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  1. 般若波羅蜜多心経要論終 (般若波羅蜜多心經要論終)
  1. 般若心経要論 (般若心經要論)
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般若心経要論 (般若心經要論)

「般若心經要論」について

明 · 真可說 著

2,510 字 · 約 8 分

般若心経要論は、明代の高僧・紫柏真可大師によって著述されました。この論は、晩明の仏教復興期に生まれ、禅宗と教下の思想を融合させています。真可大師は深遠な智慧をもって心経の核心義理を解き明かし、特に般若空性と諸法実相を明らかにし、相を離れ執着を破る修行実践を強調しました。この論は中国仏教思想史上において重要な位置を占め、心経注疏の中でも権威ある著作と見なされており、その鋭い見解は後世の学人に般若の法門に入る貴重な指針を提供し、漢伝仏教における般若思想の継承と発展に深遠な影響を与えました。


般若波羅蜜多心經要論

般若心経要論

沙門 僧 真可 說

沙門僧真可の説法

般若波羅蜜多心經者,實眾生大夜之明燈,諸佛之慧命也。梵語般若,此飜智慧;梵語波羅蜜多,此飜到彼岸。葢謂有智慧者,照破煩惱,不弱情波,生死超然,玅契本有,所謂登彼岸焉。心乃喻此經,如人一身,雖有百骸五藏,心為主耳。此經文雖簡略,實六百卷雄文之心也。經者,古今不易,常然徑路,人得趨而進也。觀自在菩薩者,謂此菩薩以如上智慧,圓照空有,了無罣礙。肇公云:照不失虗,則涉有而無累;虗不失照,則觀空而不醉。即有無而離色空,所以能有能無,可空可色,故曰自在。若夫眾生執有,二乘尚無,各偏所見,不能圓通,便不自在。夫智慧之與聰明,大相懸絕。聰明則由前塵而發,智慧則由本心而生。故聰明有生滅,而智慧無依倚也,所以不生滅耳。

般若波羅蜜多心経は、まさに迷える衆生にとって闇夜の灯明であり、諸仏の智慧の命そのものである。サンスクリットの「般若」は、これを日本語で「智慧」と訳す。「波羅蜜多」は「彼岸に到る」という意味である。つまり、智慧ある者は煩悩を打ち破り、情欲の波に翻弄されることなく、生死を超越し、本来備わっている真実の境地に不思議にかなうこと、これを「彼岸に登る」というのである。「心」とはこの経典をたとえたもので、人の体が百の骨格や五臓を備えていても、心がその主であるのと同じである。この経典は文章こそ簡潔だが、実に六百巻に及ぶ大般若経の核心(心臓)である。「経」とは、古くから変わらず、常に変わらぬ道であり、人はそれによって進むことができる。観自在菩薩とは、この菩薩が先に述べたような智慧によって、空と有を完全に照らし、一切の障害や執着がないことをいう。僧肇大師は言う。「照らすことに虚(くう)を失わなければ、有に触れても煩わされることがない。虚(くう)にあっても照らすことを失わなければ、空を観ても酔いしれることがない。」有無(存在と非存在)をともに捉え、色(物質現象)と空を離れることなく、あることもでき、ないこともでき、空にもなれ、色にもなれる。だから「自在」というのである。凡夫は“有”に執着し、声聞・縁覚の二乗は“無”のみを重んじる。それぞれが偏った見解にとらわれ、円満に通じることができず、自在ではない。智慧と聡明(ちえ)は大きく異なる。聡明は外界の対象(前塵)に触れて発するが、智慧は本来の心から生じる。だから聡明には生滅があるが、智慧は寄りかかるところがなく、それゆえに生滅しないのである。

行深般若波羅蜜多時者,謂此菩薩所修觀智,不同二乘偏淺乃深般若也。惟其深般若故,故能照徹色空本無二致元一實相,自是凡夫不了見色而不見空,二乘偏執見空而不見色。一如恒河之水,魚龍認為窟宅,天人認為琉璃,人間世認為波流,餓鬼認為猛焰,四者所見不過皆情耳,惟悟心者了無此見。色既如是,受、想、行、識未嘗有異,故曰受、想、行、識亦復如是。

深い般若波羅蜜多を実践する時というのは、この菩薩が修める観察の智慧が、声聞や縁覚の二乗のように偏って浅いものではなく、深い般若であることを示しています。この深い般若であるからこそ、色と空が本来二つではなく、一つの実相であることを照らし見通すことができるのです。そもそも凡夫は悟らずに色ばかり見て空を見ず、二乗は偏って執着し空ばかり見て色を見ません。例えば、ガンジス川の水は、魚や竜は住処と見なし、天人は瑠璃と見なし、人間は流れる波と見なし、餓鬼は猛る炎と見ます。これらの四者の見方は、いずれもそれぞれの心の迷いによるものに過ぎません。ただ心を悟った者だけが、そのような見方を超えているのです。色がこのようであるならば、受・想・行・識もまた異なることはありません。故に「受・想・行・識もまた同じである」と説かれているのです。

照見五蘊皆空,則一切苦厄盡矣。凡夫迷倒,不悟此身四大假合,執以為實。故聞生則喜,聞死則悲。殊不知此身以四大觀之,本不可得,喚誰生死。身既乃爾,此心亦然。妄想攀緣影子,不過四蘊合成。若以四蘊觀之,是心亦不可得,喚誰煩惱。人不悟此,聞譽則懽然為順,聞毀則戚然不悅。此乃恣情縱識,不以觀行轉識而成智,則將飄淪苦海,逆浪千尋,出沒無常,改頭換面,橫竪羽毛,寧有已哉。痛矣眾生,佛本現成,不肯承當。眾生分外,甘自擔荷。受此荼毒,猶未省悟。

五蘊(ごうん)がすべて空(くう)であると見抜くならば、あらゆる苦しみや災い(やく)は消え去るのです。 ところが凡人(ぼんじん)は迷い、この身体が四大(しだい)の仮の組み合わせであることを悟らず、これを実在だと執着します。そのため、生まれると喜び、死ぬと悲しむのです。 実は、この身体を四大の観点から見れば、そもそもつかみどころがなく、「誰が生まれ、誰が死ぬのか」と言うべきでしょう。 身体がそうであるなら、心も同じです。妄想や執着(しゅうじゃく)の影は、四蘊(しうん)の集まりにすぎません。もし四蘊の観点から見れば、その心もまたつかみどころがなく、「誰が煩悩(ぼんのう)を抱くのか」と言うべきでしょう。 人がこの道理に気づかず、誉められれば喜び、非難されれば悲しむのは、感情や分別に身を任せているからです。観行(かんぎょう)によって識(しき)を転じて智慧(ちえ)としないならば、苦しみの海に漂い、高さ千尋(せんじん)の逆波に翻弄され、生まれ変わりながら、さまざまな姿をとり、羽毛をまとうこともあるでしょう。その繰り返しに終わりがあるでしょうか。 ああ、哀れな衆生(しゅじょう)よ! 本来、仏(ほとけ)の性はそなわっているのに、それを受け入れようとせず、むしろ自分にはふさわしくないものを甘んじて背負い、このような苦しみを受けながら、まだ悟ろうとしないのです。

舍利子,佛之高弟也,聰明絕倫,才辯超眾。佛呼其名而告之曰:菩薩以智慧照徹五蘊,大患永辭,長揖三界,汝知之乎?即色之空而不廢涉世也。

舎利子は、仏陀の高弟であり、その聡明さは群を抜き、才知と弁舌は衆に勝れていた。仏陀はその名を呼んで告げられた。「菩薩は智慧によって五蘊(ごうん)を照らし尽くし、大きな苦しみから永遠に離れ、三界に別れを告げる。あなたはそれを知っているか?」それは、色そのものが空でありながら、世の中との関わりを決して捨てないということである。

是諸法空相者,此空相照見五蘊之空也。此空本無生滅,本無垢淨,本無增減。或以道前、道中、道後釋之,未必然也。何故?行人以智慧照五蘊時,色空坐斷,凡聖情盡。此時寶劍當陽,佛亦不能嬰其鋒𨦵,況菩薩與凡夫耶?

あらゆる現象の本質は「空(くう)」である。この「空」の姿こそが、五蘊(ごうん)が空であると照らし見ることである。この「空」は元来、生じることも滅することもなく、本来、汚れも清めもなく、本来、増えることも減ることもない。あるいは修行の前・最中・後として説明する者もいるが、必ずしもそうではない。なぜか?修行者が智慧(プラジュニャー)をもって五蘊(ごうん)を照らし見る時、「色(しき)」と「空(くう)」の区別は断ち切られ、凡夫も聖者もその執着は尽きる。この時、智慧の剣はまさに輝きを放ち、仏でさえその刃に触れることはできない。まして菩薩や凡夫はなおさらである。

是故空中無色,無受、想、行、識,無眼、耳、鼻、舌、身、意,無色、聲、香、味、觸、法,無眼界乃至無意識界者,謂此菩薩以此智慧,豈惟照五蘊空耳,至於十二處、十八界,莫不皆空矣。何故謂五蘊即十二處,十二處即十八界?佛以眾生根器不同,隨機設教,有迷心不迷色者,為說五蘊;有迷色不迷心者,為說十二處;有心色俱迷者,為說十八界。要而言之,蘊、處、界三,不出色、心也。

したがって、空の中には「色」もなく、「受」「想」「行」「識」もありません。また、眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法もなく、眼界から意識界に至るまで存在しません。これは、この菩薩がこの智慧によって、ただ五蘊が空であると照らし見るだけでなく、十二処や十八界に至るまで、すべてが空でないものはないということです。

なぜ「五蘊はすなわち十二処であり、十二処はすなわち十八界である」と言うのでしょうか。それは、仏が衆生の根機(素質や能力)の違いに応じて、機に応じて教えを説かれたからです。心に迷いがあって色に迷わない者のためには五蘊を説き、色に迷って心に迷わない者のためには十二処を説き、心と色の両方に迷う者のためには十八界を説かれました。要約すれば、蘊・処・界の三つは、色と心の二つを超えるものではありません。

無無明亦無無明盡,乃至無老死亦無老死盡。無苦集滅道,無智亦無得者,謂菩薩以智慧照之。此真空之中,非惟蘊入界本空,至于十二因緣流轉亦空。非惟流轉空耳,還滅亦空。非惟還滅空耳,苦集滅道皆空也。非惟種種皆空,即此能空蘊入界三,乃至苦集滅道之智,亦不可得。葢所既不有,能不單立故也。十二支及四諦,雖則聲聞緣覺功拙有異,要而言之,真空之中無是事也。
菩提薩埵依般若波羅蜜多故,心無罣礙。無罣礙故,無有恐怖,遠離顛倒夢想,究竟涅槃。三世諸佛依般若波羅蜜多故,得阿耨多羅三藐三菩提者,謂此經不惟眾生宗之,度生死流而登彼岸,直饒諸佛菩薩分真究竟,亦必本此也。此葢讚勸流通此經,使諸眾生依般若而進修,庶不遭魔外眩惑也。永嘉曰:大丈夫兮秉慧劍,般若鋒兮金剛焰。非但空摧外道心,蚤曾落却天魔膽。大都有志於出世者,如此力量,如此風雲之思,如此激烈之懷抱,如大火聚,使萬物嬰之,直下灰飛烟滅可也。不然,則少見可欲,而兒女情生矣。或云:師之論此經,不分因果,不列科章,似乎儱侗,不合古規,恐不宜也。余則應之曰:我佛所說,千經萬論,五時不等,不過陶汰眾生情塵,洗滌其見地。苟情塵盡而見地正,則古規不合之中,實合之也。子胡多語乎?
故知般若波羅蜜多,是大神呪,是大明呪,是無上呪,是無等等呪。能除一切苦,真實不虗。此亦讚歎般若,尊重效騐耳。神則玅萬物而莫測,可測則不神矣。明則圓應萬有而無所累,累則不明矣。無上則更無過其上者,有過之者則不上矣。無等等則無可與等者,圓滿充實更無及者也。圭峰云:彌滿清淨,中不容他,孰與等之。已上皆顯說般若也。然般若有三,所謂文字、觀照、實相也。葢非文字無以起觀照,非觀照無以鑒實相,非實相則菩薩無所宗極也。極者何?證之謂也。夫證有淺深,淺則斷見思及塵沙耳,深則圓拔根本無明,直抵玅覺而後已。雖三觀一心,兼修竝進,然斷見思則空觀之力居多,斷塵沙無明則假觀之力居多,斷根本無明則中觀之力居首。夫見地明而不修觀行者,何殊有田而不耕也。雖修觀行而見地不明,又如盲人行路,非惟不能還家,我恐其將墮坑落塹也。若人怕生死而厭煩惱,無如以四大觀身,四蘊觀心焉。夫四大觀身,四蘊觀心之旨,此如來剖心剜膽,指箇方便,冀眾生即此臭軀殻上,攀緣影中,使即玅悟此身此心原一實相耳。然眾生流浪生死,輪轉苦趣,實非聲色貨利、飲食男女牽障也,特其不能以四大觀身、四蘊觀心,則見有身可得、有心可礙。有身可得,則生死宛然;有心可礙,則憎愛熾然。生死厚而憎愛深,則本有智慧光明埋沒矣。佛與眾生豈兩箇耶?佛不過無死生、無愛憎人耳,眾生則有生死、有憎愛佛也。四大觀身者,凡行人行住坐臥,當以齋潔念頭回觀此身,皮肉筋骨本屬地大,血脉涕涶津液本屬水大,暖氣屬火,動轉屬風,諦審觀察,于我何有?今橫執之而不舍離,認以為實,何殊兩鬼爭臭屍焉?如是觀久,積習行深,生處漸熟,熟處漸生,至于練盡,練之一字不可忽也。苟非真為死生漢子,逆順境臨,便擔荷不起矣。四蘊觀心者,先觀受蘊究從何有,推而窮之,為無因忽生耶?為託境生耶?無因能生,則前境未感,本心寂寥靈徹,烏得有所謂妄想耶?托境而生,則前境遷變,心亦遷變,遷變之心豈真我心?若真我心,天地以之建立,萬物以之為本;若其遷變,安能為天地根蒂、萬物之本乎?故知遷變者,特攀緣影子耳。夫真心則塵生不生、塵滅不滅,照物而無累者也。故毗舍浮佛偈曰:假借四大以為身,心本無生因境有,前境若無心亦無,罪福如幻起亦滅。此偈世尊大慈,全提緣起無生綱領也。如能悟此,則心經之玅盡于此矣。夫緣起無生者,謂心不自生,生必由塵;塵不自顯,顯必由心。惟不自生,心無性也;惟不自顯,塵無性也。心塵無性,則無生現前;無性心塵,則緣生不廢。心塵既爾,萬法皆然矣。此旨在于華嚴則謂之法界,在法華則謂之實相。或曰:此經以破相為宗,談空為趣,豈與華嚴、法華同轍而語哉?夫華嚴、法華皆顯示圓宗,而此經密譚實相,乃古德成言,非不佞臆度穿鑿也。噫!眾生疑情,不了此旨,于無身中妄見有身,于無心中妄見有心。殊不知無身之身,形充法界;無心之心,靈照羣品。夫此身此心,豈是高遠玄妙也耶?即吾日用之中,應緣之際,未始不昭昭然也。老洞華嚴曰:佛法在日用處,穿衣吃飯處,屙屎放尿處,舉心動念,即不是了也。龐居士曰:日用事無別,惟吾自偶諧,神通并妙用,運水及搬柴。然此旨有悟而未修者,有修而未成者,有證而受用者。今有人于此,徵有小悟即不修行,便謂已了,則修與證掉頭不顧,癡到臘月三十日一場懡㦬也。不佞此論,非敢參入義黨,比因海陽居士偶叩及此,不覺率意而成,故無啟請三寶證明加被偈也。
揭諦,揭諦,波羅揭諦,波羅僧揭諦,菩提薩婆訶者,此密說般若也。既謂之密,則不佞不敢彊論矣。
般若波羅蜜多心經要論(終)

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