大乘法界無差別論一卷(一名如來藏論)
大乗法界無差別論 一卷(別名・如来蔵論)
堅慧菩薩造
堅慧菩薩造
大唐于闐三藏提雲般若譯
大唐于闐の三蔵、提雲般若の訳です。
法界不生亦不滅, 無老病死無蘊過,
由彼發勝菩提心, 是故我今稽首禮。
有情菩提心具足, 能生聖者及自然,
一切善法所依處, 由如地海種子等。
彼種含在母胎中, 亦如乳母共長養,
信心勝智菩提本, 大定大悲育應知。
性淨覺心常無垢, 猶如大寶太虛空,
如蘇迷盧超眾岳, 一切白法寶生處。
貪嗔癡等皆斷盡, 不為煩惱過所牽,
過於殑伽沙伎能, 萬法圓滿光映徹。
淨我樂常波羅蜜, 得成應供十方尊,
因時即是菩提心, 果滿德圓名正覺。
彼體能含法界相, 智光朗徹淨無瑕,
菩提心法不思議, 諸佛如來皆讚歎。
無始以來非造作, 無有質礙亦無終,
以空無相慧了知, 諸佛如來之境界。
彼性一切法所依, 遠離斷常二種見,
法身與彼眾生界, 是故佛說本無差。
不淨及與淨非淨, 極淨次第應當知,
初即眾生次菩薩, 最後如來極清淨。
塵垢所污性不明, 喻若重雲掩麗日,
煩惱雲網皆解脫, 日輪光照滿虛空。
劫火熾盛在空中, 太虛本無有燒相,
如是法性不被燒, 老病死火無能壞。
一切世間生滅法, 皆悉不離於虛空,
如是無為法界中, 諸根依此而生滅。
如燈明煖色和合, 離此三法更無燈,
如是佛法與體俱, 離此法外無別體。
客塵煩惱性非有, 與彼淨體先相離,
不空無垢法相應, 無有斷脫常隨轉。
如蓮開已葉所蓋, 如金性淨沒穢中,
亦如滿月羅睺吞, 不能照世煩惱覆。
如清池水妙華敷, 金山埿滓無能污,
如淨空中星月滿, 解慧圓照垢消除。
譬如旭日照世間, 千光晃耀普周遍,
如地如海穀寶滿, 得脫生死養眾生。
恒處生死發智悲, 常無常等無住著,
禪定總持清淨水, 牟尼王雲善穀因。
斯即法身是如來, 亦名聖帝真圓寂,
如水與冷不相離, 佛果涅槃亦復然。
法界は生まれることもなく、また滅することもありません。老いや病や死もなく、五蘊の過失もありません。そのような法界からすぐれた菩提心を起こされるので、私は今、頭を垂れて礼拝します。
生きとし生けるものの菩提心が具わるとき、聖者も自然も生まれます。それはすべての善法のよりどころであり、大地や海が種子などを育むのに似ています。
その種子は母の胎内に含まれ、また乳母が共に育てるように育まれます。信とすぐれた智慧は菩提の根本であり、大きな定と大きな悲が育むことを知るべきです。
本性が清らかな悟りの心は常に汚れがなく、大きな宝や大虚空のようです。須弥山がすべての山々を超えているように、それはすべての白い法の宝が生まれるところです。
貪り、嗔り、愚かさなどはすべて断ち尽くされ、煩悩の過失に引かれることはありません。ガンジス川の砂の数よりも多くの技量を超え、万法が円満にそなわって光り輝きます。
清らかさ、我、楽、常という波羅蜜を成就し、応供となって十方の尊ばれる方となられます。因のときにはすなわち菩提心であり、果が満ち徳が円かなときを正覚と名づけます。
その本体は法界のすがたを含むことができ、智慧の光は明らかに透き通り、清らかで瑕がありません。菩提心の法は不思議であり、諸仏如来は皆、讃嘆されます。
始まりのない昔から作られたものではなく、質や障りもなく、また終わりもありません。空と無相の智慧によって知られる、諸仏如来の境界です。
その本性はすべての法のよりどころであり、断見と常見の二つの見を遠く離れています。法身と生きとし生けるものの世界とは、もともと差がないと仏は説かれました。
不浄と、浄と、非浄について、きわめて浄らかな段階を次第に知るべきです。初めはすなわち生きとし生けるものであり、次は菩薩であり、最後は如来のきわめて清らかな境地です。
塵や垢に汚されて本性が明らかでないのは、厚い雲が美しい太陽を覆うようなものです。煩悩の雲の網をすべて解脱すれば、太陽の光は虚空に満ちて輝きます。
劫火が盛んに空中で燃えても、大虚空にはもともと焼けるすがたがありません。同じように法性は焼かれることがなく、老いや病や死の火も壊すことができません。
すべての世間の生滅の法は、皆ことごとく虚空を離れません。同じように無為の法界の中で、諸根はこれによって生じ滅します。
灯の明かりと暖かさと色が和合するように、この三つの法を離れて別に灯はありません。同じように仏法と本体は共にあり、この法を離れて別の本体はありません。
客塵の煩悩は本性として存在せず、その清らかな本体とはもともと離れています。空ならざる無垢の法と相応し、断たれたり脱けたりすることなく常に随って転じます。
蓮が開いても葉に覆われるように、金の本性が清らかでも汚れの中に没するように、また満月が羅睺に呑まれるように、煩悩に覆われて世を照らせません。
清らかな池の水に妙華が咲くように、金山は泥の滓に汚されることがありません。浄らかな空に星や月が満ちるように、解の智慧が円かに照らし、垢が消え去ります。
たとえば旭日が世間を照らし、千の光がきらめき普く遍く及ぶように、大地や海が穀物や宝で満ちるように、生死を脱して生きとし生けるものを養います。
常に生死の中にあって智慧と悲を起こし、常と無常などに住着することがありません。禅定と総持の清らかな水は、牟尼王の雲が善い穀物を育てる因です。
これすなわち法身が如来であり、また聖帝の真の円寂とも名づけられます。水と冷たさが離れないように、仏果と涅槃もまた同じです。
論攝頌曰。
論の摂頌に曰く。
果、因及自性, 異名與差別,
異相、不染性, 亦名常和合,
有、無義、一性, 略說有十二,
菩提心之名, 應知其次第。
果と因と自性、 異名と差別、 異相と不染性、 また常和合と呼ばれるもの、 有と無の義と一性、 簡略に説けば十二があります。 菩提心の名称は、 その順序に従って知るべきです。
釋曰:此是論體。
釋して曰く、これは論の本体です。
其中先示菩提心果,次明功能從彼因起,因既起已即自性施設相貌異名差別,隨受身處不被污染故說為常和合,無別善法相應住煩惱中名為無義,出纏清淨名為有義,亦名一性,俱涅槃故。十二種義次第應知。
その中では、まず菩提心の果を示し、次に功能がその因から起こることを明かします。因がすでに起こったならば、ただちに自性の施設として相貌や異なる名称の区別があり、受身の処に随って汚染されないため、常和合といいます。別の善法と相応せず煩悩の中に住むことを無義といい、纏を出て清浄であることを有義といい、また一性ともいいます。ともに涅槃であるからです。十二種の義は次第に知るべきです。
於中何者是菩提心果?所謂諸佛寂滅涅槃是也。亦非餘者。何以故?微細習氣悉已斷故。言無生者,意成諸蘊本不生故。言無老者,寂滅功能增長殊勝至邊際故。言無病者,一切煩惱習障及所知障俱永斷故。言無死者,不思議變易無終盡故。言無蘊者,無始無明住地悉以斷故。言無過者,一切身口意業無過失故,亦能超過一切諸功能故。彼由何得?從菩提心最勝方便不退失因而能證得涅槃果故。何者名涅槃界?所謂諸佛不可思議法界之性轉依法身是涅槃界也。是故我今頂禮彼不思議菩提之心,因果增長漸漸明盛,如初月故。
その中で、何が菩提心の果でしょうか。いわゆる諸仏の寂滅涅槃がそれです。それ以外のものではありません。なぜならば、微細な習気がすべてすでに断たれているからです。無生と言うのは、意によって成る諸蘊がもともと生じないからです。無老と言うのは、寂滅の功能が増しすぐれて、ついにその限りにまで達するからです。無病と言うのは、一切の煩悩の習障および所知障がともに永久に断たれているからです。無死と言うのは、不思議な変易が終わり尽きることがないからです。無蘊と言うのは、無始の無明住地がすべて断たれているからです。無過と言うのは、一切の身口意の業に過失がなく、また一切の諸功能を超えているからです。それは何によって得られるのでしょうか。菩提心という最も勝れた方便の不退失の因から、涅槃の果を証し得るからです。何を涅槃界と名づけるのでしょうか。いわゆる諸仏の不思議な法界の性が転じて法身となる、それが涅槃界です。それゆえ、私は今、かの不思議な菩提心を礼拝いたします。因果が増し栄えて、しだいに明るく盛んになることは、初月のようですから。
復次菩提心種子者,一切世間善法穀生所依住處,如大地故。一切聖者法寶出處,如大海故。一切諸佛道樹之所從生次第之因,如種子故。此是菩提心之果也。
次に、菩提心の種子とは、一切の世間の善法という穀物が生じ、依り住むところであり、大地のようなものです。一切の聖者の法宝が生まれ出る源であり、大海のようなものです。一切の諸仏の道樹がそこから生じる次第の因であり、種子のようなものです。これが菩提心の果です。
復次何以得知彼因相應?如轉輪王子。言淨信者,即是菩提心種。言勝智者,即最勝般若能了一切,名之為母。三摩地者,以定為胎,一切善法安住其中,安樂為體。言大悲者,於諸眾生起大悲故,於生死中不疲倦故,及能圓滿一切種智,養菩提心為乳母故。復次彼因和合菩提之心,應知有二。何者為二?一謂煩惱所染污相、二謂白法自性之相。於中染者,彼自性清淨常心不染,而為客塵煩惱覆障染污,猶如火等自性清淨為灰埿雲塵等障蔽。譬如火與寶珠虛空及水自性不染,若離灰等,火等自性皆得清淨。一切眾生亦復如是,自性之心皆同清淨,為貪等煩惱之所染污,若離貪等則心得清淨。復云何知白法之相亦皆清淨?自性清淨一切白法之所依止,一切白法亦從彼生,如蘇迷盧山出生寶故。菩提之心亦復如是,一切技藝皆得圓滿,獲得四種大波羅蜜多,是故說為如來法身。如經中說「世尊!如來法身是常波羅蜜、樂波羅蜜、我波羅蜜、淨波羅蜜。彼如來法身,為煩惱隨煩惱之所染污。」自性清淨心是異名說,如經中說「舍利弗!此善法如實真如法界自性清淨心相應法體,我依此自性清淨心,為眾生故說為不可思議。」
次に、どうしてその因が相応していると知ることができるのでしょうか。転輪聖王の王子がいるようなものです。清らかな信と言うのは、すなわち菩提心の種です。勝れた智慧と言うのは、すなわち最も勝れた般若であり、すべてを理解することができるので、これを母と名づけます。三摩地とは、定を胎とし、すべての善い法がその中に安住し、安楽を本体とするものです。大悲と言うのは、もろもろの衆生に対して大悲を起こすからであり、生死の中で疲れることがないからであり、またすべての種の智を円満にすることができ、菩提心を養う乳母であるからです。
次に、その因と和合した菩提の心は、二つあると知るべきです。何が二つでしょうか。一つは煩悩に汚染された相、二つは白法の自性の相です。そのうち染污について言えば、その自性は清らかで、常なる心は汚れることがなく、しかし客塵の煩悩に覆い隠されて汚染されます。ちょうど火などが自性は清らかでありながら、灰や泥や雲や塵などに遮られるようなものです。たとえば火と宝珠、虚空および水は自性が汚れませんが、灰などを離れれば、火などの自性は皆清らかになります。すべての衆生もまた同じです。自性の心は皆同じく清らかですが、貪などの煩悩に汚染されており、貪などを離れれば心は清らかになります。
また、どうして白法の相も皆清らかであると知るのでしょうか。自性清浄はすべての白法の依りどころであり、すべての白法もまたそこから生じます。スメール山が宝を生み出すようなものです。菩提の心もまた同じであり、すべての技芸が円満に成就し、四種の大波羅蜜多を得るのです。それゆえ如来の法身と言われます。経の中で説かれている通りです。「世尊よ。如来の法身は常波羅蜜であり、楽波羅蜜であり、我波羅蜜であり、浄波羅蜜です。その如来の法身は、煩悩や随煩悩に汚染されています。」自性清浄心は異なる名で説かれたものです。経の中で説かれている通りです。「舎利弗よ。この善法は、如実真如法界自性清浄心に相応する法体です。私はこの自性清浄心に依って、衆生のために不可思議と説くのです。」
復次彼心於諸眾生,為十種事。無差別相,所謂無作故。無始,不生故。無終,不滅故。無礙,自性光明故。以空智知一切法一味相,猶無性故。無性即無相,離諸根境界故。是聖者所行,諸佛境界故。一切法所依,染淨諸法所依止故。遠離於常,染法無常故。遠離於斷,白法不斷故。此復差別略有三相。言不淨者,即初說名為眾生界。淨不淨者,即次說名為菩薩也。極清淨者,說為如來。如經所說「舍利弗!即此法界,過於恒沙無邊煩惱㲉所纏裹,無始世來常為生死波浪漂流,往來生滅恒處中流,說名眾生。舍利弗!即此法界,無邊厭離生死、不住涅槃,一切欲界中住,行十波羅蜜,攝八萬四千法門,行菩提行時,名為菩薩。舍利弗!即此法界,一切俱胝煩惱解脫、度一切苦,遠離一切煩惱隨眠纏垢,證得清淨最極清淨法性中住,一切眾生之所瞻仰,住一切爾焰地,得大勢力無障無著,於一切法得自在力,說名如來、應、正等覺。是故舍利弗!無別眾生界、無別法身,眾生界即法身、法身即眾生界。此無二義文字差別。」
さらに、その心はすべての衆生に対して、十種の事柄を持っています。差異の相がないからです。すなわち、作すことがないからです。始まりがないのは、生じることがないからです。終わりがないのは、滅することがないからです。妨げがないのは、自性が光明であるからです。空の智慧によって一切の法が一味の相であると知るのは、まったく無性であるからです。無性とはすなわち無相であり、諸々の根の境界を離れているからです。これは聖者が行じるものであり、諸仏の境界であるからです。一切の法の所依であり、染浄の諸法が依り止まる所であるからです。常を遠離しているのは、染法が無常であるからです。断を遠離しているのは、白法が断たれないからです。これにまた区別があり、略して三相があります。不浄と言うのは、最初に説かれたもので、衆生界と名づけます。浄不浄と言うのは、次に説かれたもので、菩薩と名づけます。極清浄と言うのは、如来と説かれます。経に説かれている通りです。「舎利弗よ! すなわちこの法界は、恒沙を超えた無辺の煩悩の殻に纏われており、始まりのない世から常に生死の波に流され、往来して生滅し、常に中流にあります。これを衆生と名づけます。舎利弗よ! すなわちこの法界は、無辺の生死を厭い離れ、涅槃に住まわず、すべての欲界の中に住み、十波羅蜜を行じ、八万四千の法門を摂め、菩提の行を行じる時、菩薩と名づけます。舎利弗よ! すなわちこの法界は、一切の俱胝の煩悩から解脱し、一切の苦を度り、一切の煩悩の随眠と纏垢を遠離し、清浄で最も極めて清浄な法性の中に住み、一切の衆生の瞻仰するところであり、一切の爾焰の地に住み、大いなる勢力を得て障りなく執着なく、一切の法において自在の力を得て、如来・応・正等覚と名づけます。それゆえ舎利弗よ! 別に衆生界はなく、別に法身はありません。衆生界はすなわち法身であり、法身はすなわち衆生界です。この二つでないという意味の文字の違いなのです。」
此復云何?在不淨時煩惱所染,猶如重雲掩覆麗日。自性清淨心無有染,客塵煩惱既除遣已,日輪晃曜遍滿虛空。既有生老病死,云何復說此性為常?猶如火劫燒太虛空,空界無為本無燒相。法界無為亦復如是,老病死火無能燒壞。是故經說「世尊!世間言說有死有生,非如來藏有生死也。世尊!死者舊諸根壞,生者新諸根起。世尊!如來藏離有為境界相、常住寂靜。」此之藏性既常住不變,未能發起,云何得與佛法相應?猶如燈明及與煖色更無別相,法與法身亦復如是。如佛說言「舍利弗!譬如燈無二法功能無異,所為光明及煖色等不相離故。或如寶珠光明形色。如是如是。舍利弗!如來所說法身不相離法,智慧功能所為過殑伽沙如來之法。」如說「世尊!有二種如來藏空不空智。何者為二?世尊!所謂空如來藏,與煩惱㲉和合無別不了解脫。不空者,過恒河沙不離不脫不異不思議佛法成就,說如來法身。」何故法身萬德圓滿功德具足,眾生因何不得解脫?喻若蓮華,邪見羅網葉所覆故。亦如真金,墮於疑惑不淨穢故。猶如滿月,我慢羅睺之所吞故。如清池水,貪欲塵垢之所濁故。喻彼金山,為嗔恚埿所塗染故。如太虛空,愚癡之雲遍滿遮故。如日未出,無明住地之所障故,六處大蘊胎藏中住。如器世間相未成故,如是無雨緣未合故。
これはまたどういうことでしょうか。不浄のときには煩惱に汚されていて、ちょうど厚い雲が美しい太陽を覆い隠しているようなものです。しかし、自性清浄心そのものには汚れがありません。客塵の煩惱がすでに取り除かれてしまえば、太陽の円輪はきらめき輝き、虚空に遍満します。
すでに生・老・病・死があるのなら、どうしてこの本性を「常」と説くのでしょうか。ちょうど火劫が太虚空を焼くときも、空の領域は無為であり、もともと焼けるという相がないのと同じです。法界の無為もまた同じことで、老・病・死の火も焼き損なうことはできません。それゆえ経にはこう説かれています。「世尊!世間の言説には死があり生があると言いますが、如来蔵には生死があるのではありません。世尊!死とは古い諸根が壊れることであり、生とは新しい諸根が起こることです。世尊!如来蔵は有為の境界の相を離れ、常住で寂静です。」
この蔵の本性がすでに常住で変わらないとしても、まだ発起することができないのなら、どうして佛法と相応することができるのでしょうか。ちょうど灯の明かりと暖かさや色とに、これといった別の相がないのと同じです。法と法身もまた同じことです。仏がこう説かれたとおりです。「舎利弗!たとえば灯には二つの法がなく、機能に異なりがありません。なすところの光明と暖かさや色などが相離れないからです。あるいは宝珠の光明や形色のようです。まさにそのとおりです。舎利弗!如来の説かれた法身は、法と相離れません。智慧の機能のなすところは、殑伽沙のように多くの如来の法を超えています。」
またこう説かれています。「世尊!二種の如来蔵の空と不空の智があります。何が二つでしょうか。世尊!いわゆる空如来蔵は、煩惱の殻と和合して別でなく、解脱を了解していません。不空のものは、恒河沙を超えて、離れず脱れず異ならず、不可思議な佛法を成就し、如来の法身を説きます。」
どうして法身は萬徳円満で功徳が具足しているのに、衆生はどういう理由で解脫を得られないのでしょうか。たとえば蓮華が、邪見の網である葉に覆われているようなものです。また真金が、疑惑という不浄の穢れに堕ちているようなものです。ちょうど満月が、我慢という羅睺に呑まれているようなものです。清らかな池の水が、貪欲の塵垢に濁らされているようなものです。あの金山が、嗔恚の泥に塗り染められているようなものです。太虚空が、愚癡の雲に遍く遮られているようなものです。日のまだ出ていないときのように、無明住地に障られているからです。六処の大蘊が胎蔵の中に住んでいます。器世間の相がまだ成っていないようであり、このように雨の縁がまだ合わないからです。
蓮花金滿月, 池水金山空,
如日大地雲, 佛性客塵染。
煩惱覆功能, 佛事無由作,
略說九譬喻, 染淨翻應知。
蓮の花は金の満月のようであり、 池の水は金の山、空は、 太陽と大地と雲のようです。 仏性は客塵に染まっています。
煩惱が功能を覆い、 仏の仕事はなす由もありません。 略して九つの譬喩を説けば、 染と浄の反転を知るべきです。
由此如來法身亦復如是,一切煩惱客塵離障盡故、自性功能具足故,得成應供。一切眾生同共受用,證得常住寂靜清涼不思議涅槃界。所謂說如來、應、正等覺,非異如來法身外別有涅槃。又如所說「眾生界得清淨時,應知即是法身。」法身即是涅槃界,涅槃即是如來,如經中說「世尊!無上正等覺者即是涅槃。世尊!涅槃界者即是如來法身,世尊法身之外無別如來。世尊!如來者即是法身,此無有異也。」即是苦滅等,是故經言「世尊!非壞法故名為苦滅。然苦滅者,無始無作無生無起、無滅無盡離盡、常住不動寂靜,自性清淨,破一切煩惱㲉,過殑伽河沙不離不脫不思議佛法具足,說如來法身。世尊!此是如來藏。未脫煩惱㲉,名如來藏。世尊!如來藏者,是諸如來空智。世尊!如來藏,一切聲聞緣覺所不能見、先未曾見、昔未曾得,唯有如來得證,及破一切煩惱㲉,修習一切苦滅道。是故如水與冷,覺性與涅槃無二無別故。」或說一乘性欲,或不涅槃。又說同一法界,或小涅槃、或中涅槃、或大涅槃。不爾。下中上因中轉果,應為一也。因既差別,果亦差別。是故言「世尊!無有下中上者得涅槃。世尊,平等法者、平等智者、平等解脫者、解脫知見者,證得涅槃。是故世尊!涅槃界一味等味,所謂明解脫味。」
そこで、如来の法身もまた同じです。一切の煩悩という客塵の障りがすべて離れたからであり、自性の機能が具わっているからであり、応供となることができました。すべての衆生がともに受用し、常住で寂静清涼なる不思議の涅槃界を証得します。いわゆる如来・応・正等覚を説くのであって、如来の法身とは別に涅槃があるのではありません。また説かれるとおり、「衆生界が清浄になる時、それがすなわち法身であると知るべきです。」法身はすなわち涅槃界であり、涅槃はすなわち如来です。経の中で説かれるとおり、「世尊、無上正等覚とはすなわち涅槃です。世尊、涅槃界とはすなわち如来の法身です。世尊、法身のほかに別の如来はありません。世尊、如来とはすなわち法身であり、これに違いはありません。」これはすなわち苦の滅などです。それゆえ経に言います。「世尊、法を壊すから苦滅というのではありません。しかし苦滅とは、始めなく作られることなく生じることなく起こることなく、滅することなく尽きることなく尽きを離れ、常住で動かず寂静であり、自性は清浄で、一切の煩悩の殻を破り、殑伽河の沙よりも過ぎた数えきれない不思議な仏法を具足して、如来の法身を説くのです。世尊、これが如来蔵です。煩悩の殻からまだ脱していないものを如来蔵といいます。世尊、如来蔵とは、もろもろの如来の空の智慧です。世尊、如来蔵は、一切の声聞や縁覚には見ることができず、かって見たこともなく、かって得たこともなく、ただ如来だけが証得し、また一切の煩悩の殻を破り、一切の苦滅の道を修習します。それゆえ、水と冷たさがそうであるように、覚性と涅槃は二つでも別でもないからです。」あるいは一乗の性欲を説き、あるいは不涅槃を説きます。また同じ一法界を説き、あるいは小涅槃、あるいは中涅槃、あるいは大涅槃といいます。そうではありません。下・中・上の因が転じて果となるなら、一つであるべきです。因がすでに差別であるなら、果もまた差別です。それゆえ言います。「世尊、下・中・上の者が涅槃を得るのではありません。世尊、平等な法、平等な智慧、平等な解脱、解脱知見の者が涅槃を証得します。それゆえ世尊、涅槃界は一味等味であり、いわゆる明解脱の味です。」
大乘法界無差別論一卷
大乗法界無差別論 一巻
此是國、宋藏所謂《法界無差別論》,提雲般若譯者。今按《開元錄》及賢首疏,則彼丹本五言二十四頌者,真是提雲般若所譯,而賢首疏所釋者。又此論,錄及疏中並為單譯,而國、宋兩本與彼丹本文雖有異、義則無殊,必是開元之後後代重譯;但未知何代何人之譯,此須待勘。而二藏直以此為提雲般若譯者,錯也。
これは、国蔵と宋蔵が『法界無差別論』と呼んでいるもので、提雲般若(タイウンはんにゃ)が訳したものです。今、『開元録』と賢首の疏(注釈)によって調べますと、あの丹本の五言二十四頌のものこそ、まさに提雲般若が訳したものであり、賢首の疏が解釈しているものです。また、この論は、『開元録』および疏の中ではともに単訳とされていますが、国・宋の両本とあの丹本とは、文には違いがあっても意味には変わりがありません。きっと開元の時代より後の世代に再訳されたものでしょう。ただ、どの時代の誰の訳かは分かりません。これは今後の調査を待つ必要があります。ところが二蔵は、これをそのまま提雲般若の訳としたのは、誤りです。