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title: "朝鮮佛教通史 · 哀莊王〔金重熙〕"
description: "朝鮮佛教通史是韩国学者李能和所著的一部系统研究朝鲜半岛佛教发展历程的经典著作。该书详细梳理了佛教自三国时代传入朝鲜半岛后，历经统一新罗、高丽王朝至朝鲜王朝的演变过程，深入分析了各时期佛教思想、宗派发展及其与政治、社会的关系。李能和作为20世纪韩国佛教研究的奠基人，以严谨的史学方法呈现了朝鲜佛教的本土化特色与历史地位。该著作不仅填补了朝鲜佛教系统研究的空白，更成为理解东亚佛教传播与韩国宗教文化的重要学术参考，对研究韩国思想史和东亚佛教交流具有不可替代的学术价值。"
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### ○哀莊王〔金重熙〕在位九年壬午三年唐貞元十八年佛紀一八二九年

> 哀荘王〔金重熙〕、在位九年<note>壬午</note>三年<note>唐貞元十八年</

秋創伽倻山海印寺。初義湘法師自唐還。傳教於十剎。伽倻之海印。居其一焉。至是順應大德。繼以創之。利貞禪伯。踵而成之。至高麗朝。王子僧綂義天。大覺國師愛其山水之佳麗。久住茲寺。著書頗多。又自朝家貯藏國史。奉安大藏經板焉。

> 秋に伽倻山海印寺を創建す。初め、義湘法師が唐より帰還し、十の寺院に教えを伝えた。伽倻の海印寺はその一つである。ここに至り、順応大徳が引き継ぎ創建し、利貞禅伯が続いて完成させた。高麗朝に至っては、王子の僧統・義天<note>大覚国師</note>が、この寺の山水の美しさを愛で、長くこの寺に住み、多くの書物を著した。また朝廷より国史の保管を委ねられ、大蔵経版を奉安した。

【備考】崔致遠撰新羅迦耶山海印寺善安住院壁記。畧曰。經云。受持萬偈經。不如一句義。猶信後發前至。其惟是山。何則。有若祖師順應大德。效成覸於神琳碩德。問老聃於大曆初年。託窾木以忘軀。尋住山而得髓。窮探教海。俊達禪河。洎遂言歸。光膺妙選。乃歎曰。人資琢玉。世貴藏金。既含天地之靈。亦資山川之秀。鳥能擇木。吾盍誅芧。越貞元十八年良月既望。牽率同志。卜築於斯。山靈鈞妙德之名。地體印清凉之勢。分裝五髻。競拔一毛。于時。聖穆王太后。母儀四夷。子育三學。聞風敬悅。誓日歸依。捨以嘉蔬。副之束帛。是若自天獲佑。實惟得地成因。然。屬生徒。方霧擁嵓扉。耆德遽露晞林宇。利貞禪伯。踵武興功。依乎中庸。盡住持之美。取諸大壯。煥營搆之奇。雲矗霞舒。日新月改。自是伽耶勝景。雅符成道之基。海印殊珍。益耀連城之價。既見玉林皆拔。寔得珠岑不枯。故得開薙。則僅一百年。徵躬者盈四七德。以誦持同昇者五由演暢別座者三。是皆行不浮于言。名克保于實。巨唐光化三󱑊天一泰齋臈月霧日記。

> 【備考】崔致遠が記した新羅・伽耶山海印寺善安住院の壁記。要約すると次の通りである。 経典には、「一万の偈からなる経典を受持するよりも、一句の意味を理解する方が勝る」とある。これは、後に発心した者が先に悟りに至ることもあり得ることを示している。この山こそが、そのような場所である。なぜなら、ここには祖師・順応大徳がおられたからだ。 順応大徳は、神琳碩徳に成覸の教えを学び、大曆の初年に老聃の教えを尋ね、自らの身を顧みずに修行に励み、この山に住してその真髄を得られた。教えの海を深く探求し、禅の河を鋭く見極められた。そして帰国なさるとき、妙なる選びに光栄を担われた。 大徳は嘆息して言われた。「人は玉を磨くことを重んじ、世は金を蔵することを貴ぶ。それらは天地の霊気を含み、山川の秀麗さにも恵まれている。鳥は木を選ぶことができる。ならば、私はなぜ茅を刈って住まいを定めないのか」 貞元十八年の良月既望（十月十五日）、同志を率いてこの地に居を定められた。山の霊は妙徳の名に応じ、地の勢いは清涼の境地を印した。五つの峰は髻を分けたようで、互いに一毛を抜きん出ようと競っているかのようであった。 その時、聖穆王太后は、四方の異民族の母なる模範として、三学（戒・定・慧）を育てておられた。順応大徳の風聞を敬い喜び、日に誓って帰依なさり、良質な野菜と束ねた絹を寄進された。これは天から加護を得たことであり、まさにこの地を得て因縁が成就したのである。 しかし、弟子たちが霧のように岩戸に集まり、高徳の僧が林の屋宇に露のように現れるやいなや、利貞禅伯がその跡を継いで功績を興された。中庸に依りながら、住持としての美を尽くし、大壮の卦を取り入れて、営造の奇を輝かせた。雲はそびえ立ち、霞は広がり、日々新たに月々改まった。 これにより、伽耶山の勝景は、成道の基盤によく符合し、海印寺の殊勝な宝は、連城の価値をますます輝かせた。玉のような林がすべて抜きん出て、真珠のような山が枯れることのないことが明らかになった。 故に、開山以来わずか百年であるが、その功績を体現する者は四七の徳に満ち、誦持によって共に昇った者は五名、演暢によって別座した者は三名である。これらは皆、行いが言葉に浮かず、名声が実質を保つことができた者たちである。 大唐・光化三年、天一泰斎、臈月霧日（十二月のある霧の日）に記す。

海印寺事蹟云。順應利貞兩大士。入中國求法。還國。時新羅哀莊王王后。患發背。遣中使告之。師授以五色線。其使還報於王。王依言試之。患差。王感之。剙立海印寺。

昔梁朝寶誌公。臨終。以踏山記。囑門徒曰。吾沒後。有高麗二僧。求法而來。以此記付之。後果有順應利貞兩大士。入中國求法。誌公門徒。見之。以踏山記付之。并說臨終時語。順應聞而問法師葬處。而往尋之。云人有古今。法無前後。七日七夜。入定請法墓門自開。誌公出。為之說法。以衣鉢傳。又賻蟒皮鞋。仍囑曰。汝國牛頭山酉。有佛法大興處。汝等還國。可剙立別裨補大伽藍海印寺。言訖。還入。二師還國。至牛頭山。自東北。踰嶺而西。遇獵人。問曰。汝等因獵。遍閱此山。有可以剙寺地否。獵人答曰。此去小下。有一水泊處。多有鐵瓦。宜往觀之。二師到水泊處見之。甚叶其意。藉草而坐。入定。頂門放光。紫氣衝天。時新羅第。三十九王哀莊大王王后患發背。良醫無效。王患之。遣使臣。分往諸方。冀得碩德異僧。倘蒙扶救也。中使於路上。望見紫氣。疑其有異人。到山下。披榛入洞。至數十里許。溪深峽束。行不能前。徘徊久之。忽見一狐緣巖而去。中使心異之。隨之而後。及見二師入定。光從頂門出。敬信禮拜。因請邀還王宮。二師不許。中使乃以王后發背之患告之。師授以五色線。曰宮前有何物。答曰有梨樹師曰持此線一頭。繫於梨樹。一頭接於瘡口。即無患。其使還報於王。王依言試之。梨枯患差。王感之敬之。使國人剙立茲寺焉。時哀莊王三年壬午。

> 昔、梁の時代に宝誌公という高僧がいました。彼は臨終の際、『踏山記』という書物を弟子たちに託し、こう言いました。 「私が亡くなった後、高麗から二人の僧が求法のためにやって来るだろう。この記録を彼らに渡しなさい。」 後に、果たして順応と利貞という二人の大士が中国に求法に訪れました。宝誌公の弟子たちは彼らを見て、『踏山記』を渡し、臨終の時の言葉も伝えました。 順応はそれを聞き、法師の墓所を尋ねて訪ねました。そして、「人は古今あれど、法に前後はなし」と唱え、七日七夜、墓の前で坐禅に入り、法を請いました。すると墓門が自ら開き、宝誌公が現れて説法をし、衣と鉢を伝えました。さらに、蟒皮の靴を授け、こう託しました。 「あなたの国、牛頭山の西に、仏法が大いに興る場所がある。国に帰ったら、そこに別の寺、海印寺を建立して、仏法を補いなさい。」 言い終わると、宝誌公は墓に戻りました。 二人の師は国に帰り、牛頭山に至りました。東北から嶺を越えて西へ進むと、猟師に出会いました。師たちは尋ねました。 「あなたは猟でこの山をくまなく見ておられるでしょう。寺を建てられるような場所はありませんか。」 猟師は答えました。 「ここから少し下ったところに水たまりがあります。そこには鉄の瓦がたくさん落ちています。行ってご覧になるといいでしょう。」 二人の師がその水たまりに行ってみると、まさに理想の場所でした。草を敷いて座り、坐禅に入ると、頂門から光を放ち、紫の気が天に昇りました。 その時、新羅の第三十九代王、哀荘大王の王妃が背中に腫れ物を患い、名医も治せず、王は心を痛めていました。王は使者を四方に遣わし、優れた徳を持つ異能の僧を探し、救いを求めさせました。 その中の一人である使者が道中、紫の気を見て、異人がいるのではないかと疑い、山のふもとに来ました。やぶをかき分けて洞窟に入り、数十里ほど進むと、深い渓谷と狭い峡谷に行き止まり、先に進めなくなりました。しばらくうろうろしていると、突然一匹の狐が岩を伝って去っていくのを見ました。使者は不思議に思い、その後を追いました。 そして、坐禅に入り、頂門から光を放つ二人の師を見つけ、敬虔な心で礼拝しました。そして、王宮へお連れしたいと請いましたが、二人の師は許しませんでした。 使者は王妃の背中の病のことを告げました。師は五色の糸を授け、尋ねました。 「宮殿の前に何かあるか。」 使者が「梨の木があります」と答えると、師は言いました。 「この糸の一方の端を梨の木に結び、もう一方の端を腫れ物の口に当てなさい。そうすれば患いはなくなる。」 使者が王にこのことを報告すると、王は言われた通りに試しました。すると梨の木は枯れ、王妃の病は治りました。 王は深く感謝し、敬虔な心を抱き、国中の人々に命じてこの寺を建立させました。 時は哀荘王三年、壬午の年でした。

順應贊曰。

東護大士。南行童子。身一片雲。志千里水。浮囊永思。捨筏皈止。彼岸此岸。喻指非指。天業受禪。猶如覺賢。牛頭垂袷。象罔撢玄。巖扃選勝。海岸提圓。地崇洲渚。天授林泉。化城口談。學藪心傳。景侔秋月。感激春烟。□□□□。綻火中蓮。利貞贊曰。孤雲獨鶴。儷影巖壑。草剏蓮剎。混沌逢鑿。願霈無礙。人天有托。二傑如生。九原可作。甲申五年唐貞元二十年

高僧慧昭真鑒國師隨歲貢使入唐丙戌七年唐元和元年

禁剙佛寺。只許修之。又禁佛寺用金銀錦繡為器服。