後漢明帝感夢金人騰蘭入雒諸道士等請求角試事一
漢明帝、金人の夢に感じ、迦葉摩騰と竺法蘭が洛陽に入る。道士たちが試合を求める話 一
漢法本內傳云。明帝永平三年。上夢神人金身丈六。項有日光飛在殿前。欣然悅之。明日問群臣。此何為神。有通人。傅毅曰。臣聞天竺有得道者。號曰佛也。飛行虛空身有日光。殆將其神乎。於是上悟。遣郎中蔡愔郎將秦景博士弟子王遵等一十八人。於大月支中天竺國。寫佛經四十二章藏在蘭臺石室第十四間。又於洛陽城西雍門外為起佛寺。於其壁畫千乘萬騎繞塔三匝。又將畫釋迦立像。乃於南宮清涼臺及開陽城門上。圖佛儀像。時造壽陵。名曰顯節。亦於其上作佛圖像。廣如牟子所顯。時有沙門迦攝摩騰竺法蘭。位行難倫志存開化。承蔡愔使達天竺。請騰東行。不守區域。隨至洛陽曉喻物情。崇明信為本。帝問騰曰。法王出世。何以化不及此。騰曰。迦毘羅衛者。三千大千世界百億日月之中心。三世諸佛皆在彼生。乃至天龍鬼神有願行者。皆生於彼。受佛正化。咸得悟道。餘處眾生無緣感佛。佛不往也。佛雖不往。光明及處。或五百年。或一千年。或一千年外皆有聖人。傳佛聲教而化導之。廣說教義。帝信重之。暨永平十四年正月一日。五嶽諸山道士。朝正之次自相命曰。天子棄我道法遠求胡教。今因朝集可以表抗之。其表曰。五嶽十八山觀太上三洞弟子褚善信等。死罪上言。臣聞太上無形無名無極無上虛無自然大道出於造化之前。上古同遵百王不易。今陛下道邁羲皇德過堯舜。竊承陛下棄本追末。求教西域。所事乃是胡神。所說不參華夏。願陛下恕臣等罪。聽與試驗。臣等諸山道士多有徹視遠聽博通經典。從元皇已來。太上群錄太虛符呪無不綜練達其涯極。或策使鬼神。或吞霞飲氣。或入火不燒。或履水不溺。或白日昇天。或隱形不測。至於方術藥餌。無所不能。願得與其比挍。一則聖上意安。二則得辨真偽。三則大道有歸。四則不亂華俗。臣等若比對不如。任聽重決。如其有勝乞除虛妄。勅遣尚書令宋庠引入長樂宮。勅以今月十五日。可集白馬寺。道士等便置三壇。壇別開二十四門。南嶽道士褚善信。華嶽道士劉正念。恒嶽道士桓文度。岱嶽道士焦得心。嵩嶽道士呂惠通。霍山天目五臺白鹿等十八山道士祁文信等。都合六百九十人。各齎靈寶真文太上玉訣三元符錄等五百九十卷。置於西壇。茅成子許成子黃子老子等二十七家子書有百三十五卷。置於中壇。饌食奠祀百神。置於東壇。帝時御行殿在寺南門。以佛舍利經像。置於道西。十五日齋訖。道士等以柴荻和檀沈香為炬。遶子經而泣曰。臣等上啟太極大道元始天尊眾仙百靈。今胡亂中夏。人主信邪。正教失蹤玄風墜緒。臣等敢置經壇上以火取驗。欲使開示群心得辨真偽。便縱火焚經。經從火化悉成灰燼。道士等相顧失色大生怖懼。將欲昇天隱形者無力可能。禁効鬼神者呼策不應。各懷愧恧。南嶽道士費叔才。自憾而死。太傅張衍語褚信曰。卿等所試無驗。即是虛妄。宜就西來真法。褚信曰。茅成子云。太上者靈寶天尊是也。造化之作謂之太素。斯豈妄乎。衍曰。太素有貴德之名無言教之稱。今子說有言教。即為妄也。信便默然。時佛舍利光明五色。直上空中旋環如蓋。遍覆大眾映蔽日光。摩騰法師踊身高飛。坐臥空中廣現神變。于時天雨寶花在佛僧上。又聞天樂感動人情。大眾感悅歎未曾有。皆繞法蘭請說法要。蘭乃出大梵音歎佛功德。亦令大眾稱揚三寶。說善惡諸法皆有果報。六道三乘諸相不一。又說出家功德其福最高。初立佛寺同梵福量。時有司空陽城侯劉峻與諸官人士庶等千餘人出家。及四嶽諸山道士呂惠通等六百二十八人出家。陰夫人王婕妤等與諸宮人婦女等二百三十人出家。至月末以來日日供設種種行施。法衣瓶器並出所司。便立十寺。七寺安僧在城邑外。三寺安尼在雒城內。漢興佛法自此始焉。初摩騰西來。將畫釋迦立像。帝乃令圖出之。於陵園及洛門供養。
『漢法本内伝』にこう説かれている。明帝の永平三年、帝は夢を見た。金色の身丈が六尺(約二メートル)を超える神人が、首の周りに日輪のような光を放ち、御殿の前に飛来したのである。帝は心から喜ばれた。翌日、群臣に「これは何の神か」と問うと、博識の傅毅が申し上げた。「臣は、天竺に悟りを得た者がいると聞いております。それを『仏』と申します。虚空を飛び、身に日光を放つという。まさにその神であろうかと」。そこで帝は悟られ、郎中・蔡愔、郎将・秦景、博士の弟子・王遵ら一十八人を大月氏と中天竺国に派遣し、仏経『四十二章経』を写し取らせた。これは蘭台の石室第十四の間に納められた。また洛陽城の西、雍門の外に仏寺を建て、その壁には千の車、万の馬が塔を三度巡る様を描かせた。さらに、描かせた釈迦の立像を南宮の清涼台や開陽城門の上に安置し、仏の儀容を図らせた。時に寿陵を造営し、その名を顕節と名づけ、そこにも仏の図像を作らせた。これらのことは、『牟子』に詳しく示されている通りである。
その頃、沙門の迦摂摩騰と竺法蘭という者がいた。その位と行いは比類なく、人々を教化しようという志を抱いていた。彼らは蔡愔が天竺に使者として着任したのを機に、摩騰を伴って東方へ向かうよう請われた。区域にこだわらず、ともに洛陽に至り、物事の道理を人々に説き、明らかにし、信仰こそが根本であると明らかにした。帝は摩騰に問うた。「法王(仏)が世に現れられたのに、どうしてこの地(中国)まで教化が及ばないのか」。摩騰が答えた。「迦毘羅衛は、三千大千世界の百億の日月の中心であります。三世の諸仏は皆、そこに生まれます。天竜や鬼神であっても、願い行いのある者は、皆そこに生まれ、仏の正しい教えを受け、悟りを得るのです。それ以外の地の衆生には、仏を感得する縁がなく、仏は赴かれません。仏は赴かれなくとも、その光明の及ぶところ、五百年、あるいは一千年、あるいは一千年を経て、必ず聖人が現れ、仏の声教を伝え、教化し導くのです」と。こうして広く教義を説くと、帝は深く信じ敬われた。
永平十四年正月一日、五岳や諸山の道士たちは、新年の朝賀の際に互いに言い合った。「天子は我々の道法を棄て、遠く胡(西方)の教えを求めておられる。今こそ朝拝の集まりを機に、上表して抗議しよう」。その上表にはこうあった。「五岳十八山観、太上三洞の弟子、褚善信ら、死罪をもって申し上げます。臣は、太上は形なく名なく、極まりなく上なく、虚無自然の大道は造化より先に生じたものと聞いております。上古より百王がこれを遵い、変わることはありませんでした。今、陛下の道は羲皇を超え、徳は堯舜に勝っておられます。しかしながら、陛下が本を棄てて末を追い、西域に教えを求め、事とするは胡の神、説くところは華夏にそぐわないものと、ひそかに承っております。願わくは陛下、臣らの罪をお許しください。試しに比較することをお許しください。臣ら諸山の道士には、遠くを見透かし、遠くを聞き分け、経典に広く通じた者が多くおります。元皇の昔より、太上の諸録、太虚の符呪に至るまで、すべてを習熟し、その極みに達しております。あるいは鬼神を策使し、あるいは霞を飲み気を吸い、あるいは火に入っても焼けず、あるいは水を踏んでも溺れず、あるいは白昼に天に昇り、あるいは姿を隠して測り知れません。方術や薬餌に至っては、出来ないことはございません。どうか彼らと比較させてください。一つには聖上の心を安んじ、二つには真偽を弁別し、三つには大道の帰するところを明らかにし、四つには華夏の風俗を乱さないためでございます。もし臣らが比較に及ばなければ、重い処罰を甘んじて受けます。もし勝ることがあれば、虚妄を除いてください」と。
帝は勅して尚書令の宋庁を遣わし、彼らを長楽宮に導入させた。そして今月十五日に、白馬寺に集まるよう勅命を下した。道士たちは三つの壇を設け、それぞれの壇に二十四の門を開かせた。南岳の道士・褚善信、華岳の道士・劉正念、恒岳の道士・桓文度、岱岳の道士・焦得心、嵩岳の道士・呂惠通、霍山・天目・五台・白鹿等十八山の道士・祁文信ら、総勢六百九十人。彼らはそれぞれ霊宝真文、太上玉訣、三元符録など五百九十巻を携え、西の壇に安置した。茅成子、許成子、黄子、老子ら二十七家の子書、百三十五巻は中の壇に置いた。そして、食べ物や酒を供え、百神を祀るためのものを東の壇に置いた。帝はその時、行殿に乗って寺の南門におられた。仏舎利や経典、仏像は道の西側に置かせた。十五日、斎戒が終わると、道士たちは柴や荻に檀や沈香を混ぜて松明とし、経典の周りを巡りながら泣いて言った。「臣らは、太极大道、元始天尊、すべての仙人、百霊に申し上げます。今、胡が中夏を乱し、人主は邪を信じ、正教はその蹤を失い、玄風はその緒を断たんとしております。臣ら、あえて経典を壇上に置き、火で験そうと存じます。どうか衆生の心を開き、真偽を弁別させてください」。そして火を放って経典を焼いた。経典は火に従い、ことごとく灰燼と化した。道士たちは互いに顔を見合わせ、色を失い、大いに恐怖を生じた。天に昇ろうとしたり、姿を隠そうとした者も、力及ばず、鬼神を禁じようと呼ばわっても応じなかった。各自、恥じ入るばかりであった。南岳の道士・費叔才は自らを恥じて死んだ。
太傅の張衍は褚善信に言った。「お前たちの試みは験なし、すなわち虚妄である。西方から来た真実の法に従うがよい」。褚信が言った。「茅成子は言いました。『太上とは霊宝天尊のことである。造化の働きを太素という』と。これが虚妄でありましょうか」。衍が言った。「太素には、尊い徳の名はあっても、言葉による教えの名はない。今、お前が言葉による教えがあると言うなら、それこそ虚妄である」。褚信は黙り込んでしまった。
その時、仏舎利は五色に輝き、真っ直ぐ虚空に昇り、旋回して蓋のようになり、大衆を遍く覆い、日光を覆い隠した。摩騰法師は身を踊らせて空高く飛び上がり、空中に坐したり臥したりして、広く神変を現した。その時、天から宝華が雨のように降り、仏や僧の上に降り注いだ。また、天の音楽が聞こえ、人々の心を感動させた。大衆は感悦し、かつてないことと嘆賞した。皆、法蘭の周りを巡り、法の要を説いてくれるよう請うた。法蘭は大梵音を発して仏の功徳を讃え、また大衆に三宝を称揚させた。善悪の諸法はすべて果報があり、六道や三乗の諸相は一つではないと説いた。また、出家の功徳はその福徳が最も高いと説いた。初めて仏寺を建立することは、梵福(梵天の福)と同じ功徳量があるとされた。
その時、司空・陽城侯の劉峻と諸官人・士庶ら千余人が出家した。そして四岳・諸山の道士・呂惠通ら六百二十八人が出家した。陰夫人、王婕妤らと諸宮人・婦女ら二百三十人が出家した。月末に至るまで、日々様々な布施が設けられ、法衣や瓶器などはすべて役所から支給された。こうして十の寺が建立された。七寺は僧のため城外に、三寺は尼のため洛陽城内に建てられた。漢の地における仏法の興隆は、ここに始まったのである。
初め、摩騰が西方から来た時、描かせた釈迦の立像があった。帝はその図像を写し出させ、陵園や洛陽の門に安置して供養された。