ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 十一面神呪心経義疏 (十一面神呪心經義疏)
  1. 十一面神呪心経義疏 (十一面神呪心經義疏)
  2. 十一面神呪心経義疏 (十一面神呪心經義疏)

十一面神呪心経義疏 (十一面神呪心經義疏)

「十一面神呪心經義疏」について

唐 · 慧沼撰 著

1.1 万字 · 約 36 分

唐代の高僧・慧沼が著した『十一面神呪心経義疏』は、『十一面神咒心経』に対する権威ある注釈書です。この経典は密教経典に属し、十一面観音を本尊とし、その神呪の功徳と修行法門を説いています。唯識宗の重要な学者であった慧沼は、その疏解において顕教と密教の教理を融合させ、呪文の意味、儀軌、観想の次第を体系的に解釈しています。この疏は唐代における密教の発展と、顕密融合の思想的特徴を反映しており、漢伝密教、観音信仰、そして唐代仏教の教学研究において重要な文献であり、学術的にも実践的にも高い価値を有しています。


十一面神呪心經義疏

十一面神呪心経義疏

夫至理幽寂言形之表,而靈智妙應玄感之機。炎嚮情風忽動慈極之妙觀,電影身雲流光悲重之珠王,感起東剎、應從西興,每感必應如谷神響、酬而現形如鏡明像,度十二因緣舉十二觀面、救八難極苦開八種神呪。然則入道雖多,不出人法。所言人者,十一面是;所言法者,神呪心是。非人無以持呪、非法無以成人,法人雖殊,不思議一也。十一面者,神徹三有無非現化、形入六趣無非感應,功齊已成之尊、迹同未極之流,體法性而永寂、拯溺衰而興悲,智窮太靈、身遍法界,靈達無方能照三業信敬、德力難思善救五趣苦難。十一面者,前三面慈相,見善眾生而生慈心,大慈與樂;左三面瞋面,見惡眾生而生悲心,大悲救苦;右三面白牙上出面,見淨業者發希有讚,勸進佛道;最後一面暴大笑面,見善惡雜穢眾生,而生怪咲改惡向道。頂上佛面,或對習行大乘機者,而說諸法究竟佛道,故現佛面。各爾三方三面,為化三有,故現三面。若合本面應十二面,而十一面是方便面,本體常面是真實面。面離於身,而智面主面表內懷以顯權實,故常面上現十一面,故曰十一面也。神呪心者,人既叵思大士所說神呪,法亦難測也。神者,難測也。呪者,勅責也。心者,慮智也。經者,彼云修多羅,亦云經也常也。漢地風俗,聖人所說皆名為經也。今大聖所說,故目之為經。前賢今聖雖歷永劫,所說經常故也。

そもそも究極の真理は幽玄で静寂、言葉や形を超えたところにありながら、霊妙な智慧は妙なる応現、玄妙な感応の機縁を示す。炎が風に応じて揺らめくように、慈悲の極みの妙なる観想が忽然と動き出す。電光の如き身の雲は流れ光り、悲願の重い珠の王となる。感応は東の寺に起こり、応現は西から興る。感ずれば必ず応じ、谷の神の響きの如く、応じて現れる姿は鏡に映る像の如し。十二因縁を度すために十二の観面を掲げ、八難の極苦を救うために八種の神呪を開く。されば、悟りへの道は多様であれど、人と法を出ずることはない。ここに言う人とは、十一面観音のこと。ここに言う法とは、神呪の心のこと。人なくしては呪を保つことができず、法なくしては人を成すことができない。法と人は異なるけれども、その不思議なる働きは一つである。

十一面観音とは、神威が三界に徹し、現れ化することのないところはなく、形が六道に入り、感応することのないところはない。その功徳は既に悟りを成した尊さに等しく、その跡は未だ極みに至らぬ衆生の流れに同じ。法性を体して永遠に寂滅し、溺れる衰えを救い上げて慈悲を興す。智慧は太い霊妙に窮まり、身は法界に遍く満ちる。霊妙は方所なく達し、三業の信敬を照らし、徳の力は思議し難く、五趣の苦難を善く救う。

十一面とは、前の三面は慈相。善なる衆生を見て慈しみの心を生じ、大慈をもって楽しみを与える。左の三面は瞋面。悪なる衆生を見て悲しみの心を生じ、大悲をもって苦しみを救う。右の三面は白牙上出面。清らかな業を行う者を見て希有なる賛嘆を発し、仏道へと勧め進める。最後の一面は暴大笑面。善悪混じり穢れた衆生を見て、奇異の笑いを生じ、悪を改めて道に向かわせる。頂上の仏面は、あるいは大乗の機根を持つ者に対し、諸法の究竟なる仏道を説くために、仏面を現す。それぞれ三方に三面ずつ、三界を化導するために、三面を現す。もし本来の面と合わせれば十二面となるが、十一面は方便の面であり、本体の常面こそが真実の面である。面は身を離れず、智の面、主の面は内に懐く権実を表し顕わす。ゆえに常面の上に十一面を現す。故に十一面というのである。

神呪心とは、人(十一面観音)が既に思議し難き大士の説く神呪であり、法もまた測り難い。神とは、測り難きこと。呪とは、勅して責めること。心とは、慮り智ること。経とは、彼の地では修多羅とも言い、また経とも常とも言う。漢地の風俗では、聖人の説くところは皆、経と名付ける。今、大聖の説くところであるから、これを経と称する。昔の賢者も今の聖者も、永劫を経ても、説くところは常に変わらぬゆえである。

今釋此經前有六義:第一明大意、第二明經宗、第三明功能、第四明階位、第五明感應、第六明釋文義。

この経典を解釈するにあたり、まず六つの要点を明らかにします: 第一に、経典の大意を明らかにする 第二に、経典の宗旨を明らかにする 第三に、その功徳と作用を明らかにする 第四に、修行の段階を明らかにする 第五に、信仰による感応を明らかにする 第六に、経文の意味を解釈する

第一、明大意。凡是大士化世之大意者,欲令一切入於佛道。故上求佛道下化有情,具三阿僧祇行,望得三菩提果,皆為有情令入佛道。然諸有情從本以來無明所藏纏縛生死,故菩薩垂大慈悲,以種種方便種種教化,大悲拔苦、大慈與樂。故此觀世音菩薩,現種種身、說種種教,化諸有情方便之事,於諸經中而廣說也。故《華嚴經》曰「觀世音菩薩住大悲法門度脫一切也。」《法華經》曰「以種種形遊諸國土度脫眾生,故三十三身現化眾生也。」《不空羂索經》曰「是觀自在菩薩,乃現八手而被鹿皮。」又曰「千手千眼大自在王十一面觀自在菩薩,此菩薩或現大自在天身。」故現此身也,亦此菩薩有無量身無量面,故《觀世音經》偈曰「具足神通力,廣修智方便,十方國土中,無剎不現身」也。

第一に、大意を明らかにする。そもそも菩薩が世を教化する大きな意味は、すべての者を仏道に入らせようとすることにある。それゆえ、上は仏道を求め、下は有情を教化し、三阿僧祇の行を具え、三菩提の果を得んことを望むのは、すべて有情のため、彼らを仏道に入らせようとするからである。しかし、諸々の有情は本来より無明に覆われ、生死に縛られてきた。それゆえ、菩薩は大慈悲を垂れ、種々の方便、種々の教化をもって、大悲で苦を抜き、大慈で楽を与える。このため、この観世音菩薩は、種々の身を現じ、種々の教えを説き、諸々の有情を教化する方便の事を、諸経の中に広く説いているのである。それゆえ『華厳経』には「観世音菩薩は大悲の法門に住して、一切を度脱する」とあり、『法華経』には「種々の形をもって諸国を遊行し、衆生を度脱する。それゆえ三十三身を現じて衆生を教化する」とある。『不空羂索経』には「この観自在菩薩は、八手を現じて鹿皮をまとう」とあり、また「千手千眼大自在王十一面観自在菩薩、この菩薩はあるいは大自在天の身を現ず」ともある。それゆえこの身を現じるのであり、またこの菩薩は無量の身、無量の面を持つ。それゆえ『観世音経』の偈には「神通力を具足し、広く智方便を修め、十方の国土の中に、現身せざる刹なし」とあるのである。

問:有何因緣故,是觀自在菩薩乃有如是方便而度娑婆耶?答:《天地本起經》曰「劫初時天下無光。爾時西方阿彌陀佛念:『當彼往化。能仁是同學,應彼作佛。』即擊犍槌,一切皆集欝提講堂。佛告眾言:『過此八十恒河沙土有忍土,眾生失於光明,為大困苦。誰建立功德?』於是應聲菩薩白佛:『世尊!十方佛皆建立,便天人不絕。』即與吉祥菩薩二人共議,為世作眼目而造日月也。應聲菩薩作日,吉祥菩薩即作月也。」應聲菩薩即觀世音菩薩也,吉祥菩薩即大勢菩薩也。是二菩薩神德無量,名稱若干,早陰此方,與物緣重也。

問:どういう因縁で、観自在菩薩はこのような方便をもって娑婆世界を救うのでしょうか。

答:『天地本起経』にこうあります。「劫の初め、世の中に光がありませんでした。その時、西方の阿弥陀仏は考えられました。『あの世界へ教化に赴こう。能仁(釈迦)は私の同門であり、あの世界で仏となるべき方だ』と。そこで犍槌を打ち鳴らすと、すべての菩薩が欝提講堂に集まりました。仏は大衆に告げられました。『ここから八十恒河沙の国土を過ぎたところに忍土(娑婆世界)がある。その衆生は光明を失い、大きな苦しみの中にある。誰か功徳を立てて救おうとする者はないか』と。すると応声菩薩が仏に申し上げました。『世尊よ、十方の仏は皆、功徳を立てられ、天と人の道が絶えることはありません』と。そこで吉祥菩薩と二人で相談し、世の眼目となるために日月を作りました。応声菩薩が太陽となり、吉祥菩薩が月となったのです。」ここにいう応声菩薩とは観世音菩薩のこと、吉祥菩薩とは大勢至菩薩のことです。この二菩薩の神徳は計り知れず、名も様々ですが、早くからこの世界を陰で支え、衆生との縁が深いのです。

問:此菩薩為幾劫化耶?答:此菩薩願重,故若眾生不盡者,是菩薩之化而不絕也。故經曰「昔有轉輪王名曰遍淨,有太子亦有大臣名寶慧也。大臣發大誓願,欲度娑婆世界時,是太子隨臣發願,共化此土故。爾時轉輪王者,西方阿彌陀佛也。太子者,是觀世音菩薩也。大臣者,是釋迦文佛也。」故《觀世音經》偈曰「弘誓深如海,歷劫不思議。侍多千億佛,發大清淨願」也。

問:この菩薩は、何劫もの間、衆生を教化されるのですか? 答:この菩薩は願いが深く重いゆえに、もし衆生が尽きることがなければ、この菩薩の教化も絶えることはありません。ですから、経典には次のように説かれています。「昔、遍浄という転輪聖王がおり、太子と宝慧という大臣がいました。大臣は大誓願を発し、娑婆世界を救おうとしました。その時、太子は大臣に従って願いを発し、共にこの国土を教化しようとしたのです。その時の転輪聖王は、今の西方阿弥陀仏であり、太子は観世音菩薩であり、大臣は釈迦牟尼仏です。」それゆえに『観世音経』の偈には「弘誓は海の如く深く、歴劫は思議すべからず。多くの千億仏に侍し、大いなる清浄の願いを発す」と説かれているのです。

第二、明經宗。問:此經以何為宗耶?答:正說所說意,略有三義:一者、以觀世音菩薩行法為經宗也。問:於《觀世音三昧經》已明行法,何故更說觀音行法耶?答:行有二種,一者寂靜行、二者動轉行也。彼經依定力而徵瑞,此經依作法而顯益,故異也。《三昧經》所說行法,若不得定,難可易得,不當末代機也。若此經如行法而作法,而終無不得益耳。二者、說觀世音菩薩神呪為宗。此有二事:一顯現事、二隱密。是經所說神呪祕密之事,如法行者,是菩薩大士無形能不應有情之感,故以神呪為經宗也。三者、為一切有情欲示所歸依處,故以菩薩德力為經宗也。故一切行者必依行法及菩薩神力而得成道之終,以無上道果為經宗。故下經曰「百千俱胝那由他佛名、稱菩薩稱名,二功德平等平等」也。問:此經行法於三乘行中為何行耶?答:三乘雖殊,其理一致,但心自有大中小,故三行差別也。故此經正明菩薩大行為宗也。問:此經所說神呪心者,為是菩提心耶?為是正神呪心耶?為是行者之心耶?答:今言神呪心者,非是有情之心也,是神呪祕密變異之義,似有心神,隨人所念得成就,故曰神呪心也。問:若是神呪有心者,為是生滅心耶?為是無生滅心耶?答:是神呪者,與理相應,故非色非心。而能色能心者,皆觀自在菩薩神呪似有心而非是有情心也。

第二に、経の宗旨を明らかにする。問う:この経は何を宗旨とするのか。答える:正説の説くところの意は、大略三つの意義がある。第一に、観世音菩薩の行法を経の宗旨とする。問う:『観世音三昧経』において既に行法は明らかにされている。なぜ改めて観音の行法を説くのか。答える:行には二種ある。一つは寂静行、二つは動転行である。あの経は定力に依って瑞相を顕わし、この経は作法に依って利益を顕わす。故に異なるのである。『三昧経』の説く行法は、もし定を得なければ、容易に得難く、末代の機根には相応しくない。この経の如く行法に従って作法を行えば、終に利益を得られないことはない。第二に、観世音菩薩の神呪を説くことを宗旨とする。これには二つの事がある。一つは顕現の事、二つは隠密の事である。この経の説く神呪の秘密の事は、法の如く行う者に対して、この菩薩大士は無形であっても有情の感応に応じないことはない。故に神呪を経の宗旨とするのである。第三に、一切の有情のために帰依すべき処を示さんがため、菩薩の徳力を以て経の宗旨とするのである。故に一切の行者は必ず行法及び菩薩の神力に依って、成道の終わりを得る。無上の道果を以て経の宗旨とする。故に下の経文に「百千倶胝那由他の仏名を称え、菩薩の名を称える、二つの功徳は平等平等である」と説かれている。問う:この経の行法は、三乗の行の中ではどの行にあたるのか。答える:三乗は雖も異なるも、その理は一致する。ただ心自らに大中小がある。故に三つの行に差別があるのである。故にこの経は正しく菩薩の大行を明らかにすることを宗旨とする。問う:この経の説く神呪心とは、菩提心のことか、正しい神呪心のことか、それとも行者自身の心のことか。答える:今、神呪心と言うのは、有情の心のことではない。これは神呪の秘密変異の意義であり、心神があるかの如く、人の念うところに随って成就を得る。故に神呪心と言うのである。問う:もし神呪に心があるとするならば、それは生滅する心か、それとも生滅のない心か。答える:この神呪は、理と相応する。故に色でもなく心でもない。しかも色ともなり心ともなることが出来るものは、皆、観自在菩薩の神呪が心があるかの如くであって、有情の心ではないのである。

十一面者,實是十二面也。上佛面是果,下菩薩面是因也,謂是因果一雙也。亦上十一面是方便面,下一面是真實面也,謂是真實方便一雙也。是十一面中,前三面慈相、左三面瞋相,慈是文、瞋是武,謂是文武一雙也。右三面白牙,自在菩薩變現十一面,或現佛面、或現慈面或現瞋面、或現白牙上出或現暴大咲面,雖現十一,本體不二故,舉變現面故曰十一面也。問:是菩薩有慈面相不可怖,而何故是菩薩有瞋面耶?亦有牙出咲面相示三相耶?答:夫聖絕淨污之氣,豈有瞋咲相耶?然隨世間者,依違境而發瞋也,依順心而發咲也,現牙出相而讚淨也。白牙上出相者,方廣經曰:身口意淨,故二牙白相也。故知讚淨三業有情,故有白牙上出相面也。暴大咲相者,化善惡雜穢有情,故現暴大咲相也。何知然者?夫咲之者,見善而心喜故咲也,見惡而嗤謗故咲。而今曰暴大咲相者,必當嗤謗彼惡罪故,有暴之言故。嗤彼善惡雜穢有情,故有咲面也。謂世間人面表於心、心出於面,見善色喜、見惡色惡,隨心善惡面色美醜故。隨世間故,聖現此面相也。問:若化善眾生但以慈面,化惡眾生但以瞋面,而化善惡雜穢有情但以暴咲面,化淨業有情但以白牙上出面者,是化娑婆有情,善者甚少、惡者甚多,故以瞋面而化度耶?不以餘面化耶?答:先以瞋面而化有情惡,後若調其心而成善心者,乃以慈面而化度也。亦以瞋面能除怨敵也,故下云「取慈支一顆誦一百八遍,粧點此像左邊瞋面,面向怨敵,怨敵不進也。」問:若爾,各各一一而現化耶?亦得具現十一面耶?答:方便化物不可定相,或具現、或不具,今依具現之。但若有惡緣怨害行者,至誠發願欲離此怨者,是觀世音乃現瞋面而降伏之。若有眾生欲求佛道,即現佛身而為說法之。若有眾生欲度眾生懃修淨業而淨,現白牙上出面,乃讚勸進也。若有眾生欲見,觀音現後化度,即現慈相而說法也。若有眾生或善或惡、或行不行心行不定,欲見觀音化度,即現暴咲面而為說法也。今更釋十一面,以五義而釋。一、聖有二化方便:一聖默然密化,如維摩詰默然,即是本面也。二聖說法,謂種種方便種種說法也,即是十一面相也。二、聖有二化:一說實慧而化有情,所現之身亦真實體,即是前三慈面也。二說權方便慧而化有情,所現之身亦方便身,如瞋面、咲面、牙出面也。三、聖有二化:一者一往化,如咲面嗤惡業也。二遂化,如瞋面呵惡也,牙出面讚淨業也。四、聖有二化:一相順化,如《華嚴經》田獵魚捕共助而化也,即如暴咲面化也。二相奪化,如持論逼迫化,即瞋面呵惡也。五、聖有二化:一慰喻化,如《維摩》慰喻章,即此慈面嘆善也。二調伏化,如《維摩》調伏章。即如瞋面呵惡也。雖不對生菩薩而作十一面像,如法修行者願令得也。問:何故佛面是一,慈面、瞋面、牙出面各有三面,亦咲面是一耶?答:果道無二,故佛面無二也。慈面三者,慈不出三,故三面也。一、慈有苦無樂有情而令離苦得樂也;二、慈有福無慧有情而令具福慧也;三、慈有慧無通有情而令備神通智慧。故慈面三也。瞋怒面三者,一、怒欲離苦報,重迷苦業也;二、怒欲求樂果,不知樂因也;三、怒觀寂靜理,還著散亂境。故瞋面三也。白牙上出面三相者,為讚三業淨,故有三面也。亦為化三有,故有三三九面也。暴大咲一面,總嗤善惡雜穢有情,故有一面也。問:至人無相,相隨緣現,故不見世間人面十一身一者,何故違世而現身耶?答:每面應有,而以彼人故,淺識之者見彼瞋面人,但知瞋人,不知觀音方便。故今為淺者,令知觀音一身變現十一面之身,故現十一面身也。

十一面とは、実は十二面なのです。上の仏面は果、下の菩薩面は因であり、これは因果一対といいます。また、上の十一面は方便の面、下の一面は真実の面であり、これは真実と方便の一対といいます。この十一面のうち、前の三面は慈の相、左の三面は瞋(怒り)の相で、慈は文、瞋は武であり、これは文武一対といいます。右の三面は白牙(白い牙)で、自在菩薩が変現して十一面となり、あるときは仏面を現し、あるときは慈面を現し、あるときは瞋面を現し、あるときは白牙を上に出し、あるときは激しく大笑する面を現します。十一面を現すといっても、本体は不二であるため、変現する面を挙げて十一面というのです。

問:この菩薩には慈の面があり、怖ろしくはないはずです。それなのに、なぜこの菩薩には瞋の面があるのでしょうか。また、牙を出して笑う面相を示し、三つの相があるのでしょうか。 答:そもそも聖者は浄らかさと汚れの気を超越しています。どうして瞋りや笑いの相などあるでしょうか。しかし、世間に随うというのは、違う境遇に依って瞋りを発し、順う心に依って笑いを発するということです。牙を出す相を現して浄らかさを讃えるのです。白牙を上に出す相について、『方広経』には「身・口・意が浄らかなゆえに、二つの牙が白い相である」とあります。ですから、三業(身・口・意)が浄らかな有情を讃えるために、白牙を上に出す相の面があるのです。激しく大笑する相というのは、善悪が混じり穢れた有情を化導するために、激しく大笑する相を現すのです。どうしてそうわかるかというと、そもそも笑うというのは、善を見て心に喜びがあるから笑うのであり、悪を見てあざけり誹謗するから笑うのです。ここで激しく大笑する相というのは、必ずやその悪しき罪をあざけり誹謗するためであり、「激しく」という言葉があるゆえです。善悪が混じり穢れた有情をあざけり誹謗するために、笑う面があるのです。つまり、世間の人々は面が心を表し、心が面に出るもので、善を見れば顔色が喜び、悪を見れば顔色が悪くなり、心の善悪に随って面色の美醜が決まるからです。世間に随うゆえに、聖者はこのような面相を現すのです。

問:もし善の衆生を化導するにはただ慈面をもってし、悪の衆生を化導するにはただ瞋面をもってし、善悪混じり穢れた有情を化導するにはただ激しく笑う面をもってし、浄らかな業の有情を化導するにはただ白牙を上に出す面をもってするのであれば、この娑婆世界の有情を化導するにあたり、善なる者は非常に少なく、悪なる者は非常に多いのですから、瞋面をもって化度するのでしょうか。他の面では化導しないのでしょうか。 答:まず瞋面をもって有情の悪を化し、その後、もしその心が調えられて善心となったならば、そこで慈面をもって化度するのです。また、瞋面は怨敵を除くことができるため、後に「慈支(慈の支分)の一つを取り、百八遍誦して、この像の左辺の瞋面に飾り付け、怨敵に向けると、怨敵は進んでこない」と説かれているのです。

問:もしそうであれば、それぞれ一つずつ現れて化導するのでしょうか。それとも十一面を具現するのでしょうか。 答:方便をもって衆生を化することは、一定の相に定めることはできません。あるときは具現し、あるときは具現しないのです。今は具現する場合に依っています。ただし、もし悪縁や怨みによる害が行者に及ぶとき、至誠に発願してこの怨みから離れようとするならば、この観世音は瞋面を現して降伏させるのです。もし衆生が仏道を求めようとするならば、即ち仏身を現して説法するのです。もし衆生が衆生を度し、勤めて浄らかな業を修めようと浄らかになろうとするならば、白牙を上に出す面を現し、讃めて勧め進めるのです。もし衆生が見ようと欲し、観音が後に化度を現すならば、即ち慈相を現して説法するのです。もし衆生が善であったり悪であったり、行ったり行わなかったりして心の行いが定まらず、観音の化度を見ようと欲するならば、即ち激しく笑う面を現して説法するのです。

今、さらに十一面を五つの義によって解釈します。 一、聖者には二つの化導の方便があります。一つは聖者の黙然として密かに化導することです。維摩詰の黙然としたように、これが本面です。二つは聖者の説法です。種々の方便、種々の説法をいうのであり、これが十一面相です。 二、聖者には二つの化導があります。一つは実慧を説いて有情を化導することです。現れる身もまた真実の体であり、これが前の三つの慈面です。二つは権(仮の)方便の慧を説いて有情を化導することです。現れる身もまた方便の身であり、瞋面・笑面・牙出面のようです。 三、聖者には二つの化導があります。一つは一往の化導です。笑面が悪業をあざけり誹謗するように。二つは遂化(遂行の化導)です。瞋面が悪を呵責し、牙出面が浄業を讃えるように。 四、聖者には二つの化導があります。一つは相順の化導です。『華厳経』に田猟や魚捕りを共に助けて化導するように、激しく笑う面による化導のようです。二つは相奪の化導です。論を保持して逼迫して化導するように、瞋面が悪を呵責するようです。 五、聖者には二つの化導があります。一つは慰喻の化導です。『維摩経』の慰喻の章のように、これが慈面による善の讃嘆です。二つは調伏の化導です。『維摩経』の調伏の章のように、これが瞋面による悪の呵責です。

生身の菩薩に対していなくとも十一面の像を作り、法の如く修行する者が、願わくは得させしめんとします。

問:なぜ仏面は一面で、慈面・瞋面・牙出面はそれぞれ三面あり、また笑面は一面なのでしょうか。 答:果の道に二つはないので、仏面に二つはないのです。慈面が三つあるのは、慈が三つを出ないから、三面なのです。一、苦あって楽なき有情に慈しみ、苦を離れて楽を得させしめるため。二、福あって慧なき有情に慈しみ、福慧を具えさせしめるため。三、慧あって通(神通)なき有情に慈しみ、神通と智慧を備えさせしめるため。ゆえに慈面は三つなのです。 瞋怒の面が三つあるのは、一、苦の報いを離れようと欲しながら、重ねて苦の業に迷うことに対して怒るため。二、楽の果を求めようと欲しながら、楽の因を知らないことに対して怒るため。三、寂静の理を観じようとしながら、再び散乱の境に執着することに対して怒るため。ゆえに瞋面は三つなのです。 白牙を上に出す面の三相というのは、三業の浄らかさを讃えるために、三面あるのです。また、三有(欲有・色有・無色有)を化導するために、三三九面あるのです。 激しく大笑する一面は、善悪混じり穢れた有情を総じてあざけり誹謗するために、一面あるのです。

問:至人は無相であり、相は縁に随って現れるので、世間の人々の面が十一面で身が一つであるとは見えないはずです。なぜ世間に違って身を現すのでしょうか。 答:それぞれの面には応じるべきものがありますが、その人のゆえに、浅い識見の者はその瞋面の人を見て、ただ瞋りの人と知るだけで、観音の方便を知らないのです。ですから今、浅い者のために、観音が一身で十一面の身に変現することを知らしめるために、十一面の身を現すのです。

第三、明功能。是觀自在菩薩神呪功能,非是一類,處處不同,隨彼所說而不等也。是功能雖多,略有三種:一、《請觀世音經》說四種神呪,正現阿彌陀佛、觀世音菩薩、大勢至菩薩是大利益。二、《不空羂索經》說大神呪,得二十八功德。三、此十一面經,明八種神呪,明十四種利益也。如此功能雖多,不出得、離也。離有三種:一者能滅八難、二者能拔三道苦、三者能滅四重五逆也。三道八難是苦果,四重五逆是苦因也。故《觀世音經》偈曰「地獄鬼畜生,能滅諸有苦。生老病死苦,以漸悉令滅」也。若滅四重五逆者,餘罪可易滅。若皆滅罪者,苦報易脫也。問:何故不說滅是誹謗大乘罪耶?答:《大品經》曰「若誹謗大乘人,墮大阿鼻地獄。若劫盡時,更移他方地獄,逕無數劫。」不說出時也。得有三種:一見諸佛攝受、二現世豐安即現報也、三生安養國也。雖有十四種功德及一切善報,不出得、離。合六種功德也,亦不出世出世二種果報也。世間報,即是人天豐樂報也。出世間報,即生淨土,不退菩提果也。問:若至心行者,得免三界三苦耶?答:一切苦無非解脫。故觀音偈曰「生老病死苦,以漸悉令滅」也。

第三、その効能について明らかにする。この観自在菩薩の神呪の効能は、一様ではなく、経典によって異なり、それぞれの説くところによって同じではありません。その効能は多くありますが、大まかに三種類に分けられます。

一、『請観世音経』には四種の神呪が説かれ、阿弥陀仏、観世音菩薩、大勢至菩薩を現前させることが大きな利益となります。

二、『不空羂索経』には大神呪が説かれ、二十八の功徳を得ることができます。

三、この『十一面経』には八種の神呪が明らかにされ、十四種の利益が説かれています。

このように効能は数多くありますが、要するに「得ること」と「離れること」の二つに集約されます。

「離れること」には三種類あります。 一つ目は、八難を滅ぼすことができること。 二つ目は、三悪道の苦しみを抜き取ることができること。 三つ目は、四重罪と五逆罪を滅ぼすことができることです。 三悪道と八難は苦の結果であり、四重罪と五逆罪は苦の原因です。 ですから『観世音経』の偈に「地獄・餓鬼・畜生の苦しみも、すべての存在の苦しみも滅ぼすことができる。生老病死の苦しみも、次第にことごとく滅ぼしていく」と説かれているのです。 もし四重罪と五逆罪を滅ぼすことができれば、その他の罪は容易に滅ぼすことができます。もしすべての罪を滅ぼすことができれば、苦の報いは容易に脱することができるのです。

問:なぜ、大乗を誹謗する罪を滅ぼすとは説かれていないのでしょうか。 答:『大品経』に「もし大乗を誹謗する者は、大阿鼻地獄に堕ちる。もし劫が尽きる時には、さらに他の方角の地獄に移され、無数の劫を経る」と説かれています。そこから出る時については説かれていません。

「得ること」には三種類あります。 一つ目は、諸仏の摂受(救い取り)に会うこと。 二つ目は、現世において豊かで安らかであること、つまり現世での報いです。 三つ目は、安養国(極楽浄土)に生まれることです。

十四種の功徳およびすべての善い報いがあるとはいえ、要するに「得ること」と「離れること」に集約されます。合わせて六種の功徳であり、また、世間的な報いと出世間的な報いという二種類の果報から出るものではありません。 世間的な報いとは、人間界や天界における豊かな楽しみの報いです。 出世間的な報いとは、浄土に生まれ、菩提(悟り)から退転しないという果報です。

問:もし真心を込めて行うならば、三界の三つの苦しみから免れることができるのでしょうか。 答:一切の苦しみは、ことごとく解脱ではないものはありません。ですから観音の偈に「生老病死の苦しみも、次第にことごとく滅ぼしていく」と説かれているのです。

第四、明階位。凡菩薩階位,不出二種:一者已成佛菩薩,是法身大士也。二者未成佛菩薩,是直往菩薩也。已成佛菩薩者,如妙德菩薩等,是已成佛也。未成佛菩薩者,從初發心至于十地未滿行業,故未成佛菩薩也。今大乘有二義:一平道門、二漸捨門也。平道門者,一切大有情,從本以來與佛常一,但以眾生起二見,故有二相。故經曰「不知自身有如來,流轉生死無出時」也。亦《淨度三昧經》曰「平等真法界,佛不度眾生」也。漸捨門者,不無已成未成之義也,故從初發心而於五十二位中,每位乃有入分、住分、勝進分,故滿行斷惑方得成佛也。是觀世音菩薩乃有二義,一云:已成佛菩薩也。故《觀音三昧經》曰「是觀世音在我前成佛,名正法明如來,吾為弟子」也。二云:未成佛菩薩也。故《觀音授記經》曰「是觀世音菩薩,昔於金剛師子遊戲佛所初發菩提心。彼時國王名曰威德王,於其國觀入于三昧。其王左右有二蓮華從地涌出,雜色莊嚴,其香芬馥如天栴檀。有二童子化生其中,結跏趺坐,一名寶意、二名寶上也。時威德王從定而起,見二童子坐蓮華藏,以偈問曰:『汝為天龍王、夜叉鳩槃荼?為人為非人?願說其名字。』時右面童子以偈答曰:『一切諸法空,云何問名字?過去法已滅,當來法未生,現在法不住,仁者問誰名?空法亦非人,非龍非羅剎,人與非人等,一切不可得。』左面童子而說偈言:『名名者悉空,名名不可得。一切法無名,而欲問名字?我名為寶意,彼名為寶上』也。是阿彌陀佛滅度後,世界法音不斷。彼佛於中夜入滅度,是觀世音補佛之處,世界轉名眾寶普集莊嚴世界,佛名普光功德山王佛也。次大勢至補觀世音處,佛名善住功德寶王佛。是金剛師子遊戲佛與阿彌陀佛皆有三乘,後二佛唯菩薩乘。聞此三佛名者,得轉女身,超四十億劫生死之罪也。」《弘猛海慧經》曰「昔此閻浮提有王名曰善首,有五百王子,第一太子名善光。值空王觀世音佛,乃發十願:一大悲觀世音願知一切法、二大悲觀世音願乘波若船、三大悲觀世音願得智慧風、四大悲觀世音願得善方便、五大悲觀世音願度一切人、六大悲觀世音願超生死海、七大悲觀世音願得戒定道、八大悲觀世音願登涅槃山、九大悲觀世音願會無為舍、十大悲觀世音願同法性身。是觀世音發願:願我未來作佛,字觀世音三昧。稱我名,不往來度者,不取妙色身。若行此願清淨莊嚴一室。」以於此土行菩薩道,故知未成佛菩薩也。若從多者為已成佛,亦為化有情故更示成佛耳。故《法華》云「應以佛身得度者,即現佛身而為說法」也。

第四に、位階について明らかにする。菩薩の位階は、大きく二種類に分けられます。

一つは、すでに仏となった菩薩、つまり法身の大士です。 もう一つは、まだ仏となっていない菩薩、つまり直往の菩薩です。

すでに仏となった菩薩とは、妙徳菩薩などのように、すでに仏となった方々です。 まだ仏となっていない菩薩とは、初発心から十地に至るまで、まだ修行が満たされていないため、仏となっていない菩薩たちです。

さて、大乗仏教には二つの解釈があります。 一つは「平道門」、もう一つは「漸捨門」です。

「平道門」とは、すべての衆生は、本来から仏と一体であるという考え方です。ただ、衆生が二元的な見方を起こすために、仏と衆生という二つの相が現れているに過ぎません。 ですから、経典には「自身に如来がいることを知らず、生死を流転して出る時がない」と説かれています。 また『浄度三昧経』には「平等なる真の法界においては、仏も衆生を度すことはない」とあります。

「漸捨門」とは、すでに仏となった者と、まだなっていない者という区別がないわけではないという考え方です。したがって、初発心から五十二の位階において、それぞれの位に「入分」「住分」「勝進分」があり、修行を満たし煩悩を断じて初めて仏となることができるのです。

この観世音菩薩についても、二つの解釈があります。 一つは、すでに仏となった菩薩であるという説です。 『観音三昧経』に「この観世音は、私より先に仏となり、正法明如来と名乗り、私はその弟子となった」とある通りです。

二つ目は、まだ仏となっていない菩薩であるという説です。 『観音授記経』に次のように説かれています。 「この観世音菩薩は、かつて金剛師子遊戯仏のもとで初めて菩提心を発した。その時の国王は威徳王と名乗り、その国において三昧に入った。王の左右から二本の蓮華が地より涌き出で、色とりどりに荘厳され、その香りは天の栴檀のように芳しかった。二童子がその中に化生し、結跏趺坐していた。一人は宝意、もう一人は宝上と名乗った。時に威徳王が定から起きて、二童子が蓮華の上に坐しているのを見て、偈をもって問うた。『汝らは天龍王か、夜叉か、鳩槃荼か? 人か、非人か? 願わくはその名を説きたまえ』。すると右側の童子が偈をもって答えた。『一切の諸法は空なり、どうして名を問うのか? 過去の法はすでに滅し、未来の法はまだ生ぜず、現在の法は住することなし。仁者(あなた)は誰の名を問うのか? 空なる法は人にも非ず、龍にも非ず、羅刹にも非ず、人と非人など、一切は得ること能わず』。左側の童子は偈を説いた。『名も名づくる者もことごとく空なり、名も名づくる者も得ること能わず。一切の法に名は無く、しかるに名を問おうとするのか? 我が名は宝意、彼の名は宝上なり』。 この阿弥陀仏が滅度した後、世界では法音が絶えることがない。その仏は中夜に入滅し、この観世音がその仏の処を補い、世界は名を転じて衆宝普集荘厳世界と称し、仏は普光功徳山王仏と名乗る。次に大勢至が観世音の処を補い、仏は善住功徳宝王仏と名乗る。この金剛師子遊戯仏と阿弥陀仏には皆三乗があったが、後の二仏には菩薩乗のみがある。この三仏の名を聞く者は、女身を転じ、四十億劫の生死の罪を超えることができる」。

『弘猛海慧経』には次のように説かれています。 「かつてこの閻浮提に善首という王がおり、五百の王子がいた。第一の太子は善光と名乗った。空王観世音仏に値遇し、十の願を発した。 一、大悲観世音、願わくは一切の法を知らんことを。 二、大悲観世音、願わくは般若の船に乗らんことを。 三、大悲観世音、願わくは智慧の風を得んことを。 四、大悲観世音、願わくは善き方便を得んことを。 五、大悲観世音、願わくは一切の人を度さんことを。 六、大悲観世音、願わくは生死の海を超えんことを。 七、大悲観世音、願わくは戒定の道を得んことを。 八、大悲観世音、願わくは涅槃の山に登らんことを。 九、大悲観世音、願わくは無為の舎に会さんことを。 十、大悲観世音、願わくは法性身と同じからんことを。 この観世音は願を発した。『我、未来に仏となる時、観世音三昧と字(あざな)せん。我が名を称えて、往来して度さざる者あらば、妙色身を取らじ。もしこの願を行じ、清浄に荘厳せば、一室に満つ』」。 このようにこの土において菩薩道を行じたことから、まだ仏となっていない菩薩であると知ることができます。

もし多数説に従うならば、すでに仏となった者であり、また衆生を化導するために、さらに仏としての姿を示したに過ぎないとも言えます。 ですから『法華経』に「仏身をもって度すべき者あれば、すなわち仏身を現じて説法する」とあるのです。

第五、明感應。問:是觀世音菩薩,何處故有情感即觀音應耶?答:是觀世音菩薩既為法身大士,無所不遍。故經曰「十方剎土中,無剎不現身」也。若依《華嚴經》曰「南方有山名曰光明,彼有菩薩名曰觀世音。汝詣彼問。善財童子登彼山頂,推求見觀世音菩薩住山西阿,處處皆有流泉浴池,林木欝茂池草柔燸,結跏趺坐金剛寶坐,無量菩薩恭敬圍繞。師為為說法大慈悲經」也。復次《不空羂索經》曰「佛在補多羅山頂,觀世音菩薩宮殿所住之處。」復次《大無量壽經》曰「正在西方安樂世界,阿彌陀佛補處菩薩」也。問:彼菩薩身量為幾許耶?答:是菩薩身量,亦是處處不同說也。故《無量壽經》曰「阿彌陀佛身高六十二恒河沙由旬,觀世音菩薩身量長八十萬億那由他由旬」也。又《三昧經》曰「身長一丈,項背曰光」也。故准彼而造像者,不可堪管也,故隨根機而造少形。故《不空羂索經》曰七尺,此經云一搩手半也。夫聖人現身長短不定,故就一釋迦身量不定也。若現遍滿法界之身時為名盧舍那也,若現王宮時或名釋迦,身長一丈六尺。若俱尺羅長者以尺量,佛足自跟至膝不知。故知機緣不定,故身不定也。夫感應義常云:以三世善而感佛故應也。又以惡感佛之時,捊應感惡。生善時,佛應也。若無惡者,何應而化物耶?感者召義,應者應現義也。應有二相:一、直以佛菩薩應現,如《請觀世音經》明阿彌陀及菩薩現於王舍城也。二、密以方便身而應現,是事甚多,載於記傳也。問:何相感故乃應現生佛菩薩?何相感故應現方便耶?答:略有三雙六隻。一、眾生有二種:一、深種善根者感,故應現生佛菩薩身也。二、福薄眾生感,故應現方便身也。深種善根者,多值佛、多供養佛、多聞法發菩提心也。薄福眾生者,目而不見,雖聞不勤,勤而不久,故數退,為福薄也。二者、有二眾生:一能觀實相、二不能觀現世。夫如實覺觀,故名成佛也。所言實相者,一切諸法本來寂靜,無所去來亦無生滅。能如是觀,菩薩即應。故《華嚴經》曰「一切法不生,一切法不滅。若能如是觀,諸佛常現前」也。一切凡夫有情豈起是心,故不應佛菩薩也。三、有二眾生:一當時至誠發願、二不至誠發願也。至誠發願,即應現佛菩薩。不至誠發願,故不應也。

第五に、感応について明らかにする。問う:この観世音菩薩は、どこにいて、なぜ衆生が祈ると観音が応じるのか。答える:この観世音菩薩はすでに法身の大士であり、遍く満ちていないところはない。それゆえ経には「十方の刹土の中に、現身せざる刹なし」とある。もし『華厳経』によれば、「南方に光明という名の山あり、そこに観世音という名の菩薩あり。汝、彼に詣いて問え」とある。善財童子がその山の頂に登り、求め探して観世音菩薩を見ると、山の西のくぼみに住し、いたるところに流れる泉や浴池があり、林木は鬱蒼と茂り、池の草は柔らかく、結跏趺坐して金剛の宝座に坐し、無量の菩薩が恭敬して取り囲み、師は彼のために大慈悲経を説いたのである。また『不空羂索経』には、「仏は補多羅山の頂に在し、観世音菩薩の宮殿の住する所なり」とある。また『大無量寿経』には、「まさに西方の安楽世界に在り、阿弥陀仏の補処の菩薩なり」とある。問う:その菩薩の身の丈はどれほどか。答える:この菩薩の身の丈も、また所によって説が異なる。それゆえ『無量寿経』には、「阿弥陀仏の身の高さは六十二恒河沙由旬、観世音菩薩の身の丈は長さ八十万億那由他由旬」とある。また『三昧経』には、「身長一丈、項背に円光あり」とある。それゆえそれに準じて像を造る者は、一定の尺度にこだわることができず、衆生の機根に応じて小さな姿を造るのである。それゆえ『不空羂索経』には七尺、この経には一搩手半とある。そもそも聖人の現れる身の長短は定まらず、たとえ一つの釈迦の身の丈でも定まらない。もし遍満法界の身を現すときは盧舎那と名づけ、もし王宮に現れるときはあるいは釈迦と名づけ、身長一丈六尺である。もし倶尺羅長者が尺で量っても、仏の足のかかとからひざまでがわからない。それゆえ機縁が定まらないゆえに、身も定まらないと知るのである。そもそも感応の義は常にいう:三世の善をもって仏を感ずれば、それゆえに応ずるのである。また悪をもって仏を感ずるときは、それに応じて悪を感ずる。善を生ずるときは、仏が応ずるのである。もし悪がなければ、何に応じて衆生を教化するのか。感とは招く義、応とは応現する義である。応には二つの相がある:一には、直ちに仏や菩薩として応現する。『請観世音経』に、阿弥陀仏および菩薩が王舎城に現れたと明かされているように。二には、密かに方便の身をもって応現する。これは事柄が非常に多く、記録や伝承に載っている。問う:どのような相を感ずれば、仏や菩薩として応現し、どのような相を感ずれば、方便として応現するのか。答える:略して三双六隻がある。一に、衆生に二種ある:一には、深く善根を種とした者は感ずるゆえに、仏や菩薩の身として応現する。二には、福の薄い衆生は感ずるゆえに、方便の身として応現する。深く善根を種とした者とは、多く仏に値い、多く仏を供養し、多く法を聞いて菩提心を発する者である。福薄の衆生とは、目にしても見ず、聞いても勤めず、勤めても久しからず、それゆえにたびたび退転し、福が薄いのである。二に、二種の衆生がある:一には実相を観じ得る者、二には現世を観じ得ない者。そもそも如実に覚り観ずるゆえに、仏となるのである。いわゆる実相とは、一切の諸法は本来寂静であり、去来する所なく、また生滅もない。このように観じ得れば、菩薩は即ち応ずる。それゆえ『華厳経』には「一切法は生ぜず、一切法は滅せず。もしこのように観ぜば、諸仏は常に現前す」とある。一切の凡夫有情はどうしてこの心を起こせようか、それゆえに仏や菩薩は応じないのである。三に、二種の衆生がある:一にはその時に至誠をもって願を発する者、二には至誠でなく願を発する者である。至誠をもって願を発すれば、即ち仏や菩薩として応現する。至誠でなく願を発するゆえに、応じないのである。

第六、釋經文。夫釋經文有二種:一者、龍樹菩薩造《智度論》以釋《摩訶般若經》者,但釋經文義而不開段也。二者、天親菩薩造《金剛般若論》以釋《金剛般若經》者,即開十二章也。漢地諸經論師亦有二種:一、鳩摩羅什三藏師,時世稱無相佛也,乃釋《維摩經》文義而已也。二、釋道安法師,時世稱印手菩薩也,將釋一切經,每經要開三段,所謂序說、正說、流通說也。今日意者,若欲釋文義者,要依龍樹菩薩及羅什師意也。若將開章段,亦因天親菩薩及釋道安師意也。將釋此經文,有三大段:第一、序說,是經初文現也。第二、從「白佛言世尊我有神呪心」下,是正說也。第三、自爾時觀自在菩薩說此語已下,是流通說也。就初序說,有二段:一者、通序也;二者、從觀自在菩薩下,第二別序也。謂通有諸經首,故為通序。別於此經中在序,故為別序也。就初通序,有六句:一、如是;二、我聞;三、一時;四、婆伽婆;五、「在室羅茷竹筍道場」者,是住處也;自「與大比丘眾」下,第六同聞眾也。如是者,謂信也。我聞者,是阿難云我,出傳聞之名也。時者,簡非餘經說之時也,正是說斯法別時也。婆伽婆者,此云能破四魔,亦云永吐欲根等。多諸稱名,故云婆伽婆也。室羅茷者,亦云舍婆提也,此翻云不可害也,亦翻云仙人住處也,是通處也。竹笋道場者,是別處也。以竹笋為嚴修道場窟,故曰竹笋道場也。與大比丘眾下,第六明同聞眾也。就此有二:初別列眾、次總結也。就初中有四:初明羅漢;二明菩薩眾;三明四部眾;四明十部眾,謂八部眾加於鳩槃荼與毘遮舍也。就初有五句:初、明與者,共也。二、明大者,有三義:一德高故曰大、二行勝故曰大、三數多故曰大也。三、明比丘者,此云乞士、怖魔、破惡也。四、明眾者,多也。五、明千二百五十人俱者,人數也,謂佛恒所繞眾也。「菩薩摩訶薩」下,第二明菩薩眾。就此中有三段:初、舉名也,謂菩薩,此云道心眾生。摩訶薩,此云道心眾生也。第二舉數,文現也。從「慈氏為首」以下,第三舉別名也。彼國具言彌牽勒,此云慈氏,是姓名也。亦此菩薩但修慈行,與觀世音同類,故初首列也。故是彌勒菩薩於釋迦佛前四十二劫先發心也,但釋迦懃行苦行,彌勒但修慈行,故釋迦超九劫而成佛也。從「無量無邊」下,第三明四部眾。中有二段:初舉數,文現也。次舉名,謂比丘比丘尼等,是四部眾也。比丘者,僧眾也。比丘尼者,尼眾也。尼者,此云女也。優婆塞者,此云清信士也。優婆夷者,此云清信女也。從「天龍夜叉」下,第四明十部眾也。一者天,自在義也。二龍,是畜生中有威勢,能雨澤地增長穀菓也。龍有二種:一地龍、二虛空龍也。三夜叉,此云可畏,亦有二種:一天夜叉、二地夜叉也。四揵闥婆,此云𭱉疾,亦云輕繞也。五阿修羅,此云無酒也。彼國人女好、男醜也。六迦樓羅,此云金翅鳥也。七緊那羅,此云樂神也。八摩睺羅,此云匍匐行也。九鳩槃荼,此云冬瓜鬼也。十毘庶舍,此云赤色鬼也。從「人非人等」下,第二總結也。如緊那羅等,似人而額上角,故為非人,故曰人非人等也。

第六に、経文を解釈します。経文を解釈する方法には二つの種類があります。第一に、龍樹菩薩が『智度論』を作って『摩訶般若経』を解釈した方法で、これはただ経文の意味を解釈するだけで、段落を分けません。第二に、天親菩薩が『金剛般若論』を作って『金剛般若経』を解釈した方法で、これは十二章に分けています。漢地の経典や論の師たちにも二つの種類があります。第一に、鳩摩羅什三蔵法師は、当時の世間で無相仏と呼ばれていましたが、『維摩経』の文の意味を解釈するだけでした。第二に、道安法師は、当時の世間で印手菩薩と呼ばれていましたが、すべての経典を解釈する際に、それぞれの経典に必ず序説・正説・流通説の三段を設けました。今日の趣旨としては、もし文の意味を解釈するなら、龍樹菩薩と羅什法師の意に従うべきです。もし章段を分けるなら、天親菩薩と道安法師の意によるものです。この経文を解釈するにあたって、三つの大きな段落があります。第一は序説で、経の最初の文にあたります。第二は「白佛言世尊我有神呪心」から始まる部分で、正説です。第三は「爾時観自在菩薩説此語已」から始まる部分で、流通説です。最初の序説には二つの段落があります。第一は通序です。第二は「観自在菩薩」から始まる別序です。通序とは、すべての経典の冒頭に共通するから通序といいます。別序とは、この経の中だけの序としてあるから別序といいます。最初の通序には六つの句があります。第一は「如是」、第二は「我聞」、第三は「一時」、第四は「婆伽婆」、第五は「在室羅筏竹筍道場」という部分で、これは住む場所です。「與大比丘衆」から始まる部分は、第六の同聞衆です。「如是」とは、信を意味します。「我聞」とは、阿難が「私は聞いた」と言う、伝聞の名を出したものです。「一時」とは、他の経を説いた時ではないことを区別し、まさにこの法を説いた特定の時であることを示します。「婆伽婆」とは、ここでは四魔を破ることができる、また欲の根などを永遠に吐き出す、という意味です。多くの称名があるので、婆伽婆といいます。「室羅筏」とは、舎婆提ともいい、ここでは不可害と訳し、また仙人住処とも訳します。これは共通の場所です。「竹筍道場」とは、個別の場所です。竹筍を荘厳とした修道の道場の窟としているので、竹筍道場といいます。「與大比丘衆」から始まる部分は、第六の同聞衆を明かします。これには二つあります。初めに衆を個別に列挙し、次にまとめます。初めの中には四つあります。初めに羅漢を明かし、第二に菩薩衆を明かし、第三に四部衆を明かし、第四に十部衆を明かします。十部衆とは、八部衆に鳩槃荼と毘遮舎を加えたものです。初めの中には五つの句があります。初めに「與」を明かし、共という意味です。第二に「大」を明かし、三つの意味があります。第一に徳が高いから大といい、第二に行が勝れているから大といい、第三に数が多いから大といいます。第三に「比丘」を明かし、ここでは乞士・怖魔・破悪といいます。第四に「衆」を明かし、多いという意味です。第五に「千二百五十人俱」を明かし、人数です。これは仏が常に周囲に従えている衆です。「菩薩摩訶薩」から始まる部分は、第二に菩薩衆を明かします。これには三つの段落があります。初めに名を挙げます。菩薩とは、ここでは道心衆生といいます。摩訶薩とは、ここでは大道心衆生といいます。第二に数を挙げますが、文に現れています。「慈氏為首」から始まる部分は、第三に個別の名を挙げます。かの国では具に弥牽勒といい、ここでは慈氏といい、姓名です。またこの菩薩はただ慈行を修め、観世音と同じ類なので、初めに列挙します。それゆえ弥勒菩薩は釈迦仏の前で四十二劫に先に発心しました。ただし釈迦は勤めて苦行を行い、弥勒はただ慈行を修めたので、釈迦は九劫を超えて成仏しました。「無量無辺」から始まる部分は、第三に四部衆を明かします。中に二つの段落があります。初めに数を挙げますが、文に現れています。次に名を挙げます。比丘・比丘尼などが、四部衆です。比丘とは僧衆です。比丘尼とは尼衆です。尼とは、ここでは女という意味です。優婆塞とは、ここでは清信士といいます。優婆夷とは、ここでは清信女といいます。「天龍夜叉」から始まる部分は、第四に十部衆を明かします。第一は天で、自在という意味です。第二は龍で、畜生の中で威勢があり、雨を降らせ地を潤して穀物や果物を成長させることができます。龍には二種類あります。地龍と虚空龍です。第三は夜叉で、ここでは可畏といい、これにも二種類あります。天夜叉と地夜叉です。第四は揵闥婆で、ここでは𭱉疾といい、また軽繞ともいいます。第五は阿修羅で、ここでは無酒といいます。かの国の人は女が美しく男が醜いのです。第六は迦楼羅で、ここでは金翅鳥といいます。第七は緊那羅で、ここでは楽神といいます。第八は摩睺羅で、ここでは匍匐行といいます。第九は鳩槃荼で、ここでは冬瓜鬼といいます。第十は毘庶舎で、ここでは赤色鬼といいます。「人非人等」から始まる部分は、第二にまとめます。緊那羅などのように、人に似ていて額に角があるので非人といい、ゆえに人非人等といいます。

從「爾時觀自在菩薩」下,第二明別序。此中有三段:一、種牒來眾,謂無量俱胝那由他百千持呪仙人也。俱胝者,億也。那由他者,姟也。前後圍繞右遶三匝者,第二明將來儀則也。謂欲度三有,故曰三匝也。謂欲承一道清淨之理、一乘如實之行,故曰退坐一面也。

「爾時観自在菩薩」以下、第二に別序を明かす。ここに三段あり。一には、種々の来衆を牒す。無量の俱胝那由他百千の持呪仙人なり。俱胝とは億なり。那由他とは垓なり。前後囲繞し右に三匝すとは、第二に将来の儀則を明かす。三有を度さんと欲するが故に、三匝と曰う。一道清浄の理、一乗如実の行を承けんと欲するが故に、退きて一面に坐すと曰うなり。

從「白佛言世尊我有神呪心」以下,第二大段正說也。此中亦有三大段:第一舉神呪功能,是嘆藥門。此即有二:初舉神呪、次佛述讚也。從「善男子我亦隨喜受汝神呪」下,第二大段,正說神呪,是受藥門也。從「世尊如是神呪」下,第三大段明修行方法,是利益門也。就初大段,亦有三段:初正明神呪德;自「欲利益安樂」以下,第二明略讚功能。第三自「一切諸佛同所稱嘆」下,引經嘆呪也。此中有二:初、以三句略嘆呪也,一同所稱嘆、二同所隨喜、三同所讚持也。從「世尊我憶過去」下,第二明值佛。此中有二佛:初值佛名百蓮華眼無障礙頂熾盛功德光王佛,具十號。次值佛名美音香佛,具十號。此二佛中各有二段,初舉佛名、次明所化也。初明佛名百蓮華眼,是譬名也,眼根清淨如百蓮華也。無障礙頂者,次嘆頂相,謂無上最勝義也。次明功德光王者,次嘆光明,謂光中上光也。明是曉,頂是法身,光是波若音,以若三點德具佛也。次佛名美音香者,以或香法音以為名佛也。所化益有十益也。一、脫八難。二、滅大重罪。三、月蝕還生。謂天下有患,自有日月蝕,而如法呪者,還生而無患也。四、明格量功德也。謂百千俱胝那由他佛名、稱觀世音菩薩名稱,平等平等者,是平等中平等,故重言也。此中有二義:一他方諸佛是他方有緣,此土無機也;觀世音,此土有緣故。二功德平等無異也。今義以不二二者,諸佛於他方有緣故功德多,是觀世音於此土有緣故福多也。以二二不二者,諸佛是法身體一,是菩薩亦為法身體一,故曰平等平等也。五、明得不退轉也。退有三種:即行退、念退、位退也。是十心中,六心是行退也。是七心以上、六地以還,是間無行退,而有念退、位退也。當於七地是位退也。是八地中無行退、位退,但有念退也。正至十地無三退,故曰不退轉也。六、離一切病也。是一切病者,不出四百四病,隨四大起也,是一一大各起一百一病故也。七、脫一切障也。一切障不出三障:一煩惱障,謂從心而起四十七心煩惱也,亦從見思二輪而起九十八使、百八煩惱也。二報障,不出三報:一現報,謂現世受報;二生報,謂死後受報;三後報,謂第二生所受報也。三業障,是三業障也。謂以所作惡業,恒障善業也。八脫一切畏,不出二種:一有情畏,如盜賊鬼難等也;二無情,謂水火風等也。九、滅三業障重。舉身口意,三業重障也。十、領受菩提者,謂受記作佛也。第二、從「爾時世尊讚觀自在菩薩」下,佛述嘆,文現也。

「白仏言、世尊、我有神呪心」以下が、第二の大きな段落で、本説の部分です。この中にも三つの大きな段落があります。

第一は、神呪の功徳を挙げるもので、これは「嘆薬門」です。これには二つあります。初めに神呪を挙げ、次に仏が述べて讃嘆する部分です。

「善男子、我もまた随喜して汝の神呪を受く」以下が、第二の大きな段落で、神呪を正しく説く「受薬門」です。

「世尊、かくの如き神呪」以下が、第三の大きな段落で、修行の方法を明らかにする「利益門」です。

初めの大きな段落の中にも、さらに三つの段落があります。

初めは、神呪の徳を正しく明らかにする部分です。

「欲利益安楽」以下が第二で、功徳を簡略に讃嘆する部分です。

第三は「一切諸仏、同じく称嘆する所なり」以下で、経文を引いて呪を讃嘆する部分です。ここには二つあります。

初めは、三つの句で呪を簡略に讃嘆する部分です。 一、同じく称嘆する所なり。 二、同じく随喜する所なり。 三、同じく讃持する所なり。

「世尊、我、過去を憶う」以下が第二で、仏に値うことを明らかにする部分です。ここには二仏が出てきます。

初めに値った仏の名は「百蓮華眼無障礙頂熾盛功徳光王仏」で、十号を具えています。 次に値った仏の名は「美音香仏」で、十号を具えています。

この二仏の中に、それぞれ二つの段落があります。初めに仏名を挙げ、次に教化の対象を明らかにする部分です。

初めに「百蓮華眼」という仏名を明らかにしますが、これは譬えの名です。眼根が清浄で、百の蓮華のようであるということです。 「無障礙頂」とは、次に頂相を讃嘆したもので、無上最勝の義をいいます。 次に「功徳光王」を明らかにするのは、光明を讃嘆したもので、光の中の上なる光をいいます。 「明」は曉(あきらか)であり、「頂」は法身であり、「光」は般若(はんにゃ)の音であり、これら三つの点の徳を具えて仏となるのです。

次の仏名「美音香」は、香りのような法音をもって仏の名とするものです。

教化による利益には十の利益があります。

一、八難を脱する。 二、大いなる重罪を滅する。 三、月蝕が還って生ずる。天下に患いがあると、自然に日月蝕が起こるが、法の如く呪する者には、還って生じて患いがなくなるということです。 四、功徳の格量を明らかにする。百千の倶胝那由他(くていなゆた)の仏名を称え、観世音菩薩の名称を称えることは、平等平等である、というのは、平等の中の平等であるから、言葉を重ねているのです。ここには二つの意味があります。 一、他方の諸仏は他方に縁があるが、この国土には機縁がない。観世音はこの国土に縁があるからである。 二、功徳は平等で異ならない。 今の義では、不二にして二であるというのは、諸仏は他方に縁があるから功徳が多く、観世音はこの国土に縁があるから福が多いということです。 二にして二ならざる(不二)というのは、諸仏は法身として体は一つであり、この菩薩もまた法身として体は一つであるから、平等平等というのです。 五、不退転を得ることを明らかにする。退には三種あります。すなわち行退、念退、位退です。 十心中、六心までは行退です。 七心以上、六地までは、行退はないが、念退と位退があります。 七地にあたるのは位退です。 八地の中には行退、位退はないが、念退だけがあります。 正しく十地に至れば三退はないので、不退転というのです。 六、一切の病を離れる。一切の病というのは、四百四病を出ず、四大に随って起こるもので、一大ごとに百一病ずつ起こるからです。 七、一切の障りを脱する。一切の障りは三障を出ません。 一、煩悩障。心から起こる四十七の心煩悩をいい、また見思の二輪から起こる九十八使、百八煩悩をいいます。 二、報障。三報を出ません。 一、現報。現世に報いを受ける。 二、生報。死後に報いを受ける。 三、後報。第二生に受ける報い。 三、業障。これは三業の障りです。なした悪業が、常に善業を障ることをいいます。 八、一切の畏れを脱する。二種を出ません。 一、有情の畏れ。盗賊や鬼難など。 二、無情の畏れ。水火風など。 九、三業の重い障りを滅する。身口意の三業の重い障りを挙げます。 十、菩提を領受する。記別を受けて仏となることをいいます。

第二、「爾時、世尊、観自在菩薩を讃して」以下は、仏が述べて讃嘆する部分で、文は現れています。

從「善男子我亦隨喜」以下,第二大段正說神呪。有八少段:第一、明根本呪也。此呪者,是八呪中之根本也。為成此呪,故有餘七呪。此中有三段:初敬三寶、次正誦神呪、後明得益。餘七呪,例此可知也。有一經者,此根本呪並誦三尊也。此經呪前為先敬三寶,是離合不同耳,此中觀自在菩薩也。《彌勒本願經》曰「光世音菩薩」也。《法華經》曰「觀世音菩薩」也。此觀自在之稱,最為勝也。觀有二種:一遍、二不遍也。二乘所見有不遍義,但見三千世界內故也。菩薩所見無所不遍,故曰觀自在也。故經曰「無垢清淨觀,慧日破諸闇,能伏災風火,普明照世間」也。第二呪、呪水及衣呪。第三呪、呪油香呪。第四呪、呪華香鬘呪。第五呪、呪獻佛供呪。第六呪、呪薪呪。第七呪、呪結界呪。第八呪、呪請還宮呪也。闍提華木截為三十一段,蘇酪密漬之,以誦燒火也。闍底華木者,此云一生,亦曰實也,此土無木也。問:若以此呪呪彼水衣時,是呪著水衣耶?答:水衣無心,呪亦無相。而呪物時,一切隨呪,此是聖密術耳。然則以無色色呪而呪,尚著無心物者,何況以此呪呪有情之流耶。問:何故先呪水耶?答:水是能除穢,若不除穢,法即不成,故先呪水也。次雖呪水除穢,而若不除所著之衣穢者亦難成,故呪淨於衣也。次既呪水衣,而油香不淨者,燒光不淨,故呪於油香也。次雖呪油香,若華香鬘不淨者,莊嚴不淨,故呪華香鬘也。次雖呪香華,若佛供不淨、恭敬不懃,故呪佛供。雖呪佛供,若火薪不淨者,火氣不淨也。何以故?先呪水者,令淨穢故。復令呪薪者,令淨火氣故。水火之理能藥能毒,以呪力故為能成藥也,有邪氣故為能毒,故呪水火為助成呪力也。既呪火氣而不結界者,神鬼相亂,故呪結界令鎮呪場,使制惡鬼也。第八呪請還宮者,以呪令知禮節,是隨世間禮儀也。初呪是根本,後七是相從也。

「善男子、我もまた随喜す」以下、第二の大段は、真言を正しく説くところである。八つの小段に分かれる。

第一は、根本の真言を明かす。この真言は、八つの真言の中の根本である。この真言を成就させるために、残りの七つの真言がある。ここには三つの段がある。初めに三宝を敬い、次に真言を正しく誦し、後に利益を明かす。残りの七つの真言も、これに準じて理解できる。ある経典では、この根本真言とともに三尊を誦する。この経典の真言の前には、まず三宝を敬うことが記されており、離合の違いがあるだけである。ここでは観自在菩薩である。『弥勒本願経』では「光世音菩薩」といい、『法華経』では「観世音菩薩」という。この観自在という称が最も勝れている。観には二種ある。一つは遍く観ること、二つは遍く観らざることである。二乗の見るところには遍からざる意味があり、ただ三千世界の内を見るからである。菩薩の見るところは遍からざる所なく、ゆえに観自在という。ゆえに経に「垢なく清浄なる観、慧日は諸の闇を破し、災いの風火を伏せ能くし、普く明らかに世間を照らす」とある。

第二の真言は、水と衣を加持する真言。 第三の真言は、油と香を加持する真言。 第四の真言は、華と香鬘を加持する真言。 第五の真言は、仏に供養を献ずる真言。 第六の真言は、薪を加持する真言。 第七の真言は、結界を結ぶ真言。 第八の真言は、還宮を請う真言である。

闍提華の木を三十一段に切り、酥・酪・蜜に漬け、これを誦じて火を焚く。闍底華木とは、ここでは一生ともいい、また実ともいう。この土地にはこの木はない。

問う:もしこの真言で水や衣を加持するとき、その真言は水や衣に付着するのか。 答える:水や衣には心がなく、真言にも相はない。しかし物を加持するとき、すべては真言に随う。これは聖なる密術である。そうであれば、無色の色を以て真言を誦し、なお無心の物に付着するのであるから、ましてこの真言をもって有情の類を加持することは言うまでもない。

問う:なぜ先に水を加持するのか。 答える:水は穢れを除くことができるからである。もし穢れを除かなければ、法は成就しない。ゆえに先ず水を加持する。次に、水を加持して穢れを除いたとしても、もし身に着ける衣の穢れを除かなければ、やはり成就し難い。ゆえに衣を清浄にするのである。次に、水と衣を加持したとしても、油や香が清浄でなければ、焚く光も清浄でない。ゆえに油と香を加持する。次に、油と香を加持したとしても、華や香鬘が清浄でなければ、荘厳も清浄でない。ゆえに華と香鬘を加持する。次に、香華を加持したとしても、仏への供養が清浄でなく、恭敬が勤めでなければならない。ゆえに仏供を加持する。仏供を加持したとしても、もし火や薪が清浄でなければ、火気も清浄でない。なぜか。先に水を加持するのは、穢れを清浄にするためである。また薪を加持するのは、火気を清浄にするためである。水と火の理は、薬ともなり毒ともなる。真言の力によって薬と成し得るが、邪気があれば毒ともなり得る。ゆえに水と火を加持することは、真言の力を助成するためである。火気を加持したとしても、結界を結ばなければ、神鬼が乱れ入る。ゆえに結界を加持して呪場を鎮め、悪鬼を制するのである。第八の真言で還宮を請うのは、真言によって礼節を知らしめるためであり、世間の礼儀に随うのである。初めの真言は根本であり、後の七つはそれに従うものである。

次從「世尊如是神呪」以下,第三重舉修行方法也。就此中有三大段:初誦呪得益也;次從「世尊若欲成立」下,第二明造像方法也;自「復次行者或於日月」下,第三正勸行法也。就初中,有三少段:初、總表也;從「若患疱病」下,第二明得益也。荼耆尼者,此云莫勝也。畢遮舍,此云狂鬼,亦赤色鬼也。羯吒布旦那,此曰火熱病鬼,云一大臭鬼也。癲病者,是崩病也。此病有二種:一邪風所得、二邪鬼所著也。癎病者,是小兒癲癎病,為癎病也。樺皮者,蓋是桂皮耳。

次に、「世尊、このような神呪」以下から、第三に修行の方法を重ねて示す部分です。これには三つの大きな段落があります。

まず初めは、呪文を唱えることで得られる利益についてです。 次に、「世尊、もし成立させたいと願うならば」以下から、第二に仏像を作る方法を明らかにします。 さらに「また、行者はあるいは日月において」以下から、第三に実際の修行法を勧める部分です。

最初の段落の中には、さらに三つの小さな段落があります。 初めは、全体を表す総論です。 「もし疱瘡の病にかかっているならば」以下から、第二に得られる利益を具体的に示します。

「荼耆尼」とは、ここでは「勝てるものなし」という意味です。 「畢遮舍」とは、狂気の鬼、また赤色の鬼を指します。 「羯吒布旦那」とは、火熱病の鬼、あるいは大きな臭い鬼と言われています。

癲病とは、崩れる病いのことです。 この病には二種類あります。一つは邪悪な風によって生じるもの、もう一つは邪悪な鬼に取りつかれるものです。 癎病とは、子供の癲癇病、つまり癎病を指します。 樺皮とは、おそらく桂皮のことでしょう。

「極苦有所餘種種疾病」下,第三總結也。

「極苦有所餘種種疾病」の下は、第三のまとめである。

次從「若欲成立」下,第二明造像方法。中有二段:初正明造像法、次略明修行法也。初中有三段:初明所造檀木狀也;第二明長短大小,謂長一搩手半也;次第三明正容體也,謂左手執紅蓮華,展右臂掛數珠,及作施無畏手,作十一面也。所以提華者,左手未便之手,以喻行者初發信心。右手挂數珠者,右手是已便之手,即喻行者修行增進便熟之利也。數珠者,謂福慧二種莊嚴之寶珠也。及作施無畏手者,修行求願必得所願。故表施無畏手者,謂福慧二寶能施一切破貧窮困,故為施無畏手也。作十一面者,頂上一面作佛面也,前三面作慈面,左三面作瞋面,右三面作白牙上出面,後一面作暴咲面也,謂本體一面一身。或作佛面而為說法究竟菩提,或作慈面大慈與樂,或現瞋面乃令制惡大悲救拔苦,或作咲面令安左家利嗤離亂引入佛道。故以所化十一面為名觀世音,故曰十一面也。

次に「若欲成立」以下、第二に造像の方法を明かす。中に二段あり:初めは正しく造像の法を明かし、次に略して修行の法を明かす。初めの中に三段あり:初めに造る檀木の形状を明かす。第二に長短の大きさを明かす。すなわち長さ一搩手半である。次に第三に正しい容姿の体を明かす。すなわち左手に紅蓮華を執り、右臂を伸ばして数珠を掛け、及び施無畏の手を作し、十一面を作す。華を提げる所以は、左手は未だ便ならざる手にして、行者が初めて信心を発することを喩える。右手に数珠を掛ける所以は、右手は已に便なる手にして、即ち行者が修行を増進し便熟の利を得ることを喩える。数珠とは、福慧二種の荘厳の宝珠を謂う。及び施無畏の手を作す所以は、修行して願いを求めれば必ず願いを得る。故に施無畏の手を表すとは、福慧の二宝が一切の貧窮困苦を破り施す能あるを謂い、故に施無畏の手と為す。十一面を作す所以は、頂上の一面は仏面を作し、前三面は慈面を作し、左の三面は瞋面を作し、右の三面は白牙上出面を作し、後の一面は暴咲面を作す。すなわち本体一面一身なり。或は仏面を作して説法し究竟菩提を為し、或は慈面を作して大慈を以て楽を与え、或は瞋面を現して乃ち悪を制し大悲を以て苦を救い抜き、或は咲面を作して左家利嗤の離乱を安んじ仏道に引入す。故に所化の十一面を以て名と為し観世音と曰い、故に十一面と曰う。

次從「此像造已」下,第二略明行法。有九段:初,明時間。白月一日至八日,即是陽時也,謂萬物順氣而成,故曰順日月也。若欲破除,應用陰時也,謂黑月是陰時,從十六日至三十日也。問:此中佛說陰陽俗事耶:答:佛法真諦,不離俗法,依此俗故有真諦也。故佛為提謂波利長者說陰陽,是人天教。故今雖說大乘行法,不無助教也。次、誦呪數。謂每日三時,誦一百八遍也。對一百八煩惱,故誦一百八返也。一日三時者,三尊而求願也。次自「從此以後於一靜處」下,第三舉處所也。靜處者,是山谷靜處之處也。雖非山谷,於里廣博靜處也。外國持呪法,向東流水房,塗牛糞不令氣通,故為靜處也。次自「面向西方」下,第四明所向方也。西方是菩薩所住之處,亦是觀音之師阿彌陀佛所住之處也,故向西方也。次自「隨力所辦」下,第五明所獻佛供。亦有二段,初明佛供、二明行者食物也。佛供者,謂沈香、蘇合也。二明行者食,大麥乳者,謂內腹長養,不妨脹滿也。自「至十三日」下,第六明更勝獻供也。又行者食三白乳酪蘇者,除熱患、調和內安也。自「取菩提木」下,第七明所燃香木也。菩提,此云道也。《般若問論》曰「優樓頻螺林中成道,即是菩提樹」也。優樓頻螺者,此云木苽也。自「復取彼木截以為一千八段」下,第八誦呪數也。謂必以徵瑞為期,信心轉增,故誦呪更倍前,百八更增千八也。此菩提樹,用都魯色迦香油漬之也。《法華經》曰「李盧波香」,此云草香。與此中都魯色迦香,音韻少異,大意相似也。謂彼香燻油,以香詔油,故曰都魯色迦香油也。呪木一段,即置火中也。自「爾時大地岌然搖動」下,第九顯驗徵瑞也。此中有二:初明動像、二明出聲也。問:木是無心,何故動而出聲耶?答:此有三義,故動而出聲也。一者行人心誠、二願強盛故、三菩薩願重故也。人世不無是事也,如丁蘭木母猶現生相、僧感畫女尚應哀形,何況是菩薩而不應耶。經曰「佛從天下,木像起坐。佛先令坐,後異處住。」故佛言:「若人禮佛像,得福如真佛」也。問:此行法中,何故白色為法,如日月設禮,白檀作像,白牙上出,白味為供,面向西方耶?答:白色是眾色之本,觀音是行人之基。如《法華》白毫放光,白牛駕車,白葉華坐,以表一乘眾教之本也。面向西方者,有五義故面西方也。一、依五行者,西是金、東是木、南是火、中央為土、北方為水,謂以金剋木而成物也。菩薩向西者,備金義也。行者向東,取木義也。謂願菩薩為聖工,乃取智慧金兵,而力剋行人質朴木,令除闇愚相,為成正覺形也。二者依五時,東為春、西為秋、南為夏、北為冬,四維為四季時也。菩薩向西者,是秋,萬物已成果之時也。行人向東者,是春,萬物動陽榮華之時也。菩薩向西秋方者,有二義:一、菩薩已成佛道,法身大士如秋成菓也。二,成道故願施道果,如秋被賴也。行人向東春方,有二義:一、行人始行向道,如春動陽。二、已向道春,願得秋菓也。三者依五色者,東青、西白、南赤、北黑、中央黃色也。菩薩向白色方者,白是眾色之本,是行法眾行之基。行人向青色方者,是所滿之未也。青是萬物生相,有物向行如青也。四者依五常者,東仁、北義、西禮、南信、中央智也。菩薩向禮方者,是觀世音菩薩不受餘物,但受方禮敬向西方也。如《法華》但受稱禮,不受寶珠也。行者向仁方者,行人必被仁慈而得道,故向仁方也。五者依五戒者,東不殺、北不盜、西不婬、南不妄語、中央不飲酒也。菩薩向不婬方者,婬是欲界根本,先度欲界苦,故向不婬方也。行人何故向不殺方者,殺是眾罪根本故也。謂欲遇觀音慈悲,故向不殺也。問:若無白檀之國者,為何木作像也?答:若依方法者,必求白檀而作像也。若以義門而推者,若求而不得者,亦以柏木作像也。何故者?若觀世音必依白檀木像而現瑞應者,何故《不空羂索經》以布而作像耶?若彼經所說方與此經所說異者,此一經中用木,何故或用闍低華木、或用任婆木、或用菩提樹木、或用蘇末木香?故知彼國多有種種香木,故用種種香木也。若定用一香木為法者,可舉四種香木;若求白檀而不得者,應用餘木也。若燒香木而無四種木之國,隨有得用也。彼天竺多有珍香木,此土無故不翻木名,而用天竺音也,故有闍底、蘇末、任婆木名也。上面出聲者,即是佛面出聲讚行者也。此中有二:初出聲、後讚行人也。第二、讚文。有五:初受讚。二、騰空而去也,謂得菩薩所行之分,故得是菩薩少分神通也。三、遊化無礙,謂菩薩一旦遍歷十方,無所不趣也。四、得作持呪仙。仙有二種:一內仙人、二外仙人也。內仙人者,謂佛菩薩,故龍樹菩薩讚文曰「稽首天人所奉尊,阿彌陀仙兩足尊」也。二者外仙人也,謂外道仙人,修苦行者也。今云持呪仙人者,即是菩薩仙也。如我自在無礙障者,行人所修如觀世音,所得功德自在無礙也。何故佛面出聲者,佛是極果,相證為足故也。亦行此行,故當得佛果,故佛面出聲而讚也。

次に「この像を造り終えてから」以下、第二に略して行法を明かす。九段あり。初めに、時間を明かす。白月の一日から八日まで、すなわち陽の時である。万物が順気に従って成るゆえ、順日月という。もし破ろうとするなら、陰の時を用いるべきである。黒月は陰の時、十六日から三十日までである。問う:ここで仏は陰陽の俗事を説くのか。答える:仏法の真諦は俗法を離れず、この俗に依って真諦がある。ゆえに仏は提謂波利長者のために陰陽を説く、これは人天の教えである。故に今、大乗の行法を説くといえども、助けとなる教えがないわけではない。次に、呪を誦する数を明かす。毎日三時に、百八遍を誦する。百八の煩悩に対し、ゆえに百八返誦する。一日三時とは、三尊に願い求めるためである。次に「この後、一つの静かな処において」以下、第三に処所を挙げる。静処とは、山谷の静かな処である。山谷でなくとも、里の広く静かな処である。外国の呪を保つ法は、東流の水の房に向かい、牛糞を塗って気を通さず、ゆえに静処とする。次に「西方に向かって」以下、第四に向かう方角を明かす。西方は菩薩の住む処、また観音の師である阿弥陀仏の住む処である。ゆえに西方に向かう。次に「力の及ぶ限り整えて」以下、第五に献げる仏供を明かす。二段あり、初めに仏供を明かし、次に行者の食物を明かす。仏供とは、沈香・蘇合である。二に行者の食を明かす。大麦の乳とは、内腹を養い、脹満を妨げない。次に「十三日に至って」以下、第六にさらに勝れた献供を明かす。また行者は三白の乳酪蘇を食す。熱患を除き、内を調和して安らかにする。次に「菩提の木を取って」以下、第七に燃やす香木を明かす。菩提は、ここでは道という。『般若問論』に「優楼頻螺の林の中で成道した、すなわち菩提樹である」という。優楼頻螺は、ここでは木瓜という。次に「またその木を取り、千八段に截って」以下、第八に呪を誦する数を明かす。必ず瑞兆を期とし、信心が増すゆえ、呪を誦することを前に倍し、百八をさらに千八に増す。この菩提樹は、都魯色迦の香油に漬ける。『法華経』に「李盧波香」という、ここでは草香という。これと中の都魯色迦香は、音韻少し異なるが、大意は似ている。その香で油を燻し、香で油を詔するゆえ、都魯色迦香油という。呪木一段ごとに、火中に置く。次に「その時、大地ががたがたと揺れ動いて」以下、第九に験を顕し瑞兆を明かす。ここに二つあり、初めに像の動きを明かし、次に声が出ることを明かす。問う:木は無心、なぜ動き声を出すのか。答える:これに三つの義あり、ゆえに動き声を出す。一に行者の心が誠実、二に願いが強盛、三に菩薩の願いが重いためである。人の世にもこのような事がないわけではない。丁蘭の木母がなお生きている相を現し、僧が描いた女に哀れみの形を応じるごとし。まして菩薩において応じないことがあろうか。経に「仏が天より下り、木像が起きて坐す。仏が先に坐させ、後に異なる処に住まわせた」という。ゆえに仏は言う「もし人が仏像を礼すれば、真の仏と同じ福を得る」と。問う:この行法の中で、なぜ白色を法とし、日月のように礼を設け、白檀で像を作り、白い牙が上に出て、白い味を供え、西方に向かうのか。答える:白色は衆色の根本、観音は行人の基である。『法華経』の白毫が光を放ち、白牛が車を駕し、白葉華が坐すがごとく、一乗の衆教の根本を表す。西方に向かうことには、五つの義があるゆえに西方に向かう。一、五行に依れば、西は金、東は木、南は火、中央は土、北方は水。金をもって木を剋して物を成す。菩薩が西に向かうのは、金の義を備えるため。行者が東に向かうのは、木の義を取るため。菩薩を聖工とし、智慧の金兵を取り、行者の質朴な木を力強く剋し、暗愚の相を除いて正覚の形となすことを願う。二、五時に依れば、東は春、西は秋、南は夏、北は冬、四維は四季の時。菩薩が西に向かうのは秋、万物がすでに果を成した時。行人が東に向かうのは春、万物が陽に動き栄える時。菩薩が西の秋の方に向かうのには二義あり。一、菩薩はすでに仏道を成し、法身の大士は秋の果のごとし。二、道を成したゆえに道の果を施そうと願う、秋に頼られるごとし。行人が東の春の方に向かうのには二義あり。一、行人は初めて道に向かって行く、春の陽に動くごとし。二、すでに道に向かう春、秋の果を得んと願う。三、五色に依れば、東は青、西は白、南は赤、北は黒、中央は黄。菩薩が白色の方に向かうのは、白は衆色の根本、行法の衆行の基。行人が青色の方に向かうのは、満たされるべき末。青は万物の生の相、物が行に向かうこと青のごとし。四、五常に依れば、東は仁、北は義、西は礼、南は信、中央は智。菩薩が礼の方に向かうのは、観世音菩薩が余の物を受けず、ただ方礼敬して西方に向かうため。『法華経』にただ称礼を受け、宝珠を受けないがごとし。行者が仁の方に向かうのは、行人は必ず仁慈に被られて道を得るゆえ、仁の方に向かう。五、五戒に依れば、東は不殺、北は不盗、西は不婬、南は不妄語、中央は不飲酒。菩薩が不婬の方に向かうのは、婬は欲界の根本、先ず欲界の苦を度するゆえ、不婬の方に向かう。行人がなぜ不殺の方に向かうのか、殺は衆罪の根本ゆえ。観音の慈悲に遇わんと願うゆえ、不殺に向かう。問う:もし白檀のない国では、何の木で像を作るのか。答える:もし方法に依るなら、必ず白檀を求めて像を作る。もし義門によって推すなら、求めても得られないなら、柏の木でも像を作る。なぜなら、もし観世音が必ず白檀の木像に依って瑞応を現すなら、なぜ『不空羂索経』では布で像を作るのか。もしあの経の説く方とこの経の説く方が異なるなら、この一経の中で木を用いるのに、なぜ闍低華木を用いたり、任婆木を用いたり、菩提樹木を用いたり、蘇末木香を用いたりするのか。ゆえに知る、その国には多くの種々の香木があるゆえ、種々の香木を用いる。もし定めて一つの香木を法とするなら、四種の香木を挙げるべき。もし白檀を求めて得られないなら、余の木を用いるべき。もし香木を焼くのに四種の木のない国では、あるものに随って用いる。あの天竺には多くの珍しい香木があるが、この土にはないゆえ木の名を翻さず、天竺の音を用いる。ゆえに闍底・蘇末・任婆の木の名がある。上の声が出るとは、すなわち仏の面から声が出て行人を讃える。ここに二つあり、初めに声が出、後に行人を讃える。第二、讃文。五つあり。初めに讃を受ける。二、空に騰って去る。菩薩の行う分を得るゆえ、菩薩の少分の神通を得る。三、遊化して障りなし。菩薩は一旦にして十方を遍歴し、趣かざるところなし。四、持呪仙となることを得る。仙には二種あり、一は内の仙人、二は外の仙人。内の仙人とは、仏菩薩をいう。ゆえに龍樹菩薩の讃文に「天人の奉ずる尊に稽首し、阿弥陀仙の両足尊」という。二は外の仙人、外道の仙人、苦行を修める者。今、持呪仙人というのは、すなわち菩薩の仙である。「我が如く自在にして障り無き」とは、行人の修めることが観世音の如く、得る功徳が自在にして障り無きこと。なぜ仏の面から声が出るのか、仏は極果、相証をもって足と為すゆえ。またこの行を行えば、まさに仏果を得るゆえ、仏の面から声が出て讃える。

次自「復次行者或於白月」下,第三明修行方法也。此中有三段:初明行相、次明現瑞、第三明行益也。初中有八段:一明時也。謂白月十五日者,何故舉圓月時者,如白月圓滿,所行滿足故也。又白月之時晝夜清明,所行決定清淨明無疑也。又諸佛菩薩必用中道,欲學佛行故用中道也。謂十五日者,是月之中道也。何者?如補處菩薩生欲界,中天即是兜率;下生中國,迦毘羅也。中夜出生,中夜涅槃,故用中道也。次從「以十一面觀世音菩薩」者,第二明所作像也。次自「置有佛馱都制多」者,第三舉所置處也。佛馱者,此云覺者也。都制多者,此云塔也,或盡。塔有二種:一有舍利,即真塔也。一無舍利,但置經及佛像,即兜婆也。今即都婆塔,或曰都制多也。次從「著新淨衣」者,第四明外淨具也。謂內淨意業、外淨身口,故及淨三業,堪可行道也。次從「受持齋戒」下,第五明內淨意也。次「經一日一夜」者,第六明修行時間也。行間有三時:短者一日一夜;中者一七以上、三七以下也;長者是一月以上也。人有三根:一上根福德,又是一日夜也。中根,是七日以上也。下品下根,是一月以上,必為現瑞也。次自「不飲不食」者,第七明苦行相也。不飲不食者,是仙人行也,飲食是大患也。若學仙道持呪者,一日一夜尚不飲食也,何況長時斷穀也。問:不食為道耶?答:若行邪道者,食不食皆邪也。若行正道者,食不食皆正行。故悉達太子初行斷穀,但服胡麻,然後受食也。自「取蘇末華」者,此云好意,是第八舉誦呪數也。此華一千八枚,每華誦呪乃置像上也。是天竺國華,此土無斯華也。問:若無此華者,得用餘華耶?答:是經行法要用此華,必求可用也;若無此,應用餘華也。

次に「また行者あるいは白月において」以下、第三に修行の方法を明らかにする。ここに三段あり:初めに行相を明らかにし、次に現れる瑞相を明らかにし、第三に行う利益を明らかにする。初めの中に八段あり:一に時を明らかにする。白月十五日というのは、なぜ満月の時を挙げるかといえば、白月が満ちるように、修行も円満に成就するからである。また白月の時は昼も夜も明るく澄み、修行も確かに清らかで明らかで疑いがないからである。また諸仏菩薩は必ず中道を用いるので、仏の行いを学ぼうとするから中道を用いるのである。十五日というのは、月の中道である。なぜか。補処菩薩が欲界に生まれるとき、中天すなわち兜率天に生まれ、下生して中国すなわち迦毘羅国に生まれる。中夜に出生し、中夜に涅槃に入る。だから中道を用いるのである。

次に「十一面観世音菩薩をもって」というのは、第二に作るべき像を明らかにする。次に「仏馱都制多を置く」というのは、第三に安置する場所を挙げる。仏馱とは、ここでは覚者という意味である。都制多とは、ここでは塔という意味である。塔には二種類ある:一つは舎利があるもの、すなわち真の塔である。一つは舎利がないもの、ただ経典や佛像を置くもの、すなわち兜婆である。今は都婆塔、あるいは都制多というのである。

次に「新たな清浄な衣を著る」というのは、第四に外の清浄の具を明らかにする。内には意業を清め、外には身口を清める。それによって三業を清め、道を行うに堪えうるのである。

次に「斎戒を受持する」以下、第五に内の意を清めることを明らかにする。次に「一日一夜を経る」というのは、第六に修行の時間を明らかにする。修行の間には三つの時がある:短いのは一日一夜、中くらいは七日以上三七日以下、長いのは一月以上である。人には三根がある:上根の福徳ある者は一日一夜、中根の者は七日以上、下品下根の者は一月以上で、必ず瑞相が現れるのである。

次に「飲まず食わず」というのは、第七に苦行の相を明らかにする。飲まず食わないのは仙人の行いである。飲食は大きな患いである。もし仙道を学び呪を修する者は、一日一夜ですら飲食せず、まして長い時を断穀するのである。問う:食わないことが道なのか。答える:もし邪道を行えば、食っても食わなくても皆邪である。もし正道を行えば、食っても食わなくても皆正しい行いである。だから悉達太子は初めに断穀を行い、ただ胡麻を服し、その後で食事を受けたのである。

「蘇末華を取る」というのは、これは好意という意味で、第八に呪を誦する数を挙げる。この華は千八枚あり、一枚ごとに呪を誦して像の上に置く。これは天竺国の華で、この国にはこの華はない。問う:もしこの華がないなら、他の華を用いてもよいか。答える:この経の行法にはこの華を用いるべきである。必ず求め用いるべきである。もしこれがなければ、他の華を用いるべきである。

次自「爾時其像」下,第二現瑞。有三段也:初、明正現瑞也。謂當前一面出聲如雷也。何故此行法中從慈面出聲者,前表極果,令於行者乃乘大慈令得大樂也。自「由此便令」以下,第二動地。先段動像後出聲,此段先出聲後動地者,前段發動行人心,然後慰喻其心也。今此中先令慰喻,後發動信心也。次自「行者爾時應自安心」下,第三行人得益也。此中有八少段:初明行相、二明禮念、三明願誓、四遂願、五能除國災、六能愈長病、七能消結怨、八能除障受善也。初明行相,有四少段:初明願期。二自「敬觀自在菩薩」下,明禮念也。次自「我於阿耨多羅」下,第三明略願誓也。阿耨多羅三藐三菩提者,此無上正遍知道也,是金剛道後所證極果也。「便與其願」下,第四正遂願也。此中有四段:初正明遂願也。次自「復次行者於月蝕時」下,第二月蝕還生也。天表更相,神呪令除也。謂取蘇一兩,銀器盛之,置此像前念誦此呪,是月還生也。次自「復次行者應等分取」下,第三明惡夢極病並除。謂取雄黃置此像前,念誦此呪一千八遍,以水和點置眉間,三事成就,如前所說也。若暖水洗浴其身,則除障也。夢惡者,附神令見誦神呪,神呪故反惡令吉也。極病者,四大相違、五體不順皆,令和安也。次自「復次若他方」下,第四能袪他敵也。謂應取燕支一顆,誦呪之一百八遍,粧點此像左邊瞋面,面向怨敵方,怨敵不進也,有惡怨故。請觀音方便瞋面大悲拔苦,餘二面用之法而不說也。依《金光明經》曰「若有帝王欲護國土,自降其身,手擎香爐供養三尊,仰聽經王,應持讀誦,梵釋八部鬼神護國」也。今行此法呪者,能袪他方怨敵也。次自「復次若國土中」下,第五能袪國災也。國有災怖有四因緣:一政令不順正、二心別有阿黨、三不修慈心行、四不修福業也。國常豐樂有四因緣:一政令順正、二心常平等、三常行慈心、四對修福業也。任婆木者,《涅槃經》曰「占婆華,翻經者曰:此云木綿華也,此土所無也。」別取彼木截以為一千八段,每取一段塗芥子油,呪之一遍,擲著火中也。次從「若有卒為」下,第六能除長病。病有二種:一定業病,雖定業病漸時得愈。二橫病也。《天下萬病經》曰「用三寶物十年得病,金剛密迹所責故也。」雖是橫病,以呪得愈也。鳩槃荼,如上翻也。部多鬼者,此鬼神部黨多鬼也。次自「彼次若為」下,第七能除袪結怨也。謂若結怨業連續不斷,雖有斯怨力,能除怨也。鑠迦像者,是木名,謂檀木之名,此云堅固木也。故上文云「堅好無隙白檀」也。次自「復若知身中」下,第八總除障受善報也。毘奈耶迦像者,此云律,亦曰法也,謂如法作像也。

次に「爾時其像」以下、第二に瑞相を現す。三つの段がある。初めは、正しく瑞相を現すことを明かす。すなわち、当前の一面から雷のような声を出すのである。なぜこの行法の中で慈面から声を出すのかというと、前に極果を表し、行者が大慈に乗じて大楽を得させるためである。「由此便令」以下、第二に大地を動かす。先の段では像が動いて後に声が出たが、この段では先に声が出て後に大地が動く。前の段では行者の心を発動させ、その後でその心を慰め諭すのである。今ここでは先に慰め諭させ、後に信心を発動させるのである。次に「行者爾時応自安心」以下、第三に行者が利益を得るのである。ここには八つの小段がある。初めに行相を明かし、二に礼拝念誦を明かし、三に願い誓いを明かし、四に願いが遂げられ、五に国の災いを除き、六に長病を癒し、七に怨みを解消し、八に障りを除いて善を受け入れるのである。初めに行相を明かす。四つの小段がある。初めに願いの時期を明かす。二に「敬観自在菩薩」以下、礼拝念誦を明かす。次に「我於阿耨多羅」以下、第三に略して願い誓いを明かす。「阿耨多羅三藐三菩提」とは、これ無上正遍知道であり、金剛道の後に証する極果である。「便與其願」以下、第四に正しく願いが遂げられるのである。ここには四段ある。初めに正しく願いが遂げられることを明かす。次に「復次行者於月蝕時」以下、第二に月食が還って生ずるのである。天が表し、神呪が除かせるのである。すなわち蘇一両を取り、銀器に盛ってこの像の前に置き、この呪を念誦すれば、この月は還って生ずるのである。次に「復次行者応等分取」以下、第三に悪夢と極病がともに除かれることを明かす。すなわち雄黄を取り、この像の前に置き、この呪を千八遍念誦し、水で和して点じて眉間に置けば、三つの事が成就し、前に説いた通りである。もし暖かい水で身を洗浴すれば、障りが除かれるのである。悪夢を見る者は、神に附けて神呪を誦することを見させ、神呪によって悪を反転させて吉とさせるのである。極病とは、四大が相違し、五体が順わず、みな和やかに安んぜしめるのである。次に「復次若他方」以下、第四に他方の敵を除くことができるのである。すなわち燕支一顆を取り、呪を百八遍誦し、この像の左辺の瞋面に化粧して点じ、怨敵の方に向ければ、怨敵は進まないのである。悪しき怨みがあるからである。観音の方便、瞋面の大悲が苦を抜き、残る二面の用法は説かれていないのである。『金光明経』によれば、「もし帝王が国土を護ろうと欲すれば、自ら身を降ろし、手に香炉を擎げて三尊を供養し、仰いで経王を聴き、持ち読誦すべし。梵釈八部の鬼神が国を護る」とある。今この法呪を行う者は、他方の怨敵を除くことができるのである。次に「復次若国土中」以下、第五に国の災いを除くことができるのである。国に災い恐怖があるには四つの因縁がある。一に政令が正に順わない、二に心に別に阿党がある、三に慈心の行いを修めない、四に福業を修めないのである。国が常に豊かで楽しいには四つの因縁がある。一に政令が正に順う、二に心が常に平等である、三に常に慈心を行い、四に対して福業を修めるのである。任婆木とは、『涅槃経』に曰く「占婆華、翻経者は曰く、これを木綿華と云う。この土には無い」とある。別にその木を取り、截って千八段とし、毎に一段を取り芥子油を塗り、呪を一遍誦して火中に擲てばよいのである。次に「若有卒為」以下、第六に長病を除くことができる。病には二種ある。一定業病、定業病であっても漸時に癒えることがある。二に横病である。『天下萬病経』に曰く「三宝の物を用いて十年病を得るは、金剛密迹の責むるところによる」とある。横病であっても、呪によって癒えるのである。鳩槃荼は、上記のように翻訳される。部多鬼とは、この鬼神の部党に多くの鬼がいるのである。次に「彼次若為」以下、第七に怨みを除くことができるのである。すなわちもし怨みの業が連続して断たれないとしても、この怨みの力があれば、怨みを除くことができるのである。鑠迦像とは、木の名であり、すなわち檀木の名である。これを堅固木と云う。故に上文に「堅好無隙白檀」と云うのである。次に「復若知身中」以下、第八に総じて障りを除き善報を受けるのである。毘奈耶迦像とは、これを律と云い、また法とも曰う。すなわち法の如く像を作るのである。

次從「爾時觀自在菩薩說此語已」已下,第三大段流通說也。此是觀自在菩薩所說之經,但金口印可之,故為佛經也。故佛與菩薩因果雖殊,化度之旨其懷同,故聞菩薩所說而佛還歡喜也。

次に、「爾時観自在菩薩此の語を説き已りて」以下より、第三の大段、流通の説となる。これは観自在菩薩の説かれた経であるが、ただ釈尊の金口により印可されたゆえに、仏の経と為すのである。故に、仏と菩薩とは因果こそ異なれども、衆生を化度するというその志は同じである。ゆえに、菩薩の説かれたことを聞き、釈尊はさらに歓喜されたのである。

十一面神呪心經義疏

十一面神呪心経義疏

寬文七年秋八月五日,於仁和寺書寫畢。

寛文七年秋八月五日、仁和寺にて書写を終えました。

寫本云:以高山寺石水院經藏之本書寫之云。

写本には、高山寺石水院経蔵の本書を書き写したと記されている。

求法沙門乘真

求法の沙門、乗真


CBETA コード: T1802

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません