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百論疏 (百論疏)


破情品第五
破法有三雙:前破一異次破情塵者,一為歷法觀行,雖知一異已空,未語情塵非有,今欲歷法明空,令觀心觸境斯淨,故次破情塵。二者顛倒虛妄起無根本、聊亂而生,有病便治、隨救即破,故前破一異之病,今洗情塵之執。三者菩薩作論本為通經,而方等眾經皆明六情本性空寂,但經中散說,利根能悟、鈍者未了,今廣釋之,故有此品。四者一切眾生有此情故起諸煩惱,在家之者因情塵而起愛、出家外道由情塵而見生,佛法有所得大小乘人義亦如是;今觀此情塵究竟無從,故大小內外愛見便息,故有此品。又諸方等經皆明六根懺悔悟六本空即六根罪滅,四依欲為末世懺悔故觀六根空,又《法華》等明六根清淨,今悟六本空,故六根淨耳。今欲釋如此等經,故破六情。皆是通來意也。次別來意者,前破一異總破諸法,以萬法與於大有一體異體義皆不成;從此已後別破諸法,謂萬像之中有情塵因果,前總後別,觀門次第亦是立義前後,故有此品。二者前破一異通破常與無常法,今次別破無常法,亦是前總後別以為次第。三者一異理隱、情塵義顯,故捨彼一異更立情塵,故有此品。四者一異偏是外道所計、情塵內外同執,故別計不成故引通來救,故有此品。五者上〈破異品〉末論主呵外人云無見有有見無,今接此故舉實有情塵而有見有,非無見有亦非有見無。論主若破情塵,則有見於無而別立佛法謂無見有,故有此品。前破情次破塵者,情內塵外親疎不同,故破前後。問:今破一異,與破情塵義齊以不?答:通義則齊。外道橫計一異故,謂於大有與萬法一體異體。亦外道橫計偏造,遍造之情及瓶等可見之塵實無此法,故破義是齊。而小異者,大有一體異體唯外道所執,故餘處云外道大有經說此則破而不取。若是情塵,通於內外,故亦取亦破。若橫謂有者,則破而不取。因緣假名情塵,取而不破。問:此品破情與《中論.破情品》何異?答:《中論》但破於情、不破知生義,今則具足。《中論》通破見義、不別開到不到,此論別破到不到義。所以然者,《中論》破內學,內學大小乘人但明不到能見,故《中論》直破其見。外道具執到不到見,故此論具破二迷。所言情者,《智度論》云「九十六術不說意識,意識難解故,但明五情及以於意。神御於意,行眼等中,故能見色。」問:既稱外道不說意識,云何言意行眼門?答:外道不明從意根生意識,但言有心平等根名之為意,神御此意行眼等門耳。今言破情者,有二義:一者正破外道無六計六,傍破內人橫謂之六;二者若內若外有此六情名,皆起佛法。《成論》云「劫初物未有名字,聖人為受用故假為立名,如瓶衣等。」問:聖人何故說六?答:道門未曾六不六,但為顛倒故受此六根,聖人欲令其悟六無,是故說六。如經云「為令悟第一義,故說世諦。」所以令悟六無。六者三世諸佛出世皆為一大事,謂開示悟入諸佛知見。諸佛知見即是四智,觀此六情本來寂滅,名如來智;雖復寂滅於顛倒眾生宛然而六,即是佛智;悟六無六,了無六六任運現前,名自然智;此之三智不從師得,名無師智。此之四智是佛知見,三世諸佛為欲開示悟入此智見故出現於世。此四智觸處皆得明之,但約眾生心為正意,故就〈情品〉說之。

法の破し方には三組の対がある。まず「一と異」を破り、次に「情と塵」を破る。その理由は五つある。

第一に、修行の順序として、まず諸法を観じて「一と異」が空であると知っても、まだ「情と塵」が実在しないことには気づいていない。そこで今度は諸法を詳しく観じて空を明らかにし、心が対象に触れても清らかになるようにするため、次に「情と塵」を破るのである。

第二に、迷いの虚妄は根拠なく無秩序に生じるものであり、病があれば治療し、執着があれば破るという次第による。先に「一と異」という病を破り、今度は「情と塵」という執着を洗い清めるのである。

第三に、菩薩が論を著すのは本来、経典を解釈するためである。大乗経典はいずれも六情の本性が本来寂静であると説くが、経典では散在して述べられているため、利根な者は悟れても鈍根な者は理解できない。そこで今、広く解説するためにこの品がある。

第四に、すべての衆生はこの情があるがゆえに諸々の煩悩を起こす。在家の者は情と塵によって愛著を生じ、出家の外道は情と塵によって邪見を生じる。仏法の学び手である大乗・小乗の者もまた同じである。今、この情と塵を究極的に見るとその根源がないと観じるので、大小・内外の愛著と邪見がたちまち消える。そのためにこの品がある。

第五に、諸々の大乗経典は六根の懺悔を説き、六根の本来空なることを悟れば六根の罪が滅びるとする。四依の菩薩は末世の衆生のために懺悔しようとして六根の空を観じる。また『法華経』などは六根の清浄を説くが、今、六根の本来空なることを悟れば六根は清らかになる。このような経典を解釈するために、六情を破るのである。

以上が総体的な趣意である。

次に個別の趣意を述べる。

第一に、前の品で「一と異」を破ったのは、諸法を総体的に破したのである。すべてのものと「大有」が一体か別体かという議論がすべて成り立たないことを示した。この後は諸法を個別に破していく。すなわち、万象の中には情・塵・因果があるが、先に総体を破り後に個別を破るのが観行の順序であり、また立論の前後でもある。そのためにこの品がある。

第二に、前の品で「一と異」を破ったのは、常住の法と無常の法とを共通に破したのである。今度は無常の法を個別に破す。これも先に総体、後に個別という順序である。

第三に、「一と異」の理は奥深く、「情と塵」の義は顕著である。そこで「一と異」をいったん置いて、改めて「情と塵」を立てて論じるためにこの品がある。

第四に、「一と異」は外道だけが計り執するものであるが、「情と塵」は内外ともに執するものである。個別の計執が成り立たないので、共通の論題を引き出して救おうとするためにこの品がある。

第五に、前の『破異品』の末尾で論主が外人の「無を見て有とし、有を見て無とする」見解を批判した。これに続いて、実際に情と塵が存在するという「有を見て有とする」見解を示し、それは「無を見て有とする」のでもなく「有を見て無とする」のでもないと明らかにする。論主が情と塵を破れば、「無を見て有とする」立場から仏法を立てることができる。そのためにこの品がある。

情を先に破り、塵を後で破るのは、情は内、塵は外であって親疎の違いがあるからであり、そのために破る順序が異なる。

問う:今、「一と異」を破るのと「情と塵」を破るのとは、その意味は同じか。 答える:通じて言えば同じである。外道が「一と異」を誤って計るのは、「大有」と万物が一体か別体かと考えるからである。また外道が誤って「偏造」「遍造」の主体や、瓶などに見える塵が実在すると考えるが、実際にはそのような法はないからである。したがって破る意味は同じである。しかし小さな違いがある。「大有」と一体・別体は外道だけが執するものであるから、他の場所で「外道の大有経が説くところである」として破って取り入れない。しかし「情と塵」は内外に共通するものであるから、取り入れもするし破りもする。もし横さまに実在すると考えるならば破って取り入れない。因縁によって仮に名づけられた情と塵は、取り入れて破らない。

問う:この品で情を破るのは、『中論』の「破情品」とどこが異なるか。 答える:『中論』はただ情を破るだけで「知が生じる」意味は破らないが、今の論は完全に破る。『中論』は「見る」意味を総体的に破るだけで、「到る」「到らない」を区別して破らない。この論では「到る」「到らない」を個別に破るのである。その理由は、『中論』は内学を破るためであり、内学の大乗・小乗の者は「到らずして見える」と説くだけであるから、『中論』は直接その見解を破る。外道は「到る」「到らない」の両方の見解に執着するので、この論では両方の迷いを完全に破るのである。

ここで言う「情」とは、『大智度論』に「九十六種の外道は意識を説かない。意識は理解し難いからである。ただ五情と意とを説くだけである。神が意を統御し、眼などに作用して色を見ることができる」とある。

問う:外道は意識を説かないと言いながら、なぜ「意が眼の門に行く」と言うのか。 答える:外道は「意根から意識が生じる」とは明かさず、ただ平等な根がある心があり、それを「意」と名づけ、神がこの意を統御して眼などの門に行くと言うだけである。

今、「情を破る」と言うのには二つの意味がある。第一に、外道が六情がないのに六情があると計るのを正しく破り、あわせて内道の修行者が横さまに六情があると考えるのを傍らで破る。第二に、内外を問わずこの六情という名称があれば、すべて仏法の起源となる。『成実論』に「劫の始めには物に名前はなかったが、聖人が受用のために仮に名前を付けた。瓶や衣などのように」とある。

問う:聖人はなぜ六と言うのか。 答える:道の門は本来、六でもなく六でないでもない。しかし衆生が顛倒しているためにこの六根を受けるのであり、聖人はその六がないことを悟らせようとして六と説くのである。経典に「第一義を悟らせるために世諦を説く」とあるように、六がないことを悟らせるために六と言うのである。

三世の諸仏はすべて一つの大事のために世に出現する。それは「諸仏の知見を開き、示し、悟らせ、入らせる」ことである。諸仏の知見とは四智である。この六情が本来寂静であると観じることを如来智と言う。寂静でありながら、顛倒した衆生にとってはそのままに六である、これを仏智と言う。六があって六がないと悟り、六がないことも六があることも任運に現前する、これを自然智と言う。この三智は師から得るものではない、これを無師智と言う。この四智こそが仏の知見であり、三世の諸仏はこの知見を開き示し悟らせ入らせるために世に出現するのである。この四智はいたるところで明らかにすることができるが、衆生の心に即して説くのが正意であるため、「情品」において説くのである。

品開為二:一破眼情、二例餘五。初又二:初破情令生知、二正破情。初是破果、次名破因,因果既破,情事盡矣。「外曰定有我我所有法現前有故」,〈破一品〉初以法證人,今此品初以法證法。定有我所者,謂有一瓶也。有法現前有故者,舉五情生知,證有一瓶等我所法也。現前者,五識知現在法也。又現事可信也,誰不知青黃者哉?所言知者,六根皆四合,四合中皆生知,眼與塵合知青黃,乃至意與法合能知法。今但取五知、不論意知者,有二種義:一者外道不說意識,如上所明;二者意通知三世,非顯現法故不舉之,五情對五塵生於五知是顯現法,故偏舉也。問:觀此文既言生知,即似偏破衛世師義。答:正破衛世,以接上〈破異品〉,故世師立四合生知通前無見有、有見無難;而僧佉明緣合故有覺知用,約義用邊亦得論生,但體不生耳。問:此中何故但明三合?答:外人舉法證法不復存神,若重存神則便墮負,故但立於法。法義若成,人義自立,是故文云定有我所。「內曰見色已知生何用」,內破知生有三門,謂前、後、一時也。今是前見後知破。本為未見青黃之色,可須青黃之知;今眼見青黃已分明,則知生無用?此正破數義。眼根既能見色,何用識耶?若必須識方了青黃,何名眼見?若眼識和合方能見者,則違義宗立眼能見。「若前知生」下,第二破前知後見。然前知後見,知則有用,但以見無,故知不得生。二者復有違宗之過。汝云四合生知,今四未合而知遂生,故違前宗。前得宗、知墮無用,今知得用、墮違宗。「外曰若一時生」者,救云:見色時即知生,知生時即見色,故無上二過。問:何故無修妬路耶?答:有二義。一者外人前立現前一知,提婆頻搆三難,謂前、後、一時。但天親欲發一時之破,故義生外立,故無修妬路也。亦可易解故不釋,所以無也。「內曰」下,偈本為四:一牒、二非、三難、四釋。「若一時生」,牒也。「是事不然」下,非也。「生無生共不一時生」,第三難也。問:此就何難?答:正就無生門難,以外人立一時生故;今但破其生,則一時自壞。又生通前後一時,今破於生則備破三義。又若但破見知一時,則不得兼破餘法;今若破生,得兼顯萬法無生。「有故無故前破故」,第四釋破。有故,釋上生。無故,釋無生。前破故,釋上共。但前破有二:一者有無望共則為在前,故破有無名為破共。二者依天親以初二偈本名之為共,初偈破前見後知,此是有見無知;次偈破前知後見,是有知無見。前二既破有無則名破共,故云前破。又偈本中明云有故無故,此二即是二修妬路。還指此二,故云二修妬路也。注中為二:前釋偈本、次義破一時。所以明此二者,外立一時生,偈本破其生,天親義破一時有,則二義盡矣。初又三:一牒;「於三中」下,次總非;「何故」下,三正破。復次「若一時」者,第二義破一時。見則是因、知名為果,若知見一時,便為並失相待也。「復次眼為到色見耶」,自上已來破知生義,今第二次破其見。亦開三門:一到不到門破、二破眼性自見、三重破到不到見。內法大小乘義乃不同,並云眼是遙矚不到能見。僧佉亦云眼可懸矚,所以眼見惡事即須避之、逢見好事須就之,耳聞聲亦爾,此與佛法全同。鼻舌身三根為成身故到根方知,與內義亦同。提婆今總破眾家,故開二關責也。初破到色見易解。「復次」下,天親欲難上破到見義,生破不到見。應有四難:一者近遠俱不到,應俱不見。二近遠俱不到,則應俱見。三若見近不見遠,應到近不到遠。四若見近不見遠應見遠不見近。「復次」下,開二門重責到色見義。初云若見色已方去,墮無用過;若不見而去,得有見用而違意所取。「復次無眼處亦不取」下,重開二門破到不到。初明若眼去到色,得取色義而面上失眼;「不去」下明面不失眼而失取義。「復次」下,重破眼不到色,亦有四難:一等是不到,則障內外俱見;二俱不見;三見障內不見外,亦應見外不見內;四有見不見、有到不到。以內外兩家皆云不到,宜委曲破之。《涅槃經》云「若到見者,今眼見火,火應燒眼;眼見水,水應濕眼。」《智度論》二十八卷解知眾生心趣向,外人問云:「知眾生心趣向,為去不去?若去則同死人,不去則不與境合。又若不去,經那云因眼緣色生於眼識?」論主答云:「不去不住而能知,此猶難解。若言心法非去不去,亦應非知不知。若云心是慮智故知者,今問慮智為云不去,終不免責。」
「外曰眼相見故」,自上已來破到不到見,今第二破眼自見。上以到不到二門責之,辭理俱屈,外無以救,但云眼是見相,不有眼而已,有即體性能見,何論到與不到?「內曰若眼見應自見眼」,熱是火體相而自他俱熱,見是眼體相應自他俱見,開眼則覩外青黃、合眼應見內黑白。又問:眼為是見為非見耶?眼若是見,既自是眼應當自見,若自不見自應非眼。又見若是眼,若常有眼則應常見,若有時見不見則有時眼不眼。若見異眼,則見自見應非眼見。又若見異眼,熱應異火。「外曰如指」,論主舉火為難,外用指為通。當時未必發言,亦可直舉於指。「內曰觸指業故」,眼以見為相,指不以觸為相,故非喻也。又若觸即是指,不觸之時應當無指。若常有於指,亦常有於觸。又觸即是指,既自是指則應自觸,若不自觸應不自指。又若見即是眼,自既不見,自應非眼;自若是眼,自應能見。又自不見而是眼,則見他應非眼。又三節是指相,何異見是眼相?今無見遂有眼,無三節應有指。若取指動搖為指相,亦應取眼開閉為眼相。

外なる者が言う:「眼は見るという相を持つからである。」これまで、至る・至らざるによる見を破ってきたが、今、第二番目に眼が自らを見ることを破る。先に至る・至らざるの二つの門によって責めたが、言葉も道理も共に窮し、外なる者は救う術がなく、ただ「眼は見るという相である。眼が存在しないということはない。存在すれば体性として自らが見る能力がある。至るとか至らざるとか論じる必要があるのか」と言うのみである。

内なる者が言う:「もし眼が見るならば、自ら眼を見るべきである。」熱は火の体相であり、自他ともに熱くなる。見ることは眼の体相であり、自他ともに見るべきである。眼を開けば外の青や黄を見、閉じれば内の黒や白を見るべきである。

また問う:「眼は見るものなのか、見るものではないのか。眼がもし見るものならば、それはすでに眼であるから自らを見るべきである。もし自らを見なければ、それは眼ではないはずである。また、見ることがもし眼であるならば、常に眼が存在するなら常に見るべきである。もし見る時と見ない時があるならば、眼である時と眼でない時があることになる。もし見ることが眼と異なるならば、見ることは自らを見るのであって、眼が見るのではない。また、もし見ることが眼と異なるならば、熱は火と異なるべきである。」

外なる者が言う:「例えば指のようである。」論主は火を挙げて難じ、外なる者は指を用いて通釈する。その時、必ずしも言葉を発したとは限らないが、直接指を挙げることもできよう。

内なる者が言う:「指に触れるという作用があるからである。」眼は見ることを相とし、指は触れることを相としない。ゆえに譬えとはならない。また、もし触れることがすなわち指であるならば、触れない時には指が無いはずである。もし常に指が存在するならば、常に触れることも存在する。また、触れることがすなわち指であるならば、それはすでに自らが指であるから自らを触れるべきである。もし自らを触れなければ、自らは指であるべきではない。また、もし見ることがすなわち眼であるならば、自らが見ない以上、自らは眼であるべきではない。自らがもし眼であるならば、自らが見ることができるべきである。また、自らが見えなくても眼であるならば、他を見ることも眼であるべきではない。また、三つの節(指節)が指の相であるのと、見ることが眼の相であるのと何の違いがあろうか。今、見ることなくして眼があるならば、三つの節がなくても指があるべきである。もし指の動きを指の相とするならば、また眼の開閉を眼の相とすべきである。」

「外曰光意去故見色」,第三重破到不到。所以重破到不到者,外人聞內初作到不到破,當時辭理俱屈無以取通,但云眼體性能見,論主乘言仍責見相不成。今外智思更生重通前到不到義,云我義具有到不到,眼光與意去到於色,而眼體不到於色。所以須意去者,一者意欲見前色故往就之、二者眼光無知須意導御,是故意與眼光共去。成論師云:眼光不去而意非去不去。「內曰若意去到色此則無覺」,縱去奪覺也。若意遂去,身則無意,由如死人。以此譏於外道。外看內面是死,外道何能言論。又亦應云:眼光若去,眼體無光,是盲外道。注為二:前釋偈本。「然意實不去」不,有兩義釋意不去:一者近遠一時,知非是去法。二者過去已謝,意若遂去,意亦應謝;未來未起,意緣未來亦應未起。而實不爾,故知不去。「外曰如意在身」,通上無覺之難也。意在身非是無覺,意力能遠知諸塵,則二義成也。「內曰若爾不合」,意本去得合,既其不去是則不合,乃免無覺之過,復墮不合之咎。「外曰意光色合故見」,諸立之中此救最巧。眼意在身,離無覺無眼之咎;意力能運眼光到於前色,則與色合,故免無合之過。「內曰若合故見生無見者」,縱合奪見也。此者乃者於人乃者於主。明五種和合:一眼、二光、三意、四意力、五色。五法之中見定屬誰?誰為見者?五合方見,則不應言見定屬眼。「外曰受合故」者,捉破為立也。內以和合用破於見,外即執合以之為立,但令有合則有於見。「內曰」,明三法體異終不得合。又三法體異各無見理,雖復共合終不能見,如三盲共聚終無見性耳。上明不合不得見,今明合不得見,故畢竟無見。如呵迦葉見色與盲等,呵善吉不見佛乃是識佛耳。《大品》等明諸法無所見無所知,並是此品意也。「耳鼻」下,第二例破餘情。

「外曰:光意去故見色」――第三に「到不到」を破る。なぜ「到不到」を重ねて破るのか。外人が最初に「到不到」の論破を受けた時、言葉も道理も尽きて通じる術がなかったが、ただ「眼体は本来見える性質を持つ」と言い、論主はそれに乗じて「見相は成り立たない」と責めた。そこで今度は外智が考えを新たにして、前に論じた「到不到」の意味を再び通じさせようとし、「我が義には到不到が備わっている。眼光と意は色へと至るが、眼体は色に至らない」と述べた。なぜ意が至る必要があるのか。一つには、目の前の色を見ようとして意がそれに向かうからであり、二つには、眼光には知覚がなく、意の導きを必要とするからである。ゆえに意と眼光は共に至る。成論師は「眼光は至らず、意は至るのでも至らないのでもない」と言う。

「内曰:若し意、色に到らば、此れ則ち覚無し」――意が至ることを認めた上で、覚を奪うものである。もし意が去ってしまえば、身には意がなくなり、死人のようになる。これをもって外道を諷刺する。外人が内側を見ればそれは死であり、外道がどうして議論できようか。また、「眼光が去れば眼体に光はなく、外道は盲目である」とも言うべきである。注釈には二つある。前に偈の本文を解釈する。「然るに意は実は去らず」には、二つの意味で意の不去を釈する。一つには、近いものと遠いものが一時に知られるのは、それが「去る」という法ではないからである。二つには、過去はすでに過ぎ去っているのに、意がもし去るならば、意もまた過ぎ去るべきである。未来は未だ起きていないのに、意が未来を縁ずるならば、意もまた未だ起きていないべきである。しかし実際はそうではないので、意は去らないと知られる。

「外曰:意は身に在り」――上の「無覚」の難を貫く。意が身にあれば、無覚ではなく、意の力は遠く諸々の塵を知ることができる。これにより二つの義が成り立つ。

「内曰:若し爾らば合わず」――意は本来、合わんがために至る。既に至らないならば、これは合わないことになる。無覚の過ちを免れたとしても、また不合の咎に陥る。

「外曰:意・光・色、合うが故に見る」――諸々の立論の中で、この救いは最も巧みである。眼と意は身にあり、無覚・無眼の咎を離れる。意の力は眼光を運んで眼前の色に至らせ、色と合わす。ゆえに無合の過ちを免れる。

「内曰:若し合うが故に見生ずるも、見無き者は無し」――合うことを認めた上で、見を奪う。これは人に就き、主に就く。五種の和合を明らかにす。一に眼、二に光、三に意、四に意力、五に色。五法の中において、見は定めて誰に属するのか。誰が見る者なのか。五つが合わさって初めて見えるならば、「見は定めて眼に属す」と言うべきではない。

「外曰:受くるが故に合う」――破を捉えて立となす。内は和合をもって見を破し、外は即ち合を執ってこれを立と為す。ただ合があるならば、即ち見がある。

「内曰」――三法は体が異なり、ついには合わないことを明らかにす。また三法は体が異なり、各々見る道理はない。たとえ共に合わさっても、ついには見ることができない。三匹の盲人が集まっても、ついには見る性質がないのと同じである。上には不合によって見るを得ないことを明かし、今は合によっても見るを得ないことを明かす。ゆえに畢竟、見は無い。迦葉が「色を見ること盲人等の如し」と呵られたこと、善吉が「仏を見ず」というのが、実は仏を識るのであることなどと同様である。《大品》などには「諸法は見る所無く、知る所無し」と明かされており、すべてこの品の意である。

「耳鼻」以下、第二に残りの諸根を例に取って破る。


4 破異品(中之中)
6 破塵品(中之下)

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