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  1. 序聽迷詩所經一卷
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序聴迷詩所経 (序聽迷詩所經)

「序聽迷詩所經」について

2,847 字 · 約 9 分

『序聽迷詩所経』は、唐代に漢訳された景教(ネストリウス派キリスト教)の経典で、景教宣教師の阿羅本らによってシリア語原典から中国語に翻訳されました。この経典は7世紀、唐の貞観年間に成立し、景教が中国に初期に伝播した様子を反映しており、古代の宗教交流を研究する上で重要な文献です。内容は主に、神による天地創造、イエスによる救済といった景教の基本的な教義を説き、同時に仏教や道教の用語を取り入れて中国の文化に適応させています。現存する最古の漢訳景教文献の一つとして、この経典はシルクロードを通じたキリスト教東方教会の伝播の過程を証しており、東西文化交流の研究にとって代替不可能な史料的価値を持っています。現在は日本の奈良博物館に所蔵されています。


序聽迷詩所經一卷

序聴迷詩所経 一卷

爾時彌師訶說天尊序娑法云。異見多少誰能說。經義難息事誰能說。天尊在後顯何在。停止在處其何。諸佛及非人平章天阿羅漢。誰見天尊在於眾生。無人得見天尊。何人有威得見天尊。為此天尊顏容似風。何人能得見風。天尊不盈少時巡歷世間居編。為此人人居帶天尊氣。始得存活。然始得在家安。至心意到。日出日沒已來。居見想心去處皆到。身在明樂靜度安居。在天皆諸佛。為此風流轉世間。風流無處不到。天尊常在靜度快樂之處。果報無處不到。世間人等。誰知風動。唯只聞聲顛。一不見形。無人識得顏容端正。若為非黃非白非碧。亦無人知風居強之處。天尊自有神威。住在一處。所住之無人捉得。亦無死生。亦無麗娑相值所。造天地已求。不曾在世間。無神威力。每受長樂仙緣。人急之時。每稱佛名。多有無知之人。喚神比天尊之類。亦𫃴作旨尊旨樂。人人鄉俗語舌。吾別天尊多常在。每信每居。天尊與人意知不少。誰報佛慈恩。計合思量。明知。罪惡不習。天通為神力畜養。人身到大。亦合眾生等思量。所在人身命器息。總是天尊使其然。眾生皆有流轉。關身住在地洛。為此變造微塵。所有眾生皆發善心。自紀思量。生者皆死。眾生悉委。眾生身命。為風無活。臨命之時。風離眾生。心意無風。為風存活。風離眾生。有去留之時。人何因不見風去風顏色。若為若緋若綠及別色。據此不見風。若為眾生即道。天尊在何處。眾生優道。何因不見天尊。何因眾生在於罪中自於見天尊。天尊不同人身。復誰能見眾生。無人敢近天尊。善福善緣眾生。然始得見天尊。世間元不見天尊。若為得識。眾生自不見天。為自修福。然不墮惡道地獄。即得天得。如有惡業眾。墮落惡道。不見明果。亦不得天道。眾生等好自思量。天地上大。大諸惡眾生事養者。懃心為國多得賜官職。并賜雜菜無量無量。如有眾生。不事天大諸惡。及不取進止。不得官職。亦無賜償。即配徒流。即配處死。此即不是天大諸惡自由至。為先身緣業種果團圓。犯有眾生。先須想自身果報。天尊受許辛苦始立眾生眾生理。佛不遠立。人身自專。善有善福。惡有惡緣。無知眾生。遂𭳙木駝象牛驢馬等眾生及麞鹿。雖造形容。不能與命。眾生有知。自量緣果。所有具見。亦復自知。並即是實。為此今世有。多有眾生。遂自作眾眾作士。此事等皆天尊。遂不能與命俱。眾生自被誑惑。乃將金造象。銀神像及銅像并[涺-十+(土/此/土)]神像及木神像。更作眾眾諸畜產。造人似人。造馬似馬。造牛似牛。造驢似驢。唯不能行動。亦不語話。亦不喫食。息無肉無皮無器無骨。合一切由緒不為具說。一切緒內略說少見多。為諸人說遣知好惡。遂將飲食多中甞少。即知何食有氣味無氣味。但事天尊之人。為說經義。並作此經。一切事由。大有歎處。多有事節。由緒少。但事天尊人。及說天義。有人怕天尊法。自行善心。及自作好。并諫人好。此人即是受天尊教。受天尊戒。人常作惡。及教他人惡。此人不受天尊教。突墮惡道。命屬閻羅王。有人受天尊教。常道我受戒教人受戒。人合怕天尊。每日諫誤。一切眾生。皆各怕天尊並綰攝。諸眾生死活管帶綰攝渾神。眾生若怕天尊。亦合怕懼 聖上。聖上前身福私天尊補任。亦無自乃。天尊耶屬自作 聖上。一切眾生皆取 聖上進止。如有人不取 聖上驅使不伏。其人在於眾生即是返逆償。若有人受 聖上進止。即成人中解事。并伏驅使。及好之人。并諫他人作好。及自不作惡。此人即成受戒之所。如有人受戒。及不怕天尊。此人及一依佛法不成受戒之所。即是返逆之人。第三須怕父母。祗承父母。將比天尊及聖帝。以若人先事天尊及 聖上。及事父母不闕。此人於天尊得福。不多此三事。一種先事天尊。

そのとき、弥師訶は天尊の序娑の法を説いてこう言いました。「異なる見方はどれほどあるか、誰が説くことができるでしょうか。経の教えの意味を論じ尽くすことは難しく、誰が説くことができるでしょうか。天尊は後にあって、どこに現れるのでしょうか。止まりとどまるその場所はどこなのでしょうか。諸仏および人ならざる者、天人・阿羅漢について評議するに、誰が天尊が衆生の中にいるのを見るでしょうか。誰も天尊を見ることはできません。どのような人が威ある力を持ち、天尊を見ることができるのでしょうか。それゆえ天尊の顔かたちは風に似ています。誰が風を見ることができるでしょうか。天尊は少しの間も満ちることなく、世間を巡り歩いて編(あまね)く行き渡ります。それゆえ人々は天尊の気を身に帯びて、はじめて生きながらえることができます。そしてはじめて家に安らかに住むことができます。心の思いが届くところまで、日の出から日の入りまでに、住むこと思うことの行き着くところはすべて到ります。身は明るく楽しく静かに安らかに過ごします。天にあるものは皆、諸仏です。それゆえ風は世間に流転します。風の流れは到らないところがありません。天尊はいつも静かに安らぎ楽しむところに常住しています。果報も到らないところがありません。世間の人々のうち、誰が風の動きを知るでしょうか。ただ声だけを聞いても、形を見ることはできません。誰もその端正な顔かたちを知ることができません。それが黄でもなく白でもなく碧でもないなら、風が強いところにいるのを誰も知ることができません。天尊にはもとより神威があり、一つのところに住んでいます。その住むところを誰もつかまえることができません。また死も生もありません。また麗娑(れいしゃ)の相に出会うところもありません。天地を造り終えてから求めて、かつて世間にいることはありませんでした。神威の力がなければ、いつも長楽の仙の縁を受けます。人が急を要するとき、いつも仏の名を称えます。多くの無知な人が、神を呼び天尊の類と比べます。また旨尊・旨楽と作りなします。人々の郷の俗語や舌のままに、私の別の天尊は多く常にいます。信じるごとに住むごとに、天尊と人の間の意思の知られることは少なくありません。誰が仏の慈恩に報いるのでしょうか。計らいは思量に合い、明らかに知り、罪悪を習わないことです。天通は神力となって畜養し、人身は大いになります。また衆生らは思量すべきです。人身・命・器・息の在るところ、すべては天尊がそのようにせしめています。衆生には皆、流転があります。身を関(かか)わらせて地洛(じらく)に住みます。それゆえに変造の微塵があります。すべての衆生は皆、善心を発し、自ら思量を紀(しる)します。生ある者は皆死に、衆生は悉く委(ゆだ)ねます。衆生の身命は、風がなければ生きられません。命の臨むとき、風は衆生を離れます。心意に風がなければ、風によって生きています。風は衆生を離れ、去り留まる時があります。人は何のゆえに風の去り、風の顔色を見ないのでしょうか。それが緋であるか緑であるか、また別の色であるか、これによって風を見ることができません。もし衆生が道うなら、天尊はどこにいるのかと。衆生が優(うれ)えて道うには、何のゆえに天尊を見ないのかと。何のゆえに衆生が罪の中にいて、自ら天尊を見ることがあるのかと。天尊は人身とは異なります。さらに誰が衆生を見ることができるでしょうか。誰も敢えて天尊に近づきません。善福善縁の衆生だけが、はじめて天尊を見ることができます。世間ではもとより天尊を見ることはありません。どうして識ることができるでしょうか。衆生は自ら天を見ません。自ら福を修めるからです。そうすれば悪道地獄に堕ちません。すなわち天を得ることができます。もし悪業の衆生があれば、悪道に堕落し、明らかな果報を見ません。また天道を得ることもできません。衆生らはよく自ら思量すべきです。天地上は大いに広く、大いなる諸々の悪衆生の事を養う者は、心を勤めて国のためにせば、多くの官職を賜り、また雑菜を無量無量に賜ります。もし衆生がいて、天大の諸悪に事(つか)えず、また進止を取らなければ、官職を得られず、また賜償もなく、すなわち徒流(ずる)に配され、すなわち処死に配されます。これはすなわち天大の諸悪が自由に至るのではなく、先身の縁業種の果が団円(まどか)になるからです。罪を犯す衆生があれば、まず自らの身の果報を想うべきです。天尊は辛苦を受け許してはじめて衆生を立て、衆生の理があります。仏は遠くに立てず、人身は自ら専(もっぱ)らにします。善には善福があり、悪には悪縁があります。無知な衆生は、ついに木の駱駝や象・牛・驢・馬などの衆生および麞鹿(きじか)を作ります。形容を造ることができても、命を与えることはできません。衆生には知があり、自ら縁果を量ります。すべての具見も、また自ら知ります。並びにこれはすなわち実です。それゆえ今の世にあって多く、多くの衆生がいて、ついに自ら衆衆(もろもろ)の士を作ります。これらの事などは皆、天尊です。ついに命と俱(とも)にすることができません。衆生は自ら誑惑(おうわく)され、すなわち金で象を造り、銀の神像および銅像ならびに󱹇神像および木の神像を作ります。さらに衆衆(もろもろ)の諸畜産を作ります。人を造ることは人に似て、馬を造ることは馬に似て、牛を造ることは牛に似て、驢を造ることは驢に似ています。ただ行動することができず、また語話もせず、また喫食もしません。息には肉もなく皮もなく器もなく骨もありません。一切の由緒を合わせて具(つぶさ)に説くことはしません。一切の緒の中で略して少しを説き多くを見ます。諸人のために説いて好悪を知らせます。ついに飲食を多くの中から少しを甞(な)めて、すなわちどの食に気味があり気味がないかを知ります。ただ天尊に事(つか)える人は、そのために経義を説き、並びにこの経を作ります。一切の事の由(よし)に、大いに歎ずべきところが多く、多くの事節があります。由緒は少なく、ただ天尊に事える人、および天義を説く人がいます。天尊の法を怕(おそ)れる人があり、自ら善心を行ない、また自ら好を作し、並びに人に好を諫めます。この人はすなわち天尊の教えを受け、天尊の戒を受けます。人が常に悪を作し、また他人に悪を教えれば、この人は天尊の教えを受けず、突(とつ)に悪道に堕ち、命は閻羅王に属します。天尊の教えを受ける人があり、常に我は戒を受け、人に戒を受けさせると道います。人は天尊を怕れるべきです。毎日誤りを諫めます。一切の衆生は、皆それぞれ天尊を怕れ、並びに綰摂(かんしょう)されます。諸衆生の生死活は管帯綰摂し、渾神(こんしん)します。衆生がもし天尊を怕れれば、また聖上(しょうじょう)を怕懼すべきです。聖上の前身の福私(ふくし)は天尊が補任し、また自ら乃(すなわ)ちありません。天尊は耶属(やぞく)で自ら聖上を作ります。一切の衆生は皆、聖上の進止を取ります。もし人が聖上の駆使を取らずして伏さなければ、その人は衆生の中にあってすなわち返逆償(へんぎゃくしょう)です。もし人が聖上の進止を受け、すなわち人中の解事(げじ)の人となり、並びに駆使に伏し、および好の人となり、並びに他人に好を作すことを諫め、および自ら悪を作さなければ、この人はすなわち戒を受けるところとなります。もし人が戒を受け、および天尊を怕れなければ、この人および一(ひとつ)に佛法に依って戒を受けるところを成さず、すなわち返逆の人です。第三に父母を怕れるべきです。父母に祗承(ししょう)し、天尊および聖帝に比べます。もし人がまず天尊および聖上に事え、および父母に事えて闕(か)けなければ、この人は天尊において福を得ます。多くはこの三事に及びません。一種にまず天尊に事えます。

第二事 聖上。第三事父母。為此普天在地並是父母行。據此 聖上皆是神生。今世雖有父母見存。眾生有智計合怕天尊及 聖上。并怕父母。好受天尊法教。不合破戒。天尊所受及受尊教。先遣眾生禮諸天佛。為佛受苦。置立天地。只為清淨威力因緣 聖上唯須勤伽習俊 聖上宮殿。於諸佛求得 聖上身總是自由。天尊說云。所有眾生返諸惡等。返逆於尊。亦不是孝。第二願者。若孝父母并恭給。所有眾生孝養父母恭承不闕。臨命終之時乃得天道。為舍宅為事父母。如眾生無父母。何人處生。第四願者。如有受戒人。向一切眾生皆發善心。莫懷睢惡。第五願者。眾生自莫殺生。亦莫諫他殺。所以眾生命共人命不殊。第六願者。莫姦他人妻子自莫宛。第七願者。莫作賊。第八眾生錢財見他富貴并有田宅奴婢天睢姤。第九願者。有好妻子并好金屋。作文證加禖他人。第十願者。受他寄物。并將費用。天尊并處分事。極多見弱。莫欺他人。如見貧兒。實莫迴面。及宛家飢餓多與飲。割捨宛事。如見男努力與努力與須漿。見人無衣即與衣。著作兒財物不至一日莫留。所以作兒規徒多少。不避寒凍。庸力見若莫罵。諸神有威力。加罵定得災鄣。貧兒如要須錢。有即須與。無錢可與。以理發遣無中布施。見他人宿疹病。實莫㗛他。此人不是自由。如此疹病貧兒.無衣.破碎。實莫喚。莫欺他人取物。莫枉他人。有人披訴。應事實莫屈斷。有惸獨男女及寡女婦中訴。莫作怨屈。莫遣使有怨。實莫高心莫誇張。莫傳口合舌。使人兩相鬪打。一世已求。莫經州縣。官告無知。答受戒人一下。莫他惡向。一切眾生皆常發善心。自惡莫願惡。所以多中料少。每常造好向一切眾生。如有人見願知受戒人寫。誰能依此經。即是受戒人。如有眾生不能依不成受戒人處分。皆是天尊向諸長老及向大小。迎相諫好。此為第一天尊處分。眾生依天尊依。莫使眾生殺祭祀。亦不遣殺命。眾生不依此教。自殺生祭祀。喫肉噉美。將𭲫詐神。即殺羊等。眾生不依此教。作好處分人等。眾生背面作惡。遂背天尊。天尊見眾生如此憐愍。不少諫作好不依。天尊當使涼風向一童女。名為末艶。涼風即入末艶腹內。依天尊教。當即末艶懷身。為以天尊使涼風伺童女邊。無男夫懷任。令一切眾生見無男夫懷任。使世間人等見即道。天尊有威力。即遣眾生信心清淨迴向善緣。末艶懷後產一男。名為移鼠。父是向涼風。有無知眾生即道。若向風懷任生產。但有世間下 聖上放 勅一紙去處。一切眾生甘伏據。此天尊在於天上。普署天地。當產移鼠。迷師訶所在世間居見明果在於天地。辛星居知在於天上。星大如車輪。明淨所天尊處一爾。前後生於拂林園烏梨師𣫍城中。當生彌師訶。五時經一年後。語話說法。向眾生作好。年過十二求。於淨處名述難。字即向若昏人湯谷。初時是彌師訶弟伏 聖在於硤中居住。生生已來不喫酒肉。唯食生菜及蜜蜜於地上。當時有眾生。不少向谷昏渾禮拜。及復受戒。當即谷昏遣彌師訶入多難中洗。彌師訶入湯了後出水。即有涼風從天求。顏容似薄閤。坐向彌師訶。上虛空中問道。彌師訶是我兒。世間所有眾生。皆取彌師訶進止所是處分皆作好。彌師訶即似眾生天道為是天尊處分。處分世間下眾生。休事屬神。即有眾當聞此語。休事𭲫神。休作惡。遂信好業。彌師訶年十二及只年三十二已上求所有惡業眾生遣迴向好業善道。彌師訶及有弟子十二人。遂受苦迴。飛者作生。瞎人得眼。形容異色者遲差。病者醫療。得損被鬼者趁鬼跛脚特差。所有病者求向彌師訶邊把著迦沙。並總得差。所有作惡人不過向善道者。不信天尊教者。及不潔淨貪利之人。今世並不放却。嗜酒受肉。及事𭲫神。文人留在著遂誣或趐覩。遂欲殺却。為此大有眾生。即信此教。為此不能殺。彌師訶於後惡業結用扇趐覩。信心清淨人即自平章。乃欲殺却彌師訶。無方可計。即向大王邊。惡說惡業人平惡事。彌師訶作好。更加精進教眾生。年過三十二。其習惡人等。即向大王毘羅都思邊言。告毘羅都思前即道。彌師訶合當死罪。大王即追惡因緣共證。彌師訶向大王毘羅都思邊。彌師訶計當死罪。大王即欲處分。其人當死罪。我實不聞不見。其人不合當死。此事從惡緣人自處斷。大王云。我不能殺此惡緣。即云其人不當死我男女。大王毘羅都思。索水洗手。對惡緣等前。我實不能殺其人。惡緣人等。更重諮請。非不殺不得。彌師訶將身施與惡。為一切眾生遣世間人等知其人命如轉燭。為今世眾生布施代命受死。彌師訶將自身與遂即受死。惡業人乃將彌師訶別處。向沐上枋枋處。名為訖句。即木上縛著。更將兩箇刦道人。其人比在右邊。其日將彌師訶。木上縛著五時。是六日齋。平明縛著。及到日西。四方闇黑地戰山崩。世間所有墓門並開。所有死人並悉得活。其人見如此。亦為不信經教。死活並為彌師訶其人大有信心人即云。

第二の事は聖上です。第三の事は父母です。このために、天の下、地の上のすべては父母の行いです。これに基づけば、聖上はみな神から生まれたものです。今の世にたとえ父母が生きていても、衆生は智慧をめぐらし、天尊と聖上を畏れ敬うべきです。また父母を畏れ敬い、天尊の法教をよく受けるべきで、戒を破ってはなりません。天尊がお受けになるもの、また尊い教えを受けること、まず衆生をして諸天の仏を礼拝させます。仏のために苦しみを受け、天地を置き立てられたのです。ただ清浄な威力の因縁のためです。聖上はただ勤めて伽習俊を修められるべきです。聖上の宮殿は、諸仏のもとで求め得られたものです。聖上の身はすべて自由です。天尊は説かれます。すべての衆生が諸々の悪に戻り、尊に背くならば、それは孝ではありません。第二の願は、もし父母に孝行し、かつ恭敬し仕えるならば、すべての衆生が父母を孝養し、恭敬して欠けることがなければ、命終の時に天道を得ることができます。家を捨て、父母に仕えるためです。もし衆生に父母がなければ、誰のところで生まれるでしょうか。第四の願は、もし戒を受けた人があるなら、一切の衆生に対してみな善心を起こし、悪しき心を抱いてはなりません。第五の願は、衆生は自ら殺生してはならず、また他人に殺させるよう勧めてはなりません。なぜなら衆生の命と人の命は異ならないからです。第六の願は、他人の妻を犯してはならず、自らも戯れてはなりません。第七の願は、盗賊となってはなりません。第八は、衆生の銭財について、他人の富貴や田宅・奴婢を見て、天のように妬んではなりません。第九の願は、良い妻や良い金の家があっても、証文を作って他人を誣いてはなりません。第十の願は、他人の寄せ物を受けて、それを費用してはなりません。天尊はすべて事を処分されます。非常に多く弱い者を見ます。他人を欺いてはなりません。もし貧しい子を見たら、実に顔を背けてはなりません。また家の飢餓を宛てて多く飲み物を与え、割いて施し、事を宛ててはなりません。もし男が努力しているのを見たら、努力して漿を与え、衣のない人を見たらすぐに衣を与え、児の財物を作るには一日も留めてはなりません。児の規徒を多く作る所以は、寒凍を避けないためです。庸力を見たら罵ってはなりません。諸神には威力があります。罵りを加えれば必ず災いを得ます。貧しい子がもし銭を要するなら、有ればすぐに与え、銭が無ければ与えることができません。理をもって発遣し、中に布施してはなりません。他人の宿疹の病を見たら、実に笑ってはなりません。この人は自由ではありません。このような疹病・貧児・衣のない者・破碎した者を、実に呼んではなりません。他人を欺いて物を取ってはならず、他人を枉げてはなりません。訴え出る人があれば、事に応じて実を以てし、屈して断じてはなりません。惸独の男女や寡女が婦中に訴えることがあれば、怨みを屈してはならず、怨みを持たせてはなりません。実に高心を起こしてはならず、誇張してはならず、口を伝え舌を合わせ、人をして両相を闘打させてはなりません。一世已求、州県を経て官に告げて無知にしてはなりません。戒を受けた人に答えて一下を授け、他に悪を向けてはなりません。一切の衆生はみな常に善心を起こし、自らの悪は悪を願ってはなりません。多い中から少ないを料る所以です。常にすべての衆生に対して良いことを造りなさい。もし人が見て、戒を受けた人が写すのを知ることを願うなら、誰かこの経に依ることができるでしょうか。すなわちこれが戒を受けた人です。もし衆生がこれに依ることができず、戒を受けた人の処分を成さないなら、みな天尊が諸長老および大小に向かって、迎え諫めて良いことをされたのです。これが第一の天尊の処分です。衆生は天尊に依り、衆生に殺して祭祀させることをしてはならず、また殺命させることをしません。衆生がこの教えに依らず、自ら殺生して祭祀し、肉を喫し美味を食し、神を詐るなら、すなわち羊などを殺します。衆生がこの教えに依らず、良い処分の人を作り、衆生が背面に悪を作り、ついに天尊に背くなら、天尊は衆生がこのようであるのを見て憐れみ、少なからず諫めて良いことを作りますが、依りません。天尊はまさに涼風を一童女に向かわせます。名を末艶と言います。涼風はすなわち末艶の腹内に入り、天尊の教えに依ります。まさに末艶は身を懐きます。天尊が涼風をして童女の辺りに伺わせ、男夫なくして懐妊させたのです。一切の衆生に男夫なくして懐妊するを見せ、世間の人々にこれを見せてすなわち言わせます。天尊には威力があり、すなわち衆生の信心清浄をして善縁に迴向させるのです。末艶は懐妊の後、一人の男を産みます。名を移鼠と言います。父は涼風に向かいます。無知の衆生があればすなわち言います。もし風に向かって懐妊し生産するなら、ただ世間に下り、聖上は勅一紙を放ち去処とし、一切の衆生は甘んじて伏します。これに基づけば天尊は天上にあり、天地に普く署します。まさに移鼠を産みます。迷師訶の所在は世間に居て明果を見るのは天地にあり、辛星の居は天上にあり、星は車輪のごとく大きいと知ります。明浄なる天尊の処は一爾です。前後して拂林園烏梨師𣫍城中に生まれ、まさに彌師訶を生みます。五時経、一年の後、語話説法し、衆生に向かって良いことを作します。年は十二を過ぎて求め、浄処に名を述難と言い、字はすなわち昏人湯谷に向かいます。初めの時は彌師訶の弟伏聖は硤中に在って居住し、生生已来、酒肉を喫せず、ただ生菜と蜜のみを食し、地上に蜜をまきます。当時衆生があり、少なからず谷昏渾に向かって礼拝し、また戒を受けます。まさに谷昏は彌師訶を遣わして多難中に入り洗わせます。彌師訶は湯に入り了わって後に水を出します。すなわち涼風が天から求め、顔容は薄閤に似て、彌師訶に向かって座します。上虚空の中から問います。彌師訶は我が子であり、世間のすべての衆生は、みな彌師訶の進止を取ります。処分する所はみな良いことを作します。彌師訶はすなわち衆生の天道に似て、これが天尊の処分です。世間下の衆生を処分し、神に事えることを休みます。すなわち衆がこの語を聞いて、神に事えることを休み、悪を作ることを休み、ついに善業を信じます。彌師訶は年十二およびただ年三十二已上を求め、すべての悪業の衆生を遣わして善業善道に迴向させます。彌師訶および弟子十二人があり、ついに苦を受け迴り、飛ぶ者は生まれ、盲人は眼を得、形容異色の者は遅く差え、病む者は医療され、損を得、鬼に憑かれた者は鬼を趁い、跛脚は特に差えます。すべての病む者が彌師訶の辺りに向かって迦沙を把著すれば、並びに総じて差えます。すべて悪を作る人で善道に向かわない者、天尊の教えを信じない者、および不潔浄で貪利の人は、今世並びに放ち却しません。酒を嗜み肉を受け、神に事える文人は留め著せられ、ついに誣い、あるいは覩を趐ぎ、ついに殺そうと欲します。このために大いに衆生があり、すなわちこの教えを信じ、このために殺すことができません。彌師訶は後に悪業を結び、扇を用いて覩を趐ぎ、信心清浄の人はすなわち自ら平章し、ついに彌師訶を殺そうと欲しますが、方計がありません。すなわち大王の辺りに向かい、悪を説き、悪業の人は悪事を平らげ、彌師訶は良いことを作り、さらに精進を加えて衆生を教えます。年は三十二を過ぎ、その悪を習う人等は、すなわち大王毘羅都思の辺りに向かって言い、毘羅都思の前に告げてすなわち道びます。彌師訶はまさに死罪に当たると。大王はすなわち悪因縁を追って共に証します。彌師訶は大王毘羅都思の辺りに向かい、彌師訶はまさに死罪に当たると計ります。大王はすなわち処分しようと欲します。その人はまさに死罪に当たります。我は実に聞かず見ず、その人はまさに死に当たるべきではありません。この事は悪縁の人から自ら処断します。大王は云います。我はこの悪縁を殺すことができません。すなわちその人はまさに死に当たらず、我が男女です。大王毘羅都思は水を索めて手を洗います。悪縁等の前に対して、我は実にその人を殺すことができません。悪縁人等はさらに重ねて諮請します。殺さずんば得ざるにあらずと。彌師訶は身を将って悪に施与し、一切の衆生のために世間の人々をしてその人の命が転燭のごとくであることを知らせます。今世の衆生のために布施し、代わって命を受け死を受けます。彌師訶は自らの身を将って与え、ついに即ち死を受けます。悪業の人はすなわち彌師訶を将って別処に向かい、沐上枋枋の処に向かいます。名を訖句と言います。すなわち木の上に縛り著けます。さらに二人の刦道人を将って来ます。その人は比在して右辺にあります。その日彌師訶を将って木の上に縛り著けること五時、これ六日斎です。平明に縛り著け、日西に到る及び、四方闇黒にして地は戦き山は崩れ、世間のすべての墓門は並びに開き、すべての死人も並びに悉く生き返ります。その人はこのように見て、また経教を信じないためです。死活並びに彌師訶のためです。その人大いに信心ある人はすなわち云います。


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