サポート淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 鳩摩羅什法師の教え (鳩摩羅什法師大義)
  2. 中
  3. 問如法性真際并答
←と→
矢印キーでページをめくれます

鳩摩羅什法師の教え (鳩摩羅什法師大義)


次問如法性真際并答

法性と真際についての問答

遠問曰。經說法性。則云有佛無佛性住如故。說如。則明受決為如來。說真際。則言真際不受證。三說各異。義可聞乎。又問法性常住。為無耶為有耶。若無如虛空。則與有絕。不應言性住。若有而常住。則墮常見。若無而常住。則墮斷見。若不有不無。則必有異乎。有無者辨而結之。則覺愈深愈隱。想有無之際。可因緣而得也。

【日本語訳】

ある人が遠くから質問しました。「経典では、<法性>について『仏が存在しようとしまいと、その性質は常住不変である』と説き、<如>については『悟りを得て如来となること』を明かし、<真際>については『真際に対しては証得を執着しない』と述べています。この三つの説はそれぞれ異なっているが、その意味を伺ってもよろしいでしょうか。」

さらに次のように問いました。「<法性は常住である>と説かれますが、それは存在しないという意味でしょうか、それとも存在するという意味でしょうか。もしも存在しないのであれば、虚空のようなものであり、存在するものとはまったく別物になりますから、『性質は常住』とは言えないはずです。一方、もし存在してしかも常住であるならば、永遠不変の見解(常見)に陥ってしまいます。また、存在しないのに常住であるとすれば、断滅の見解(断見)に堕ちてしまいます。では、存在するとか存在しないとかのいずれでもないとするならば、それらとは異なる何かがあるのでしょうか。存在と非存在について議論して結論を出そうとすればするほど、かえって真理は深く隠れてしまいます。おそらく、存在と非存在の間にあるものは、縁(因縁)によって理解できるのではないでしょうか。」

什答曰。此三義。上無生忍中已明。又大智度論廣說五事。所謂斷一切語言道。滅一切心行。名為諸法實相。諸法實相者。假為如法性真際。此中非有非無。尚不可得。何況有無耶。以憶想分別者。各有有無之難耳。若隨佛法寂滅相者。則無戲論。若有無戲論。則離佛法。大智論中。種種因緣。破有破無。不應持所破之法為難也。若更答者。亦不異先義。若以異義相答。則非佛意。便與外道相似。今復略說。諸法相隨時為名。若如實得諸法性相者。一切義論所不能破。名為如。如其法相非心力所作也諸菩薩利根者。推求諸法如相。何故如是寂滅之相。不可取不可捨。即知諸法如相性自爾故。如地堅性水濕性火熱性風動性。火炎上為事。水流下為事。風傍行為事。如是諸法性性自爾。是名法性也。更不求勝事。爾時心定。盡其邊極。是名真際。是故其本是一義。名為三如。道法是一。分別上中下。故名為三乘。初為如。中為法性。後為真際。真際為上。法性為中。如為下。隨觀力故。而有差別。又天竺語音相近者以為名。是故說知諸法如。名為如來。如正遍知一切法故名為佛。又小乘經中亦說。如法性。如離阿含中。一比丘問佛世尊。是十二因緣法。為佛所作。為餘人所作。佛言。比丘。是十二因緣。非我所作。亦非彼所作。若有佛若無佛。諸法如法性。法性常住世間。所謂是法有故是法有。是法生故生。無明因緣識。乃至生因緣老死因緣諸苦惱。若無明滅故行滅。乃至老死滅故。諸苦惱滅。但佛為人演說顯示。如日顯照萬物長短好醜。非日所作也。如是聲聞經說。世間常有生死法。無時不有。是名有佛無佛相常住。真際義者。唯大乘法中說。以法性無量。如大海水。諸聖賢隨其智力所得。二乘人智力劣故。不能深入法性。便取其證。證知如實之法微妙理極。深厭有為。決定以此為真。無復勝也。而諸菩薩。有大智力。深入法性。不隨至為證。雖放深入。亦更無異事。如飲大海者。多少有異。更無別事。又諸菩薩。其乘順忍中。未得無生法忍。觀諸法實相。爾時名為如。若得無生法忍已。深觀如故。是時變名法性。若坐道場。證於法性。法性變名真際。若未證真際。雖入法性。故名為菩薩。未有聖果。乃至道場。諸佛以一切智無量法性故。爾爾乃出菩薩道。以論佛道也。

鳩摩羅什師が答えました。「これらの三つの意味については、上の『無生法忍』の解説の中ですでに明らかにしています。また、『大智度論』には五つの事柄について詳しく説かれています。すなわち、『一切の言語の道を断ち、一切の心の働きを滅する』こと、これを『諸法実相』と名づけます。諸法実相とは、仮に『如』『法性』『真際』とも呼ばれます。この中には『有』も『無』もなく、それすらも得ることができないのに、ましてや『有』と『無』という対立があろうはずがありません。なぜなら、憶念や妄想によって分別する人々は、それぞれ『有』か『無』かの難問を抱えてしまうからです。もし仏法の『寂滅相』に従うならば、戯論はありません。もし『有』『無』の戯論があるならば、それは仏法から離れています。『大智論』の中では、様々な因縁によって『有』を破り、『無』を破っています。ですから、破られたはずの『有』や『無』という概念を持ち出して、問い詰めるべきではないのです。もし改めて答えを求められても、先に述べた意味と異なることはありません。もし異なる意味で答えれば、それは仏の意図に沿わず、外道と同じになってしまいます。今、簡単に申し上げます。諸法の相は、時に応じて名づけられます。もし如実に諸法の性と相を得たならば、一切の議論や論義によっても破ることのできないもの、それを『如』と名づけます。それは、諸法の相が、心や識の作用によって作られたものではないからです。諸菩薩のうち利根の者は、諸法の『如相』を推し求めます。なぜこのように寂滅した相は、取ることも捨てることもできないのか。すると、諸法の如相は、その性質が元々そうであることを知ります。例えば、地の堅い性質、水の湿った性質、火の熱い性質、風の動く性質、炎が上に向かうこと、水が下へ流れること、風が横へ動くことなどと同じです。このように諸法の性質は、その性質自体がそのようである。これを『法性』と名づけます。さらにそれ以上の優れた事柄を求めず、その時、心は定まり、その極みにまで達する。これを『真際』と名づけます。ですから、その根本は一つの意味であり、それを三つに名づけて『如』『法性』『真際』とするのです。道の法は一つですが、上・中・下に分けて説かれるので、『三乗』と名づけられます。初めを『如』、中を『法性』、後を『真際』とし、真際を上とし、法性を中とし、如を下とします。観じる力の違いによって、このような差別があるのです。また、天竺の言葉では、音の近いものを同じ名称とすることがあります。ですから、諸法の如を知る者を『如来』と言い、如を正しく遍く一切の法を知るがゆえに『仏』と言います。また、小乗の経典にも『如』『法性』のことが説かれています。例えば、『阿含経』の中である比丘が仏世尊に問いました。『この十二因縁の法は、仏が作られたものですか?それとも他の人が作られたものですか?』仏は答えられました。『比丘よ、この十二因縁は、私が作ったものではなく、他の誰かが作ったものでもない。仏が出現しようとしまいと、諸法は如であり、法性である。法性は世間に常住する。すなわち、この法があるから、かの法がある。この法が生じるから、かの法が生じる。無明を因縁として行が生じ、……乃至、生を因縁として老死が生じ、老死を因縁として諸々の苦悩が生じる。また、無明が滅するから行が滅し、……乃至、老死が滅するから諸々の苦悩が滅する。ただ、仏は人のためにこれを説き示すのである。例えれば、太陽が万物の長短・美醜を照らし出すが、それを作り出しているわけではないのと同じである。』このように声聞経典では、世の中には常に生死の法が存在し、時に無いことはないと説かれています。これこそ『仏が出現しようとしまいと、相は常住である』と言われるゆえんです。『真際』の意味については、大乗の法の中でのみ説かれています。なぜなら、法性は限りがなく、大海の水のようであり、諸々の聖賢はそれぞれの智慧の力に従ってそれを得るからです。二乗の者たちは智慧の力が劣っているため、法性に深く入ることができません。そこで、証を得るに留まります。彼らは、如実の法は微細で道理の極みであり、有為の世界を深く厭離し、これこそが真実であり、これに勝るものはないと決めてしまっています。しかし諸々の菩薩は、大きな智慧の力を持って、法性に深く入り込みますが、そこに至って証とすることはしません。深く入り込んでも、そこに別の事柄があるわけではありません。例えば、大海の水を飲む時に、飲む量の多少の違いはあっても、水そのものに別のものがあるわけではないのと同じです。また、諸々の菩薩は、その乗の順忍の中にあり、まだ無生法忍を得ていません。諸法実相を観るとき、それを『如』と名づけます。もし無生法忍を得た後は、『如』をさらに深く観じるので、その時は名称が変わって『法性』となります。もし道場に坐して法性を証すれば、法性は名称を変えて『真際』となります。もし真際を証していなければ、法性に入っているとはいえ、菩薩と名づけられ、未だ聖果はありません。道場に至るまで、諸仏は一切智と無量の法性によって、その時に初めて菩薩の道から出て、仏道について論じるのです。」

鳩摩羅什法師大義卷中

鳩摩羅什法師大義 巻中


問四相并答
問實法有并答

CBETA コード: T1856

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません