、一つ一つの身体の部分に八万四千の相があり、一つ一つの相に八万四千の随形好があり、一つ一つの好に八万四千の光明があり、一つ一つの光明の中に、一つ一つの世界海があり、その世界海の中には、一切の十方の諸仏・菩薩・声聞・縁覚・僧侶たちがいる。それらの一つ一つは微妙で広大で、説き尽くすことはできない。ただ憶念し、想い起こして、心の目で見ることをせよ。このことを観ずる者は、即ち十方の諸仏を見るのである。諸仏を見るがゆえに、これを念仏三昧と名付ける。このように観ずることを、一切の仏身を観ずると名付ける。仏身を観ずるがゆえに、また仏心を見る。仏心とは、大いなる慈悲のことである。無縁の慈悲をもって全ての生きとし生けるものを摂め取られるのである。このように観ずる者は、この身を捨てて他世に、諸仏の前に生まれ、無生法忍を得るのである。
また、経典にはこう説かれている。「無量寿仏を観ずるには、一つの相好から入るのである。ただ眉間の白毫(びゃくごう)を観じて、極めて明らかにせよ。眉間の白毫を見る者は、八万四千の相好が自然に現れるであろう。無量寿仏を見る者は、即ち十方の無数の諸仏を見るのである。無数の諸仏を見るがゆえに、諸仏が目前に現れて授記(未来における成仏の予言)を与えられる。これを、遍く一切の色身の相を観ずると名付ける。」
それゆえ、十六の妙なる観想は、仏を観ずることを肝要とすると知るべきである。八万の相好を全て同時に想い描くことは難しいので、ただ眉間の白毫の相(五つの須弥山ほどの大きさ)だけを観ぜよと教えられたのである。この想いが成就すれば、八万の相好が自然に現れる。これが肝要な方法(要門)である。
もし前に観想を修して心の流れが滑らかになり、観想がすでに深く広くなっているならば、その白毫の大きさに合わせて観じ、八万の相好も自然に現れさせることができる。紆疏(『観無量寿経紆』か)や解説書では、粗末な応身(劣応身)の白毫の相を観ぜよと教えている。これは、前に諸の観想をまだ修めていない者や、あるいは修めても成就していない者のために、仏身の中に、初心者でも観想しやすい相を別に示して、三昧に入るための門(三昧門)としたのである。
また、慈雲遵式法師は、ただまっすぐに、阿弥陀仏の丈六の黄金の身体が蓮華の上に坐しておられるのを想い、もっぱら眉間の白毫の一つの相に心を集中させるようにと教えられた。その白毫の長さは一丈五尺、周囲は五寸、外側には八つの稜(かど)があり、内も外も共に空であり、右に回り旋って眉の間にある。その光り輝き、清らかで明らかな様は、言葉で尽くすことはできない。それが黄金の顔に映え、それぞれの部分が明らかに見分けられる。この想いをする時には、心をとどめて想いに専念し、固く守って移動させてはならない。この想いが成就すれば、三昧が現前するのである。
それゆえ、『観仏三昧経』にはこう説かれている。「もし人が心をこめて想念を一つに保ち、端坐して仏の色身を観念せよ。心は仏心の如くであり、仏と異なるところはないと知るべきである。たとえ煩悩の塵の中にいても、諸々の塵に覆い蔽われることはない。このように観ずる者、これを真の念仏という。」これにより、仏を観ずる功徳はこのようなものであると知るべきである。
また、かの世尊の相好光明は微妙・広大である。しかし、衆生の心は狭く劣っているため、想念して成就することは難しい。それで仏は、真身を観ずる前に、まず想像(想像観)をせよと教えられた。仏は必ず座(華座)に坐しておられるので、まず座を観ぜよと教えられたのである。座の観想が成就すれば、次に想像をすべきである。
経典にはこう説かれている。「諸仏如来は法界身である。一切衆生の心の想いの中に入る。それゆえ、汝らが心に仏を想う時、その心は即ち三十二相・八十随形好である。その心は仏を作る(是心作仏)。その心は仏そのものである(是心是仏)。諸仏の正遍知の海は、心の想いから生じる。それゆえ、一心に心を集中させて、あの仏を細かく観察し、念じよ。」
法界身とは、報身仏の法性の身である。始覚を満たしたものを報身仏と名付け、本覚を究め顕わしたものを法性身と名付ける。始覚と本覚とが冥合して、応化の作用を起こすことができる。しかし、衆生に感応する心(能感)がなければ、諸仏に応える力(能応)があっても応えることはできない。能感の心を水に、能応の作用を太陽に譬えることができる。それゆえ、始覚が本覚に合うことは、白月(満月)が天に昇るようなものである。その応用(応身)が清らかな想いに入ることは、影が多くの川に映るようなものである。感ずる心があり、応える作用がある、この二つが交流すること、これを「衆生の心の想いの中に入る」という意味と解するのである。
また、法界身とは即ち仏身のことである。遍く行き渡らないところがないので、法界をその体とするのである。もしこの観仏三昧を得ることができれば、観想し理解する心が仏の体に冥合し(契入し)、仏の体が観解の心に入るのである。これはすなわち、始覚が本覚を理解し、それによって本覚が始覚の中に入るということである。理解し、冥入する、この二つが相応ずることを、「衆生の心の想いの中に入る」と説くのである。
知るべきである。今の心の観想(心観)は、単に迷いの心(陰心)の上で直接に本性の仏を観ずるのではない。他者の仏(阿弥陀仏)に託して、自らの本性を顕わすのである。それゆえ、まず応身の仏が我が想いの心に入ることを明らかにし、次にその仏心は全て本覚であることを明らかにする。故に、応身の仏が現れることによって、本性が明らかであることを知る。他者に託するという意味が成立し、唯心の観想(唯⼼観)が確立するのである。この二つの義(託他仏・顕本性)が互いに助け合って成立するのが、今の観法なのである。
また、経典の中で「是心作仏、是心是仏」と説かれているのは、今の観仏を修行するに当たり、修行(修)と本性(性)は不二であるという宗旨を明らかに示そうとしているのである。「作仏(仏を作る)」と言うには、次の二つの意味がある。
一つは、清らかな心が他方の応身仏を感応できることである。諸仏の法身には本来、色や形はない。しかし、衆生の清らかな心が、業識の作用に基づいて法身を熏習することによって、仏の優れた応身の色相を見ることができるのである。
二つには、三昧が自己の果報としての仏(果仏)を成就できることである。衆生が清らかな心の想いによって、観仏三昧を成就すれば、自らをしてついには仏となることを成し遂げさせるのである。
この二つの意味のうち、第一は他方の仏を作る義、第二は自己の仏を作る義である。知るべきである。果報としての仏(果仏)は、証悟することによって得られるのであり、自然的にあるのではない。「即ち是(そのまま)」でありながら「作(はたらきかける)」、すなわち本性(性)を全うして修行(修)を成すのであり、性徳の自然によって仏であることを顕わすのではないのである。
「是仏(仏である)」と言うにも、また二つの意味がある。
一つは、心が即ち応身仏であることである。前段の義では、本性は本来無相であるが、心が感応するからこそ仏があるとした。この考え方では、心と仏は無か有かで全く異なったものとなる。しかし、今ここではそのような見解を払拭する。故に、衆生の心は全て応身仏そのものであると説くのである。この心を離れて、他に仏はないからである。
二つには、心が即ち果報としての仏(果仏)であることである。心が既に果仏であるなら、成仏の因は無いということになる。なぜなら、衆生の心の中に、すでに如来が結跏趺坐しておられるのであり、どうして未来において初めて果仏が成就するのを待つ必要があろうか。
この二つの意味のうち、第一は応身仏、第二は果仏の義である。知るべきである。果仏は本来具わっているものであり、縁によって成立するのではない。「作(はたらきかけ)」でありながら「是(そのまま)」、すなわち修行(修)を全うして本性(性)を成すのであり、修行の因縁によって仏となる(修徳因縁成仏)ことを否定するのではないのである。
もし「作(はたらきかけ)」と「是(そのまま)」を以て三観を顕わすならば、空観が仮観を打ち破ることや仮観を立てることは、全て「作」と呼ばれる。これは二辺(空と仮)の観である。打ち破ることも立てることもしないことを「是」と名付け、中道の観とする。「是」を全うして「作」とするならば、三諦(空・仮・中)は全て同時に打ち破られ、同時に立てられる。「作」を全うして「是」とするならば、三諦は全て破立