No. 1080-B瑜伽集要施食儀軌序
(No. 1080-B 瑜伽集要施食儀軌の序)
瑜伽施食法。藏有多本。其最初唯佛示阿難陀羅尼一章而已。而教令誦之二十一徧。即今變食真言是也。嗣是則漸增。增而至坊間所稱瑜伽集要。而詳矣盡矣。不可以復增矣。乃時師更附益以外集。繁衍叢沓。浸失古意。舉其甚。如梵五供養。夫布思必度必等。已皆梵語。何得梵而又梵。如三十五印。夫印必有所受。五十三佛。一佛一印。未委出自何經。遂使強半光陰。閒雜哦咏。而切要處。反速過如流泉。豈不徒勞而無功哉。況板以歲久模糊。先佛字種。漫不可別識。而捨刻就抄者。又於昔賢箋註。刪削殆盡。且字種滅。則觀何從生。註去。則觀雖存而莫知所以用。近有起而正之者。但後先猶或失次。雅俗尚未全𨤲。識者病焉。茲心弦居士包君。發廣大心。聚諸劂生。將徧刻經律論藏。以補前人所不及。因舉此屬予。予依集要。而重加參定。以成善本。庶登壇者。知三業相應之謂瑜伽。手之所結。必端必嚴。毋拈弄舞揚而類戲掉。口之所誦。必真必正。毋扭捏彈咤而淆密語。意之所作。必精必專。毋散心亂想而虧正觀。夫然後身與口協。口與意符。意與身會。而以此度生。亦以此自度。功德不可思議。瑜伽行人。願相與諦審而力行之。
瑜伽施食法には多くの版本があります。その最初は、お釈迦さまが阿難陀に示された陀羅尼の一章だけでした。それを二十一遍唱えるよう教えられたのです。これが今でいう変食真言です。その後、少しずつ増えていきました。増え続けて、世間で『瑜伽集要』と呼ばれるものになり、詳しくもなり、極めつくしました。もうこれ以上増やすことはできません。ところが、現代の師たちはさらに外集を付け加えました。繁雑で重なり合い、古い趣旨が次第に失われていきました。その甚だしい例を挙げれば、梵五供養があります。布思必度必などは、すでにみな梵語です。どうして梵にまた梵を重ねるのでしょうか。三十五印も同様です。印には必ず伝承があるはずです。五十三仏で、一仏に一印。どの経典から出たのか不明です。そのため、時間の大半を、とりとめのない詠唱に費やし、肝心なところは、かえって流れる泉のように速く過ぎ去ってしまいます。まさに労多くして功なしではないでしょうか。ましてや版木は年を経て不鮮明になり、先仏の字種も見分けがつかなくなっています。刻版を捨てて写本に頼る者は、昔の賢人の注釈をほとんど削り取ってしまいました。しかも字種が消えれば、観想はどこから生まれるのでしょうか。注釈が去れば、観想はあってもその使い方を知ることはできません。近ごろこれを正そうとする者がありますが、前後の順序はまだ乱れ、雅俗もまだ完全に区別されていません。識者はこれを嘆いています。ここに心弦居士の包さんが、広大な心を起こし、多くの版元を集め、経律論の蔵をあまねく刻んで、前人の及ばなかったところを補おうとしています。そこでこの書を私に託されました。私は『集要』に基づき、重ねて検討を加え、善本としました。壇に登る者は、三業が相応することを瑜伽ということを知るべきです。手で結ぶものは、必ず端正に、必ず厳かに。弄んだり舞い上げたりして、遊びのようにしてはいけません。口で唱えるものは、必ず真実に、必ず正しく。ねじ曲げたり弾いたりして、密語を乱してはいけません。意で行うことは、必ず精純に、必ず専一に。心を散らし想いを乱して、正観を損なってはいけません。そうしてこそ、身と口が調和し、口と意が符り、意と身が合います。そしてこれによって生きとし生けるものを救い、またこれによって自らを救うのです。その功徳は思い計ることができません。瑜伽の修行者は、願わくはともに詳しく吟味し、力を尽くして実践してください。
時萬歷三十四年歲次丙午仲夏望日雲棲袾宏謹識No. 1080
時は万暦三十四年、歳は丙午、仲夏の望日、雲棲の袾宏が謹んで記す。No. 1080
修設瑜伽集要施食壇儀
瑜伽集要施食壇儀の修設
明古杭雲棲寺沙門袾宏 重訂
明の古杭雲棲寺の僧、袾宏が改めて定めた