---
title: "竹菴艸錄 · 金剛經義"
description: "竹菴艸錄由宋代天台宗高僧可觀撰寫。可觀是南宋時期天台宗山家派的重要學者，活動於十二世紀。該著作為其筆記或短篇文集，內容涉及天台教觀的闡釋、止觀修行法要以及對佛教義理的探討，反映了宋代天台宗復興時期的思想特點。此錄是研究可觀個人思想及宋代天台宗發展的重要文獻，對於理解天台宗在山家山外之爭後的理論建設具有較高學術價值，在佛教思想史上佔有一席之地。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcwq1f1z2p4ijs04gibb6l2k"
---

### 金剛經義

> 金剛般若波羅蜜経の意義

其心無所住著一切悉捨皆不可得然後顯示六度萬行所依之法不出現前六根所對六塵緣境為其妄心圓覺所謂此虗妄心句若無六塵則不能有佛為時機求福德者能知福德猶如虗空謹案楞嚴佛說迷妄有虗空依空立世界又云空生大覺中如海一漚發然則虗空何足以喻般若清淨福德此亦兩意一則凡百舉喻以易通難以近顯遠以世間廣大無如虗空故一則虗空無礙之性性不可得故又復虗空之性無所不徧如大涅槃取喻佛性徧一切處碌碌多認顯色以為虗空非也經云佛告須菩提凡所有相皆是虗妄上因遣蕩佛身相著然則諸佛身相無非清淨福業所成如何此亦皆是虗妄當觀佛身已離虗妄如失明者不見日光過在見者若乃取著無非虗妄如楞嚴會提獎阿難歸來佛所佛告阿難當初發心於我法中見何勝相頓捨世間阿難白佛我見如來三十二相勝妙殊絕紫金光聚是以渴仰從佛剃落只為阿難見佛身相以為實有無非虗妄所以破執徧於七處徵所見心了不可得今此本經佛以身相推廣一切徧同諸法生心取著既落塵境皆是虗妄無可疑者如來身相陸沉妄見。

> 心はどこにもとどまらず、一切を捨て去り、すべてが得られないことを知る。そうして初めて、六波羅蜜や万行の依りどころとなる法が、六根が対する六塵の縁となる境として、妄心の前に現れるのである。円覚経にいう「この虚妄の心は、もし六塵がなければ存在しえない」と。 仏は、福徳を求める機根に対し、福徳が虚空のごとくであることを知らしめられる。楞厳経によれば、仏は「迷妄によって虚空があり、虚空に依って世界が立てられる」と説き、また「空は大覚の中に生じ、海に一つの泡が起こるがごとし」と説かれる。では、虚空がどうして般若の清浄なる福徳に譬えられようか。ここには二つの意味がある。一つは、あらゆる譬えが難解を易しくし、遠きを近くに示すためであり、世の中で広大無辺なものは虚空に及ばないからである。もう一つは、虚空の無礙なる性質は、その本性が得られないからである。さらに、虚空の性質はあまねく遍満する。大涅槃経が仏性を譬えるに「一切の処に遍満する」というのも同じである。多くの者が色相を虚空と見なすのは誤りである。経に「仏、須菩提に告げたまわく、すべて形あるものはみな虚妄である」とある。これは先に仏身の相への執着を払ったが、諸仏の身相は清浄なる福業によって成るものではないか、どうしてこれらも虚妄なのか、という問いに対するものである。仏身はすでに虚妄を離れていることを観じなければならない。盲目の者が日光を見ないのは、見る側に過ちがあるのである。もし執着を起こせば、すべては虚妄となる。楞厳会で阿難を導き、仏のもとに帰したとき、仏は阿難に「当初、わが法の中で何を見て、世間を捨てたのか」と問われた。阿難は「如来の三十二相、勝妙殊絶なる紫金光聚を見て、渇仰の思いから仏について剃落した」と答えた。阿難が仏の身相を実体あるものと見なしたからこそ、それは虚妄であり、執着を破るために七か所にわたって見る心を尋ねても、ついに得られなかったのである。この経では、仏は身相をもって一切の法に広げ、すべてが同じく、心に執着を起こせば塵境に落ち、みな虚妄であることを示される。疑う余地はない。如来の身相もまた、妄見の中に沈むのである。

此經結集一卷成文上下多舉大千七寶布施重重較量福勝人情疑之以為繁重亦何必爾噫人情見近此不足恠若論般若清淨廣大雖太虗空亦細物也出生功德性本無盡十方諸佛三世如來同一圓音種種稱揚曠劫亦不可及大品般若凡九十品亦乃重重取喻較量凡夫情量有宿曾少分結緣者但仰信而已未能盡信之也山中人不信有木大之魚海上人不信有魚大之木近尚如此何況其遠所以特如此重重較量此亦兩意一則為隨順機緣宜樂故一則為引導凡夫願求佛意眷眷必不徒然。

> この経典は一巻にまとめられており、前後を通じて大千世界の七宝を布施する例えが繰り返し挙げられ、その功徳の優れたことが何度も比較されています。人々はこれを煩雑で重複していると疑い、なぜそこまでする必要があるのかと思うかもしれません。ああ、人々の見識は近視眼的なものだから、これは不思議なことではありません。もし般若の清浄で広大なる性質を論じるならば、たとえ大虚空でさえも小さなものに過ぎません。般若から生じる功徳の性質は本来尽きることがなく、十方の諸仏も三世の如来も同じ円満な教えをもって、さまざまに称え讃えていますが、無限の時をかけても及ばないほどのものです。 『大品般若経』には全部で九十の章がありますが、これもまた繰り返し例えを挙げて比較しています。凡夫の理解の範囲では、過去にわずかでも縁を結んだ者はただひたすらに信じるだけで、完全に信じきることはできません。山に住む人は大きな木ほどの魚がいるとは信じず、海辺に住む人は魚ほどの大きさの木があるとは信じません。近いことですらそうなのですから、まして遠いことについてはなおさらです。だからこそ、特にこのように何度も比較して説くのです。これには二つの意味があります。一つは、衆生の機根に応じ、彼らが喜び求めるものに順うため。もう一つは、凡夫を導き、仏の意を願い求めるようにするためです。仏の慈愛は深く、

第九一分講學家到此稱四果章無著本論菩薩因地離我慢故雖說聲聞四果遣蕩取證小果相著經意正為信解地人令離我慢若論一化聲聞小機正在佛施鹿苑小化取證小果自謂所作已辦為經方等歷諸大教法會受彈訶故到般若會熟聞摩訶衍門融通執小近情須菩提蒙佛加被融通諸法故能不作是念自謂得果聲聞小機尚能如此信解地人自然離我可以進入淨心高位。

> 第九分の「四果の章」について、講学の家はここまで来て四果を論じます。無著菩薩の本論では、菩薩は因位において我慢を離れているからです。声聞の四果について説くのは、小果を得たという執着を取り除くためです。経の意は、信解地の人々に我慢を離れさせることにあります。もし一化の声聞、つまり小乗の根機について論じるなら、彼らは鹿野苑での小乗教化によって小果を得たと思い込み、「所作すでに弁ず」と自認しています。そのため、方等経の諸大乗教法会で叱責を受け、般若会に至って大乗の教えを繰り返し聞き、執着していた小乗の近い考えが融通されます。須菩提は仏の加護を受けて諸法を融通し、自ら果を得たと思い込む念を起こさずに済んだのです。声聞の小乗根機でさえこのようにできるのですから、信解地の人々は自然に我を離れ、清浄な心の高位に入ることができるのです。

此經前後須菩提兩番請問降住其心經前則云應云何住云何降伏其心經後則云云何應住云何降伏其心前為初心發起請問佛答正在第三第四兩分發廣大心第一心常心不顛倒心菩薩於法應無所住行於布施及其經後重問為將入初地人故佛答則但說入地滅度一切眾生不見有滅度一切眾生相自能升進高位以住般若降伏斷除根本煩惱凡百經句自有詮顯應之一字句頭句中經意不同近世士俗不知經意輙便移改非也須依大藏什譯經本不由淺見以乱古轍。

> この経典では、須菩提が二度にわたって、心を調え安住させる方法を尋ねています。経典の前半では、「どのように住し、どのように心を調伏すべきか」と問い、後半では「どのように住し、どのように心を調伏すべきか」と再び問うています。前半の問いは、初心者が発心した際のものであり、仏の答えは主に第三分と第四分に示され、広大な心、第一の心、常に変わらぬ心、倒れざる心について説かれています。菩薩はあらゆる法に執着することなく、布施を行わなければなりません。 そして経典の後半での再質問は、初地に入ろうとする者のためにあります。仏の答えは、初地に入り一切の衆生を滅度させながらも、一切の衆生を滅度させたという相を認めず、自ら高位に昇進して般若に住し、根本煩悩を調伏し断じ除くことを説いています。経文の一句一句にはそれぞれ明確な意味があり、「応」という一字が文頭にあろうと文中にあろうと、経意は異なります。 近世の世俗の人々は経意を知らず、軽率に経文を改変することがありますが、それは誤りです。大蔵経の鳩摩羅什訳経本に従うべきであり、浅はかな見解によって古来の正しい道を乱してはなりません。

第十七分佛忽自顧命須菩提云譬如人身長大乃知非但一切大教所說神呪以不可翻名為密語然在顯教只此一句亦自深密何也為其此之一句說盡諸大菩薩入無生位分證法身大圓鏡智全法身體大起此大用無所不應現一切身如法華說妙音觀音普現色身又如華嚴八地入無功用作十種身不但正報所依國土無非大用須菩提以佛加被力故便能領解融通遣蕩大用相著故云如來說人身長大則為非大身是名大身為其無生地人雖起大用不動法身體大是為無作妙力故也經前譬如須彌山王若依一十八住此乃於欲界中取最大身以破凡夫執取相著若依天親本論取譬諸佛淨土現高大身經意多含隨機取解不可獨斷。

> 第十七分で、仏は突然、自ら振り返って須菩提に言われました。 「たとえば、人の身が長大であるとすれば」 これは、ただ大いなる教えが説く神秘的な真言が翻訳できないから密語と呼ばれるだけでなく、顕教においても、この一句だけでも深く秘められていることを知るのです。なぜでしょうか。この一句が、すべての大菩薩たちが無生の位に入り、法身を分かち証し、大円鏡智を全うし、法身の体の大いなるはたらきを起こすことを説き尽くしているからです。この大いなるはたらきは、あらゆるものに応じて現れ、一切の身を現じます。『法華経』に説かれる妙音や観音の普現色身のように、また『華厳経』の八地で無功用作に入り十種の身をなすように、正報だけでなく、依報である国土もすべて大いなるはたらきなのです。須菩提は、仏の加護の力によって、それを理解し、融通無碍に大いなるはたらきの相への執着を払いのけることができました。だから、「如来の説く人身長大は、すなわち大身にあらず、これを大身と名づく」と言うのです。無生の地に至った人は、大いなるはたらきを起こしても、法身の体の大いさは動かず、これが無作の妙力だからです。 経典の前に「たとえば須弥山王のごとし」とありますが、もし十八住に依るならば、これは欲界の中で最大の身を取って、凡夫の相への執着を破るためのものです。もし天親の本論に依るならば、諸仏の浄土に現れる高大な身を譬えとしています。経典の意味は多様で、機に応じて解釈を取るべきであり、一方的に決めつけることはできません。

第十八分講學家到此稱五眼章凡夫肉眼聲聞修發天眼慧眼若諸菩薩分別諸法名為法眼此皆偏淺不能具足在諸經論料揀不同若乃此經佛問須菩提佛具五眼佛自問之皆言其有逐一答之亦言其有或謂此經破有何故五眼一一言有然此有也非實所執名之為有此為顯示佛眼圓照無所不具法界洞達無所不見故也其次經文顯示佛智圓明無所不知然此悉知以知一切心不可得三世際斷故能無礙亦能盡知一切差別心心數法故佛十號名正徧知凡夫作業盡現佛心廣如華嚴此不繁引。

> 第十八分は、学問を重んじる方々が「五眼の章」と呼ぶところです。 凡夫は肉眼を持ち、声聞は修行によって天眼を発し、慧眼を得ます。 もし諸菩薩が諸法を分別するなら、これを法眼と名付けます。 これらはすべて偏りがちで浅く、十分に備わることはできません。 諸経論によって見解は異なりますが、この経典においては、仏が須菩提に問いかけ、仏は五眼を具えているかと尋ねます。 仏自ら問うて、すべて「ある」と答え、一つひとつ答えても「ある」と言います。 あるいは、この経典は「有」を破るものなのに、なぜ五眼を一つひとつ「ある」と言うのか、と問うかもしれません。 しかし、この「有」は、実体として執着するものではなく、「ある」と名付けているにすぎません。 これは、仏眼が円満に照らし、すべてを具え、法界をくまなく見通し、見えないものはないことを示すためです。 次に、経文は仏の智慧が円満明らかで、知らないものはないことを示しています。 しかし、このすべてを知るということは、一切の心が得られないことを知り、三世の際が断たれているがゆえに、妨げなく知ることができるのです。 また、一切の差別ある心や心の働きをことごとく知ることができるゆえに、仏は十号の一つに「正遍知」と名付けられています。 凡夫の造る業はすべて仏の心に現れます。 詳しくは『華厳経』に説かれていますが、ここでは多くを引用しません

第二十一分經參入別譯六十二字準無著本論以此一段佛心具足初以眾生為佛心所念處須菩提問於未來世聞說是法生信心不若據經前亦作此問頗有得聞生實信不佛答後五百歲能生信心以此為實今此所問若同於前何故佛答乃云彼非眾生非不眾生要知此乃機應深密雖則同前所問今此問意為欲顯示佛心究竟清淨如大圓鏡為其最初所發心境雖則本為眾生了知眾生皆不可得諸佛之心眾生之境心境何有一切性空空非斷滅故云彼非眾生非不眾生說非眾生是名眾生什譯略之正為經前發心一住已是佛心所念處故前書已說此略及之。

此經歸宗唯在離相諸佛究竟別無奇特故云離一切諸相則名諸佛眾生病本只為著相維摩經云但除其病而不除法經前離佛色身相著所以言見第二十六分為離法身相著所以言觀色身外相也法身內體也色身外相因雖百福全法身現若見外相無非內體故云以三十二相觀如來猶恐便執外相以為法身佛不免引轉輪聖王亦有如此福相雖有七事不及於佛外相似同借事破執使之當觀法身內體即而復離故云不應諸佛色聲無非法身若乃取著一切皆非。

龍猛造大智度論一百卷釋大品般若三十卷凡九十品經句盛談如之一字如以不動為義般若會宗如如而已諸法本來自性不動故此經云如來者即諸法如義混同一體無所分別乃知十方諸佛皆從如義中來皆從如義中去無所從來亦無所去十號特名如來為順應世故也其實人法皆如故經末云不取於相如如不動如無所依如太虗空空無所依如寶積歎佛達諸法相無󳬩礙稽首如空無所依妄見分別差別不同於一切法何能無礙流轉生死未來無際。

此經三十二分相傳梁昭明太子作此分節以立分名本集必然有此分名或有符合無著本論或全不同所立分名但多隨經所說若欲盡理須依本論一十八住乃見經意只如三十二分如何名為應化非真此如事苑略曾對會宜與第五分名兩易可也經末此分無著本論云何為人演說不取於相如如不動說法不染也末後四句流轉不染也然說法不染後言何以故常規此乃徵釋之詞既而徵釋便有四句如何自屬流轉不染一期經文殊不相關只為此經佛意深密兼之譯人偏尚簡古一何以故意有兩屬釋上則為其說法既而為人能為所為機應相對若取相著無非有為亦如夢幻何況凡夫正在流轉故云一切無所不收此經若非無著親見當來世間人師必不能及恰六十年為通此經愧不能有所發明尋句義而已事苑通論兩書外偶隨文收拾又及此一十二篇行年將八十五也且暮人爾漫作最後法施。

淳熈丙申中秋草創