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  1. 諸方門人蔘問語録 (諸方門人參問語錄)
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諸方門人蔘問語録 (諸方門人參問語錄)

「諸方門人參問語錄」について

唐 · 慧海撰 著

8,356 字 · 約 28 分

唐代の高僧・慧海禅師によって著された『諸方門人参問語録』は、各地の学人との参学問答を記録した語録体の著作です。本書は中唐期に成立し、禅宗洪州宗の隆盛と発展を反映しています。内容は主に師弟間の機鋒鋭い対話を通じて、心性本来清浄であることや頓悟による成仏という禅の思想を明らかにし、日常生活における修行実践を強調しています。この語録は、馬祖道一とその弟子である慧海の禅法を研究する上で重要な文献であり、南宗禅の普及と後世の語録体の発展に深い影響を与え、仏教史上において顕著な地位を占めています。


諸方門人參問語錄卷下(合上頓悟要論)

諸方門人参問語録 巻下

師初至江西參馬祖。祖問從何處來。曰越州大雲寺來。祖曰來此擬須何事。曰來求佛法。祖曰。自家寶藏不顧。拋家散走作什麼。我這裏一物也無。求什麼佛法。師遂禮拜問曰。阿那箇是慧海自家寶藏。祖曰即今問我者是汝寶藏。一切具足。更無欠少。使用自在。何假向外求覓。師於言下大悟。識自本心不由知覺。踊躍禮謝。師事六載。後以受業師年老。遽歸奉養。乃晦迹藏用。外示癡訥。自撰頓悟入道要門論一卷。法門師姪玄晏竊出江外呈馬祖。祖覧訖謂眾曰。越州有大珠圓明光透。自在無遮障處也。眾中有知師姓朱者。迭相推識。結契來越上尋訪依附。時號大珠和尚也(師諱慧海。建州人。依越大雲寺道智和受業)。

師が初めて江西に至り、馬祖を参拝した。祖が尋ねた、「どこから来たのか」。師は答えた、「越州の大雲寺から参りました」。祖が言った、「ここに来て何をしようというのか」。師は言った、「仏法を求めるために参りました」。祖が言った、「自分の家の宝蔵を顧みず、家を捨ててあちこち歩き回るとは何事か。私のところには何一つない。何を求めるというのか」。師はすぐに礼拝して尋ねた、「どれが慧海の自家の宝蔵でございますか」。祖が言った、「今、私に問うているそのものが、お前の宝蔵である。すべてが備わっており、少しも欠けるところはない。自由自在に使えるのに、どうして外に求めて探し回る必要があるのか」。師はこの言葉でたちまち大悟し、自らの本心が知覚によるものではないことを悟った。喜び勇んで礼拝し、六年間師事した。その後、師匠の年老いたのを見て、急いで帰り養った。そしてその姿を隠し、外には愚かで口下手な様子を示した。自ら『頓悟入道要門論』一卷を撰した。法門の甥弟子である玄晏が密かに持ち出し、江外で馬祖に呈した。祖は読み終えて大衆に言った、「越州に大きな珠があり、円満で明るく光り輝き、自在で遮るものがないところだ」。大衆の中に師の姓が朱であることを知る者がいて、互いに推し量り合い、縁を結んで越州に尋ね訪れ従った。当時、大珠和尚と号した(師の諱は慧海。建州の人。越州の大雲寺の道智和に依って師事した)。

師謂學徒曰。我不會禪。竝無一法可示於人。故不勞汝久立。且自歇去。時學侶漸多。日夜叩激。事不得已隨問隨答。其辯無礙。 時有法師數人來謁曰。擬伸一問。師還對否。師曰。深潭月影任意撮麼。問如何是佛。師曰清譚對面非佛而誰。眾皆忙然。(法眼云。是即沒交涉)良久。其僧又問。師說何法度人。師曰貧道未曾有一法度人。曰禪師家渾如此。師却問曰。大德說何法度人。曰講金剛般若經。師曰講幾座來。曰二十餘座。師曰此經是阿誰說。僧抗聲曰。禪師相弄。豈不知是佛說耶。師曰。若言如來有所說法。則為謗佛。是人不解我所說義。若言此經不是佛說。則是謗經。請大德說看。僧無對。師少頃又問。經云若以色見我。以音聲求我。是人行邪道。不能見如來。大德且道。阿那箇是如來。曰某甲到此却迷去。師曰。從來未悟。說什麼却迷。僧曰請禪師為說。師曰。大德講經二十餘座。却不識如來。其僧再禮拜。願垂開示。師曰。如來者。是諸法如義。何得忘却。曰是。是諸法如義。師曰大德是亦未是。曰。經文分明。那得未是。師曰大德如否。曰如。師曰木石如否。曰如。師曰大德如同木石如否。曰無二。師曰大德與木石何別。僧無對。乃歎云。此上人者難為酬對。良久却問。如何得大涅槃。師曰不造生死業。對曰如何是生死業。師曰求大涅槃是生死業。捨垢取淨是生死業。有得有證是生死業。不脫對治門是生死業。曰云何即得解脫。師曰。本自無縛不用求解。直用直行是無等等。僧曰如禪師和尚者實謂希有。禮謝而去。

師が学徒に言われた。「私は禅を会得していない。人に示すべき一つの法もない。だから、あなたがたに長く立っていてもらう必要はない。さあ、自分で休みなさい。」

当時、学ぶ仲間が次第に増え、日夜問答が激しく交わされるようになった。やむを得ず、師は問いに応じて答えるようになったが、その弁舌には何の妨げもなかった。

ある時、数人の法師が訪ねてきて言った。「一つ質問を申し上げたいのですが、師はお答えになりますか。」師は言われた。「深い淵の月影は、思うままに掬うことができるものか。」彼らが「仏とは何ですか」と尋ねると、師は言われた。「清らかな対面、仏でなくて誰であろうか。」一同は皆、当惑した。(法眼は言う、「それでは関係がない」と。)しばらくして、その僧がまた尋ねた。「師はどのような法で人を救われるのですか。」師は言われた。「貧道は一度も法を持って人を救ったことはない。」僧が言った。「禅師という方は、みなこのようなものなのですね。」師は逆に尋ねられた。「大徳はどのような法で人を救われるのですか。」「『金剛般若経』を講じています。」「何回講じられましたか。」「二十回以上です。」「この経は誰が説かれたのですか。」僧は声を張り上げて言った。「禅師は私をからかっているのですか。仏が説かれたとご存じないはずがないでしょう。」師は言われた。「もし如来が法を説かれたと言うなら、それは仏を誹謗することになる。その人は私の説いた真意を理解していない。もしこの経が仏の説かれたものではないと言うなら、それは経を誹謗することになる。さあ、大徳、どうぞお説きください。」僧は答えられなかった。

師は少ししてまた尋ねられた。「経に『もし色をもって我を見、音声をもって我を求めるならば、この人は邪道を行じて、如来を見ることができない』とあります。大徳、さて、どれが如来ですか。」僧は言った。「私はここに来て、かえって迷ってしまいました。」師は言われた。「元々悟ってもいないのに、『かえって迷った』などと言うのは何事か。」僧が「どうか禅師がお説きください」と請うと、師は言われた。「大徳は二十回以上も経を講じながら、如来がお分かりにならないのですか。」その僧は再び礼拝して、「どうかご教示ください」と願った。師は言われた。「如来とは、すなわち諸法の如義である。どうして忘れてしまうのか。」僧は言った。「はい、『諸法の如義』です。」師は言われた。「大徳、それでもまだ足りない。」「経文にはっきりとそう書いてあります。どうして足りないのですか。」「大徳は『如』ですか。」「はい、『如』です。」「木や石は『如』ですか。」「はい、『如』です。」「大徳の『如』と木石の『如』は同じですか。」「違いはありません。」「では、大徳と木石は何が違うのですか。」僧は答えられなかった。そして嘆息して言った。「この上人は、とても対等に語り合える方ではない。」しばらくして、また尋ねた。「どうすれば大涅槃を得られますか。」師は言われた。「生死の業を造らなければよい。」「生死の業とは何ですか。」「大涅槃を求めることが生死の業である。垢を捨てて浄を取ることが生死の業である。得たり証したりすることが生死の業である。対治の門から脱しないことが生死の業である。」「では、どうすれば解脱できるのですか。」「元々縛られてなどいないのだから、解こうと求める必要はない。直に用い、直に行うこと、それが無等等である。」僧は言った。「禅師和尚のような方は、まことに稀有なお方です。」礼をして感謝し、去っていった。

有行者問。即心即佛。那箇是佛。師云。汝疑那箇不是佛。指出看。無對。師曰。達即徧境是。不悟永乖疎。

ある修行者が尋ねた。 「即心即仏とは、一体どれが仏なのでしょうか」 師は言われた。 「あなたは、どれが仏でないのか疑っているのか。指し示してみよ」 返答がなかった。 師は言われた。 「悟れば、あらゆるものが仏である。悟らなければ、永遠に隔たっている」

有律師法明謂師曰。禪師家多落空。師曰却是座主家多落空。法明大驚曰何得落空。師曰。經論是紙墨文字。紙墨文字者俱空。設於聲上建立名句等法。無非是空。座主執滯教體。豈不落空。法明曰禪師落空否。師曰不落空。曰何却不落空。師曰。文字等皆從智慧而生。大用現前。那得落空。法明曰故知一法不達不名悉達。師曰。律師不唯落空。兼乃錯用名言。法明作色問曰何處是錯。師曰。律師未辨華竺之音。如何講說。曰請禪師指出法明錯處。師曰。豈不知悉達是梵語耶。律師雖省過。而心猶憤然。(具梵語薩婆曷剌他悉陀。中國翻云一切義成。舊云悉達多猶是訛略具語)又問曰。夫經律論是佛語。讀誦依教奉行。何故不見性。師曰。如狂狗趂塊。師子咬人。經律論是自性用。讀誦者是性法。法明又曰。阿彌陀佛有父母及姓否。師曰。阿彌陀姓憍尸迦。父名月上。母名殊勝妙顏。曰出何教文。師曰出陀羅尼集。法明禮謝讚歎而退。

ある律師、法明という者が師に言いました。「禅師の家は多く空に落ちる(偏りがある)と申しますが。」師は言われました。「むしろ座主の家の方が多く空に落ちているのです。」法明は大いに驚いて言いました。「どうして空に落ちるなどと言えるのですか。」師は言われました。「経論は紙と墨の文字です。紙と墨の文字は、どちらも空です。声の上に名や句などの法を立てたとしても、すべて空にほかなりません。座主は教えの形に執着して、どうして空に落ちないと言えましょうか。」法明は言いました。「禅師は空に落ちるのですか。」師は言われました。「落ちません。」「どうして落ちないのですか。」師は言われました。「文字などはすべて智慧から生まれるものであり、大いなる働きが目の前に現れているのです。どうして空に落ちることがありましょうか。」法明は言いました。「それゆえ、一つの法も通じなければ、悉達(すべてを悟る者)とは名づけられないと知りました。」師は言われました。「律師はただ空に落ちているだけでなく、さらに名言を誤って用いています。」法明は顔色を変えて尋ねました。「どこが誤っているのですか。」師は言われました。「律師はインドと中国の音を区別していません。どうして講説することができるのですか。」「どうか禅師に法明の誤りを指摘してください。」師は言われました。「悉達が梵語であることを知らないのですか。」律師は過ちに気づきましたが、心にはまだ憤りの気持ちが残っていました。(梵語ではサルヴァ・アールガタ・シッダ。中国では「一切義成」と翻訳されます。旧訳では悉達多と言いますが、これはまだ略語であり、完全な語形ではありません。)さらに尋ねました。「経・律・論は仏の言葉です。読誦し、教えに従って行うのに、どうして本性が見えないのですか。」師は言われました。「狂った犬が土塊を追いかけるように、獅子が人を噛むように。経・律・論は自性の働きであり、読誦する者は性の法なのです。」法明はまた言いました。「阿弥陀仏には父母や姓があるのですか。」師は言われました。「阿弥陀の姓は憍尸迦です。父の名は月上、母の名は殊勝妙顔です。」「どの教えの文に出ていますか。」師は言われました。「陀羅尼集に出ています。」法明は礼をして謝し、賞賛して退きました。

有三藏法師問。真如有變易否。師曰有變易。三藏曰禪師錯也。師却問三藏有真如否。曰有。師曰。若無變易。決定是凡僧也。豈不聞。善知識者能迴三毒為三聚淨戒。迴六識為六神通。迴煩惱作菩提。迴無明為大智。真如若無變易。三藏真是自然外道也。三藏曰若爾者真如即有變易。師曰。若執真如有變易。亦是外道。曰。禪師適來說真如有變易。如今又道不變易。如何即是的當。師曰。若了了見性者。如摩尼珠現色。說變亦得。說不變亦得。若不見性人。聞說真如變便作變解。聞說不變便作不變解。三藏曰故知南宗實不可測。

ある三蔵法師が問うた。「真如には変易があるでしょうか」。師は言った。「変易がある」。三蔵は言った。「禅師、それは間違いです」。師は逆に三蔵に尋ねた。「真如はあるか」。三蔵は言った。「あります」。師は言った。「もし変易がなければ、それは凡僧に決まっている。聞いたことがないのか。善知識は三毒を三聚浄戒に転じ、六識を六神通に転じ、煩悩を菩提に転じ、無明を大智に転ずることができると。真如に変易がなければ、三蔵こそ自然外道である」。三蔵は言った。「それなら、真如には変易があるのですね」。師は言った。「もし真如に変易があると執着すれば、それも外道である」。三蔵は言った。「禅師は先ほど真如に変易があると言い、今は不変易と言う。どうすれば正しいのですか」。師は言った。「もしはっきりと自性を見る者なら、摩尼珠が色を現すように、変易と言っても良く、不変易と言っても良い。もし自性を見ない者が、真如が変易すると聞けば変易と解し、不変易と聞けば不変易と解する」。三蔵は言った。「故に南宗は実に測りがたいと知った」。

有道流問。世間有法過自然否。師曰有。曰何法過得。師曰能知自然者。曰元氣是道否。師曰。元氣自元氣。道自道。曰若如是者則應有二。師曰知無兩人。又問。云何為邪。云何為正。師曰。心逐物為邪。物從心為正。有源律師來問。和尚修道還用功否。師曰用功。曰如何用功。師曰。飢來喫飯。困來即眠。曰。一切人總如是。同師用功否。師曰不同。曰何故不同。師曰。他喫飯時不肯喫飯。百種須索。睡時不肯睡。千般計校。所以不同也。律師杜口。

有道流が問う。「世間に、自然を超える法はありますか。」 師曰く、「ある。」 曰く、「どのような法が超えられますか。」 師曰く、「自然を知る者である。」 曰く、「元気は道ですか。」 師曰く、「元気は元気、道は道である。」 曰く、「もしそうなら、二つあるはずです。」 師曰く、「知る者に二人はいない。」 また問う、「何が邪で、何が正ですか。」 師曰く、「心が物に追われるのが邪、物が心に従うのが正である。」 源律師が来て問う、「和尚、修行にはまだ努力が必要ですか。」 師曰く、「必要である。」 曰く、「どのように努力しますか。」 師曰く、「飢えたら飯を食べ、眠たくなったら眠る。」 曰く、「すべての人は皆そうしています。師と同じ努力ですか。」 師曰く、「同じではない。」 曰く、「なぜ同じではないのですか。」 師曰く、「彼らは食べる時に食べようとせず、あれこれ欲しがり、眠る時に眠ろうとせず、あれこれ計算する。だから同じではないのだ。」 律師は口を閉ざした。

有韞光大德問。禪師自知生處否。師曰。未曾死。何用論生。知生即是無生法。無離生法說有無生。祖師云。當生即不生。曰不見性人亦得如此否。師曰。自不見性。不是無性。何以故。見即是性。無性不能見。識即是性。故名識性。了即是性。喚作了性。能生萬法。喚作法性。亦名法身。馬鳴祖師云。所言法者。謂眾生心。若心生。故一切法生。若心無生。法無從生。亦無名字。迷人不知法身無象。應物現形。遂喚青青翠竹總是法身。鬱鬱黃華無非般若。黃華若是般若。般若即同無情。翠竹若是法身。法身即同草木。如人喫筍。應總喫法身也。如此之言。寧堪齒錄。對面迷佛。長劫希求。全體法中。迷而外覓。是以解道者行住坐臥無非是道。悟法者縱橫自在無非是法。

有韞光大徳が尋ねた。「禅師はご自身の生まれるところをご存知ですか」 師は答えた。「まだ死んでいないのに、どうして生のことを論じる必要があろうか。生を知るということは、すなわち無生の法である。生の法を離れて無生を説くことはない。祖師はこう言われた。『まさに生ずるとき、すなわち生ぜず』と」

(有韞光が)言った。「性を見ない人もこのように得ることができますか」 師は言った。「自ら性を見ないからといって、性がないわけではない。なぜなら、見ること自体が性であるからだ。性がなければ見ることはできない。識もまた性であり、だから識性と呼ばれる。了もまた性であり、了性と呼ばれる。万法を生じさせる力を法性と呼び、また法身ともいう。馬鳴祖師は言われた。『法というのは、すなわち衆生の心である。もし心が生じれば、一切の法が生じる。もし心が無生であれば、法も生じることはなく、名前さえない』と。迷える者は、法身に形がないことを知らない。それは物に応じて形を現すのである。それなのに、青々とした翠竹はすべて法身だと言い、鬱々とした黄花はすべて般若だと言う。黄花がもし般若なら、般若は無情と同じである。翠竹がもし法身なら、法身は草木と同じである。人が筍を食べるなら、すべて法身を食べることになる。このような言葉は、どうして記録に値しようか。仏の真実に直面しながら迷い、長い劫をかけて求めても、全体が法の中にあるのに、迷って外に探し求める。だから、道を解した者は、行住坐臥すべてが道であり、法を悟った者は、縦横自在すべてが法なのである」

大德又問。太虗能生靈智否。真心緣於善惡否。貪欲人是道否。執是執非人向後心通否。觸境生心人有定否。住於寂寞人有慧否。懷於傲物人有我否。執空執有人有智否。尋文取證人.苦行求佛人.離心求佛人.執心是佛人此皆稱道否。請禪師一一開示。師曰。太虗不生靈智。真心不緣善惡。嗜欲深者機淺。是非交爭者未通。觸境生心者少定。寂寞忘機者慧沈。傲物高心者我壯。執空執有者皆愚。尋文取證者益滯。苦行求佛者俱迷。離心求佛者外道。執心是佛者為魔。大德曰。若如是。應畢竟無所有。師曰。畢竟是大德。不是畢竟無所有。大德踊躍禮謝而去。

大徳がまた問うた。 「大虚は霊智を生み出すことができますか。真心は善悪に縁を結びますか。貪欲にふける人は道に適っていますか。是と非に執着する人は、後に心が通じるようになりますか。境に触れて心を起こす人に定はありますか。寂寥の中に住む人に慧はありますか。傲慢で他者を見下す人に我はありますか。空に執着し有に執着する人に智はありますか。経文を探し証拠を求める人、苦行して仏を求める人、心を離れて仏を求める人、心を執着して仏とする人、これらは皆、道にかなっていると言えるでしょうか。どうか禅師、一つひとつご開示ください。」

師は答えた。 「大虚は霊智を生み出さない。真心は善悪に縁を結ばない。欲望に深くふける者は機根が浅い。是と非を争う者はまだ通じていない。境に触れて心を起こす者は定が少ない。寂寥に沈み機根を忘れる者は慧が沈んでいる。傲慢で心の高い者は我が強い。空に執着し有に執着する者は皆、愚かである。経文を探し証拠を求める者はますます滞る。苦行して仏を求める者は共に迷っている。心を離れて仏を求める者は外道である。心を執着して仏とする者は魔である。」

大徳が言った。 「もしそうであるなら、結局は何もないということになるのでしょうか。」

師は答えた。 「結局は大徳である。結局何もないのではない。」

大徳は躍り上がって喜び、礼をして感謝し、去っていった。

師上堂曰。諸人幸自好箇無事人。苦死造作要檐枷落獄作麼。每日至夜奔波。道我參禪學道解會佛法。如此轉無交涉也。只是逐聲色走。有何歇時。貧道聞江西和尚道。汝自家寶藏一切具足。使用自在。不假外求。我從此一時休去。自己財寶隨身受用。可謂快活。無一法可取。無一法可捨。不見一法生滅相。不見一法去來相。徧十方界無一微塵許不是自家財寶。但自子細觀察。自心一體三寶常自現前。無可疑慮。莫尋思。莫求覓。心性本來清淨。故華嚴經云。一切法不生。一切法不滅。若能如是解。諸佛常現前。又淨名經云。觀身實相。觀佛亦然。若不隨聲色動念。不逐相貌生解。自然無事去。莫久立。珍重。

師が上堂して言われた。 皆さん、幸いにして自分自身が「何もせずにいる人」という素晴らしい存在であるのに、どうして苦しんでまでわざわざ枷を担ぎ、牢獄に落ちるようなことをしようとするのか。 毎日、夜に至るまで奔走し、「私は禅を参じ、道を学び、仏法を理解している」と言うが、そのようなあり方はますます本質から遠ざかっているだけだ。 ただ、音声や色相に追い回されているだけで、いつになったら休む時があるというのか。 私はかつて江西の和尚様からこうお聞きした。 「お前自身の宝蔵には、一切のものが具わっており、自由自在に使いこなせる。外に求める必要はない」と。 私はこの言葉を聞いて、たちまちにして一切の営みをやめた。 自分自身の財宝を、その身に従って受用する。これこそまさに快活というものだ。 取るべき一つの法もなく、捨てるべき一つの法もない。 一つの法が生じたり滅したりする相を見ず、一つの法が去ったり来たりする相を見ない。 十方世界に遍く、微塵ほどのものであっても、自分自身の財宝でないものはない。 ただ、自分自身をよく観察してみよ。 自心の一体三宝が常に目の前に現れている。疑う余地などない。 尋ね求めるな。探し回るな。 心性は本来、清浄である。 故に『華厳経』にはこう説かれている。 「一切の法は生ぜず、一切の法は滅せず。もしこのように解することができれば、諸仏は常に目の前に現れる」と。 また『浄名経』にはこう説かれている。 「身の実相を観じ、仏を観ずるもまた然り」と。 もし音声や色相に心を動かさず、外見に捉われて理解しようとしなければ、自然と何もせずにいられる境地に至る。 長く立っていてはならない。どうか大切に。

此日大眾普集。久而不散。師曰。諸人何故在此不去。貧道已對而相呈。還肯休麼。有何事可疑。莫錯用心。枉費氣力。若有疑情。一任諸人恣意早問。 時有僧法淵問曰。云何是佛。云何是法。云何是僧。云何是一體三寶。願師垂示。師曰。心是佛。不用將佛求佛。心是法。不用將法求法。佛法無二。和合為僧。即是一體三寶。經云。心佛與眾生。是三無差別。身口意清淨。名為佛出世。三業不清淨。名為佛滅度。喻如瞋時無喜。喜時無瞋。唯是一心。實無二體。本智法爾。無漏現前。如蛇化為龍不改其鱗。眾生迴心作佛不改其面。性本清淨。不待修成。有證有修即同增上慢者。真空無滯。應用無窮。無始無終。利根頓悟用無等等。即是阿耨菩提。心無形相。即是微妙色身。無相即是實相。法身性相體空。即是虗空無邊身。萬行莊嚴即是功德法身。此法身者乃是萬化之本。隨處立名。智用無盡。名無盡藏。能生萬法。名本法藏。具一切智。是智慧藏。萬法歸如。名如來藏。經云。如來者。即諸法如義。又云。世間一切生滅法。無有一法不歸如也。

この日、大衆が広く集まり、長い間散らなかった。師は言われた。「皆さん、どうしてここにいて去らないのですか。貧道(私)はすでに対面して示しました。まだ納得がいかないのですか。何か疑うことがあるのですか。間違った心の使い方をして、無駄に力を費やさないでください。もし疑いの気持ちがあるなら、どうぞ皆さん、思いのままに早く尋ねてください。」

その時、僧の法淵という者が尋ねた。「いったい何が仏ですか。何が法ですか。何が僧ですか。何が一体三宝ですか。師よ、お示しください。」師は答えられた。「心こそが仏です。仏を求めて仏を得ようとする必要はありません。心こそが法です。法を求めて法を得ようとする必要はありません。仏と法は二つではなく、和合して僧となります。これが一体三宝です。経に説かれています。『心と仏と衆生、この三つに差別はない』と。身と口と意が清浄であることを、仏の出世と言います。三業が清浄でないことを、仏の滅度と言います。たとえば、怒っている時には喜びはなく、喜んでいる時には怒りはないように、ただ一つの心があるだけで、実は二つの体があるわけではありません。本来の智慧は法爾自然であり、煩悩のない状態が現前します。蛇が龍に変わってもその鱗は変わらないように、衆生が心を転じて仏となってもその顔は変わりません。本性はもともと清浄であり、修行して完成を待つものではありません。証得があるとか修行があるとか言うのは、増上慢と同じです。真空には滞りがなく、応用は無限です。始めもなく終わりもなく、利根の者は頓悟して、比べるもののない働きを用います。これが阿耨多羅三藐三菩提です。心には形や相がありません。これが微妙な色身です。無相こそが実相です。法身の性も相もその体は空であり、これが虚空無辺身です。万行によって荘厳されることが、功徳法身です。この法身というものは、あらゆる変化の根本であり、場所に応じて名前が立てられます。智慧の働きは尽きることがないので、無尽蔵と言います。あらゆる法を生み出すので、本法蔵と言います。一切の智慧を具えているので、智慧蔵と言います。万法が如に帰するので、如来蔵と言います。経に説かれています。『如来とは、すなわち諸法の如義である』と。また、『世間の一切の生滅する法で、如に帰しないものは一つもない』と。

有客問云。弟子未知律師.法師.禪師何者最勝。願和尚慈悲指示。師曰。夫律師者。啟毗尼之法藏。傳壽命之遺風。洞持犯而達開遮。秉威儀而行軌範。牒三番羯磨。作四果初因。若非宿德白眉焉敢造次。夫法師者。踞師子之座。瀉懸河之辯。對稠人廣眾啟鑿玄關。開般若妙門。等三輪空施。若非龍象蹴蹋安敢當斯。夫禪師者。撮其樞要。直了心源。出沒卷舒。縱橫應物。咸均事理。頓見如來。拔生死深根。獲現前三昧。若不安禪靜慮。到這裏總須忙然。隨機授法。三學雖殊。得意忘言。一乘何異。故經云。十方佛土中。唯有一乘法。無二亦無三。除佛方便說。但以假名字。引導於眾生。客曰。和尚深達佛旨。得無礙辯。又問。儒道釋三教為同為異。師曰。大量者用之即同。小機者執之即異。總從一性上起用。機見差別成三。迷悟由人。不在教之異同。

ある人が尋ねました。「弟子はまだ、律師・法師・禅師のうち、どれが最も優れているのかわかりません。和尚さま、どうか慈悲をもってご教示ください。」

師は答えられました。「そもそも律師とは、律蔵の法門を開き、命脈を伝える遺風を継ぐ者です。戒律の持犯を深く理解し、開遮に通じ、威儀を保ちながら規範を行じます。三番の羯磨を整え、四果の初因をなします。もし宿徳の白眉でなければ、軽々しく務めることはできません。

法師とは、師子座に座り、懸河の弁を振るう者です。大勢の人の前で玄関を開き、般若の妙門を啓示します。三輪空施のごとく平等に法を説きます。もし龍象のごとき力量がなければ、この任に当たることはできません。

禅師とは、その枢要を掴み、直ちに心の源を了達する者です。出没巻舒自在に、縦横に応物し、事と理を均らせて、たちまち如来を見ます。生死の深い根を抜き、現前の三昧を得ます。もし心を静めて禅定せずしては、ここに至れば皆慌てふためくことでしょう。

機に応じて法を授ける、この三つの学びは確かに異なりますが、真意を得て言葉を忘れれば、一乗に何の違いがありましょう。故に経に云う、『十方の仏土の中には、ただ一乗の法のみあり。二もなく三もなし。ただし仏の方便説を除く。ただ仮の名字をもって、衆生を導く』と。

客は言いました。「和尚は深く仏旨に達し、無礙の弁才をお持ちです。」さらに尋ねました。「儒教・道教・仏教の三教は、同じでしょうか、異なるでしょうか。」

師は答えられました。「広大な器量の者にとっては用いれば同じであり、狭い心の者にとっては執着すれば異なります。すべて一つの本性から作用が起こり、機根と見解の違いによって三つになります。迷うか悟るかは人によるのであって、教えの異同によるものではありません。」

講唯識道光座主問曰。禪師用何心修道。師曰。老僧無心可用。無道可修。曰。既無心可用。無道可修。云何每日聚眾勸人學禪修道。師曰。老僧尚無卓錐之地。什麼處聚眾來。老僧無舌。何曾勸人來。曰禪師對面妄語。師曰。老僧尚無舌勸人。焉解妄語。曰某甲却不會禪師語論也。師曰老僧自亦不會。

唯識宗の道光座主が尋ねました。「禅師はどのような心を用いて道を修められますか。」 師は答えました。「老僧には用いるべき心もなく、修めるべき道もない。」 座主が言いました。「心もなく、道もないなら、なぜ毎日人々を集めて禅を学び道を修めるよう勧められるのですか。」 師は答えました。「老僧には立錐の余地さえありません。どこで人々を集めましょうか。老僧には舌もありません。どうして人を勧められましょう。」 座主が言いました。「禅師は面と向かって嘘をつかれます。」 師は答えました。「老僧には人を勧める舌さえないのに、どうして嘘がつけましょう。」 座主が言いました。「私は禅師のお言葉がよくわかりません。」 師は答えました。「老僧自身もわかっていないのです。」

講華嚴志座主問。何故不許青青翠竹盡是法身。鬱鬱黃華無非般若。師曰。法身無象。應翠竹以成形。般若無知。對黃華而顯相。非彼黃華翠竹而有般若法身也。故經云。佛真法身。猶若虗空。應物現形。如水中月。黃華若是般若。般若即同無情。翠竹若是法身。翠竹還能應用。座主會麼。曰不了此意。師曰。若見性人。道是亦得。道不是亦得。隨用而說。不滯是非。若不見性人。說翠竹著翠竹。說黃華著黃華。說法身滯法身。說般若不識般若。所以皆成諍論。志禮謝而去。

華厳宗の志座主が尋ねた。 「なぜ、青々とした翠竹はすべて法身であり、色鮮やかな黄色い花はすべて般若である、と言うことをお許しにならないのですか」 師は言われた。 「法身には形がなく、翠竹に応じて形を現す。般若には知がなく、黄色い花に対し相を顕す。その黄色い花や翠竹そのものが般若や法身なのではない。だから経に言う、『仏の真の法身は、あたかも虚空のようである。物に応じて形を現すのは、水の中の月のようである』と。黄色い花がもし般若なら、般若は無情と同じになってしまう。翠竹がもし法身なら、翠竹はまた応用することができるだろうか。座主はお分かりか」 座主は言った。 「この意味がよく分かりません」 師は言われた。 「もし本性を見た人なら、『そうだ』と言ってもよいし、『そうではない』と言ってもよい。用いるところに従って説き、是非に執着しない。もし本性を見ない人なら、翠竹と言えば翠竹に執着し、黄色い花と言えば黄色い花に執着し、法身と言えば法身に執着し、般若と言えば般若を識らない。だからすべてが論争になってしまうのだ」 志座主は礼をして感謝し、去っていった。

人問。將心修行。幾時得解脫。師曰。將心修行。喻如滑泥洗垢。般若玄妙。本自無生。大用現前。不論時節。曰凡夫亦得如此否。師曰。見性者即非凡夫。頓悟上乘超凡越聖。迷人論凡論聖。悟人超越生死涅槃。迷人說事說理。悟人大用無方。迷人求得求證。悟人無得無求。迷人期遠劫證。悟人頓見。

ある人が尋ねました。「心を修行に用いて、いつになったら解脱が得られるでしょうか」 師は答えました。「心を修行に用いるのは、まるで泥水で汚れを洗うようなものです。般若の玄妙なる真理は、もともと生まれたものではありません。その大いなる働きが目の前に現れるとき、時間の経過は問題になりません」 「凡夫もこの境地に達することができるでしょうか」 「本性を見る者は、もはや凡夫ではありません。頓悟によって上乗の境地に至り、凡を超え聖を越えるのです。迷える者は凡か聖かを論じますが、悟った者は生死も涅槃も超越しています。迷える者は事象や理屈を語りますが、悟った者の大いなる働きには制約がありません。迷える者は得ようとし証そうとしますが、悟った者は得ることも求めもしません。迷える者は遠い未来での悟りを期待しますが、悟った者は瞬時に見極めるのです」

維摩座主問。經云。彼外道六師等是汝之師。因其出家。彼師所墮汝亦隨墮。其施汝者不名福田。供養汝者墮三惡道。謗於佛毀於法。不入眾數。終不得滅度。汝若如是。乃可取食。今請禪師明為解脫。師曰。迷徇六根者。號之為六師。心外求佛。名為外道。有物可施。不名福田。生心受供。墮三惡道。汝若能謗於佛者。是不著佛求。毀於法者。是不著法求。不入眾數者。是不著僧求。終不得滅度者。智用現前。若有如是解者。便得法喜禪悅之食。

維摩座主が問うた。 経にこうある。 「あの外道の六師らは、あなたがたの師である。彼らに従って出家した。彼らの師が陥るものに、あなたがたもまた陥る。あなたがたに施す者は福田とはならず、あなたがたを供養する者は三悪道に堕ちる。仏を謗り、法を毀り、僧伽の数に入らず、ついに滅度を得ることはない。あなたがたがこのようであるならば、はじめて食を受けることができる」 今、禅師にお願いして、明らかに解脱の意味を解き明かしていただきたい。

師は言われた。 「六根に従って迷う者を、六師と名づける。心の外に仏を求めることを、外道という。施すべき対象があると思えば、それは福田とは呼べない。供養を受けようという心が生じれば、三悪道に堕ちる。もしあなたが仏を謗ることができるなら、それは仏に執着せずに求めることである。法を毀つことができるなら、それは法に執着せずに求めることである。僧伽の数に入らないなら、それは僧に執着せずに求めることである。ついに滅度を得ないとは、智慧の働きが眼前に現れることである。もしこのような理解があれば、法喜と禅悦の食を得ることができる」

有行者問。有人問佛答佛。問法答法。喚作一字法門。不知是否。師曰如鸚鵡學人語話。自語不得。為無智慧。故譬如將水洗水。將火燒火。都無義趣。

ある修行者が尋ねました。 「人が仏について問えば仏と答え、法について問えば法と答えることを、一字法門と呼ぶそうですが、これは正しいのでしょうか」 師は言われました。 「それはまるで鸚鵡が人の言葉をまねるようなものです。自分で語ることはできません。智慧がないからです。 たとえば、水で水を洗い、火で火を焼くようなもので、何の意味も趣きもありません」

人問。言之與語為同為異。師曰。一也。謂言成句名語矣。且如靈辯滔滔譬大川之流水。峻機疊疊如圓器之傾珠。所以廓萬象號懸河。剖乎義海。此是語也。言者。一字表心也。內著玄微。外現妙相。萬機撓而不亂。清濁混而常分。齊王猶慙大夫之辭。文殊尚歎淨名之說。今之常人。云何能解。

人が尋ねました。「言」と「語」は同じものですか、それとも異なるものですか。

師は答えました。「一つです。言葉が文となったものを『語』といいます。たとえば、霊妙な弁舌が滔滔と流れる様は大河の流水のようであり、鋭い機鋒が次々と現れる様は円い器から珠を傾けるかのようです。それゆえに万象を包み込み、懸河のごとくに義の海を切り開く。これが『語』です。

一方、『言』とは、一字で心を表すものです。内には玄妙な微意を宿し、外には妙なる相を現します。万の機微が乱れても乱れず、清濁が混じっても常に分かれています。かつて斉の王でさえも大夫の言葉に恥じ入り、文殊菩薩でさえも維摩居士の説法に感嘆したのです。今の普通の人々に、どうして理解できましょうか。

源律師問。禪師常譚即心是佛。無有是處。且一地菩薩分身百佛世界。一地增於十倍。禪師試現神通看。師曰。闍棃自己是凡是聖。曰是凡。師曰。既是凡僧能問如是境界。經云。仁者心有高下。不依佛慧。此之是也。又問。禪師每云若悟道現前。身便解脫。無有是處。師曰。有人一生作善。忽然偷物入手。即身是賊否。曰故知是也。師曰。如今了了見。性云何不得解脫。曰如今必不可。須經三大阿僧祇劫始得。師曰。阿僧祇劫還有數否。源抗聲曰。將賊比解脫。道理得通否。師曰。闍棃自不解道。不可障一切人解。自眼不開。瞋一切人見物。源作色而去云。雖老渾無道。師曰即行去者是汝道。

源律師が問うた。「禅師は常に『即心是仏』と説かれますが、それは正しいとは思えません。例えば、初地の菩薩は百の仏世界に分身できます。次の地に進むごとにその力は十倍になります。禅師も神通力をお示しになってみてください。」

師が言われた。「あなた自身は凡夫ですか、聖者ですか?」

「凡夫です。」

師が言われた。「それなら凡夫の僧侶がどうしてそのような境地について問うことができましょうか。経典に『仁者の心には高下あり、仏の智慧に依らざるが故に』とあります。まさにこれです。」

源律師がさらに問うた。「禅師はいつも『もし悟りが現前すれば、その身はただちに解脱する』とおっしゃいますが、それも正しいとは思えません。」

師が言われた。「ある人が一生善行を積み、突然、物を盗んで手にしたなら、その身はただちに賊になるでしょうか?」

「なることは分かっています。」

師が言われた。「では、今、明らかに自性を見ているのに、どうして解脱が得られないと言えるのでしょう?」

「今すぐには無理です。必ず三大阿僧祇劫を経なければなりません。」

師が言われた。「阿僧祇劫に数はあるのですか?」

源律師は声を張り上げて言った。「賊を解脱に例えるなど、道理が通りますか?」

師が言われた。「あなた自身が道を理解していないだけで、すべての人を理解できないとは言えません。自分の目が開いていないのに、すべての人が物を見ることを怒るようなものです。」

源律師は怒った顔で立ち去りながら言った。「年老いても、まったく道理が分かっていない。」

師が言われた。「今、立ち去ろうとしているそのものが、あなたの道です。」

講止觀慧座主問。禪師辨得魔否。師曰。起心是天魔。不起心是陰魔。或起不起是煩惱魔。我正法中無如是事。曰一心三觀義又如何。師曰。過去心已過去。未來心未至。現在心無住。於其中間更用何心起觀。曰禪師不解止觀。師曰座主解否。曰解。師曰。如智者大師說止破止。說觀破觀。住止沒生死。住觀心神亂。為當將心止心。為復起心觀觀。若有心觀是常見法。若無心觀是斷見法。亦有亦無成二見法。請座主子細說看。曰。若如是問。俱說不得也。師曰何曾止觀。

止観慧座主が尋ねた。「禅師は魔を弁えられますか」。師は答えた。「心を起こせば天魔、心を起こさなければ陰魔、あるいは起こしたり起こさなかったりすれば煩悩魔。わが正法の中にはこのような事はない」。座主が言った。「一心三観の義はどうなりますか」。師は答えた。「過去の心はすでに過ぎ去り、未来の心はまだ至らず、現在の心は留まるところがない。その中間で、さらにどんな心を用いて観を起こすというのか」。座主が言った。「禅師は止観を理解していませんね」。師は言った。「座主は理解していますか」。座主が答えた。「理解しています」。師は言った。「智者大師が説かれたように、止を説いて止を破り、観を説いて観を破る。止に留まれば生死に沈み、観に留まれば心神が乱れる。心をもって心を止めるのか、それとも心を起こして観を観るのか。もし心があって観るならば、それは常見の法である。もし心がなくて観るならば、それは断見の法である。また有りまた無しとすれば、二見の法となる。どうか座主、詳しく説いてみてください」。座主は言った。「もしそのように問われるなら、どれも説くことができません」。師は言った。「それでどうして止観と言えようか」。

人問般若大否。師曰大。曰幾許大。師曰無邊際。曰般若小否。師曰小。曰幾許小。師曰看不見。曰何處是。師曰何處不是。

ある人が尋ねました。「般若は大きいですか」。 師は答えました。「大きい」。 「どれほど大きいのですか」。 「果てがないほどだ」。 「では、般若は小さいですか」。 「小さい」。 「どれほど小さいのですか」。 「見えないほどだ」。 「それはどこにあるのですか」。 「どこにでもある」。

維摩座主問。經云。諸菩薩各入不二法門。維摩默然是究竟否。師曰。未是究竟。聖意若盡。第三卷更說何事。座主良久曰。請禪師為說未究竟之意。師曰。如經第一卷是引眾呼十大弟子住心。第二諸菩薩各說入不二法門。以言顯於無言。文殊以無言顯於無言。維摩不以言不以無言。故默然收前言語也。第三卷從默然起說。又顯神通作用。座主會麼。曰奇怪如是。師曰亦未如是。曰何故未是。師曰。且破人執情作如此說。若據經意。只說色心空寂。令見本性。教捨偽行入真行。莫向言語紙墨上討意度。但會淨名兩字便得。淨者本體也。名者迹用也。從本體起迹用。從迹用歸本體。體用不二。本迹非殊。所以古人道。本迹雖殊。不思議一也。一亦非一。若識淨名兩字假號。更說什麼究竟與不究竟。無前無後。非本非末。非淨非名。只示眾生本性不思議解脫。若不見性人。終身不見此理。

維摩座主が尋ねた。「経典に、『諸菩薩がそれぞれ不二法門に入った』とあります。維摩が黙然としていたのは、究極の境地なのでしょうか」 師は言った。「まだ究極ではありません。聖なる教えの意が尽きているなら、第三巻でさらに何を説くというのでしょう」 座主はしばらく沈黙してから言った。「禅師に、未だ究極でないという意味を説いてください」 師は言った。「経典の第一巻は、衆生を導き、十大弟子の心を住まわせるためのものです。第二巻では諸菩薩がそれぞれ不二法門に入ることを説き、言葉をもって無言を顕わしています。文殊は無言をもって無言を顕わし、維摩は言葉にも無言にも頼らず、黙然として前の言葉を収めているのです。第三巻は黙然から再び説き始め、さらに神通の作用を顕わしています。座主はおわかりですか」 座主は言った。「なるほど、不思議なことです」 師は言った。「それもまだそうではありません」 「なぜ未だそうではないのですか」 師は言った。「ただ人々の執着を破るために、このように説いているのです。経典の真意に基づけば、ただ色と心の空寂を説き、本性を見させること。偽りの行いを捨てて真実の行いに入ることを教え、言葉や紙墨の上で意味を推し量ろうとしてはなりません。ただ『浄名』の二字を会得すればよいのです。『浄』とは本体であり、『名』とは迹用です。本体から迹用が起こり、迹用から本体に帰る。体と用は二つではなく、本と迹も異なりません。だから古人は言いました。『本迹は雖も殊なり、不思議は一なり』と。一もまた一ではありません。もし『浄名』という二字が仮の名前に過ぎないとわかれば、さらに何を究極か否かと言う必要があるでしょう。前もなく後もなく、本でも末でもなく、浄でも名でもない。ただ衆生の本性である不思議解脱を示しているだけです。もし本性を見ない人は、生涯この道理を見ることはありません」

僧問。萬法盡空。識性亦爾。譬如水泡。一散更無再合。身死更不再生。即是空無。何處更有識性。師曰。泡因水有。泡散可即無水。身因性起。身死豈言性滅。曰。既言有性。將出來看。師曰。汝信有明朝否。曰信。師曰我將明朝來看。曰。明朝實是有。如今不可得。師曰。明朝不可得。不是無明朝。汝自不見性。不可是無性。今見著衣喫飯行住坐臥。對面不識。可謂愚迷。汝欲見明朝。與今日不異。將性覓性。萬劫終不見。亦如有人不見日。不是無日。

僧が尋ねた。「万物はことごとく空であり、識の本性もまた同じです。たとえば水の泡のように、ひとたび散れば再び合わず、身体が死ねば再び生まれません。これはすなわち空無であり、どこにさらに識の本性があるというのでしょうか」

師は言われた。「泡は水によって生じる。泡が散っても水そのものがなくなるわけではない。身体は本性によって起こる。身体が死んだからといって、本性が滅びるといえるだろうか」

僧が言った。「では、本性があるというなら、それを出してみせてください」

師は言われた。「お前は明朝があると信じるか」

僧が答えた。「信じます」

師は言われた。「では、明朝をここに出してみせよう」

僧が言った。「明朝は確かにあるのですが、今ここに得ることはできません」

師は言われた。「明朝が今ここに得られないからといって、明朝がないわけではない。お前が自らの本性を見ていないだけだ。本性がないわけではない。今、着衣し、食事し、行住坐臥しているそのままの姿を、目の前にしながら見分けられない。これはまさに愚かで迷っているというものだ。お前が明朝を見ようとするなら、今日と何ら変わるところはない。本性を探し求めて本性を得ようとしても、永遠の時を経てもついに見ることはない。ちょうど、太陽を見ない人がいるからといって、太陽がないわけではないのと同じことだ」

講青龍疏座主問。經云。無法可說是名說法。禪師如何體會。師曰。為般若體畢竟清淨。無有一物可得。是名無法。即於般若空寂體中。具河沙之用。即無事不知。是名說法。故云無法可說是名說法。

青龍疏の座主がお尋ねになりました。 「経典に『法を説くこと無く、これを説法と名づく』とあります。禅師はどのようにお考えですか。」 師は答えられました。 「般若の本体は畢竟清浄であり、一物も得るべきものがない。これを『法無し』と名づけます。すなわち、般若の空寂なる本体の中に、河の砂のごとき無数の働きが備わっている。つまり、知らぬことが何一つない。これを『説法』と名づけるのです。ゆえに『法を説くこと無く、これを説法と名づく』と言われるのです。」

講華嚴座主問。禪師信無情是佛否。師曰。不信。若無情是佛者。活人應不如死人。死驢死狗亦應勝於活人。經云。佛身者即法身也。從戒定慧生。從三明六通生。從一切善法生。若說無情是佛者。大德如今便死。應作佛去。

華厳経の講師がお尋ねになりました。 「禅師は、無情のものも仏であるとお考えですか?」 禅師はお答えになりました。 「信じません。もし無情のものが仏であるなら、生きている人は死人よりも劣ることになりましょう。死んだ驢馬や死んだ犬も、生きている人より勝っているはずです。経典にはこう説かれています。『仏の身体とは、すなわち法身である。それは戒・定・慧から生じ、三明六通から生じ、あらゆる善い法から生じる』と。もし無情のものが仏であると言うなら、大徳、今すぐお亡くなりになって仏になられるがよろしいでしょう。」

有法師問。持般若經最多功德。師還信否。師曰不信。曰。若爾靈驗傳十餘卷。皆不堪信也。師曰。生人持孝自有感應。非是白骨能有感應。經是文字紙墨。文字紙墨性空。何處有靈驗。靈驗者在持經人用心。所以神通感物。試將一卷經安著案上。無人受持。自能有靈驗否。

ある法師が尋ねました。「般若経を持つことは最も功徳が多いと説かれていますが、師匠はこれを信じられますか」 師匠は「信じない」と答えました。 法師が言いました。「それでは、霊験あらたかな伝承が十数巻も伝わっていますが、それらはすべて信じるに足りないということですか」 師匠は言いました。「生きている人が孝行を尽くせば、自然と感応がある。白骨に感応があるわけではない。経典は文字と紙と墨にすぎない。文字も紙も墨もその本性は空である。どこに霊験があろうか。霊験があるのは、経を持つ人が心を込めるからである。だからこそ神通力が物事に感応するのだ。試しに経典一巻を机の上に置いてみよ。誰も受け持たず、心を込めなければ、それだけで霊験があるだろうか」

僧問。未審一切名相及法相。語之與默。如何通會即得無前後。師曰。一念起時本來無相無名。何得說有前後。不了名相本淨。妄計有前有後。夫名相關鏁。非智鑰不能開。中道者病在中道。二邊者病在二邊。不知現用是無等等法身。迷悟得失常人之法。自起生滅埋沒正智。或斷煩惱或求菩提。背却般若。

僧が尋ねました。「すべての名称や現象、言葉と沈黙について、どのように理解すれば前後を超えられるのでしょうか」 師は答えました。「一つの思いが起こる時、本来は形も名前もありません。どうして前後があると言えるでしょう。名称や現象が本来清浄であることを理解せず、妄りに前後があると考えるのです。名称や現象は鎖のように縛りますが、智慧の鍵でなければ開けられません。中道に執着する者は中道に病み、両極端に執着する者は両極端に病むのです。今現に働いているものが、比べるもののない法身であることを知らない。迷いと悟り、得と失は凡夫の考え方です。自ら生滅を起こして正しい智慧を埋もれさせ、煩悩を断とうとしたり菩提を求めたりする。それは般若を背くことです」

人問。律師何故不信禪。師曰。理幽難顯。名相易持。不見性者所以不信。若見性者號之為佛。識佛之人方能信入。佛不遠人而人遠佛。佛是心作。迷人向文字中求。悟人向心而覺。迷人修因待果。悟人了心無相。迷人執物守我為己。悟人般若應用見前。愚人執空執有生滯。智人見性了相靈通。乾慧辯者口疲。大智體了心泰。菩薩觸物斯照。聲聞怕境昧心。悟者日用無生。迷人見前隔佛。

ある人が尋ねました。「律僧はなぜ禅を信じないのですか?」

師は答えました。「真理は深遠で明らかにし難く、名相は捉えやすく保ちやすいからです。本性を見ない者は、それゆえに信じないのです。もし本性を見る者がいれば、それを仏と称します。仏を識る人こそ、はじめて信じて入ることができるのです。仏は人から遠く離れてはいません。人が仏から遠ざかっているのです。仏は心によって作られるもの。迷える人は文字の中に求め、悟った人は心に向かって覚るのです。迷える人は因を修して果を待ち、悟った人は心を了えて相のないことを知ります。迷える人は物に執着し、我を守って己とし、悟った人は般若を応用し、眼前に見るのです。愚かな人は空に執着し、有に執着して滞りを生じ、智ある人は本性を見て相を了え、霊妙に通じます。乾いた智慧の論者は口が疲れ、大いなる智は体得して心が安泰です。菩薩は物に触れて即座に照らし、声聞は境を恐れて心を曇らせます。悟った人は日用に無生を用い、迷える人は眼前に仏と隔たるのです。」

人問。如何得神通去。師曰。神性靈通。徧周沙界。山河石壁去來無礙。剎那萬里往返無踪。火不能燒水不能溺。愚人自無心智。欲得四大飛空。經云。取相凡夫隨宜為說。心無形相即是微妙色身。無相即是實相。實相體空喚作虗空無邊身。萬行莊嚴故云功德法身。即此法身是萬行之。本隨用立名。實而言之。只是清淨法身也。

ある人が尋ねました。「どうすれば神通力を得て自在に動けるようになるのでしょうか」

師は答えました。「神性は霊妙に通じ、砂粒の世界にまで遍く行き渡っています。山河や石壁も自由に行き来でき、一瞬にして万里を往復しても跡形もありません。火も焼けず、水も溺れることはないのです。愚かな人は自ら心の知恵を持たず、四大(地水火風)の身体で空を飛ぼうとします。経典には『相に執着する凡夫には、その状況に応じて説く』とあります。心には形も相もなく、これこそが微妙な色身なのです。相がないことがすなわち実相であり、実相の本体は空であるから、これを『虚空無辺身』と呼びます。あらゆる行いによって荘厳されるゆえに、『功徳法身』と言うのです。この法身こそが、すべての行いの根本であり、その働きに応じて名前が付けられるのです。真実を言えば、ただ清らかな清浄法身にほかなりません」

人問。一心修道。過去業障得消滅否。師曰。不見性人未得消滅。若見性人如日照霜雪。又見性人猶如積草等須彌山。只用一星之火。業障如草。智慧似火。曰云何得知業障盡。師曰。見前心通前後生事。猶如對見。前佛後佛萬法同時。經云。一念知一切法是道場。成就一切智故。

ある人が尋ねました。「一心に道を修めれば、過去の業障は消滅するでしょうか。」 師は答えられました。「自性を見ない者には、消滅することはありません。もし自性を見た者であれば、それは太陽が霜や雪を照らすようなものです。また、自性を見た者は、須弥山ほど積まれた草の山に、たった一つの星の火を灯すようなものです。業障は草のようであり、智慧は火のようなものなのです。」 「では、どうすれば業障が尽きたと知ることができるでしょうか。」 師は言われました。「現在の心が通じ、前世と来世のことが、まるで目の前で見ているかのようにはっきりとわかるようになります。過去の仏も未来の仏も、すべての法が同時に存在していると悟るのです。経典にはこう説かれています。『一瞬の念において一切の法を知ることが、道場である。なぜなら、一切智を成就するからである。』」

有行者問。云何得住正法。師曰。求住正法者是邪。何以故。法無邪正故。曰。云何得作佛去。師曰。不用捨眾生心。但莫污染自性。經云。心佛及眾生。是三無差別。曰。若如是解者。得解脫否。師曰。本自無縛。不用求解。法過語言文字。不用數句中求。法非過現未來。不可以因果中契。法過一切。不可比對。法身無象應物現形。非離世間而求解脫。

ある修行者が尋ねた。 「どうすれば正しい法に安住できますか」 師は言われた。 「正しい法に安住しようと求めること自体が邪です。 なぜなら、法には邪も正もないからです」 修行者が言った。 「では、どうすれば仏の境地へと至れますか」 師は言われた。 「衆生を救おうとする心を捨てる必要はありません。 ただ、自らの本性を汚さないことです。 経典にも『心と仏と衆生、この三つに差別なし』と説かれています」 修行者が尋ねた。 「もしこのように理解できたなら、解脱は得られますか」 師は言われた。 「元々束縛などないのですから、解脱を求める必要もありません。 法は言葉や文字を超えています。言葉の数々の中に求めてはいけません。 法は過去・現在・未来を超えています。因果の理の中に合致させようとしてはなりません。 法は一切を超えています。何かと比べることはできません。 法身には形がありませんが、縁に応じて姿を現します。 この世間を離れて解脱を求めるのではありません」

僧問何者是般若。師曰汝疑不是者試說看。又問云何得見性。師曰。見即是性。無性不能見。又問如何是修行。師曰。但莫污染自性即是修行。莫自欺誑即是修行。大用現前即是無等等法身。又問性中有惡否。師曰此中善亦不立。曰。善惡俱不立。將心何處用。師曰將心用心是大顛倒。曰作麼生即是。師曰。無作麼生。亦無可是。

僧が尋ねました。「般若とは何でしょうか」 師は答えました。「あなたが疑っている、それではないものを言ってみなさい」 また尋ねました。「どうすれば本性を見ることができますか」 師は答えました。「見ることがそのまま本性です。本性がなければ見ることはできません」 また尋ねました。「修行とはどういうことですか」 師は答えました。「ただ自らの本性を汚さないことが修行です。自分を欺かないことが修行です。大いなる働きが目の前に現れることが、比べるもののない法身です」 また尋ねました。「本性の中に悪はありますか」 師は答えました。「ここでは善さえも立てません」 僧が言いました。「善も悪も立てないなら、心をどこに用いたらよいのですか」 師は答えました。「心で心を用いることは大きな倒錯です」 僧が言いました。「ではどうすればよいのですか」 師は答えました。「どうするということもなく、またこれだということもありません」

人問。有人乘船。船底刺殺螺蜆。為是人受罪。為復船當罪。師曰。人船兩無心。罪正在汝。譬如狂風折樹損命。無作者。無受者。世界之中無非眾生受苦處。

ある人が尋ねました。 「人が船に乗り、船底で貝や蛤を殺した場合、 その罪は人に帰せられるのでしょうか、それとも船に帰せられるのでしょうか」

師は答えました。 「人も船も、どちらも殺す意思はありません。 罪はあなた自身にあるのです。 たとえば、狂風が木を折って命を損なうようなもので、 加害者も被害者もいません。 この世界は、衆生が苦しみを受ける場所以外にはないのです」

僧問。未審託情勢.指境勢.語默勢乃至揚眉動目等勢。如何得通會於一念間。師曰。無有性外事。用妙者動寂俱妙。心真者語默總真。會道者行住坐臥是道。為迷自性萬惑茲生。又問如何是法有宗旨。師曰。隨其所立即有眾義。文殊於無住本立一切法。曰莫同大虗否。師曰汝怕同太虗否。曰怕。師曰解怕者不同太虗。又問言方不及處如何得解。師曰。汝今正說時。疑何處不及。

僧が尋ねました。「未だ詳らかならず、情勢に託し、境を指し、語黙の勢い、さらには眉を揚げ目を動かすなどの勢いを、どうすれば一瞬の念の間に通じ会得できるのでしょうか」

師は答えました。「性の外に事はありません。妙を用いる者は、動も静もともに妙です。心が真である者は、語も黙もすべて真です。道を会得した者は、行くも住むも坐すも臥すも道そのものです。自性に迷えば、あらゆる惑いがここから生じます」

また尋ねました。「法に宗旨があるとはどういうことですか」

師は答えました。「その立つところに従って、さまざまな意味が生じます。文殊菩薩は、無住の本に一切の法を立てられました」

僧が言いました。「大虚と同じではないでしょうか」

師は言いました。「あなたは大虚と同じになることを恐れますか」

僧が答えました。「恐れます」

師は言いました。「恐れを理解する者は、大虚と同じではありません」

また尋ねました。「言葉が及ばないところでは、どうすれば理解できるのでしょうか」

師は答えました。「あなたが今まさに説いているこの時、どこが及ばないと疑うのですか」

有宿德十餘人同問。經云。破滅佛法。未審佛法可破滅否。師曰。凡夫外道謂佛法可破滅。二乘人謂不可破滅。我正法中無此二見。若論正法。非但凡夫外道。未至佛地者二乘亦是惡人。又問。真法.幻法.空法.非空法各有種性否。師曰。夫法雖無種性。應物俱現。心幻也一切俱幻。若有一法不是幻者。幻即有定。心空也一切皆空。若有一法不空。空義不立。迷時人逐法。悟時法由人。如森羅萬象至空而極。百川眾流至海而極。一切賢聖至佛而極。十二分經.五部毗尼.五圍陀論至心而極。心者是總持之妙本。萬法之洪源。亦名大智慧藏。無住涅槃。百千萬名盡心之異號耳。又問如何是幻。師曰幻無定相。如旋火輪。如乾闥婆城。如機關木人。如陽𦦨。如空華。俱無實法。又問何名大幻師。師曰。心名大幻師。身為大幻城。名相為大幻衣食。河沙世界無有幻外事。凡夫不識幻。處處迷幻業。聲聞怕幻境。昧心而入寂。菩薩識幻法達幻體。不拘一切名相。佛是大幻師。轉大幻法輪。成大幻涅槃。轉幻生滅得不生不滅。轉河沙穢土成清淨法界。

十数人の高徳の僧侶が一同に尋ねた。「経典に『仏法を破滅する』とありますが、仏法は破滅させることができるのでしょうか。」 師は言われた。「凡夫や外道は、仏法は破滅させられると言います。二乗の人々は、破滅させられないと言います。しかし、私の正法の中には、この二つの見解はありません。正法について言えば、凡夫や外道だけでなく、仏の境地に至っていない二乗の人々もまた、悪人なのです。」 また尋ねた。「真の法・幻の法・空の法・空でない法、それぞれに種性はあるのでしょうか。」 師は言われた。「そもそも法には種性はありませんが、対象に応じてすべて現れます。心が幻であれば、すべては幻です。もし一つの法でも幻でないものがあれば、幻には定まった相があることになります。心が空であれば、すべては空です。もし一つの法でも空でないものがあれば、空という道理は成り立ちません。迷っている時は人が法に追われ、悟った時は法が人によります。ちょうど森羅万象が空に至って極まり、百川の流れが海に至って極まり、すべての賢聖が仏に至って極まるように、十二分経・五部の毘奈耶・五ヴェーダの論も、心に至って極まるのです。心というものは、総持の妙なる根本であり、万法の広大な源です。また大智慧蔵とも、無住涅槃とも呼ばれます。百千万の名は、すべて心の異なる呼び名に過ぎません。」 また尋ねた。「幻とはどのようなものですか。」 師は言われた。「幻には定まった相はありません。火の輪が回るように、乾闥婆城のように、からくり人形のように、陽炎のように、空華のように、いずれも実体のある法ではありません。」 また尋ねた。「何を大幻師と呼ぶのですか。」 師は言われた。「心を大幻師と呼びます。身体を大幻城と呼びます。名相を大幻の衣食と呼びます。恒河の砂の数ほどの世界に、幻の外にある事はありません。凡夫は幻を識らず、至る所で幻の業に迷います。声聞は幻の境を恐れ、心を覆って寂滅に入ります。菩薩は幻の法を識り、幻の体を達観して、一切の名相に拘りません。仏は大幻師であり、大幻の法輪を転じ、大幻の涅槃を成し、幻の生滅を転じて不生不滅を得、恒河の砂の数の穢土を転じて清浄の法界とします。」

僧問。何故不許誦經。喚作客語。師曰。如鸚鵡只學人言。不得人意。經傳佛意。不得佛意而但誦。是學語人。所以不許。曰不可離文字言語別有意耶。師曰。汝如是說。亦是學語。曰同是語言何偏不許。師曰。汝今諦聽。經有明文。我所說者義語非文。眾生說者文語非義。得意者越於浮言。悟理者超於文字。法過語言文字。何向數句中求。是以發菩提者得意而忘言。悟理而遺教。亦猶得魚忘筌得兔忘蹄也。

僧が尋ねた。「なぜ経典を誦むことを許さず、他人の言葉と呼ぶのですか」 師は言われた。「鸚鵡がただ人の言葉をまねるように、真意は理解できない。経典は仏の意を伝えるものだが、仏の意を理解せずにただ誦むのは、言葉をまねる者にすぎない。だから許さないのだ」 僧が言った。「文字と言葉を離れて、別に意があるというわけではないのですか」 師は言われた。「あなたがそう言うのも、やはり言葉をまねているにすぎない」 僧が言った。「同じ言葉なのに、なぜ偏って許されないのですか」 師は言われた。「よく聞きなさい。経典にはっきりと書かれている。私が説くのは意味の言葉であって、文字ではない。衆生が説くのは文字の言葉であって、意味ではない。真意を得た者は浮ついた言葉を超え、真理を悟った者は文字を超える。法は言語文字を超えているのに、どうして数句の言葉の中に求めようとするのか。だから菩提を発する者は真意を得て言葉を忘れ、真理を悟って教えを捨てる。ちょうど魚を得て筌を忘れ、兎を得て罠を忘れるようなものだ」

有法師問。念佛是有相大乘。禪師意如何。師曰。無相猶非大乘。何況有相。經云。取相凡夫隨宜為說。又問。願生淨土。未審實有淨土否。師曰。經云。欲得淨土當淨其心。隨其心淨即佛土淨。若心清淨。所在之處皆為淨土。譬如生國王家。決定紹王業。發心向佛道。是生淨佛國。其心若不淨。在所生處皆是穢土。淨穢在心。不在國土。 又問。每聞說道。未審何人能見。師曰有慧眼者能見。曰。甚樂大乘。如何學得。師曰。悟即得。不悟不得。曰如何得悟去。師曰但諦觀。曰似何物。師曰無物似。曰應是畢竟空。師曰空無畢竟。曰應是在。師曰有而無相。曰不悟如何。師曰。大德自不悟。亦無人相障。 又問。佛法在於三際否。師曰。見在無相不在其外。應用無窮不在於內。中間無住處。三際不可得。曰此言大混。師曰。汝正說混之一字時。在內外否。曰。弟子究檢。內外無踪跡。師曰。若無踪跡。明知上來說不混。曰如何得作佛。師曰是心是佛是心作佛。曰眾生入地獄。佛性入否。師曰。如今正作惡時。更有善否。曰無。師曰。眾生入地獄。佛性亦如是。曰一切眾生皆有佛性如何。師曰。作佛用是佛性。作賊用是賊性。作眾生用是眾生性。性無形相。隨用立名。經云。一切賢聖皆以無為法而有差別。

ある法師が尋ねた。「念仏は有相の大乗です。禅師はどうお考えですか。」 師は言った。「無相でさえまだ大乗ではない。ましてや有相などが大乗であろうか。経に『相を取る凡夫には、その機に応じて説く』とある。」

また尋ねた。「浄土に生まれたいと願いますが、はたして本当に浄土はあるのでしょうか。」 師は言った。「経に『浄土を得ようと思うなら、まずその心を浄くせよ。その心が浄くなるに従って、即ち仏土も浄くなる』とある。もし心が清浄であれば、いる所はすべて浄土となる。たとえば国王の家に生まれれば、必ず王業を受け継ぐように、仏道に向かって発心するなら、それは浄仏国に生まれることである。もしその心が浄くなければ、生まれる所はすべて穢土となる。浄いか穢いかは心にあるのであって、国土にあるのではない。」

また尋ねた。「よく道を説くのを聞きますが、はたしてどんな人がそれを見ることができるのでしょうか。」 師は言った。「慧眼ある者は見ることができる。」 「大乗がとても好きですが、どうしたら学べますか。」 師は言った。「悟ればできる。悟らなければできない。」 「どうしたら悟ることができますか。」 師は言った。「ただよく観察せよ。」 「何か物に似ていますか。」 師は言った。「物に似たものはない。」 「それは畢竟空であるべきです。」 師は言った。「空に畢竟はない。」 「それは存在すべきです。」 師は言った。「あるが相はない。」 「悟らなければどうなりますか。」 師は言った。「大徳、あなた自身が悟らないのであって、人に悟りを妨げられるわけではない。」

また尋ねた。「仏法は三際(過去・現在・未来)にあるのでしょうか。」 師は言った。「現在は無相であり、その外にはない。応用は無窮であり、内にはない。中間に住む所はなく、三際は得られない。」 「この言葉はとても混然としています。」 師は言った。「あなたが今まさに『混』という一字を言った時、それは内にあるのか外にあるのか。」 「弟子がよく調べてみると、内外にその跡はありません。」 師は言った。「もし跡がないなら、先に私が言ったことが混然としていないと明らかに知るべきだ。」 「どうしたら仏になれますか。」 師は言った。「この心が仏であり、この心が仏を作るのである。」 「衆生が地獄に入る時、仏性も入るのでしょうか。」 師は言った。「今まさに悪を行っている時、さらに善があるか。」 「ありません。」 師は言った。「衆生が地獄に入る時、仏性もまた同じである。」 「一切衆生はみな仏性を持っていると聞きますが、どういうことですか。」 師は言った。「仏として用いればそれが仏性であり、賊として用いればそれが賊性であり、衆生として用いればそれが衆生性である。性には形や相がなく、用い方に従って名が立てられる。経に『一切の賢聖は皆、無為の法によって差別がある』とある。」

僧問何者是佛。師曰離心之外即無有佛。曰何者是法身。師曰。心是法身。謂能生萬法。故號法界之身。起信論云。所言法者。謂眾生心。即依此心顯示摩訶衍義。 又問何名有大經卷內在一微塵。師曰智慧是經卷。經云。有大經卷量等三千大千界。內在一微塵中。一塵者是一念心塵也。故云一念塵中演出河沙偈。時人自不識。 又問。何名大義城。何名大義王。師曰。身為大義城。心為大義王。經云。多聞者善於義。不義於言說。言說生滅。義不生滅。義無形相。在言說之外。身為大經卷。心為大義王。若不了了識心者。不名善義。只是學語人也。 又問。般若經云。度九類眾生皆入無餘涅槃。又云實無眾生得滅度者。此兩段經文如何通會前後。人說皆云。實度眾生而不取眾生相。常疑未決。請師為說。師曰。九類眾生一身具足。隨造隨成。是故無明為卵生。煩惱包𮖐為胎生。愛水浸潤為濕生。倐起煩惱為化生。悟即是佛。迷號眾生。菩薩只以念念心為眾生。若了念念心體俱空。名為度眾生也。智者於自本際上度於未形。未形既空。即知實無眾生得滅度者。

僧が尋ねた。「何が仏であるか」 師は答えた。「心を離れて外に仏は無い」

「では、何が法身であるか」 師は答えた。「心こそが法身である。心はあらゆるものを生み出すことができるから、法界の身と呼ばれるのである。『起信論』にも『法というものは、すなわち衆生の心である』とあり、この心によって大乗の教えが明らかに示されるのである」

さらに尋ねた。「『大きな経典が一つの微塵の中に納まっている』とは、どういう意味か」 師は答えた。「智慧こそが経典である。経に『大きな経典があり、その量は三千大千世界に等しいが、一つの微塵の中に納まっている』とある。この『一塵』とは、一つの念いの塵のことである。だから『一念の塵の中から、河の砂の数ほどの偈が説き出される』と言われるのだ。ただ、人々はそれに気づかないのである」

また尋ねた。「『大義城』とは何か。『大義王』とは何か」 師は答えた。「身体が大義城であり、心が大義王である。経に『多聞の者は義に善く、言葉に善くはない』とある。言葉は生滅するが、義は生滅しない。義には形も相もなく、言葉の外にある。身体が大きな経典であり、心が大義王なのである。もし心を明らかに識らなければ、義に善いとは言えず、ただ言葉を学んでいるだけの人に過ぎない」

さらに尋ねた。「『般若経』には『九種類の衆生を度して、すべて無余涅槃に入らしめる』とあり、また『実は衆生が滅度を得ることは無い』ともある。この二つの経文は、前後どのように通じ合うのか。人々は皆『実際に衆生を度しながらも、衆生の相を取らない』と言いますが、常に疑いが晴れません。どうか師にお説きください」 師は答えた。「九種類の衆生は、一つの身にすべて具わっている。造るに随って成るのである。すなわち、無明が卵生であり、煩悩が殻に包まれるのが胎生であり、愛の水に浸されるのが湿生であり、突然に煩悩が起こるのが化生である。悟れば仏であり、迷えば衆生と名づけられる。菩薩はただ、念念の心を衆生とする。もし念念の心の本体がことごとく空であると了得すれば、それを衆生を度すというのである。智者は、自らの本源において、まだ形のないものを度す。未形が既に空であると知れば、『実は衆生が滅度を得ることは無い』と知るのである」

僧問言語是心否。師曰。言語是緣。不是心。曰離緣何者是心。師曰離言語無心。曰。離言語既無心。若為是心。師曰。心無形相。非離言語。非不離言語。心常湛然應用自在。祖師云。若了心非心。始解心心法。

僧が尋ねました。「言葉は心ですか」 師は答えました。「言葉は縁です。心ではありません」 僧が言いました。「縁を離れたものは何が心ですか」 師は答えました。「言葉を離れて心はありません」 僧が言いました。「言葉を離れれば心がないなら、どうして心があると言えますか」 師は答えました。「心には形も相もありません。言葉を離れているのでもなく、離れていないのでもありません。心は常に澄み渡り、自在に応用されます。祖師はこう言われました。『もし心が心でないことを悟れば、初めて心と心の法を理解する』と」

僧問。如何是定慧等學。師曰。定是體。慧是用。從定起慧。從慧歸定。如水與波一體。更無前後。名定慧等學。夫出家兒莫尋言逐語。行住坐臥並是汝性用。什麼處與道不相應。且自一時休歇去。若不隨外境之風。性水常自湛湛。無事珍重。

僧が尋ねました。「定慧等学とはいかなるものでしょうか」 師は答えました。「定は本体であり、慧は作用です。定から慧が起こり、慧から定に帰ります。水と波が一体であるように、前後はありません。これを定慧等学といいます」 出家者よ、言葉を追い求めたり、言葉にこだわったりしてはいけません。歩くことも、止まることも、座ることも、寝ることも、すべてあなたの本性の作用です。どこに道と合わないところがあるでしょうか。ひとまず、休みなさい。もし外の境の風に従わなければ、本性の水は常に澄みきっています。何もすることはありません。大切にしなさい。

諸方門人參問語錄卷下

諸方門人の参問語録 巻下


No. 1224-A 初祖菩提達磨大師安心法門附(出聯燈會要)

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