岳師は三千書を以て四明を批判して言う、「大師一生の悟る所の法門、三千世間の謂いに過ぎず。故に指要二巻、凡そ四十二紙、一百五十余箇所に三千を言う。熟観すれば岳師の此の如き品藻、蓋し貶抑せんと欲するも、意に反して褒揚となる。何となれば四明は三千を以て所悟の法門と為す、正に摩訶止観の不思議境・一念三千を祖承し、全是天台己心の行ずる所。十界・十如・三種世間の因果諸法、無非三諦互具互融、即ち百界千如と成って三千世間を成す。一世間即ち三千世間、何ぞ三千の名を世間と為すを妨げん。三千世間、差即無差、無差即差、一体相即。何を以ての故に、法法無非三諦なるが故に。豈に世間の名を聞きて便ち怖畏を生ぜんや。今試みに問う、もし世間を差別の法と執せば、既に差別なれば只だ十界百如を成すのみ、如何にして百界千如を成すを得ん。必ず十界因果の差別、当処全体無非三諦、一一互具互融するが故に三千と成り、不思議境と名づく。山家の教門、円三諦は不一不異、只一体なるが故に、差と無差とを定対分すべからず。此の義解き易しと雖も、学者其の門に入るを得ずして、遂に解き難しと疑う。指要の解く所の十不二・明る所の十妙・詮ずる所の因果自他之法、摩訶止観の一念三千に指帰す。故に云く、一期縦横、一念三千世間を出でず、即ち空仮中。荊谿の明文、十門を点示し、法法三千。何ぞ指要の四十二紙に一百五十余箇所三千を言うを怪しまん。正是四明深く荊溪の意を領するが故に、此の鈔を作ることを得るなり。四明処処に三千を点示すること、琁璣を以て大運を観るが如く、会要に拠りて方来を観るが如し。」
書に曰く、『輔行』に見えるところによれば、『止観』は観法を正しく明らかにし、いずれも三千をもって指南とする。實相を認めるには、三千を存すべしとしながら、これが心性の具える俗諦の法であることを知らない。そもそも『法華経』が権を開いて実を顕すのは、その意図が権にあるからであり、ゆえに三千を語らないのである。権を開いても周(あまね)くなければならず、三千を観じなければ、境を照らしても遍(あまね)くないのである。必ず因果や自他、依正をあまねく観覧し、己が心に観じなければならない。指南の意はまさにここにあるのである。
さて、「指南」とは、その要旨を指し示すものである。三千の諸法は同一の本性を持つゆえに、ただ一つの法があるのみである。ただ一つの法があるがゆえに、一念三千の妙境を具えるのである。この教えは、『法華経』と『摩訶止観』に出自を持つ。法華の権実という正体が、観法を明確に示すところにあり、これを最終的かつ究極の説としているのである。
もしも「因果・自他・依正をすべてわが心に観じて、これを指南と為す」というのであれば、それは方角を見失ったものであり、指南の意味をなさない。常に思うに、岳師(源清)は宗祖の教えに背き、後の賢者を欺いたこと、このような点に至っている。「三千は心性に具わる俗諦の法である」と執するのは、俗諦とは事造の三千である。事造の三千は、すなわち理造の三千である。事と理は一体であり、ここに義が成立する。一心に具わるものを、どうして事と理に分けることができようか。おおかた、岳師は「即」の字の義を明らかにしなかったため、このような偏った解釈を生んだのである。他に理由はない。
私はかつて学者たちと語り合ったことがある。岳師は聡明で傑出した人物である。もし顕教によるのでなければ、どうしてこのような曲解を為すはずがあろうか。ところが、三千を心性に具わる俗諦の法と断じたことにより、今日に至るまで誤った解釈が伝えられ、あるいは口実として語り継がれている。「天台の宗教では、三千と三諦はこのように説くべきであり、理には無く事には有るというのは、別教と全く同じである」と。また『義編』には「消亡」とあり、「亡」は無、「泯」は滅であると説くが、これは字義の解釈に過ぎず、論ずるに足りない。どうか経典を手に取る者は、円頓の教旨をよく研究してほしい。仏教で「無」と言うのは、何の法について無とするのか。「滅」とは断滅の滅ではなく、寂滅の滅である。二辺の偏見を寂滅させて中道を見るのである。どうして三千の法を滅して、何もない状態を空と称することができようか。一念三千は、あらゆる見解を離れて、自然に三諦がそなわる。事と理は一体であり、どうして「理には無く事には有る」という偏った解釈を許すことができようか。
四明(知礼)の観心の教えはすでに明らかであるが、必ず祖師の文に符合しなければならない。すなわち、「三千は即ち空、三千は即ち仮、三千は即ち中」であり、また「三千は並びに常にして、俱に体、俱に用なり。修性一体、法法三千」である。これこそ、円教による諸法の解釈の妙なる所以である。それゆえ四明は、無明を除き、差別を明らかにして、六即を顕し、四土を示した。その教えは、ちょうど金宝を虫が照らし出すように、天台を中興させた。古今を通じて絶唱である。
そもそも、四明大師が「無住の本に三千の法あり」と建立されたのは、「無住の本」が「所立の法」を具えているからであり、「所立の法」こそが「無住の本」に他ならないからである。ゆえに、「理が具わるからこそ事が用いられるのであり、事の用いられる一つ一つがそのまま理である」という道理を聞かずにいられようか。一般に「即」というのは、全体がそのままであることを指し、二つの法が合わさったものと解釈してはならない。この意味はすでに『指要鈔』において、文に基づいて明らかに示されているので、今さら詳しく引用するには及ばない。
ところが、岳師は璿師が破った「四明には『具』の義はあっても『即』の義はない」という説を採用した。ああ、岳師は四明の門下に十二年も学びながら、「即」と「具」が別の道ではないことをまったく知らなかったのである。知るべきは、一つの法を諸法に対して示すとき、本来備わっている体の徳を示すので「具」と言い、二つの法を相対して示すとき、本来微妙な体の同一性を示すので「即」と言うのである。無明を除くことには差別があるが、「即」と「具」の義はすでに両方とも完全に備わっているのである。
円教が諸法の差別を指し示すのは、法華経の開権の義と同じである。この権は自然に、すでに実と同体であり、そのまま妙なのである。『維摩経』に「ただその病を除くべくして、その法を除くことなかれ」とあるが、これを信じず
妙楽大師の『金錍論』には、「鏡は明るく、その性には10の世界が映し出され、修行と真理によって10の世界が生じる」と説かれています。ここには2つの捉え方があると知るべきです。「無住を本として法を立てる」という意味について、第一に、真理の側から自然に明らかにする見方です。「鏡」という比喩は実相を示し、それが「無住を本とする」ことです。「明るさ」という比喩は10の世界を示し、それが「立てられた法」です。第二に、修行と真理を対比して明らかにする見方です。「鏡」と「明るさ」を合わせて「無住を本とする」とし、そこから生まれる「像」と10の世界こそが「立てられた法」となります。したがって、10の世界の法は、修行の側にあろうと真理の側にあろうと、すべて「末端の事柄」にすぎません。『指要鈔』を依用する
私は言います。今、全指実相を鏡明としているのは、「鏡明には本来十界はないが、対象である像があるために十界がある」ということを妨げるものではありません。性には本来相はありませんが、修に即しているからこそ、性に相があるのです。性は「無」と言っても、それは汚れや礫がないということであり、修に即しているからこそ、相・相がはっきりと現れています。四明が「本末ともに相有り」と言うのは、修と性が一体であり、体と相が即しているからです。この法を鏡の喩えで取ると、その喩えはぴったりと合います。なぜでしょうか。修と性の二つは共に相があるからです。一体であり、相が即しているという説に基づいている以上、鏡の喩えは同時に明と像があることを取らねばなりません。修と性は一体であり、像は明がなければ現れず、明は像がなければ相がありません。これは異時のものに属しますが、円頓の教えの宗旨は異時を取りません。もし異時を取れば、これは今用いるものではありません。しかし、この喩えは岳師だけが理解しないのではなく、四明の宗下でも「会し難し」と言う人が多いのです。