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百論疏 (百論疏)


破一品第三

第3章 破一品

破邪門有二:一〈破神品〉明眾生空,此文已竟。今是第二,七品破法,明於法空。若利根者,既知無人即悟無法。所以然者,人本法末,本無故末即無;二人法相待,無人可待即知無法。但鈍根未悟,雖知無人猶言有法,故次破法。又外道神病未除,上就神救,神義既不立,自此已下舉法證神。今破無法,為顯無神,故次破法。問:何故前破神、後破法?答:《智度論》云「世間顛倒,如亂糸相繫,無定詮緒。」隨立而破、有病則治,故無定次第。二者欲顯論雖有三,破內外二病。《中論》、《十二門》破其內病,前破於法、後傍破人,正以佛之弟子多識無我而著於法,故前破法,故少有計人,故後傍破人;此論破外道病,外道之人具執人法,但人為其本故先破人。三者依二空次第,生空易得故前破人、法空難得故後破法。此義通大小乘,小乘中如《成論》等前以陰除人、次明以空除陰;大乘前明菩薩得眾生空、次得法空也。又先破人後破法者,如《大品》諸方等經多以我喻萬法。今亦爾,前我不可得故,後舉我例法也。問:大小二空云何同異?答:小乘云有假名人、有陰實法,故以實過假、以空過實。故成實師明空無我行,引論文云:五陰中不見眾生為空行,見陰亦無為無我行。大乘明人法未曾是有,亦未曾無、亦有亦無。如是五句但為眾生偏著有病,是故明空。有病若除,空義亦捨,適化所宜教無定相。又問:此論破人法,為但是大乘為通耶?答:具三義。一者依《楞伽》等經、《攝大乘》等論,明二乘但得人無我,菩薩得法無我,則前破人明小乘,今破法明大乘;二者今明二空俱是大乘;三者俱是小乘。問:何故此論具明大小乘?答:邪言具障大小,今破一切邪、顯一切正,故此論名為通論也。問:應非大小乘論。答:雖具申大小,而正申大、傍申小。又具申大小始名為大,如大乘經初具大小始名大乘。問:此論破人法,與《中論》何異?答:一往《中論》破學佛二諦而失二諦人法,此論破不學二諦人法,即破二諦外人法也。二者于時外言與內無異,破外即破內,故二論無異。三者此論正破外、傍破內,故異也。問:何故破人但有一品,破法有七品耶?答:廣略互現。又人易法難,故人略法廣。又人一法多,故略人廣法。就破法七品,開為二章:六品破無常法、第七一品破於常法。所以破斯二者,一欲攝法無遺。雖萬像不同,皆在常無常內,既破斯二則無法不空。若是《中論》開二十五品為世出世二章,與今大意相似。二者欲顯外道之過墮在斷常,不會中道,計法無常名為斷見、明於常住復是常見。《涅槃經》云「眾生起見凡有二種:一斷、二常,如是二見不名中道。」《中論.成壞品》云「若有所受法,即墮於斷常。當知所受法,若常若無常」也。問:何故破斷常?答:是諸見根故、障中道故,中道是佛性法身等。又斷常見障大小乘故也。三者破常無常,根本二句既無,亦常亦無常諸句自壞。又《智度論》云「十八空中畢竟空最深,是佛所行,而有為無為空後明畢竟空。」今亦爾,破有為無為即顯畢竟空義,故顯此論名為甚深。就破有為,凡有六品,以為三雙:初一異一雙、二情塵一雙、三有果無果一雙。若就總別明者,〈一〉、〈異〉兩品總破諸法,謂大有與萬像一體異體,破此一異名為總破萬法;自下四章皆是萬法中別,故次破於別。前總後別亦是觀門次第,又為立義前後故前總立、後別立,〈破神品〉亦然。若常無常判者,〈一〉、〈異〉兩品總破常無常,四品別破無常,〈破常〉一品別破於常。初總破常無常者,二家計大有是常、萬法無常。今破總別一體異體,即是破常無常一體異體,故名總破常無常也。情塵有果無果是無常法,此事易知。五種常法名之為常,故次五品破常無常也。前總後別,是立義常體,又為觀門次第。問:此論自破外道一異,於今人何益?答:天竺外道一異盛興則障佛正教,提婆破之則佛教興世,故是大益。問:乃利天竺,於震旦何益?答:今人立義與外道大同,如立世諦是總、萬像為別,與外道同,則障於佛法。今破有所得世諦,總別不成故亦無真諦,此性有無盡,方得申佛法因緣二諦。又有所得十地師執六相義,謂同相、異相、總相、別相、成相、壞相,亦同今破也。又世間外道、有所得大小乘皆言:內身為總、頭足為別,瓶為總、四塵為別,有此總別故生煩惱業苦;今求總別無從,則煩惱業苦不起,名得解脫,是為大利。初二品即二別,前破一、後破異者,凡有四義:一者一家最初興世、二者天竺盛行、三者提義精巧、四者一為眾句之初。但一有二種:一者通一,即一數通於二家;二者別一,謂總別一體。今此品正破總別一體,破於別一故以目品。問:《成實論》具破一等四執,謂一、異及不可說及以執無,今何故但破一異?答:〈破空品〉具破不可說及破於無,是故今兩品但破一異。問:若爾,《成實》具破四,與今何異?答:彼就小乘門破四,今就大乘門破四;彼破四竟立小乘義,此論言而無當、破無所立。品開為二:初總立總破、次別立別破。「外日應有神有一瓶等神所有故」者,上以神救神義既不立,今舉法救神也。有者總,於萬法並皆有;瓶者此則是別。又外道頂有周羅執云奇杖,修於淨法,多捉瓶行,故舉瓶興論。一者是數名,以一於萬法。問:大有二十五諦中何諦所攝?答:總別分之,大有為總,二十五諦為別。人法分之,屬法所攝,故此文云有一瓶等是神所有。問:外道立大有,與內何異?答:他云外總萬法名之為有,而有體是常,與萬法一體。內義亦總萬法名為世諦,而無別一世諦是常與萬法一體,是故為異。內義總四微假說為瓶,無別實瓶與有為一。今責攬瓶衣成世諦,無別總世諦;亦假五陰成人,無別有人;假四塵成柱,應無別柱。而莊嚴義別有假人柱體,應別有假世諦體;開善亦應別有假世諦用。又雖言是假,終有此假,與外道何異?又僧佉只瓶是有、只瓶是一,佛法內大小乘人可不爾耶?又大小乘人云攬四微成瓶為一,無別一法以一於瓶。今將外難內,亦成難解。若離瓶無別一以一於瓶,亦應離瓶無別生以生於瓶。今遂立非色非心生瓶者,一亦應然。「內曰」,此總破,二意:一奪、二縱。奪者,神本法末,本已前無,寧有於末?外人上明法有以證人有,論主以無人類法亦無,二義應齊,但人無已彰、法有未顯,故外屈內申。「今思惟」下,次縱破。縱無人有法,更開一異責之,為三法一體故有三法、為三法異體故有三法?故云「若以一有、若以異有」也。問:破有百端,〈神品〉已開一異定之,今何故復說?答:破乃千端,但外道義宗唯有一異。上立神覺一異,今立總別一異,是故論主還以一異定之。又一異破顯,愚智皆知,是故偏用。又前用一異以破人無,今令其發悟,故還用已悟曉其未悟也。「外曰」下,第二別立別破。又開三別:第一正破自宗三法一體、第二破外引他證三法一體、第三破外舉因證果。此是文三而義有四:初段破自立義、次章破引他立,此二破總別果法,後一破總別之因,故是自他因果四也。今前受定立三法一體故有三法。所以立三法一體者,義甚精密非都孟浪。離有無瓶、離瓶無有,故有體即瓶體、瓶體即有體。而開總別者,正言天下之物皆悉是有,故有語是通。瓶有既爾,一數亦然。離瓶無一,故即一是瓶。但一數語通,故別立之耳。內破為三:一牒法、二舉譬、三正破。「若有一瓶一」者,此牒三法一體也。「如一」者,舉譬也。猶如天主是一體,有三種義,故立三名。「一切成」下,第三破也。有三種破,謂一切成、不成及顛倒也。一切成者,有三種成:一者體成、二者義成、三者名成。三法互成則是三種體成、三種義成、三種名成,則一切法體皆成一物體、一切物義皆成一物義、一切物名皆成一物名。若爾,則無有萬物。既無萬物,亦無一物,故一切物空。又若有物有,可有物空;既無物有,亦無物空。如是亦有亦空、非有非空,即四境絕、四心斷、四言滅,即證實相法身也。又如此四境四心在邪乃盡,方得申因緣二諦。故前是二諦外空,是有所無空,後方得辨二諦無所有空也。問:何故作此二意?答:若外義與內同者,如上意破,無四境四心即悟實相發正觀;若外義異內義,破外竟始得明內二諦,因世諦有故悟第一義空、因二諦悟中道。此是佛法內外大意,不可不知也。言體成者,捉有與一並皆成瓶。有一既其成瓶,則萬法並皆成瓶。言義成者,瓶是無常義、有是常義,瓶是別義、有是總義。有與瓶一,瓶既無常,有亦無常。總別亦爾。言名成者,瓶名既其成瓶,有名亦應成瓶,舉瓶對有既有三成、舉瓶對一亦有三成。舉瓶為端既有六成,有一亦爾,合有十八種成。一切不成者,翻十八種成則成十八種不成,故云一切不成。今略示一。若萬物體不並成瓶,則瓶體亦不成瓶,謂體不成也;若有常義不成瓶無常義,則瓶無常義亦不成瓶無常義,謂義不成;若有名不成瓶名,則瓶名亦不成瓶名,謂名不成。餘皆類爾。顛倒者,亦有十八種倒,謂體倒、義倒、名倒。欲成瓶體應成有體,名為體倒;欲成瓶義應成有義,名為義倒;欲成瓶名應成有名,秤為名倒。欲見此意,顯在注文。注釋三為四:一牒法、二牒辟、三合譬、四釋難。「若有一瓶一」者,此牒法也。「如因陀羅」下,釋上如一譬喻也。因陀羅,此云天主。釋迦為能,憍尸迦是過去世姓。「如是隨有處」下,第三合譬也。「若爾」下,第四正釋難也。釋難有三:一一中皆二,初正釋、次牒偈本結成。釋初有七復次,總明三種成義,開為二別:初五復次略明三成、後二復次廣明義成。前五復次明三成有三別:初三難明體成、次一明義成、次一明說成。就三又二:初兩句捉有一並應成瓶、次一捉瓶等悉皆成一。初二即二:前句捉有成瓶、次句捉一成瓶。初句明有與瓶一。有既成瓶,萬法與有一,有既成瓶,萬法亦成瓶。此體成也。「其有一物皆應是瓶」者,有人言:有之與一如此等物皆應是瓶。有人言:凡是有一之物皆應是瓶。今明此二釋悉非,上既明有是瓶,則衣等萬物悉皆成瓶,云何重說也?今所明者,前句捉有成瓶、此句捉一成瓶,明萬物之數皆應成瓶也。「今瓶衣等物悉皆是一」者,此捉萬物悉成一數。復次有常故萬物亦應常,此捉萬法悉成有,即是義成。但外人以萬物成有不名為過故,今就大有但明義成。有以常遍為義,一瓶既是有,亦應常遍也。「復次若說有即說一瓶」,此明說成。今欲喚物,但應喚有,即得一切物,以有與萬物不異故。所以詺此為說成者,說有之說即成說瓶之說故也。「復次一是數」,自上已來五復次,略論三種成竟。此兩復次,重就一瓶論其義成。一既是數義,有瓶亦是數義。第二復次,就瓶搆三並:初二法與瓶一則同瓶並具五身、次同瓶並有形、三同瓶並皆無常,將有一同瓶既有此三,以瓶有同一亦有此三,則三法並無數、並無形、並無五。今但取要切者論之,故偏舉瓶耳。「是名如一」下,第二牒偈本總結。是名如一,牒立也。一切成,牒破也。破不成中四復次,明三不成。初二復次明體不成、次一辨名不成、後一義不成。還翻上三成,故有三不成。初二復次為異者,有人言:處處有據所依處,如一州一寺處;事事有據能依處,有即瓶衣等事有。有人言:處處有是瓶衣上有,事事有據五塵有,即是假實處。有人言:處處有據大有體,事事有就瓶衣論有。眾師相承多用此釋。今謂不成本翻於成,上成中初句云:有與瓶不異。有既成瓶,有與衣等萬物不異,衣等諸物亦應成瓶。今翻之云:若處處有,非瓶衣等物亦非瓶者,若爾瓶亦非瓶。此翻初句也。上第二句云:其有一物皆應是瓶,取萬物上有一皆應成瓶。今還翻之,若萬物上一數之有,此既非瓶,則瓶亦非瓶。故處處有約瓶衣等物有,事事約衣等一數之有,是故為異也。「復次若說有」,第三明說不成,翻上第三說成。上明欲說有應說瓶,今明說有之說既不成說瓶之說,今說瓶之說亦不應成說瓶之說。「復次若有非瓶」下,有人言:此句煩長。凡論有不出二:一處處有名為總有、二事事有即是別有,此二既非瓶,則明有事盡矣;今復明有,故為煩長。若以此句為正,前即煩長。有人言:初句是總有體,事事有是衣等諸物有。今直明瓶中有,故三處有異。有人言:就相待破。瓶底平腹大,有亦應爾;有無此相,瓶亦應然。今明瓶中之有與上兩有不異,不應作此釋也。今明此就義不成難之,還翻上義成。有是常義總義,既非是瓶;瓶是無常別義,亦非是瓶。第二總結,如文。釋顛倒中二難:初七中四,後二者廣略互現。又示三門:一廣門、二處中門、三略說門。二難即二:初明名倒、次總辨體義二倒。名倒者,欲喚瓶應喚有,欲喚有應喚瓶。「復次汝瓶成故」,第二合明體義兩倒。瓶體始成,瓶外有一皆悉應成。瓶無常義別義既成,瓶外有一總常義亦應成。瓶外有一體既成,瓶亦應成。有總常義既本成,瓶別無常義亦應成。又瓶無常始成,大有亦無常始成。有既是常,名為本成,瓶亦應爾。「外曰物有一故無過」,此文有二句:一者物有一,自立宗也;無過,通三難也。自立宗者,外義說總不得攝別,如人口中直言有,何必攝瓶?以一切物皆有故也。口中直言一,何必攝瓶?以一切物各有一故。說別必攝總,既其言瓶,則知非無,故必是有也。既其言瓶,豈是二物?故必一也。通上難者,上難云有與瓶不異,有與萬物又不異。有既成瓶,則萬物皆成瓶者,此事不然。若總有攝別瓶,總有既成瓶,則萬物悉成瓶;以總有不攝瓶,則總有不成瓶,總有既不成瓶,則萬物亦不成瓶,故無一切成過。通不成難者,難云:總有既不成瓶,瓶亦不成瓶者,不然,瓶攝得有,瓶有自成瓶,故瓶體得成,故無一切不成過也。故以二不攝瓶則通一切不成難。通第三難者,前難云:說有應說瓶、說瓶應說有者,不然,以總有不攝瓶故,說有不得瓶;瓶必攝於有,故說瓶自得瓶,故無一切顛倒過。雙用,二不攝瓶、瓶攝二,答第三難。三難大宗既通,其間枝流不言自遣也。注釋為二:初就體總別,別體攝總、總體體不攝別體;次就通別,說別必攝通、說通不攝別。略舉名體,萬義皆收。「內曰瓶有二何故二無瓶」,前定三物一體,汝言三物之中兩通一別,別得攝通、通不攝別。然此通別終是一體,既是一體便招四難:若三物一體則三物俱相攝;二明俱不相攝;三明瓶攝二可與二一體,二不攝瓶應與二異體;四明瓶不異二、二不異瓶,而言瓶攝二、二不攝瓶,亦應二攝瓶、瓶不攝二。釋中為二:初牒、次責。「若有一瓶一」,此句牒三物一體也。「何故下」,第二責。又二:前責體攝不攝;「復次」下,責說攝不攝。上既二通,今還兩責。「外曰瓶中瓶有定故」,答上瓶有二、二無瓶之所以也。今前,開四句:瓶有攝二不攝二、二有攝瓶不攝瓶,故成四句也。瓶攝瓶家二,不攝於通二,故言瓶攝二不攝二也。瓶二則攝瓶,通二不攝瓶,故言二有攝瓶不攝瓶也。問:若爾,二具攝瓶不攝瓶,瓶具攝二不攝二。云何答上瓶攝二、二不攝瓶也?答:瓶攝瓶家二,故瓶得即於二;通二不攝瓶,故二不即於瓶。至此文通上三難始得分明。通有不成瓶,瓶有自成瓶,何得云瓶有既成瓶,謂通有亦成瓶?作一切成難也。何得聞通有不成瓶,謂瓶有亦不成瓶?作一切不成難也。何得謂瓶有成,通有即成,作一切顛倒難耶?問:外人成二有義不?答?只是一總有,約萬物便成萬有。如只是一空,約眾器故有眾器中空也。偈文瓶中瓶有定者,有二種定:一者瓶中之有定不異瓶,此即瓶攝二、二攝瓶;二者瓶中之有定異於衣物等。此即通二不攝瓶、瓶不攝通二也。注中為二:前明異不異、次辨攝不攝。「瓶中瓶有與瓶不異」者,此明瓶中之有與瓶不異也。「而異於衣物等」者,瓶中之有與衣物等異也。「是故」下,第二明攝不攝。初明瓶攝瓶家有,有攝有家瓶也。「非在在有處有瓶」者,明通有不攝瓶。亦應明瓶不攝通有,但舉一則可知也。「內曰不然瓶有不異故」者,瓶家之有與總有不異,故通名一大有。若爾,即招四難:一者瓶既攝瓶家有,亦攝於總有;二者總有既不攝瓶,瓶家有亦不攝瓶;三者瓶家有不攝於總有,則瓶家有異總有;四者總有不攝瓶,則總有異瓶家有。注意明總則攝得別、瓶別不攝得總,則總別體異,不名為一。問:此直明總別體異,云何釋偈本也。答:天親釋偈本多種形勢,自有順偈而釋:偈既明不異,注還釋論於不異;自有偈明不異,注明其異。此有二義:一者欲反覆相成。偈明不異,則應俱攝俱不攝。注意若有攝有不攝別,總別體異。二者欲反下父子譬救。有攝得瓶、瓶不攝有,則總別體異,不應言一,故有父子譬生。「外曰如父子」者,一人而父子一體而有總別,以通上二難:一者偈本作不異難、二者注中作異難。今明總別有異不異。如雖有總別義異,只是一體;如雖有父子義異,終是一人。不可聞父子體一,謂父子義亦一;不可言父子義異,謂體亦異。不可聞總攝別、別不攝總,總別義異,便言體異;不可聞總別體一,令攝不攝義亦一。「內曰子故父」者,世間父子凡有三事:一但是父而非子,謂無前父時也;二但子而非父,謂未生子時也;三亦子亦父,形二處也。汝無有一物是總非別、是別非總、亦總亦別,故不得為喻。若言唯取第三亦父亦子為喻者,是亦不然。汝取婦生子竟方是父,爾前但是子,此子父不一時;汝總別一時,即總時有別、即別時有總,無有前別而非後總、後總而非別,故不得為喻。又汝若言時雖異體終一者,子生為父,可父子一體;子未生,決定是子,不得是父,則父子異體,便總別異體也。注釋為二:一者釋父子不一體。「復次是喻同我」者,我明父子體異,破汝一體也。又子而為父、父而為子,則父子無有定性。無有定性則空,乃同我上明空無相義。故明無相門無十相,謂五塵生住滅及男女也。

破邪の章には二つの部門がある。第一の「神を破る品」では衆生の空を明かし、この文は既に終わった。今ここが第二であり、七つの品で法を破り、法の空を明かす。もし利根の者であれば、人が無いと既に知れば、法も無いと悟る。なぜか。人は根本、法は末である。根本が無ければ末も無い。また、人と法は相待して成り立つ。人が無ければ、待つものがないから法も無いと知る。しかし鈍根の者は悟らず、人は無いと知ってもなお法は有ると言う。よって次に法を破る。

また、外道は神についての迷いがまだ除かれていない。先に神に基づいて救いを説いたが、神の義が既に成立しない。よって、これより以降は法を挙げて神を証する。今、無法を破るのは、無神を顕すためである。ゆえに次に法を破る。

問う:なぜ先に神を破り、後に法を破るのか。

答える:「智度論」に「世間の顛倒は、乱れた糸が絡み合うようで、定まった筋道がない」とある。立ち上がるに従って破り、病があれば治す。よって定まった順序はない。

第二に、論に三つがあると雖も、内と外の二つの病を破ることを顕す。「中論」と「十二門論」は内の病を破る。先に法を破り、後に傍ら人を破る。まさに仏の弟子は多く無我を識りながらも法に執着するから、先に法を破る。ゆえに人を計るものは少なく、後に傍ら人を破る。この論は外道の病を破る。外道の人は人と法を共に執するが、人がその根本であるから先に人を破る。

第三に、二空の次第に従う。生空は得易いゆえ先に人を破り、法空は得難いゆえ後に法を破る。この義は大小乗に通じる。小乗では「成実論」などのように、先に陰をもって人を除き、次に空をもって陰を除く。大乗では先に菩薩が衆生空を得、次に法空を得ると明かす。また、先に人を破り後に法を破ることは、「大品般若経」などの方等経が多く我をもって万法の喩えとするのと同じである。今もまたそうである。先に我が得られないので、後に我を例として法を挙げる。

問う:大小二空の同異はどうか。

答える:小乗は仮の人は有るが、実の五陰の法は有ると言う。よって実をもって仮を超え、空をもって実を超える。ゆえに成実師は空無我行を明かし、論文を引いて「五陰の中に衆生を見ないのが空行、陰もまた無いと見るのが無我行である」と言う。大乗は人も法も曾て有るのでもなく、曾て無いのでもなく、亦有亦無でもない。このような五句は、ただ衆生が有の病に偏執するため、空を明かすのである。有の病がもし除かれれば、空の義もまた捨てられる。教化に適するよう、教えに定まった相はない。

また問う:この論は人と法を破るが、ただ大乗なのか、それとも通じるのか。

答える:三つの義を備える。第一に、「楞伽経」や「摂大乗論」等に従えば、二乗は人無我を得るのみで、菩薩は法無我を得ると明かす。ゆえに先の人の破りは小乗を明かし、今の法の破りは大乗を明かす。第二に、今の二空は共に大乗であると明かす。第三に、共に小乗であると明かす。

問う:なぜこの論は大小乗を共に明かすのか。

答える:邪な言説は大小を共に障る。今、一切の邪を破り、一切の正を顠す。よってこの論を「通論」と名付ける。

問う:ならば、大小乗の論ではないはずだ。

答える:大小を共に申すが、正しく大を申し、傍ら小を申す。また、大小を共に申して初めて大と名付く。例えば大乗経典が初めに大小を備えていて、初めて大乗と名付くのと同じである。

問う:この論が人と法を破るのは、「中論」と何が異なるのか。

答える:一往にして、「中論」は仏の二諦を学んで二諦を失った人と法を破る。この論は二諦を学ばない人と法、すなわち二諦の外の人と法を破る。第二に、当時、外の言説が内と異ならなかった。ゆえに外を破れば内を破ることになり、二論に異なりはない。第三に、この論は正しく外を破り、傍ら内を破る。ゆえに異なる。

問う:なぜ人を破るのは一品だけで、法を破るのは七品もあるのか。

答える:広略が互いに現れる。また、人は易しく法は難い。ゆえに人は略し、法は広い。また、人は一つで法は多い。ゆえに人を略し、法を広くする。

法を破る七品を二章に開く。六品は無常の法を破り、第七の一品は常の法を破る。この二つを破る理由は、第一に、法を遺漏なく収めたいからである。万像は同じではないが、皆、常と無常の中にある。この二つを破れば、法の空でないものはない。「中論」が二十五品を世出世の二章に開くのは、大きな意味で今と似ている。第二に、外道の過ちが断常に堕ち、中道に会わないことを顕す。法を無常と計るのが断見、常住と明かすのが常見である。「涅槃経」に「衆生が起す見には凡そ二種あり。一に断、二に常。この二見は中道と名付けず」とある。「中論・成壊品」に「もし受ける法があれば、直ちに断常に堕ちる。知るべし、受ける法は、常であろうと無常であろうと」とある。

問う:なぜ断常を破るのか。

答える:これが諸見の根であり、中道を障るからである。中道は仏性、法身などである。また、断常見は大小乗を障るからである。

第三に、常と無常を破れば、根本の二句が既に無い。よって、亦常亦無常などの諸句は自然に壊れる。また、「智度論」に「十八空の中で畢竟空が最も深く、仏の行うところである。有為空と無為空の後に畢竟空を明かす」とある。今もそうである。有為と無為を破れば、畢竟空の義を顕す。よってこの論を「甚深」と名付けることを顠す。

有為を破ることは、凡そ六品ある。これを三双とする。第一に一異の一双、第二に情塵の一双、第三に有果無果の一双。 もし総別で明かせば、「一」と「異」の二品は諸法を総破する。すなわち、大有と万像が一体か異体かを破る。この一異を破ることを総破万法と名付ける。それより下の四章は皆、万法の中の別である。ゆえに次に別を破る。前の総、後の別はまた観門の次第である。また、立義の前後であるから、先に総を立て、後に別を立てる。「神を破る品」も同じである。

もし常無常で判別すれば、「一」と「異」の二品は常無常を総破する。四品は無常を別破し、「常を破る」一品は常を別破する。

初めに常無常を総破するのは、二つの家が計る大有は常であり、万法は無常であるからである。今、総別の一異を破るのは、すなわち常無常の一異を破るのである。ゆえに「総破常無常」と名付ける。情塵と有果無果は無常の法であり、このことは易しく知られる。五種の常法はそれを「常」と名付ける。ゆえに次に五品で常無常を破る。前が総、後が別であるのは、立義の常体であり、また観門の次第である。

問う:この論は自ら外道の一異を破るが、今の人に何の利益があるのか。

答える:天竺の外道の一異が盛んに興れば、仏の正教を障る。提婆がこれを破れば、仏教が世に興る。ゆえに大いなる利益である。

問う:天竺を利するのみで、震旦(中国)に何の利益があるのか。

答える:今の人の立てる義が外道と大同であるからである。例えば、世諦は総であり、万像は別であると立てるのは、外道と同じである。これが仏法を障る。今、有所得の世諦を破れば、総別が成立しない。ゆえに真諦も無い。この性有が尽きなければ、仏法の因縁二諦を申すことができない。また、有所得の十地の師は六相の義を執する。すなわち、同相、異相、総相、別相、成相、壊相である。これも今の破ると同じである。また、世間の外道や有所得の大小乗は皆言う。「内身は総、頭足は別。瓶は総、四塵は別である。この総別があるがゆえに煩悩・業・苦を生ずる」と。今、総別のよりどころを求めれば得られず、煩悩・業・苦が不起となる。これを「解脱を得る」と名付け、これが大利である。

最初の二品は二つの別である。先に「一」を破り、後に「異」を破るには、凡そ四つの義がある。第一に、一家が最初に世に興ったこと。第二に、天竺で盛行したこと。第三に、提婆の義が精巧であること。第四に、「一」が諸句の始めであること。

ただ、「一」には二種がある。一つは通の一であり、すなわち一の数が二家に通じる。二つは別の一であり、すなわち総別一体を指す。今、この品は正しく総別一体を破る。別の一を破るので、これをもって品の名とする。

問う:「成実論」は一、異、不可説、および無の四つの執着を具に破る。今はなぜただ一と異だけを破るのか。

答える:「空を破る品」が不可説と無を具に破る。ゆえに今の二品はただ一と異を破る。

問う:もしそうなら、「成実論」は四つを具に破る。今と何が異なるのか。

答える:あれは小乗の門で四つを破る。今は大乗の門で四つを破る。あれは四つを破った後に小乗の義を立てる。この論は、言って当たるところがなく、破って立つところがない。

品を二つに開く。初めに総立・総破、次に別立・別破。

***

「外曰く、応に神有るべし。一瓶等は神の所有なるが故に」とは、先に神をもって神を救う義が既に立たないので、今、法をもって神を救う。有は総であり、万法において皆、有なり。瓶はこれ別である。また、外道は頂に周羅を頂き、奇杖を執り、浄法を修め、多く瓶を持って行く。ゆえに瓶を挙げて論を興す。一は数の名であり、一をもって万法に通じる。

問う:大有は二十五諦のうち何諦に摂せられるのか。

答える:総別で分ければ、大有は総、二十五諦は別である。人法で分ければ、法の摂に属す。ゆえにこの文に「有一瓶等は神の所有なり」とある。

問う:外道が大有を立てるのは、内と何が異なるのか。

答える:彼らは万法を総じて名付けて有とし、その有の体は常であり、万法と一体であると言う。内の義もまた万法を総じて世諦と名付けるが、別の一つの世諦が常であって万法と一体であるということはない。ゆえに異なる。内の義は四微を総じて仮に瓶と言い、別の実の瓶が有と一体であることはない。今、瓶や衣を集めて世諦を成すことを責めれば、別の総世諦はない。また、五陰を仮に人と成すように、別の人があるのではない。四塵を仮に柱と成すように、別の柱があってはならない。しかし荘厳の義は別に仮の人や柱の体があるとするなら、別に仮の世諦の体があるべきである。開善もまた別に仮の世諦の用があるべきである。また、仮であると言うが、ついにこの仮がある。外道と何が異なるのか。

また、僧佉(サーンキヤ学派)はただ瓶は有であり、ただ瓶は一であると言う。仏法内の大小乗の人も、そう考えないだろうか。また、大小乗の人は、四微を集めて瓶を成すのが一であり、瓶を一とする別の一法はないと言う。今、外をもって内を難ずれば、これも難解となる。もし瓶を離れて瓶を一とする別の一がなければ、また瓶を離れて瓶を生ずる別の生があってはならない。今、遂に非色非心の生が瓶を生ずると立てるならば、一もまたそうあるべきである。

「内曰く」、これは総破である。二つの意がある。一つは奪、二つは縦である。奪とは、神は本、法は末である。本が既に前に無ければ、どうして末が有り得ようか。外人は上に法有りと明かして人も有ることを証した。論主は人の無いことでもって法も無いことを類推する。二つの義は斉しいべきだが、ただ人の無いことは既に彰らかで、法の有ることは未だ顕れていない。ゆえに外は屈し、内は申す。

「今思惟す」の下、次に縦破である。縦し人を無しとして法を有りとし、さらに一異を開いて責める。三法が一体であるか、三法が異体であるか。ゆえに「若し一を以て有と為し、若し異を以て有と為す」と言う。

問う:破ることは百端ある。「神の品」で既に一異を開いて定めたのに、今、再び説くのはなぜか。

答える:破ることは千端あるが、ただ外道の義の宗は唯だ一異のみである。先に神と覚の一異を立て、今、総別の一異を立てる。ゆえに論主はまた一異をもってこれを定める。また、一異の破りは顕かであり、愚か者も智者も皆知る。ゆえに偏って用いる。また、先に一異を用いて人を破り無としたので、今、彼に発悟させるため、既に悟ったものを用いて、まだ悟らざるものに曉らすのである。

「外曰く」の下、第二に別立・別破である。また三つの別に開く。第一は、正しく自宗の三法一体を破る。第二は、外が他を引いて三法一体を証することを破る。第三は、外が因を挙げて果を証することを破る。これは文が三つであり、義は四つである。初段は自ら立てた義を破る。次章は他を引いて立てることを破る。この二つは総別の果法を破る。後の一つは総別の因を破る。ゆえに自他因果の四つである。

今、先に三法一体の立を受けて定めれば、ゆえに三法がある。三法一体を立てる理由は、その義は甚だ精緻であり、決して軽率ではない。瓶を離れて有はなく、有を離れて瓶はない。ゆえに有の体は即ち瓶の体、瓶の体は即ち有の体である。しかして総別を開くのは、正しく言えば、天下の物は全て有である。ゆえに「有」という語は通じている。瓶の有が既にそうであるように、一の数も同じである。瓶を離れて一はない。ゆえに一は即ち瓶である。ただ、一の数は語が通じているので、別に立てるのである。

内の破りは三つである。一つは法を牒す、二つは譬を挙げる、三つは正しく破る。

「若し有一瓶一あらば」とは、この三法一体を牒す。「如一」とは、譬を挙げる。例えば天主は一体であり、三種の義があるので三つの名を立てるのと同じである。

「一切成ず」の下、第三の破りである。三種の破りがある。すなわち一切成、不成、および顛倒である。

一切成とは、三種の成がある。一つは体成、二つは義成、三つは名成である。三法が互いに成すれば、すなわち三種の体成、三種の義成、三種の名成となる。ゆえに一切の法の体は皆一物の体と成り、一切の物の義は皆一物の義と成り、一切の物の名は皆一物の名と成る。もし

「外曰應有瓶皆信故」,自上已來第一破自立三法一體竟,今第二破外人引他證立。今前立、次破。立中不明三法一體,直言有瓶者,有三種義:一世人未必皆執三法一體,而世人皆執有瓶,故偏舉瓶。二者既秤有瓶,當知世人即信有是瓶,故知有即是瓶信瓶是一,不可二瓶,故一即是瓶,故此文含一體之義。三者自上已來破大總別義,從此已後破細總別。總別中凡有二種:一者外瓶、二者內身。破此內外即明內外皆空,故今文偏舉瓶也。注中秤「眼見」者,上舌救辭理已窮,是故舉眼。「內曰有不異故一切無」,雖引世證,終明一體,則自立他證一切不成,故云一切無。二者自他同立三法一體,瓶與有一則失別、有與瓶一則失總,故一切無。又瓶與有不異、有與萬物不異,汝用瓶盛水時應用一切物盛水;一切物不堪盛水,則瓶亦應然,故瓶盛水義壞,故一切無。瓶義既壞,餘物例然,故一切無。又以常於無常則無常不成無常,無常於常不成常,故云一切無。「外曰如足分等名身」,前破外總別,今破內總別,故外人舉內證外,救上一切無難,應言一切有也。攬頭足為身故總別一體,頭足相異故總別不同,故一體義成、總別又立,即是一切有也。注中明二義:一辨內法、二例外法。明內法有二:前辨總別一體,故云「頭足分等雖不異身,非但足為身」者,此明總別義異。此云非但者,非是也,足是別故非總、身總身,故總別義異。「如是瓶」下,次明外法亦二:初別不異總,明總別一體。「而瓶非總相」,第二明總別義異。「內曰」下,破上總別一體義異也。初牒一體。「何故足不為頭」,破一體也。足與身既一,頭與身亦一,身既一頭足便一,則失別相。總別既一,失別則失總,還隨一切無也。「外曰諸分異故無過」,救上頭足不異之難也。我明頭足不異身,不言頭足自不異,故頭足相望恒別非總、頭足之別以成總身,恒總非別故二義俱成,不應偏難。「內曰若爾無身」,縱其頭足異義,則但見諸分,無別總身也。總觀文前後可有六句:一以別從總,總一別則一,得總而失別;二以總從別,別總成別,得別失總;三別不從總,別與總異;四總不從別,總與別異;五欲令總別體一而不相從,則墮亦一亦異;六反並之。汝總別一體,而總一別不一,亦應別一總不一。「外曰」下,救上無身難也。前法、次譬。「多因」者,謂頭足也。「一果現」,一總身也。攬頭足多因成一總身果,何故言無身?「如色等是瓶」,前舉內證外,今舉外證內。注云「非但色為瓶」者,色望香是別而非總。「亦不離色為瓶」者,攬色成瓶。攬色成瓶明總別一體,非但色為瓶明總別義異,故就體恒一、就義常異。「內曰如色等瓶亦不一」,上舉外證內,今破外同內。亦有六難:一以總從別,得別失總;二以別從總,得總失別;次三四互不相從,應互異;五欲令一體而不互從,則亦一亦異;次六總別一體,別多而總一,亦應總多而別一。合此六難以為四過:初兩得一宗而失總別、次兩得總別而墮異義、第三俱得而成勒沙婆、第四顛倒並失三宗。尋僧佉總別常有二義:一者攬別成總,總別不異;二者別別相望則是異義。如非但色為瓶,此是別別相望恒異義;不離色為瓶,此是別不異總義。論主始終還捉二義,破其二義。若別不異總,則總一別亦一,便失別異義;若別別恒異,則失總義。照此二條,一品皆曉也。「外曰如軍林」,救上瓶不多難也。外國象軍,上有四人、下一人;馬軍,上一人、下二人;車軍亦四人;步軍四人相著。從品初至此,凡有四意:一者通立總別一體;二從外曰應有瓶皆信故,別立外法總別一體;三者從如足分等名身,別立內法總別一體;四今此文,雙立內外。軍內林外,故是別立猶是一類。而翻覆四章者,但內外之法惑人多愚,故隨執破之。又《淨名》云「何謂病本?謂有攀緣。云何斷攀緣?謂無所得。云何無所得?謂內見外見是無所得。」令欲息其病本,故歷法破之。「內曰眾亦如瓶」,此可二意讀之:一者眾終音,明外人引事無究。今欲遮其後救,明如是眾多猶為一類,並同瓶說。二者外云軍林、內略軍林,二言總名為眾,並同於瓶招六種過也。注文中具二意:從初是眾音,「如松樹」下,是終音讀之也。「外曰受多瓶」,自上已來捉立為立,今捉破作立。汝上不許我一瓶者,必欲受多瓶,若受多瓶豈無一瓶?「內曰非色等多故瓶多」,非我義立色多瓶多,此是汝立耳。汝未識彼我,呼之汝為我,豈不惑哉?又汝言我云色多瓶亦多,此為是難、為是立?此實是難,而汝謂立,汝乃不識破立,何猶解總別義耶?又汝既受一亦受於多,以破一故見多、破多故見一、破一多故見亦一亦多,乃至見非一非多,如破有見無、破無見有等,故並是汝過。我一無所受一亦不受多,如是五句。又就汝覓一不得,何處有多?如是五句。有無亦爾。
「外曰」下,品開三章。二段已竟,今是第三破總別因。若假實義,上來破假,今次破實。前問、次答。外云:汝上但明塵多故瓶多、分多故身多,但是破果;今既有因,必應有果。注中「復次」者,明色亦因亦果,望瓶為因、望塵為果。「內曰如果無因亦無」者,二義:一者汝謂因有故果有,我明果無故因無。果無已彰、因有未顯,故外屈內申。二者徵宗破,汝因果既一,果無即因無,復次三世為一。上立因果一,法體壞;今立因果一,三時壞。上破因成,今破相續。因若即果,無土可謝,便無過去;果若即因,瓶非未起,故無未來。既無過未,何有三世?又過未二時攝入現在,故云一也。「已作今作當作者如是語壞」者,上明體壞,今辨名壞。「外曰因果相待成故如長短」,自上已來破因成相續,自此已後破相待。若具作三假分章者,初破因成;三世為一,破相續;今破相待。外舉長短救三世一也。如五尺形一丈為短、比三尺為長,一物而有長短,亦一物而有三世。注曰「因長見短因短見長」者,因一丈物見五尺為短也。「觀瓶即是因」者,觀猶望也。泥望瓶為因、望土為果,數論皆有此義。數云:一念有漏,詶前為果、望後為因。《成論》習因義亦如是。「內曰」下,偈本為二:初標章門、次釋章門。「因他相違共過故」者,標三門也。因果之義已漏,前責外以長短為喻,今但破喻則所喻自亡。「非長中長」者,釋上因他。長若自長,何須因他?又若長在長中,則長應待長。又若長自待長,指還觸指。又若長自待長,則長不待短。此則以不待為待、待為不待,義成大亂。又長既待長、長復待短,是則一切皆待;無有不待,云何有待?「亦非短中」,釋上相違。若短中有長,則長短相害。長在短中,短者為長、長者成短,是則顛倒。又長在短中終成短,則無有長,以何待短?又由短故長,長在短中;由涅槃故生死,生死在涅槃中。淨穢等萬義皆爾。中假義云:他有長可長,不由短故長。此是長在長中。今無長可長、由短故長,此義墮在短中。若言長名由短起、長體不由短,當知此長通在二處,入第三句破。又長名由短起,長名在短中,則長名不自長。若長體不由短、長體不待短,長體應自待長。若長名體俱待於短,則長名體俱在於短。若俱在短,則長短並短,無復有長。既無有長,云何有短?一切皆無。「及共中」者,釋上共過。若二處有長則具招兩失。注為二:初破長短、二明無相待。初又二:前破長、次例短。初又四:一牒、二定、三非、四釋。「若實有長」,初句牒。「若長中有」,第二定也。「是不可得」,第三非也。「何以故」,第四釋也。餘文易知。開善有定待如色心,有不定待如長短。莊嚴云:有相開避待如色心,有相傾奪待如長短。並入今門所責。

2 破神品(中之上)
4 破異品(中之中)

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