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title: "山家義苑 · 辨岳師三千書"
description: "山家義苑由宋代天台宗高僧可觀述其弟子智增證義是天台山家派的重要論著全書分上下卷以問答體闡釋天台教觀精義包括十不二門指要鈔等內容系統辯護山家正統思想駁斥山外派異解對宋代天台宗復興和教義純正性維護具有關鍵影響是研究宋代佛教思想史和天台宗哲學的權威典籍。"
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### 辨岳師三千書

岳師三千書斥四明云大師一生所悟法門不出三千世間之謂也故指要二卷凡四十二紙有一百五十餘處言乎三千熟觀岳師如此品藻蓋欲貶抑不意褒揚何也四明以三千為所悟法門正祖承摩訶止觀不思議境一念三千全是天台己心所行以十界十如三種世間因果諸法無非三諦互具互融即百界千如成三千世間一世間即三千世間何妨三千名為世間三千世間差即無差無差即差一體相即何以故法法無非三諦故豈可聞世間之名便乃怖畏今試問之若執世間是差別法既而差別只應成十界百如何得成百界千如耶必須十界因果差別當處全體無非三諦一一互具互融故成三千名不思議境山家教門圓三諦者不一不異只一體故故差與無差不可定分對也此義易解但學者不得其門而入之遂疑之為難解指要所解十不二明所明十妙所詮因果自他之法指歸摩訶止觀一念三千故云一期縱橫不出一念三千世間即空假中荊谿明文點示十門法法三千何恠指要四十二紙有一百五十餘處言乎三千正是四明深領荊溪之意故能作此鈔也四明處處點示三千如處琁璣以觀大運據會要以觀方來也。

> 岳師は三千書を以て四明を批判して言う、「大師一生の悟る所の法門、三千世間の謂いに過ぎず。故に指要二巻、凡そ四十二紙、一百五十余箇所に三千を言う。熟観すれば岳師の此の如き品藻、蓋し貶抑せんと欲するも、意に反して褒揚となる。何となれば四明は三千を以て所悟の法門と為す、正に摩訶止観の不思議境・一念三千を祖承し、全是天台己心の行ずる所。十界・十如・三種世間の因果諸法、無非三諦互具互融、即ち百界千如と成って三千世間を成す。一世間即ち三千世間、何ぞ三千の名を世間と為すを妨げん。三千世間、差即無差、無差即差、一体相即。何を以ての故に、法法無非三諦なるが故に。豈に世間の名を聞きて便ち怖畏を生ぜんや。今試みに問う、もし世間を差別の法と執せば、既に差別なれば只だ十界百如を成すのみ、如何にして百界千如を成すを得ん。必ず十界因果の差別、当処全体無非三諦、一一互具互融するが故に三千と成り、不思議境と名づく。山家の教門、円三諦は不一不異、只一体なるが故に、差と無差とを定対分すべからず。此の義解き易しと雖も、学者其の門に入るを得ずして、遂に解き難しと疑う。指要の解く所の十不二・明る所の十妙・詮ずる所の因果自他之法、摩訶止観の一念三千に指帰す。故に云く、一期縦横、一念三千世間を出でず、即ち空仮中。荊谿の明文、十門を点示し、法法三千。何ぞ指要の四十二紙に一百五十余箇所三千を言うを怪しまん。正是四明深く荊溪の意を領するが故に、此の鈔を作ることを得るなり。四明処処に三千を点示すること、琁璣を以て大運を観るが如く、会要に拠りて方来を観るが如し。」

書曰以見輔行云止觀正明觀法並以三千而為指南便認實相須存三千而不知是心性所具俗諦之法良由法華開權顯實意在於權故不談三千開權不周不觀三千照境不徧必須徧覽因果自他依正觀於己心指南之意正在此耳。

> 書に曰く、『輔行』に見えるところによれば、『止観』は観法を正しく明らかにし、いずれも三千をもって指南とする。實相を認めるには、三千を存すべしとしながら、これが心性の具える俗諦の法であることを知らない。そもそも『法華経』が権を開いて実を顕すのは、その意図が権にあるからであり、ゆえに三千を語らないのである。権を開いても周（あまね）くなければならず、三千を観じなければ、境を照らしても遍（あまね）くないのである。必ず因果や自他、依正をあまねく観覧し、己が心に観じなければならない。指南の意はまさにここにあるのである。

辨曰今謂指南者言其要也三千同一性故唯一法唯一法故具一念三千妙境又出法華摩訶止觀正宗法華權實正體正明觀法乃以此為終窮究竟至極之說若云為欲徧攬因果自他依正觀於己心為指南者斯乃迷方指南何在每歡岳師孤負宗教欺囚後賢一至於此又執三千是心性所具俗諦之法者俗諦是事造三千事造三千即理造三千事理一體即義方成具在一心誰分事理大都岳師於即字之義不明故作此僻解本無他也予又甞與學者語嶽師聦明傑出之士自非顯教豈應作此僻解夫何斷送三千是心性所具俗諦一邊人到于今有乖謬者尚或傳為口實以謂天台宗教三千三諦須作此說理無事有全同別教又如義編消亡泯三千云亡者無也泯者滅也此約字訓何足言也請執卷者研詳圓頓教旨凡言無者無於何法滅者豈斷滅之滅乃寂滅之滅亦寂二邊偏見而見中道何得滅三千法使空無一物而始謂之空耶一念三千離諸見已任運三諦事理一體豈應僻解理無事有四明觀心雖已明矣而必須符契祖文三千即空三千即假三千即中又三千並常俱體俱用修性體用法法三千斯乃圓詮諸法其妙如此是故四明除無明有差別顯六即𧏙虵示四土金寶中興天台今古絕唱。

> さて、「指南」とは、その要旨を指し示すものである。三千の諸法は同一の本性を持つゆえに、ただ一つの法があるのみである。ただ一つの法があるがゆえに、一念三千の妙境を具えるのである。この教えは、『法華経』と『摩訶止観』に出自を持つ。法華の権実という正体が、観法を明確に示すところにあり、これを最終的かつ究極の説としているのである。 もしも「因果・自他・依正をすべてわが心に観じて、これを指南と為す」というのであれば、それは方角を見失ったものであり、指南の意味をなさない。常に思うに、岳師（源清）は宗祖の教えに背き、後の賢者を欺いたこと、このような点に至っている。「三千は心性に具わる俗諦の法である」と執するのは、俗諦とは事造の三千である。事造の三千は、すなわち理造の三千である。事と理は一体であり、ここに義が成立する。一心に具わるものを、どうして事と理に分けることができようか。おおかた、岳師は「即」の字の義を明らかにしなかったため、このような偏った解釈を生んだのである。他に理由はない。 私はかつて学者たちと語り合ったことがある。岳師は聡明で傑出した人物である。もし顕教によるのでなければ、どうしてこのような曲解を為すはずがあろうか。ところが、三千を心性に具わる俗諦の法と断じたことにより、今日に至るまで誤った解釈が伝えられ、あるいは口実として語り継がれている。「天台の宗教では、三千と三諦はこのように説くべきであり、理には無く事には有るというのは、別教と全く同じである」と。また『義編』には「消亡」とあり、「亡」は無、「泯」は滅であると説くが、これは字義の解釈に過ぎず、論ずるに足りない。どうか経典を手に取る者は、円頓の教旨をよく研究してほしい。仏教で「無」と言うのは、何の法について無とするのか。「滅」とは断滅の滅ではなく、寂滅の滅である。二辺の偏見を寂滅させて中道を見るのである。どうして三千の法を滅して、何もない状態を空と称することができようか。一念三千は、あらゆる見解を離れて、自然に三諦がそなわる。事と理は一体であり、どうして「理には無く事には有る」という偏った解釈を許すことができようか。 四明（知礼）の観心の教えはすでに明らかであるが、必ず祖師の文に符合しなければならない。すなわち、「三千は即ち空、三千は即ち仮、三千は即ち中」であり、また「三千は並びに常にして、俱に体、俱に用なり。修性一体、法法三千」である。これこそ、円教による諸法の解釈の妙なる所以である。それゆえ四明は、無明を除き、差別を明らかにして、六即を顕し、四土を示した。その教えは、ちょうど金宝を虫が照らし出すように、天台を中興させた。古今を通じて絶唱である。

書曰殊不了三千是所立之法將所立之法作無住之本璿師所破除無明有差別但有具義而無即義以不說差別法即一真故誠哉是言也。

辨曰原夫四明建立無住之本有三千法者以無住之本具所立之法所立之法即無住之本故豈不聞良由理具方有事用所以事用一一即理凡言即者全體而是不可作二法相合而說此義已如指要據文明白點示不勞繁引然岳師取璿師所破四明但有具義而無即義者噫岳師登四明之門一紀殊不知即具不可異途當知一法對諸法示本有體德故談具也二法相對示本妙體同故談即也除無明有差別即具之義已兩全矣圓教點諸法是差別者義如法華開權此權任運已自與實同體而妙也如淨名云但除其病而不除法豈可不信。

> そもそも、四明大師が「無住の本に三千の法あり」と建立されたのは、「無住の本」が「所立の法」を具えているからであり、「所立の法」こそが「無住の本」に他ならないからである。ゆえに、「理が具わるからこそ事が用いられるのであり、事の用いられる一つ一つがそのまま理である」という道理を聞かずにいられようか。一般に「即」というのは、全体がそのままであることを指し、二つの法が合わさったものと解釈してはならない。この意味はすでに『指要鈔』において、文に基づいて明らかに示されているので、今さら詳しく引用するには及ばない。 ところが、岳師は璿師が破った「四明には『具』の義はあっても『即』の義はない」という説を採用した。ああ、岳師は四明の門下に十二年も学びながら、「即」と「具」が別の道ではないことをまったく知らなかったのである。知るべきは、一つの法を諸法に対して示すとき、本来備わっている体の徳を示すので「具」と言い、二つの法を相対して示すとき、本来微妙な体の同一性を示すので「即」と言うのである。無明を除くことには差別があるが、「即」と「具」の義はすでに両方とも完全に備わっているのである。 円教が諸法の差別を指し示すのは、法華経の開権の義と同じである。この権は自然に、すでに実と同体であり、そのまま妙なのである。『維摩経』に「ただその病を除くべくして、その法を除くことなかれ」とあるが、これを信じず

書曰妙樂云鏡明性十界像生修十界應知此有兩重無住本立法之義一則約性自辨鏡喻實相即無住本也明喻十界即所立法也一則修性對辨鏡明合為無住本像生十界即所立之法故十界之法在修在性皆是末事今有稟指要鈔者謂三千皆實相相宛然修性本末二俱有相仍謂鏡喻未親一何妄想。

> 妙楽大師の『金錍論』には、「鏡は明るく、その性には10の世界が映し出され、修行と真理によって10の世界が生じる」と説かれています。ここには2つの捉え方があると知るべきです。「無住を本として法を立てる」という意味について、第一に、真理の側から自然に明らかにする見方です。「鏡」という比喩は実相を示し、それが「無住を本とする」ことです。「明るさ」という比喩は10の世界を示し、それが「立てられた法」です。第二に、修行と真理を対比して明らかにする見方です。「鏡」と「明るさ」を合わせて「無住を本とする」とし、そこから生まれる「像」と10の世界こそが「立てられた法」となります。したがって、10の世界の法は、修行の側にあろうと真理の側にあろうと、すべて「末端の事柄」にすぎません。『指要鈔』を依用する

辨曰今謂全指實相以為鏡明不妨云鏡明本無十界以對像故故有十界性本無相以即脩故故性有相性雖云無乃無染礫以即脩故相相宛然四明所以本末俱有相者修性一體體相即故以此之法取鏡為喻其喻泯齊何也脩性二俱有相既約一體相即而說當知鏡喻須取同時明像同時脩性一體雖像非明而不現明非像而無相此屬異時圓頓教旨不取異時若取異時非今所用然此喻非獨岳師不曉只四明宗下多云難會。

> 私は言います。今、全指実相を鏡明としているのは、「鏡明には本来十界はないが、対象である像があるために十界がある」ということを妨げるものではありません。性には本来相はありませんが、修に即しているからこそ、性に相があるのです。性は「無」と言っても、それは汚れや礫がないということであり、修に即しているからこそ、相・相がはっきりと現れています。四明が「本末ともに相有り」と言うのは、修と性が一体であり、体と相が即しているからです。この法を鏡の喩えで取ると、その喩えはぴったりと合います。なぜでしょうか。修と性の二つは共に相があるからです。一体であり、相が即しているという説に基づいている以上、鏡の喩えは同時に明と像があることを取らねばなりません。修と性は一体であり、像は明がなければ現れず、明は像がなければ相がありません。これは異時のものに属しますが、円頓の教えの宗旨は異時を取りません。もし異時を取れば、これは今用いるものではありません。しかし、この喩えは岳師だけが理解しないのではなく、四明の宗下でも「会し難し」と言う人が多いのです。

書曰須解自行唯在空中化他三千赴物智者云第一義中一法不可得況三千法世諦中一心尚具無量法況三千耶荊谿云三千世間皆名共道不離空中方名佛道如是明文甚好研詳。

辨曰四明嶽師各據數文後學不決恣情取舍越百餘年尚勞分辨嶽師專守如上二文可以盡見𮌎中不明諸一乘經凡言不可得者為何等語學者應知是遣著語豈同灰斷滅色入空荊谿以經非道是三千者乃點化法九界三道即佛界三德一一互具互融成三千法三千世間皆名非道點即具也不知岳師欲以三千置之何地豈有空中之外自成三千猶待即空中耶諸文凡言三千即空即中者點事理一體相即也三千即空假中者點境觀一體相即也詳夫岳師見解拆圓三諦分對有無初學一往易曉便於四明之學或歎為歎或謗為非縱專守如上二文且三千即空三千即假三千即中又三千並常俱體俱用之文直如何消予於山家一念三千苦心四明之學二十餘年矣茲因山居讀岳師與廣智書又見廣智答書迃而且疎輙為略辯大體而已岳師更有所涉文義若得大體不勞餘刀與我同志者幸詳覽焉。

## 山家義菀卷上