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title: "勅修百丈清規 · 達磨忌"
description: "元代德煇禅师奉敕重编的《勅修百丈清規》是佛教禅宗重要律仪典籍。该书以唐代百丈怀海禅师所创清规为基础，系统规定了禅寺组织架构、僧众日常修行及法事仪轨，确立了禅林共住制度，强调农禅并重的修行方式。作为汉传佛教寺院管理的核心经典，它奠定了后世禅宗寺院的运作范式，对佛教戒律与丛林制度的发展影响深远，享有禅门正统清规的崇高地位。"
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### 達磨忌

> 達磨忌

先期堂司率眾財營供養。請製疏僉疏佛涅槃同隔宿如法鋪設法堂。座上掛真。中間嚴設祭筵爐瓶香凡。上間設禪椅拂子椸架法衣設床榻者非也下間設椅子經案爐瓶香燭經卷。堂司行者報眾。掛諷經牌。當晚諷經并覆來日半齋各具威儀。散忌諷經。參前鳴僧堂鐘。集眾候住持至。鳴鼓獻特為湯。住持上香三拜。不收坐具。上湯退身三拜再進。前問訊揖湯。復位二拜收坐具。鳴鼓三下。行者鳴手磬。維那出班。念誦云切以。宗傳直指。忝借潤於餘波。道大難名。愧聯輝於末裔。仰憑大眾念清淨法身毘盧遮那佛十號云云回向云上來念誦功德。奉為初祖菩提達磨圓覺大師大和尚。上酬慈廕。十方三世一切云畢鳴僧堂鐘三下眾散或請就坐藥石。昏鐘鳴。再鳴僧堂鐘集眾。住持上香。維那舉楞嚴呪畢。回向云淨法界身本無出沒。大悲願力示有去來。仰冀慈悲俯垂昭鑒。今月初五日伏。值初祖菩提達磨圓覺大師大和尚示寂之辰。率比丘眾營備香饌。以伸供養。諷誦大佛頂萬行首楞嚴神呪。所集殊勳上酬慈廕。伏願。群機有賴。播揚少室之家風。妙智無窮。成就大乘之根器。十方三世一切云云次參頭領眾行者排列。喝參禮拜諷經。人僕排列參拜。次日早住持上香禮拜。上湯上粥座下側坐陪食。粥罷住持上香上茶。維那舉大悲呪畢。回向上來諷經功德。奉為初祖菩提達磨圓覺大師大和尚。上酬慈廕。十方三世云云半齋鳴僧堂鐘集眾。向祖排立。住持上香三拜。不收坐具。進爐前。上湯上食請客侍者供遞。俟燒香侍者就祖位側捧置几上。退就位三拜。仍進前燒香下䞋畢。三拜收坐具。鳴鼓講特為茶如湯禮畢住持拈香有法語。行者鳴鈸。維那出班。揖住持上香。侍者捧香合。次東堂西堂兩序出班上香。大眾同展三拜。維那白云淨法界身本無出沒。大悲願力示有去來宣疏住持跪爐。次舉楞嚴呪畢。回向上來諷經功德。奉為初祖菩提達磨圓覺大師大和尚。上酬慈廕。十方三世云云次行者諷經。

> 先に堂司（どうす）の役僧が、方々から浄財を集めて供養の準備をいたします。そして、疏文（そもん）を作り、それに皆で署名を求めます。<note>お釈迦様の涅槃会と同じ方法で行います。</note> 前日の夕方には、法堂を規則に従って荘厳に飾りつけます。正面の座には祖師の尊影を掛け、中央には祭壇を設け、香炉・花瓶・香・燈明などを荘厳に備えます。上の間（向かって左側）には、座禅用の椅子・払子（ほっす）・衣桁（いこう）・法衣を置きます<note>ここに寝台などを置くのは誤りです</note>。下の間（向かって右側）には、椅子・経机・経箱・香炉・花瓶・香・燈明・経巻を備えます。 堂司の行者が僧侶たちに知らせて、「諷経」の札を掲げます。その晩、諷経を行い、翌日の半斎の時刻には、皆が正式な服装を整えます。 追忌の諷経の際は、参拝前に僧堂の鐘を鳴らし、大衆を集めます。住職の到着を待ち、太鼓を打って特別な「湯」の供養をいたします。住職は香を手向けて三拝しますが、坐具（ざぐ）をたたみません。湯をささげるために一度身を引き、再び前に進んで三拝し、問訊（もんじん）して湯を勧めます。その後、元の位置に戻って二拝し、坐具をたたみます。そして太鼓を三打ちます。 行者が手磬（てきん）を鳴らすと、維那（ゆいな）が列から出て、念誦を始めます。<note>（その文は、）「そもそも、この教えは直指人心を宗旨とし、末流の我々もその余波にあずかり潤されている。その道はあまりに高大で名づけがたく、末裔としてその輝きに連なることを恥じ入る。ここに大衆の力をお借りして、清浄法身毘盧遮那仏の十号（を唱える）……」と言う。</note> 回向（えこう）の文は、<note>「ここに念誦の功徳を、初祖菩提達磨円覚大師大和尚へ捧げ、慈愛のご加護に報いる。十方三世の諸仏にも……」と言う。</note> これを終えたら、僧堂の鐘を三打ち、大衆は解散します。または、そのまま皆で薬石（夜の食事）をとることもあります。 昏鐘（こんしょう、夕方の合図の鐘）が鳴ったら、再び僧堂の鐘を打って大衆を集めます。住職が香を手向け、維那が楞厳呪（りょうごんじゅ）を唱えます。終わったら、回向を述べます。<note>「清浄な法界の御身には、もともと出没はない。しかし大悲の願力によって、去来の相を示される。ここに慈愛を垂れ、清らかに照覧あれ。今月五日は、初祖菩提達磨円覚大師大和尚のご示寂の日。ここに比丘たちを率い、香や食べ物を用意して供養を営む。大仏頂万行首楞厳神呪を諷誦し、集めた功徳を慈愛の加護に報いる。願わくは、あらゆる機根の者たちが頼りとし、少室（しょうしつ）の家風（達磨の教え）を広く伝え、妙なる智慧は窮まりなく、大乗の器を成就させん。十方三世の諸仏も……」と言う。</note> 次に、参頭（さんじゅ）が衆の行者を率いて整列し、「喝参（かっさん）」の声と共に礼拝して諷経します。また、人僕たちも整列して参拝します。 翌朝早く、住職が香を手向け礼拝します。そして湯と粥（かゆ）を供え、床几（しょうぎ）の端に座って食事の陪食をします。粥が終わると、住職が香を手向け、お茶を供えます。維那が大悲呪をとなえ、終わったら回向します。<note>「ここに諷経の功徳を、初祖菩提達磨円覚大師大和尚へ捧げ、慈愛のご加護に報いる。十方三世の……」と言う。</note> 半斎の時、僧堂の鐘を打って大衆を集め、祖師の御影に向かって整列します。住職が香を手向けて三拝します。坐具はたたみません。香炉の前に進み、湯と食べ物を供えます。この時、請客侍者（しょうかくじしゃ）がそれを受け渡し、焼香侍者（しょうこうじしゃ）が祖師の像の側でこれを机の上に捧げ置くのを待ちます。そして、元の位置に戻って三拝します。さらに前に進み香を手向け、䞋（た）銭を施します。終えたら三拝し、坐具をたたみます。太鼓を打って特別な茶の供養を行います<note>湯の供養と同じ作法です。</note>。 終わると、住職が香を手に取って法語を述べます。行者が鐃鈸（にょうはつ）を打ち鳴らし、維那が列から出て、住職に香を手向けるよう促します。侍者が香盒を捧げ持ちます。次に、東堂・西堂の両班（役職の僧侶）が列から出て香を手向け、大衆も一緒に三拝をします。 維那が次のように唱えます。<note>「清浄な法界の御身には、もともと出没はない。しかし大悲の願力によって、去来の相を示される」</note> そして疏文を読み上げます。この間、住職は炉の前に跪きます。次に楞厳呪を唱え、終わったら回向します。<note>「ここに諷経の功徳を、初祖菩提達磨円覚大師大和尚へ捧げ、慈愛のご加護に報いる。十方三世の……」と言う。</note> 次に、行者たちが諷経を行います。

疏語　大哉正傳　紹覺皇之宗裔。廓然無聖　破義學之膏肓。百川到海逈絕異流　杲日麗天罄無側影　指人心而成佛成佛同心　契妙道以忘言。忘言見道。有大功於世教。宜　廣振於宗風　現濁世優曇華。實為鼻祖　取神州大乘器。盡入彀中。適逢　瘞履之辰。爰效采蘩之薦。伏願　信衣表　佛祖之重　力任千鈞　一花開　天地之春。芳聯萬世。

> 大きく伝えられた教え、覚皇の宗脈を継ぐもの。 広大無辺にして聖なるものもなく、義学の迷いを打ち砕く。 百の川が海に至れば流れの違いは消え、太陽が空に輝けば影はない。 人の心を指して仏と成せば、成仏も心同じく、妙道にかなえば言葉を忘れる。 言葉を忘れて道を見る。これが世の教えに大いなる功績あり。 宗風を大いに広めるべきである。 濁世に現れた優曇華（うどんげ）こそ、鼻祖とす。 神州の大乗の器を取り、全てを網に収めよ。 たまたま履を葬る時節に遭い、ここに采蘩（さいはん）の供えを捧げる。 伏して願う。 信衣（しんね）は仏祖の重みを表し、力は千鈞（せんきん）を担う。 一花（いっか）咲けば天地に春が来て、その香りは万世に伝わらんことを。

祖師南天竺國香至王第三子也。姓剎帝利。本名菩提多羅。後遇二十七祖般若多羅尊者。知師密跡。因試令與二兄辯所施寶珠。發明心要。既而尊者謂曰。汝於諸法已得通量。夫達磨者通大之義也。宜名達磨。因改名菩提達磨。師乃告尊者曰。我既得法。當往何國而作佛事。願垂開示。尊者曰。汝雖得法未可遠遊。且止南天。待吾滅後六十七載。當往震旦設大法藥直接上根。慎勿速行衰於日下。梁普通八年丁未歲九月二十一日至南海。廣州刺史蕭昂表聞武帝。帝遣使詔迎。十月一日至金陵與帝語。不契。是月十九日渡江北。十一月二十三日屆于洛陽。當魏孝明太和十年也。萬止于嵩山少林寺。面壁而坐。終日默然。人莫之測。謂之壁觀婆羅門。至太和十九年丙辰歲十月五日端居而逝。其年十二月二十八日葬熊耳山。起塔於定林寺。唐諡圓覺大師。塔曰空觀。

> 祖師は、南天竺の香至王の第三子である。姓は刹帝利、もとの名は菩提多羅といった。後に二十七祖の般若多羅尊者に出会い、尊者は師の密かな功績を知っていたため、試しに二人の兄と宝珠の意味を論じさせ、心の要を明らかにさせた。その後、尊者は師に言った。「あなたはすでに諸法の通達を得ている。『達磨』とは、大いなる道理を通じるという意味である。よって、あなたを『達磨』と名づけるべきだ。」こうして、名前を菩提達磨と改めた。師は尊者に申し上げた。「私はすでに法を得ました。これからどこの国で仏の教えを広めるべきでしょうか。どうかお示しください。」尊者は答えた。「あなたは法を得たとはいえ、まだ遠くへ旅立ってはならない。ひとまず南天に留まりなさい。私が亡くなってから六十七年後、震旦（中国）へ行き、大いなる法の薬を施し、直接、上根の者を導きなさい。くれぐれも急いで行って、日の下で衰えてはならない。」 梁の普通八年、丁未の年、九月二十一日に南海に到着した。広州刺史の蕭昂が表を奏上して武帝に知らせ、武帝は使いを遣わして詔で迎えさせた。十月一日に金陵に到着し、帝と対話したが、心は通じなかった。同月十九日に長江を北へ渡り、十一月二十三日に洛陽に到着した。この時は北魏の孝明帝の太和十年にあたる。そして嵩山の少林寺に住み、壁に向かって座り、一日中黙っていたので、人々はその意を測り知ることができず、彼のことを「壁観バラモン」と呼んだ。太和十九年、丙辰の年、十月五日に、端座したまま入寂した。その年の十二月二十八日、熊耳山に葬られ、定林寺に塔が建てられた。唐の時代に「円覚大師」と諡され、塔は「空観」と名づけられた。