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宝蔵論 (寶藏論)


本際虛玄品第三
夫本際者。即一切眾生無礙涅槃之性也。何謂忽有如是妄心及以種種顛倒者。但為一念迷也。又此念者從一而起。又此一者從不思議起。不思議者即無所起。故經云道始生一。一為無為。一生二。二為妄心。以知一故即分為二。二生陰陽陰陽為動靜也。以陽為清以陰為濁。故清氣內虛為心。濁氣外凝為色。即有心色二法。心應於陽陽應於動。色應於陰陰應於靜。靜乃與玄牝相通。天地交合故。所謂一切眾生皆稟陰陽虛氣而生。是以由一生二。二生三三即生萬法也。既緣無為而有心。復緣有心而有色。故經云種種心色。是以心生萬慮色起萬端。和合業因遂成三界種子。夫所以有三界者。為以執心為本迷真一故。即有濁辱生其妄氣。妄氣澄清為無色界。所謂心也。澄濁現為色界。所謂身也。散滓穢為欲界。所謂塵境也。故經云三界虛妄不實。唯一妄心變化。夫內有一生即外有無為。內有二生即外有有為。內有三生即外有三界。既內外相應遂生種種諸法。及恒沙煩惱也。若一不生即無無為。若有人言我證無為。即是虛妄。若二不生即無有為。若有人言我證有為。即是虛妄。若三不生即無三界。若有人言定有三界。即是虛妄。是故經云有有即苦果。無有即涅槃。諸聲聞人取證無為。猶有有餘也。乃至十地菩薩。皆有住地無明微細障也。故以一為無為以二為有為。以三為三界。言無為者有二種。一者證滅無為。二者性本無為。言證滅無為者。所謂一切聖人修道斷障體如如也。故經云一切賢聖皆以無為法。而有差別性。本無為者所謂本來法爾非修非證。非人所合非法所契。人法本空體淨真諦。故經云實相之理非有為非無為。不此岸不彼岸。不中流。是以非有為故。即不可修學。非無為故即不可滅證。若有修有證者。非性本無為也。故經云一切法以不生為宗。宗若不生即無無生。無生不生不可為證。何以故。若有證即有生若無證即無生。依本太冥。夫不生者即本際也。不出不沒猶如虛空無物可比。但一切有為之法虛妄不實。緣假相依而有存亡。窮其根趣還本實際。但一切眾生失本。外求竛竮辛苦修習。累劫而不悟真。是以將本求末末妄非真。將末求本本虛非實。夫本者即不合求。何以故。本即不求本也。譬如金不求金也。末即不合修。何以故。妄不求妄也。譬如泥團不可成金也。夫身心之法虛假不實。俗人多以修身心而覓道者。同彼泥團而覓金也。若約身心即是道者。聖人何故說離身心。故知非道也。若本真者亦不合修。何以故。無二法也。夫聖人生而不有死而不無。無有妄想取捨之心。所謂萬生萬死公正無私。法爾自然中無我造。但彼愚夫妄想內起惑心種種見生。故非真實不能明了。然其本際自性清淨。微妙甚深體無塵垢。是以千聖萬賢種種言論。皆是化說於真非真說化非化。是以本際無名名於無名。本際無相名於無相。名相既立妄惑遂生。真一理沈道宗事隱。是以無名之朴通遍一切不可名目。過限量界一體無二。故經云森羅及萬象一法之所印。印即本際也。然本際之理。無自無他非一非異。包含一氣該入萬有。若復有人自性清淨。含一而生中無妄想。即為聖人。然實際中亦無聖人法。如微塵許而有異也。若復有人自性清淨。含一而生中有妄想。自體濁亂即為凡夫。然實際中亦無凡夫法。如微塵許而有異也。故經云佛性平等廣大難量。凡聖不二一切圓滿。咸備草木周遍螻蟻。乃至微塵毛髮莫不含一而有。故經云了能知一萬事畢也。是以一切眾生皆一乘而生。故謂之一乘。若迷故即異覺故即一。經云前念是凡後念是聖。又云一念知一切法也。是以一即一切一切即一。故言一切以一法之功而成萬象。故經云一切若有有心即迷。一切若無無心即遍十方。故真一萬差萬差真一。譬如海湧千波千波即海。故一切皆一無有異也。夫言一者對彼異情。異既非異一亦非一。非一不一假號真一。夫真一者非名字所說也。是以非一見一。若有所見即有二也。不名為真一。又不名為知一。若一知一即名為二亦不名為一。若有所知即有無知有知不知即有二也。是以大智無知而無不知。熾然常知。常知無知假號為知。非我非所非心非意。夫有為數法即有所知。若無為法。猶如虛空無有涯際。即無知不知。夫聖人所以言知者。為有心有數有為有法。故可知也。所以言無知者。為無心無數無為無法。故不可知也。若以有知知於無知者。無有是處。譬如有人終日說空。但人說空非空說也。若以彼知知無知者。亦復如是。夫聖人所以或言我知者。皆是對迷約事。破病除疑實無二者。知無知也。所以說無知者。為彼愚夫不了真一。著我我所妄計能知所知。故說無知無分別。彼愚夫聞已即學無知。猶如癡人不能分別。是以聖人因彼虛妄。即言如來了了知見。非不知也。愚夫聞已即學有知。由有有知即有知礙。亦名虛知亦名妄知。如是之知轉非道也。故經云眾生親近惡知識長惡知見。何以故彼諸外道前知未來。後知過去。中知身心。身心不淨故不免生死。夫一切學無知者。皆棄有知而學無知。無知者即是知也。然自不覺知。復有棄無知而學有知者。知即有覺。有覺故心生萬慮意起百思。還不離苦。彼知二見皆不能當體虛融如理冥契。遂不能入真實也。夫真實者離知無知。過一切限量也。夫見即有方。聞即有所。覺即有心。知即有量。不了本際無方無所無心無量。即無有見聞覺知也。所以真一無二。而現不同。或復有人念佛佛現。念僧僧現。但彼非佛非非佛。而現於佛。乃至非僧非非僧。而現於僧。何以故為彼念心希望現。故不覺自心所現。聖事緣起一向為外境界而有差別。實非佛僧而有異也。故經云彼見諸佛國土及以色身而有若干。其無礙慧無若干也。譬如幻師於虛空中。以幻術力化作種種色象。彼幻人癡故謂彼空中先有此事。彼念佛僧。亦復如是。於空法中。以念術力化作種種色相起妄想見。故經云心如工伎兒意如和伎者。五識為伴侶妄想觀伎眾。譬如有人於大治邊。自作模樣方圓大小自稱願。彼金汁流入我模以成形像。然則鎔金任成形像。其真實融金。非像非非像而現於像。彼念佛僧亦復如是。大智融金者。即喻如來。法身模樣者即喻眾生。希望得佛故以念佛。和合因緣起種種身相。然彼法身非相非非相。何謂非相。本無定相。何謂非非相。緣起諸相。然則法身非現非非現。離性無性。非有非無無心無意。不可以一切度量也。但彼凡夫隨心而有即生見佛之想。一向謂彼心外有佛不知自心和合而有。或有一向言心外無佛即為謗正法也。故經云聖境界離於非有非無非所稱量。若執著有無者。即是二邊亦是虛妄。何以故妄生二見乖真理故。譬如有人於金器藏中。常觀於金體不覩眾相。雖覩眾相亦是一金。既不為相所惑。即離分別。常觀金體無有虛謬。喻彼真人亦復如是。常觀真一不覩眾相。雖覩眾相亦是真一。遠離妄想無有顛倒。住真實際名曰聖人。若復有人於金器藏中。常覩眾相不覩金體。分別善惡。起種種見。而失於金性。便有諍論。喻彼愚夫亦復如是。常觀色相男女好醜起種種差別。迷於本性執著心相。取捨愛憎起種種顛倒。流浪生死受種種身。妄想森羅隱覆真一。是以懷道君子通明達人。觀察甚深遠離群品。契合真一與理相應。夫真一難說。約喻以陳究竟道宗非言可示。夫眼作眼解即生眼倒。眼作無眼解即生無眼倒。俱是妄想。若執有眼者即迷其無眼。由有眼故即妙見不通。故經云無眼無色復有迷眼。作無眼者即失其真眼。如生盲人不能辨色。故經云譬如根敗之士其於五欲不能復利。諸聲聞人亦復如是。唯其如來得真天眼。常在三昧悉見諸佛國土。不以二相故即不同凡夫有所見也。悉能見故即不同聲聞無所見也。彼二見者妄見有無。然真一之中體非有無。但妄想虛立得有無也。夫聖人說言我了了見。或言不見者。但為破病故說見不見也。然真一理中離見不見。過限量界度凡聖位。故能了了見非虛妄也。是以非色法故即非肉眼所見。非證法故即非法眼所見。唯有佛眼清淨非見非不見。了了而見。不可思議不可測量。凡夫絕分。二乘芥子。菩薩羅縠。故知佛性難可見也。雖然如是故。經云佛性普遍無問凡聖。但自身中體會真一何用外覓。晝夜深思內心自證。故經云觀身寔相觀佛亦然。夫觀身實相者即一相也。一相者即空相也。但空無相故即非垢非淨。非凡非聖非有非無非邪非正。體性常住不生不滅即本際也。何以如來法身眼耳鼻舌。乃至身意諸根互用者。為體真一也。以無限量無分劑故。即法身虛通一切無礙。何以凡夫眼耳諸根不通遂無互用者。為妄想分別界隔諸根。精神有量。分劑不通。真一理迷遂無互用。故經云凡夫想識惑妄不通。執著根塵而有種種差別。是以聖人通達真一。無有妄心界隔根塵。故能同用無有心量。夫何謂真一以真無異。無異故萬物含一而生。即彼萬物亦為一也。何以故以本一故。即無二也。譬如檀生檀枝終非椿木也。然彼真一而有種種名字。雖有種種名字終同一義。或名法性。法身。真如。實際。虛空。佛性。涅槃。法界。乃至本際。如來藏。而有無量名字皆是真一異名。同生一義。蓋前三品者亦復如是。夫何以名廣照品者。所謂智鑑寬通慧日圓照。包含物理虛洞萬靈。故言廣照。何謂離微品者。所謂性該真理究竟玄源。實際冲虛本淨非染。故曰離微。何謂本際品者。所謂天真妙理體瑩非修。性本虛通含收萬物。故言本際品也。是故合前三品。一義該收出用無窮。總名寶藏。是以闡森羅之義府。論識物之根由。虛洞太清。陰符妙理。圓之者體合真一。了之者密悟玄通。故明法界之如如。顯大道之要者也。

そもそも「本際」とは、一切の衆生に本来備わっている、さまたげのない涅槃の性質のことです。どうして忽ちにこのような妄心や様々な顛倒が生じるのかといえば、ただ一念の迷いがあるからです。また、この一念は「一」から起こります。さらに、この「一」は「思議を超えたもの」から起こります。「思議を超えたもの」とは、起こるところがないものです。それゆえ経典に「道は一を生じ、一は無為である」と説かれています。

一が二を生じ、二は妄心となります。「一」を知るがゆえに、すぐに「二」に分かれます。二は陰陽を生じ、陰陽は動静となります。陽をもって清とし、陰をもって濁とします。清らかな気は内に虚しく留まって心となり、濁った気は外に凝り固まって色となります。ここに心と色の二つの法が生じます。心は陽に応じ、陽は動きに応じます。色は陰に応じ、陰は静けさに応じます。静けさは玄牝と通じ合い、天地が交わり合うのです。だから、一切の衆生は皆、陰陽の虚気を受けて生まれるというのです。このように、一から二が生じ、二から三が生じ、三から即ち万物の法が生じます。

「無為」に縁って心があり、さらに心に縁って色があるので、経典に「種種の心色」と説かれています。心は万の思いを起こし、色は万の兆しを起こし、業因が和合して、ついに三界の種子となります。三界があるのは、執着する心を根本とし、真の一に迷っているからです。そこで濁った辱めが生じて、その妄気が生じます。妄気が澄み清まると無色界となります。これは心のことです。濁りが澄んで現れるのが色界です。これは身のことです。散らばった滓や汚れが欲界です。これは塵境のことです。それゆえ経典に「三界は虚妄で真実ではなく、ただ一つの妄心が変化したものである」と説かれています。

内に一が生じれば、外には無為があります。内に二が生じれば、外には有為があります。内に三が生じれば、外には三界があります。内外が対応して、ついに様々な諸法や、河の砂の数ほどの煩悩が生じます。もし「一」が生じなければ、無為はありません。もし誰かが「私は無為を証得した」と言うなら、それは虚妄です。もし「二」が生じなければ、有為はありません。もし誰かが「私は有為を証得した」と言うなら、それも虚妄です。もし「三」が生じなければ、三界はありません。もし誰かが「必ず三界は存在する」と言うなら、それも虚妄です。だから経典に「有ることがあれば苦の結果があり、無くなることが涅槃である」と説かれています。

様々な声聞の人々は無為を証得しようとしますが、まだ余分なもの(有餘)があります。十地の菩薩に至るまで、皆、住地の無明という微細な障りがあります。そこで、一を無為とし、二を有為とし、三を三界とします。

「無為」と言われるものには二種類あります。一つは「証滅無為」であり、もう一つは「性本無為」です。「証滅無為」とは、全ての聖人が道を修行し障りを断ち切り、如如の体に達することです。だから経典に「一切の賢聖は皆、無為の法によってその差別がある」と説かれています。「性本無為」とは、本来、法は自然のまま(法爾)であり、修行するものでもなければ証得するものでもなく、人が合わせるものでも法が契るものでもなく、人も法も本来空であり、体は清らかで真実の諦(真理)であることです。だから経典に「実相の理は有為ではなく、無為でもない。此岸でもなく彼岸でもなく、中流でもない」と説かれています。よって、有為ではないから修行学習できず、無為ではないから滅尽して証得することもできません。もし修行し証得するものがあるなら、それは性本無為ではありません。だから経典に「一切の法は不生を宗とする。宗がもし生じなければ、無生もない。無生は生じず、証得とすることはできない」と説かれています。なぜなら、もし証得があれば生があり、証得がなければ生がないからです。それは根本の太冥に依っています。

この「不生」こそが本際です。出ることも没することもなく、虚空の如くで、何ものとも比べることができません。ただ一切の有為の法は虚妄で真実ではなく、縁に仮りて相依って存在したり消えたりします。その根元を窮めれば、本際の実際に還ります。しかし一切の衆生は根本を失い、外に求めてさまよい歩き、辛苦して修行を積み、長い劫を経ても真実を悟ることができません。それは、本をもって末を求めれば、末は妄りで真実ではないからです。末をもって本を求めるなら、本は虚ろで実体ではありません。そもそも本は求めるべきものではありません。なぜなら、本は即ち本を求めないからです。例えば、金は金を求めないようなものです。末は修行すべきものではありません。なぜなら、妄りは妄りを求めないからです。例えば、泥の塊から金を作ることはできないようなものです。

身心の法は虚仮で真実ではありません。世の人は多く身心を修めて道を求めようとしますが、それは泥の塊で金を求めるのと同じです。もし身心そのものが道であるなら、聖人がどうして身心を離れるよう説いたのでしょう。ですから、それが道でないことがわかります。もし本来真実なら、やはり修行すべきではありません。なぜなら、二つの法ではないからです。

聖人は生まれても何かを所有と思わず、死んでも無いとは思いません。妄想や取捨の心がありません。いわゆる、万生万死しても公正無私であり、法爾自然で、その中に我(自我)による作為はありません。しかしあの愚かな凡夫は、内に妄想を起こし、惑いの心を生じて様々な見解を生じます。だから真実ではなく、明らかに理解できません。しかし、その本際の自性は清らかで、微妙甚深であり、体には塵や垢がありません。ゆえに千の聖人、万の賢者が様々な言論を述べられましたが、それらは皆、教えとしての説き方(化説)であり、真実についての真実の説き方ではなく、教化についての教化ではないもの(非化)です。本際には名がなく、「名無きもの」の名で呼ばれます。本際には相(形)がなく、「相無きもの」の相で呼ばれます。名と相が立てられると、妄りと惑いが生じます。真一の理は沈み、道の宗旨は隠れてしまいます。ゆえに「名無き朴(素朴なもの)」は全てに遍く通じていますが、名付けることはできません。限量の界を超えて、一体であり、二つはありません。だから経典に「森羅万象、全て一つの法が印するものである」と説かれています。その印が本際です。

しかし、本際の理には、自も他もなく、一でも異でもなく、一つの気を含み、万有に該入しています。もし誰かが自性清らかで、一を含んで生まれ、その中に妄想がなければ、これを聖人とします。しかし、実際の中には聖人の法も微塵ほどの違いもなく存在しません。もし誰かが自性清らかで、一を含んで生まれても、その中に妄想があり、自らが濁り乱れていれば、これを凡夫とします。しかし、実際の中には凡夫の法も微塵ほどの違いもなく存在しません。だから経典に「仏性は平等で広大で測り難く、凡夫も聖者も二つではなく、一切が円満である。草木にも備わり、蟻のような小さな虫にも周遍し、微塵や毛髪に至るまで、一を含んで存在しないものはない」と説かれています。だから経典に「一を知ることができれば、万事が終わる」と説かれています。よって一切の衆生は一乗によって生まれるので、一乗と呼びます。迷っているから異なり、悟れば一なるのです。経典に「前の念は凡夫、後の念は聖者」とあり、また「一念で一切の法を知る」とあります。よって一即一切、一切即一なのです。だから、一切は一つの法の働きによって万象を成す、と言われます。だから経典に「一切がもし有なら、心があれば迷いがある。一切がもし無なら、心がなければ十方に遍く」とあります。ゆえに真一は万の差別を生み、万の差別は真一に還るのです。例えば、海が千の波を湧き起こせば、千の波は即ち海であるようなものです。だから一切は一であり、異なることはないのです。

「一」と言うのは、それに対する「異」の心があるからです。「異」がすでに異ではないなら、「一」もまた一ではありません。「一」ではない一を、仮に「真一」と名付けます。この真一は、名前や言葉で言い表せるものではありません。よって、「一」という見解(一見)によって「一」を見るのではありません。もし見るものがあれば、それは既に二つあることになり、真一とは呼べません。また、「一を知る」とも呼べません。もし「一」が「一」を知れば、それを名付けて「二」とし、やはり「一」とは呼べません。もし知るものがあれば、知らないことがあり、知ることと知らないことがあれば、それは二つです。だから大いなる智慧は、知ることなくして知らないことはありません。常に炽然と知っています。常に知っていて知ることがない、これを仮に「知」と名付けます。それは我でもなく、我所でもなく、心でもなく、意でもありません。

「有為」の数ある法には、知るところがあります。「無為」の法は、虚空のようで涯がないので、知ることも知らないこともありません。聖人が「知る」と言うのは、心があり、数があり、有為があり、法があるから、知ることができるのです。「知らない」と言うのは、心がなく、数がなく、無為であり、法がないので、知ることができないのです。もし「有る知」をもって「知らないこと(無知)」を知ろうとするなら、それは正しい道理ではありません。例えば、ある人が一日中「空」について語っても、それは人が「空」を語っているのであって、「空」そのものが語っているわけではないのと同じです。もし「その知」をもって「無知」を知ろうとするのもまた同じです。

聖人が時に「私は知る」と言うのは、皆、迷いに対して、事象について、病を破り疑いを除くためであり、実は二つ(知と無知)はありません。知らないことを知る、というのです。「知らない」と言うのは、あの愚かな凡夫が真一を悟らず、我や我所に執着し、能知・所知を妄りに計るから、知ることがなく分別もないと説くのです。愚かな凡夫はそれを聞いて、知らないことを学びます。まるで愚か者が物事を分別できないのと同じです。そこで聖人は、その虚妄に因って、「如来は了了と見て知るのであり、知らないのではない」と言います。愚かな凡夫はそれを聞いて、有ることを知る(有知)を学びます。有ることを知ることによって、知ることに妨げが生じ、これを虚知、妄知とも呼びます。このような知は、かえって道ではありません。だから経典に「衆生は悪知識に親しみ、悪い知見を長くする」とあります。なぜなら、あの外道たちは未来を予知し、過去を知り、現在の身心を知りますが、身心が清らかでないので、生を免れません。

全ての「無知」を学ぶ者たちは、皆、「有知」を捨てて「無知」を学びます。しかし、「無知」とは実は「知」のことなのです。そのことを自ら悟っていません。また、「無知」を捨てて「有知」を学ぶ者もいます。「知」には覚り(意識)があります。覚りがあるゆえに心は万の思いを起こし、意は百の考えを巡らせ、やはり苦しみを離れません。それら「知」と「無知」の二つの見解は、どちらもその体(自ら)において虚ろに融け合い、理に冥合することができず、ついに真実に入ることができません。真実とは、「知」と「無知」を離れ、一切の限量を過ぎたものです。

「見」があれば方(方向)があり、「聞」があれば所(場所)があり、「覚」があれば心があり、「知」があれば量があります。本際が方向なく、所なく、心なく、量がないことを悟らなければ、見聞覚知はありません。だから真一は二つではなく、現れ方には違いがあります。ある人は仏を念じて仏が現れ、僧を念じて僧が現れます。しかし、それらは仏ではなく、また非仏でもなく、仏として現れます。僧ではなく、また非僧でもなく、僧として現れます。なぜなら、その念じる心が希望して現れるのであり、自らの心から現れることに気づかず、聖なる事の縁起を一方的に外の境界として捉え、そこに差別があると思い込むからです。実は仏や僧に異なるものがある訳ではありません。だから経典に「彼らは諸仏の国土や色身に若干の違いがあるのを見るが、その無碍の智慧には若干の違いはない」と説かれています。

例えば、幻師が虚空において、幻術の力で様々な色や形の象を造り出したとします。あの幻の人々(見物人)は愚かだから、あの虚空に元々そのような事があったと思い込みます。彼らが仏や僧を念じるのもまた同じです。空の法において、念じる術の力で様々な色相を造り出し、妄想の見解を起こします。だから経典に「心は工伎児(芸人)の如く、意は和伎者(共演者)の如し。五識は伴侶となり、妄想は観衆となる」とあります。

例えば、ある人が大きな鋳造所の辺りで、自分で型(模樣)を丸や四角、大小と好きなように作り、『その溶けた金が私の型に流れ込んで形作られますように』と願うようなものです。溶けた金は自由に形に成りますが、その本当の融けた金そのものは、形であるのでもなく、形でないのでもなく、形として現れます。彼らが仏や僧を念じるのもまた同じです。大いなる智慧の融けた金とは、如来の法身を喩えたものです。型は衆生を喩えています。仏を得たいと願って仏を念じ、因縁が和合して様々な身相が現れます。しかし、その法身は相ではなく、また非相でもありません。何を非相と言うのか。元々定まった相がないからです。何を非非相と言うのか。縁によって諸々の相が現れるからです。すると、法身は現れるのでもなく、現れないのでもなく、性を離れて無性であり、有でもなく無でもなく、心も意もなく、全ての度量をもって測ることができません。

ただ凡夫は心に従って、仏を見ようという想いを生じ、一方的に心の外に仏があると思い込み、自分の心が和合してそうなることを知りません。あるいは一方的に「心の外に仏は無い」と言い、それが正法を謗ることになります。だから経典に「聖なる境界は、有るとも無いとも、称量することも離れている」とあります。もし有るとか無いとかに執着すれば、それは二辺であり、また虚妄です。なぜなら、二つの見解を妄りに生じて、真理に背くからです。例えば、金器の蔵の中で、常に金の本体だけを観て、様々な形(衆相)を見ない人がいるようなものです。たとえ様々な形を見ても、それも一つの金です。形に惑わされなければ、分別を離れ、常に金の本体を観て虚偽がありません。これは真人の喩えです。常に真一を観て、様々な形を見ません。たとえ様々な形を見ても、それも真一です。妄想を遠く離れ、顛倒がなく、真の実際に住する、これを聖人と呼びます。

もし金器の蔵の中で、常に様々な形だけを見て金の本体を見ず、善悪を分別し、様々な見解を起こして金の本性を見失い、議論を生じる人がいるなら、それは愚かな凡夫の喩えです。常に色相や男女の美醜を見て様々な差別を起こし、本性に迷い心相に執着し、取捨愛憎の様々な顛倒を起こし、生死に流転して様々な身を受け、妄想が森羅のように広がって真一を覆い隠します。ゆえに道を懐く君子、明達の人々は、甚深を観察し、様々な仲間(群品)を遠く離れ、真一に契合して理と相応します。

真一は説き難く、譬えによって述べる以外なく、究竟の道の宗旨は言葉では示せません。もし「眼」を「眼」として解釈すれば、眼に関する倒錯(眼倒)を生じます。「眼」を「眼」でないと解すれば、無眼に関する倒錯を生じます。どちらも妄想です。もし「眼がある」と執着すれば、その「眼がない」こと(真の眼の無相性)に迷います。「眼がある」という固定観念があるから、妙なる見(智慧の洞察)は通

寶藏論(終)

2 離微體淨品

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