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title: "朝鮮佛教通史 · 真德女主〔金勝曼〕"
description: "朝鮮佛教通史是韩国学者李能和所著的一部系统研究朝鲜半岛佛教发展历程的经典著作。该书详细梳理了佛教自三国时代传入朝鲜半岛后，历经统一新罗、高丽王朝至朝鲜王朝的演变过程，深入分析了各时期佛教思想、宗派发展及其与政治、社会的关系。李能和作为20世纪韩国佛教研究的奠基人，以严谨的史学方法呈现了朝鲜佛教的本土化特色与历史地位。该著作不仅填补了朝鲜佛教系统研究的空白，更成为理解东亚佛教传播与韩国宗教文化的重要学术参考，对研究韩国思想史和东亚佛教交流具有不可替代的学术价值。"
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### ○真德女主〔金勝曼〕在位九年己酉三年高句麗寶藏王八年百濟義慈王九年唐貞觀二十三年

> ○真徳女王（金勝曼）在位9年<note>己酉</note>3年<note>高句麗宝蔵

春正月。新羅始依華制。為冠服。從沙門慈藏之言也。

> 春の正月、新羅が初めて唐の制度に倣い、冠や衣服を定めました。これは僧侶・慈蔵の提言によるものです。

【備考】大德慈藏金氏。本辰韓真骨蘇判。（三級爵名）茂林之子。其父歷官清要。絕無後胤。乃歸心三寶。造于千部觀音。希生一息。祝曰若生男子。捨作法海津梁。母忽夢星墜入懷因有娠。及誕與釋尊同日。名善宗郎。神志澄睿。文思日贍。而無染世趣。早喪二親。轉厭塵譁。捐妻息。捨田園為元寧寺。獨處幽險。不避狼虎。修枯骨觀。㣲或倦弊乃作小室。周障荊棘。裸坐其中。動輙鍼刺。頭懸在梁。以祛昏瞑。適台輔有闕。門閥當議。累徵不赴。王乃勑曰。不就。斬之。藏聞之曰。吾寧一日持戒而死。不願百年破戒而生。事聞。王許令出家。乃深隱岩叢。粮粒不恤。時有異禽。含菓來供。就手而喰。俄夢天人來授五戒。方始出谷。鄉邑士女。爭來受戒。藏自嘆邊生。西希大化。以仁平三年丙申歲。（即貞觀十年也）受勑與門人僧實等十餘輩。西入唐。謁清凉山。山有曼殊大聖塑相。彼國相傳云帝釋天。將工來雕也。藏於像前。禱祈冥感。夢像摩頂授梵偈。覺而未解。及旦有異僧來釋云。又曰雖學萬教。未有過此文。以袈裟舍利等付之而滅。藏公初匿之故唐僧傳不載藏知已蒙聖莂。乃下北臺抵大和池入京師。太宗勅使慰撫。安置勝光別院。寵賜頻厚藏嫌其繁擁。啟表入終南雲際寺之東崿。架嵓為室。居三年。入神受戒。靈應日錯。辭煩不載。（智異山華巖寺藏本云。師與門人僧實等十餘輩。入唐謁終南山雲際寺圓香國師。國師謂之曰。汝國縱橫烽燧。日役干戈。黎氓塗炭。無以為歸。汝今此往。可以立塔立寺。以鎮東方山水之逆云云。）既而再入京。又蒙勅慰。賜絹二百疋。用資衣費。貞觀十七年癸卯。本國善德王。上表乞還。詔許。引入宮。賜絹一領。（高僧傳絹作納盖納衲音通）雜綵五百端。東宮亦賜二百端。又多禮貺藏以本。朝經像未充。乞齎藏經一部。洎諸幡幢花蓋堪為福利者皆載之。既至。洎舉國攸迎。命住芬皇寺。唐傳作王芬寺給侍稠渥。一夏請至宮中。講大乘論。又於皇龍寺演菩薩戒本。七日七夜。天降甘澍。僧傳澍作露雲霧暗暗奄音通靄。覆所講堂。四眾咸服其異。朝廷議曰。佛教東漸。雖百千齡。其於住持修奉軌儀闕如也。非夫綱理無以肅清。啟勅藏為大國統凡僧尼一切規猷。總委僧綂主之。藏值斯嘉會。勇邀弘通。令僧尼五部。各增舊學。半月說戒。冬春摠試。令知持犯。置員管維持之。又遣巡使。歷檢外寺。誡礪僧失。嚴飾經像為恒式。一代護法。於斯盛矣。如夫子自衛返魯。樂正雅頌各得其宜。當此之際。國中之人。受戒奉佛。十室八九。祝髮請度。歲月增至。乃創通度寺。築戒壇以度四來。又改營生緣里第元寧寺。設落成會。講雜花方偈。感五十二女現身證聽。使門人植樹如其數。以旌厥異。因號知識樹。嘗以邦國服章。不同諸夏。舉議於朝。僉允曰臧。乃以真德王三年己酉。始服中朝衣冠。明年庚戌。又奉正朔。始行永徽號。自後每有朝覲。列在上藩。藏之功也。暮年謝辭京輦。於江陵郡。本溟州也創水多寺居焉。復夢真僧。狀北臺所見。來告曰明日見汝於大松汀。驚悸而起。早行至松汀。果感文殊來格。諮詢法要。乃曰重期於太白葛蟠地。遂隱不現。松汀至今不生荊棘而亦不棲鷹鷓之類云藏往太白山尋之。見巨蟒蟠結樹下。謂侍者曰此所謂葛蟠地。乃創石南院。今淨岩寺以候聖降。粵有老居士。方袍󰡖縷。荷葛簣盛死狗兒來。謂侍者曰欲見慈藏來爾。門者曰自丱巾󰆠。未見忤犯吾師諱者。汝何人。斯爾狂言乎。居士曰。但告汝師。遂入告。藏不之覺曰。殆狂者耶。門人出詬逐之居士曰歸歟歸歟。有我相者焉得見我。乃倒簣拂之。狗變為獅子寶座。陞坐放光而去藏聞之。方具威儀。尋光趨登南嶺。已杳然不及。遂殞容而卒。茶毗安骨於石穴中。凡藏之締搆寺塔十有餘所。每一興造必有異祥。故蒲塞供填市不日而成。藏之道具布襪并太和龍所獻。木鴨枕。別本以木鴨枕為西海龍所獻與釋尊由衣等。合在通度寺。又巘陽縣今彥陽有鴨遊寺。枕鴨嘗於此現異故名之。又有釋圓勝者。先藏西學而同還桑梓。助弘律部云

> 【備考】大徳慈蔵金氏は、もと辰韓の真骨蘇判（三級の爵名）である茂林の子である。その父は清らかで要職を歴任したが、跡継ぎが全くなかった。そこで心を三宝に帰し、千部の観音経を造り、一人の子を授かることを願い、「もし男の子が生まれたなら、法の橋渡しとなる身に捧げます」と祈った。すると母は突然、星が胸の中に落ちる夢を見て妊娠し、出産の日は釈尊と同じ日であった。名を善宗郎といった。その精神は澄みわたり、文才は日ごとに伸びたが、世の楽しみには染まらなかった。若くして両親を失い、ますます俗世の騒がしさを厭い、妻や子を捨て、田園を元寧寺として寄進した。自らは険しい山奥に独り住み、狼や虎も避けず、白骨観を修行した。時に疲れ果てると、小さな部屋を作り、その周りに茨を巡らせ、裸で座り、動くたびに針が刺さるようにした。また梁に頭を吊るして、眠気を除いた。 ちょうど宰相の席が空き、家柄として当然の候補とされたが、何度召されても応じなかった。王は勅命を下した。「応じなければ斬る」。これを聞いて慈蔵は言った。「私は一日でも戒律を守って死ぬことを選ぶ。百年、戒を破って生きることは望まない」。この話が伝わり、王は出家を許した。そこで深く山の岩陰に隠れ、食料も心配しなかった。その時、変わった鳥が果物をくわえて来て供え、手の中で食べさせてくれた。やがて夢に天人が現れて五戒を授け、ようやく谷を出た。郷里の男女が争って戒を受けに来た。慈蔵は辺境に生まれたことを嘆き、西への大いなる教化を願い、仁平三年丙申（唐の貞観十年）に、勅命により門人の僧実ら十数人と共に西へ唐に入り、清凉山を訪れた。山には文殊菩薩の塑像があった。中国では、帝釈天が職人を遣わして彫らせたと伝えられている。慈蔵は像の前で祈り、夢に像が頭を撫でて梵語の偈を授けた。目覚めても解けなかったが、翌朝、異僧が現れて解釈した。また、「万の教えを学んでも、この文に勝るものはない」と言い、袈裟や舎利などを授けて姿を消した。<note>慈蔵公が最初は隠していたため、唐僧伝には載っていない</note> 慈蔵は既に聖なる授記を蒙ったことを知り、北台を下り、大和池を経て都に入った。太宗の勅使がなだめ慰め、勝光別院に安置された。寵愛と賜り物は厚かったが、慈蔵はその煩わしさを嫌い、上表して終南山の雲際寺の東の崖のほとりに行き、岩場に部屋を構えて三年間住んだ。入神して戒を受け、霊験が毎日現れたが、詳細は省く（智異山華巖寺の蔵本には「師は門人の僧実ら十数人と共に唐に入り、終南山雲際寺の円香国師を訪ねた。国師は言った。『あなたの国は戦乱が絶えず、民は苦しみ、帰る場所もない。今あなたがここから戻ったなら、塔や寺を建てて、東方の山水の逆気を鎮めなさい』」とある）。やがて再び都に入り、また勅命で慰められ、絹二百匹を賜り、衣の費用に充てられた。貞観十七年癸卯、本国の善徳王が上表して帰国を求め、詔により許され、宮中に招かれ、絹一領（高僧伝では「絹」を「納」と書くが、音が通じる）と、雑彩五百端を賜った。東宮からも二百端を賜り、その他多くの贈り物があった。慈蔵は国の経典や仏像が不足していると考え、一切経一部や、多くの幡、幢、花蓋など、福徳のための品々を求めて載せて帰った。 帰国すると、国全体が出迎え、芬皇寺に住まうよう命じられた。<note>唐伝には王芬寺とある</note>待遇は手厚く、夏の間は宮中に招かれて大乗論を講じ、また皇龍寺で菩薩戒本を説いた。七日七晩、天から甘い雨が降り、<note>僧伝では「澍」を「露」としている</note>雲霧が立ちこめて講堂を覆い、四衆は皆その不思議に服した。朝廷は議論して、「仏教が東に伝わってから百千年を経るが、寺院の維持や儀式の規範は欠けている。これを整えなければ清めることはできない」とし、勅命で慈蔵を大国統とし、全ての僧尼の規則を総括させた。慈蔵はこの機会を捉え、盛んに弘通に努め、僧尼五部にそれぞれ旧学を増させ、半月ごとに戒を説き、冬と春に試験を施して、持犯を知らしめた。また役人を置いて管理維持させ、巡使を派遣して、各地の寺院を巡検させ、僧の過ちを戒め、経典や仏像を厳かに飾ることを常の形とした。一代の護法、ここに盛んである。あたかも孔子が衛から魯に返り、詩経の雅・頌を正しく整えたかのようであった。この時、国中の人々が戒を受け仏を敬う者は、十に八、九となった。剃髪して出家を願う者は、年月と共に増えた。そこで通度寺を創建し、戒壇を築いて四方から来る者を度した。また生まれ故郷の元寧寺を改修し、落成の法会を開き、華厳経の偈を講じた。すると五十二人の天女が現れて証拠として聴聞した。門人にその数だけ木を植えさせ、その異変を記念し、知識樹と名付けた。 かつて国の服章が中国と異なることを憂い、朝廷に建議すると、「良い」と皆が同意し、真徳王三年己酉から、中国の衣冠を着用するようになった。翌年庚戌には、正朔（暦法）を奉じ、永徽の年号を用いるようになった。その後、朝貢の度に上藩（上位の藩国）として扱われるようになったのは、慈蔵の功績である。老年になり都を辞し、江陵郡（もと溟州）に水多寺を創建して住んだ。再び、北台で見たような姿の真の僧が夢に現れ、「明日、大松汀であなたに会おう」と言った。驚いて起き、早朝に松汀に行くと、確かに文殊菩薩が来臨した。法の要点を尋ね、「再び太白山の葛蟠地で会おう」と言って、姿を隠した。<note>松汀には今に至るまで荊棘が生えず、鷹や鷓などの鳥も栖まないという</note>慈蔵は太白山に行き探すと、大蛇が木の下に絡まっているのを見て、従者に「これが葛蟠地だ」と言い、石南院（今の浄岩寺）を創建して、聖者の降臨を待った。 そこに老いた居士が、ぼろぼろの法衣をまとい、葛の簣（かご）に死んだ子犬を入れて担いで来て、従者に「慈蔵に会いたい」と言った。門番が「私は幼い頃から、師の名をあえて呼ぶ者を見たことがない。あなたは何者だ。そんな狂ったことを言うのか」と言うと、居士は「ただ師に伝えよ」と言った。従者が告げると、慈蔵は気づかず「多分、狂人だろう」と言った。門人が出て叱って追い払おうとすると、居士は「帰ろう、帰ろう。我相のある者に、どうして我に会えようか」と言い、簣をひっくり返して払うと、子犬は獅子の宝座に変わり、その上に座って光を放ちながら去っていった。慈蔵はこれを聞き、急いで威儀を整え、光を追って南の嶺に登ったが、既に遠く及ばず、そのまま姿を崩して亡くなった。荼毘に付し、骨を石の洞窟に納めた。慈蔵が建立した寺塔は十数箇所に及び、建立の度に必ず異なる瑞兆があった。そのため、在家信者の供養が市場を埋め尽くし、短期間で完成した。慈蔵の持ち物である布の襪（くつした）と、太和龍が献じた木鴨枕（別の本では木鴨枕を西海龍が献じたとする）は、釈尊の由衣と共に、通度寺に納められている。また巘陽県（今の彦陽）には鴨遊寺があり、枕の鴨がかつてここに現れて異変を示したことから名付けられた。また、円勝という僧がおり、慈蔵に先立って西に学び、故郷に共に帰り、律の弘通を助けた。

贊曰。

三國遺事曾向清涼夢破迴。七篇三趣一時開。欲令緇素衣慚愧。東國衣冠上國裁。。

（海東佛祖源流云師有弟子三人僧實祖日穀成）

> （海東の仏祖源流に云く、師に弟子三人あり。僧実・祖日・穀成とす。）

【叅考】續高僧傳唐南山律師道宣撰釋慈藏。姓金氏。新羅國人。其先三韓之後也。中古之時辰韓馬韓卞韓。率其部屬。各有魁長。案梁貢職圖。其新羅國。魏曰斯盧。宋曰新羅。本東夷辰韓之國矣。藏父名武林。官至蘇判異。以本王族比唐一品既嚮高位。籌議攸歸。而絕無後嗣。幽憂每積。素仰佛理。乃求加護。廣請大捨。歸心佛法。并造千部觀音。希生一息後若成長。願發道心。度諸生類。冥祥顯應。夢星墜人懷。因即有娠。以四月八日。誕載良辰。道俗銜慶。希有瑞也年過小學。神睿澄蘭。獨拔恒心。而於世數史籍。畧皆周覽。情意漠漠。無心染趣。會二親俱喪。轉厭世華。深體無常。終歸空寂。乃捐捨妻子第宅田園。隨須便給。行悲敬業。孑爾隻身。投於林壑。麤服草屩。用卒餘服。遂登陗隘。獨靜行禪。不避虎兕。常思難施。時或弊睡。心行將徵。遂居山室。周障棘刺。露身直坐。動便刺肉。懸髮在梁。用祛昏漠。修白骨觀。轉向明利而冥行顯被。物望所歸。位當宰相。頻徵不就。王大怒。敕往山所將加手刃。藏曰。吾寧持戒一日而死。不願一生破戒而生。使者見之。不敢加刃。以事上聞。王愧服焉。放令出家。任修道業。即又深隱。外絕來往。粮粒固窮。以死為命。便感異鳥。各銜諸果。就手送與。鳥於藏手。就而共食。時至必爾。初無乖候。斯行感玄徵。罕有聯者。而常懷慼慼。慈念含識。作何方便。令免生死。遂於眠寐。見天使告曰。卿在幽隱。欲為何利。藏曰惟為利益眾生。乃授藏五戒訖。曰可將此五戒。利益眾生。又告藏曰。吾從忉利天來。故授汝戒。因騰空滅。於是出山。一月之間國中士女。咸受五戒。又深思惟曰。生在邊壤。佛法未弘。自非目驗。無由承奉。乃啟本王。西觀大化。以貞觀十二年。將領門人僧實等十有餘人。東辭至寺。蒙勅慰撫。置勝光別院。厚禮殊供。人物繁擁。財事既積。便來外盜。賊者將取。心戰自驚。返來露過。便授其戒。有患生盲。詣藏陳懺。後還得眼。由斯祥應。從受戒者。日有千計。性樂栖靜。啟勅入山。於終南雲際寺東懸崿之上。架室居焉。旦夕人神。歸戒又集。時染少疹。見受戒神。為摩所苦。尋即除愈。往還三夏。常在此山。將事東藩。辭下雲際。見大鬼神。其眾無數。帶甲持仗。云將此金輿。迎取慈藏云。復見大神。與之共鬪。拒不許迎。藏聞臭氣塞谷蓬勃。即就繩床。通告訣別。其一弟子。又被鬼打。躃死乃蘇。藏即捨諸衣財。行僧德施。又聞香氣遍滿身心。神語藏曰。今者不死。八十餘矣。既而入京。蒙勅慰問。賜絹二百匹。用充衣服。貞觀十七年。本國請還。啟勅蒙許。引藏入室。賜衲一領。雜綵五百段。東宮賜二百段。仍於弘福寺。為國設大齋。大德法集。并度八人。又勅太常。九部供養。藏以本朝經像彫落未全。遂得藏經一部。并諸妙像幡花盖具堪為福利者。賷還本國。既達鄉里。仰國來迎。一代佛法。於是興顯。王以藏景仰大國。弘持正教。非夫綱理無以肅清。乃勅藏為大國綂。住王芬寺。此芬皇寺之誤寺即王之所造。又別築精院。別度十人。恒充給侍。又請入宮。一夏講攝大乘論。既又於皇龍寺講菩薩戒本。七日七夜。天降甘露。雲霧奄靄。覆所講堂。四部興嗟。聲望彌遠。及散席日。從受戒者其量雲從。因之革厲。十室而九。藏屬斯嘉運。勇銳由來。所有衣資。并充檀捨。惟事頭陀。蘭若綜業正以青丘。佛法東漸百齡。至於住持修奉蓋闕。乃與諸宰伯。祥評紀正。時王從上下僉議攸歸。一切佛法須有規猷。正委僧綂。藏令僧尼五部。各增舊習。更置綱管。監察維持。半月說戒。依律懺除。春冬摠試。令知持犯。又置巡使。遍歷諸寺。誡勵說法。嚴飾佛像。營理眾業。鎮以為常。據斯以言。護法菩薩。即斯人矣。又別造寺塔十有餘所。每一興建。合國俱崇。藏乃發願。曰若所造有靈。希現異相。便感舍利。在諸巾鉢。大眾悲慶。積施如山。便為受戒。行善遂廣。又以習俗服章。中華有華義惟歸崇正朔義豈貳心。以事商量舉國。咸遂通改邊服。一惟唐儀。所以每年朝集。位在上藩。任官遊踐。並同華夏。據事以量。通古難例。撰諸經戒䟽十餘卷。出觀行法一卷。盛流彼國。有沙門圓勝者。本族辰韓。清慎僧也。以貞觀初年。來儀京輦。遍陶法肆。聞持鏡曉。志存定攝。護法為心。與藏齊襟。秉維城塹。及同返國。大敞行道。講開律部。惟其光肇。自昔東藩。有來西學。經術雖聞。無行戒檢。緣搆既重。今則三學備焉。是知通法護法。代有斯人。中濁邊清。於斯驗矣。

> 【参考】続高僧伝<note>唐の南山律師道宣撰</note> 釈慈蔵は、姓は金氏、新羅国の人である。その先祖は三韓の後裔である。中古の時代、辰韓・馬韓・卞韓はそれぞれ部族を率い、それぞれに首長がいた。梁の『貢職図』によれば、新羅国は魏の時代には斯盧、宋の時代には新羅と呼ばれ、もとは東夷の辰韓の国であった。蔵の父は武林と名乗り、官位は蘇判に至った。<note>本国の王族で唐の一品に相当する</note>高官の地位にあったため、国の政治を預かり審議にも参加したが、一向に子孫に恵まれず、常に憂いを抱いていた。かねてより仏法を敬っていたので、加護を求め、広く施しをなし、心から仏法に帰依し、また千体の観音像を造り、一人の子を授かることを願った。もし子が成長すれば、必ず道心を発し、あらゆる生きとし生けるものを救いたいと願った。すると不思議な縁により、夢に星が人の懐に落ちるのを見、やがて妊娠した。四月八日という良い日に生まれ、道俗ともに祝い、まれな瑞兆とされた。幼い頃から学問に優れ、精神は澄みわたり、ひときわ優れた心の持ち主であった。世の中の歴史や記録はおおむね一通り読み通したが、心は淡々としてそれに染まることはなかった。両親が相次いで亡くなると、ますます世俗の華やかさを厭い、無常を深く悟り、すべては空寂に帰することを知り、妻子や家屋敷・田畑を捨て、必要に応じて人に与え、慈悲と尊敬の行いに励んだ。そして一人で山林に入り、粗末な服に草鞋という生活を送り、険しい場所に登って独り静かに坐禅を修め、虎やサイを避けることなく、常に施しの難しさを思った。時に眠気に襲われることがあり、自らの心行を試そうと、山の窟に住み、周りに棘を巡らせ、裸身で坐すると動くたびに棘が肉に刺さった。また髪を梁に吊るして眠気を払い、白骨観を修して次第に明らかとなった。そのような隠れた修行が世に知られるようになり、人望が集まって宰相に任じられることとなったが、再三にわたって招聘を断った。王は怒り、使いを山に遣わして刃を加えようとした。蔵は「私は戒律を守って一日で死ぬとも、戒を破って一生生きることを願わない」と言った。使いはこれを見て刃を加えることができず、事の次第を王に報告すると、王は愧じて従い、出家を許し、思いのままに道業を修めることを認めた。蔵はさらに深く山中に隠れ、外界との来往を絶ち、食べ物も尽きて死を覚悟した。すると不思議な鳥が現れ、様々な果実をくわえて来て、その手に与えた。鳥は蔵の手で一緒に食べ、時期が来れば必ずそうし、一度も遅れることはなかった。これはその行いがもたらした神秘的な徴証であり、これに類する者はまれであった。蔵は常に心を痛め、生きとし生けるものに慈しみを抱き、「どのような方法で生死を免れさせることができるだろうか」と願った。すると眠りの中に、天人からの告げがあった。「あなたは隠れた場所で、何を利益としているのか」と。蔵が「ただ衆生を利益することのみを願います」と答えると、天人に五戒を授けられ、「この五戒を持って衆生を利益しなさい」と言われた。また天人から「私は忉利天から来た。だからあなたに戒を授けるのだ」と言われ、空に昇って消えた。そこで蔵は山を出た。一月の間に国の男女は、皆五戒を受けた。さらに深く考えるところがあり、「辺鄙な土地に生まれ、仏法がいまだに弘まっていない。自分の目で確かめなければ、真実を承け伝えることはできない」と、自国の王に願い出て、西方の大きな教化を見ようとした。貞観十二年、門人の僧実ら十余人を率いて、東方を辞して寺に至ると、勅命によってねぎらわれ、勝光の別院に置かれ、手厚い礼遇と特別な供養を受けたため、人や物が溢れかえった。財物が積もると外からの盗賊も現れたが、盗もうとした者は心が震え自ら驚き、やって来て過ちを告白したので、蔵は彼らに戒を授けた。生まれつき盲目の者がいて、蔵のもとに来て懺悔すると、後に目が見えるようになった。このような瑞応によって、戒を受けようとする者は日に千人を数えた。蔵は静かなところに住むことを好み、勅命を得て山に入り、終南山の雲際寺の東の懸崖の上に、小屋を建てて住んだ。朝夕、人も神も帰依し戒を求めて集まった。ある時少し病を得たが、戒を授けた神々が現れて病を摩すると、すぐに治った。こうして三年をこの山で過ごした。やがて東方の国に帰ろうとして、雲際寺に暇乞いをすると、大鬼神の群れが無数に現れ、甲冑を着け武器を持って、金の輿で慈蔵を迎えに来たと告げた。また大神が現れてこれと戦い、迎えを拒んだ。蔵は悪臭が谷に充満するのを感じ、縄床にのぼって人々に告別を告げると、一人の弟子が鬼に打たれて倒れ死にかけたが、蘇生した。蔵は全ての衣類や財物を僧侶や貧しい人々に施した。すると香りが身心に満ちるのを感じ、神が蔵に言った。「あなたは今死なず、八十歳余り生きるでしょう」と。その後、都に入ると勅命によって慰問され、絹二百匹を賜り衣服とした。貞観十七年、本国から帰国の要請があり、勅命によって許され、蔵は宮中に招かれ、衲衣一領と雑綵五百段を賜り、東宮からも二百段を賜った。そして弘福寺で国のために大斎を設け、大徳の法集が行われ、八人の出家者が度された。また太常に命じて九部の供養が行われた。蔵は自国の経典や仏像が損なわれて完全でないことを憂い、大蔵経一部と多くの優れた仏像や幡・華・蓋などの福徳を生む品々を携えて本国に帰った。故郷に着くと、国を挙げて出迎えられ、一代の仏法がここに興隆した。王は蔵が大国（唐）を敬慕し、正しい教えを広く弘めたことから、綱紀を正さなければ仏法を清められないと考え、蔵を大国統（国の僧統）に任じ、王芬寺（<note>これは芬皇寺の誤り</note>）に住まわせた。寺は王が建立したものである。さらに別の精舎を建て、特に十人を度して常に侍者とした。また王は蔵を宮中に招き、夏の間『摂大乗論』を講じさせた。さらに皇龍寺で『菩薩戒本』を七日七夜にわたって講じると、天から甘露が降り、雲霧が辺りを覆い講堂を覆った。四部の者は嘆賞し、名声はますます広まった。講筵が終わる日には、戒を受けようとする者が雲のごとく集まり、これによって心を改める者は十戶のうち九戶に及んだ。蔵はこのような幸運に浴したが、元来の勇猛な心は変わらず、全ての衣類や財産を施しに充て、ただ頭陀行に励み、山林の静かな場所で修行に専念した。青丘（新羅）に仏法が東漸してから百年、住持や修習・奉持に関しては不十分な点が多かった。そこで蔵は多くの高官とともに協議し、正しい基準を定めた。王も上下の合意に従い、一切の仏法には規則が必要であるとして、僧統に委ねた。蔵は僧尼の五部に命じて、それぞれ従来の修行に加え、綱管（監察官）を置いて監察・維持させ、半月ごとに説戒し、律に従って懺悔と除罪を行わせ、春秋に総合的な試験を行って、僧尼に持戒と破戒の区別を理解させた。また巡使を置いて全ての寺院を巡回させ、戒め励まして説法し、仏像を荘厳し、衆務を営むことを常とした。これらのことから言えば、護法菩薩とはこの人のことであろう。また別に寺塔を十数か所建立した。建立のたびに国を挙げて尊崇した。蔵は願を立てて、「もし私の造ったものに霊験があれば、どうか異相を現してほしい」と願うと、舎利が鉢の中に感得され、大衆は悲喜し、積まれた施しは山のようであった。そこで戒を授け、善行をますます広めた。また習慣や服装について、中華（唐）の様式には華やかさと正しさがあり、正朔（唐の暦）を尊び、心に二心があってはならないと、国をあげて協議し、ついに辺境の服装を改め、全てを唐の儀式に従わせた。そのため年ごとに朝廷に参集する際には、上位の藩国とされ、役人の任官や活動も全て華夏と同様とされた。事実に基づいて推し量れば、古今を通じて比類がないと言えよう。蔵は多くの経典や戒律の疏（注釈書）十数巻と『観行法』一巻を撰述し、それらは国中に広く流布した。<note>沙門の円勝という者がいた。同じく辰韓出身の、清らかで慎み深い僧である。貞観の初年に都に来て、あまねく法の教えに浴し、聴聞したことは鏡のように明らかに記憶し、常に禅定を志し、護法を心がけ、蔵と志を同じくしともに仏法を護持した。そして共に帰国して、大いに仏道を弘め、律部を講じ開いたのは、まさに彼によって始まった。昔から東方の国々は西方に学びに来て、経論を聞くことはあっても、戒律の実践はなかった。因縁の構築は重く、今や三学（戒・定・慧）が全て備わった。ここに通法と護法の者が、代々現れていることが知られる。中心地が濁り辺境が清らかであること（末法の時代にも辺境で正法が保たれること）は、このことによって証されている。</note>