佛說遺日摩尼寶經
仏説遺日摩尼宝経
後漢月支國三藏支婁迦讖譯
後漢・月支国・三蔵 支婁迦讖 訳
佛在舍衛國祇洹阿難邠坻阿藍時,與摩訶比丘僧千二百五十人,菩薩萬二千人。
仏は舍衛国の祇洹精舎、阿難邠坻の林におられたとき、大いなる比丘僧一千二百五十人、菩薩一万二千人と共におられました。
爾時佛語摩訶迦葉比丘言:「菩薩有四事法智慧為減。何等為四事?一者不敬經不敬師、二者人有欲聞經者中斷之、三者人有求深經者愛惜不肯與、四者自貢高輕侮他人,是為四。
そのとき、仏は摩訶迦葉(マハーカッサパ)という比丘にこうお告げになりました。「菩薩が智慧を減らしてしまう四つの行いがあります。その四つとは何か。第一に、経典を敬わず、師を敬わないこと。第二に、経典を聞きたいと願う人の邪魔をすること。第三に、深い経典を求める人に対して、惜しんで与えようとしないこと。第四に、自ら高慢になって他人を見下すことです。これがその四つです。」
「菩薩復有四事法智慧為增。何等為四?一者恭敬經尊師;二者人有來聽經者不中斷;三者人有欲得深經者不愛藏;四者具足為人說經,不從人有所徼冀,常自精進常隨法行不嘩說;是為四。
菩薩が智慧を増すための四つの実践があります。どの四つでしょうか。第一に、経典と師を敬うこと。第二に、経典を聞きに来る人の話を途中で遮らないこと。第三に、深い経典を求める人に惜しみなく与えること。第四に、人のために経典を十分に説き、人から何かを期待せず、常に自ら精進し、常に法に従って実践し、むやみに喋らないこと。これが四つです。
「菩薩有四事,世世亡菩薩道意。何等為四?一者欺調其師;二者主持他人長短,人無長短誹謗之;三者壞敗菩薩道;四者罵詈為菩薩道者;是為四。
菩薩が、生まれ変わるたびに菩薩の道を志す心を失ってしまう、四つのことがあります。その四つとは何でしょうか。第一に、自分の師をだますこと。第二に、他人の欠点をあげつらい、欠点のない人まで中傷すること。第三に、菩薩の道を壊すこと。第四に、菩薩の道を歩む人をののしること。これがその四つです。
「菩薩有四事,世世所生念菩薩道不忘,及自致至佛。何謂四事?一者不欺師,盡其形壽不兩舌諛訑;二者盡形壽不兩舌形笑他人;三者慈心於人不念人惡;四者視諸菩薩如見佛,及初發意無異;是為四。
菩薩が四つのことを行えば、生まれ変わるたびに菩薩の道を忘れず、やがて自ら仏に至ることができます。その四つとは何でしょうか。第一に、師を欺かず、一生涯、二枚舌でへつらうことをしないこと。第二に、一生涯、二枚舌で他人を嘲笑しないこと。第三に、人に対して慈しみの心を持ち、人の悪を思わないこと。第四に、すべての菩薩を仏にお会いするかのように大切にし、発心したばかりの人も同じように扱うこと。これがその四つです。
「菩薩有四事法,中道斷絕為菩薩日減,何謂為四?一者自貢高學外道;二者獨欲自供養,不欲令他人得;三者反自憎菩薩還自相謗;四者人有來常所聞經妄止令斷絕;是為四。
菩薩が道の途中で行き詰まり、日々後退してしまう四つの行いがあります。それは何か。
一つ目は、自分を偉いと思い上がり、外道の教えを学ぶことです。
二つ目は、自分だけが供養を受けたいと望み、他の人に供養が及ぶのを望まないことです。
三つ目は、かえって菩薩を憎み、自ら菩薩を誹謗することです。
四つ目は、人がこれまで常に聞いてきた経典を、むやみに中断させ、途絶えさせてしまうことです。
以上が四つです。
「菩薩有四事,求經道及有所求索不中斷。何謂四事?但求索好經法——六波羅蜜,及菩薩毘羅經,及佛諸品。去瞋恚之心,敬事十方天下人,如奴事大夫。樂於經,不為外道,自益身也;自守不說人惡及讒溺於人。所不聞經,不限佛智也;隨其所喜經者,各自聞得。是為四。
菩薩が経典の教えを求め、また求めるものごとを途中でやめることのないための、四つのことがあります。その四つとは何でしょうか。
第一に、良い経典の教えを求めること——すなわち六波羅蜜、菩薩の毘羅経、そして仏のさまざまな教えです。
第二に、怒りの心を捨て去り、この世のすべての人を敬い仕えること。まるで召使いが主人に仕えるかのように。
第三に、経典の教えを楽しみ、外道に染まらず、自らを磨くこと。そして自分を守り、人の悪口を言わず、他人を中傷したり貶めたりしないこと。
第四に、まだ聞いたことのない経典についても、仏の智慧を限定せず、それぞれが好む経典に応じて、それぞれが聞いて悟りを得られるようにすることです。
これが四つです。
「菩薩有四事,心不委曲當遠離。何謂為四?一者猶豫於佛法;二者自貢高瞋恚,頑佷用加於人;三者貪嫉諛訑;四者說菩薩短;是為四。
菩薩が心を曲げずにいるために、遠ざけるべき四つのことがあります。四つとは何でしょうか。第一に、仏法に対してためらいを持つこと。第二に、自分を高く思い上がり、怒りっぽく、頑固で、それを人に押し付けること。第三に、貪りや嫉妬、へつらいや欺くこと。第四に、菩薩の欠点を話すこと。これが四つです。
「菩薩有四事,直行至誠。何謂為四?一者自有過惡不覆藏,自悔欲除其罪;二者實諦,亡命亡國亡財不兩舌;三者設有災變妄起,至罵詈數數輕易及撾捶閉著牢獄,設有是,當自悔前世惡所致;四者無恨無瞋恚自信;是為四。
菩薩がまっすぐに誠実に歩むための四つのことがあります。その四つとは何でしょうか。
一つ目は、自分に過ちや悪があれば隠さず、自ら悔い改めてその罪を除こうとすることです。
二つ目は、真実を守ることです。たとえ命を失い、国を失い、財産を失うことになっても、二枚舌を使わないことです。
三つ目は、もし災難や思いがけない出来事が起こり、罵られたり、何度も軽んじられたり、打たれたり、牢獄に閉じ込められたりしたとしても、それは前世の悪業の結果だと自ら悔い改めることです。
四つ目は、恨みや怒りを持たず、自信を持つことです。
これがその四つです。
「菩薩有四事難調也。何謂四事?一者學經自用不隨師法;二者所受教不用也,不慈孝於師;三者受比丘僧所信句,妄與他人;四者不敬於成就菩薩;是為四。
菩薩には、調和しにくい四つのことがあります。どのような四つでしょうか。一つには、経典を学んでも自分勝手に用いて、師の教えに従わないこと。二つには、受けた教えを用いず、師に対して慈しみや孝行の心を持たないこと。三つには、比丘僧が信じる言葉を授かっていながら、勝手に他人に伝えてしまうこと。四つには、成就した菩薩を敬わないこと。これらが四つです。
「菩薩有四事易調也。何謂為四?一者所聞經法隨教不過,所聞者但聞取法不取嚴飾;二者當恭敬於師無諛諂;三者食知足持戒三昧如法;四者見成就菩薩,持善心向心口身亦爾,亦欲及其功德;是為四。
菩薩が調和しやすい四つのことがあります。何がその四つでしょうか。第一に、聞いた経法は教えに従って実践し、過ちを犯しません。聞くときはただ法の意味を取って、飾り立てた言葉にはこだわりません。第二に、師に対して恭敬の心を持ち、へつらったり媚びたりしません。第三に、食事は適量を知り、戒を守り、三昧を法のままに実践します。第四に、成就した菩薩を見れば、善い心を持って接し、心も口も身体も同じようにし、その功德にあやかりたいと願います。これがその四つです。
「菩薩有四事得其過。何謂四事?一者本不相習不當妄信;二者佛有深法不當妄教人,是為大過;三者人有喜菩薩道者,反教人羅漢道,是為大過;四者於比丘僧中,布施心不等與者,是為大過;是為四。
菩薩が過ちを犯す四つのことがあります。四つとは何でしょうか。第一に、もともと親しく学んだわけでもないのに、むやみに信じてしまうことです。第二に、仏には深い法があるのに、むやみに人に教えてはいけないのに、それを教えてしまうことです。これが大きな過ちです。第三に、菩薩の道を喜んで求める人がいるのに、かえってその人に羅漢の道を教えてしまうことです。これが大きな過ちです。第四に、比丘僧たちに対して、布施の心を平等にせず差をつけてしまうことです。これが大きな過ちです。以上が四つです。
「菩薩有四事,得菩薩道。何謂四事?一者等心於十方人,二者布施等心於十方人,三者所作為等心於十方人,四者說經等心於十方人;是為四。
菩薩が菩薩の道を得るための四つの実践があります。その四つとは何でしょうか。第一に、すべての人々に対して平等な心を持つこと。第二に、すべての人々に平等な心で布施を行うこと。第三に、すべての人々に対して平等な心で行動すること。第四に、すべての人々に平等な心で教えを説くこと。これがその四つです。
「菩薩有四事,矯稱為菩薩。何謂四事?一者依經得生活,二者但欲聲名不索佛道,三者但欲自安不念苦人,四者但口多說不欲度餘人;是為四。
菩薩でありながら、実は菩薩と偽っている者がいる。その四つのあり方とは何か。第一に、経典をよりどころにして生活の糧を得ること。第二に、ただ名声だけを求め、仏の道を本当には求めないこと。第三に、ただ自分の安楽だけを願い、苦しむ人々のことを思わないこと。第四に、口先だけで多くを語り、他の人々を救おうとは思わないこと。これがその四つである。
「菩薩有四事,成其功德。何謂四事?一者信虛空,二者所作惡信當悔,三者心念萬物皆非我所,四者極大慈於十方人;是為四。
菩薩が功德を完成させるための四つの実践があります。四つとは何でしょうか。第一に、空を信じること。第二に、自分の行った悪を信じて悔い改めること。第三に、万物は自分のものではないと心に念じること。第四に、十方の人々に対して限りない慈しみを持つこと。これがその四つです。
「菩薩有四惡知識。何謂四?一者教人為羅漢道滅意;二者教人為辟支佛道,自守無為;三者喜教人為教道;四者人求有學經者,持財物誘恤,不肯教人;是為四。
菩薩には四つの悪い友があります。四つとは何でしょうか。第一に、人に羅漢の道を教えて心を滅ぼさせること。第二に、人に辟支仏の道を教えて、ひとり無為に守らせること。第三に、人に教えの道を教えることを好むこと。第四に、人が経典を学ぼうと求めてきたとき、財物で誘いなだめて、教えようとしないこと。これが四つです。
「菩薩有四善知識。何等為四?一者人所求索不逆也,用是故成佛道;二者經師,是為善知識,多聞經故;三者勸樂使人發意求佛,成於功德;四者佛天中天,是善知識,具足諸佛法故;是為四。
菩薩には四つの善知識があります。どの四つでしょうか。
第一に、人に求められたものをも惜しまず与えること。これによって仏道を成し遂げることができます。 第二に、経典を教える師。これが善知識です。多くの教えを聞くことができるからです。 第三に、人々を励まし喜ばせて、仏を求める心を起こさせ、功徳を積ませること。 第四に、仏、すなわち天の中の天。これが善知識です。すべての仏法を備えておられるからです。
以上が四つです。
「菩薩有四珍寶。何謂為四?一者見佛已悉供養無二意;二者六波羅蜜法悉聞;三者常淨心向師;四者止於愛欲,常止空閑處;是為四。
菩薩には四つの珍宝があります。四つとは何でしょうか。第一に、仏を見たならば、ためらうことなくすべてを供養すること。第二に、六波羅蜜の教えをすべて聞くこと。第三に、常に清らかな心で師に向かうこと。第四に、愛欲を断ち、常に静かな場所にとどまること。これが四つです。
「菩薩有四事出於魔界。何謂為四?一者不捨菩薩心;二者無有瞋恚心向於十方人,大如毛髮;三者悉學外餘道;四者恭敬於諸菩薩;是為四。
菩薩が魔の領域から抜け出すための四つのことがあります。その四つとは何でしょうか。第一に、菩薩としての志を捨てないこと。第二に、十方のすべての人に対して毛髪ほどの怒りの心も起こさないこと。第三に、他の教えについても広く学ぶこと。第四に、すべての菩薩を敬うこと。これがその四つです。
「菩薩有四事,得功德不可復計。何謂為四?一者持法施與人,不希望欲有所得;二者人有犯戒者,當慈哀之;三者多教人為菩薩道;四者有下賤人來毀辱菩薩,悉當忍之;是為四。」
菩薩が功徳を限りなく積むための四つの実践があります。その四つとは何でしょうか。第一に、法を人に施し与えるとき、何かを得たいという欲を持たないこと。第二に、戒を破った人に対して、慈しみ哀れむ心を持つこと。第三に、多くの人に菩薩の道を教えること。第四に、身分の低い人が菩薩を侮辱しに来ても、すべて耐え忍ぶこと。これがその四つです。
佛語迦葉言:「不用字為字菩薩也,隨法行、隨法立用,是故字菩薩。菩薩,凡有三十二事。何謂三十二事?安隱慈心;於人自念智慮;少去自用不高自傗;堅住不動;還所與親厚;乃至般泥洹,善知識惡知識等心無有異;所作為不懈怠;常和暢向於十方人不中斷;等心悉遍至;不斷慈心;索諸經法不忘;於經法中無有飽時;所有惡不覆藏皆發露;他人有短不念其短惡;諸福功德悉究竟;索所施與;但發心索佛耳,一切不索;有所生心向十方人不適有所憎;無思想之禪;不願於其中也;漚惒拘舍羅護於智慧;四事雜布施;不樂於外事;不喜於小道;心喜於大道;離於惡知識;習善知識;以五旬自娛樂;譬如月初生時稍稍增益,於智慧稍稍如是;不墮非法;所語無異;所說諦者恭敬。」
仏は迦葉に言われた。「文字にこだわらないのが文字の菩薩です。法に従って行い、法に従って立つので、文字の菩薩なのです。菩薩には三十二のことがあります。三十二のこととは何でしょうか。
安らかな慈しみの心。人に対して自分の智慧と思いやりを忘れないこと。少しばかりの才に慢心せず高ぶらないこと。堅く動かないこと。親しい人に返し与えること。涅槃に至るまで、善き友にも悪しき友にも平等な心で差別しないこと。なすべきことに怠らないこと。いつも和やかに十方の人々に向かい、途中でやめないこと。平等な心がすべてに遍く届くこと。慈しみの心を絶やさないこと。諸々の経法を求めて忘れないこと。経法の中にいても満足することがないこと。自分の悪を覆い隠さずすべてさらけ出すこと。他人に欠点があってもその欠点や悪を思わないこと。諸々の福徳をすべて成就すること。施しを求めること。ただ仏を求める心を起こすだけで、それ以外は何も求めないこと。心を起こすとき十方の人々に向かい、誰かを嫌うことがないこと。思いのない禅。その中に願うことのないこと。方便によって智慧を守ること。四つの事を混じえて施すこと。外の事柄を楽しみにしないこと。小さな道を喜ばないこと。心は大きな道を喜ぶこと。悪しき友から離れること。善き友に親しむこと。五旬をもって自らを楽しませること。たとえば月が生まれたばかりのとき、しだいに増していくように、智慧においてもしだいにそのようになること。非法に堕ちないこと。語ることが食い違わないこと。説くところの真理を恭敬すること。」
佛言:「如是,迦葉!三十二事,是故名為菩薩。」
仏は言われた。「そのとおりです、迦葉よ。この三十二の行いがあるため、菩薩と呼ばれるのです。」
佛言迦葉:「譬如地,一切人隨其所種,其地亦不置人也;如是發意菩薩,自致乃成佛,饒益十方人,亦適無所置也。迦葉!譬如春夏溫煖,所種成熟;菩薩智慧成熟十方人,功德如是。譬如水,百穀草木皆因水茂盛;菩薩如是,發心諸經法悉從中生。譬如風,悉成諸佛國土;菩薩如是,漚惒拘舍羅悉成諸佛經。譬如日,無所不照天下皆見其明;菩薩如是,智慧光明悉照十方人,經道之明。譬如月初生時日日增益;菩薩如是,精進具足於功德。譬如師子,獨行獨步無所畏;菩薩如是,被戒德之鎧,獨行獨步無所畏。譬如草木,雖無上枝下根由復生;菩薩如是,雖斷三處,極大慈續見世間。譬如萬川四流皆歸於海,合為一味;菩薩如是,持若干種行合會功德,持用成願一味,入薩芸若中。譬如須彌山,忉利住其上;菩薩如是,發心成薩芸若。譬如樹蔭却雨;菩薩如是,持極大慈雨於經道。譬如國王得傍臣共治,則好漚惒拘舍羅;如是菩薩,所作為如佛。譬如天晴欲索雨不能得也;菩薩如是,不學經道,豫知不高明也。譬如遮迦越羅王之所處,自然後七寶自然來生;菩薩如是,初生薩芸若意,然後自然生三十七品經。譬如更治摩尼珠,其價增倍多所饒益;師成一人為菩薩道,眾阿羅漢辟支佛皆依用得度。譬如毒藥在人手中不害傷人;菩薩雖在愛欲中,持智慧不入惡道。譬如郡國多積糞壤,有益稻田菜園;菩薩雖在愛欲中,益於天上天下。」
仏は迦葉に言われた。「たとえば大地は、すべての人がそれぞれ何を植えようとも、その大地は人を選んだりしない。同じように、発心した菩薩は、みずから悟りを成し遂げて仏となり、十方の人々を益するが、そこにもえこひいきはない。
迦葉よ、たとえば春夏の温かさによって植えたものが実るように、菩薩の智慧は十方の人々を成熟させる。その功徳もまたこのようである。
たとえば水によって、あらゆる穀物や草木が茂るように、菩薩もまた、発心すればあらゆる経の教えがそこから生じる。
たとえば風がすべての仏の国土を成り立たせるように、菩薩もまた、方便の智慧によってすべての仏の経典を成り立たせる。
たとえば太陽が照らさないところがなく、天下のすべてがその光を見るように、菩薩もまた、智慧の光ですべての十方の人々を照らし、道の光となる。
たとえば月が生まれたばかりのとき、日ごとに増していくように、菩薩もまた、精進によって功徳を完成させる。
たとえば獅子がただ独り歩み、何も恐れないように、菩薩もまた、戒の徳という鎧を身に着け、ただ独り歩み、何も恐れない。
たとえば草木が、上に枝がなく下に根がなくても、なお生じるように、菩薩もまた、三つのところを断っても、大きな慈しみによって世の中に現れ続ける。
たとえば万の川、四方の流れがすべて海に注ぎ、一つ味となるように、菩薩もまた、さまざまな行いを保ち、功徳を合わせ集め、それによって願いを一つ味にし、悟りへと入っていく。
たとえば須弥山の上に忉利天が住むように、菩薩もまた、発心して悟りを成し遂げる。
たとえば木の陰が雨を防ぐように、菩薩もまた、大きな慈しみによって経の道の雨を降らせる。
たとえば国王が側近の臣下を得てともに治めれば、よく巧みに物事を運ぶように、菩薩もまた、その行いは仏のようである。
たとえば天気が晴れているときに雨を求めても得られないように、菩薩もまた、経の道を学ばなければ、あらかじめ知ることは高く明らかではない。
たとえば転輪聖王のいるところには、自然に七宝が生じてくるように、菩薩もまた、悟りの心を初めて起こせば、その後自然に三十七品の教えが生じる。
たとえば摩尼珠を磨き直せば、その価値は倍に増し、多くの益をもたらすように、師が一人を菩薩の道へと育てれば、多くの阿羅漢や辟支仏もみなそれによって救われる。
たとえば毒薬も人の手中にあれば人を傷つけないように、菩薩もまた、愛欲の中にあっても、智慧によって悪道に入らない。
たとえば郡や国に糞土が多く積もっていれば、稲田や菜園の益となるように、菩薩もまた、愛欲の中にあっても、天上天下の益となる。」
佛語迦葉:「若有菩薩欲學極大珍寶之積遺日羅經,當隨是經本法精進。何等為本法?無法、無我、無人、無壽、無常、無色、無痛痒、無思想、無生死識,是為法本根。有常在一邊,無常在一邊,有常無常適在其中,無色、無見、無識,是故為中之智黠本也。譬如大地為一界,復一佛界,兩界之際中,無色、無見無識、無我無識、無所入、無所語,是為智黠本也。心為一邊,無心為一邊,設無心無識、無我無識,是為中間之本。諸佛經法等無有異,有德無德、內事外事、有世間無世間、為度者未度者、脫愛欲未脫愛欲。泥洹等無有異,有在一邊,無有在一邊,有無有適在中間,是為智黠中本也。」
仏は迦葉にこう説かれた。「もし菩薩が、この極めて尊い宝の積み重なる『遺日羅経』を学ぼうと願うなら、この経の根本の法に従って精進するべきである。何が根本の法か。法もなく、我もなく、人もなく、寿命もなく、無常であり、色もなく、痛痒もなく、思想もなく、生も死も識もない。これが法の根本である。常が一方にあり、無常が一方にあり、常と無常がちょうどその中間にある。色もなく、見ることもなく、識もない。それゆえこれが中道の智慧の根本なのである。たとえば、大地が一つの世界であり、また一つの仏の世界があり、二つの世界の境目の中には、色もなく、見ることもなく、識もなく、我もなく、識もなく、入るところもなく、語ることもない。これが智慧の根本なのである。心が一方にあり、心がないことが一方にあり、もし心も識もなく、我も識もなければ、これが中間の根本である。もろもろの仏の経の法はみな同じで異なることはない。徳あるものも徳なきものも、内の事も外の事も、世間があることも世間がないことも、度された者もまだ度されない者も、愛欲を脱した者もまだ脱していない者も、涅槃はみな同じで異なることはない。有ることが一方にあり、無いことが一方にあり、有と無がちょうどその中間にある。これが智慧の中道の根本なのである。」
佛語迦葉:「我為汝曹說法。從生至死身所出生,苦癡在一邊,黠在一邊,無癡無黠適在中間,是為智黠中間之本。」
仏は迦葉にこう説かれた。「私はあなたがたのために法を説く。生まれてから死ぬまでの間に身に生じるもの、すなわち苦しみと愚かさが一方にあり、賢さがもう一方にある。愚かさも賢さもない、まさにその中間こそが、智慧の中間の根本である。」
佛語迦葉:「空不作法,法本無空無相不作法,法本無相無願不作法,法本無願無死生不作法,法本無死生,死生無出生、無滅無處所。無形不作法,法本無形當隨是本法,是為中間。視本法不自分別解身為空也,空棄空中之空,本自空、甫當來空、現在空。」
仏は迦葉に仰せられた。「空は法を作らない。法はもともと空であり、空でもなく、相もない。相のないものは法を作らず、法はもともと相がない。願いのないものは法を作らず、法はもともと願いがない。死も生もないものは法を作らず、法はもともと死も生もない。死も生も生まれ出ることはなく、滅することもなく、どこにもとどまることもない。形のないものは法を作らず、法はもともと形がない。このもとの法にしたがうべきである。これが中間である。もとの法を見て、みずから分別して身を空と解してはならない。空は空の中の空を捨てる。もともと空であり、未来も空であり、現在も空である。」
佛語迦葉:「人寧著癡大如須彌山,呼為有其過不足言耳;人有著空言有空,其過甚大。若有著癡者,曉空得脫;著空者不得脫。」
仏は迦葉に言われた。「人が愚かさにとらわれること、それが須弥山のように大きくても、まだ過ちがあると言える程度にすぎない。しかし人が空にとらわれて空があると言うなら、その過ちははるかに大きい。愚かさにとらわれた者は、空を悟って解脱できる。空にとらわれた者は解脱できない。」
佛語迦葉言:「譬如人病,得良醫與藥,藥入腹中不行。於迦葉意云何?是人能愈不?」
仏は迦葉に言われた。「たとえば、人が病気になり、良い医者から薬をもらったとします。しかし、その薬が腹の中に入っても効きません。迦葉よ、あなたはどう思いますか。その人は治るでしょうか。」
迦葉報言:「大難。」
迦葉は答えました。「大変だ。」
佛言:「外餘道曉空得脫,著空不得脫,譬如人畏於虛空,啼哭教人却去虛空。」佛語迦葉:「是人寧却虛空不?」
仏は言われました。「他の教えの者たちは、空を悟れば解脱を得られるが、空にとらわれては解脱できない。たとえば、虚空を恐れる人が泣き叫びながら、人に虚空を退けよと教えるようなものだ。」仏は迦葉に言われました。「その人は、虚空を退けることができるだろうか。」
迦葉言:「不可却也。」
迦葉は言った。「お断りできません。」
佛言:「如是迦葉!若沙門婆羅門畏於虛空,其人亦空語復畏空,是人為狂,無有異。」
仏はおっしゃいました。「迦葉よ、そのとおりです。もし沙門や婆羅門が虚空を恐れるなら、その人は空を語りながらまた空を恐れることになります。このような人は狂っているのであり、それ以外の何ものでもありません。」
佛語迦葉言:「譬如畫師自畫鬼神像,還自復恐怖。譬如人未得道者,如是色聲香味,坐是墮死生中不曉法。譬如木中火出還自燒木,從觀得黠自燒身。譬如幻師化作人,還自取幻師噉,如是色聲香味對從中出,念噉空噉無他奇。」
仏は迦葉にこうおっしゃいました。「たとえば絵師が自分で鬼神の絵を描いて、それに自分がおびえてしまうようなものです。まだ道を得ていない人も同じで、色・声・香・味にとらわれ、そのために生死の迷いを繰り返し、法を悟ることができません。たとえば木の中から火が起こり、その火が木自身を焼いてしまうように、観想によって賢さを得ても、その賢さが自分の身を焼くことがあります。たとえば幻術師が人を幻で作り出し、その幻が逆に幻術師を食ってしまうように、色・声・香・味に相対してそこから念が生まれ、空を食い、空を味わうといっても、何の不思議もありません。」
佛語迦葉:「譬如燈炷之明,不自念言我當逐冥去冥也,然燈炷照,不知冥所去處。如是,智黠不念我當去愚癡得智黠,不知愚癡所去處也。是智黠無所從來,亦無有持來者,是燈炷明是冥,空不可得持也。是智黠、是癡,兩者俱空,無所持也。譬如大舍小舍,百歲若千歲,未甞於其中然燈火也,却後各於中然燈火。迦葉!於迦葉意云何?是冥在中千歲,若我豪強不出。」
仏は迦葉に仰せられた。「たとえば、灯のともしびの明かりは、『私は闇を追い払って闇を取り除こう』とは思いません。しかし灯のともしびが照らすとき、闇がどこへ去ったのかは分かりません。同じように、智慧ある人は『私は愚かさを去って智慧を得よう』とは思いません。そして愚かさがどこへ去ったのかも分かりません。この智慧はどこから来たのでもなく、また持って来た者があるわけでもありません。この灯のともしびの明かりも闇も、空であって、つかまえることはできないのです。この智慧も愚かさも、どちらも空であり、とらえることはできません。たとえば、大きな家や小さな家が、百年あるいは千年のあいだ、その中で一度も灯をともしたことがなかったとします。その後になって、それぞれの家の中で灯をともしたとします。迦葉よ、あなたはどう思いますか。その闇は千年のあいだ家の中にあったのに、私が無理に追い出さなくても出て行くでしょうか。」
迦葉白佛言:「不也。冥雖久在中,見火明,不敢當即去。」
迦葉が仏に申し上げました。「いいえ。闇は長く中にありましても、火の明かりを見ますれば、その場に留まろうとはいたしません。」
佛言:「如是迦葉!菩薩數千巨億萬劫,在愛欲中為欲所覆,聞佛經一反念善,罪即消盡。燈炷明者,於佛法中智黠明是也,冥愛欲即為消盡。譬如虛空中不生穀實也,地種乃生穀實耳;如是泥洹中不生菩薩也,糞治其地穀種潤澤生,於愛欲中生菩薩。」
仏が言われた。「そのとおりだ、迦葉よ。菩薩が数千億万劫もの間、愛欲の中にあって欲に覆われていても、仏の経典を一度でも聞いて善を念じれば、罪はたちまち消え尽きる。灯の炎が明るいというのは、仏法における智慧の輝きのことである。冥い愛欲はすなわち消え尽きるのである。たとえば虚空の中には穀物の実りは生じないが、地に種を蒔けばこそ穀物の実りが生じる。それと同じく、涅槃の中には菩薩は生じない。糞を施してその地を肥やし、穀種が潤えば生じるように、愛欲の中においてこそ菩薩は生じるのである。」
佛語迦葉:「譬如曠野之中若山上,不生蓮華及優鉢華也;菩薩不於眾阿羅漢、辟支佛法中出也。譬如大陂水污泥之中,生蓮華優鉢華也;從愛欲中生菩薩法。譬如四大海停住;菩薩於三界功德中,潤澤成菩薩道。譬如蠧虫食芥子空;羅漢、辟支佛智爾所耳。譬如麻油,破一髮作百分,持一分搵油麻中,為出幾所渧,羅漢辟支佛智如是;如十方空所至,菩薩曉佛智如是。譬如遮迦越羅有千子,無有一子應遮迦越羅相也,雖有爾所子,不在子計中也;有羅漢數千巨億萬人,不在佛計中,無一菩薩,佛雖有爾所羅漢,不具足為佛子也。譬如遮迦越羅正夫人與貧窮人共交通,從中生子。」佛語迦葉:「是寧應為遮迦越羅子不乎?」
仏は迦葉に仰せられた。「たとえば、荒野の中や山の上には、蓮の花も青蓮華も咲かない。同じように、菩薩は多くの阿羅漢や辟支仏の法の中からは生まれない。たとえば、大きな池の泥水の中にこそ、蓮の花や青蓮華が咲くように、愛欲の中から菩薩の法は生まれる。たとえば、四大の海がとどまっているように、菩薩は三界の功德の中で潤い、菩薩の道を成し遂げる。たとえば、木食い虫が芥子の中の空を食うように、羅漢や辟支仏の智慧はその程度にすぎない。たとえば、麻の油で一本の髪を百分の一に裂き、その一分を油麻に浸して、どれほどのしずくが生じるか。羅漢や辟支仏の智慧はそのようなものである。しかし、十方の空が届くところ、菩薩の仏の智慧を悟ることはそのようなものである。たとえば、転輪聖王に千人の子がいても、転輪聖王の相にかなう子は一人もいない。これほど多くの子がいても、子として数えられない。同じように、何千億万人もの羅漢がいても、仏の側から見れば、一人の菩薩もいなければ、仏の真の子とはならない。たとえば、転輪聖王の正夫人が貧しい人と交わり、そこから子が生まれるとしたら――」 仏は迦葉に仰せられた。「その子は転輪聖王の子にふさわしいだろうか。」
迦葉報佛言:「不也。」
迦葉は仏に申し上げました。「いいえ、そうではありません。」
佛言:「如是迦葉!雖有羅漢從法中出,是非佛子也,不類菩薩。何以故?菩薩不斷佛法故。譬如遮迦越羅與青衣交通却後生子,具足成遮迦越羅相,雖從青衣生,由為是遮迦越羅子也。如是,菩薩雖在生死中行力少,會為佛子。譬如遮迦越羅夫人懷軀七日,會當成遮迦越羅相也。諸天皆徹視見腹中胞胎,雖遮迦越羅子多者無遮迦越羅相,諸天言:『由不如供養腹中七日子也。』發意菩薩如是中有為佛道,諸天心念言:『雖有羅漢數千萬億豪尊,不如供養發意菩薩也。』譬如摩尼珠,有水精大如須彌山,不如一摩尼珠;初發意菩薩眾,阿羅漢辟支佛所不能及也。譬如遮迦越羅有少子,諸小王傍臣皆為作禮;初發意菩薩如是,諸天、釋、梵、世間人、龍、鬼神皆為作禮、譬如大山,諸藥草悉出其巔,亦無有主,隨其有病者與諸病皆愈;菩薩如是持智慧藥,愈十方天下人生死老病悉等心。譬如月初生人皆為作禮,月成滿無有為作禮者;若有信佛者,於佛法中菩薩發意,若有信佛者,多為菩薩作禮者。何以故?從菩薩成佛故。譬如有智者,不捨月為星宿作禮也;高人如是,不捨菩薩為羅漢作禮也。譬如天上天下共治一水精,會不能得摩尼珠也;一切自守持戒禪三昧,智黠羅漢雖眾,不能坐佛樹下,不能作佛也。」
佛は言われた。「そのとおりです、迦葉よ。たとえ羅漢が法から生まれ出たとしても、それは仏の子ではなく、菩薩とは似ても似つかぬものです。なぜでしょうか。菩薩は仏法を絶やさないからです。
たとえば、転輪聖王が身分の低い女と交わって後に子を生むと、その子は完全に転輪聖王の姿を備えます。低い女から生まれたとしても、やはり転輪聖王の子なのです。同じように、菩薩は生死の世界で修行する力がまだ弱くても、やがては仏の子となるのです。
たとえば、転輪聖王の夫人が身ごもって七日目には、もう転輪聖王となるべき姿が備わっています。あらゆる天人たちは神通力で腹の中の胎児を見通します。転輪聖王の子でありながら転輪聖王の姿を備えていない者は多くいても、天人たちは言います。『やはり腹の中にいる七日の子を供養するには及ばない』と。発心した菩薩も同じです。まだ修行の途中にあっても仏道に向かっており、天人たちは心の中でこう思います。『たとえ数千万億の立派な羅漢がいても、発心した菩薩を供養するには及ばない』と。
たとえば、摩尼珠があります。須弥山ほどの大きさの水晶があっても、一つの摩尼珠には及びません。初めて発心した菩薩の集まりは、阿羅漢や辟支仏が及ぶことのできないものです。
たとえば、転輪聖王に幼い子があれば、諸国の小王や側近たちはみな礼をします。初めて発心した菩薩も同じで、天人、帝釈、梵天、世間の人々、龍、鬼神たちがみな礼をします。
たとえば、大きな山では、あらゆる薬草がその頂から出てきて、主人もなく、病ある者に応じて与えればどの病も癒えます。菩薩も同じで、智慧の薬を携えて、十方の世界の人々の生死と老いと病を、平等な心で癒すのです。
たとえば、月が生まれたばかりのときは人々がみな礼をしますが、月が満ちてしまえば礼をする者はいません。もし仏を信じる者があれば、仏法の中で菩薩が発心します。仏を信じる者があれば、多くが菩薩に礼をするのです。なぜでしょうか。菩薩から仏が成るからです。
たとえば、賢い者は月を捨てて星宿に礼をしません。すぐれた人も同じで、菩薩を捨てて羅漢に礼をすることはありません。
たとえば、天上天下がともに一つの水晶を治めても、摩尼珠を得ることはできません。すべてが自ら戒を守り、禅定を修め、智慧ある羅漢であっても、その数がどれほど多くても、仏の樹の下に座ることはできず、仏となることもできないのです。」
爾時佛語摩訶迦葉菩薩:「學用十方人故菩薩作功德,用十方人故菩薩作功德,不自貢高,菩薩常當教十方人愈其病。何等為愈病?婬者以觀為藥,瞋恚者以等心為藥,癡者以十二因緣為藥;疑不信者以空為藥;欲處色處無色處,若欲覺此者,以無相為藥;是我所非我所,愛欲所念,以無願為藥。四顛倒各自有藥,何等為各自有藥?一者有常以無常為藥,二者有樂以苦為藥,三者有言是我所以非我所為藥,四者有身以觀為藥。四意止以身心為念,是為藥;四意斷一切惡悉斷,是為藥;四神足念合會成身以空棄為藥;五根五力不信懈怠念功德為藥;七覺意入法黠是為藥;外道及不信以八道為藥;是為各各分別藥。」
そのとき、仏は摩訶迦葉菩薩にこうお語りになった。「十方の人々のために学ぶがゆえに、菩薩は功德を作る。十方の人々のためであるから、菩薩は功德を作り、自ら高ぶることがない。菩薩は常に十方の人々の病を癒すよう教えなければならない。何が病を癒すことか。婬(みだら)な者は観(不浄観)を薬とし、瞋恚(いかり)の者は等しい心を薬とし、愚かな者は十二因縁を薬とする。疑い信じない者は空を薬とする。欲の世界、色の世界、無色の世界にあり、それを悟ろうとする者は、無相を薬とする。これは我がものだ、これは我がものではないという愛欲の思いは、無願を薬とする。四つの顛倒にはそれぞれに薬がある。何がそれぞれの薬か。一つには、常があると思う者は無常を薬とする。二つには、楽があると思う者は苦を薬とする。三つには、これが我がものだ、我がものではないと言う者は、それを薬とする。四つには、身体があると思う者は観を薬とする。四意止は身心を念じる、これが薬である。四意断は一切の悪をことごとく断つ、これが薬である。四神足は念を合わせ集めて身を成し、空をもって捨てる、これが薬である。五根と五力は、信じない者、怠ける者に功德を念じる、これが薬である。七覚意は法に入り賢くなることが、これが薬である。外道および信じない者は八つの道を薬とする。これがそれぞれに分けられた薬である。」
佛語迦葉:「若閻浮利,若醫若醫弟子者,或醫王最尊三千國土滿其中者,或醫王滿其中,雖有乃爾所醫王,不能愈外道及不信者,不知當持何等法藥愈也。菩薩作是念:『不持世間藥愈人病也,當持佛法藥愈人病。』何等為佛法藥?隨其因緣,黠慧中無我無人無壽無命,信空度脫,空無空聞是不恐不懼,持精進推念心,何等心入婬?何等心入瞋怒?何等心入癡?持過去當來今現在心入耶?過去為盡甫當來未至今現在無所住也。」
仏は迦葉にこうおっしゃいました。「たとえば、閻浮利(この世界)に、医者がいたとします。その弟子たちも、あるいは最も尊い医王が三千の国土をすべて満たすほどいたとしても、これほどの医王がいたとしても、外道や信仰のない人々を癒すことはできません。どんな薬で治せばよいか分からないからです。菩薩はこう考えます。『世間の薬で人の病を癒すのではなく、仏法の薬で人の病を癒そう。』仏法の薬とは何でしょうか。その人の置かれた状況に応じて、智慧をもって、我もなく人もなく寿もなく命もないと見ることです。空を信じて悟りに渡ること、空でありながら空にこだわらないことを聞いても、恐れず怯えないことです。精進の心を起こして思いを推し進めるのです。どんな心が淫欲に入るのか。どんな心が怒りに入るのか。どんな心が愚かさに入るのか。過去・未来・現在の心がそこに入るのでしょうか。過去はすでに尽き、未来はまだ来ず、現在もとどまる所がないのです。」
佛語迦葉言:「心無色無視無見。」
仏は迦葉に言われた。「心には形も色もなく、見ることもできない。」
佛語迦葉言:「諸佛亦不見心者,本無所有、無所因也,自作是因緣,自得是死生。心遠至而獨行,心譬如流水上生泡沫須臾而滅,心譬如天暴雨卒來無期,愛欲亦如是卒來無期。心譬如飛鳥獼猴不適止一處也,心所因不適止一處也。譬如畫師各各賦彩心各各異,如是隨行所為。譬如王於眾人中為上,心於諸功德中無上。譬如蒼蠅在糞上住自以為淨,心亦如是入愛欲中自以為淨。心譬如怨家,擲人著惡道中無有期也。譬如持灰作城,持無常作有常。譬如持鈎行釣魚得,心持非我所是我所。心譬如賊,所作功德反自辱。譬如坂上上下,心須臾有愛、須臾有憎。心譬如怨家但伺人便,心常欲聞香。譬如畫瓶盛屎,有何他奇心喜味。譬如奴隨大夫使心樂對。譬如飛蛾自投燈火中。」
仏は迦葉にこう言われた。「諸仏もまた心を見ることはない。心はもともと何もなく、何かに拠るものでもない。自ら因縁を作り、自ら生死を得るのだ。心は遠くまで至りながら独りで行く。心は流水の上に生じる泡のように、ほんのわずかな間に消えてしまう。心は天の暴雨が突然やって来るように、いつ来るかわからない。愛欲もまた同じで、突然やって来て予期できない。心は飛んでいる鳥や猿のように一つの場所にとどまらない。心が拠るものも一つの場所にとどまらない。たとえば絵師がそれぞれに色を塗るように、心もそれぞれに異なり、その行いに従ってなされる。たとえば王が多くの人々の中で最も尊いように、心はすべての功德の中で最も尊い。たとえば蠅が糞の上にとまって自分を清いと思っているように、心もまた同じで、愛欲の中に入って自分を清いと思う。心は怨敵のようなもので、人を悪道に投げ込んで終わりがない。たとえば灰で城を作るように、無常を有常とする。たとえば釣り針で魚を釣り上げるように、心は非我を我とする。心は賊のようなもので、なした功德がかえって自分を辱める。たとえば坂を上ったり下ったりするように、心はちょっとの間に愛を持ち、ちょっとの間に憎しみを持つ。心は怨敵のようにただ人の隙を伺い、心は常に香りを聞くことを欲する。たとえば糞を盛った絵瓶のように、何の珍しいこともないのに心は味を喜ぶ。たとえば奴隷が主人の使いに従うように、心は対することを楽しむ。たとえば飛蛾が自ら灯火の中に飛び込むように。」
佛語迦葉:「心索之了不可得,雖不可得是為無有,雖無有因為無所生,雖無所生亦無所出,雖無所出亦無所壞,雖無所壞亦無有死亦無有生,雖無所生無所死本無因緣,死生雖本無因緣無生亦無願也,雖無願亦無所持,雖無所持是為羅漢滅,是為羅漢滅無誡禁也。若死生若計所作罪本了無有,是無死生是為羅漢滅,羅漢滅亦無身行無口行無心行,是滅無有異也。何以故?諸經一味故,是滅皆等如虛空,是滅適無所莫,亦無是我所,亦非是我所,是滅諦本無諦,是滅本淨無愛欲之瑕穢也,本滅離本滅,是滅隨次至於泥洹,是滅無盡也,本無有生也,是滅安隱用至泥洹,故安隱是滅也。常滅常經無本,是滅好去本無死生。」
仏は迦葉にこう説かれた。「心を探し求めても、とらえることはできない。とらえられないからこそ、それは『有る』とは言えない。『有る』とは言えないがゆえに、生じることもない。生じることがないゆえに、出てくることもない。出てくることもないゆえに、壊れることもない。壊れることもないゆえに、死もなく生もない。生も死もないゆえに、もともと因縁もない。死も生ももともと因縁がないゆえに、生もなく、願いもない。願いもないゆえに、執着することもない。執着することがない、これが阿羅漢の滅であり、これが阿羅漢の滅で、戒律の禁戒もないのである。死と生、なされた罪の根本を計り求めてみても、まったく何もない。これが死も生もないことであり、これが阿羅漢の滅である。阿羅漢の滅には、身の行もなく、口の行もなく、心の行もなく、この滅に違いはない。なぜか。すべての経は一味であるからだ。この滅はみな虚空のように平等であり、この滅にはどこにも行き着く先がなく、『我がもの』もなく、『我がものではない』ということもない。この滅の真理はもともと真理ということもなく、この滅はもともと清らかで、愛欲の汚れもない。もともとの滅はもともとの滅を離れ、この滅は次第に泥洹に至る。この滅は尽きることがなく、もともと生じることがない。この滅は安穏であり、泥洹に至るゆえに安穏である。これが滅である。常に滅し、常に経であり、もともと根本がない。この滅はよく去り、もともと死も生もないのである。」
佛語迦葉言:「自求身事莫憂外事,後當來世比丘輩,譬如持塊擲狗,狗但逐塊不逐人。當來比丘亦爾,欲於山中空閑之處,常欲得安隱快樂,不肯內自觀身也。如是為不曉色耳鼻舌身,從是何緣得脫乎?從是入城乞匃,若至聚邑,見色聲香味細軟欲得者,便為墮衰於山中,若多少持戒不內觀,死則天上生,從天上來下生世間,從是以後不離三惡道。」
仏は迦葉にこう言われた。「自分の身のことを求めなさい。外のことを心配してはいけない。後の世の比丘たちは、たとえば塊を狗に投げると、狗はただ塊を追いかけても人を追いかけないようなものだ。後の世の比丘も同じで、山の中の静かなところで常に安らかで楽しくありたいと願い、自分自身の身を内観しようとしない。このようにして色・声・香・味・触・法を悟らないで、どうしてそこから解脱できるだろうか。そこから町に入って托鉢し、あるいは村に至って、好ましい色・声・香・味に触れてそれを得たいと思うなら、山の中での修行は衰えてしまう。たとえ多少戒を守っても内観しなければ、死後は天上に生まれ、天から再び下って世間に生まれ、それ以降も三悪道から離れることはない。」
佛語迦葉言:「比丘如狗逐塊,人罵亦復罵之,人撾亦復撾之,不制心者亦如是。譬如調馬師,馬有𨅨踲者,當數數教之久後調好;比丘時時法觀制心調,亦不見其惡如是。譬如人病喉咽痛,舉一身皆為痛;人心繫於是我所非我所,隨外道亦如是。」
仏は迦葉にこう言われた。「比丘が狗が石塊を追いかけるように、人に罵られれば罵り返し、人に打たれれば打ち返すのは、心を制しない者もまた同じです。たとえば馬を調教する者が、跳ねたり蹴ったりする馬を何度も何度も教え続けて、やがて調教し終えるように、比丘も常に法を観じて心を制し調えれば、そのような悪を見せることはありません。たとえば人が喉咽の痛みを患えば、全身ことごとくが痛むように、心が我が物・我が物ならざるものに執着していれば、外道に随うこともまた同じです。」
佛語迦葉言:「沙門有二事,墮牢獄中:一者言是我所,二者求人欲得供養。沙門復有二事縛。何謂二事?一者學外道,二者多欲積衣被及袈裟鉢。沙門復有二事中道斷。何等為二事?一者與白衣厚善,二者見好持戒沙門反憎。沙門復有二事墮垢濁中。何謂二事?一者常念愛欲,二者喜交結知友。沙門復有二事著。何等為二事?自有過不肯悔,反念他人惡。沙門復有二事,墮泥犁中。何等為二事?一者誹謗經道,二者毀戒。沙門復有二事。何等為二事?一者都犯戒,二者於法中無所得。沙門復有二事悔。何等為二事?一者不應行強披袈裟;二者身不自持戒,持戒比丘反承事。沙門復有二事病難愈,何等為二事?一者心邪亂,二者人有作菩薩道者止斷。」
仏は迦葉にこう言われた。「修行者には二つのことがあって、牢獄に落ちることになる。一つは『これは私のものだ』と言うこと、二つは人の供養を得ようと求めることである。修行者にはまた二つのことがあって縛られる。何が二つか。一つは外道を学ぶこと、二つは欲が多く、衣や布団、袈裟や鉢をため込むことである。修行者にはまた二つのことがあって中道から断たれる。何が二つか。一つは在家の人と深く親しむこと、二つは戒をよく守る修行者を見てかえって憎むことである。修行者にはまた二つのことがあって汚れ濁りに落ちる。何が二つか。一つはいつも愛欲を思うこと、二つは友や知人と交わるのを好むことである。修行者にはまた二つのことがあって執着する。何が二つか。自分の過ちがあっても悔い改めず、かえって他人の悪を思うことである。修行者にはまた二つのことがあって、地獄に落ちる。何が二つか。一つは経と道を誹謗すること、二つは戒を破ることである。修行者にはまた二つのことがある。何が二つか。一つは戒をことごとく犯すこと、二つは法の中で何も得られないことである。修行者にはまた二つのことがあって悔いる。何が二つか。一つは行うべきでないのに無理に袈裟を着ること、二つは自分が戒を守らず、戒を守る修行者にかえって仕えさせることである。修行者にはまた二つのことがあって病が治りにくい。何が二つか。一つは心が邪で乱れること、二つは菩薩の道を行う人を止めて断たせることである。」
佛語迦葉:「沙門何故正字沙門?有四事字為沙門。何等為四?一者形容被服像如沙門,二者外如沙門內懷媮𡣽,三者求索嘩名自貢高,四者行不犯真沙門也。何等為形容被服如沙門者?髠頭剔鬚,著袈裟持鉢,心不正不持戒,但欲作惡喜學外道,是為被服如沙門。何因外如沙門內懷媮𡣽者?安徐而行,安徐而出安徐而入,外道麁惡於山間草屋為廬,內無信著我著我所,中有因苦直信者反自嫉妬。何因為求索嘩名者?媮𡣽持戒令他人稱譽,媮𡣽學經令他人稱譽,媮𡣽僻處令人稱譽,不自剋責求度脫,但有媮𡣽。何等為行不犯真沙門?不惜壽命損身,何況索歸遺供養者。若有比丘守空行,常勸樂追,及悉見諸法淨潔本無瑕穢,自作黠明不從他人持黠明,於佛法亦不著,何況常著色,亦無結者亦無脫者,本無不見泥洹,亦無死生亦無泥洹,是為真沙門。」
仏は迦葉にこうおっしゃった。「沙門とは何か。なぜ『沙門』という文字を正しく使うのか。沙門と呼ばれるには四つの条件がある。何が四つか。
第一に、姿かたちや身なりが沙門に似ていること。第二に、外見は沙門のようでも、内面に欺きを抱いていること。第三に、名誉を求め、自らを高く誇ること。第四に、真の沙門として行いに違反しないことである。
姿かたちや身なりが沙門に似ているとは何か。頭を剃り髭をそり、袈裟を着て鉢を持ちながら、心が正しくなく戒を守らず、ただ悪を行おうとし、外道を好んで学ぶことである。これが身なりが沙門に似ているということである。
なぜ外見は沙門のようでも内面に欺きを抱くのか。ゆっくりと歩き、ゆっくりと出て、ゆっくりと入る。外道は山間の草葺きの小屋を住まいとし、粗野で悪い。内面には信仰がなく、我に執着し我のものに執着する。中には苦しみの中にあって素直に信じる者がいるのに、かえって自分から嫉妬するのである。
なぜ名誉を求めるのか。欺きながら戒を守り、他人に称賛させようとする。欺きながら経を学び、他人に称賛させようとする。欺きながら人里離れた場所にいて、人に称賛させようとする。自分を責めて解脱を求めることなく、ただ欺きがあるだけである。
行いに違反せず真の沙門であるとは何か。寿命を惜しまず身を損なうことさえする。ましてや帰依や供養を求めることがあろうか。もし比丘が空を守る行にあり、常に勧め励まし求め続け、すべての法が清らかで本来汚れがないことを見るならば、自ら賢明であり、他人から賢明さを受けることなく、仏法にも執着せず、ましてや常に色に執着することがあろうか。結縛される者もなく解脱する者もなく、もとより見ることもなく涅槃もなく、死も生もなく涅槃もない。これが真の沙門である。」
佛語迦葉:「至誠沙門常當作是念,當効真沙門,莫効嘩名諛訑沙門也。譬如貧人號名大富,但得富名無所有也。」
ブッダは迦葉にこうおっしゃいました。「誠実な修行者であるならば、いつもこう心に思うべきです。本物の修行者を見習いなさい。名ばかりで、へつらい、お世辞を言う修行者を見習ってはいけません。たとえば貧しい人が『大富豪』と呼ばれても、名だけのことで、何も持ってはいないのと同じです。」
佛語迦葉:「是人應得為有是字不?」
仏は迦葉に言われました。「この人は、この言葉を持つにふさわしいでしょうか。」
迦葉言:「不也。」
迦葉は言いました。「いいえ、そうではありません。」
佛言:「如是,迦葉!雖有沙門字,不行沙門法也,亦如貧人自稱大富。譬如人為水所沒溺反渴欲死,沙門如是多諷經,高才不去情欲,於情欲中渴欲死,坐入泥犁、禽獸、薜荔中。譬如醫滿一具器藥,不能自愈其病,雖多諷經而不持戒,譬如人病得王家藥,不自護坐死,雖多諷經而不持戒如是。譬如摩尼珠墮於屎中,雖多諷經而不持戒。譬如死人著金傅飾,不持戒反被袈裟,像如持戒沙門。譬如長者子服飾,著新衣著新傅飾,多諷經持戒好亦如是。」
仏がおっしゃいました。「そのとおりです、迦葉よ。沙門という名を持ちながら、沙門の法を行わない者がいます。それはちょうど、貧しい人が自分を大金持ちだと自称するようなものです。たとえば、水に溺れている人がかえって喉の渇きに死にそうになるように、沙門もまた、多くの経を唱え、才能に優れていても、情欲を捨てなければ、情欲の中で渇きに死にそうになり、地獄・畜生・餓鬼の世界に落ちます。たとえば、医者が一つの器に薬をいっぱいに満たしていても、自分の病気を治せないように、多くの経を唱えても戒を守らなければ同じです。たとえば、人が王の薬を得ても、自分を守らなければ死んでしまうように、多くの経を唱えても戒を守らなければ同じです。たとえば、摩尼珠が糞の中に落ちたように、多くの経を唱えても戒を守らなければ同じです。たとえば、死んだ人に金の飾りをつけても、戒を守らずに袈裟をまとうのは、戒を守る沙門のように見えるだけです。たとえば、長者の子が衣服を身につけ、新しい衣を着て新しい飾りをつけるように、多くの経を唱え戒を守る人は、それと同じように立派なのです。」
佛語迦葉:「有四事,不持戒像類持戒人。何等為四?一者若有比丘禁戒所說不犯缺也,雖有是有著呼有人;二者若比丘悉知律經,著行是我所行;三者若有比丘著我是我所;四者常行等心,等心於人著怖畏於死生;是為沙門不持戒名持戒。」
仏は迦葉に告げられました。「戒を守っているように見えて、実際には守っていない人がいる。それには四つの場合がある。何が四つか。
第一は、ある比丘が戒律に説かれたことを犯さず欠くこともないが、それにこだわって『自分は戒を守っている者だ』と思う場合。
第二は、ある比丘が律の経典をすべて知りながら、その修行にこだわって『これは私が行うべきことだ』と思う場合。
第三は、ある比丘が『私はこれである』『これは私のものである』ということにとらわれる場合。
第四は、常に平等な心で人に接しながらも、その平等な心にとらわれて、死を恐れ生を恐れる場合。
これらは、戒を守らない出家者が戒を守っていると名乗る場合である。」
佛語迦葉言:「禁戒無形不著三界,何因名為戒?無吾無我、無人無命、無意無名、無種無化無教、無有作者、無所來無所去、無制無滅、無身所犯無口所犯無心所犯、無世無計無世所住,亦無有戒亦不無戒,亦無所念亦無敗壞亦無坐立,是故為禁戒矣。」
仏は迦葉にこうおっしゃった。「戒律には形がなく、三界のどこにもとどまりません。それなのに、どうして『戒』と呼べるのでしょうか。そこには我もなく、自己もなく、人もなく、命もなく、意もなく、名もなく、種もなく、変化もなく、教えもなく、作る者もなく、来ることも去ることもなく、制することも滅することもなく、身で犯すこともなく、口で犯すこともなく、心で犯すこともなく、世もなく、計らいもなく、世にとどまることもありません。また戒があるのでもなく、戒がないのでもなく、念じることもなく、壊れることもなく、座ることも立つこともありません。それゆえに、これを戒律というのです。」
爾時佛說曰:「戒無瑕穢著也,戒者無𭧤無瞋恚,安定就泥洹,如是為持戒。不愛身亦不愛命,不樂於五道,悉曉了人於法,於佛法中是故為戒,適不在中邊止也,中邊不著不著不縛,譬空中風,是為持戒名及種無所止也。人定心無所著,無我想無人想,曉是者是為淨持戒也。不輕於禁戒不自貢高,常欲守道持戒,如是無有能過者。離我所想,自我及是我所,都無有是也,信於空及佛法行,不沾污於世、不著於世間,從冥入明適無所因,不著於三界,是為持戒。」
そのとき、仏はこう説かれた。「戒とは、汚れのない清らかなものである。戒とは、怒りや憎しみのないことであり、心が安らかに定まり、涅槃へと向かうことである。これが戒を守るということである。身体を愛さず、命も愛さず、五つの世界に楽しみを見いださず、人が法においてあることをよく理解し、仏法においてこれを戒とする。ちょうど中にも辺にもとどまらないように、中にも辺にも執着せず、とらわれない。それは空を吹く風のようなものである。これが戒を守るということであり、名も種もとどまるところがないのである。人は心を定めて、何にも執着せず、我という想いもなく、人という想いもない。これを理解する者こそ、清らかに戒を守る者である。戒めを軽んじず、自ら高ぶることもなく、常に道を守り戒を保とうとする。このような者に勝る者はない。我という想いを離れ、自我も我のものも、すべて存在しないと知る。空と仏法の行いを信じ、世を汚さず、世間に執着せず、暗闇から明るみへと至り、何にもよらず、三つの世界にも執着しない。これが戒を守るということである。」
時佛說是經法,二萬二千諸天人,及世間人民、諸龍鬼神,皆得須陀洹道,八百沙門皆得阿羅漢道。五百沙門素皆行守意得禪道,聞佛說深經皆不解不信,便從眾坐避易亡去。迦葉比丘白佛言:「是五百守禪比丘,聞深經不解不信摩訶而去。」
そのとき、仏がこの経の教えを説かれると、二万二千の天人たち、および世間の人々、竜や鬼神たちは、みな須陀洹の道を得た。八百の修行者たちはみな阿羅漢の道を得た。五百の修行者たちは、もともと心を守る修行によって禅の道を得ていたが、仏が深い経を説かれるのを聞いて、理解できず信じることもできず、その場を離れて立ち去ってしまった。迦葉という修行者が仏に申し上げた。「この五百人の禅を守る修行者たちは、深い経を聞いて理解も信もできずに去ってしまいました。」
佛語迦葉:「是五百守禪比丘信餘眾多,聞深法教不解不信。」
仏は迦葉に告げられた。「この五百の禅を守る比丘たちは信じているが、その他の多くは、深い法の教えを聞いても理解せず、信じない。」
佛語迦葉:「是五百比丘者,乃前迦葉佛時皆作婆羅門道,於迦葉佛所,一返聞經道心意樂喜,即時五百人自說言:『迦葉佛所說快。』乃爾五百人得是福祐,壽終皆生忉利天上。」佛言:「五百比丘得是福已,後於我法中作沙門,今聞深經不解不信。」
仏は迦葉に語られた。「この五百人の比丘は、過去の迦葉仏の時代には皆、バラモンの修行をしていた。迦葉仏のもとで、一度だけ経の教えを聞き、心に喜びを感じて、その場で五百人がこう言った。『迦葉仏の説かれた教えはすばらしい。』その功徳によって、五百人は福を受けて命を終え、皆、忉利天に生まれた。」仏は言われた。「五百人の比丘はその福を得た後、私の教えのもとで沙門となったが、今、深い経を聞いても理解せず、信じないのだ。」
佛語迦葉言:「是五百比丘持是所聞深經,得不墮惡道,於今世皆當得阿羅漢般泥洹去。」
仏は迦葉に言われた。「この五百人の比丘たちは、この深い教えを聞いて心に保ったので、悪い世界に堕ちることはない。彼らは現世でみな阿羅漢となり、涅槃に入るであろう。」
佛語須菩提言:「汝行教五百亡去比丘令來還。」
仏は須菩提に言われた。「あなたが行って、逃げ去った五百人の比丘たちに教え、戻って来るようにしなさい。」
須菩提白佛言:「是五百比丘尚不欲聞佛所說,何肯隨小羅漢語乎?」
須菩提が仏に申し上げました。「この五百人の比丘たちは、仏の説かれたことさえ聞こうとしないのに、ましてや下位の羅漢の言葉に従うはずがありましょうか。」
佛即時化作兩比丘,於五百比丘前徐行。五百比丘皆使行,及前兩比丘,五百比丘問前兩比丘言:「二賢者欲何至湊?」兩比丘報言:「欲到空閑山中安隱之處,自守坐禪不能復憂餘。」五百人復問言:「何以故?」兩比丘復報言:「佛所說深經,我不信不解也。」五百人復報言:「我亦欲入山止空閑之處,快坐禪,無人來嬈我,我曹亦復聞佛說經不信不樂也。」兩比丘復報言:「是事當共諦議不戲也,不爭者是為比丘法也。何因為泥洹身中,有我有神有命有人有意耶?當有至泥洹處者耶?」五百人報言:「是身亦無人亦無我亦無命亦無意亦無有,行至泥洹處者也。」兩比丘復報言:「何等盡,當得泥洹者?」五百人復報言:「盡婬盡怒盡癡,是為泥洹。」兩比丘復問言:「卿曹婬怒癡悉盡未?」五百人復報言:「亦無內亦無外也。」兩比丘復問言:「賢者!當莫著亦莫不著,雖不著莫不著,是為泥洹。禁戒不在死生,亦不在泥洹,智黠適等度脫見黠,亦不在死生,亦不在泥洹,是本法空無色,亦無所見,棄思想棄泥洹想,滅思想痛痒,得疾至所有法莫念,亦莫不念,滅思想痛痒,是為無所為。」
仏はそのとき、ただちに二人の比丘に姿を変え、五百人の比丘の前をゆっくりと歩かれた。五百人の比丘はみな歩き出し、先を行く二人の比丘に追いつくと、五百人の比丘が二人の比丘に尋ねた。「お二人の賢者よ、どちらへ向かわれるのですか。」二人の比丘は答えた。「静かな山の中の安らかな場所へ行き、身を守って坐禅に励み、もう他のことを心配するつもりはありません。」五百人がまた尋ねた。「なぜですか。」二人の比丘はまた答えた。「仏が説かれた深い教えを、私は信じることも理解することもできないからです。」五百人もまた答えた。「私たちも山に入り静かな場所に止まって、心ゆくまで坐禅をし、誰にも邪魔されないようにしたい。私たちもまた仏が経を説かれるのを聞いても、信じられず喜べないのです。」二人の比丘はまた答えた。「このことはよくよく共に話し合うべきで、ふざけてはなりません。争わないことが比丘の法なのです。なぜ、涅槃に入る身の中に、我があり神があり命があり人があり意があるのでしょうか。そこへ至る者があるのでしょうか。」五百人が答えた。「この身には人もなく我もなく命もなく意もなく、涅槃の境地に至る者もありません。」二人の比丘はまた尋ねた。「何が尽きれば、涅槃を得られるのですか。」五百人がまた答えた。「淫を尽くし怒りを尽くし痴を尽くすこと、これが涅槃です。」二人の比丘はまた尋ねた。「あなた方は淫と怒りと痴をすべて尽くしましたか。」五百人がまた答えた。「内にも外にもありません。」二人の比丘はまた尋ねた。「賢者よ、執着してもならず、執着しなくてもならず、執着しなくとも執着しないともしない、これが涅槃です。戒は生死にあるのでもなく、涅槃にあるのでもありません。智慧はちょうど等しく解脱し、見る智慧も、生死にあるのでもなく涅槃にあるのでもありません。これが本来の法で、空にして色もなく、見るものもありません。思いを捨て、涅槃の想いを捨て、想いと痛痒を滅すれば、すみやかにすべての法に至り、何も念じず、また念じないともしない。想いと痛痒を滅することが、無為なのです。」
爾時兩比丘說是經法,五百人皆得阿羅漢道,五百人屈還至佛所。須菩提問五百人言:「諸賢者去至何所?從何所來?」
その時、二人の比丘がこの経の教えを説くと、五百人はみな阿羅漢の道を得て、五百人は引き返して仏のもとへと向かいました。須菩提はその五百人に尋ねました。「賢者の皆さん、どちらへ行かれ、どちらから来られたのですか。」
五百人報言:「佛所說經,無所從來去亦無所至。」
五百人の人々がこう言いました。「仏が説かれた経は、どこから来たのでもなく、どこへ去るのでもありません。」
須菩提問五百人:「誰是汝師者?」
須菩提が五百人に尋ねました。「あなたがたの師は誰ですか?」
五百人報言:「本無有生,何因當有出?」
五百人は答えました。「もともと生まれることなどありませんのに、どうして出るということがありましょうか。」
須菩提復問:「誰為卿曹說經者?」
須菩提がまた尋ねました。「あなたがたに経を説いたのは誰ですか。」
五百人報言:「無五陰無四大無六衰,是為我師。」
五百人は答えました。「五陰もなく、四大もなく、六衰もない——それが私の師です。」
須菩提復問言:「師為汝說何等經?」
須菩提がまた尋ねました。「師はあなたにどんな経を説いたのですか。」
五百人復報言:「無縛亦無放。」
五百人はまた答えました。「縛ることもなく、放すこともない。」
須菩提問言:「本從何因緣守道乎?」
須菩提が尋ねました。「もともと、どのような因縁から道を守るのですか。」
五百人報言:「亦無守亦無有不守。」
五百人の人々が言いました。「守ることもなく、守らないこともありません。」
須菩提復問言:「所作為當如是?」
須菩提がまた尋ねました。「なすべきことは、このようであるべきでしょうか。」
五百人復報言:「亦無有當所作如是者。」
五百人もまた答えて言いました。「そのようにすべきことは、何もありません。」
須菩提復問言:「以為降伏魔耶?」
須菩提がまた尋ねました。「魔を降伏したのですか?」
五百人復報言:「無有五陰與魔也。」
五百人の人々がまた言いました。「五陰も魔も存在しません。」
須菩提復問言:「卿曹當何時般泥洹乎?」
須菩提がまた尋ねました。「あなたがたは、いつ涅槃に入るのですか?」
五百人復報言:「化人般泥洹者,我爾時亦當復般泥洹。」
五百人はまたこう答えました。「化身の人が般泥洹に入られたのなら、私たちもその時、同じように般泥洹に入りましょう。」
須菩提復問言:「誰愈卿者?」
須菩提がまた尋ねました。「誰があなたを癒したのですか?」
五百人復報言:「無身無心是我師也,當愈我。」
五百人はまた言いました。「身体も心もないのが私の師です。どうか私を癒してください。」
須菩提復問言:「卿曹愛欲盡未?」
須菩提はさらに尋ねました。「あなたがたの愛欲は、もうすっかり消えましたか。」
五百人復報言:「諸緣法本盡。」
五百人たちはまたこう言いました。「すべての縁の法は、もともと滅びているのです。」
須菩提復問言:「卿曹已住羅漢地耶?」
須菩提がまた尋ねました。「あなたがたは、すでに阿羅漢の境地に達しているのですか?」
五百人復報言:「亦無所取無所放。」
五百人の人々はまた答えました。「何も取るものもなく、何も放つものもないのです。」
須菩提復問言:「卿曹死生已斷耶?」
須菩提がまた尋ねました。「あなたがたは、生と死の繰り返しをすでに断ち切ったのですか?」
五百人復報言:「本斷亦無所見。」
五百人もまた答えて言った。「もともと断たれているので、見るものは何もありません。」
須菩提復問言:「卿曹住能於忍地耶?」
須菩提がまた尋ねました。「あなた方は、堪え忍ぶ境地にとどまることができていますか。」
五百人復報言:「一切已脫著中去。」
五百人の人々はまたこう答えました。「すべてはすでに脱ぎ捨てて、あの中へ行きました。」
時須菩提問事以所可報五百人。
そのとき、須菩提は、五百人の問いに答えられる方法をもって応じられた。
爾時百二十萬人,及諸天、鬼神、龍皆得須陀洹道,千三百比丘皆得阿羅漢道。佛說經已,比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷,諸天、世人、鬼神、龍皆歡喜,前為佛作禮而去。
そのとき、百二十万人と、多くの天(神々)、鬼神、竜たちは皆、須陀洹の道を得ました。千三百人の比丘は皆、阿羅漢の道を得ました。仏がこの経を説き終えると、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、多くの天、世の人々、鬼神、竜たちは皆、喜び、仏の前で礼をして去っていきました。
佛說遺日摩尼寶經
仏説遺日摩尼宝経