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  1. 止観大意竟 (止觀大意竟)
  1. 止観大意 (止觀大意)
  2. 止観大意竟 (止觀大意竟)

止観大意 (止觀大意)

「止觀大意」について

唐 · 湛然述 著

4,183 字 · 約 14 分

『止観大意』は、唐代の高僧・湛然によって著された重要な仏教典籍です。湛然は天台宗の九祖であり、唐朝中期に活躍し、天台宗における止観双修の核心的な教義を体系的に説きました。本書は、止観法門の要旨を簡潔明瞭に解説しており、止の修習方法、観の理論的基盤、そして止観を並行して実践する体系を含んでいます。天台宗の修行学習における重要な指針として、『止観大意』は智顗大師の教えの精髄を融合させ、後世の禅修に深遠な影響を与えました。この著作は、唐代仏教思想の成熟を示すだけでなく、中国仏教における止観実践に体系的な指針を提供し、天台宗の典籍の中で重要な位置を占め、中国仏教の禅修理論を研究する上で鍵となる文献の一つです。


止觀大意

止観大意

唐天台沙門釋湛然述

唐の天台の沙門、釋湛然が述べる

因員外李華欲知止觀大意略報綱要。

員外の李華が止観の大意を知りたいとのことで、その綱要を簡略に報じます。

略述教觀門戶大概。今家教門以龍樹為始祖。慧文但列內觀視聽而已。洎乎南嶽天台。復因法華三昧。發陀羅尼。開拓義門觀法周備。消釋諸經。皆以五重玄解十義。融通觀法。乃用五科方便十乘軌行。言五重者。一切經前五義玄釋。名通義異。以總冠別。謂釋名。出體。明宗。辨用。判教。自法華前諸教未合五重皆麁。來至法華名等俱妙。廣如玄文十卷委釋。言十義者。一先明道理寂絕亡離不可思議。於一寂理不分而分。離開諸諦。謂四四諦七二諦五三諦等。若開若合權實道理冷然可見。二能詮教門。綱格槃峙包括祕露。謂漸頓不定祕密藏通別圓。得此八意。一代聲教化道可知。三經論矛盾言義相乖。不可以情通。不可以博解。古來執諍連代不休。今用四悉檀意。無滯不融。拔擲自在。四者巧破執著。善用諸句破能著心。如所破惑單複具足。無言窮逐。五結正法門。對當行位使依教修有方便。依行證有階差。賢聖不濫。免增上慢。六隨以一句縱橫無礙。而綸緒次第宛然成章。七開章科段鉤銷相承。決疏文勢生起冠帶。八帖釋經文。須義順理當。九翻譯方言。令名義不壅。十一一句下理觀消通觀。與經合印心成行。非數他寶。若釋法華彌須曉了權實本迹。方可立行。此經獨得稱妙。方可依此以立觀意。言五方便及十乘軌行者。即圓頓止觀全依法華圓頓止觀。即法華三昧之異名耳。若欲修此圓頓三昧。具圓十乘方名圓行。方便品法文雖略。譬諭品大車諭足。

教えの見方や修行の道筋を、簡潔にまとめてみます。 今の天台宗の教えは、竜樹を祖と仰ぎます。慧文(えもん)師は、ただ内観に徹して、見聞きすることを静めるだけでした。 やがて南嶽慧思(なんがくえそう)師や天台智顗(ちぎ)師の時代になり、『法華経』の三昧によって陀羅尼(だらに)を成就し、教えの意味を広く開き、観法を整えられました。 諸経典を解説するのに、五重の玄義と十義を用いて、道理を融通させ、観法は五つの方便と十乗の軌範を用います。

「五重」とは、すべての経典を解説する前に、五つの意味を明らかにすることです。それらは、名称の解釈(釈名)、本体の提示(出体)、宗旨の明確化(明宗)、効用の判別(辨用)、教相の判定(判教)です。法華経以前の教えは、この五つが整わず、すべて粗雑でした。しかし法華経に至っては、名称も内容も共に妙なるものとなります。その詳細は、『法華玄義』十巻に述べられています。

「十義」とは、次の通りです。

一、まず理は寂静であり、言葉や思考を絶している、不可思議なものであると明かす。この寂静な理は、分けようもないのに、あえて分けて様々な真理の見方を示す。四種の四諦、七種の二諦、五種の三諦などである。これらを開いたり、合わせたりすることで、権(仮)と実の道理がはっきりと見えてくる。

二、教えを説く経典の体系は、網の目のように整い、秘された教えと表された教えがある。それは、漸教・頓教・不定教・秘密教、そして蔵教・通教・別教・円教である。この八つの意味を掴めば、釈尊一代の教えの道筋がわかる。

三、経典や論書の間には、矛盾して見え、言葉の意味が食い違う箇所がある。これは感情で通したり、知識だけで理解できるものではない。昔から論じ合いが絶えなかった。今は四悉檀(しいったん)の考え方を用いることで、滞ることなく融通し、自在に理解できるようになる。

四、執着を巧みに破る。様々な言葉を用いて、執着する心を打ち砕く。破るべき迷いが単純か複合か、それに応じて、言葉を尽くして追い詰める。

五、正しい教えの門をまとめる。修行の段階に対応させて、教えに従い修行するための方便を示し、修行の結果として悟りの階梯があることを明らかにする。聖者と凡夫の区別を明確にし、増上慢(おごり)を防ぐ。

六、一句一句が、縦横無尽に自在でありながら、順序立てて整然と章を成している。

七、章や段落を立て、そのつながりを明らかにする。注釈書の流れを決め、前後関係を整える。

八、経典の文を解釈するときは、意味が道理にかなっていることが大切である。

九、外国語を翻訳するときは、名称と内容が滞りなく対応するようにする。

十、一句一句の下に、理と観法を融通させて、経典と心を合わせ、そのまま実践できるようにする。他人の財産を数えるだけではいけない。

『法華経』を解説するなら、なおさら権(仮)と実、本(根本)と迹(応現)を理解してこそ、修行が成り立つ。この経典だけが「妙」と称されるにふさわしく、これに基づいて観法の意味を立てるのである。

「五方便」と「十乗軌範」とは、円頓止観のことであり、これは完全に『法華経』に依っている。円頓止観とは、『法華経』の三昧の別名である。この円頓三昧を修行しようと思うなら、十乗を円満に具えてこそ、円教の行いと言える。方便品の文章は簡略だが、譬喩品の大車の譬えで十分に示されている。

然止觀十卷大分為二。初之二卷略釋綱紀。後之八卷廣明行相。初略明中又開為五。謂發圓心。修圓行。感圓果。起八教歸三德。初發圓心在第一卷。謂約四弘四諦六即。以簡偏圓發心之相。四弘是能發之誓。四諦是所依之境。六即是所歷之位。誓若無境名為狂願。境不辨位凡聖不分。言依境發誓者。謂眾生無邊誓願度。依苦諦境。煩惱無數誓願斷。依集諦境。法門無盡誓願知。依道諦境。佛道無上誓願成依滅諦境。涅槃經中四諦開為四重。故使弘誓亦有四番。今簡偏從圓。以此圓四願融前三願。無非法界。故依法界起於妙願。初心遍攝觀惑法界。遍習佛法三身等證。已發圓心未知圓心。為初心是。為後心是。為初即後。為初異後。若初非後是。若初心異後。俱非圓融。故辨六即而判是非。謂理即。名字即。觀行即。相似即。分真即。究竟即。即故初後俱是。六故初後不濫。理同故即。事異故六。凡諸經中有即名者。如生死即涅槃之流。皆以六位甄之。使始終理同。而初後無濫。次修圓行等四文。並在第二卷中。初圓行者。謂四種三昧遍攝眾行。若無勝行勝果難階。一常坐出文殊問文殊說兩般若經。亦名一行三昧。唯專念法界故也。以九十日為一期。二常行出般舟三昧經。亦名佛立三昧。成時見十方佛在室中立。亦以九十日為一期。三半行半坐出法華方等二經。法華三七日為一期。方等不限時節。四非行非坐亦名隨自意。意起即觀故也。方法出請觀音等諸大乘經。通於四儀及諸作務公私忽遽。亦可修也。是四三昧行異理同。是故同用十乘之法。二感圓果者。由諸行故得入圓位。近在初住名無生忍。遠期妙覺名寂滅忍。初住功能具如華嚴歎初住文。即其相也。豈可造次自謂證真。乃至妙覺廣如經說。三起八教者。既入位已八相成道。現十界身。能隨順物機。用三藏等四及漸等四。五時利物。一代始終。四歸三德者。機緣息已宜歸三德。三德者何。謂祕密藏。故涅槃云。安置諸子祕密藏中。我亦不久自住其中。次第三卷去。廣釋行相。開演前五。令易行故。謂釋止觀名。辨止觀體。明體攝法。判法偏圓此四並在第三卷中。次為正修作前方便。並在第四卷中。謂二十五法。總為五科。初具五緣。一衣食具足。離希望緣故。二持戒清淨。離惡道因故。三閑居靜處。離憒鬧事故。四息諸緣務。棄猥雜業故。五須善知識有諮疑地故。文中各有事理二具。二訶五欲。謂色聲香味觸。正報依報各具此五。並能生於行者須欲心故。故須訶滅。文中自有事理二訶。三棄五蓋者。緣具無欲方堪入觀。觀未相應五法覆心。謂貪欲瞋恚睡眠掉悔狐疑。由觀所起倍異於常。損於寂照覺已須棄。文中各有事理二棄。四調五事者。蓋去不入。當是身等五法不調。謂身息心三定內合調。令身不寬急。心無澁滑心無浮沈。眠食二法定外各調。眠應不節不恣食。使不饑不飽。五行五法者。四科雖具必須此五方成行首。一樂欲。須希慕故。二專念。須憶持故。三精進。須相續故。四巧慧。須迴轉故。五一心。無他求故。具此方便。正觀可獲。正觀者何。所謂十法。若無此十。名壞驢車。又此十法雖俱圓常圓。人復有三根不等。上根唯一法。中根二或七。下根方具十。上根一法者。謂觀不思議境。境為所觀。觀為能觀。所觀者何。謂陰界入不出色心。色從心造全體是心。故經云。三界無別法。唯是一心作。此之能造具足諸法。若漏無漏非漏非無漏等。若因若果非因非果等。故經云。心佛及眾生。是三無差別。眾生理具諸佛已成。成之與理莫不性等。謂一一心中一切心。一一塵中一切塵。一一心中一切塵。一一塵中一切心。一一塵中一切剎。一切剎塵亦復然。諸法諸塵諸剎身。其體宛然無自性。無性本來隨物變。所以相入事恒分。故我身心剎塵遍。諸佛眾生亦復然一一身土體恒同。何妨心佛眾生異。異故分於染淨緣。緣體本空空不空。三諦三觀三非三。三一一三無所寄。諦觀名別體復同。是故能所二非二(三觀名義在纓絡等經。三諦名義在王仁等經)如是觀時名觀心性。隨緣不變故為性。不變隨緣故為心。故涅槃經云。能觀心性名為上定。上定者。名第一義。第一義者。名為佛性。佛性者。名毘盧遮那。此遮那性具三佛性。遮那遍故三佛亦遍。故知三佛唯一剎那。三佛遍故剎那則遍。如是觀者。名觀煩惱。名觀法身。此觀法身。是觀三身。是觀剎那。是觀海藏。是觀真如。是觀實相。是觀眾生。是觀己身。是觀虛空是觀中道。故此妙境為諸法本。故此妙觀是諸行源。如是方離偏小邪外。所以居在十法之首。上根一觀橫竪該攝。便識無相眾相宛然。即破無明登於初住。若內外凡。故諭云。其事高廣乃至道場。中根未曉。更修下法。二起慈悲心者。觀境不悟。須加發心。此人無始已起弘誓。故云。發僧那於始心。終大悲以赴難。僧那者。弘誓也。赴難者。入惡也。今由觀境不契於理。重須發誓。於靜心中思惟彼我。鯁痛自他。無量劫來沈迴生死。縱發小志迷菩提心。我今雖知行由未備。故重發誓言。眾生無邊誓願度。生死即涅槃故。煩惱無數誓願斷。煩惱即菩提故。法門無盡誓願知。即惑成智故。佛道無上誓願成即生成滅故。作此思惟豁然大悟。冥所照境入凡聖位。故諭云。張設幰蓋等。若不入者。由心不安。三安心者先總。次別。所言總者。以法界為所安。以寂照為能安。若知煩惱及以生死本性清淨。名之為寂。本性如空。名之為照。此煩惱生死復名法界。即此法界體用互顯。體是所安之法界。用是能安之寂照。體名平等法身。亦具三德。用名般若解脫。亦具三德。體用不二三德理均。氷水藤蛇諭意可識。所言別者。雖復安之。彌暗彌散。良由無始習性不同。故今順性逐而安之。謂宜聽宜思宜寂宜照。隨樂隨治隨第一義。何以故。有因寂照而善根增長。有不增長。有因寂照煩惑破壞。或有不破。見理亦然。或聞思迴轉。或聞思相資。未可卒具。細尋方曉。故諭云。安置丹枕。即車內枕也。若不入者。由破法不遍。四破法遍者。眾教諸門大各有四。乃至八萬四千不同。莫不並以無生為首。今且從初。於無生門遍破諸惑。復以無生度入餘門。縱橫俱破令識體遍。故喻云。其疾如風。此門最廣不可即具。若不入者。應尋通塞。五識通塞者。雖知生死煩惱為塞。菩提涅槃為通。復應須識。於通起塞此塞須破。於塞得通此通須護。如將為賊。此賊豈存。若賊為將。此將豈破。節節檢校。無令生著。著故名塞。破塞存通。非唯一轍有心皆爾。念念常須檢校通塞。故諭云。安置丹枕。即車外枕也。若不入者。由道品不均。六道品調適者。約門遍破。於理又昧。應須七科次第調試。若不爾者。此之道品為誰施設。以破遍門。雖觀陰境。陰上未分念處名故。況有六科。展轉調停。故用此門檢校銓擇。謂念處正勤如意根力七覺八道。初念處者。謂身受心法四法。並於法性心中。三諦推檢。初觀身者。身是色法。觀法性色一色一切色。一切色一色。雙照一一切。雙非一一切。能所三一具如前文妙境中說。受等三法例前可知。餘之六科不可具委。故諭云。有大白牛等。如上六門。名為正行。若不悟者。良由事惡助覆理善。七助道對治者。涅槃云。眾生煩惱非一種。佛說無量對治門。夫不信有對治之人。當知此人未曉正行。若識己身正行未辨。良由事惡助於理惡。共蔽理善令不現前。理善者。法界常住。事善者。事施等六。理惡者。微細無明。事惡者。謂六重蔽。由修止觀。此六現起。慳貪破戒瞋恚懈怠亂想愚癡。具此六惡而云內有勝法。或云常自相應。若相應者即同法身。應無方所說必稱機。若暫相應。復起惡者都無此理。則與成佛還作眾生為妨。若言曾契妨亦如之。若言知理不妨惡者。亦應知富免貧。知藥免病。事惡若去。理善易明。仍請聖加。助我顯理。若爾但觀惡即是道。豈有惡能蔽理。此義不然。若惡已成道道即法身。法身未契由即觀微故。先修事度以治事惡。事惡傾已理善可生。故修觀者。須以事惡檢。以六即判。理善明竟事惡必亡。須知理明位在何許。乃以小助大以偏助圓。況復更有轉治兼治具治第一義治等。非可卒盡。故諭云。又多僕從而侍衛之。若無僕從傾覆何疑。中根用觀極至於此。八知次位者。下根障重非唯正助不明。却生上慢謂己均佛。未得謂得。未證謂證。須知次位使朱紫不濫。夫小大真似非證不明。故三世諸佛皆明諸位。若未證得而謂證得。非唯失位却墮泥犁。故小乘經中四禪比丘謂為四果。大乘經中魔與菩薩授跋致記。若生取著必同魔屬。尚夫人天何關至道。故大小經論咸明次位。又說深位勝妙功德。引接始行令欣慕故。又有樂聞長遠之位。生增上信立難行行。破大煩惱見第一義。故諭云。遊於四方諭住等四。雖知次位不忍違順。須明安忍。九安忍者。圓頓行人初入外凡。外招名利內動宿障。宿障縱薄名利彌至。為眾圍繞廢損自行。因茲破敗。豈能進道。外人視之猶謂大聖。如樹抱蝎表似內虛。唯當自勉不為所動得入內凡。名為似位。若專住似位。名為法愛。十離法愛者。已得相似六根互用。已破兩惑永無墜苦。愛此似位。名為頂墮。不同小乘退為五逆。以內外凡位諸教別故。若修離愛進入銅輪。名為十住。分身百界一多相即。身土既爾。己他亦然。十身利生四土攝物。初住功德具如華嚴賢首品廣明。此上從第五卷初。盡第七卷末。明正修行。始從初心終至初住。從第八卷去。明觀陰後更發宿習。用觀觀習。若用上來十種觀法。未得入位。必發宿習。謂煩惱病患業相魔事。並在第八卷中。禪境在第九卷中。見境在第十卷中。餘有上慢兩教二乘三教菩薩。時逼夏終。故略不說。以前諸文可比知故。宿習若起不可不識。先若知之。恣其變怪。如此諸境發又不定。隨過去世若近若熟。此世現前。文中一往且從次第。凡有所起。但以寂照而止觀之。令等法界一相無相。無不皆用十乘觀法。初言煩惱發者。謂無始已來積集重惑。今因用觀。此惑過常不可控制。言病患者。由觀陰惑激動四大。識其元由。宜用何治。或內觀力。或術或醫。然後用觀。言業相者。有漏之業或已受報。不復更發。或未受報。於靜心中忽然俱發。發相雖多不出蔽度。各有六相。或因止生或因觀生。言魔事者。由觀諸境惑雖未破。天魔猶恐出境空其宮殿。化其民屬與共戰諍。故民主皆來。即四魔中天子魔也。乃至人間𢟋惕夜叉時媚等。鬼管屬天魔為其巡邏。防遏行者不許出界。故大品云。菩薩不說魔者。名菩薩旃陀羅。次禪發者。謂根本四禪特勝通明九想背捨乃至念佛神通等。禪隨近熟者。而發其相。相最難知。次諸見者。乃至百四十見。言上慢者。既伏見已。謂為深詣濫叨上位。是故須識。次二乘者。昔發小志由慈習生。次菩薩者。三藏通別三菩薩心由習而現。如上諸境。並須觀力而調伏之。並在本文。不可具抄。

『摩訶止観』全十巻は、大きく二つに分けられます。最初の二巻では大まかな要点を説き、後の八巻では実践の様相を詳しく明らかにします。

はじめに大まかに明らかにする部分は、さらに五つに分けられます。すなわち、円融な心を発すこと、円融な行を修すること、円融な果報を感ずること、八つの教えを起こすこと、そして三徳に帰することです。

第一に、円融な心を発すことは、第一巻で説かれます。これは、四つの弘誓、四つの真理、六つの位を用いて、偏った発心と円融な発心の違いを明らかにするものです。

四つの弘誓は発する誓いであり、四つの真理はよりどころとなる境であり、六即は経ていく位です。誓いに境がなければ、それは「狂願」と呼ばれます。境に位の区別がなければ、凡夫と聖人の区別がつきません。

「境に基づいて誓いを発する」とは、次のように説かれます。 * 「衆生無辺誓願度(迷いある生き物は限りなく多いが、必ず度す)」は、苦諦の境に基づきます。 * 「煩悩無数誓願断(煩悩は数え切れないが、必ず断つ)」は、集諦の境に基づきます。 * 「法門無尽誓願知(教えの法門は尽きることがないが、必ず学び知る)」は、道諦の境に基づきます。 * 「仏道無上誓願成(この上ない仏道を必ず成就する)」は、滅諦の境に基づきます。

『涅槃経』では、四つの真理がさらに四重に開かれるため、弘誓にも四つの段階があります。ここでは偏ったものを捨てて円融なものに従います。この円融な四つの誓願は、先の三つの誓願を融和し、すべてが法界そのものです。したがって、法界に基づいて妙なる誓いを起こします。初心の段階から、すべてを広く摂取し、煩悩や法界を観じ、あまねく仏法を学び、三身を等しく証得します。

しかし、円融な心を発したとはいえ、その心が初心であるのか、後心であるのか、初心がすなわち後心であるのか、初心が後心と異なるのかがまだわかりません。「初心は後心ではない」が正しいのか、「初心は後心と異なる」が正しいのか、いずれも円融ではありません。そこで、「六即」を明らかにして、その是非を判断します。すなわち、理即、名字即、観行即、相似即、分真即、究竟即です。

* **即**であるから、初心も後心も共に真理です。 * **六**であるから、初心と後心が混ざり合うことはありません。

理において同一であるから「即」であり、事において異なるから「六」なのです。経典の中で「即」という言葉があるもの、例えば「生死即涅槃」(生死がそのまま涅槃である)といった類は、すべてこの六位によって区別されます。これにより、終始、理は同じでありながら、初心と後心が混濁することはありません。

次に、円融な行を修することなど、四つの文はすべて第二巻にあります。

**円融な行を修する**とは、四種の三昧が一切の行を広く摂取することをいいます。優れた行がなければ、優れた結果に達することは難しいからです。

1. **常坐三昧**:『文殊説般若経』と『文殊問般若経』に基づきます。一つの行に専念する三昧とも呼ばれ、ただひたすら法界を念じます。期間は九十日間です。 2. **常行三昧**:『般舟三昧経』に基づきます。佛立三昧とも呼ばれ、成就すると十方の仏が室内に立っているのを見ます。期間は九十日間です。 3. **半行半坐三昧**:『法華経』と『方等経』に基づきます。『法華経』は二十一日を一期とし、『方等経』は期間を定めません。 4. **非行非坐三昧**:随自意三昧とも呼ばれ、心が動いたらすぐに観じることによります。方法は『請観音経』などの大乗経典に基づきます。行住坐臥の四種の動作や、公私にわたる忙しい業務の最中でも修することができます。

これら四種の三昧は、行は異なっても理は同じです。そのため、同じく十種の観法を用います。

**円融な果報を感ずる**とは、諸々の行によって円融な位に入ることです。近くは初住において無生法忍を得、遠くは妙覚において寂滅忍を得ます。初住の働きについては、『華厳経』で初住を讃える文に詳しく述べられています。決して軽々しく自己を真理を証得したと思うべきではありません。妙覚に至るまでは、経典にある通りです。

**八つの教えを起こす**とは、位に入った後、八つの相を示して成道し、十界の身を現じ、相手の機根に従って自在に、三蔵教などの四つの教えや、頓・漸などの四つの教えを用いて、五時の期間にわたって衆生を利益し、一代の教えを最初から最後まで導くことです。

**三徳に帰する**とは、衆生を教え導く縁が息んだならば、三徳に帰すべきです。三徳とは、すなわち秘密蔵のことです。『涅槃経』に「諸子を秘密蔵の中に安置せよ。我もまた久しからずして自らその中に住せん」と説かれています。

次に、第三巻以降では、詳しく行の相を解釈し、先に述べた五つの項目を開き演説して、修行を容易にします。

まず、第三巻で、「止観」の名を解釈し、「止観」の本体を弁別し、本体が法を摂することを明らかにし、法の偏りと円融を判断します。

次に、第四巻で、正しい修行のための準備段階を説きます。これは二十五の方便法門であり、大きく五つの科にまとめられます。

1. **五つの縁を具える** 1. 衣食が十分にあること(希望の縁を離れるため) 2. 戒律を清らかに保つこと(悪道の因を離れるため) 3. 閑静な場所に住むこと(騒がしいことを離れるため) 4. 諸々の世俗の雑務を休止すること(猥雑な業を捨てるため) 5. 善知識を得ること(疑問を相談できるため) 本文には、それぞれ事と理の二つの面から説かれています。

2. **五つの欲望を呵責する** 色・声・香・味・触の五境です。正報と依報のそれぞれにこの五つがあり、行者に欲望の心を生じさせます。それゆえ、呵責して滅ぼす必要があります。本文には、事と理の二つの呵責があります。

3. **五つの蓋を捨てる** 縁が整い、欲望がなければ、観に入ることができます。しかし、観がまだ相応しない時は、五つの法が心を覆います。すなわち、貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔(心の落ち着かなさと後悔)、疑いです。これらは観によって生じるため、通常よりも強く、寂照の心を損ないます。気づいたならば、捨てなければなりません。本文には、それぞれ事と理の二つの捨て方があります。

4. **五つの事を調える** 五つの蓋が去っても観に入れないのは、身・息・心などの五つの法が調っていないからです。定中の三法(身・息・心)は調えて、身はゆったりとし過ぎず緊張し過ぎず、心は澁滑(滑らかでない)ことなく浮沈(浮き沈み)がないようにします。定外の二法(眠りと食事)は、眠りは節度があり過ぎず、無理をしないように、食事は飢え過ぎず、飽き過ぎないように調えます。

5. **五つの法を行ずる** 前の四つの科が備わっても、この五つがなければ、修行の主とはなりません。 1. 楽欲(希求し慕うこと) 2. 専念(憶念し持つこと) 3. 精進(相続して絶やさないこと) 4. 巧慧(巧みに方向転換すること) 5. 一心(他のものを求めないこと) これらの方便が備わって、はじめて正しい観を得ることができます。

次に、第四巻の後半から第七巻の終わりまでが、正しい修行を明らかにする部分です。

**正しい観**とは何でしょうか。すなわち十種の観法です。この十種の観法がなければ、それは「壊れた驢馬の車」のようなものです。また、この十種の観法はすべて円融で常住の理に基づくものですが、修行者には上・中・下の三つの根機があります。上の根機は一法のみで足り、中の根機は二法または七法を必要とし、下の根機になってはじめて十法をすべて必要とします。

### 第一、観不思議境(上根のための一法)

観ずべき境は何か。それは五陰・十八界・十二入、つまりは色法と心法にほかなりません。色は心によって造られ、その全体が心です。経典に「三界には別の法はなく、ただ一心によって作られる」とある通りです。この能造の心は、諸法をことごとく具足しています。有漏・無漏・非有漏非無漏、因・果・非因非果などです。経典に「心と仏と衆生、この三つに差別はない」とある通りです。衆生は理として具えており、諸仏はすでに成就しています。成就したものも、理として具えているものも、その本性において平等です。

つまり、一つの心の中に一切の心があり、一つの塵の中に一切の塵があり、一つの心の中に一切の塵があり、一つの塵の中に一切の心があり、一つの塵の中に一切の世界(刹)があり、一切の世界の塵もまた同じようにあります。諸法、諸塵、諸刹、諸身、その本体は明らかに存在しながらも、自性はありません。自性がないからこそ、もともと物に従って変化します。だからこそ、相互に入り込み、事象は常に区別されるのです。

ゆえに、我が身心は世界や塵に遍満し、諸仏や衆生もまた同じです。一つ一つの身や土の体は常に同じでありながら、心・仏・衆生が異なることを妨げません。異なるがゆえに、染めと浄めの縁に分かれます。縁の本体はもとより空であり、空ならず(空・仮・中の三諦)。三つの観と三つの真理は、三でありながら三ではなく、三は一であり、一は三であり、寄るべきところはありません。真理と観は名は異なっても体は同じであり、だからこそ能観と所観は二ではなく、二つではないのです(三観の名義は『瓔珞経』などに依り、三諦の名義は『仁王経』などに依ります。)

このように観ずることを、「心性を観ずる」と言います。縁に従っても変わらないので「性」といい、変わらずに縁に従うので「心」といいます。『涅槃経』に「心性を観ずることを、上定と名づく。上定とは、第一義と名づく。第一義とは、仏性と名づく。仏性とは、毘盧遮那と名づく」とあります。この毘盧遮那の性は、三種の仏性を具えています。毘盧遮那が遍満するので、三つの仏もまた遍満します。ゆえに、三つの仏はただ一刹那の中にあると知るべきです。三つの仏が遍満するので、刹那もまた遍満します。

このように観ずることは、煩悩を観ずることであり、法身を観ずることです。この法身を観ずることは、三身を観ずることであり、一刹那を観ずること、功徳の宝庫(海蔵)を観ずること、真如を観ずること、実相を観ずること、衆生を観ずること、自分の身を観ずること、虚空を観ずること、中道を観ずることです。ゆえに、この妙なる境は諸法の根本であり、この妙なる観は諸行の源なのです。こうして初めて、偏ったもの、小乗、邪なもの、外道から離れることができます。だからこそ、十種の観法の筆頭に置かれるのです。

上の根機の人は、この一つの観法で横にも縦にもすべてを包括し、無相でありながら衆相が如実に現れることを悟り、無明を破って初住に入ります。内凡や外凡の位に至ります。たとえ話に「その事は高く広く(法を説くと聞く人の心が広く高まる)、ついには道場に至る」とあるのはこのことです。

### 第二、起慈悲心(中根のための第一)

上の根機のように観境を観じても悟りが開けないなら、さらに発心を加える必要があります。この人は無始の昔からすでに弘誓を起こしています。「始心に僧那(誓い)を発し、大悲をもって難に赴く」とはこのことです。「赴難」とは、悪道に入ることです。今、観境が理にかなわないので、改めて誓いを発する必要があります。静かな心の中で、自分と他人を思いやり、自他の苦しみを痛感します。「無量劫の間、生死に沈み輪廻してきた。たとえ小さな志を発しても、菩提心に迷ってきた。今、私は行を知ってはいるが、その実践はまだ十分ではない」と、再び誓いを発します。

* 衆生無辺誓願度、生死がすなわち涅槃だから。 * 煩悩無数誓願断、煩悩がすなわち菩提だから。 * 法門無尽誓願知、惑いを智慧に転ずるから。 * 仏道無上誓願成、生を滅に帰するから。

このように思いを巡らせて、はたと大悟し、観ずる境と冥合して、凡夫や聖者の位に入ります。たとえ話に「幰蓋(のぼりや天蓋)を張り巡らす」とあるのはこのことです。

これでも悟りが開けないのは、心が安らかでないからです。

### 第三、安心(中根のための第二)

「安心」には、まず総論と、次に各論があります。

**総論**:安らかにする所である法界を「所安」とし、安らかにする機能である寂照を「能安」とします。もし煩悩や生死が本来清浄であると知れば、それを「寂」と言います。本性が空のようなものであると知れば、それを「照」と言います。この煩悩や生死をまた「法界」と言います。この法界の体と用は互いに現れ合います。「体」は安らかにされる法界であり、また三徳を具えています。「用」は安らかにする寂照であり、これも三徳を具えています。体と用は二つではなく、三徳の理は均等です。氷(現象)と水(本体)や、縄(生死)と蛇(涅槃)のたとえは、この意味を理解させるためのものです。

**各論**:安らかにしようとしても、ますます暗くなり散乱するのは、無始以来の習慣性が異なるからです。そこで、今はその性質に従って、一つ一つ安らかにします。すなわち、聞くに適している人、思惟するに適している人、寂に適している人、照に適している人に応じて、その人の好み、対治すべき煩悩、第一義に従って行います。なぜなら、寂照によって善根が成長する人もいれば、成長しない人もいるからです。寂照によって煩悩や疑惑が破壊される人もいれば、破壊されない人もいます。真理を見るのも同様です。また、聞思が相互に転換する場合や、互いに助け合う場合があり、一概には言えません。詳細に尋ねればわかるでしょう。たとえ話に「丹枕を安置する」とあり、これは車内の枕を指します。

これでも悟りが開けないのは、破法が遍くないからです。

### 第四、破法遍(中根のための第三)

多くの教えや観門には、それぞれ四つの門があり、さらに八万四千もの違いがあります。しかし、いずれも「無生」を第一としています。今は手始めに、無生の門に従って、あまねく諸々の惑いを破ります。さらに、無生をもって他の門にも入っていきます。縦横無尽に破して、体の遍くことを認識させます。たとえ話に「その疾きこと風の如し」とあります。この門は非常に広いので、すぐには具にできません。

これで悟りが開けないなら、通塞を尋ねるべきです。

### 第五、識通塞(中根のための第四)

生死や煩悩が「塞」(さまたげ)であり、菩提や涅槃が「通」(とおる)であることを知っても、さらに、「通」に於いて「塞」が生じていること、この「塞」を破らねばならないこと、また「塞」に於いて「通」を得たなら、この「通」を守らねばならないことを認識しなければなりません。たとえば、敵兵を将軍と見なしてはならず、将軍を敵兵と見なしてはなりません。一つ一つの節を検証し、執着を生じさせないようにします。執着すれば、それを「塞」と言います。「塞」を破って「通」を保つことは、一つのやり方だけではありません。あらゆる心がすべてそうです。常に、一瞬一瞬、通と塞を検証しなければなりません。たとえ話に「丹枕を安置する」とあり、これは車外の枕を指します。

これでも悟りが開けないのは、道品が均整が取れていないからです。

### 第六、道品調適(中根のための第五)

門に従ってあまねく破っても、理に於いてまだ迷いがあるなら、七科の道品を順に調え試すべきです。そうでなければ、この道品は誰のために設けられたのでしょうか。破遍の門によって陰や境を観じても、その上で「念処」などの名称がまだ区別されていないからです。まして、六つの科がさらにあり、順を追って調えます。この門を用いて、選択し評価します。すなわち、四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道です。

まず、**四念処**とは、身・受・心・法の四つの法について、法性の心の中で三諦によって推し量り検証することです。

* **身を観ずる**:身は色法です。法性の色を観じると、一色が一切色であり、一切色が一色であり、一と一切を双照し、一と一切を双非(否定)します。能観・所観・その結果は、先の「観不思議境」で述べた通りです。 * **受・心・法の三つを観ずる**:身の例に準じて知ることができます。

残りの六つの科(四正勤など)は、詳細を尽くせません。たとえ話に「大白牛がいる」とあるのはこのことです。

以上の六つの門が、正しい行です。もし悟りが開けないなら、それは、悪い事柄(事悪)が良い理(理善)を覆い隠すのを助けているからです。

### 第七、助道対治(中根のための第六)

『涅槃経』に「衆生の煩悩は一種ではない。仏は無量の対治法門を説かれた」とあります。対治法を信じない人は、この人は正しい行をまだ理解していないと知るべきです。もし自分の修行がまだ成就していないと知れば、それは、事悪(悪い行為)が理悪(微細な無明)を助け、共に理善を覆い隠して現れないようにしているからです。

* **理善**:法界が常住であること。 * **事善**:布施などの六波羅蜜の実践。 * **理悪**:微細な無明。 * **事悪**:六つの重い覆い。すなわち、慳貪、破戒、瞋恚、懈怠、乱想、愚痴。

止観を修することによって、この六つの悪が現れます。「内に勝れた法がある」と言いながら、この六悪を具えている人がいます。「常に(真理と)相応している」と言いますが、もし真に相応しているなら法身と同じであり、説く所は必ず機根にかなっているはずです。もし一時的に相応した後、再び悪を起こすなら、そのような理はありません。それは、成仏した者が再び衆生になることを妨げることになります。「かつて真理に触れた」と言うことも、同じく妨げになります。「理を知っているなら、悪があっても差し支えない」と言うなら、それは「富を知っていれば貧乏を免れ、薬を知っていれば病気を免れる」と言うのと同じです。事悪を取り除けば、理善は明らかになりやすいのです。さらに、聖者の加護を請うて、理を現すのを助けてもらいます。

もしそうなら、「悪は即ち道なり」と観ずれば良いのであって、どうして悪が理を覆うことがありましょうか。この考えは誤っています。もし悪がすでに道となったなら、その道は法身です。法身に未だ契合しないのは、それを「即」と観ずることが微かだからです。まず、事としての六度を修めて、事悪を対治します。事悪が取り除かれれば、理善が生じやすくなります。したがって、観を修める者は、事悪をもって検証し、六即をもって判断しなければなりません。理善が明らかになれば、事悪は必ず消え去ります。理が明らかになった位がどこにあるかを知り、小をもって大を助け、偏をもって円を助けるのです。まして、転治、兼治、具治、第一義治など、さらに多くの対治法があります。すべてを尽くすことはできません。たとえ話に「多くの僕従がいて、守り守る」とあります。もし僕従がなければ、車が倒れないか心配です。

中根の人は、観を用いること、ここに至ります。

### 第八、知次位(下根のための第一)

下根の人は障りが重く、正行と助行が明らかでないだけでなく、かえって上慢(過った慢心)を生じて、自分は仏と等しいと思い込み、得ていないのに得たと思い、証得していないのに証得したと思うことがあります。位の区別を知って、混同しないようにしなければなりません。小乗・大乗、真実・相似の区別は、証得しなければ明らかになりません。過去・現在・未来の諸仏はみな、位を明らかにされています。もし証得していないのに証得したと言うなら、位を失うだけでなく、地獄に堕ちます。小乗経典の中で、四禅の比丘が四果(阿羅漢)と思い込んだ例や、大乗経典の中で、魔が菩薩に「不退転」の記別を与えた例があります。もし執着を生じれば、必ず魔の仲間となります。ましてや人天の果報すら、どうして至道に関わりがありましょうか。だからこそ、大小の経論はみな位を明らかにし、また深い位の優れた功徳を説いて、初心者を引き寄せて欣慕させるのです。また、長遠な位を聞くことを好む者がいて、より深い信を起こし、難行を行じ、大きな煩悩を破って第一義を見るのです。たとえ話に「四方に遊ぶ」とあり、位の四つの段階(住・行・向・地)を例えています。

### 第九、安忍(下根のための第二)

位を知っていても、順境・逆境を忍ばなければなりません。そこで、「安忍」を明らかにします。円頓の修行者は、初めて外凡に入ります。外からは名利を受け、内には過去の障りが動き出します。過去の障りが薄ければ、名利はなおさらやってきます。人々に囲まれて、自己の修行を損ない、これによって失敗します。どうして道を進められましょうか。他人はこれを見て、なお聖者のように思うでしょう。たとえば、木に蠍がまとわりついているようなもので、外は盛んに見えて内は空虚なのです。ただ自らを励まし、動かされないようにして、内凡に入るべきです。これを「相似位」と言います。

### 第十、離法愛(下根のための第三)

もし専ら相似位に留まるなら、これを「法愛」と言います。すでに相似位を得て、六根が互いに自在に用いられるようになり、すでに見惑と思惑の二つの惑を破り、もはや苦しみに堕ちることはありません。この相似位を愛すれば、「頂堕」と言います。これは小乗の五逆罪に退堕するのとは異なります。内外凡の位は、教えによって異なるからです。もしこの愛着を離れて、銅輪位(十住)に入れば、身を百世界に分け、一と多が相即します。身と土がそうであるように、自己と他者もまた同じです。十身をもって衆生を利益し、四土をもってものを受け入れます。初住の功徳は、『華厳経』の賢首品に詳しく述べられています。

以上が、第五巻の初めから第七巻の終わりまでで、正しい修行を明らかにした部分です。最初の心から初住に至るまでを説いています。

第八巻以降は、陰を観じた後、さらに過去世の習慣(宿習)が発現した場合に、観を用いてこの習慣を観じることを説きます。もし上に述べた十種の観法を用いても位に入れないなら、必ず宿習が発現します。すなわち、煩悩、病患、業相、魔事などで、これらは第八巻にあります。禅定の境は第九巻に、見惑の境は第十巻にあります。その他、上慢(增上慢)、二つの教え(蔵・通教)の二乗、三つの教え(別教)の菩薩については、時期が夏の安居の終わりに迫っていたため、略して説かれていません。以前の文から比べて知ることができるからです。

宿習が起こったなら、知らないではいられません。予め知っておけば、その変化や怪奇を自由にさせても大丈夫です。これらの境が発現するタイミングは一定ではなく、過去世における熟し方や近さに応じて、この世に現れます。本文では、仮に順序に従って説明します。何かが起こったなら、ただ寂(静かな智慧)と照(明らかな智慧)をもって止観し、法界と一つになり、一相無相と等しくするのです。すべて、十種の観法を用います。

* **煩悩が発現する**:無始から積み重ねてきた重い煩悩が、観を修めたために、異常なほどに強く現れ、制御できなくなること。 * **病が発現する**:陰や惑を観じたために、四大(地・水・火・風)が刺激されて起こる病。その原因を識別し、適切な治療法(内観の力、呪術、医術)を用いてから、観を修める。 * **業相が発現する**:有漏の業は、すでに報いを受けたなら再び発現しません。未だ報いを受けていない業は、静かな心中に忽然と発現します。発現の相は多くありますが、三毒(貪・瞋・痴)とその度合い(厚・薄など)の六種類に分類できます。止によって生じるものもあり、観によって生じるものもあります。 * **魔事が発現する**:諸境を観じて惑いはまだ破れていなくても、天魔は自分の宮殿が空になるのを恐れ、その民を教化して戦いを挑みます。そのため、魔王自身が来ます。これが四魔の中の「天子魔」です。さらに、人間に取り憑く夜叉や時節の精霊など、鬼の仲間は天魔の管轄下にあり、修行者が三界から出ないように監視しています。『大品般若経』に「魔を説かない菩薩は、菩薩旃陀羅(菩薩としての資格がない者)と呼ばれる」とあります。 * **禅定が発現する**:根本四禅、特勝、通明、九想、八背捨、さらには念仏や神通などの禅定。身近なものや熟したものに従って発現し、その相は最も知りにくいものです。 * **諸見(様々な誤った見解)が発現する**:百四十もの見解に至るまであります。 * **上慢**:諸見を抑えた後、それを深く悟ったと思い込み、位を誤って僭称すること。そのため認識する必要があります。 * **二乗**:過去に小さな志(二乗の心)を発したことによる習慣が、慈悲の心と共に発現する。 * **菩薩**:三蔵教、通教、別教の三種の菩薩の心が、習慣によって現れる。

以上の諸々の境は、すべて観の力によって調伏しなければなりません。詳細は本文にあるため、ここでは抄出できません。

故一家觀法入道次第稍異諸說。以附諸經成行相故。則內順觀道外扶教門。依而修行必不空過。縱此生未獲為種亦疆。意氣博達該括包籠。盡未來際。不復改輒。若依之修行。咸須口訣。方成一家行相。(湛然)所見暗短稟承無功。本文三百餘紙。略此多有不周。雖俛仰以赴嚴命。實恐失大師深旨。諸有不逮。敢望通恕云耳。

したがって、我が宗派における観法の修行の次第は、他の諸説とは多少異なっている。それは、諸経典に基づいて修行の相を完成させるからである。すなわち、内には観法の道に順い、外には教えの門を支える。これに従って修行すれば、必ずや無駄になることはない。たとえこの一生で悟りを得られなくとも、種をまくことは確実に強固なものとなる。その意義と気概は広く深く、一切を包括し包摂している。未来永劫にわたって、決して変わることはない。もしこれに従って修行するならば、すべて口伝(くでん)によらねばならず、これによって初めて我が宗派の修行の相が完成するのである。

(湛然(たんねん))は見識が浅く愚かであり、受け継いだ教えを成就する力もない。原典は三百枚余りに及ぶが、この書では多くを省略し、不十分なところがある。厳命に従って、敬いながらもこれを作成したが、実に大師の深い御意図を失ってしまっていないかと恐れる。様々に至らぬ点があろうが、どうか寛大に御理解いただけることを願ってやまない。

止觀大意(竟)

止観大意


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