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  1. 大慧普覚禅師宗門武庫終 (大慧普覺禪師宗門武庫終)
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大慧普覚禅師宗門武庫 (大慧普覺禪師宗門武庫)

「大慧普覺禪師宗門武庫」について

宋 · 道謙編 著

2.0 万字 · 約 67 分

大慧普覚禅師宗門武庫は、宋代の臨済宗僧・道謙によって編纂され、南宋初期に成立しました。本書は主に臨済宗楊岐派の高僧・大慧宗杲禅師の機鋒縦横な語録、公案の典故、および禅門の逸話を収録しており、宋代禅宗の生き生きとした宗風と教育法を生き生きと描き出しています。大慧宗杲の禅法と宋代禅宗史を研究する上で重要な文献であると同時に、臨済宗禅学思想の精髄を集めたものとして、後世の参禅者が心性を悟るための重要な手引きとなっており、仏教史上において承前啓後の地位を占めています。


大慧普覺禪師宗門武庫

大慧普覚禅師 宗門武庫

參學比丘道謙編

参学比丘道謙編

洞山廣道者梓州人。叢林號廣無心。初遊方問雲蓋智和尚。興化打維那意旨如何。智下繩床展兩手吐舌示之廣打一坐具。智云。此是風力所轉。又持此語問石霜琳和尚。琳云。爾意作麼生。廣亦打一坐具。琳云。好一坐具。祇是爾不知落處。又問真淨。淨云。爾意作麼生。廣亦打一坐具。淨云。他打爾也打。廣於此大悟。真淨因作頌云。丈夫當斷不自斷。興化為人徹底漢。已後從他眼自開。棒了罰錢趁出院。

洞山の広道者(こうどうしゃ)は梓州(ししゅう)の出身で、叢林(そうりん)では「広無心(こうむしん)」と呼ばれていました。

初めて修行の旅に出たとき、雲蓋智和尚(うんがいちおしょう)に問いました。「興化(こうか)が維那(いな)を打った、その意味はどういうことでしょうか?」すると智和尚は、座っていた禅床(ぜんしょう)から立ち上がり、両手を広げ、舌を出して示しました。広道者(こうどうしゃ)はそれに坐具(ざぐ)で一打ちしました。智和尚が言いました。「これは風力(ふうりき)によって動かされたのだ。」

次に広道者はこの話を石霜琳和尚(せきそうりんおしょう)に尋ねました。琳和尚は言いました。「お前はどう思うのか?」広道者はまた一打ちしました。琳和尚は言いました。「見事な一打ちだ。だが、お前はその落ちどころを知らない。」

さらに真浄(しんじょう)和尚に尋ねると、真浄は言いました。「お前はどう考える?」広道者はまた一打ちしました。真浄は言いました。「彼が打ったからお前も打ったのだな。」これを機に広道者は大いに悟りました。

そこで真浄和尚は頌(じゅ)を作って言いました。 「丈夫(じょうぶ)たる者、断ずべきを自ら断たず。 興化は人のために徹頭徹尾の漢(おとこ)なり。 その後は彼の眼(まなこ)自ずから開く。 棒で打たれた上、罰金を払って寺を追い出されよ。」

慈明瑯瑯大愚等數人辭汾陽。相讓不肯為參頭。汾陽云。此行不可以戒臘推。聽吾一頌。天無頭吉州城畔展戈矛。將軍疋馬林下過。圓州城裏鬧啾啾。慈明出班云。楚圓何人敢當此記莂。遂領眾拜辭。

慈明(瑯瑯)、大愚ら数人の僧が汾陽を辞することになった。互いに譲り合って参頭(先導役)を引き受けようとしない。汾陽が言った。「この旅には戒臘(僧としての年数)で序列を決めてはならない。私の一頌を聞きなさい。

『天に頭はなく、吉州の城の端で戈矛(ほこ)が広げられる。将軍が一騎で林の下を通れば、円州の城里は騒がしくざわめく。』

慈明が列を出て言った。「楚圓(慈明の名)ごときが、どうしてこのような予言(記莂)を頂けましょうか。」そして、そのまま案内に従って礼拝し、別れを告げた。

湛堂準和尚初參真淨。淨問近離甚處。準云大仰。夏在甚處。準云大溈。淨云。甚處人事。準云。興元府。淨展兩手云。我手何似佛手。準罔措。淨云。適來祇對一一靈明天真。及乎道箇佛手便成窒礙。且道病在甚處。準云。某甲不會。淨云。一切現成更教唯會。

湛堂準和尚が初めて真淨和尚に参禅した時のことです。 真淨が尋ねました。「最近、どこから来たのか。」 準が答えました。「大仰山です。」 真淨がさらに尋ねました。「夏の安居はどこで過ごしたのか。」 準が答えました。「大溈山です。」 真淨が尋ねました。「出身はどこか。」 準が答えました。「興元府です。」 真淨は両手を広げて言いました。「この我が手は、いかにも仏の手に似ているか。」 準は返答に窮してしまいました。 真淨が言いました。「先ほどの問答の一つ一つは、みな明らかで天真そのものだった。ところが『仏の手』という言葉が出たとたん、つまずいてしまった。さて、その病はどこにあると思うか。」 準が答えました。「私にはわかりません。」 真淨が言いました。「一切は現成(そのままに成就している)なのに、さらに『唯だ会す』とは何だ。」

暹道者久參雪竇。竇欲舉住金鵝。暹聞之夜潛書偈於方丈壁間即遁去。偈曰。不是無心繼祖燈。道慚未廁嶺南能。三更月下離巖竇。眷眷無言戀碧層。又曰。三十餘年四海間。尋師擇友未甞閑。今朝得到無心地。却被無心趁出山。暹後出世開先。承嗣德山遠和尚。續通雪竇書。山前婆子見專使欣然問曰。暹首座出世。為唯燒香。專使曰。德山遠和尚。婆子詬罵曰。雪竇抖擻屎腸說禪為爾。爾得恁麼辜恩負德。

暹道者は、長く雪竇に参禅していた。雪竇は彼に金鵝寺の住持になるよう勧めようとした。それを聞いた暹は、夜中に密かに方丈の壁に偈を書き残し、そのまま立ち去った。

偈にはこうあった。 「祖灯を継ぐ心がないわけではない。ただ、嶺南の慧能和尚に及ばぬ我が身が恥ずかしい。三更、月の下に岩窟を離れ、未練を残しつつ言葉もなく碧き峰々を慕う。」 さらに続けて。 「三十余年、四海を流浪し、師を求め友を選ぶに暇なし。今日、無心の境地に至りしが、かえって無心に追われて山を出でたり。」

その後、暹は世に出て開先寺を住持し、徳山遠和尚の法を嗣いだ。雪竇に書状を送ると、山前の婆さんが使いを見て喜びながら尋ねた。 「暹首座が出世なさった。どちらに香を焚いておられるのか。」 使いが「徳山遠和尚です」と答えると、婆さんは罵って言った。 「雪竇が自分の糞のような腸も振り絞って、お前に禅を説いたというのに、お前はなんと恩知らずなことをするのか。」

雲居舜老夫。常譏。天衣懷禪師說葛藤禪。一日聞懷遷化。於法堂上合掌云。且喜葛藤樁子倒了也。秀圓通時在會中作維那。每見訶罵不已。乃謂同列曰。我須與這老漢理會一上。及夜參又如前訶罵。秀出眾厲聲曰。豈不見圓覺經中道。舜遽曰。久立大眾伏惟珍重。便歸方丈秀曰。這老漢通身是眼。罵得懷和尚也。

雲居の舜老夫は、いつも天衣懷禅師を「葛藤禅だ」と批判していました。ある日、懷が遷化したと聞くと、法堂で合掌して言いました。「喜ばしいことに、葛藤の杭が倒れたぞ。」その時、秀円通は会の中で維那を務めており、舜老夫の罵倒が止まないのを見て、同僚に言いました。「私はこの老人と必ず一度はっきりさせねばならない。」その夜の参禅の時も、また前のように罵倒があったので、秀は衆の中から出て声を張り上げて言いました。「『円覚経』の中に『』とあるではないですか?」すると、舜はすぐに「久しく立たせてしまいました。皆様、どうかご自愛ください」と言い、方丈に帰ってしまいました。秀は言いました。「この老人は全身が目だ。よくも懷和尚を罵ったものだ。」

湖南小景淳有才學。曾著無縫塔銘。大通本禪師用其語。答無縫塔話云。煙霞生背面。星月遶簷楹。淳居嶽麓寺。律身精進。偶一夜經行殿陛失脚被攧。傍僧掖起。昏懵不曉人事。至於平生所著文字。亦不能曉。兜率照禪師。初遊方過嶽麓。聞老宿言淳事。照驚曰。我此生參禪不明心地亦如淳也。偶一失跌尚如此。況隔陰耶。

湖南の小景淳という人物は、学識と才能がありました。彼はかつて『無縫塔銘』を著しました。大通本禅師は、その言葉を用いて「無縫塔」の問答に次のように答えました。「煙霞は背面に生じ、星月は簷楹を繞る」と。淳は嶽麓寺に住み、戒律を守り精進していました。ある夜、経行中に殿の階段で足を踏み外して転倒し、傍らの僧に助け起こされましたが、気を失って人事不省となり、生涯に書いた文章さえも理解できなくなってしまいました。

兜率照禅師が初めて旅の途中で嶽麓寺を訪れた際、古老の僧から淳の出来事を聞きました。照は驚いて言いました。「私もこの一生、禅に参じても心の本質を明らかにできなければ、淳と同じことになる。たまさかの転倒でさえこうなるのだから、ましてや次の世に生まれ変わる隔陰(かくいん)の時においておや」と。

呂大申公執政時。因休沐日。預化疏請言法華齋。翌日果到府第坐於堂上。申公將出見之。自念曰。拜則是。不拜則是。言大呼曰。呂老子。爾好勞攘快出來。拜也好。不拜也好。申公拜敬之。齋畢問未來藏否。言索筆大書亳州二字與之。不言所以。後罷相知亳州治疊文字次。忽見二字在前。始悟前讖也。

呂大申公が政権を担っていた時のことです。ある休暇の日に、言法華という僧侶を招いて斎(斎食)を供するよう、あらかじめ案内状を送りました。すると翌日、言法華は約束通りに邸宅を訪れ、堂に座っていました。申公が会いに出ようとした時、心の中で考えました。「礼拝すべきか、それとも礼拝せぬべきか。」すると、言法華が大声で叫びました。「呂のじいさん、お前はなんと面倒なことをして騒ぐのか。さっさと出てこい。礼拝してもよい、礼拝しなくてもよい。」申公は礼拝して敬意を表しました。斎が終わると、これからの吉凶を尋ねました。言法華は筆を求め、「亳州」と大きく書いて渡しましたが、その意味については何も語りませんでした。後に申公は宰相を罷免され、亳州の知事となりました。書類を整理していた時、ふと以前に書かれた「亳州」の二文字が目に入り、はじめてそれは以前の予言だったのだと悟ったのです。

真淨和尚退洞山。遊浙至滁州瑯瑯起和尚處。因眾請小參。真淨貶剝諸方異見邪解。無所忌憚。下座見起和尚云。堂頭在此賴是別無甚言語。起云。爾也得也。二人相顧大笑而去。

真浄和尚が洞山を去り、浙地方を遊歴して滁州琅瑯の起和尚の寺に至った。ある時、大衆の求めに応じて小参(短い説法)を行った。真浄は諸方の異なる見解や邪な解釈を容赦なく批判した。説法を終えて座を下り、起和尚に会って言った。「和尚様がここにおられるおかげで、特に問題になるようなことはありませんでした。」起和尚は「おまえもそうだな」と答えた。二人は互いに顔を見合わせて大笑いし、そのまま去っていった。

葉縣省和尚嚴冷枯淡。衲子敬畏之。浮山遠天衣懷在眾時。特往參扣。正值雪寒。省訶罵驅逐。以至將水潑旦過。衣服皆濕。其他僧皆怒而去。惟遠懷併疊敷具整衣。復坐於旦過中。省到訶曰。爾更不去我打爾。遠近前云。某二人數千里。特來參和尚禪。豈以一杓水潑之便去。若打殺也不去。省笑曰。爾兩箇要參禪。却去挂搭。續請遠充典座。眾苦其枯淡。省偶出莊。遠竊鑰匙取油麵作五味粥。粥熟省忽歸赴堂。粥罷坐堂外令請典座。遠至首云。實取油麵煮粥。情願乞和尚責罰。省令算所直估衣鉢還訖。打三十拄杖出院。遠舍於市中。託道友解免。省不允。又曰。若不容歸。秖乞隨眾入室。亦不允。一日出街次。見遠獨於旅邸前立。乃云。此是院門房廊。爾在此住許多時。曾還租錢否。令計所欠追取。遠無難色。持鉢於市化錢還之。省又一日出街見之。持鉢歸為眾曰。遠真有意參禪。遂呼其歸。

葉県省和尚は、厳しく枯淡な風格で知られ、修行僧たちは皆、彼を畏れ敬っていた。

浮山の遠法師と天衣の懐法師が、まだ大衆の中にいた頃、わざわざ省和尚のもとを訪ね、参禅の教えを請うた。折しも大雪が降り、厳しい寒さの時期だった。省和尚は彼らを叱り、追い出そうとした。さらには、宿坊に水をまき散らし、彼らの衣服をびしょ濡れにした。他の僧たちは皆、怒って去って行った。しかし、遠と懐の二人だけは、敷物を整え、衣服を整え直し、再び宿坊に座り込んだ。

省和尚が来て叱りつけた。「お前たち、まだ行かぬのか。行かぬなら叩き出すぞ。」

遠が進み出て言った。「私たち二人は、数千里の道のりを経て、和尚様に禅を学びたく参りました。まさか、柄杓一杯の水で追い出されるところでしょうか。たとえ打ち殺されようとも、私たちは決して去りません。」

省和尚は笑って言った。「お前たち、参禅したいのか。ならば、掛搭せよ。」

その後、遠は典座(台所の責任者)に任じられたが、他の僧たちはその枯淡な生活に耐えかねていた。ある時、省和尚がたまたま寺を離れ、山荘へ出かけた。遠はこっそり鍵を取って、油や小麦粉を使って五味粥を作った。粥が出来上がったところで、省和尚が突然帰ってきて食堂に入った。粥を食べ終えると、和尚は食堂の外に座り、典座を呼び出すように命じた。

遠が来て、まず言った。「確かに、油と小麦粉を使って粥を作りました。どうか和尚様のお叱りをお受けします。」

省和尚は、その価値を計算させ、衣や鉢を売って弁償するよう命じた。そして、遠に三十回の杖打ちを加え、寺から追い出した。

遠は町の中に宿を取り、道友に頼んで許しを請うてもらったが、省和尚は許さなかった。さらに遠が、「もし戻ることを許していただけないならせめて、大衆と共に和尚様の部屋に入って参禅することをお許しください」と頼んでも、やはり許されなかった。

ある日、省和尚が街を歩いていると、遠が旅籠の前に一人で立っているのを見つけた。和尚は言った。「ここは寺の所有する建物だ。お前はこんなに長くここにいて、家賃を払ったことがあるのか。」そう言って、滞在期間分の家賃を計算して支払わせた。遠は嫌な顔一つせず、鉢を持って街に出て托鉢し、金を集めてそれを返済した。

また別の日、省和尚が街で遠に会い、遠が鉢を持って寺に戻る姿を見た。和尚は大衆に向かって言った。「遠は、本当に参禅する志のある者だ。」こうして、ついに遠を寺に呼び戻した。

汾陽無德禪師。一日謂眾曰。夜來夢。亡父母覓酒肉紙錢。不免徇俗置以祀之。事辦於庫堂。設位如俗間禮。酌酒行肉化紙錢訖。令集知事頭首散其餘盤。知事輩却之。無德獨坐筵中飲啖自若。眾僧數曰。酒肉僧。豈堪為師法耶。腰包盡去惟慈明大愚泉大道等。六七人在耳。無德翌日上堂云。許多閑神野鬼。秖消一盤酒肉兩陌紙錢斷送去了也。法華經云。此眾無枝葉。唯有諸貞實。下座。

汾陽無徳禅師が、ある日、僧たちにこう言った。「昨晩、夢で亡き父母が酒や肉、紙銭(紙銭)を所望していた。やむを得ず世俗に従い、これらを供えることにした。庫堂でその準備を整え、世俗の礼に倣って位牌を安置し、酒を注ぎ、肉を並べ、紙銭を燃やし終えた。その後、知事や頭首たちを集めて、残った食べ物を分け与えようとしたが、彼らは辞退した。無徳はただ一人、その席に座り、平然と飲み食いを続けた。僧たちは非難して言った。「酒を飲み肉を食う僧など、どうして師範として仰げようか」。彼らは腰に荷物をくくりつけて次々と去り、残ったのは慈明、大愚、泉大道など、わずか六七人のみであった。

翌日、無徳が上堂して言った。「多くの邪な幽霊や野神たちは、たった一盛りの酒と肉、二束の紙銭で追い払ってしまった。『法華経』に『この集いには枝葉は無く、ただ真実の者だけがいる』とある」。そう言って説法の座を下りた。

真淨和尚遊方時。與二僧偕行到谷隱。薛大頭問云。三人同行必有一智。如何是一智。二僧無語。淨立下肩。應聲便喝。薛竪拳作相撲勢。淨云。不勞再勘。薛拽拄杖趁出。薛見石門慈照禪師。

真浄和尚が修行の旅をしている時、二人の僧と一緒に谷隠というところへ行きました。薛大頭が尋ねました。「三人で行けば、必ず一人は智者がいるという。その一人の智者とは何か?」二人の僧は答えられませんでした。真浄は荷物を下ろし、声を上げてすぐに「喝!」と一喝しました。薛大頭は拳を突き立て、相撲の構えを取りました。真浄は言いました。「もう一度問い詰めるまでもない。」薛大頭は杖を引きずりながら、彼を追い出しました。

(薛大頭は)後に石門慈照禅師を訪ねました。

雲頂山敷禪師。成都府帥請就衙內陞座。時有樂營將。出禮拜。起回顧街前下馬臺云。一口吸盡西江水即不問。且請和尚吞却街前下馬臺。師展兩手唱云。細抹將來。樂營將於此有省。

雲頂山の敷禅師が、成都府の長官に招かれて役所の庁内で高座に上がられた時のことです。そのとき、楽隊の将校が一人、進み出て礼拝しました。立ち上がると、役所の前にある下馬台を振り返って見て言いました。

「一口で西江の水を飲み干すことについては、あえてお尋ねしません。ただ、和尚様にはお願いです。役所前のこの下馬台を、ひと飲みに飲み込んでいただけませんか。」

敷禅師は両手を広げて、歌うような調子で言われました。

「細かく挽いてお持ちなさい。」

楽隊の将校は、この言葉によって悟りを得たのでした。

自慶藏主者。蜀人。叢林知名。遍參真如晦堂普覺諸大老。游廬阜入都城。見法雲圓通禪師與秀大師偕行到法雲。秀得參堂。以慶藏主之名達圓通。通曰。且令別處挂搭。俟此間單位空即令參堂。慶在智海。偶臥病。秀欲詣問所苦。而山門無假。乃潛出智海見慶。慶以書白圓通。道秀越規矩出入。圓通得書知之。夜參大罵。此真小人。彼以道義故拚出院來訊汝疾。返以此告訐。豈端人正士所為。慶聞之遂掩息。叢林盡謂。慶遭圓通一詬而卒。

自慶蔵主という者は、蜀の出身で、叢林(僧侶社会)で名を知られていました。真如、晦堂、普覚といった高徳の先輩方に広く参じ、廬山や都を巡りました。ある時、法雲寺の圓通禅師を訪ねるにあたり、秀大師と共に法雲寺へ行きました。秀は参堂(正式な修行僧として迎え入れられること)を許されましたが、蔵主の名が圓通に伝えられました。すると圓通は言いました。「しばらく別の場所に掛搭(滞在)させなさい。こちらの単位(僧堂内の席)が空き次第、参堂させましょう。」

その頃、慶は智海寺にいて、偶然病に伏せっていました。秀がその病状を見舞いたいと思いましたが、山門(寺の規則)で外出は許されていませんでした。そこで秀はひそかに智海寺へ出向き、慶に会いました。すると慶は、圓通に宛てて手紙を書き、秀が規則を破って出入りしたことを告げ口しました。圓通は手紙を受け取り事態を知ると、夜の集まりで激しく非難しました。「これはまことの小人だ。秀は道義のゆえに、罰を受ける覚悟で君の病を見舞いに来たのだ。それなのに、逆にこれを密告するとは、正しい人や君子のすることか。」

慶はこの言葉を聞くと、そのまま息を引き取りました。叢林では、慶は圓通に一度叱責されたことで亡くなったのだ、と言い伝えられています。

撫州明水遜禪師。在法雲侍者寮時。道林琳禪師挂搭。方丈特為新到茶。遜躬至寮請之。適琳不在。有同行與琳聯案曰。汝去俟渠來。我為汝請。遜去。僧偶忘之。齋後鳴鼓會茶。琳不到。圓通問曰。新到在否。趣請之。琳到。圓通令退坐榻立。眾前責曰。山門特為茶。以表叢林禮數。因何怠慢不時至。琳曰。適聞鼓聲。忽內逼。趨赴不前。圓通呵曰。我鼓又不是巴豆。擊著爾便屎出。遜前白云。是某忘記請之。某當出院。時同行出眾曰。不干侍者與新到事。是某不合承受。為渠請偶忘記。某當代二人出院。圓通高其風義。併宥之。

撫州の明水遜禅師が、法雲寺の侍者寮にいた時のことです。道林琳禅師が掛搭(滞在)していました。和尚様が新しく来た人のために茶会を催すことになり、遜師が自ら寮まで案内に伺いました。ちょうど琳師は不在でした。琳師と同じ机を使っていた同僚が言いました。「あなたは行って、彼が戻るのを待っていなさい。私が代わりに案内を引き受けましょう」そこで遜師は引き上げました。ところが、その同僚はうっかりそのことを忘れてしまいました。

昼食後、茶会の合図の太鼓が鳴らされましたが、琳師は来ません。圓通和尚が尋ねました。「新しく来た方はいるか?」急いで呼びに行かせました。琳師が到着すると、和尚は彼に座布団を片付けさせ、皆の前に立たせて叱りました。「当山が特に茶会を開いたのは、修行僧としての礼儀を示すためだ。なぜ怠慢で時間に来なかったのか?」琳師は答えました。「先ほど太鼓の音を聞いたとたん、急に便意をもよおし、駆けつけることができませんでした。」和尚は一喝して言いました。「わしの太鼓は巴豆(下剤)ではない。打てばお前の尻から糞が出るというものか!」

そこで遜師が前に進み出て申し上げました。「これは私が案内するのを忘れたためです。私が寺を出るべきでしょう。」その時、先ほどの同僚も皆の前に進み出て言いました。「これは侍者や新しく来た方の責任ではありません。私があなた方のために案内を引き受けたのに、うっかり忘れてしまったのが悪かったのです。私が二人の代わりに寺を出るべきでしょう。」圓通和尚は、その高潔な心がけを称え、三人とも許すことにしました。

諸方尊宿示滅。全身火浴得舍利極多。唯真淨禪師舍利大如菽。五色晶瑩而又堅剛。谷山祖禪師。真淨高弟也。多收歛之。盛以瑠璃瓶。隨身供養。妙喜遊谷山。甞試之。置於鐵砧舉槌擊之。砧槌俱陷。而舍利無損。豈非平昔履踐明。白見道超詣所致耶。

諸方の尊宿が入滅された際、全身を火葬すると非常に多くの舎利が得られました。中でも真浄禅師の舎利は、豆のように大きく、五色に輝き、しかも堅固でした。谷山の祖禅師は真浄禅師の高弟で、その舎利を多く集め、瑠璃の瓶に納めて身につけて供養していました。妙喜和尚が谷山を訪れた際、これを試してみました。鉄の金敷きの上に置き、槌で打ち下ろすと、金敷きも槌も凹んでしまいましたが、舎利には全く傷がつきませんでした。これは、日頃の行いが明らかであり、道を見極める境地が卓越していたことによるものではないでしょうか。

賢蓬頭。江州人。溈山真如和尚會中角立者。見地明白機鋒頴脫。有超師之作。但行業不謹。一眾易之。真如結菴於方丈後。令賢獨處。唯通小徑從方丈前過。不許兄弟往還。後二年。舉首眾。立僧秉拂。說法有大過人處。一眾由是改觀。後往郢州興陽。數載道大行。示寂。肉身不壞。圜悟和尚在溈山目擊其事。妙喜遊興陽。尚及見其肉身。

賢蓬頭(けんほうとう)は、江州(こうしゅう)の出身です。沩山(いさん)の真如和尚(しんにょおしょう)の会下(えか)にあって、人並み外れた存在でした。その見識は明らかで、機鋒(きほう)は鋭く抜きんでており、師をも超える働きがありました。しかし、行い(ぎょうごう)が慎み深くなかったため、大衆は軽んじていました。そこで真如和尚は、方丈(ほうじょう)の背後に庵を結び、賢に独りで住まわせました。ただ、方丈の前を通る小道だけを通って、僧侶たちの出入りは許しませんでした。その後二年経って、賢は首衆(しゅしゅう)として僧の列に立ち、秉拂(ひょうふつ)を行い、説法には他に優れたところがあり、それによって大衆の見方は改まりました。後に彼は郢州(えいしゅう)の興陽(こうよう)へ赴き、数年その地で道が大いに広まりました。入寂(にゅうじゃく)した後も、その肉身は朽ちることはありませんでした。圜悟(えんご)和尚は沩山でこのことを目の当たりにしました。妙喜(みょうき)が興陽を訪れた際には、まだその肉身を拝することができました。

湛堂準和尚。興元府人。真淨之的嗣。分寧雲巖虛席。郡牧命黃龍死心禪師。舉所知者。以補其處。死心曰。準山主住得。某不識他。秖見有洗鉢頌甚好。郡牧曰。可得聞乎。死心舉云。之乎者也。衲僧鼻孔。大頭向下。若也不會。問取東村王大姐。郡牧奇之。具禮敦請。準亦不辭。平生律身以約。雖領徒弘法。不易在眾時。晨興後架。秖取小杓湯洗面。復用濯足。其他受用。率皆類此。纔放參罷。方丈行者人力便如路人。掃地煎茶皆躬為之。有古人風度。真後昆良範也。

湛堂準和尚は、興元府の出身である。真浄克文禅師の正嫡であり、分寧の雲巌寺の住持が空席となった際、郡の長官が黄龍の死心禅師に命じて、適任者を推挙させた。死心禅師は言った。「準山主が住むのにふさわしい。私は彼を直接知らぬが、ただ『洗鉢頌』というとても素晴らしい偈を見たことがある。」郡の長官が「それを聞かせていただけますか」と尋ねると、死心禅師は挙げて曰く、「之乎者也、衲僧の鼻孔、大頭は下に向く。もしも会えねば、問え、東村の王大姐に。」郡の長官はこれを奇異に思い、正式な礼をもって懇請した。準和尚も辞することなく応じた。

生涯、自らを律することは質素を旨とし、弟子を率いて法を弘めても、大衆の中にいた時と変わらなかった。朝、起床して洗面所に行き、小さな柄杓で湯を汲んで顔を洗い、その湯をまた足を洗うのに用いた。その他の生活も、すべてこのような類いであった。坐禅の終わりには、方丈の行者や人夫も彼にとっては路人同然であり、掃除や茶を煎れることまでも自ら行った。古の風雅を備え、まことに後世の学人の良き手本である。

法雲佛照杲禪師。嘗退居景德鐵羅漢院。殿中有木羅漢數尊。京師苦寒。杲取而燒之。擁爐達旦。次日淘灰中得舍利無數。諸座主輩。皆目之為外道。蓋佛照乃丹霞輩流。非俗眼所能驗也。

法雲寺の仏照杲禅師は、かつて隠居して景德鉄羅漢院に住んでいました。お堂の中には数体の木造羅漢像がありました。都が厳しい寒さに苦しんでいた時、杲禅師はその羅漢像を取り出して燃やし、一晩中炉端で暖をとりました。翌日、灰の中から数えきれないほどの舎利を見つけました。多くの僧侶たちは、これを外道の行いと見なしました。しかし、仏照禅師は丹霞禅師の仲間であり、世俗の目で判断できるものではなかったのです。

延平陳了翁。名瓘。字瑩中。自號華嚴居士。立朝骨鯁剛正。有古人風烈。留神內典。議論奪席。獨參禪未大發明。禪宗因緣多以意解。酷愛南禪師語錄。詮釋殆盡。唯金剛與泥人揩背。注解不行。嘗語人曰。此必有出處。但未有知之者。諺云。大智慧人面前有三尺暗。果不誣也。

延平の陳了翁(ちんりょうおう)は、名を瓘(かん)、字を瑩中(えいちゅう)といい、自らを華厳居士(けごんこじ)と号した。朝廷にあっては骨太で剛直な人物であり、古人の風格を備えていた。仏典に深く心を留め、議論では他者を圧倒した。ただし、禅の修行に関しては大きな悟りを得ていなかった。禅宗の公案の多くを智慧で解釈していたが、「金剛と泥人が背中をかく」という句だけは解釈できなかった。かつて人にこう語った。「この句には必ず出典があるはずだ。しかし、それを知る者はいないのだ。」諺に言う。「大智慧者の前には三尺の闇がある」と。まさにその通りで、嘘ではないのだ。

慈照聰禪師。首山之子。咸平中住襄州石門。一日太守以私意笞辱之。暨歸眾僧迎於道左。首座趨前問訊曰。太守無辜屈辱和尚如此。慈照以手指地云。平地起骨堆。隨指湧一堆土。太守聞之。令人削去。復湧如初。後太守全家死於襄州。又僧問。深山巖崖中。還有佛法也無。照云有。進云。如何是深山巖崖中佛法。照云。奇怪石頭形似虎。火燒松樹勢如龍。無盡居士愛其語。而石門錄獨不載二事。此皆妙喜親見。無盡居士說。

慈照聡禅師は、首山の法嗣である。咸平年間、襄州の石門に住していた。ある日、太守が私的な恨みから禅師を鞭打ち辱めた。寺に戻ると、多くの僧たちが道端で出迎えた。首座が進み出て問訊し「太守が理由もなく和尚様を不当に辱めました」と言った。慈照は地を指さして「平地に骨の山ができる」と言った。指さしたところに、たちまち土の山が現れた。太守がこれを聞き、人に削らせたが、再び元のように盛り上がった。その後、太守の家族全員が襄州で死んだ。また、ある僧が問うた「深山の岩壁の中にも、仏法はありますか」。慈照は「ある」と答えた。僧がさらに「深山の岩壁の中の仏法とは、どのようなものですか」と問うと、慈照は「奇妙な石の形は虎のようだ。火に焼かれた松の木の勢いは龍のようだ」と答えた。無尽居士*はこの言葉を愛したが、『石門録』だけはこの二つの話を載せていない。これらは、いずれも妙喜*が無尽居士から直接聞いた話である。

廬山李商老。因修造犯土。舉家病腫。求醫不效。乃淨掃室宇。骨肉各令齋心。焚香誦熾盛光。呪以禳所忤。未滿七日。夜夢。白衣老人騎牛在其家。忽地陷旋旋沒去。翌日大小皆無恙。志誠所感。速如影響。非佛力能如是乎。

廬山の李商老という者が、家を修理した際に土の神を犯してしまい、家族全員がむくみの病にかかりました。医者に診せても効き目がありませんでした。そこで、家の中を清め、家族それぞれが心を清めて、香を焚き「熾盛光」の呪文を唱え、その違犯を償いました。満七日になる前の夜、夢の中で白い衣を着た老人が牛に乗って家の中に現れました。すると突然地面が陥没し、老人はぐるぐると回りながら消えていきました。次の日、家族は皆、元気になりました。誠心が感応した結果で、その速さは影が形に従い、音が響き返るようでした。仏の力なくして、どうしてこのようなことがあり得ましょうか。

顒華嚴。圓照本禪師之子。因喫攧有省。作偈曰。這一交這一交。萬兩黃金也合消。頭上笠腰下包。清風明月杖頭挑。富鄭公常參問之。一日見上堂左右顧視忽契悟。以頌寄圓照曰。一見顒師悟入深。因緣傳得老師心。江山千里離云隔。目對靈光與妙音。鄭公罷相居洛中。思顒示誨。請住招提。聞顒入境躬出迓之。臨登車。司馬溫公適至。問相公何往。鄭公曰。接招提顒禪師。溫公曰。某亦同去。聯鑣出郭。候於郵亭久之。忽見數十擔過。溫公問誰行李。荷擔者應曰。新招提和尚行李。溫公遂索馬歸。鄭公曰。要見華嚴。何故先歸。溫公曰。某已見他了。竟先還妙喜嘗見李儀中少卿言之。

顒という華嚴僧は、円照禅師の法を継いだ弟子である。ある時、転んでひどく打ったことから悟りを得て、次のような偈を作った。

この一打、この一打、 万両の黄金にも値する一打。 頭には笠、腰には包、 杖の先には清風と明月。

富鄭公がしばしば彼のもとに参じて問い求めた。ある日、顒が説法の席に上がり、左右を見回したのを見て、富公はたちまち悟りを得た。そして頌を作り、円照に送った。

一たび顒師に会いて悟りの深さを知り 因縁伝わりて老師の心を得たり 江山千里、雲隔たるも離れず 目の当たりに霊光と妙音とに対す

鄭公は宰相を辞して洛陽に住んでいたが、顒の教えを思い、招提寺に招いて住持として迎えようとした。顒が洛陽に入ると聞いて、自ら出迎えに出た。車に乗ろうとしたところ、司馬温公がちょうど訪ねてきて、「相公はどちらへ?」と尋ねた。鄭公が「招提の顒禅師を迎えに行くのだ」と答えると、温公は「私もご一緒しよう」と言った。二人は馬を連ねて郊外に出て、宿場でしばらく待った。するとやがて数十人の荷運びが通りかかった。温公が「それは誰の荷物か」と尋ねると、担ぎ手が「新任の招提寺の和尚様の荷物です」と答えた。温公はすぐに馬を返して帰ろうとした。鄭公が「華嚴に会おうとしていたのに、なぜ先に帰るのか」と言うと、温公は「私はもう彼に会ったよ」と答えて、とうとう先に帰ってしまった。

これは昔、妙喜(大慧宗杲禅師)が李儀中少卿から聞いた話である。

舜老夫住廬山棲賢。槐都官守南康。因私忿民其衣。淨因大覺璉禪師。嘗入舜室。聞舜還俗。遣人取歸淨因。讓正寢居之。自處偏室。仁宗數召璉。入內問道。竟不言舜事。偶一日。嘉王取旨出淨因飯僧。見大覺侍舜之旁甚恭。歸奏仁宗。召對便殿。見之歎曰。道韻奇偉。真山林達士。於扇上書云。賜曉舜依舊為僧。特旨再住棲賢。仍賜紫衣銀鉢盂。舜罷棲賢日。以二莊力舁轎。至羅漢寺前。二力相謂曰。既不是我院長老。不能遠去。棄轎而歸。暨舜再來。令人先慰諭二力曰。爾當時做得是。但安心不必疑懼。舜入院上堂頌曰。無端被譖枉遭迍。半年有餘作俗人。今日再歸三峽寺。幾多歡喜幾多嗔。

舜老夫は廬山の棲賢寺に住んでいた。槐都官が南康を守っていたとき、個人的な怒りから舜を僧籍から外し、俗人の服を着せた。淨因寺の大覚璉禅師は、かつて舜の門下に入ったことがあった。舜が還俗したと聞き、人を遣わして淨因寺に迎え取らせた。そして自らは正しい寝室を譲って舜を住まわせ、自分は脇の部屋に身を置いた。仁宗はたびたび璉を召して宮中に入れ、道を問うたが、璉はついに舜のことを語らなかった。ある日、嘉王が帝の命を受けて淨因寺に出向き僧に食事を施したところ、大覚が舜の傍らで非常に恭しく仕えているのを見た。帰って仁宗に奏上すると、仁宗は舜を召して便殿で対面した。見て嘆じて言うには、「道の趣きは奇偉であり、本当に山林の達士である。」と。扇の上に書きしるして、「賜う、曉舜は旧の如く僧と為り、特旨により再び棲賢に住す。仍せて紫衣と銀の鉢盂を賜う。」舜が棲賢を去ったとき、二人の力者をして輿を担がせ、羅漢寺の前に至った。そのとき二人の力者は言い合った。「我々の院の長老でないのなら、遠くまで行くことはできない。」と。輿を棄てて帰ってしまった。舜が再び来たとき、人を遣わして先に二人の力者を慰め諭して言った。「お前たちが当時したことは、それは正しいことだ。ただ心を安んじて、疑い恐れることはない。」と。舜は寺に入り上堂して頌を説いた。 「無端に讒言され、枉げて遭難し、 半年余りも、俗人として過ごした。 今日再び、三峽の寺に帰る、 幾許の歓喜あり、幾許の怒りあらん。」

舜老夫一日舉。鹽官和尚喚侍者。將犀牛扇子來。侍者云。扇子已破。官云。扇子既破。還我犀牛兒來。侍者無對。舜云。三伏當時正須扇子。為侍者不了事。雖然如是。鹽官太絮。何不大家割捨。侍者當時若見鹽官道扇子既破還我犀牛兒來。便向道。已颺在搕𢶍堆上了也。

舜老夫がある日、こう話した。

「鹽官和尚が侍者に言った。『犀牛の扇子を持って来なさい』と。すると侍者が『扇子はもう壊れてしまいました』と答えた。すると和尚は『扇子が壊れたのなら、犀牛の子を返しなさい』と言ったが、侍者は答えられなかった。」

舜老夫は続けて言った。

「三伏の暑い盛り、まさに扇子が必要な時だ。侍者はまったく物事が分かっていなかった。だが、そうは言うものの、鹽官和尚もくどすぎる。どうしてみんなで捨ててしまわなかったのか。もしあの時、侍者が鹽官和尚に『扇子が壊れたのなら、犀牛の子を返しなさい』と言われたなら、すぐにこう言えばよかったのだ。『すでにゴミの山に投げ捨ててしまいました』と。」

翠巖真點胸。嘗罵舜老夫說無事禪。石霜永和尚令人傳語真云。舜在洞山悟古鏡因緣如此。豈是說無事禪。爾罵他。自失却一隻眼舜聞之作頌云。雲居不會禪。洗脚上床眠。冬瓜直儱侗。瓠子曲彎彎。永和尚亦作頌曰。石霜不會禪。洗脚上床眠。枕子撲落地。打破常住甎。舜一日上堂云。黃昏後脫𮧬打睡。晨朝起來。旋打行纏。夜來風吹籬倒。普請奴子劈筏縛起。下座。

翠巖の真點胸は、かつて舜老夫を罵って、「無事禅」を説いていると言った。

石霜の永和尚は、使いの者をやって真に伝えさせた。「舜は洞山で『古鏡』の因縁を悟ったのは、このようなことだ。どうして『無事禅』を説いていると言えるのか。お前が彼を罵ったことで、かえってお前自身が片目を失ったようなものだ。」

舜がこれを聞いて作った頌:

「雲居は禅を会さず、 足を洗い床に上がって眠る。 冬瓜はまっすぐでごろりとしているが、 瓠子は曲がりくねっている。」

永和尚もまた頌を作った:

「石霜は禅を会さず、 足を洗い床に上がって眠る。 枕がばたんと地面に落ちて、 常住の甎を打ち破った。」

舜がある日上堂して言った。

「黄昏が過ぎて、衣を脱ぎ捨てて寝る。 朝になって起きると、すぐに脚絆を巻く。 夜中に風が吹いて垣根が倒れたので、 皆に命じて、木を割り、縛って立てさせた。」

そう言って下座した。

五祖會中有僧名法𨴯。入室次祖問。不與萬法為侶者。是什麼人。僧云法𨴯。即不然。祖以手指云。住住法𨴯即不然作麼生。𨴯於言下有省。後至東林宣祕度和尚室中盡得平實之旨。𨴯一日持一枝花。遶禪床一匝。背手插於香爐上曰。和尚且道。意作麼生。宣祕累下語。𨴯不諾。經兩月日遂問𨴯曰。爾試說看𨴯曰。某甲秖將花插香爐上。是和尚自疑。別有什麼事。

五祖の会の中に、法という名の僧がいた。ある日、師の部屋に入った際、五祖が問うた。「万物と共に在らない者とは、いったいどんな人物か?」僧は答えた。「法はそうではありません。」すると五祖は指で指しながら言った。「待て待て、法はそうではないとは、どういうことだ?」法はこの言葉で悟りを得た。

その後、東林の宣祕和尚の部屋で、平実な悟りの本質を尽くして会得した。ある日、法は一輪の花を持ち、禅床を一周してから、手を背に回して香炉に花を挿し、「和尚、どう思われますか? その意味は?」と尋ねた。宣祕は何度も答えを試みたが、法は納得しなかった。

二か月が経ち、宣祕はついに法に問うた。「君が言ってみなさい。」法は答えた。「私はただ花を香炉に挿しただけです。和尚ご自身が疑問に思われたのです。他に何か特別なことなどありましょうか?」

佛眼禪師在五祖時圓悟舉臨濟云。第一句下薦得。堪與佛祖為師。第二句下薦得。堪與人天為師。第三句下薦得。自救不了。一日忽謂圓悟曰。我舉三句向爾。以手指屈曰。此是第二句。第三句已說了便走。圓悟舉似五祖。祖曰。也好聻。眼乃辭五祖。參歸宗真淨和尚去。後祖謂圓悟曰。歸宗波瀾闊弄大旗手段遠到彼。未必相契。未數日有書抵圓悟曰。北到歸宗偶然漏網。聞雲居清首座作晦堂真贊曰。聞時富貴見後貧窮。頗疑著他。及相見果契合。踰年復還祖山。眾請秉拂。却說心性禪。祖曰。遠却如此說禪。也莫管他。圓悟和尚嘗參蘄州北烏牙方禪師。佛鑑和尚嘗參東林宣祕度禪師。皆得照覺平實之旨。同到五祖室中。平生所得一句用不著。久之無契悟。皆謂。五祖強移換他。出不遜語忿然而去。祖云。汝去遊浙中。著一頓熱病打時。方思量我在。圓悟到金山。忽染傷寒困極。移入重病閭。遂以平生參得底禪試之。無一句得力。追繹五祖之語乃自誓曰。我病稍間即徑歸五祖。佛鑒在定慧。亦患傷寒極危。圓悟甦省經由定慧。拉之同歸淮西。佛鑒尚固執。且令先行。圓悟亟歸祖山。演和尚喜曰。汝復來耶。即日參堂。便入侍者寮。經半月偶陳提刑解印還蜀。過山中問道。因語話次。祖曰。提刑少年曾讀小艶詩否。有兩句頗相近。頻呼小玉元無事。秖要檀郎認得聲。提刑應喏喏。祖曰。且子細。圓悟適自外歸侍立次。問曰。聞和尚舉小艶詩。提刑會麼。祖曰。他秖認得聲。圓悟曰。秖要檀郎認得聲。他既認得聲。為什麼却不是。祖曰。如何是祖師西來意庭前柏樹子聻。圓悟忽有省。遽出去見雞飛上欄干鼓翅而鳴。復自謂曰。此豈不是聲。遂袖香入室通所悟。祖曰。佛祖大事非小根劣器所能造詣。吾助汝喜。祖復遍謂山中耆舊曰。我侍者參得禪也。佛鑒和尚自浙中歸祖山。躊躇不肯挂塔。圓悟曰。我與汝相別纔踰月。比今相見時如何。鑒曰。我只疑爾這些子。遂參堂。一日同圓悟侍祖。因遊山話次舉。東寺和尚問仰山。汝是甚處人。仰山曰。廣南人。寺曰。我聞廣南有鎮海明珠。曾收得否。山曰收得。寺曰珠作何色。仰曰。白月即現黑月即隱。寺曰。何不呈似老僧。仰山叉手近前曰。慧寂昨到溈山被索此珠。直得無言可對無理可伸。顧謂佛鑒曰。既曰收得。逮索此珠時。又曰無言可對無理可伸。是如何。佛鑒無語。忽一日謂圓悟曰。仰山見東寺因緣。我有語也。東寺當時只索一顆珠。仰山當下傾出一栲栳。圓悟深肯之。

仏眼禅師が五祖の下にいた時、円悟が臨済の言葉を挙げて言った。「第一句の下で悟れば、仏祖の師となることができる。第二句の下で悟れば、天人の師となることができる。第三句の下で悟れば、自分の救いにもならない」。ある日、突然円悟に向かって言った。「私が三つの句を挙げてやろう」。指を曲げて数えながら、「これが第二句だ。第三句はもう言ってしまった」と言い、すぐに立ち去った。円悟がこのことを五祖に話すと、五祖は「まあ、いいじゃないか」と言った。そこで仏眼は五祖のもとを辞し、帰宗真浄和尚に参じに行った。その後、五祖は円悟に言った。「帰宗のところは波乱万丈で、大きな旗を振るうようなものだ。彼がそこへ行っても、おそらく心が通じないだろう」。数日も経たないうちに、仏眼から円悟に手紙が届き、こう書いてあった。「北から帰宗に来て、偶然網の目を逃れた。雲居の清首座が晦堂真讃を作ったのを聞いた。『聞くときは富貴、見た後は貧窮』と。少し疑わしく思っていたが、実際に会ってみると、まさに心が通じた」。一年余り経って、再び祖山に戻った。大衆が彼に請いて払子を執らせたが、彼は心性禅を説いた。五祖は言った。「遠くまで行って、こんなふうに禅を説くのか。まあ、かまわない」。円悟和尚はかつて蘄州北烏牙の方禅師に参じたことがある。仏鑑和尚はかつて東林宣祕度禅師に参じたことがある。二人とも照覚平実の宗旨を得ていたが、五祖の室に来てからは、平生得た一句も役に立たなくなった。長い間悟りが開けず、二人は言った。「五祖は無理に私たちを変えようとしている」。不遜な言葉を吐き、怒って立ち去った。五祖は言った。「お前たちは浙中へ行け。熱病を一発もらって、その時になって初めて私のことを思い出すだろう」。円悟は金山に着くと、突然傷寒に罹りひどく苦しんだ。重病室に移され、平生参究した禅を試してみたが、一句も役に立たなかった。五祖の言葉を思い返し、自ら誓った。「病が少しでも良くなったら、すぐに五祖のところに戻ろう」。仏鑑は定慧にいて、同じく傷寒で危篤状態だった。円悟は快復して定慧を経由し、彼を誘って一緒に淮西に戻ろうとした。仏鑑はまだ頑なに固執し、ひとまず先に行かせた。円悟は急いで祖山に戻った。演和尚は喜んで言った。「また来てくれたか」。その日から参堂し、直ちに侍者の寮に入った。半月が経ったある日、たまたま陳提刑が印綬を解いて蜀に帰る途中、山の中を訪ねてきて道を尋ねた。言葉を交わすうちに、五祖が言った。「提刑は若い頃、艶詩を読んだことがあるか。近い言葉が二句ある。『頻呼小玉元無事、秖要檀郎認得声』(小玉を頻りに呼ぶも元より用事なし、檀郎が声を認めんことを要するのみ)」。提刑は「はい、はい」と応じた。五祖は言った。「もっとよく考えなさい」。円悟がたまたま外から帰って来て、そばに侍りながら尋ねた。「和尚が小艶詩を挙げられたのを聞きましたが、提刑はお分かりになりましたか?」五祖は言った。「彼はただ声を認めただけだ」。円悟は言った。「『秖要檀郎認得声』。彼は声を認めたのに、なぜそうではないのですか?」五祖は言った。「祖師西来意とは何か?庭前の柏の木の子だよ」。円悟は突然、悟りを得た。すぐに出て行くと、鶏が欄干に飛び乗り、羽を打ち鳴らしているのを見た。そして自ら言った。「これこそ声ではないか」。すぐに袖に香を入れて室に入り、悟ったところを告げた。五祖は言った。「仏祖の大事は、小根劣器の及ぶところではない。私はお前の喜びを祝う」。五祖はさらに山中の古老たちに言い渡した。「私の侍者が禅を悟ったぞ」。仏鑑和尚が浙中から祖山に戻って来たが、ためらって掛搭しようとしなかった。円悟は言った。「私と君が別れてからまだ一ヶ月余りだ。今、再び会った時、どう思う?」仏鑑は言った。「私が疑っているのは、ただその一点だ」。そして参堂した。ある日、円悟と共に五祖に侍り、山を遊覧しながら話をした。東寺和尚が仰山に尋ねた。「あなたはどこの出身ですか?」仰山は言った。「広南の者です」。東寺は言った。「広南に鎮海の明珠があると聞いたが、あなたはそれを手に入れたことがあるか?」仰山は言った。「手に入れました」。東寺は言った。「その珠は何色か?」仰山は言った。「白い月が出れば現れ、黒い月が出れば隠れます」。東寺は言った。「なぜ老僧に見せないのか?」仰山は両手を組み、近づいて言った。「慧寂が昨日、溈山に参った時、この珠を求められましたが、文字通り言葉もなく、理屈も述べられませんでした」。五祖は仏鑑に向かって言った。「『手に入れた』と言いながら、珠を求められた時には『言葉もなく、理屈も述べられない』とは、どういうことか?」仏鑑は答えられなかった。ある日、突然円悟に言った。「仰山が東寺に会った因縁について、私にも言葉がある。東寺はその時、ただ一つの珠を求めただけだったが、仰山は即座に一つの大きな籠をひっくり返して差し出したのだ」。円悟は深くこれを認めた。

劉宜翁甞參佛印。頗自負甚輕薄真淨。一日從雲居來遊歸宗至法堂。見真淨便問。長老寫戲來得幾年。淨曰。專候樂官來。翁曰。我不入這保社。淨曰。爭柰即今在這場子裏。翁擬議。淨拍手曰。蝦蟆禪秖跳得一跳。又坐次指其衲衣曰。喚作什麼。淨曰禪衣翁曰。如何是禪。淨乃抖擻曰。抖擻不下。翁無語。淨打一下云。爾伎倆如此。要勘老僧耶。

劉宜翁はかつて佛印に参禅したことがあり、たいそう自惚れており、真淨を非常に軽んじていた。ある日、雲居から来て帰宗寺に遊び、法堂に至り、真淨を見るなり問うた。「長老は戯れを書いてから何年になりますか」と。真淨は答えた。「ひたすら楽官のお越しを待っておりました」。翁が言う。「私はこの組には入らぬ」。真淨が言う。「今この場においででありながら、それを言うか」。翁が返答に窮すると、真淨は手を叩いて言った。「蝦蟆禅はただ一跳びしかできない」。また、座ってからその衲衣を指して言った。「これを何と呼ぶ」。真淨が「禅衣」と答えると、翁が「如何なるものが禅か」と問うた。真淨は衣をばさばさと振るいながら、「振るい落とせませぬ」と言った。翁は無言でいた。真淨は一度打って言った。「お前の腕前はその程度で、老僧を試そうというのか」。

洪州奉新縣慧安院門臨道左。衲子往還黃龍泐潭洞山黃蘗無不經由。偶法席久虛。太守移書寶峯真淨禪師。命擇人主之。頭首知事耆宿輩皆憚其行。時有淵首座。向北人孤硬自立。參晦堂真淨。實有契悟處。泯泯與眾作息。人無知者。聞頭首知事推免不肯應命。白真淨曰。惠淵去得否。真淨曰。汝去得。遂復書舉淵。淵得公文即辭去。時湛堂為座元。問淵曰。公去如何住持。淵曰。某無福。當與一切人結緣。自負栲栳打街供眾。湛堂曰。須是老兄始得。遂作頌餞之曰。師入新吳誘携群有。且收驢脚先展佛手。指點是非分張好醜。秉殺活劍作師子吼。應群生機解布袋口。擬向東北西南。直教珠回玉走。咸令昧已之流頓出無明窠臼。阿呵呵。見三下三。三三如九。祖祖相傳佛佛授手。淵住慧安逐日打化。遇暫到。即請歸院中歇泊。容某歸來修供。如此三十年風雨不易。鼎新剏佛殿輪藏羅漢堂。凡叢林所宜有者。咸修備焉。黃龍死心禪師訪之。淵曰。新長老。汝常愛使沒意智一著子。該抹人。今夜且留此。待與公理會些細大法門。新憚之謂侍者曰。這漢是真箇會底。不能與他𠢐牙劈齒得。不若去休。不宿而行。淵終於慧安闍維後。六根不壞者三。獲舍利無數。異香滿室累月不絕。奉新兵火殘破無孑遺。獨慧安諸殿嶷然獨存。豈非願力成就神物護持耶。今諸方袖手領現成受用者。聞淵之風得不媿於心乎。

洪州奉新県にある慧安院は、門前が街道に面していた。僧侶たちが黄龍、泐潭、洞山、黄蘗を往来する際、必ずこの寺を通った。そんな折、しばらく住持が不在となった。太守が宝峯の真淨禅師に手紙を送り、適任者を選んで住持に据えるよう依頼した。しかし、寺の役職者や長老たちは皆、その地へ赴任するのを嫌がった。

当時、淵首座という僧がいた。北方出身で、孤高かつ剛毅な人物であり、晦堂と真淨のもとで修行し、深い悟りを得ていた。しかし、それを表に出さず、皆と共に生活し、誰もその力量を知らなかった。彼は役職者たちが辞退して任を引き受けないと聞き、真淨のもとへ行って言った。 「惠淵が行ってもよろしいでしょうか?」 真淨は言った。「お前なら行ける。」 そこで真淨は返書を送り、淵を推薦した。淵は正式な辞令を受けると、すぐに出発した。

その時、湛堂が首座の地位にあった。彼が淵に尋ねた。 「あなたはどのように寺を運営されるおつもりか?」 淵は答えた。「私は福がありません。ですから、すべての人と縁を結びましょう。自ら籠を担いで街に出て托鉢し、僧侶たちに施しましょう。」 湛堂は言った。「やはりあなたでなければなりませんね。」 そこで彼は詩を贈って淵を送り出した。

「師は新呉に入り、人々を導く。 まずは驢馬の足を收め、次に佛の手を差し伸べる。 是と非を指摘し、善と悪を明らかにする。 生死を自在にする剣を振るい、獅子の吼え声を響かせる。 衆生の機根に応じて、袋の口を解く。 東西南北、あらゆる方向へ。 玉が巡り、珠が踊るかのように。 己に迷う者たちを、無明の巣窟から一瞬で救い出す。 あはは。 三打てど三、三三は九。 祖師から祖師へ伝え、仏から仏へと授けられる。」

淵は慧安院に住持すると、毎日托鉢に出かけた。もし行き来の僧に出会えば、必ず寺に招き入れ、「どうぞお休みください。私は戻って、おもてなしを整えます」と言った。この習慣を三十年間、風雨の日も変えずに続けた。そして、寺を新しく建て直し、仏殿、輪蔵、羅漢堂を建立した。寺院にふさわしいものは、すべて整えたのである。

黄龍の死心禅師が彼を訪ねた。淵は言った。 「新しい長老、あなたはいつも『無分別』という言葉を使って、人を煙に巻こうとなさる。今夜はここに泊まりなさい。あなたと、細かい教えについて語り合おう。」 死心はこれを恐れ、侍者に言った。「この男は本当に悟った者だ。彼とは言葉の応酬はできない。ここは退散するがよい。」 そう言って、一晩も泊まらずに立ち去った。

淵は慧安院で亡くなった。荼毘に付された後、彼の六根のうち三つが焼けずに残り、数えきれないほどの舎利が得られた。また、異様な香りが部屋中に満ち、何か月も消えなかったという。 奉新県は戦火によって徹底的に破壊され、何も残らなかった。しかし、慧安院の各殿堂だけは、堂々と焼け残った。これは、彼の誓願の力が成し遂げ、神々が守護したからではないだろうか。 今、安楽に座して、先人が築いたものを受けている僧たちよ。淵のこの行いを聞いて、心に恥じるところはないか。

法雲杲和尚。遍歷諸家門庭。到圓通璣道者會中。入室次。舉趙州問投子大死底人却活時如何。子云。不許夜行投明須到。意作麼生。杲曰。恩大難酬。圓通大稱賞之。後數日舉立僧秉拂。機思遲鈍。閧堂大笑。杲有慚色。次日特為大眾茶。安茶具在案上。慚無以自處。偶打翻茶具。瓢子落地跳數跳。悟得答話。機鋒迅捷無敢當者。復至真淨處。因看祖師偈云。心同虛空界。示等虛空法。證得虛空時。無是無非法。豁然大悟。後出世時。上堂小參常謂人曰。和尚紹聖三年十一月二十一日。悟得方寸禪。又言。和尚熙寧三年丈帳。在鳳翔府供申。當年陷了華山一十八州。爾輩茄子瓠子那裏得知。詔住法雲。開堂日。中使捧御香至。要語錄進呈。時洪覺範在會下。令侍者請來編語錄云。且看老和尚面。覺範編次呈之。讀畢謂曰。若要了死生底禪。須還和尚。若是攢花簇錦。四六文章閑言長語。須是我洪兄始得。法雲平生氣吞諸方孩撫時輩。蓋所得有大過人處。乃敢爾也。

法雲杲和尚は、数々の禅門の教えを学び歩いた。 ある時、円通璣道者のもとで修行していた際、入室の機会に、こんな問答があった。

「趙州が投子に問うた。『大死した人が、もし生き返ったなら、どうなるのか』と。投子は答えた。『夜の行き来は禁じるが、夜が明けるまでには必ず着くように』。この意味はどういうことか。」

法雲杲が答えた。 「恩は大きすぎて、報いることはできませぬ。」

円通はこれを大いに称賛した。 その後数日して、法雲杲が立僧として法を説くことになったが、機転が鈍く、大勢の笑い者になった。 法雲杲は恥ずかしさを感じた。

翌日、特に大衆のためにお茶を供しようと、茶道具を机の上に置いたものの、恥ずかしさでどうにも落ち着かなかった。 ところが、うっかり茶道具を倒してしまい、柄杓が地上に落ちて数回跳ねた。その瞬間、答えの言葉に悟りを得た。 以来、その機鋒は鋭く、かなう者はいなかった。

その後、真浄のもとへ行き、祖師の偈を読んだ。 「心は虚空の界のごとく、示すところ等しく虚空の法なり。虚空を証する時、是もなく非法もなし」 これを読んで、はたと大悟したのだった。

後に出世して、上堂や小参のたびに、よく人にこう語った。 「わしは紹聖三年十一月二十一日に、方寸の禅を悟ったのだ。」

またこうも言った。 「わしは熙寧三年の帳簿では、鳳翔府に申告していたが、その年に華山の一十八州を陥としたのだ。お前たちナスやヒョウタンごときが、どこで知るものか。」

後に法雲寺に住持するよう命じられ、開堂の日、使者が御香を捧げ持って来て、語録を進呈するよう求められた。 その時、洪覚範が会下にいたので、侍者に頼んで彼を呼び、語録の編纂を依頼した。 「どうか老僧の顔を立ててくれ。」

覚範が編んで差し出すと、それを読み終えて言った。 「もし生死を解き明かす禅が必要なら、それはわしに任せてもらおう。だが、花を集め錦を飾るような、四六の文章や閑語りは、わしの洪兄こそが優れている。」

法雲は平生、気概は諸方を呑み、時輩をわが子のように扱った。 その見識には、並々ならぬものがあったからこそ、そのような振る舞いができたのである。

師因湛堂和尚示寂。請覺範狀其行實。又得龍安照禪師書為紹介。特往荊南謁無盡居士求塔銘。初見無盡。無盡立而問曰。公秖恁麼。著草鞋遠來。對曰。某數千里行乞來見相公。又問年多少。對曰。二十四。又問。水牯牛年多少。對曰兩箇。又問。什麼處學得這虛頭來。對曰。今日親見相公。無盡笑曰。且坐喫茶。纔坐又問遠來有何事。遂起趨前云。泐潭和尚云寂茶毘。眼睛牙齒數珠不壞。得舍利無數。山中耆宿皆欲得相公大手筆作塔銘激勵後學。得得遠來冒瀆鈞聽。無盡曰。被罪在此。不曾為人作文字。今有一問問公。若道得即做塔銘。道不得即與錢五貫。裹足却歸兜率參禪去。遂曰。請相公問。無盡曰。聞準老眼睛不壞是否。答曰是。無盡曰。我不問這箇眼睛。曰相公問什麼眼睛。無盡曰。金剛眼睛。曰若是金剛眼睛。在相公筆頭上。無盡曰。如此則老夫為他點出光明。令他照天照地去也。師乃趨階云。先師多幸。謝相公塔銘。無盡唯唯而笑。其略曰。舍利孔老之書無聞也。先佛世尊滅度。弟子收舍利起塔供養。趙州從諗舍利多至萬粒。近世隆慶閑百丈肅。煙氣所及皆成舍利。大抵出家人。本為生死事大。若生死到來不知下落。即不如三家村裏省事漢。臨終付囑一一分明。四大色身諸緣假合。從本以來舍利豈有體性。若梵行精潔白業堅固。靈明廓徹預知報謝不驚不怖。則依正二報毫𣯛不差。世間麁心於本分事上。十二時中不曾照管微細流注。生大我慢。此是業主鬼來借宅。如此而欲舍利流珠諸根不壞。其可得乎。

湛堂和尚が亡くなった時、師は覚範にその行状を書いてもらい、さらに龍安照禅師の紹介状も得て、わざわざ荊南まで無尽居士を訪ね、塔銘を依頼しました。 初めて無尽に会った時、無尽は立ったまま「あなたは、そんな草鞋履きで遠くから来たのか」と尋ねました。 師は答えました。「私は数千里を乞食しながら参上して、相公にお会いしました。」 「年はいくつだ。」「二十四です。」 「水牛の年はいくつだ。」「二つです。」 「どこでそんな虚仮を覚えたのか。」「今日、直接相公にお会いしました。」と師が答えると、無尽は笑って「まあ座ってお茶でも飲め」と言いました。 座るなり、再び「遠来の用向きは何か」と尋ねられ、師は立ち上がり前に進み出て言いました。 「泐潭和尚が入滅され、荼毘に付されましたが、お目とお歯、数珠が焼け残り、無数の舎利が得られました。山の長老たちは皆、相公の大筆で塔銘を書き、後学を励ましたいと願っております。遠路はるばる参り、聞こえを冒して恐れ入りますがお願い申し上げます。」 無尽は「私は罪を受けてここに流されており、人のための文章は書いていない。今、一つ質問しよう。それに答えられたら塔銘を書き、答えられなければ銭五貫をやろう。足代にして兜率寺に帰り、禅を修行して来なさい。」と言いました。 師は「どうぞ、お尋ねください。」と応じました。 無尽が「準老師の目は焼けなかったと聞くが、本当か。」と尋ねると、師は「はい。」と答えました。 無尽「私はこの目を聞いているのではない。」 師「では、相公は何の目をお尋ねですか。」 無尽「金剛の目だ。」 師「もし金剛の目ならば、それは相公の筆先にあります。」 無尽「それでは、わしがそれを輝かせてやろう。天も地も照らすように。」 師は階に進み出て「先師は幸せ者です。塔銘をありがとうございます。」と言うと、無尽は「うん、うん」と笑いました。 (碑文の大意は以下の通りです。) 「舎利については、孔子や老子の書には記述がない。しかし、先仏世尊が亡くなられた時、弟子たちは舎利を集めて塔を建てて供養した。趙州従諗の舎利はなんと万粒にも及んだ。近世では、隆慶と百丈粛がおり、彼らの荼毘の煙が触れたものまでもが舎利となった。大体、出家者は生死の問題を重大事としている。もし生死が訪れた時、自分の行き先がわからなければ、三軒家の村の、悟りのない男にも劣る。臨終の際の遺言を、一つ一つはっきりと示すこともできない。この四大からなる色身は、様々な因縁が仮に集まったものである。元来、舎利に体性などあるはずがない。しかし、清らかな修行を積み、堅固な善業を築き、心が明らかに澄み切って、死期を予知し、恐れも慌てもしなければ、依報と正報は一寸の狂いもなく符合する。世間の粗忽な者は、本来の自らの務めについて、一日中、微細な心の流れを注意深く見守ることがなく、大きな我慢を生じさせる。これこそ業の主である鬼が仮の家を借りているようなものだ。このような者が、舎利を流し体内に残し、諸根を壊さないようにしたいと望んでも、それが叶うはずがあろうか。」

福嚴寘和尚東川人。初遊方見真如和尚發明正見。在溈山知客寮立僧。因語言過失。乞退作園頭。以贖其罪。真如云。汝福薄。事園供眾乃所宜也。終二年求替辭真如。要參真淨五祖去。真如云。遍歷諸方先聖遺範。汝行勿遲。首造洞山室中相契。真淨舉領眾立僧。久之又至四祖宣和尚會中。時時到五祖相見。祖勘辨果有過人處。五祖謂四祖曰。寘首座叢林達士。何不舉他首眾。四祖如其言。五祖亦上堂稱其知見作略。有李修撰帥長沙四祖以書薦之。未幾福嚴虛席。平普融復薦人。帥曰。當先應副四祖。但尋書未見不識名字。因對客坐次。有鼠從架上拕一軸書送在面前。收視之乃四祖舉寘首座書。帥異之遂敦請。

福厳の寘和尚は、東川の人である。初めて行脚して真如和尚のもとを訪れ、正しい見解を開悟した。その後、潙山の知客寮で僧の立場にいたが、言葉の過失により職を辞して園頭となり、その罪を償おうとした。真如は言った。「お前は福が薄い。菜園を管理して大衆に供養するのが、お前にはふさわしい。」と。

二年が過ぎ、交代を願い出て真如のもとを辞し、真浄と五祖に参じたいと申し出た。真如は言った。「諸方を遍歴するのは先聖の手本である。行くのを遅らせるな。」

最初に洞山の室中に参じ、心が通じ合った。真浄は彼を抜擢して大衆を率いる僧とした。長くそこに留まった後、さらに四祖の宣和尚の会下に至った。折に触れて五祖のもとを訪れては対話し、五祖はその見識が確かに常人を超えていると認めた。五祖は四祖に言った。「寘首座は叢林の達人である。なぜ彼を首座に推薦しないのか。」四祖はその言葉に従った。五祖も上堂して、彼の見識と行動を称賛した。

李修撰が長沙の統帥となったとき、四祖は書状をもって彼を推薦した。ほどなく福厳の住持の席が空き、平普融もまた人を推薦した。統帥は言った。「まず四祖の推挙に応じるべきだ。しかし手紙を探しても見つからず、名前もわからない。」と。客をもてなして座していると、鼠が棚から一巻きの書状を彼の前に引きずり落とした。見ると、それは四祖が寘首座を推挙した書状であった。統帥はこれを奇異に思い、ついに彼を厚く招請した。

泐潭深和尚。河東人。真淨之子。有悟侍者。偶在知客寮。見掉下火柴頭忽然有省。直上方丈通所悟。深和尚喝出。自爾失心。引繩於延壽堂東司自縊。夜後常在藏院知客寮東司三處出沒。移鞋度瓶。一眾苦之。湛堂遊浙回充首座。聞其事。中夜故入延壽堂東司抽脫。壁燈微明忽然撲滅。方脫衣。悟便提水瓶至。湛堂云。未要且待我脫衣。脫衣罷便接瓶子去。當時悟自縊間抽脫。須臾又送籌子來。及出喚云。接瓶去悟纔接。捉住摸其手。或似軟或似硬。問曰。汝是悟侍者麼。汝便是當時在知客寮。見掉下火柴頭有省處底麼。參禪學道秖要知本命元辰下落處。汝在藏殿移端首座鞋履。豈不是汝當時悟得底。又在知客寮移枕子。豈不是汝當時悟得底。逐夜在此與人提瓶度水。豈不是汝當時悟得底。因甚不知落處。秖管在這裏惱亂大眾作麼。我明日勸大眾為汝看藏經。裒錢設粥追悼汝。汝當別求出離。不得滯著於此。言訖乃推一推。如瓦礫塔子倒。索然有聲。由是絕跡。湛堂一臂冷如氷。踰半月方平復。蓋非人附陰而至。冷氣侵人如此。

潯潭深和尚は、河東の出身で、真浄の弟子であった。悟侍者という者がいた。たまたま知客寮にいた時、落ちてきたマッチの燃えかすを見て、突然何かを悟った。すぐに方丈に上がってその悟りを報告したが、深和尚に叱り出されてしまった。それ以来、彼は正気を失い、延寿堂の東司で縄をかけて首を吊った。夜になると、よく蔵院、知客寮、東司の三か所に現れ、草履を移動させたり、水瓶を渡したりしたので、大衆は皆、そのことに悩まされていた。

湛堂が浙地方への遊歴から戻り、首座に就任したとき、このことを聞いた。真夜中にわざと延寿堂の東司に入って衣服を脱ごうとした。壁の灯りはうす暗く、突然消えた。ちょうど衣服を脱ごうとした時、悟が水瓶を持ってやって来た。湛堂は言った。「まだだ、私が脱ぐのを待て。」衣服を脱ぎ終えると、すぐに水瓶を受け取った。当時、悟は首を吊った時に服を脱いでいたが、しばらくして再び竹べらを差し出した。湛堂が出て行こうとして呼びかけた。「瓶を受け取れ。」悟が瓶を受け取ろうとした瞬間、湛堂は彼を捕まえ、その手を触ってみた。柔らかいようで、硬いようでもあった。問うた。「お前は悟侍者か。お前こそ、かつて知客寮でマッチの燃えかすが落ちるのを見て悟った者なのか。参禅して道を学ぶというのは、ただ自分の本命元辰の落ち着く場所を知ることにある。お前が蔵殿で端首座の草履を動かしたのも、それがお前の当時の悟りによるものではないか。また知客寮で枕を動かしたのも、それがお前の当時の悟りによるものではないか。毎晩ここで人々に水瓶を渡し、水を差し出すのも、それがお前の当時の悟りによるものではないか。それなのにどうして自分の落ち着く場所が分からないのか。ただここで大衆を悩ませて何をしているのか。明日、私は大衆に勧めてお前のために蔵経を読んでもらい、金を集めて粥を設けてお前を弔おう。お前は別に解脱の道を求めるべきで、ここに執着して留まってはならない。」言い終えると、一押しした。すると、瓦礫の塔が崩れるように、音を立てて倒れた。それ以来、悟の姿は消えた。しかし湛堂の片腕は氷のように冷たくなり、半月を過ぎてようやく元に戻った。これはおそらく、幽霊が陰の気を帯びてやって来て、その冷気が人を侵したためであろう。

許知可。毘陵人。嘗獲鄉薦。省闈不利而歸。舟次吳江平望。夜夢。白衣人謂曰。汝無陰德所以不第。知可曰。某家貧無資可以遺人。白衣曰。何不學醫。吾助汝智慧。知可輒寤。歸踐其言。果得盧扁之妙。凡有病者。無問貴賤。診候與藥不受其直。病夫填門無不愈者。後舉又中鄉評。赴春官艤舟平望。夢前白衣人相見。以詩贈之曰。施醫功大。陳樓間阻。殿上呼臚。喚六作五。思之不悟其意。後登第唱名。本第六。因上名殿試不祿。遂陞第五。乃在陳樓之間。方省前讖也。

許知可という人がいた。毘陵の出身である。かつて地方推薦の試験に合格したが、都での本試験に不利があり帰郷した。船で吳江の平望に停泊した時、夜に夢を見た。白衣を着た人が言うには「あなたには陰徳がないので、及第しなかったのだ」と。知可が「私は家が貧しく、人に施すお金もありません」と言うと、白衣の人は「なぜ医術を学ばないのか。私はあなたに智慧を授けよう」と言った。知可は目覚めた。

帰郷後、その言葉を実行し、果たして盧扁(名医)のような妙技を得た。病人が来れば、身分の貴賤を問わず、診察して薬を与え、謝礼を受け取らなかった。病人たちが門に溢れ、治らない者はなかった。後に再び郷里の試験に合格し、都の試験に向かうため再び平望に船を停めた。すると以前の白衣の人が夢に現れ、詩を贈った。「医を施す功績は大きく、陳と楼の間に阻まれる。殿上で臚(ろ)を呼び、六を五に変える。」その意味を考えても分からなかった。

後に及第して名前が呼ばれた時、本来は第六位だった。しかし直前の上位者が殿試で不幸があったため、第五位に上がった。その席は陳と楼の間にあった。そこでようやく以前の予言を悟ったのである。

佛光無礙禪師。自蘇州永安赴詔。住大相國寺慧林禪院 慧恭皇后。嘗於簾下。見登對罷乘空而去。自爾以太官所進 御膳供養復令取禪師所食之餘還宮。又以地錦製法衣。自綴禪牌賜之。以表奉法之誠。冬月賜紅錦帳子乃至服飾器皿之類。光遂以宮中所賜法衣。回施法雲佛照禪師。法雲復寄與洪州寶峯湛堂和尚。書云。地錦法衣與師弟。行先師之道。湛堂示寂。留鎮山門。至今猶存。

佛光無礙禅師は、蘇州の永安寺から召しに応じて、大相国寺の慧林禅院に住持された。慧恭皇后は、ある時、御簾の陰からご覧になると、禅師が対面を終えた後、そのまま虚空に乗って去っていくのを目の当たりにされた。

それ以来、皇后は内厨房で調理したご自身の食事を禅師に供養し、また、禅師が召し上がった後の食べ残しを宮中に取り寄せられた。さらに、皇后は地錦(高級な錦織物)で法衣を仕立てさせ、自らその衣に「禅」と記した徽章を縫い付けて禅師に賜り、仏法を敬う誠心を表された。冬の時期には、赤い錦の寝具をお贈りになり、衣服や装飾品、食器類に至るまで、ことごとく下賜されたという。

光禅師は、皇后から頂いたこの法衣を、法雲寺の仏照禅師に再び施与された。その仏照禅師はさらに、この法衣を洪州宝峯の湛堂和尚のもとへ送り、手紙にはこう記されていた。

「地錦の法衣を師弟に贈ります。これをもって、先師の道を歩んでください。」

湛堂和尚がお亡くなりになった後も、この法衣は山門に大切に保管され、現在に至るまで残っているということである。

照覺禪師。自泐潭移虎谿。乃赴王子淳觀文所請。開堂後。百廢並舉。陞堂小參入室無虛日。甞言。晦堂真淨同門諸老。秖參得先師禪不得先師道。師曰。蓋照覺以平常無事不立知見解會為道。更不求妙悟。却將諸佛諸祖德山臨濟曹洞雲門真實頓悟見性法門為建立。楞嚴經中所說山河大地皆是妙明真心中所現物。為膈上語亦是建立。以古人談玄說妙為禪。誣誷先聖聾瞽後昆。眼裏無筋皮下無血之流。隨例顛倒恬然不覺。真可憐憫。圓覺經云。末世眾生希望成道無令求悟。唯益多聞增長我見。又云。末世眾生雖求善友。遇邪見者未得正悟。是則名為外道種性。邪師過謬非眾生咎。豈虛語哉。所以真淨和尚小參云。今時有一般漢。執箇平常心是道。以為極則。天是天地是地。山是山水是水。僧是僧俗是俗。大盡三十日小盡二十九。並是依草附木。不知不覺一向迷將去。忽若問他我手何似佛手。便道是和尚手。我脚何似驢脚。便道是和尚脚。人人有箇生緣。那箇是上座生緣。便道某是某州人事。是何言歟。且莫錯會。凡百施為。秖要平常一路子以為穩當。定將去合將去。更不敢別移一步。怕墮落坑塹。長時一似生盲底人行路一條杖子。寸步拋不得緊把著憑將去。晦堂和尚謂學者曰。爾去廬山無事甲裏坐地去。而今子孫門如死灰。良可歎也。

照覚禅師は、泐潭から虎谿に移り、王子淳観文の招きに応じて説法した。開堂の後、あらゆる事業が一斉に再興され、昇堂・小参・入室が一日も欠かれることはなかった。かつて彼はこう言った。「晦堂や真浄といった同門の古人たちは、ただ先師の禅を参究しただけで、先師の道を得ていない」と。師(慧洪)は言う。「それは照覚が、平素何もない平常無事の状態を、知見や解釈を立てずにそのまま道と見なし、さらに悟りを求めようとしなかったからだ。その上で、諸仏や諸祖、徳山・臨済・曹洞・雲門が真実に頓悟し、見性した法門を、あたかも作為的なもののように退けている。『楞厳経』に説かれる『山河大地はみな妙明真心中に現れたものにすぎない』という教えも、彼にとっては『胸の中の言葉』に過ぎず、やはり作為と見なされる。古人が玄妙について語ることを禅とし、先聖を誣い、後世の者を聾盲させている。目に筋なく、皮の下に血も流れぬ連中が、そのまま狂い、恬然として気づかない。まことに哀れむべきである。『円覚経』には、『末世の衆生は成道を望みながら、悟りを求めさせず、ただ多く聞くことだけを増長させ、我見を増すのみである』と説かれている。また、『末世の衆生は善き友を求めても、邪見の者に出会えば正しい悟りを得られない。これを外道の種姓と名づける。邪師の過失・誤りは、衆生の咎ではない』ともある。これらは虚言であろうか。だから真浄和尚は小参のときにこう言った。『今の時代には、ある連中が「平常心是道」という言葉を決まり文句としている。天は天、地は地、山は山、水は水、僧は僧、俗は俗、大の月は三十日、小の月は二十九日――すべてこれ、草や木に寄りかかっているようなもので、いつの間にか迷い込んでしまっている。もし彼に「我が手は仏の手に似ているか」と問えば「和尚の手です」と言い、「我が足は驢馬の足に似ているか」と問えば「和尚の足です」と言う。また「人にはそれぞれ生まれの因縁がある。あなたの生まれの因縁は何か」と問えば「私は某州の者です」と言う。これは何という言葉であろうか。決して誤解してはならない。一切の行為は、ただ平常という道を安心の道とし、固定し合わせていくだけで、決して一歩も動かず、落とし穴に落ちるのを怖がる。まるで生まれつきの盲人が道を歩くときの杖のように、一歩も放さずにしっかり握りしめて進むようなものである。』晦堂和尚は学者に言った。『お前たちは廬山の「事なき甲」のなかに座していくがよい』と。今やその子孫たちは門の火が灰のようになってしまった。まことに嘆かわしいことである。」

佛照杲和尚。初住歸宗。專精行道未甞少懈。深夜修敬罷。坐於僧堂地爐中忽見二僧入堂。一人厖眉雪頂。一人少年。皆丰姿頎然。杲心喜自謂曰。我座下有如此僧。須臾二人出堂。杲襲其後見入佛殿中。杲亦隨入。燈影熒煌。爐中尚有火。杲炷香禮佛。二僧復出。亦襲其後至佛殿前。偶失所在。自念。忘却香匣在殿內。回身取時見殿門扃鑰。遂喚直殿行者守舜開門。舜取鑰匙開門。見爐中香煙未散。香匣在寶階上。自不諭其故。妙喜親見佛照說。時守舜在旁。猶指以為證。

佛照杲和尚は、最初に歸宗寺に住職として住んでいました。修行に専念し、少しの怠りもありませんでした。ある深い夜、勤行を終えて僧堂の地炉のそばに座っていると、突然二人の僧が堂に入ってくるのが見えました。一人は眉が太く雪のように白い頭をしており、もう一人は若者でしたが、どちらも風格があって背が高く立派な姿でした。杲和尚は心の中で喜び、「私の門下にこのような僧がいるのか」と思いました。しばらくすると、二人は堂を出て行きました。杲和尚はその後をつけて行くと、二人が佛殿に入るのを見ました。杲和尚も続いて中に入ると、燈明の光が揺らめき、炉の中にはまだ火が残っていました。杲和尚は香を焚いて仏に礼拝しました。すると二人の僧が再び出て行ったので、またその後をつけて佛殿の前まで来ましたが、そこで突然姿が見えなくなってしまいました。その時、香箱を殿内に忘れてきたことに気づき、振り返って取りに行くと、殿の門には鍵がかかっていました。そこで、佛殿の当番の行者である守舜を呼んで門を開けさせました。守舜が鍵を取り出して門を開けると、炉の中の香の煙はまだ消えておらず、香箱は寶階の上にありました。自分でもその理由がわかりませんでした。妙喜(大慧宗杲禅師)は佛照和尚から直接この話を聞きました。その時、守舜もそばにいて、証拠としてそれを指さしていたということです。

大丞相呂公蒙正。洛陽人。微時生緒牢落。大雪彌月。遍干豪右少有周急者。作詩其略曰。十謁朱門九不開。滿身風雪又歸來。入門懶覩妻兒面。撥盡寒爐一夜灰。可想也。途中邂逅一僧。憐其窮窘延歸寺。給食與衣。遺鏹遣之。纔經月又罄竭。再謁僧。僧曰。此非久計。可移家屬住院中房廊。食時隨眾給粥飯。庶幾可以長久。呂如其言。既不為衣食所困。遂銳志讀書。是年應舉獲鄉薦。僧買馬雇僕。備衣裝津遣入都下。省闈中選。殿試唱名為大魁。初任西京通判。與僧相見如平時。十年遂執政。凡遇郊祀。有所俸給並寄閣 太宗一日問曰。卿累經郊祀。俸給不請何耶。對曰。臣有私恩未報上詰之。遂以實對上嘆曰。僧中有如此人。令具名奏聞。賜紫袍加師號。以旌異之。呂計所積俸數萬緡。牒西京令僧請上件錢。修營寺宇并供僧。其寺元是鐵馬營 太祖 太宗二聖生處 太祖朝已建寺。忘其名。其僧乃寺主也。

大丞相の呂蒙正公は洛陽の人である。若い頃は非常に貧しく、大雪が一か月も降り続いた。あちこちの有力者を訪ねて援助を求めたが、ほとんど助けてくれる者はいなかった。彼が詠んだ詩にこうある。 「十回朱門を叩けど九回は開かず 満身の風雪を帯びてまた帰る 門に入れば妻や子の顔を見るのもおっくうで 寒い炉をかき消して一夜の灰となる」 この境涯が思いやられる。 途中方で一人の僧に出会い、僧がその貧しさを哀れんで寺に招き入れ、食事や衣服を与え、銭を持たせて送り出した。しかしわずか一か月で再び無一物となり、また僧を訪ねた。 僧は言った。「これでは長続きしません。ご家族を寺の部屋に移し、食事の時間に皆と一緒にお粥やご飯をいただけば、おそらく長く続けられるでしょう」 呂はその言葉に従った。衣食の心配がなくなったため、一心に読書に励んだ。その年の科挙で地方の推薦を受けた。僧は馬を買い、使用人を雇い、衣装や旅費を整えて都に送り出した。都での試験に合格し、殿試では首席に選ばれた。 最初の任地は西京通判であったが、僧との交際は以前と変わらなかった。十年後、ついに政権を握ることとなった。郊外での祭祀の度に支給される俸給は、すべて寺に預けて受け取らなかった。 ある日、太宗が尋ねた。「そなたは祭祀の度に俸給を請求しないのはなぜか」 呂が答えた。「臣にはまだ報いていない私的な恩があります」 詰問されて、ついに実情をありのままに話した。太宗は感嘆して言った。「僧侶の中にもこのような人物がいるのか」 僧の名前を奏上するよう命じ、紫色の法衣と師号を賜り、これを顕彰した。 呂は溜まった俸給が数万貫にのぼることを計算し、西京に公文書を送り、僧にその金銭を請求させて寺の修繕や僧侶への布施に充てさせた。この寺はもともと太祖・太宗両皇帝の生誕の地である鉄馬営にあり、太祖の時代にすでに建立されていたが、寺名は失われている。その僧こそが寺の住持であった。

太宗別賜錢重建三門。賜御書額度僧。呂公逐日晨興禮佛。祝曰。不信三寶者願不生我家。願子孫世世食祿於朝外護佛法。猶子夷簡申國公。每遇元日拜家廟罷。即焚香發廣慧璉禪師書一封加敬重之。申公之子公著。亦封申國公。元日發天衣懷和尚書。右丞好問。元日發圓照禪師書。右丞之子用中。元日發佛照杲禪師書。其家世忱信痛敬。抑有自來矣。故錄之以警後世。

太宗が特別に銭を下賜され、三門を再建された。また、御筆の額を与え、僧侶の得度を許された。呂公(呂蒙正)は毎朝早く起きて仏に礼拝し、こう祈った。「三宝を信じない者は、どうか我が家に生まれないでほしい。子孫には代々朝廷で禄を食み、外から仏法を護る者であってほしい」と。その甥の夷簡(申国公)は、毎年元日に家族の廟に参拝し終えると、香を焚いて広慧璉禅師の手紙を一通開き、それをことのほか敬重した。申公の子である公著もまた申国公に封ぜられたが、同じく元日に天衣懐和尚の手紙を開いた。右丞の好問は元日に円照禅師の手紙を開き、右丞の子である用中は元日に仏照杲禅師の手紙を開いた。その家は代々篤く信心し、深く敬っていたが、それには確かな由来があったのである。よってここに記し、後世の戒めとしたい。

保寧勇禪師二上足。處清處凝。同參白雲端禪師。凝在侍者寮最久。端有膈氣疾。凝常煨蘆菔。以備無時之需。端作傅大士講經因緣頌曰。大士何曾解講經。誌公方便且相成。一揮案上俱無取。直得梁王怒眼睛。舉為凝曰。努底是什麼。此一句乃為凝說老婆禪也。凝以為親聞。故綴於頌下。後住舒州天柱山。清住龍舒太平。有大機辯。五祖演和尚畏敬之。清謂凝曰。吾弟禪。乃是為老和尚煨蘆菔換得底。

保寧勇禅師には、二人の高弟がいた。処清と処凝である。二人は共に、白雲端禅師のもとで参禅した。凝は侍者寮に最も長く在籍した。端師には横隔膜の気の病があり、凝は常に大根を蒸し焼きにして、いつでも必要な時に備えていた。

端師が傅大士の説法の因縁について頌を作り、こう詠んだ。 「大士、曾(かつ)て何ぞ経を解することを知らん。 志公、方便して且(しばら)く相成(たす)く。 一たび案上を揮(ふる)って、俱(とも)に取る無し。 直(ただ)ちに梁王の怒眼睛(どがんしょう)を得たり。」 これを凝の前で挙げて、「これは何だ?」と問うた。 この一句は、まさに凝のために老婆心の禅を説いたものである。 凝は自ら直接聞いたものだと思い、そこでこの句を頌の下に付け加えた。

その後、凝は舒州の天柱山に住し、清は舒州の龍舒の太平に住した。 清は優れた機智と弁舌を持ち、五祖演和尚も彼を畏れ敬っていた。 清が凝に向かって言った。「我が兄弟よ、お前の禅は、老和尚のために大根を蒸し焼きにして手に入れたものだぞ。」

政和間有熊秀才。鄱陽人。游洪州西山過翠巖。長老思文嗣佛印元禪師。亦是鄱陽人。遣二力擡籃輿至淨相。所經林壑陰翳。偶見一僧。貌古神清。厖眉雪頂。編葉為衣。坐於盤石。如壁間畫佛圖澄之狀。熊自謂曰。今時無這般僧。甞聞亮座主隱于西山。疑其猶在。出輿踧踖而前問曰。莫是亮座主麼。僧以手向東指。熊方與二力隨手看。回顧失僧所在。時小雨初歇。熊自登石視。坐處猶乾。躊躇四顧太息曰。夙緣不厚。雖遇猶不遇也。

政和年間、鄱陽出身の熊という秀才がいました。彼は洪州の西山にある翠巌という寺を訪ねました。その寺の長老である思文禅師は、仏印元禅師の法嗣で、同じく鄱陽の出身でした。思文禅師は二人の従者に命じて、熊を駕籠で浄相という場所まで運ばせました。

通り道は木々が茂り、谷は薄暗く、深い趣がありました。ふと見ると、一人の僧がいました。その僧は風貌が古雅で、精神は澄み切っていました。眉は太く、頭髪は雪のように白く、木の葉を編んで衣としていました。岩の上に座る姿は、まるで壁に描かれた仏図澄のような趣がありました。

熊は心の中で言いました。「今の時代に、このような僧はいないものだ。以前、亮座主が西山に隠棲していると聞いたことがある。もしかすると、今もまだおられるのかもしれない。」そこで彼は駕籠を降り、おずおずと前に進んで尋ねました。「もしや、亮座主ではいらっしゃいますか?」

僧は手で東の方を指さしました。熊が二人の従者と一緒に、その指さす方を見ようとした、その瞬間です。振り返ると、僧の姿は消えていました。

その時、小雨がようやく上がったばかりでした。熊は自ら岩の上に登って見ました。僧が座っていた場所は、まだ乾いていました。彼はしばらく迷い、あたりを見回して、深く息をついて言いました。「前世からの縁が薄かったのだ。出会っても、出会えなかったのと同じことだ。」

開先暹和尚。為歸宗南禪師作禪床銘曰。明珠產蚌涼兔懷胎。觀此禪床證道之媒。南次為歸宗作銘曰。放下便穩。開先深肯之。

開先の暹和尚が、帰宗の南禅師のために禅床の銘を作った。曰く、「明珠は蚌に生まれ、涼兔は胎を懷く。この禅床を觀よ、道を證する媒なり」。南は次に帰宗のために銘を作った。「放せば則ち穩かなり」。開先は深くこれを肯った。

宣州興教坦禪師。溫州牛氏子。世業打銀。因磨洗銀瓶次忽有省。遂出家受具遊方。為瑯瑘廣照之嗣。懷禪師住興教。坦為第一座。及懷受別請。欲舉坦繼住持。時刁景純守宛陵。懷恐刁涉外議。乃於觀音前祝曰。若坦首座道眼明白堪任住持。願示夢於刁學士。刁夜夢牛在興教法座上。懷凌晨辭州。刁舉夜所夢。懷大笑。刁問其故。懷曰。坦首座姓牛又屬牛刁就座出帖請之。坦受請陞座。有雪竇化主省宗。出問。諸佛未出世。人人鼻孔遼天。出世後為什麼杳無消息。坦云。雞足峯前風悄然。宗云。未在更道。坦云。大雪滿長安。宗云。誰人知此意。令我憶南泉。拂袖歸眾。更不禮拜。坦云。新興教今日失利。便歸方丈。坦令人請宗至云。適來錯祇對一轉語。人天眾前何不禮拜蓋覆却。宗云。大丈夫膝下有黃金。爭肯禮拜無眼長老。坦云。我別有語在。宗乃理前語。至未在更道處。坦云。我有三十棒。寄爾打雪竇。宗乃禮拜。

宣州興教寺の坦禅師は、温州の牛氏の家に生まれた。代々銀細工を家業としており、ある時銀の瓶を磨き洗っているうちに、ふと悟りを得た。そこで出家し、具足戒を受けて修行の旅に出た。後に瑯琊広照禅師の法を嗣いだ。懐禅師が興教寺に住していた時、坦は第一座(首座)であった。懐が別の寺に招かれることになり、坦を後任の住持に推そうとした。その時、刁景純が宛陵の守を務めていた。懐は刁が世間の評判を気にするのを恐れ、観音菩薩の前で次のように祈った。「もし坦首座が仏法の眼目を明らかにし、住持にふさわしい方なら、どうか刁学士に夢でお示しください。」その夜、刁は牛が興教寺の法座にいる夢を見た。懐は早朝に刁のもとを訪ねて辞去を告げると、刁は昨夜見た夢の話をした。懐は大笑いした。刁がその理由を尋ねると、懐は「坦首座は牛の姓で、しかも生まれ年も牛なのです」と答えた。刁はすぐに寺に行き、帖を出して坦を住持に招いた。

坦が招かれ法座に上がると、雪竇寺の化主である省宗が進み出て問いかけた。 「諸仏が世に現れていない時は、人人の鼻孔は天を突いていた。しかし、世に現れてからは、なぜかすかな消息もないのはどうしてか。」 坦が「鶏足山の前で風がひっそりと吹いている」と答えると、宗が「まだ足りない、もう一句」と言った。 坦が「大雪が長安を覆い尽くす」と言うと、宗は「誰がこの意味を知ろうか、私に南泉禅師を思い出させる」と言い、袖を払って座に戻り、礼拝もしなかった。 坦は「新しく興教寺を継いだ今日、不覚をとった」と言い、そのまま方丈に戻った。 坦は人をやって宗を呼び寄せ、「先ほどの問答で間違った返答をしてしまった。人天の大衆の前で、なぜ礼拝してその場を収めなかったのか」と言った。 宗は「大丈夫の膝の下には黄金がある。どうして目の見えない長老に礼拝などできようか」と答えた。 坦は「私には別の言葉がある」と言い、宗が先ほどの問答を繰り返し、「まだ足りない、もう一句」と言ったところで、坦が言った。 「私には三十棒がある。お前に預けて雪竇寺を打たせよう。」 宗はそこで礼拝した。

圜悟和尚初在溈山。一日真如和尚問曰。如何。悟云。起滅不停。如曰。可知是博地凡夫。老僧三十年在裏許。秖得箇相似。次見晦堂。堂曰。我住院十二年不會。如今方會。脚尖頭也踢出箇佛。悟後住昭覺。有長老問。劉鐵磨到溈山問答。并雪竇御街行頌。未審此意如何。悟曰。老僧更參四十年也不到雪竇處。長老歎曰。昭覺和尚猶如此說。況餘人耶。

圜悟和尚が初めに溈山にいた時のことです。ある日、真如和尚が「どうだ?」と尋ねました。圜悟が「起こっては消え、止むことがありません」と答えると、真如は「それは、まったくの凡夫の見解だということだ。私は三十年もその中で修行してきて、ようやく似たような境地に達したにすぎない」と言いました。

次に晦堂を訪ねると、晦堂は「私は寺院に十二年もいたが、悟りを得ていなかった。今ようやく理解した。足の先で蹴り出しても、仏が現れるのだ」と言いました。

その後、圜悟は昭覚寺に住持していました。ある長老が「劉鉄磨が溈山とした問答と、雪竇の'御街行'の頌について、その意味はどのようなものなのでしょうか?」と尋ねました。圜悟は「私はさらに四十年参究しても、雪竇の境地には達しないだろう」と答えました。長老は感嘆して、「昭覚和尚でさえこのようにおっしゃるのだから、ましてや他の人々はなおさらだ」と言いました。

錢弋郎中。訪真淨說話久。欲登溷。淨令行者引從西邊去。錢遽云。既是東司。為什麼却向西去。淨云。多少人向東邊討。師云。噁。便是趙州問投子。不許夜行投明須到。亦不如此語好。

銭弋郎中が真淨を訪ねてしばらく話し込んだ後、厠に行きたくなった。真淨は行者に「西の方へ案内しなさい」と命じた。銭弋はすぐに、「東司(厠)という名なら、なぜ西へ行くのですか」と尋ねた。真淨は「多くの人が東の方で探すのです」と答えた。師(圜悟)は言った。「おや、これは趙州が投子に問うた『夜の行きを許さず、明けるまでに到着せよ』という話も、この言葉ほどには優れていない。」

南康諸山相會。佛印後至。真淨問曰。雲居來何遲。印曰。為著草鞋從歸宗肚裏過。所以遲。淨云。却被歸宗吞了。印云。爭奈吐不出。淨云。吐不出。即屙出。

南康の山々で集まりがあった。仏印が後から到着した。真浄が尋ねた。「雲居から来たのに、なぜ遅れたのか。」仏印が答えた。「草鞋を履いて帰宗の腹の中を通ってきたから、遅れてしまいました。」真浄が言った。「それなら帰宗に呑まれてしまったのか。」仏印が言った。「しかし、吐き出せません。」真浄が言った。「吐き出せないなら、出すがよい。」

真淨和尚。有時遽喚侍者。將老和尚來。侍者將南禪師真展開。淨以手加額云。不是這老和尚。豈能如此。輒顰蹙半餉却戒收之。每每如此。潛庵源和尚每見南禪師真即淚下。師每歲得時新。必先供佛及圜悟。然後敢甞。謂左右曰。非佛與老和尚。我安得如此。

真浄和尚は、ある日突然侍者を呼び、「老和尚(先師)を持って来い」と言った。侍者が南禅師の肖像画を広げると、浄は手を額に当てて言った。「この老和尚でなければ、どうしてこのようなことができようか」。しばらく眉をひそめてから、しまわせるように命じた。こうしたことを度々行った。潜庵源和尚は南禅師の肖像を見るたびに涙を流した。師(大慧禅師)は毎年その季節の初物を得ると、必ずまず仏と圜悟に供えてから、ようやく味わった。そばにいる人々に言った。「仏様と老和尚がいなければ、私がどうしてこのようにいられようか」。

李和文都尉。請瑯瑘覺和尚。注信心銘。瑯瑘大寫一句。下面小寫一句。文和一見大稱服。

李和文都尉が、瑯瑘覚和尚に『信心銘』の注釈を依頼しました。すると瑯瑘覚和尚は、大きな文字で一句を書き、その下に小さな文字で一句を記しました。都尉はそれを一目見て、大いに感嘆し、心から敬服しました。

舜老夫。一日問秀圓通。聞爾見懷和尚是否。秀云是。舜云。有何言句。秀云。有投機頌曰。一二三四五六七。萬仞峯前獨足立。奪得驪龍頷下珠。一言勘破維摩詰。舜云。不好。別有什麼言句。秀云。一日有長老來參。懷舉拂子云。會麼。長老云。不會。懷云。耳朵兩片皮。牙齒一具骨。舜歎云。真善知識。從此服膺。

舜老夫がある日、秀圓通に尋ねた。「あなたは懷和尚に会ったそうだが、本当か?」と。秀圓通は「はい」と答えた。舜老夫がさらに尋ねる。「どのような言葉を交わしたのか?」秀圓通が答えた。「機に投じた頌(じゅ)があります。『一二三四五六七、万仞の峯の前、独り足で立つ。驪竜の顎(あご)の下の珠を奪い、一言にて維摩詰(ゆいまきつ)を勘破す』と。」舜老夫は言った。「良くない。他にどのような言葉があったのか?」秀圓通が答えた。「ある日、一人の長老が参じて来ました。懷和尚が払子(ほっす)を掲げて『わかるか』と言いました。長老は『わかりません』と答えました。懷和尚は言いました。『耳は二枚の皮、歯は一組の骨』と。」舜老夫は嘆息して言った。「本当の善知識だ。」それ以来、舜老夫は懷和尚に心から従った。

筠州黃蘗泉禪師。初習百法論。講肆有聲。更衣南詢。見真淨和尚於洞山。有悟道頌。其略曰。一鎚打透無盡藏。一切珍寶吾皆有。機鋒迅發莫有當者。真淨甞歎曰。惜乎先師不及見。後上堂說法。不起于座而示寂滅。真淨之言益驗。

筠州の黄蘗泉禅師は、最初に『百法論』を学び、講義の席で名声を得ました。その後、衣を改めて南へ修行の旅に出、洞山で真浄和尚に会いました。悟りを開いたときの頌(偈)には、次のような一節があります。「一鎚打ち透かす無尽蔵、一切の珍宝、吾皆有り」。その機鋒(機知に富んだ言辞)は素早く、敵う者がいませんでした。真浄はかつて嘆いて言いました。「惜しいことに、先師はこれを見ることができなかった」と。後日、上堂して説法を行い、座を離れることなく涅槃に入りました。真浄の言葉はますます確かなものとなりました。

三佛在五祖時。甞於一亭上夜話歸方丈。燈已滅。五祖乃於暗中曰。各人下轉語。佛鑑對曰。彩鳳舞丹霄。佛眼曰。鐵蛇橫古路。佛果云。看脚下。五祖云。滅吾宗者。乃克勤爾。

三人の師(佛鑑・佛眼・佛果)が五祖の許にいた頃のことだ。ある夜、亭で語り合った後に方丈へ戻ろうとした。灯りはもう消えていた。五祖が暗闇の中で言った。「それぞれ、一句を述べよ。」

佛鑑が答えた。「彩鳳(いろどりの鳳凰)が丹霄(夕焼けの空)に舞う。」

佛眼が言った。「鉄の蛇が古い道を横切る。」

佛果が言った。「足元を見よ。」

五祖は言った。「我が宗を滅ぼす者は、克勤(佛果)お前だ。」

草堂侍立晦堂。晦堂舉風幡話問草堂。堂云。逈無入處。晦堂云。汝見世間猫捕鼠乎。雙目瞪視而不瞬。四足踞地而不動。六根順向首尾一直。然後舉無不中。誠能心無異緣。意絕妄想。六窓寂靜端坐默究。萬不失一也。

草堂和尚が晦堂和尚のそばに立ってお仕えしていました。晦堂和尚が風幡の話を挙げて草堂和尚に問いかけました。 草堂和尚は「全く入るところがありません」と答えました。 晦堂和尚は言いました。「おまえは世間で猫が鼠を捕まえる様子を見たことがあるか。両目をじっと見開いてまばたきもせず、四本の足を地に踏みしめて動かず、六根をすべて鼠に向けて、頭から尾まで一直線になる。そうしてから、狙えば必ず当たるのだ。本当に心が他のものに引かれず、意識に妄想がなく、六つの窓(六根)が静かに落ち着いて、端座して黙々と探究すれば、一万回やっても一度も外れることはないのだ。」

清素首座。閩人。依慈明十三載。年八十寓湖湘鹿苑。未始與人交。人莫知之。偶從悅首座處州人。與之隣居。悅因食蜜漬荔枝。素過門。悅呼曰。此老人鄉果。可同食也。素曰。自先師亡後。不得此食久矣。悅問曰。先師為誰。素曰。慈明也。悅乃疑駭。遂饋以餘果。稍稍親之。素後問曰。子所見何人。悅曰。洞山文和尚。又曰。文見何人。悅云南和尚。素曰。南匾頭見先師不久。後法道大振如此。悅益異之。一日持香詣素作禮。素避曰。吾以福薄。先師受記不許為人。於是經月餘。憐悅之誠乃曰。子平生知解。試語我看。悅具通所見。素曰。可能入佛。不能入魔。又曰。末後一句始到牢關。如是半載。素方印可。仍戒之曰。文示子者。皆正知見。吾雖為子點破使子受用自在。恐子離師太早。不能盡其道。他日切勿嗣吾。後出世嗣真淨。乃兜率悅是也。

清素首座は、福建の出身で、慈明和尚に十三年間師事した。八十歳の頃、湖南の鹿苑に寓居していたが、ほとんど人と交際せず、人も彼のことを知らなかった。たまたま従悦首座(処州の出身)と隣同士になった。ある時、悦が蜜漬けのライチを食べていると、素が門の前を通りかかった。悦が「これはあなたの故郷の果物です。一緒に食べましょう」と呼びかけると、素は「先師(慈明和尚)が亡くなってから、これを食べるのは久しぶりです」と言った。

悦が「先師とはどなたですか?」と尋ねると、素は「慈明和尚です」と答えた。悦は驚き怪しみ、残りの果物を贈り、次第に親しく付き合うようになった。後日、素が悦に「あなたは誰に師事したのか?」と尋ねると、悦は「洞山の文和尚です」と言った。さらに「文和尚は誰に師事したのか?」と問うと、「南和尚です」と答えた。素は言った。「南和尚(南匾頭)は先師のもとでの修行期間が短かったのに、その後、法道がこれほどまでに大いに興隆したのだな。」悦はますます素を異とするようになった。

ある日、悦は香を手に持って素のもとを訪れ、礼をしようとした。素は避けて言った。「私は福徳が薄いため、先師から『人に教えることを許さない』と訓戒を受けている。」それから一ヶ月余りが過ぎ、悦の誠実さに心を動かされた素は言った。「あなたがこれまでに身につけた見解を、私に話してみなさい。」悦は自分の悟ったところをすべて述べた。

素は言った。「仏の境地に入ることはできても、魔の境地に入ることはできない。」さらに「最後の一句(究極の真理)に至って、初めて困難な関所(悟りの最終段階)に到達するのだ。」このように半年が過ぎて、ようやく素は悦を認可した。そしてこう戒めた。「文和尚があなたに示したものは、すべて正しい知見である。私はあなたのためにそれを指摘し、自在に使いこなせるようにしたが、師匠から離れるのが早すぎて、その道を極めきれないのではないかと心配している。後日、決して私を師と公表してはならない。」後に悦が出世して真浄和尚を師と仰いだのは、この兜率悦のことである。

雲居悟和尚在龍門時。有僧被蛇傷。佛眼問曰。既是龍門。為什麼被蛇咬。悟即應曰。果然現大人相。後傳此語到昭覺圓悟云。龍門有此僧耶。東山法道未寂寥爾。

雲居の悟和尚が龍門にいた時、ある僧が蛇に噛まれた。 佛眼が問うた、「ここは龍門だというのに、なぜ蛇に噛まれたのか?」 悟は即座に答えた、「まさに、大人の相を現している。」 後にこの言葉が昭覚の圓悟のもとに伝えられたところ、圓悟は言った、「龍門にこのような僧がいるとは。東山の法の道もまだ寂れてはいないな。」

草堂與師邂逅於臨川。韓子蒼請師過私第。問曰。清公如何。師云。向聞其拈龐居士問馬大師不與萬法為侶因緣。清云。魚龍蝦蟹向甚處著。若如此亦浪得其名。子蒼持此語達草堂。堂曰。公向他道。譬如一人船行。一人陸行。二人俱至。師聞此語。乃曰。草堂得也。

臨川で草堂と出会ったことがあった。韓子蒼が師を自宅に招いて尋ねた。「清公はどのような方ですか」師が答えた「以前、龐居士が馬大師に『万法とともにしない』という因縁を問うた話を清公が取り上げて『魚や龍、エビやカニはどこに置くのか』と言ったそうです。もしそうなら、ただ名前ばかり有名なだけですね」子蒼がこの言葉を草堂に伝えた。草堂は言った「あなたは彼に、『例えば一人は船で行き、一人は陸を行く、二人とも目的地に着くようなものだ』と伝えなさい」師はこの話を聞き、こう言った「草堂は悟ったのだ」

須菩提解空第一。生時家室盡空。世尊纔陞座。須菩提便出眾云。希有世尊。且道。見箇什麼道理。便恁麼道。天親菩薩作無量偈。只贊希有二字。圓悟禪師云。一句是一箇鐵橛。故六祖聞應無所住而生其心。便悟去。

須菩提は「空の理解において第一」と称された。生まれたとき、家の中はすべて空であった。 世尊が説法のために座に着かれるや否や、須菩提はすぐに大衆の中から進み出て、「希有なるかな、世尊」と申し上げた。 さて、須菩提はどのような真理を見て、そのように述べたのであろうか。 天親菩薩は無量の偈頌を作り、ただ「希有」の二字を讃えられた。 圓悟禅師は、「一句一句が鉄の杭のようなものである」と言った。 だからこそ、六祖慧能は「応無所住而生其心(とどまるところなくして心を生ぜよ)」を聞いて、たちどころに悟ったのである。

圓悟佛眼佛鑑。同在五祖。一日相謂曰。老和尚秖是乾嚗嚗地。往往說心說性不得。因請益佛身無為不墮諸數。祖曰。譬如清淨摩尼寶珠映於五色。五色是數。摩尼是佛身。圓悟謂二老曰。他大段會說。我輩說時費多少工夫。他秖一兩句。便了分明。是箇老大蟲。祖聞之乃曰。若說心說性。便是惡口。又曰。猫有歃血之功。虎有起屍之德。所謂驅耕夫之牛。奪飢人之食。若不如是。盡是弄泥團漢。

圓悟・佛眼・佛鑑の三人は、共に五祖法演のもとで修行していた。ある日、彼らは互いに語り合った。「老和尚はただひたすら無理のない自然な境地にある。往々にして心や性について説こうとしない。」そこで彼らは、仏身は無為であり諸々の数(概念)に堕ちないという教えについて質問した。五祖は答えた。「例えば、清らかな摩尼宝珠が五色を映し出すようなものだ。五色は数(現象)であり、摩尼宝珠は仏身である。」これを聞いて円悟は他の二人に言った。「彼(五祖)は実に見事に説く。私たちが説くときにはどれほど多くの手間をかけることか。彼はたった一言二言で明らかにしてしまう。まさに偉大な虎のようだ。」五祖はこれを聞いて言った。「もし心や性について説くならば、それは悪口(不適切な言葉)である。」さらに言った。「猫には血を吸う功徳があり、虎には死体を生き返らせる徳がある。いわゆる、農夫の牛を追い払い、飢えた人の食べ物を奪うということだ。もしこのようでなければ、皆、泥団子を弄んでいるだけの者たちである。」

師一日謂趙巨濟曰。老和尚忽退去。別有人來教爾禪。這一轉因緣。怎生會。那一轉又如何會。便將熱屎潑記取。

ある日、師が趙巨済に言った。「老僧がもし退いたら、別の人が来てお前に禅を教えるだろう。その一つの因縁をどう理解するのか。また、もう一つの因縁をどう理解するのか。では、熱い糞尿をぶちまけるように、しっかりと覚えておけ。」

師在雲居作首座。一日到西積莊。遇一暫到。從圓通來云。因看首座頌女子出定話。有箇悟處。特來求首座印證。師云。儞去不是。僧云。某甲未說見處。為什麼道不是。師再三搖手云。爾去不是不是。僧懡㦬而退。圓悟一日到首座寮因說。密印長老四年前。見他恁麼地。乃至來金山陞座。也秖恁麼地。打一箇回合了。又打一箇回合。秖管無收殺。如何為得人。恰如載一車寶劍相似。將一柄出了。又將一柄出。秖要般盡。若是本分手段。拈得一柄便殺人去。那裏秖管將出來弄。時有僧聞得謂師曰。某前日因看他小參語錄。便知此人。平日做得細膩工夫。所以對眾秖管要吐盡。一段了又一段不肯休。師曰。事不如此。如龍得半盞水。便能興雲吐霧降霔大雨。那裏秖管去大海裏輥。謂我有許多水也。又如會相殺人。持一條鏘。纔見賊馬。便知那箇定是我底。近前一鏘殺了賊。跳上馬背便殺人去。須是恁麼始得。

師が雲居山で首座(修行者のリーダー)を務めていた時のこと。ある日、西積荘に行くと、一時的に滞在していた修行者に会った。その者は円通寺から来て、こう言った。「首座様の『女人の出定』の頌をお読みして、一つの悟りを得ました。特別に首座様にその証明をお願いしたく参りました」。師は言った。「あなたの考えは違う」。僧が言った。「私はまだ自分の見解を述べておりませんのに、なぜ違うとおっしゃるのですか」。師は何度も手を振って言った。「行きなさい。違う、違う」。僧は恥ずかしそうに去っていった。

ある日、円悟が首座寮に来て言った。「密印長老は、四年前に彼に会った時もあのような様子だった。金山で昇座した時も、ただあのようにやっていた。一つの勝負をして、また次の勝負をする。ただ決着をつけようとしない。どうして人の師となれようか。それはまるで、宝剣を満載した車のようなものだ。一本取り出しては、また一本取り出す。ただ運び出そうとするだけだ。本当の力量がある者なら、一本手に取れば人を斬れる。どこでただ取り出して弄っているものか」。

その時、この話を聞いた別の僧が師に言った。「私は先日、彼の小参の語録を拝見して、この人は普段から細やかな修行を積んでいるのだと分かりました。それで大衆の前で全てを吐き出そうとして、一段終わってもまた次の段を語り、止まろうとしないのです」。師は言った。「事はそうではない。まるで龍が半杯の水を得れば、たちまち雲を起こし霧を吐き、大雨を降らせるようなものだ。どこまでも大海の中を泳ぎ回って『私にはこんなに多くの水がある』と言うようなものではない。また、戦いに長けた者が一本の槍を持ち、敵の軍勢を見れば、すぐに『あれこそが我が獲物』と見定め、近づいて一突きで敵将を討ち、その馬に飛び乗って敵を討ち進むようなものだ。このような境地に達してこそ、真に成し遂げたと言えるのだ」。

大愚芝和尚會中有僧。日誦金剛經一百遍。芝聞得令侍者請至。問曰。聞汝日誦金剛經一百遍。是否。僧云是。芝云。汝曾究經意否。僧云不曾。芝云。汝但日誦一遍。參究佛意。若一句下悟去。如飲海水一滴便知百川之味。僧如教。一日誦至應如是知如是見如是信解不生法相處。驀然有省遂以白芝。芝遽指床前狗子云。狗子聻。僧無語。芝便打出。

大愚芝和尚の法席に、ある僧がいた。毎日『金剛経』を百回読誦していた。芝和尚はこれを聞きつけ、侍者にその僧を呼び寄せさせて問うた。「お前は毎日『金剛経』を百回読誦しているそうだが、本当か。」僧は「はい、その通りです」と答えた。芝和尚は言った。「お前は経の意味を究めたことがあるか。」僧は「ありません」と答えた。芝和尚は言った。「お前は一日に一遍だけ読誦し、仏の意を参究しなさい。もし一句の下で悟ることができれば、それは大海の水を一滴飲んで、すべての川の味を知るようなものだ。」僧はその教えの通りに修行した。ある日、「かくの如く知り、かくの如く見、かくの如く信解し、法相を生ぜず」という箇所を読誦していると、不意に省みるものがあり、すぐに芝和尚に告げた。芝和尚は即座に寝台の前の子犬を指さして、「子犬だ!」と言った。僧は何も言えなかった。芝和尚は追い出してしまった。

師云。大凡參禪。不必有機鋒便言我是。昔雲蓋智和尚。道眼明白。因太守入山憩談空亭。問如何是談空亭。智云。只是箇談空亭。太守不喜。遂舉問本慕顧本云。只將亭說法。何用口談空。太守乃喜。遷本住雲蓋。若以本較智則大遠。乃知真實事。不可以機鋒取。寶峯元首座。亦有道之士。答話機鋒鈍。覺範號為元五斗。蓋開口取氣。炊得五斗米熟。方答得一轉語。

師は言った。「概して、禅を参じるにあたっては、必ずしも機鋒(鋭い問答)があれば、それで自分が正しいと言えるものではない。

昔、雲蓋智和尚は、道の眼が明らかであった。ある時、太守が山に入り、談空亭で休息していた時に、『談空亭とは何か』と問われた。智は『ただの談空亭です』と答えた。太守はこれを喜ばず、そこで本慕顧にこの問いを挙げて尋ねたところ、本は『ただ亭を用いて説法すれば、何ぞ口をもって空を談ずるに及ばん』と答えた。太守は喜び、本を雲蓋に移住させた。

もし本と智とを比べれば、本は智よりはるかに及ばない。これによって、真実の事柄は、機鋒(鋭い問答)によって捉えられるものではないと知るべきである。

宝峯元首座もまた、道ある人物であったが、問答の機鋒は鈍かった。覚範は彼を『元五斗』と呼んだ。これは、口を開けて息を吸い、五斗の米が炊き上がるほど時間がかかって、ようやく一つの返答ができるという意味である。」

師云。今時人只解順顛倒。不解順正理。如何是佛。云即心是佛。却以為尋常。及至問如何是佛。云燈籠緣壁上天台。便道是奇特。豈不是順顛倒。

師は言った。「今の人々は、ただ逆さまの道理に従うことだけを知っていて、正しい道理に従うことを知らない。『仏とは何か』と問えば『この心がそのまま仏である』と答えるが、それを当たり前のことだと思う。ところが、『仏とは何か』と問われて『灯籠が壁を伝って天台に上る』と答えれば、それを特別なことだと言う。これこそ、逆さまの道理に従っているのではないか。」

師云。張無盡見兜率悅却譏晦堂。有頌曰。久嚮黃龍山裏龍。到來只見住山翁。須知背觸拳頭外。別有靈犀一點通。當時諸方莫不歎服。山僧後來見得。惜乎無盡已死。彼云。須知背觸拳頭外。別有靈犀一點通。若將此頌要見晦堂。不亦遠乎。靈源和尚甞有贊云。三問逆摧。超玄機於鷲嶺。一拳垂示。露赤體於龍峯。聞時富貴見後貧窮。年老浩歌歸去樂。從教人喚住山翁。黃魯直聞而笑曰。無盡所言靈犀一點。此藞苴為虛空安耳穴。靈源作贊分雪之。是寫一字不著畫五祖云。三乘人出三界獄。小果必藉方便。如穴地穿壁及自天窓中出。唯得道菩薩。從初入地獄。先與獄子不相疑。一切如常。一日寄信去。覓得酒肉與獄子喫。至大醉取獄子衣服行纏頭巾。結束自身。却將自己破衣服。與獄子著。移枷在獄子項上。坐在牢裏。却自手捉獄子藤條。公然從大門出去。參禪人須是恁麼始得。

師が言った。「張無盡は兜率の悦を訪ねたが、晦堂を批判した。その偈に曰く『久しく黄龍の山里の龍に向かえど、到りて見るはただ住山翁なり。知るべし、背触の拳頭の外に、別に霊犀一點の通ずるあり』と。当時、諸方の者たちがみな嘆服した。山僧は後にこれを悟ったが、惜しむらくは無盡はすでに死んでいた。彼が言うには『知るべし、背触の拳頭の外に、別に霊犀一點の通ずるあり』と。もしこの偈をもって晦堂を見ようとするならば、遠くないか。霊源和尚がかつて賛をなして言った『三問逆に摧き、玄機を鷲嶺に超ゆ。一拳垂示し、赤体を龍峯に露わす。聞くときは富貴、見てのち貧窮。年老いて浩歌、帰去を楽しみ、教えに従いて人に喚ばれて住山翁』と。黄魯直がこれを聞いて笑って言った『無盡の言うところの霊犀一點、これは藞苴なる虚空に耳穴を安んずるなり』と。霊源が賛を作って雪ぎ分かつ。これは一つの字を書きて、畫(かぎ)を著けざるなり。五祖が言った『三乗人が三界の獄より出ずるに、小果必ず方便を借る。穴地穿壁及び天窓より出づるが如し。ただ得道の菩薩のみ、初めより地獄に入りて、先ず獄子と相疑わず、一切常の如し。一日、信を寄せて去り、酒肉を求め獄子に食べさせ、大いに酔わしめて、獄子の衣服、行纏、頭巾を取り、結束して自身に著け、却って自己の破れたる衣服を獄子に著せ、枷を獄子の項に移し、牢の裏に座せしめ、却って自ら手に獄子の藤条を捉えて、公然と大門より出でゆく。参禅人はかくの如くならざるべからず』」と。

五祖云。世人似發瘧一般。寒一上熱一上。不覺過了一生矣。

第五祖が言いました。「世の中の人々は、あたかもマラリアの発作のようなものです。寒くなったり、熱くなったりして、気づかぬうちに一生を終えてしまうのです。」

范縣君號寂壽道人。在城都參佛果。果教渠看不是心不是佛不是物是什麼。不得下語。不得開口。看來看去。無入頭便覺悽惶。乃問佛果云。此外有何方便令某甲會去。果云。有箇方便。不是心不是佛不是物。壽於此有省。乃云。元來得恁麼近。

范県君、号を寂寿道人とす。成都にて佛果に参ず。果、教えて渠に「心に非ず、仏に非ず、物に非ず、これ何ぞや」と看ぜしむ。語を下すことなく、口を開くことなかれ。看じ看じて、入る頭無く、便ち悽惶を覚ゆ。乃ち佛果に問いて云う、「此の外に何か方便有りて、某甲をして会せしめたもうや」。果云う、「箇の方便有り。心に非ず、仏に非ず、物に非ず。」壽ここに於いて省すること有り。乃ち云う、「元来、恁麼に近きに得たり。」

兜率悅和尚。首眾於廬山棲賢。時洪帥熊伯通。請住龍安兜率。悅設三問。以問學者。一曰。撥草參玄只圖見性。即今上人性在什麼處。二曰。識得自性方脫生死。眼光落地時作麼生脫。三曰。脫得生死便知去處。四大分離向什麼處去無盡有三頌酬之。其一曰。陰森夏木杜鵑鳴。日破浮雲宇宙清。莫對曾參問曾晢。從來孝子諱爺名。其二曰。人間鬼使符來取。天上花冠色正萎。好箇轉身時節子。莫教閻老等閑知。其三曰。鼓合東村李大妻。西風曠野淚沾衣。碧蘆紅蓼江南岸。却作張三坐釣磯。悅住兜率五年。一日說偈曰。四十有八。聖凡盡殺。不是英雄。龍安路滑。奄然而化。

兜率の悦和尚は、初め廬山の棲賢寺で僧侶たちを統率していました。その時、洪州の長官である熊伯通が、龍安の兜率院に住職として迎えるよう要請しました。悦和尚は三つの問いを設けて、修行者たちに問いかけました。

第一の問い:「草をかき分けて玄旨を訪ねるのは、ただ自らの本性を見るためである。今あなたの本性はどこにあるのか。」

第二の問い:「自らの本性を認識してこそ生死を脱する。しかし、この世の命が終わる時、どのようにして生死を脱するのか。」

第三の問い:「生死を脱すれば、行き先を知るはずである。この身体が四大に分かれて散る時、どこへ行くのか。」

これに対して無尽居士が三つの頌を作って答えました。

その第一: 「陰深い夏の森に杜鵑が鳴く。 陽は浮雲を破り、宇宙は清らかになる。 むやみに曾参に曽皙のことを問うな。 古来より孝子は親の名を口にしないものだ。」

その第二: 「この世では冥界の使いが符牒を持って迎えに来る。 天上では花の冠の色がまさに萎えようとしている。 まさにこの転身の時節を良くとらえよ。 閻魔大王に軽々しく知られてはならぬ。」

その第三: 「東村の李大の妻が呼び集めたように、 西風吹く荒野で涙が衣を濡らす。 青い葦と赤い蓼の江南の岸辺で、 却って張三が釣り磯に座っているようだ。」

悦和尚は兜率院に五年間住み、ある日、次のような偈を唱えました。

「四十と八つ。 聖者も凡夫もことごとく殺す。 英雄ではないが、 龍安の道は滑りやすい。」

こうして静かに遷化された。

梁山觀和尚會下。有箇園頭參得禪。眾中多有不信者。一日有僧去撩撥他。要其露箇消息。乃問園頭。何不出問堂頭一兩則話結緣。園頭云。我除是不出問。若出須教這老漢下禪床立地在。及梁山上堂。果出問曰。家賊難防時如何。山云。識得不為冤曰識得後如何。山云。貶向無生國裏。曰莫是他安身立命處也無。山云死水不藏龍。曰如何是活水裏龍。山云興波不作浪。曰忽然傾湫倒嶽時如何。梁山果然從法座上走下把住云。闍梨莫教濕著老僧袈裟角。師云。須知悟底人與悟底人相見。自然縱奪可觀。

梁山観和尚の門下に、ある園頭という者がいて、禅を悟った。しかし、大勢の者たちの中で信じない者が多かった。ある日、ある僧が彼を挑発し、その消息を露見させようとして、園頭に問うた。「どうして堂頭に一、二則の話を問い、縁を結ばないのか」と。園頭は言った。「私は問わないでいようと思う。もし問うなら、必ずやこの老漢をして禅床から下りて立たせてやる」と。その後、梁山が上堂した際、果たして出て問うた。「家賊は防ぎ難し、その時は如何に」と。梁山が言う。「識れば、冤罪にはならず」と。「識った後は如何に」と。梁山が言う。「無生の国に貶す」と。「それは彼の安身立命のところか、そうでないか」と。梁山が言う。「死水は龍を蔵さず」と。「如何なるか、活き水の中の龍とは」と。梁山が言う。「波を興しつつも、浪を作らず」と。「忽然として湫を傾け岳を倒す時は如何に」と。梁山は果たして法座から下りて、彼を捉えて言った。「闍梨よ、老僧の袈裟の端を濡らさないでくれ」と。師は言う。「悟った者と悟った者が相見する時、自然に縦奪が見事であることを知るべきだ」。

湛堂和尚云。禪和家。乍入眾時。初發心菩薩與佛齊肩。一年之外到佛腰邊。恰如箇琉璃瓶子相似。元初空裸裸地。淨潔潔地。却著了半瓶不淨潔底水。搖得來在裏面。丁丁當當只管響。忽然著本色人。向他道。爾這瓶子本自淨潔。却被這些惡水在裏面。又不滿秖管響。要得不響。須是依前傾出颺却蕩洗了。却滿著一瓶好水便不響。因甚不響。蓋謂滿了。

湛堂和尚がおっしゃった。

「禅の修行者たちは、初めて集団生活に入った時、初めて発心した菩薩は仏と肩を並べるほどだが、一年も経つと仏の腰ほどの高さになってしまう。

まるでガラスの瓶のようなものだ。最初はからっぽで、清らかで汚れがなかったのに、そこに半分ほどの汚れた水を入れてしまった。するとその水が揺れて、中でチャポチャポと絶えず音を立てる。

そこである時、本当の人が来て、こう言う。『お前のこの瓶は、もともと清らかだったのに、この汚れた水が中に入ったせいで、満ちてもいないのにただ音ばかり立てている。その音を止めたければ、もとのように(水を)すっかり捨て去り、洗い清めてから、一瓶のきれいな水を満たしなさい。そうすれば音はしなくなる。』

なぜ音がしなくなるのか?それは満ちているからだ。」

嚴陽尊者見趙州。有僧問。如何是佛。云土塊。如何是法。云地動也。如何是僧。喫粥喫飯。又問。如何是新興水。云前面江裏。師云。似這般法門。恰似兒戲相似。入得這般法門。方安樂得人。如真淨和尚拈提古今。不在雪竇之下。而末流傳習。却成惡口小家。只管問。古人作麼生。真如又如何下語。楊岐又如何下語。爾管得許多閑事。瘥病不假驢駝藥。若是對病與藥。籬根下拾得一莖草。便可療病。說什麼朱砂附子人參白朮。

厳陽尊者、趙州に参ずる。ある僧が問う、「如何なるか是れ仏」。趙州云く、「土塊」。又問う、「如何なるか是れ法」。云く、「地動く也」。又問う、「如何なるか是れ僧」。云く、「粥を喫し飯を喫す」。又問う、「如何なるか是れ新興の水」。云く、「前の江の裏」。師云く、「このような法門は、まるで児戯のようだ。このような法門に入ってこそ、人を安楽ならしめる。真浄和上の古人を拈提する様は、雪竇にも劣らない。しかし末流の伝習は、却って悪口の小家となってしまい、ただ只管に『古人はどうだったか』『真如はどのように下語したか』『楊岐はどのように下語したか』と問う。あなたはそんな多くの閑事を気にする必要があるか。病を癒すに驢馬の背負う薬を借りるまでもない。もし病に即して薬を与えるなら、垣根の下で一茎の草を拾うだけで病を治せる。何ぞ朱砂や附子、人参、白朮を論じることがあろうか」。

真淨會下。有昭泰首座到五祖。祖見舉真淨語錄。乃讚云。此是大智慧人。師云。老南下尊宿。五祖只肯晦堂真淨二老而已。自餘皆不肯他也。五祖為人。如綿裏一柄刀相似。纔拶著便將咽喉。一刺刺殺爾去也。若是真淨。脚上著也即脚上殺爾。手上著也即手上殺爾。咽喉上著也即咽喉上殺爾。

真浄(しんじょう)の門下に、昭泰(しょうたい)という首座(しゅそ)が五祖(ごそ)を訪ねました。五祖は真浄の語録を見て、これを讃えて言われました。「これは大智慧(だいちえ)の人である。」

師(老師)は言われました。「老南(ろうなん)という尊宿(そんじゅく)のもとで、五祖はただ晦堂(かいどう)と真浄の二人だけを認めたのです。その他の人は誰も認めませんでした。五祖という人物は、まるで綿の中に一本の刀を隠しているようなもの。ちょっと迫られると、すぐに相手の喉元を突き、一刺しで仕留めてしまうのです。しかし真浄なら、足に触れれば足で殺し、手に触れれば手で殺し、喉元に至れば喉で殺すのです。」

駙馬都尉李公遵勗。得心要於石門聰禪師甞作二句頌。寄發運朱正辭。時許式為淮南漕。朱以李頌示許。請共和之。頌曰學道須是鐵漢。著手心頭便判。朱曰。雨催樵子還家。許曰。風送漁舟到岸。又請浮山遠禪師和曰。學道須是鐵漢。著手心頭便判。通身雖是眼睛。也待紅爐再煆。鉏麑觸樹迷封。豫讓藏身吞炭。鷺飛影落秋江。風送蘆花兩岸。諸公見大敬之。李乃自和曰參禪須是鐵漢。著手心頭便判。直趣無上菩提。一切是非莫管。今唯傳後一頌而已。

駙馬都尉の李公遵勗は、石門の聡禅師から心の要諦を受け継いだ。かつて二句の頌を作り、発運使の朱正辭に送った。その時、許式が淮南の漕運使を務めていた。朱は李の頌を許に見せて、共に和するよう求めた。頌に曰く、「道を学ぶには鉄漢たるべし。手を心頭に着ければ即ち判ず」。朱が和して曰く、「雨が催す樵子の家に帰る」。許が和して曰く、「風が送る漁舟の岸に到る」。また、浮山の遠禅師に和を請うて曰く、「道を学ぶには鉄漢たるべし。手を心頭に着ければ即ち判ず。全身は眼晴なりといえども、なお紅炉にて再び煅つを待つ。鉏麑は樹に触れて封を迷い、豫讓は身を蔵し炭を吞む。鷺の影飛んで秋江に落ち、風は芦花を送りて両岸に到る」。諸公はこれを見て大いに敬服した。李が自ら和して曰く、「参禅は鉄漢たるべし。手を心頭に着ければ即ち判ず。直ちに無上菩提に趣きて、一切の是非を管ずること莫かれ」。今はただ後の一頌のみが伝わっている。

佛鑒和尚。初受舒州太平請。禮辭五祖。祖曰。大凡住院。為己戒者有四。第一勢不可使盡。第二福不可受盡。第三規矩不可行盡。第四好語不可說盡。何故。好語說盡人必易之。規矩行盡人必繁之。福若受盡緣必孤。勢若使盡禍必至。鑒再拜服膺而退。後鑒辭靈源。源云。住持當以拄杖包笠懸挂方丈屋壁間。去住如衲子之輕則善矣。

仏鑑和尚は、初めて舒州太平寺の住職に招かれた時、五祖法演のもとへ挨拶に行きました。五祖は言いました。「住職となる者が、自ら戒めるべきことは四つある。第一に、勢いを使い尽くしてはならない。第二に、福徳を受け尽くしてはならない。第三に、規律を行い尽くしてはならない。第四に、良い言葉を言い尽くしてはならない。なぜなら、良い言葉を言い尽くせば、人は必ずあなたを軽んじるからだ。規律を行い尽くせば、人は必ず煩わしがる。福徳を受け尽くせば、巡り合わせは必ず孤独になる。勢いを使い尽くせば、必ず災いが訪れる。」仏鑑は何度も礼をして、この教えを心に刻み退出しました。

その後、仏鑑が霊源惟清のもとを辞する時、霊源は言いました。「住職たる者は、杖と頭陀袋を方丈の壁に掛けておき、去り住むことを衲僧のように軽やかにすることができれば、それで良いのだ。」

徐師川。同佛果到書記寮。見果頂相。師川指云。這老漢脚跟未點地在。果云。甕裏何曾走却鼈。川云。且喜老漢脚跟點地。果云。莫謗他好。

徐師川が佛果とともに書記寮にやって来て、果たる老師の肖像画を見た。師川はそれを指さして言った。「このじいさん、まだ足場が固まっていないぞ。」 果が答えた。「甕の中から、いったいどこへ亀が逃げられようか。」 川が言った。「よかった、やっと老師も足場が固まったようだ。」 果が言った。「そんなふうに彼を誹謗しないでくれ。」

烏龍長老。訪憑濟川說話次云。昔有官人問泗州大聖。師何姓。聖云。姓何。官云。住何國。聖云。住何國。此意如何。龍云。大聖本不姓何。亦不是何國人。乃隨緣化度耳。憑笑曰。大聖決定姓何住何國。如是往返數次。遂致書于師。乞斷此公案。師云。有六十棒。將三十棒打大聖。不合道姓何。三十打濟川。不合道大聖決定姓何。若是烏龍長老。教自領出去。

烏龍禅師が憑済川を訪ねて話をしていた時のことです。かつて役人が泗州大聖に尋ねました。「あなたの姓は何ですか?」大聖は「姓は何です」と答えました。役人が「どこの国にお住まいですか?」と尋ねると、大聖は「何の国に住んでいます」と答えました。この意味するところは何でしょうか?」

烏龍禅師が言いました。「大聖は元々『何』という姓でもなく、『何』の国の人でもありません。ただ縁に従って人々を教化しているだけです。」

憑済川は笑って言いました。「いや、大聖は確かに『何』という姓で、『何』の国に住んでいるのです。」

こうしたやり取りが何度か続いた後、憑済川は烏龍禅師に手紙を送り、この公案の裁決を求めました。

烏龍禅師は言いました。「六十棒だ。三十棒は大聖に対して、『姓は何』と言ったのが間違いだから。三十棒は憑済川に対して、『大聖は確かに姓が何だ』と言ったのが間違いだから。もし烏龍長老なら、自分でこの裁きを受け出すがよい。」

無盡居私第日。適年荒。有道士輩。詣門教化食米。無盡遂勸各人誦金剛經。若誦得一分。施米一斗。如誦畢施米三石二斗。化渠結般若緣。故云。財法二施。每遇僧又勸念老子。使其互相知。有觀其護教之心。直如是爾。

無盡が私邸にいた頃、その年は凶作でした。ある道士たちが門に来て、食料用の米を施してほしいと頼みました。そこで無尽は彼ら一人一人に『金剛経』を唱えるよう勧めました。もし一節唱えられたら、米一斗を施し、すべて唱え終えたら米三石二斗を施すと約束したのです。こうして彼らと般若の縁を結ばせたのです。だから「財施と法施」というのです。また、僧に会うたびに『老子』を唱えるよう勧め、仏教と道教が互いに理解し合うようにしました。その護法の心は、まさにこのようなものでした。

廖等觀。知潭州善化縣時。有一婆每日誦金剛經。於街市乞食。夜則歸宿山阿。忽數日不見行乞。群鵶噪集於其止處。令人往視之。見懷金剛經傍巖而化。群鵶負土以覆之。師陞堂舉此。時廖知縣亦在座下。

ある時、廖という人物が潭州の善化県を知事として治めていた。そこに一人の老女がいて、毎日『金剛経』を読誦し、町中で物乞いをして暮らし、夜になると山のほとりで眠っていた。ところが、何日か行乞に出てこない日が続いた。すると、多くのカラスがその老女のいた場所に集まって騒ぎ立てた。使いの者に見に行かせると、老女は『金剛経』を抱いたまま、岩のそばで亡くなっていた。そして、カラスたちが土を運んで、その亡きがらを覆っていたのである。師が法座にのぼってこの話をされたとき、廖知事もその席に居合わせていた。

師一日到明月庵。見壁間畫髑髏。憑濟川有頌云。屍在逗裏。其人何在。乃知一靈。不居皮袋。師不肯。乃作一頌云。即此形骸。便是其人。一靈皮袋。皮袋一靈。

ある日、師が明月庵を訪れた。壁に髑髏の絵が描いてあるのを見て、済川という僧が次のような頌(詩)を記していた。 「屍はここにある。その人はどこにいるのか。ここに一つの霊がいることがわかる。皮袋(肉体)にはとどまらない。」 師はこの頌を良しとせず、自ら次の頌を作った。 「この身体こそが、その人である。一つの霊が皮袋であり、皮袋が一つの霊である。」

張無盡丞相。十九歲應舉入京。經由向家。向家夜夢人報曰。明日接相公。凌晨淨室以待。至晚見一窮揩大著黃道服。乃無盡也。向禮延之。問秀才何往。無盡以實告。向曰。秀才未娶。當以女奉灑掃。無盡謙辭再三。向曰。此行若不了當。吾亦不爽前約。後果及第。乃娶之。初任主簿。因入僧寺。見藏經梵夾齊整。乃怫然曰。吾孔聖之教。不如胡人之書人所仰重。夜坐書院中。研墨吮筆。憑紙長吟。中夜不眠。向氏呼曰。官人夜深。何不睡去。無盡以前意白之。正此著無佛論。向應聲曰。既是無佛。何論之有。當須著有佛論始得。無盡疑其言遂已。及訪一同列。見佛龕前經卷。乃問曰。此何書也。同列曰。維摩詰所說經。無盡信手開卷。閻到此病非地大亦不離地大處。歎曰。胡人之語。亦能爾耶。問此經幾卷。曰三卷。可借歸盡讀。向氏問。看何書。無盡曰。維摩詰所說經。向氏曰。可熟讀此經然後著無佛論也。無盡悚然異其言。由是深信佛乘。留心祖道。後為江西漕。遍參祖席。首謁東林照覺總公。總詰其所見處。與己符合。乃印可之曰。吾有得法弟子住玉溪。乃慈古鏡也。亦可與語。無盡復因按部過分寧。諸禪迓之。無盡到先致敬玉溪慈。次及諸山。最後問兜率悅禪師。悅為人短小。無盡曾見龔德莊說。聰明可人。乃曰。聞公善文章。悅大笑曰。運使失却一隻眼了也。某臨濟九世孫。對運使論文章。政如運使對某論禪也。無盡不然其語。乃強屈指曰。是九世也。又問。玉溪去此多少。曰三十里。曰兜率聻。曰五里。無盡是夜乃至兜率。悅先一夜夢日輪升天。被悅以手摶取。乃說與首座云。日輪運轉之義。聞張運使非久過此。吾當深錐痛剳。若肯回頭。則吾門幸事。首座云。今之士大夫受人取奉。慣恐惡發別生事也。悅云。正使煩惱。只退得我院。別無事也。無盡與悅語次。稱賞東林。悅未肯其說。無盡乃題寺後擬瀑軒詩。其略云。不向廬山尋落處。象王鼻孔謾遼天。意譏其不肯東林也。公徐語及宗門事。悅曰。今日與運使相陪人事已困。珍重睡去。至更深悅起來與無盡論此事。焚香請十方諸佛作證。東林既印可運使。運使於佛祖言教有少疑否。無盡曰有。悅曰。疑何等語。曰疑香嚴獨脚頌德山托鉢因緣。悅曰。既於此有疑。其餘安得無耶。只如言末後句。是有耶是無耶。無盡曰有。悅大笑。遂歸方丈閑却門無盡一夜睡不穩。至五更下床觸翻蹋床。忽然省得。有頌曰。鼓寂鍾沈托鉢回。巖頭一拶語如雷。果然秖得三年活。莫是遭他受記來。遂扣方丈門云。某已捉得賊了。悅曰。贓物在甚處。無盡無語。悅云。都運且去。來日相見。翌日無盡遂舉前頌呈之。悅乃謂無盡曰。參禪只為命根不斷。依語生解。如是之說。公已深悟。然至極微細處。使人不覺不知墮在區宇。悅後作頌證之云。等閑行處步步皆如。雖居聲色寧滯有無。一心靡異萬法非殊。休分體用莫擇精麁。臨機不礙應物無拘。是非情盡凡聖皆除。誰得誰失何親何疎。拈頭作尾指實為虛。翻身魔界轉脚邪塗。了非逆順不犯工夫。無盡邀悅至建昌。途中一一伺察。有十頌敘其事。悅亦以十頌酬之。時元祐八年八月也。

張無尽丞相は、十九歳の時に科挙の試験を受けるため都へ向かいました。途中、向家という家に立ち寄りました。すると、向家では夜中に家の者が夢で「明日、宰相がお見えになる」と告げられました。朝早くから部屋を清めて待っていましたが、夕方になってようやく一人の貧しい書生が黄色い道服を着て現れました。それが無尽でした。向氏は礼を尽くして招き入れ、「ご出身の秀才はどちらへ?」と尋ねました。無尽が事情を話すと、向氏は「まだお嫁さんをお持ちでないなら、私の娘を差し上げましょう」と言いました。無尽は固辞しましたが、向氏は「この試験で成果が出なくても、私の約束は変わりません」と言いました。果たして無尽は合格し、娘を娶ることになりました。

最初の任地で主簿を務めていた時、ある僧院に入った際、経典が整然と納められているのを見て、憤然として言いました。「我らが孔子の教えは、異国の書物のように人々から尊ばれていない。」夜になり書院で硯に墨をすり、筆を浸し、長く嘆息しながら徹夜で寝ずに過ごしました。妻の向氏が呼びかけて「あなた、遅いですよ。もうお休みになられたら?」と言うと、無尽は先の思いを語り、「ちょうど『無仏論』を書いているところだ」と言いました。向氏は即座に「もし仏がいないのなら、何を論じるのですか。むしろ『有仏論』を書くべきです」と答えました。無尽はこの言葉に疑念を抱き、そのままやめてしまいました。

後に同僚を訪ねた時、仏龕の前に置かれた経巻を見て「これは何の書物ですか?」と尋ねました。同僚は「『維摩詰所説経』です」と答えました。無尽が手に取って開くと、「この病は地大によるものではなく、また地大を離れたものでもない」という一節に至り、感嘆して言いました。「異国の人の言葉も、このようなものか。」この経巻が何巻あるのか尋ね、「三巻です」と聞き、借りて帰って全て読みました。妻の向氏が「何を読んでいるのですか?」と尋ねました。無尽が「『維摩詰所説経』だ」と答えると、向氏は「その経をよく読んでから『無仏論』をお書きなさい」と言いました。無尽は驚き、その言葉に深く感銘を受けました。それ以来、仏の教えを深く信じ、祖師の道に関心を持つようになりました。

後に江西の漕運使となり、多くの祖師の席を巡って参禅しました。最初に東林寺の照覚総和尚を訪ねると、総和尚は無尽の見解を尋ね、自分に合っていると認めて印可し、「私には玉溪に住む法を継いだ弟子、慈古鏡がいる。あなたも語り合うとよい」と言いました。無尽はさらに巡察のため分寧を通る機会があり、多くの禅僧が出迎えました。無尽はまず玉溪慈に挨拶し、次に諸山の僧に挨拶し、最後に兜率山の悦和尚に尋ねました。悦は背が低く、無尽はかつて龔徳庄から悦は聡明で愛らしい人物だと聞いていたので、「あなたは文章が上手だと伺いました」と言いました。悦は大笑いして言いました。「運使殿は目を一つお落としになりましたぞ。私は臨済宗九代目の法孫。あなたと文章の話をするのは、まさにあなたが私と禅を語るようなものです。」無尽はこの言葉に納得せず、無理やり指を折って「九代目か」と言いました。さらに「玉溪はここからどれほど?」と尋ね、悦は「三十里です」と答えました。「兜率山は?」「五里です」その夜、無尽は兜率山に着きました。

悦には前夜、夢の中で日輪が空に昇り、それを手で掴むという夢がありました。そして首座に告げて言いました。「日輪が運行するという意味だ。張運使が近々ここを通ると聞く。私は深く追い詰めてやりたい。もし彼が心を改めるならば、我が門にとって幸いなことだ。」首座は「今の士大夫は誰かに持ち上げられるのに慣れており、怒り出して面倒なことになるかもしれません」と言いました。悦は「たとえ怒り狂っても、私の院を追われるだけで、他に問題はありません」と答えました。

無尽と悦が言葉を交わす中で、無尽は東林を称賛しましたが、悦はその説に同意しませんでした。無尽は寺の裏手にある「擬瀑軒」に詩を書き、その一節に「廬山に落ちる所を求めず、象王の鼻は空しく天を飛ばん」とあり、これは悦が東林を認めないことを皮肉ったものです。やがて無尽は宗門のことに話を及ぼすと、悦は言いました。「今日は運使殿とお付き合いし、すっかり疲れました。しっかり休んでください。」ですが、深夜になると悦は起き出し、無尽とこの問題について論じました。香を焚き、十方の諸仏を証人として請い求めました。「東林はすでに運使殿に印可を与えましたが、運使殿は仏祖の言教に少しも疑問をお持ちでないのですか?」無尽は「あります」と答えました。悦は「どのような言葉ですか?」と尋ねました。「香厳の独脚頌と徳山の托鉢因縁を疑っています。」悦は「ここに疑問があるなら、他に疑問がないはずがありません。例えば『末後句』というのは、あるのですか、ないのですか?」無尽は「あります」と言いました。悦は大笑いし、そのまま方丈に帰って戸を閉めてしまいました。

無尽は一晩中眠れず、明け方に床から降りようとして踏み台を蹴倒した時、突然悟りました。偈を詠みます。 「鼓の音も鐘の音も静まり、托鉢から戻る。 巌頭の一喝、言葉は雷の如し。 果たして三年の命を得ただけ。 まさか彼が授記したものに遭うとは。」 そして方丈の戸を叩き、「私はもう賊を捕まえました」と言いました。悦が「贓物はどこにありますか?」と尋ねると、無尽は答えられませんでした。悦は「都運殿、お帰りください。明日またお会いしましょう」と言いました。

翌日、無尽は先ほどの偈を悦に示しました。悦は無尽に言いました。「参禅はただ命の根を断ち切れず、言葉に従って解釈してしまうからです。そのような説はあなたが深く悟ったところです。しかし、極めて微細なところでは、人に知られず気づかれずに区域に落ち込んでしまうものです。」後に悦は偈を作ってこれを証明しました。 「等閑の行く処、歩歩皆如。 声色に居るも、寧ろ有無に滞ること無し。 一心は異なること無く、万法は殊なること無し。 体用を分かとうするな、精麁を選ぶな。 機に臨んで碍ること無く、物に応じて拘らず。 是非の情尽き、凡聖皆除く。 誰が得て誰が失うか、何が親しく何が疎か。 頭を拈って尾と作し、実を指して虚と為す。 身を翻して魔界に、脚を転じて邪塗に。 逆順に非ず、工夫を犯さず。」 無尽は悦を建昌に招き、途中で細かく観察し、十の偈を作ってその出来事を記し、悦もまた十の偈で応じました。時に元祐八年の八月のことでした。

夾山璘石霜琳。久依佛日才禪師。罷參後同遊上江至黃龍。見南和尚上堂小參。琳不諭其旨。遂求入室。璘怒之。遂毆一頓而去。琳後大悟。機鋒頴脫。凡說法頗類真淨。而於真淨不相識。住石霜以頌送僧見真淨後句云。憧憧四海參禪者。不到新豐也是癡。

夾山の璘(りん)と石霜の琳(りん)は、長く仏日の才禅師に師事していた。参禅を終えた後、一緒に上江へ旅し、黄龍に至った。そこで南和尚の上堂や小参を聞いたが、琳はその意味が理解できず、入室を求めた。それを聞いて璘は怒り、琳を一打ちして去って行った。その後、琳は大いに悟りを開き、機鋒が鋭く鋭敏になった。彼の説法は、どことなく真浄に似ていたが、真浄とは面識がなかった。石霜に住していた時、僧が真浄に会いに行くのを送る頌の後半に、こう詠んだ。「四海から参禅する者がひしめき合うが、新豊(真浄の地)に至らぬ者は、愚かというほかない。」

生肇融叡。乃羅什法師之高弟。號四依菩薩。嘗同羅什釋維摩經。至不可思議品皆閣筆。蓋此境界非心思口議。遂不能措一詞。如李長者論。入華嚴法界詞分句解皎如日星。泮然無疑。若非親遇了緣。安能如此。

生肇融叡は、鳩摩羅什(くまらじゅう)法師の高弟であり、「四依菩薩」と称されました。彼らは共に、羅什法師が『維摩経』を解説される際に、『不思議品』に至ると筆を置いたといいます。なぜなら、この境地は心での思量や言葉による説明を超えており、一言も述べることができなかったからです。また、李長者(りちょうじゃ)の『華厳経』の論書のように、法界の理を言葉や文章で解き明かすと、明るく太陽や星のごとく、疑問が氷解するように明らかになります。もし自ら因縁に遭わなければ、どうしてこのような境地に至ることができましょうか。

宣州明寂珵禪師。遍見前輩尊宿。如瑯瑘雪竇天衣。皆承事請法。出世嗣興教坦和尚。坦嗣瑯瑘。後遷太平州瑞竹。退居西堂。師初遊方從之。請益雪竇拈古頌古。珵令看因緣。皆要自見自說不假其言語。師洞達先聖之微旨。程甞稱於眾曰。杲必再來人也。復遊郢州大陽。見元首座洞山微和尚堅首座。微在芙蓉會中首眾。堅為侍者十餘年。師周旋三公座下甚久。盡得曹洞宗旨。受授之際皆臂香。以表不妄付授。師自惟曰。禪有傳授。豈佛祖自證自悟之法。棄之依湛堂。一日湛堂問曰。爾鼻孔因什麼今日無半邊。對曰。寶峯門下。湛堂曰。杜撰禪和。又一日於粧十王處。問曰。此官人姓什麼。對曰。姓梁。湛堂以手自摸頭曰。爭奈姓梁底少箇幞頭。對曰。雖無幞頭鼻孔髣髴。湛堂曰。杜撰禪和。又看經次。問曰。看什麼經。對曰。金剛經。曰是法平等無有高下。為什麼雲居山高寶峯山低。對曰。是法平等無有高下。堂曰。爾做得箇座主使下。一日問曰。杲上座。我這裏禪。爾一時理會得。教爾說也說得。教爾做拈古頌古小參普說。爾也做得。秖是有一件事未在。爾還知麼。對曰。甚麼事。湛堂曰。爾秖欠這一解在。㘞若爾不得這一解。我方丈與爾說時便有禪。纔出方丈便無了。惺惺思量時便有禪。纔睡著便無了。若如此。如何敵得生死。對曰。正是某疑處。後湛堂疾亟。問曰。和尚若不起此疾。教某依附誰。可以了此大事。曰有箇勤巴子。我亦不識他。爾若見之。必能成就此事。若見他了不得。便修行去。後世出來參禪。

宣州・明寂珵禅師は、多くの先輩の尊宿を訪ね歩いた。瑯瑘や雪竇、天衣といった高僧のもとにも足を運び、皆に仕えて教えを請うた。やがて出世し、興教の坦和尚の法を継いだ。坦和尚は瑯瑘の法嗣である。その後、太平州の瑞竹に移り、西堂に退いた。師(大慧宗杲)が初めて行脚したとき、この珵禅師に従った。雪竜の拈古や頌古について教えを請うと、珵師は因縁話を示し、「自ら見て、自ら語れ。人の言葉を借りるな」と求めた。師は先聖の微細な旨を悟りきった。珵師はしばしば大衆の前で称賛して、「宗杲は必ず再来の人である」と言った。

さらに、師は郢州の大陽を訪ね、元首座、洞山の微和尚、堅首座に会った。微和尚は芙蓉の会中で首座を務め、堅首座は十数年にわたり侍者をしていた。師はこの三者のもとで長く修行し、曹洞宗の宗旨をすべて習得した。法を受け継ぐ際には、いずれも臂香を焼き、決して誤って伝えることのないことを誓った。

しかし、師は思った。「禅に伝授があるというのは、仏祖が自ら証し、自ら悟る法のはずがない」。そうして曹洞宗を捨て、湛堂禅師のもとに向かった。

ある日、湛堂が師に問うた。「お前の鼻は、なぜ今日は半分なくなっているのか?」

師が答えた。「宝峰の門下ですから。」

湛堂は言った。「でたらめな禅僧だ。」

またある日、十王の像を飾っている場所で湛堂が尋ねた。「この役人は、姓は何というのだ?」

師が答えた。「姓は梁です。」

湛堂は手で自分の頭を撫でながら言った。「しかし、姓が梁という者は、頭巾がないのは困るな。」

師が答えた。「頭巾はなくとも、鼻は似ています。」

湛堂は言った。「でたらめな禅僧だ。」

また、経典を読んでいるとき、湛堂が尋ねた。「何の経を読んでいるのだ?」

師が答えた。「金剛経です。」

湛堂が言った。「『この法は平等にして、高きも低きもない』とある。ならば、なぜ雲居山は高く、宝峰山は低いのだ?」

師が答えた。「この法は平等にして、高きも低きもありません。」

湛堂が言った。「お前は講師くらいにはなれるだろう。」

ある日、湛堂が問うた。「杲上座よ。私のこの禅は、お前はひと通り理解している。説けと言えば説けるし、拈古や頌古、小参、普説もお前にはできる。ただ、一つ足りないことがある。お前はそれが分かっているか?」

師が答えた。「どのようなことでしょうか?」

湛堂が言った。「お前には、ただこの一つの解き方が欠けているのだ。もしこの解き方を得られなければ、私の方丈で話している間は禅があっても、方丈を出ればすぐに無くなってしまう。しっかりと考えている時は禅があっても、眠りに落ちればすぐに無くなってしまう。それで、どうして生死に立ち向かえようか?」

師が答えた。「まさに、それが私の疑問のところです。」

その後、湛堂の病が重くなった。師が尋ねた。「和尚がもしこの病でお立ちにならなければ、私は誰に頼れば、この大事を成し遂げられるでしょうか?」

湛堂は言った。「勤巴子という者がいる。私もその者を知らない。お前がもし彼に会えば、必ずこのことを成し遂げられるだろう。もし彼に会っても悟れなければ、修行して、後の世に出てきて禅を参究しなさい。」

保寧勇禪師。四明人。初更衣依雪竇顯禪師問道。雪竇呵為央庠座主。勇不意。堂儀纔滿。即抽單望雪竇山禮拜誓曰。我此生行脚參禪。道價若不過雪竇。定不歸鄉。勇至長沙雲蓋。參見楊岐會和尚。與白雲端和尚為弟昆。後出世住保寧。勇道播叢林。果如其言。信人之志氣。安可不立耶。

保寧勇禅師は、四明の出身である。初めに衣を改めて雪竇顕禅師に師事し、道を問うた。雪竇は彼を「いやしい座主」と非難した。勇はこれに納得せず、堂での修行期間が満了するとすぐに、宿舎を引き払い、雪竇山に向かって礼拝して誓いを立てた。「この生涯、行脚して禅を参究し、その道の評価が雪竇に及ばなければ、決して故郷に帰ることはしない」と。勇は長沙の雲蓋に赴き、楊岐会和尚に参じて教えを請うた。そして、白雲端和尚と兄弟の間柄となった。後に出世して保寧寺に住し、その道の名声は叢林に広まった。まさに彼の誓いの通りであった。人の志気というものは、どうして立てずにおられようか。

先黃龍所山主。架造院宇。一一合叢林體格。或者笑曰。和尚又不會禪。何用此為。龍云。自有說禪者來。院成。遂陳乞請積翠南禪師住持。後來先黃龍化去。南禪師一夜忽夢。有神人云。乞去守塔。南禪師不經意。一日坐方丈中。又見前所夢中人云。某甲願乞守塔。南詰之。遂云。有交代人來。未幾果塑像人至。南禪師令別塑土地。乃移舊土地。守先黃龍塔。

先の黄龍、山主たりし時、寺院を建立し、そのすべてが叢林の格式にかなっていた。ある人が笑って言った、「和尚は禅を会得していないのに、なぜこんなことをするのか」。黄龍が言う、「必ず禅を説く者が来るだろう」。寺院が完成し、積翠の南禅師を招いて住持とするよう願い出た。その後、先の黄龍が亡くなった。ある夜、南禅師が夢に神人が現れて言う、「どうか塔の守護をさせてください」。南禅師は気にかけなかった。ある日、方丈に座っていると、また以前夢で見た人が現れて「私は塔の守護を望みます」と言う。南禅師が問い質すと、「後任の者が来ます」と言う。ほどなくして、塑像を造る者が到着した。南禅師は命じて別に土地神の像を造らせ、古い土地神の像を移して、先の黄龍の塔を守らせた。

太瘤蜀僧。居眾常嘆佛法混濫異見鋒起。乃曰。我參禪若得真正知見。當不惜口業。遂發願禮馬祖塔。長年不輟。忽一日塔放白光。感而有悟。後所至叢林。勘驗老宿。過雪竇山前云。這老漢口裏水漉漉地。雪竇聞其語意似不平。及太見雪竇。竇云。爾不肯老僧那。太云。老漢果然口裏水漉漉地。遂摵一坐具便出。直歲不甘。中路令人毆打捐太一足。太云。此是雪竇老漢使之。他日須折一足償我。後果如其言。太後至都下放意市肆中。有官人請歸家供養。太屢告辭。官人確留之。愈加敬禮。每使侍妾饋食其前。一日偶官人至。太故意挑其妾。官人以此改禮。遂得辭去。不數日鬧市中端坐而化。

太瘤蜀僧という僧がいた。 彼は寺にいても、常に「今の仏法は混ざり合い乱れており、異なる見解が次々に現れている」と嘆いていた。

そこでこう言った。「私は参禅して、もし真実の正しい見解を得ることができたら、必ずや口の業をも惜しまずに語ろう。」

そうして馬祖の塔に礼拝することを誓い、長年にわたってそれを行い続けた。

ある日、突然塔から白い光が放たれたのに感じて、悟りを得た。

その後、訪れるすべての禅寺で、年老いた師匠たちを試した。

雪竇山の前を通りかかった時、彼は言った。「この老僧は口の中がびしょびしょだ」。

雪竇はこの言葉を聞いて、納得できない様子だった。

太が雪竇に会うと、雪竇が言った。「お前は老僧を認めないのか」。

太は答えた。「老僧め、やはり口の中がびしょびしょだ」。

そう言って座具(ざぐ:坐禅用の敷物)で彼を打ち、そのまま立ち去った。

寺の役員(直歳)はこれに不満を覚え、道中で人に命じて太を殴らせ、片足を折らせてしまった。

太は言った。「これは雪竇老僧の仕業だ。いつの日か、必ず一足を折って償わせる」。

後日、その言葉の通りになった。

その後、太は都に出て、街中に放浪した。

ある役人が彼を家に招いて供養した。

太は何度も辞去しようとしたが、役人が強く引き留め、ますます敬意を払って礼遇した。

役人はいつも側女(めかけ)に太の前へ食事を運ばせた。

ある日、偶然役人がやって来た時、太はわざとその側女に誘いをかける真似をした。

役人はこのことで太への礼遇を改め、ついに太は辞去することができた。

それから数日も経たないうちに、賑やかな街中で、端座したまま入寂した。

太陽平侍者。預明安之室有年。雖盡得其旨。惟以生滅為已任。擠陷同列。忌出其右者。瑯瑘廣照公安圓。鑒居眾時。汾陽禪師令其探明安宗旨。在大陽因平密授。明安甞云。興洞上一宗。非遠即覺也。二師云。有平侍者在。明安以手指胸云。平此處不佳。又揑拇指叉中示之云。平向去當死於此耳。暨明安遷寂。遺囑云。瘞全身十年無難。當為大陽山打供。入塔時門人恐平將不利於師。遂作李和文都尉所施黃白器物。書於塔銘。而實無也。平後住大陽。忽云。先師靈塔風水不利。取而焚之。山中耆宿切諫平。平云。於我有妨。遂發塔。顏貌如生。薪盡儼然。眾皆驚異。平乃钁破其腦益油薪。俄成灰燼。眾以其事聞于官。坐平謀塔中物不孝還俗。平自稱黃秀才謁瑯瑘。瑯云。昔日平侍者。今朝黃秀才。我在大陽時見爾做處。遂不納。又謁公安。安亦不顧。平流浪無所依。後於三叉路口遭大蟲食之。竟不免大陽了叉之記。悲哉。

太陽の平侍者は、長年にわたって明安和尚の室に侍りました。彼はその教えをすべて会得したものの、ただ「生滅」こそが自分の使命だと考え、同門の者たちを陥れ、自分より優れた者を妬みました。

瑯瑘(廣照)和尚と公安(圓)和尚は、まだ修行僧であった頃、汾陽禅師の命により明安和尚の宗旨を探らせました。大陽山にて平侍者が密かに教えを授かっていたことを知りました。明安和尚はかつてこう言いました。「洞上の宗を興すのは、遠公か覚公であろう。」この二人の師は言いました。「平侍者がおります。」すると明安和尚は自分の胸を指さして言いました。「平は、このところが良くない。」さらに、親指と人差し指で輪を作って示し、「平はやがて、このようにして死ぬであろう。」と予言したのです。

明安和尚が遷化される際、遺言で「全身を十年間そのままにしておけば、災いはない。そののち、大陽山に供養を施すがよい。」と述べられました。しかし、入塔の際、門人たちは平侍者が師に不利なことをするのを恐れ、李和文都尉から寄進された黄白の器物があったかのように偽り、塔銘に記しました。実際には何もなかったのです。

平侍者は後年、大陽山に住持しましたが、突然「先師の霊塔は風水的に良くない。」と言い、それを取り壊して火葬しようとしました。山中の長老たちは固く諫めましたが、平侍者は「自分にとって都合が悪い。」と言い、ついに塔を開きました。遺体は生きているかのような顔色で、薪が燃え尽きてもその姿はそのまま残っていました。皆が驚き怪しむ中、平侍者は自らその頭を鍬で打ち砕き、油を注ぎ薪を増やしたのです。やがてすべて灰燼と化しました。

人々はこのことを役所に告げました。平侍者は塔の中の財物を狙った不孝の罪で、還俗を命じられました。平侍者は自らを「黄秀才」と名乗り、瑯琊和尚を訪ねました。瑯琊和尚は言いました。「昔の平侍者が、今の黄秀才か。私が大陽にいた時、お前の所業を見ていた。」そして受け入れませんでした。さらに公安和尚を訪ねましたが、公安も顧みようとしませんでした。

平侍者は流浪し、行き場を失いました。後に三叉路で虎に食われて命を落としました。ついに、明安和尚が指で示した「叉(また)」の予言を免れなかったのです。悲しいことです。

峨嵋山白長老。嘗云。鄉人雪竇有頒百餘首。其詞意不甚出人。何乃浪得大名於世。遂作頌千首。以多十倍為勝。自編成集。妄意他日名壓雪竇。到處求人賞音。有大和山主者。遍見當代有道尊宿。得法於法昌遇禪師。出世住大和稱山主。氣吞諸方不妄許可。白携其頌往謁之。求一言之鑑。取信後學。大和見乃唾云。此頌如人患鵶臭當風立地。其氣不可聞。自是白不敢出似人。後黃魯直聞之。到成都大慈寺。大書於壁云。峨嵋白長老。千頌自成集。大和曾有言。鵶臭當風立。

峨眉山の白長老は、かつてこう言いました。 「同じ郷里の雪竇は、百余りの頌(詩)を作ったが、その内容は特に人を驚かせるものではない。それなのに、どうしてこんなに広く名声を得ているのか。」

そこで彼は自ら千首の頌を作り、「十倍多く作れば勝てる」と考えました。自ら編纂して文集にし、いつの日か雪竇を凌ぐ名声を得ようと望み、あちこちで評価を求めました。

そこに大和山主という人物がいました。彼は当代の優れた修行僧たちを広く訪ね、法昌遇禅師に教えを受け、その後大和山で住職となり「山主」と呼ばれました。その風格は諸方の宗派をも圧し、安易に人を認めることはありませんでした。

白長老は自らの頌を持って彼を訪ね、一言の批評を請い、後進の信頼を得ようとしました。大和がそれを見るや、唾を吐いて言いました。

「この頌は、あたかも鴉の悪臭を放つ者が、風に向かって立っているようなものだ。その臭気はとても嗅げない。」

これ以降、白長老は二度と他人に頌を見せることができなくなりました。

後に黄魯直(黄庭堅)がこの話を聞き、成都の大慈寺に来た際、壁に大きく書き記しました。

「峨眉の白長老、 千の頌を自ら集めたり。 大和がかつて言いしことあり、 『鴉の悪臭、風に向かって立つ』と。」

歸宗宣禪師。漢州人。瑯瑘廣照之嗣。與郭功甫厚善。忽一日南康守以事臨之。宣令人馳書與功甫。且祝送書者云。莫令縣君見。功甫時任南昌尉。書云。某更有六年世緣未盡。今日不奈抑逼何。欲託生君家。望君相照。乃化去。功甫得書。驚喜盈懷。中夜其妻夢寐髣髴。見宣入臥內。不覺失聲云。此不是和尚來處。功甫問其故。妻答所見。功甫呼燈以宣書示之。果有娠。及生即名宣老。纔周歲記問如昔。逮三歲白雲端和尚過其家。功甫喚出相見。望見便呼師姪。端云。與和尚相別幾年耶。宣屈指云。四年也。端云。在甚處相別。宣云。白蓮莊。端云。以何為驗。宣云。爹爹媽媽。明日請和尚齋。忽門外推車過。端云。門外什麼聲。宣作推車勢。端云。過後如何。宣云。平地一條溝。甫及六歲。無疾而化。

帰宗宣禅師は、漢州の出身である。琅琊広照禅師の法を継いでおり、郭功甫と深い親交があった。ある日、突然南康の守が領内の問題で彼に処罰を下そうとした。宣禅師は人に命じて功甫のもとへ手紙を届けさせ、送り届ける者に「決して縣君に知られてはならない」と言い含めた。功甫はその時、南昌の尉を務めていた。手紙には「私はまだ六年の俗世の縁が残っている。今、どうにも抑えきれず逼迫されている。あなたの家に生まれ変わりたい。どうかお願いしたい」と記され、そして宣禅師は亡くなった。

功甫は手紙を受け取り、胸に驚きと喜びが満ちた。その夜半、彼の妻が夢の中でぼんやりと宣禅師が寝室に入ってくるのを見て、思わず声を上げて「これは和尚様が来る所ではありません」と言った。功甫がその理由を尋ねると、妻は見たままを答えた。功甫は灯りを呼び寄せ、宣禅師の手紙を見せた。果たして妻は妊娠した。そして生まれた子は宣老と名付けられた。やっと一歳になった時、質問に答える様子は昔のままだった。三歳の時、白雲端和尚がその家を訪れた。功甫が子を呼び出して挨拶させると、宣老は端和尚を見てすぐに師の姪と叫んだ。端が「和尚様と別れてから何年経つ?」と尋ねると、宣老は指を折って「四年です」と答えた。端が「どこで別れたのか?」と聞くと、宣老は「白蓮莊です」と答えた。端が「何が証拠か?」と言うと、宣老は「父様、母様、明日和尚様を食事にご招待します」と言った。突然、門の外で荷車が通る音がした。端が「門の外は何の音だ?」と尋ねると、宣老は荷車を押す仕草をした。端が「通った後はどうだ?」と聞くと、宣老は「平地に一条の溝があります」と答えた。そして、ちょうど六歳の時、病気もなく亡くなった。

海印信和尚嗣瑯瑘桂府人也。住蘇州定慧寺。年八十餘。平日受朱防禦家供養。屢到其宅。一日朱問曰。和尚後世能來弟子家中託生否。師微笑諾之。及歸寺得疾。數日而化。其遷化日。朱家生一女子。圓照本禪師時住瑞光。聞其事往訪之。方出月抱出。一見便笑。圓照喚云。海印爾錯了也。女子哭數聲化去。

海印信和尚は、瑯瑘(ろうや)の法を継がれた方で、桂府の出身である。蘇州の定慧寺に住し、八十歳を超えていた。日頃、朱(しゅ)防禦(ぼうぎょ)という家の供養を受けており、度々その邸宅を訪れていた。

ある日、朱が問いかけた。「和尚様は、来世、私の家に生まれ変わってきてくださいますか。」

師は微笑んでうなずかれた。寺に帰ると病にかかり、幾日も経たないうちに亡くなられた。その遷化(せんげ)された日、朱の家に一人の女の子が生まれた。

当時、円照本禅師は瑞光寺に住しておられたが、この話を聞いて訪ねて行かれた。ちょうど女の子が生後一か月を迎え、抱き出されたところであった。禅師が一目見ると、女の子は笑いかけた。

円照が呼びかけた。「海印よ、お前は間違えたぞ。」

すると女の子は数声泣いて、そのまま息を引き取った。

長蘆福長老。道眼不明。常將所得施利。往上江齋僧。圓通秀禪師聞之。往驗其虛實。適至見福上堂云。入荒田不揀。可殺顢頇。信手拈來草猶較些子。便下座。秀大驚曰。說禪如此。誰道不會。乃謂。諸方生滅。遂躬造方丈禮謁。具說前事。仍請益提唱之語。福依文解義。秀曰。若如此。諸方不謾道。爾不會禪。福不肯。秀曰。請打鐘集眾。有法秀上座在此。與和尚理會。福休去。

長蘆の福長老は、仏の智慧の眼がはっきりしていなかった。彼はいつも、得た布施の利益をすべて使って、長江上流へ行き僧侶たちに食事を施していた。円通の秀禅師はこのことを聞き、その真偽を確かめに行った。ちょうど到着すると、福長老が上堂してこう言うのを聞いた。「荒れた田んぼに入って選り好みせず、まったくいい加減だ。手に任せて雑草を摘まんでも、まだましというものだ。」そう言ってすぐに座を下りた。秀禅師は大いに驚いて言った。「このように禅を説くとは、誰ができないと言えようか。」そして言った。「あちこちの宗派に生滅(区別やこだわり)があるのは問題だ。」そこで自ら方丈を訪ねて礼拝し、先ほどの出来事を詳しく話した。さらに、その提唱(説法)の言葉について教えを請うた。福長老は文句の表面だけを解釈した。秀禅師が言った。「もしそうなら、あちこちの僧が無闇に『あなたは禅を理解していない』と言うのも道理です。」福長老は納得しなかった。秀禅師が言った。「さあ鐘を鳴らして皆を集めてください。ここに法秀上座がいます。和尚様と理屈を明らかにしましょう。」福長老は引き下がった。

和州開聖覺老。初參長蘆夫鐵脚。久無所得。聞東山五祖法道。徑造席下。一日室中垂問云。釋迦彌勒猶是他奴。且道。他是阿誰。覺云。胡張三黑李四。祖然其語。時圓悟和尚為座元。祖舉此語似之。悟云。好則好。恐未實。不可放過。更於語下搜看。次日入室垂問如前。覺云。昨日向和尚道了。祖云。道什麼。覺云。胡張三黑李四。祖云。不是不是。覺云。和尚為甚昨日道是。祖云。昨日是今日不是。覺於言下大悟。覺後出世住開聖。見長蘆法席大盛。乃嗣夫不原所得。拈香時忽覺胸前如擣。遂於痛處發癰成竅。以乳香作餅塞之。久而不愈竟卒。

和州開聖覚老禅師、初めて長蘆の夫鉄脚禅師に参じた。長らく修行したが悟りを得られなかった。東山五祖の法道を聞き、直接その下に参じた。ある日、方丈で問われた。「釈迦も弥勒も、まだ彼の奴だ。さあ、彼とは誰か。」覚禅師答えた。「胡張三、黒李四。」五祖はその言葉を認めた。その時、円悟禅師が首座だった。五祖がこの話をすると、円悟禅師は言った。「良いのですが、まだ確かではありません。見逃してはいけません。さらに、言葉の意味を探らせるべきです。」翌日、再び方丈で同じ問いがあった。覚禅師が「昨日、和尚に申し上げました。」と言うと、五祖は「何と言った?」と尋ねた。覚禅師が「胡張三、黒李四。」と答えた。五祖は「違う、違う。」と言った。覚禅師は「和尚はどうして昨日は正しいと言い、今日は違うと言うのですか?」と問うた。五祖は「昨日は正しかったが、今日は違う。」と言った。覚禅師はこの言葉で大悟した。その後、覚禅師が開聖寺に住持として出た時、長蘆の法席が大いに盛んなのを見て、師である夫鉄脚禅師を嗣ぎ、自身の悟りの源を顧みなかった。香を焚く時、突然胸を打たれるような感覚があり、痛む場所に腫れ物ができて穴が開いた。乳香を練って団子にし、それを塞いだ。長く治らず、遂に亡くなった。

王荊公。一日訪蔣山元禪師。坐間談論品藻古今。山曰。相公口氣逼人。恐著述搜索勞役。心氣不正。何不坐禪體此大事。公從之。一日謂山曰。坐禪實不虧人。余數年要作胡笳十八拍不成。夜坐間已就。山呵呵大笑。

ある日、王荆公(王安石)が蔣山元禪師を訪ねました。座敷で古今の人物や作品について批評し合っていると、元禪師が言いました。「あなた様のお言葉は威圧的で、恐らく著作のために心を酷使され、気が乱れておられます。どうか坐禪をして、この大事なことを悟られてはいかがでしょうか。」王荆公はその言葉に従いました。

後日、王荆公が元禪師に言いました。「坐禪は確かに無駄にはなりませんね。私は數年の間、『胡笳十八拍』の詩を作ろうとしてできませんでしたが、昨晩坐禪しているうちに、自然と出來上がってしまいました。」元禪師はそれを聞いて、大笑いされました。

王荊公。一日問張文定公曰。孔子去世百年生孟子。亞聖後絕無人何也。文定公曰。豈無人。亦有過孔孟者。公曰誰。文定曰。江西馬大師坦然禪師。汾陽無業禪師。雪峯巖頭丹霞雲門。荊公聞舉意不甚解。乃問曰。何謂也。文定曰。儒門淡薄。收拾不住。皆歸釋氏焉。公欣然嘆服。後舉似張無盡。無盡撫几嘆賞曰。達人之論也。

王介甫(王安石)がある日、張文定公に尋ねました。 「孔子が亡くなって百年後に孟子が生まれました。亜聖と称されるほどの人物がその後、全く現れないのはなぜでしょうか。」 張文定公が答えました。 「いや、人がいなかったわけではありません。孔子や孟子を超える者さえいたのです。」 介甫が「それは誰ですか」と問うと、文定公は言いました。 「江西の馬大師、坦然禅師、汾陽の無業禅師、雪峯、岩頭、丹霞、雲門です。」 これを聞いても介甫はその意味がよくわからず、「それはどういうことですか」と尋ねました。 文定公が言いました。 「儒教の世界は味わいが薄く、優れた人々を引き留めておくことができず、彼らは皆、仏教の世界へと帰していったのです。」 これを聞いて介甫は心から感嘆し、敬意を表しました。後にこの話を張無尽に伝えたところ、無尽は几を叩いて称賛し、「これはまさに達人の見解だ」と言ったということです。

任觀察。內貴中賢士 徽廟極眷之。任傾心釋氏。遍參知識。每自嘆息曰。余幸得為人。而形體不全。及不識所生父母。想前世輕賤於人。招此報應。遂發誓。遇休沐還私宅。屏絕人事。炷香禮佛。刺血寫華嚴經一部。每一字三拜。願來世識所生父母。忽一日有客相訪。任出遲。客怒云。人客及門。何故不出。任笑曰。在家中寫一卷赦書。客詰其故。任以實對。遂取經示之云。此是閻老子面前。喫鐵棒吞鐵丸底赦書。客悚然驚駭。回舍亦自寫一部。

ある高官の任觀察は、身分の高い者や賢者を大切にする人で、徽宗皇帝からも大いに寵愛を受けていた。彼は深く仏教に帰依し、多くの高僧を訪ねて教えを請うた。そしてよく嘆息して言った。「私は幸いにも人間に生まれたが、身体に障害があり、両親が誰かも知らない。これは前世で人を軽んじた報いであろう。」そうして誓いを立てた。休暇のたびに自宅に戻ると、俗世の付き合いを断ち、香を焚いて仏に礼拝し、自らの血で『華厳経』一部を書き写した。その一字ごとに三度礼拝し、来世では両親を知ることができますようにと祈った。

ある日、突然客が訪ねてきた。任觀察が出てくるのが遅れたため、客は怒って言った。「客が来ているのに、なぜ出てこないのか。」任は笑って答えた。「家で一卷の赦書を書いていましたので。」客がその理由を問いただすと、任は正直に事情を話し、経典を取り出して見せながら言った。「これは閻魔大王の前で、鉄の棒を食らい、鉄の丸を呑むのを免れる赦書です。」客は驚愕し、家に帰って自分も一部を写経したということである。

五祖演和尚。依舒州白雲海會端和尚。咨決大事深徹骨髓。端令山前作磨頭。演逐年磨下收糠麩錢解典出息。雇人工及開供。外剩錢入常住。每被人於端處鬪諜是非云。演逐日磨下飲酒食肉。及養莊客婦女。一院紛紜。演聞之故意買肉沽酒。懸于磨院。及買坯粉。與莊客婦女搽畫。每有禪和來遊磨院。演以手與婦女椰榆語笑。全無忌憚。端一日喚至方丈問其故。演喏喏無他語。端劈面掌之。演顏色不動。遂作禮而去。端咄云。急退却。演云。俟某算計了請人交割。一日白端曰。某在磨下除沽酒買肉之餘。剩錢三百千入常住端大驚駭。方知小人嫉妬。時秀圓通為座元。受四面請。即請祖為第一座。

五祖演和尚は、舒州白雲山・海會寺の端和尚のもとで修行し、悟りの大事を決し、その教えを身の骨の髄まで深く会得した。ある日、端和尚は演和尚に山の前の水車小屋の管理を命じた。演和尚は毎年、米を挽く際に出る糠や籾殻を売った金をため、それを元手に金貸しをして利息を得ては、人を雇う賃金や日々の食料費にあて、残った金はすべて寺に納めた。しかし、人々はしばしば端和尚のもとへ行き、演和尚の悪口を吹き込んだ。「演は毎日、水車小屋で酒を飲み、肉を食い、さらには小作人の女たちを囲っています。寺はすっかり乱れています。」演和尚はこれを聞くと、わざと肉や酒を買い、それを水車小屋に吊るしてみせた。また、白粉や紅を買い求め、小作人の女たちに化粧をさせた。遊行僧(禅僧)が水車小屋に訪ねてくるたびに、演和尚は手をとって女たちとふざけ合い、笑い声をあげ、まったく恐れる様子がなかった。ある日、端和尚は演和尚を方丈に呼び、その理由を問いただした。演和尚は「はい、はい」と答えるだけで、他に何も言わなかった。すると端和尚は、いきなり演和尚の顔を平手で打った。演和尚は顔色一つ変えず、ただ礼をして去っていった。端和尚は「急いで出て行け!」と叱った。演和尚は「私が計算を済ませて、引き継ぎをする人が来るのを待ってください」と言った。ある日、演和尚は端和尚に申し出た。「私は水車小屋で働き、酒や肉を買った残りの金で、三百貫(約三百万文)を寺に納めました。」端和尚は大いに驚き、初めて小人たちの嫉妬による中傷だったと悟った。その時、圓通和尚(秀)が首座(修行僧のまとめ役)を務めていたが、四面寺からの招請を受けて住持となることになり、祖(演和尚)に第一座(首座の次の位)を依頼した。

湛堂準和尚。因讀孔明出師表。悟得做文章。有羅漢供疏云。梵語阿羅漢。此云無生。出三界二十五有塵勞。超分段生死。受如來付囑。應供天人。福利一切群情。檀越宜興供養。又作水磨記云。泐潭山。即馬祖大寂禪師。昔與禪者輩選佛大道場。雖年代深遠。而佛法未甞遠也。但其間善知識。所見不同互有高下。故有遠矣。如僧問馬祖如何是佛。曰即心是佛。故觀其所以。即知眾生本來成佛無有高下。其高下在人不在法也。而況末代有我說法者。是故選佛求師。不得不審也。大宋元符戊寅歲。有漢中沙門意忠上座。尋師訪道。選佛參禪。干木隨身逢場作戲。然其場也戲乎一時。以其功也利益千古。於是革其舊制。郢人猶迷。徇器投機。變通在我。豈以繩墨拘其大猷。而為古人規矩之所限哉。是謂有子不可教。其可教者語言糟粕也。非心之至妙。其至妙之心在我。不在文字語言也。縱有明師密授。不如心之自得。故曰得之於心。應之於手。皆靈然心法之妙用也。故有以破麥也即為其磑。欲變米也即為其碾。欲取麵也即為其羅。欲去糠也即為其扇。而規模法則。總有關棙。消息既通。皆不撥而自轉。以其水也。一波纔動。前波後波波波應而無盡。以其磑也。一輪纔舉。大輪小輪輪輪運而無窮。由是上下相應。高低共作。其妙用也出乎自然。故不假人力之所能為。而奇絕可觀。玄之又玄。然後左旋右轉。竪去橫來。更相擊觸出大法音。皆演苦空無常無我諸波羅蜜。而聞者聞其心。見者見其性。以至嗅甞知覺。盡獲法喜禪悅之樂。又何即以米麵諸所須物。供香積厨而為二膳。飽禪者輩往來選佛者歟。

湛堂準和尚は、諸葛亮の「出師表」を読んで文章の書き方を悟った。彼が書いた羅漢供養の疏にはこうある。「梵語で阿羅漢とは、この世界でいう『無生』のこと。三界と二十五有の煩悩を超え、分断された生死を超越し、如来の付託を受け、天や人の供養に値し、すべての生きとし生けるものに福徳をもたらす。施主は進んで供養をなすべきである。」

また、水磨の記にはこう記されている。「泐潭山は、昔、馬祖大寂禅師が修行者たちと共に仏の道を選ぶための大道場としたところである。時代は遠く過ぎ去ったが、仏法自体は決して遠くなったわけではない。ただ、そこにいた善知識たちの見解がそれぞれ異なり、優劣があったがゆえに、遠くなったのである。例えば、ある僧が馬祖に『仏とは何か』と問うたところ、『その心がそのまま仏である』と答えた。このことからわかるように、すべての衆生はもともと仏そのものであり、優劣などない。優劣があるのは人であって、法にあるのではない。ましてや末法の世において、我ありと説く者があればこそ、仏を選び師を求める際には、慎重に選ばねばならない。

大宋の元符元年(1098年)、漢中から意忠上座という僧が来て、師を尋ね道を訪れ、仏を選び禅を參究した。材木を身に帯び、場に臨んでは即興の技を披露した。その場の技は一時のものではあるが、その働きは千古に利益をもたらす。そこで彼は古い仕組みを改めたが、郢の人々はなお迷っていた。しかし、器に従い機に投じ、変化を通じて自在に働くこと、どうして規矩がその大いなる道を拘束できようか。古人の規格に限られるものでもない。これこそ『教えても仕方がない弟子』というものだ。教えられるものは言葉の糟粕に過ぎず、心の極めて妙なる道理ではない。その極めて妙なる心は我が内にあり、文字や言葉にあるのではない。たとえ明師が秘伝を授けようとも、心が自ら得るには及ばない。故に『心に得て、手に応ず』と言う。すべては霊妙な心法の働きである。

そこで、麦を割るためには磨き臼を作り、米に変えるためには碾き臼を作り、粉を得るためには篩いを作り、糠を取り除くためには扇風機を作った。そして、その仕組みや法則にはすべて要となる仕掛けがあり、道理が通じれば、どれも手を触れずに自ら回転する。水の働きは、一つの波が動けば、前の波も後の波も、波という波が尽きることなく応じる。磨き臼の働きは、一つの輪が回り始めれば、大きな輪も小さな輪も、輪という輪が限りなく運転する。かくして上下が呼応し、高低が共に働く。その妙なる働きは自然のままに現れるので、人の力を借りずに成し遂げられ、その不思議な様は見事である。玄妙のまた玄妙である。

そして、左に旋り右に回り、縦に去り横に来て、互いに打ち合い、大きな法の音を発する。すべては苦、空、無常、無我、そして諸々の波羅蜜を説き、聞く者はその心を聴き、見る者はその性を見る。嗅ぎ、味わい、触れ、知るすべての感覚が、法悦と禅悦の楽しみを満喫する。さらに、米や粉など、必要なものを香積厨に供え、膳として、修行者たちや往来して仏を選ぶ者たちを飽かせるのである。」

師云。今時兄弟。參佛果底。不肯見佛眼。見佛眼底。不肯參佛果。譬如眾盲摸象。豈知二老之意耶。殊不知。佛眼便是有規矩底佛果。佛果便是無規矩底佛眼。若是要為人不瞎人眼。却來見佛果。若秖見佛眼。涅槃堂禪。自救即得。為人即不得。老南會下得底兄弟。便指教見真點胸蓋手段苦辣為人自別也。

師は言われた。「今時の修行者たちは、仏果のもとで参じる者は仏眼に会おうとせず、仏眼のもとで参じる者は仏果に参じようとしない。あたかも大勢の盲人が象を撫でるようなもので、どうして二人のお考えが分かるはずがあろうか。しかし、実は仏眼とは規則のある仏果であり、仏果とは規則のない仏眼なのである。もし、人を導いてその目を曇らせないようにするなら、仏果のもとへ来なさい。もし仏眼だけに会っているなら、それは涅槃堂の禅であり、自分を救うことはできても、人を救うことはできない。老南の会下で悟りを得た兄弟たちは、直接、真点胸に教えを請うように指示された。その手口は苦く辛いものであり、人を導くやり方もまた自ずから異なっているのだ。」

師一日云。今時參禪人。如蠅子相似。有些腥羶氣味便泊。須是從頭與他拈却到無氣味處泊在。平地上從上來作家宗師能為人。惟睦州。見爾有坐地處。便剗却。從頭秖是剗將去。

ある日、師が言いました。「最近の参禅者は、まるで蠅のようなものだ。少しでも生臭い匂いがすると、すぐにたかってしまう。しかし、本当は徹底的にそれを取り除いて、匂いのまったくないところでこそ、落ち着くべきなのだ。平らな地で、昔からの優れた師匠たちは、人のために尽くすことができた。中でも睦州は、あなたに座る場所があると見れば、すぐにそれを削り取り、ひたすら削り続けた。」

又一日云。宗師為人。只不得有落地處。若有落地處。便被學家在面前行也。

ある時、老師はこう言った。「宗師が人を導く時は、決して足をつける場所(固定された教えや立場)を持ってはならない。もし足をつける場所があれば、弟子たちはその前を行ったり来たりする(自由に動けなくなってしまう)のだ。」

一日又云。爾但灰却心念來看。灰來灰去。驀然冷灰。一粒豆爆在爐外。便是沒事人也。

あるとき、師はまたこう言いました。

「お前はただ、心の中で思うことを灰になってしまうまで焼き尽くして、それをじっと見つめてみなさい。灰を焼き、さらに焼き続けていると、突如として冷えた灰の中から、ひと粒の豆が炉の外にはじけ飛ぶようにして出てくる。その時こそ、お前はもう何の心配もない人になるのだ。」

師在寶峯時元首座極見喜。一日請假往謁李商老。云一月日便歸。後四十日方歸。元見遽云。噁野了也。無常迅速。師不覺汗下。

師が宝峯にいたとき、元首座はたいへん師を気に入っていました。ある日、師が休暇をとって李商老を訪ねに行くことにしました。「一ヶ月で戻ります」と言って出かけたのですが、実際には四十日経ってから帰ってきました。元首座は師を見るなりすぐに言いました。「ああ、駄目だな。無常はあっという間に迫っているのに」と。師は思わず汗をかきました。

師因讀洞山悟道頌。遂疑云。有箇渠。又有箇我。成什麼禪。遂請益湛堂。堂云。爾更舉看。師遂舉。堂云。爾舉也未會。便推出。

師が洞山の悟道頌を読んで、疑問に思った。「『かれ』があり、『わたし』もある。それでどうして禅と言えるのか」と。そこで湛堂に教えを請うた。湛堂が言うには「もう一度あげてみよ」。師がその通りにすると、湛堂は言った。「お前はあげただけで、まだわかっていない」と言って、彼を押し出した。

圓悟云。達磨西來將何傳授。師云。不可總作野狐精見解。又問。據虎頭收虎尾。第一句下明宗旨。如何是第一句。師云。此是第二句。

円悟が問うた。「達磨が西から来た時、何を伝え授けたのか。」師は答えた。「それをすべて野狐の精のような見解にしてはいけない。」また問うた。「虎の頭を押さえ、虎の尾を収め、第一句の下で宗旨を明らかにする。では、第一句とは何か。」師は答えた。「それは第二句である。」

師一日云。我這裏無逐日長進底禪。遂彈指一下云。若會去便罷參。乃云。今時一般宗師為人。入室三五。遍辨白他不出。却教他說悟處。更問。爾見處如何。學人云。某見處說不得。却云。爾說不得。我如何見得爾去。若恁麼地。如何為人。不見泉大道。到慈明。明云。片雲生谷口。遊人何處來。泉云。夜來何處火。燒出古人墳。明云。未在更道。泉便作虎聲。明便打一坐具。泉推明向禪床上。明却作虎聲。泉云。我見八十四人善知識。惟師繼得臨濟宗風。看他恁麼問答數句子。那裏便是見他處。須是如此始得。

師がある日、こうおっしゃいました。「私のところには、日々成長していくような禅などはない。」そして指をパチンと鳴らして言われました。「もし悟ったなら、それで修行は終わりだ。」

さらに続けて言われました。「今時のいわゆる師というものは、人を指導する際に、何度も何度も室に入って問答を繰り返すが、善悪の区別さえもはっきりできない。それでいて、学人に悟ったところを言わせようとし、『お前の見解はどうだ』と尋ねる。学人が『私の見解は言葉では言えません』と言うと、師は『お前が言えないのなら、どうしてお前のことを私が理解できるのか』と言う。そんなやり方で、どうして人を導けるだろうか?」

「泉大道が慈明のもとを訪れた時の話をご覧なさい。慈明が『一片の雲が谷口に湧き起こる。旅人はどこから来たのか』と問うた。泉は『夜中にどこかで火が起こり、古人の墓を焼き出した』と答えた。慈明は『まだだ、さらに言え』と言った。泉は虎の声を真似た。すると慈明は坐具で泉を打った。今度は泉が慈明を押し倒して禅床に乗せた。慈明はそれに応じて虎の声をあげた。泉は言った『私は八十四人の善知識に会ってきましたが、先生だけが臨済宗の風を継いでおられます』と。ああいった問答の数々を見なさい。それこそが、彼の悟りを目の当たりにした場面なのだ。このような応答こそが、真のあり方なのだ。」

師云。山僧待人志誠。須是資質是始得。此是一超直入如來地。參禪須是直心直行直言直語。心言直故。始終地位中間。永無諸委曲相。祖師西來直指人心見性成佛。僧問雲門。如何是佛。門云。乾屎橛。擬議思量已曲了也。何況脫空耶。

師が言った。「山僧は、人に対して真心を尽くす。その者に素質があって初めて成就できるのだ。これは一挙に如来の境地に直入する道である。参禅には、直心・直行・直言・直語がなければならない。心と言葉が真っ直ぐであるから、修行の始めから終わりまで、その間には一切の歪んだ相がない。祖師が西から来たのは、人の心を直指し、性を見て仏となるためである。

ある僧が雲門に問うた。『仏とは何か』。門は答えた。『乾いた屎の棒だ』。考えたり、思いめぐらしたりすれば、すでに歪んでしまっている。ましてや、嘘いつわりを弄するなど、なおさらのことである。」

因無礙。請師讚法海真。乃曰。上江老宿。大段笑下江。雲門下却不笑覺印。蓋他曾見保寧勇真淨輩來。兼圓通曾見舜老夫浮山遠。所以較別。如大小本夫鐵脚輩。皆可笑也。蓋法海嗣覺印。印嗣圓通。其辭曰。廓圓通門續雲門派。燕坐胡床虎視百怪。佩毘盧印摧伏魔外。一句當陽電光非快。不動道場而入三昧。贊之毀之俱遭白癩。夫是之謂法海老人。能於一毫端。而遊戲無邊之法界。圓通甞在端和尚處作首座。受四面請。其時演和尚在海會作磨頭。遂交代作首座。圓通遷棲賢。而演和尚交代住持四面也。端和尚甞頌古有一句云。日出東方夜落西。圓通改夜字作定字。端笑而從之。

因無礙が法海禅師の真賛を求めた。そこで(師は)次のように語った。「上江の老宿は、大いに下江の僧を笑うものだ。しかし雲門下は覚印を笑わない。なぜなら、彼はかつて保寧勇と真浄輩に会っていたからである。また、円通は舜老夫や浮山遠に会っていた。そのため、違いがあるのだ。大小本や夫鉄脚のような連中は、みな笑うべき者たちだ。なぜなら、法海は覚印を嗣ぎ、覚印は円通を嗣いだからである。その賛辞にはこうある。『円通の門を広く開き、雲門の法統を受け継ぐ。胡床に座し、虎のようにあらゆる怪異を見下す。毘盧の印を身に帯び、魔や外道を打ち負かす。一句が目前に示される時、雷光よりも速い。動かざる道場のまま三昧に入る。これを賛美するも誹るも、共に白癩にかかる。これこそを法海老人という。一毛の先において、無辺の法界に遊戯することを得る。』 円通はかつて端和尚のもとで首座となり、四面山の招請を受けた。その時、演和尚は海会寺で磨頭をしており、交代で首座となった。円通が棲賢に移ると、演和尚が交代で四面山の住持となった。端和尚はかつて頌古の中で『日出東方夜落西』という一句を詠んだ。円通は『夜』の字を『定』の字に改めるよう提案し、端和尚は笑ってこれに従った。」

五祖和尚一日云。我這裏禪似箇什麼。如人家會作賊。有一兒子一日云。我爺老。後我却如何養家。須學箇事業始得。遂白其爺。爺云。好得。一夜引至巨室。穿窬入宅。開櫃乃教兒子入其中取衣帛。兒纔入櫃。爺便閉却復鎖了。故於聽上扣打令其家驚覺。乃先尋穿窬而去。其家人即時起來。點火燭之知有賊。但已去了其賊兒在櫃中私自語曰。我爺何故如此。正悶悶中。却得一計作鼠咬聲。其家遣使婢點燈開櫃。櫃纔開。賊兒聳身吹滅燈推倒婢走出。其家人趕至中路。賊兒忽見一井。乃推巨石投井中。其人却於井中覓。賊兒直走歸家問爺。爺云。爾休說。爾怎生得出。兒具說上件意。爺云。爾麼儘做得。

五祖和尚がある日、こう言いました。「我が禅、何に譬えようか。譬えれば、盗人を家業とする者がいた。その息子が言った。『父も年を取った。この先、どうやって家計を支えていけばいいのか。何か技を身につけねばなるまい。』そう言って父に相談した。父は『よかろう』と応じた。ある夜、大きな家に連れて行き、壁に穴を開けて中に入り、櫃を開けて息子に『中に入って着物や絹を取り出せ』と言った。息子が櫃に入ると、父は櫃の蓋を閉めて鍵をかけ、そして玄関先で叩き音を立てて家人に気づかせ、先に壁の穴から逃げ去った。家人はすぐに起き出し、火を灯して調べ、盗人が来たことを知ったが、すでに逃げた後だった。その盗人の子は櫃の中に閉じ込められ、ひとりごちた。『なぜ父はこんなことをするのか』。困り果てているうちに、一計を思いついた。鼠の噛む真似をした。家人は女中に火を灯させて櫃を開けさせた。櫃が開くと、盗人の子は身をひるがえして火を吹き消し、女中を押し倒して外へ逃げ出した。家人が途中まで追いかけて来た。すると盗人の子は井戸を見つけ、大きな石を井戸に投げ込んだ。追手はその音を聞いて井戸の中を探した。盗人の子はその隙に家にまっすぐ逃げ帰り、父に尋ねた。父は言った。『まあ言うな。どうやって出られたのか』。息子が一部始終を話すと、父は言った。『お前なら、もう十分やれる』。」

師云。圓通秀禪師因雪下云。雪下有三種僧。上等底僧堂中坐禪。中等磨墨點筆作雪詩。下等圍爐說食。予丁未年冬在虎丘。親見此三等僧。不覺失笑。乃知前輩語不虛耳。

師が言った。圓通秀禅師が雪の降る中でこう言った。「雪が降る中に三種の僧がいる。上等の僧は堂内で坐禅をする。中等の僧は墨をすり筆をとって雪の詩を作る。下等の僧は囲炉裏を囲んで食べ物の話をする。」

私は丁未年の冬、虎丘でこの三種の僧を実際に目にし、思わず笑ってしまった。そして先輩の言葉が偽りでないことを知ったのである。

五祖和尚。初參圓照禪師。會盡古今因緣。惟不會僧問興化。四方八面來時如何。化云。打中間底。僧禮拜。化云。我昨日赴箇村齋。至中路被一陣狂風暴雨。却向古廟裏嚲得過。遂請益照。照云。此是臨濟門風。爾去問他兒孫。祖遂來參浮山遠。請益此公案。遠云。有箇譬喻。恰似箇三家村裏賣柴漢。夯一條匾擔了。却問中書堂今日商量甚事。祖云。恁地時大段未在。浮山遠既年尊耳聵。遂指教參一箇小長老。乃白雲端也。老僧雖不識他。見他頌臨濟三頓棒因緣。見得淨潔。可往咨決。祖從之。真淨一日謂老黃龍云。白雲端頌臨濟三頓棒。與某甲見處一般。南云。爾如何會他底。淨便舉頌。龍喝云。白雲會。爾不會。

五祖和尚は、初め圓照禅師に参じた。古今の因縁(公案)をすべて会得していたが、ただ一つ、ある僧が興化に「四方八面から来た時はどうすべきか」と問い、興化が「真ん中を打て」と答えた公案だけは理解できなかった。その僧が礼拝すると、興化は言った。「私は昨日、ある村の斎(食事)に招かれ、途中で激しい暴風雨に遭い、古い祠の中に逃げ込んでやり過ごしたのだ」。そこで五祖は圓照にこのことを問うた。圓照は言った。「これは臨済の門風だ。彼の子孫に問いなさい」。五祖はそこで浮山遠に参じて、この公案について教えを請うた。

浮山遠は言った。「たとえ話がある。ちょうど、三家村(小さな村)の薪売りが、一本の天秤棒を担いで、『中書堂(政府の会議所)では今日、何を議論しているのか』と尋ねるようなものだ」。五祖が「そういうことでしたら、まだ全く至っておりません」と言うと、浮山遠は老齢で耳が遠かったため、ある小さな長老(若い老師)に参じるよう指示した。それが白雲端である。「老僧は彼を知らないが、彼が臨済三頓棒の因縁を頌したのを見るに、清らかに見透かしている。そちらで決断されよ」。五祖はその言葉に従った。

ある日、真淨が老黄龍に言った。「白雲端が頌した臨済三頓棒は、私の見解と同じです」。黄龍が「お前はどうやって彼のを理解したのか」と問うと、真淨がその頌を挙唱した。黄龍は喝して言った。「白雲は会得している。お前は会得していない」。

圓悟和尚。請益五祖。臨濟四賓主怎生。祖云。也秖箇程限。是什麼閑事。祖云。我這裏恰似馬前相撲。倒便休。

圓悟和尚が五祖に教えを乞うて、「臨済の四賓主とはどのようなものですか?」と尋ねたところ、五祖はおっしゃった。「ただそれだけの段取りだ。何の暇なことか。」そして続けて、「わしのところでは、まるで馬の前での相撲のようなものだ。倒れたらそれで終わりだ。」と言った。

佛鑑平時參平實禪。自負不肯五祖。乃謂。秖是硬移換人。圓悟云。不是這道理。有實處爾看。我從前豈有恁麼說話來。徐徐稍信。後來因舉。森羅及萬象。一法之所印。驀然便道。祖師西來直指人心見性成佛。于今諸方多是曲指人心說性成佛。

仏鑑禅師が平時に平実禅を参じていた頃は、自己過信から五祖を認めようとせず、「ただ無理やり人の心を移し替えるだけだ」と言っていた。ところが圓悟禅師は「そういう道理ではない。確かな実りがあるのだ。よく見なさい。私がこれまでそのような話をしたことがあったか」と諭し、徐々に彼も納得するようになった。その後、ある時「森羅万象、すべて一つの法に印される」という句が挙げられると、仏鑑ははっと気づいて言った。「祖師が西から来られたのは、直指人心・見性成仏のためである。しかし今や諸方の老師方は、多くが曲指人心・説性成仏をしている」と。

圓悟在五祖時。祖云。爾也儘好。只是有些病。悟再三。請問不知某有什麼病。祖云。只是禪忒多。悟云本為。參禪因什麼却嫌人。說禪祖云。只似尋常說話時。多少好。時有僧便問。因甚嫌人說禪。祖云。惡情悰。

圓悟が五祖のもとにいた時のこと。五祖が言った。「お前の出来は申し分ない。ただ、少し病がある。」 圓悟が何度も重ねて尋ねた。「はっきりと申し上げますが、私にはどのような病があるのでしょうか。」 五祖が言った。「ただ、禅が多すぎるのだ。」 圓悟は言った。「もともと、禅を参究するために修行しているのに、なぜ人に禅の話をするのを嫌うのですか。」 五祖が言った。「ただ、普段の何気ない会話のように話せば、どんなに良いだろうに。」 その時、ある僧が尋ねた。「なぜ人に禅の話をするのを嫌うのですか。」 五祖が言った。「好ましくないからだ。」

五祖一日。問圓悟無縫塔話。悟罔然。直從方丈隨至三門方道得。祖云。爾道得也。悟云不然。暫時不在。便不堪也。

ある日、五祖法演禅師が圓悟克勤に「縫い目のない塔」の公案について質問した。圓悟は言葉を失い、そのまま方丈から寺の三門まで師に付き従ってようやく答えを口にした。五祖が言った。「お前は答えられたな。」圓悟が言った。「いいえ、そうではありません。ほんの一瞬でも自己を見失えば、もう用をなさないのです。」

師因入室退閑坐。忽云。今時兄弟。知見情解多。須要記閑言長語來這裏答。大似手中握無價摩尼寶珠。被人問爾手中是什麼。却放下拈起一箇土塊。可殺癡。若恁麼。參到驢年也不省。

師が部屋に入ろうとして、退出してゆったりと座っていた。ふと言った。

「今時の修行者たちは、分別や解釈が多すぎる。つまらない言葉や余計な話を覚えてきて、ここで答えたがる。

それはまるで、手に無価の摩尼宝珠(まにほうじゅ)を持っているのに、誰かが『その手にあるものは何か』と尋ねられると、それを置いて、代わりに土くれをつかみ上げるようなものだ。まったく愚か極まりない。

もしそんな風に修行するならば、どんなに年月を重ねても悟ることはできないだろう。」

師一日云。我這裏無法與人。秖是據款結案。恰如將箇琉璃瓶子來。護惜如什麼。我一見便為爾打破。爾又將得摩尼珠來。我又奪了。見爾恁地來。我又和爾兩手截了。所以臨濟和尚道。逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。爾且道。既稱善知識。為什麼却要殺人。爾且看。他是什麼道理。而今兄弟。做工夫不省這箇。過在何處。只為要去明他。且如恁麼也不得不恁麼也不得恁麼不恁麼總不得。作麼生是爾將一轉語便去明得麼。永明他不得。古人忒殺直截。爾不肯去直截處行。秖為分明極。翻令所得遲。

師はある日、こう言われました。「私のところには、人に与えるような『法』など何もない。ただ、事実に基づいて片をつけるだけだ。例えば、誰かがガラスの瓶を持ってきて、それをまるで宝物のように大事にしていたとする。私はそれを見たらすぐに壊してしまう。また、誰かが摩尼宝珠を持ってきても、私はそれを奪い取る。お前がそんなふうにやって来たら、私はお前の両手を切り落としてしまう。だからこそ、臨済和尚は『仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺せ』と言ったのだ。さあ、お前に尋ねる。いわゆる善知識でありながら、なぜ人を殺すのか。よく考えてみよ、彼の真意はどこにあるのか。

今どきの修行者たちは、この意味を悟らずに修行している。その誤りはどこにあるのか。ただ、あれを明らかにしようとしているだけだ。例えば、『こうするのも駄目、こうしないのも駄目、こうもしないのも駄目、すべて駄目だ』と言う。お前が一つの言葉を投げかけて、それで明らかにできると思っているのか。永明禅師もそれでは明らかにできなかった。古の人はとても直截だった。お前たちは、その直截な道を歩もうとしない。ただ、あれをはっきりさせようとするあまり、かえって悟りが遅れてしまうのだ。」

師一日云。我平生好罵人。因看玄沙語錄。大喜他勘靈雲。道諦當甚諦當。敢保老兄未徹在可謂壁立萬仞。後來與靈雲說話了。却云。爾恁麼方始是徹。後頭却恁麼撒屎撒尿。却問圓悟如何。悟笑云。他後頭却恁麼地。我也理會不得。遂下來歸到寮。方知玄沙大段作怪。遂舉似圓悟。悟笑云。且喜爾知。晦堂云。今時諸方。多是無此藥頭。師云。切忌外人聞此麁言。

ある日、老師が言った。「私は生涯、人を厳しく叱ることが好きだった。しかし、玄沙の語録を読んで、彼が霊雲を問い詰めた話に大いに喜んだ。『お前の言い分は確かにその通りだ。しかし、私はあえて言う、兄貴はまだ悟っていない』と。これはまさに、切り立った崖のように峻厳だ。その後、霊雲と話をしてから、『お前がそうやって初めて悟ったのだ』と言い、後になってそんなふうに糞尿をまき散らすようなことを言った。そこで圓悟にどう思うか尋ねると、圓悟は笑って『彼は後でそう言ったが、私にも理解できない』と言った。老師は下りて自分の部屋に戻り、そこで初めて玄沙が大いに遣り手だと気づき、圓悟にそのことを話した。圓悟は笑って『あなたがそれを理解できて良かった』と言った。晦堂が言うには『今時の各地の老師たちは、こういった薬の種を持っていないことが多い』と。老師は言った『くれぐれも、他者がこの粗野な言葉を聞かぬように』と。」

師因見老宿上堂云。我在老師會中。得箇末後句。不免布施大眾。良久云。不與萬法為侶者。是什麼人。待汝一口吸盡西江水。即向汝道。便下座。師云。山僧即不然。我在老師會中得箇末後句。不免舉似大眾。便下座。

師がある老師の昇座を見て言った。「私は老師のもとで修行していた時に、ある最後の一句を得ました。どうしても皆さんにお伝えせねばなりません。」しばらく間を置いて言った。「『あらゆる現象と共に在らない者』とは、どんな人物でしょうか。『汝が一気に西江の水を飲み干したなら、その時はお前に答えてやろう。』そう言って、その老師は座を下りた。

師は言った。「山僧(私)はそうではありません。私も老師のもとで最後の一句を得ました。どうしても皆さんにこれをお見せせねばなりません。」そう言って、そのまま座を下りた。

洞山寶禪師。嗣五祖戒和尚。廬州人。為人廉謹。甞在五祖主事。戒病令行者往庫司取生薑煎藥。寶叱之。行者白戒。戒令將錢回買。寶方取薑付之。後筠州洞山闕人。郡守以書託戒。舉所知者主之。戒曰。賣生薑漢住得。遂出世住洞山。後移住歸宗。一日扶杖出門。見喝道來問。甚官。吏云。縣尉。令避路。寶側立道左避之。忽見馬跪不行。寶曰。畜生却識人。尉知是寶。再拜而去。復遷雲居。一夜山神肩輿遶寺行。寶云。擡爾爺擡爾娘。擡上方丈去。神復舁歸方丈。寶初行脚時。甞宿旅邸。為倡女所窘。遂讓榻與之睡。寶坐禪明發。倡女索宿錢。寶與之。出門自燒被褥而去。倡女以寶告其父母。遂請歸。致齋以謝。謂其真佛子也。甞作達磨祖師贊。最播叢林。瑯瑘覺和尚和之。今載正法眼藏。一僧問師云。某參禪不得。未審病在甚麼處。師云。病在這裏。僧云。某甲因什麼却參不得。師云。開眼尿床漢。我打爾去。

洞山宝禅師は、五祖戒和尚の法を継いだ方です。廬州の出身で、性格は清廉で慎み深く、かつて五祖のもとで寺務を担当していました。ある時、戒和尚が病気で、侍者に庫房へ行き生姜を取って薬を煎じるように命じましたが、宝禅師はそれを叱りつけました。侍者が戒和尚に告げると、戒和尚は金を持って買いに行かせ、それでようやく宝禅師は生姜を渡しました。 その後、筠州の洞山に住職が不在となり、郡守が手紙で戒和尚に推薦を依頼しました。戒和尚は「あの生姜売りの男が住めるだろう」と言い、宝禅師は洞山の住職として世に出ました。後に帰宗寺に移りました。 ある日、杖をついて門を出ると、役人が道を清めて進むのが見えたので、「どの役人か」と尋ねると、吏が「県尉です」と答え、避けるように求めました。宝禅師は道の脇に立って避けました。ところが突然、馬がひざまずいて進まなくなりました。宝禅師は「畜生が人を見分けるとは」と言いました。尉はこれが宝禅師と知ると、再び礼をして去っていきました。 さらに雲居寺に移りました。ある夜、山神が輿を担いで寺の周りを回っていました。宝禅師は「お前の父を担げ、お前の母を担げ、方丈へ担ぎ上げよ」と言うと、神は再び方丈へと運びました。 宝禅師が初めて修行の旅に出た時、旅館に泊まり、娼婦に困らされました。そこで床を譲って寝かせ、自らは座禅をして明け方を迎えました。娼婦が宿銭を請求すると、宝禅師はそれを払い、門を出てから布団を焼き捨てて去っていきました。娼婦が両親にこのことを伝えると、両親は宝禅師を家に招き、斎を設けて謝罪し、「まことの仏子だ」と称えました。 かつて達磨大師の賛を作り、その詩は叢林で広く知られるようになりました。琅琊覚和尚が和詞を作り、現在は『正法眼蔵』に収められています。 ある僧が師に問いました。「私は参禅しても悟りを得られません。いったいどこに病があるのでしょうか」 師は言いました。「病はそこにある」 僧が言いました。「それではなぜ私は参禅できないのでしょうか」 師は言いました。「目を開けて布団を濡らす奴め。お前を打って追い出してやろう」

懷禪師謂秀圓通曰。元青州慶福建并汝三人。克振吾宗。自餘皆是隨根受道。

懐禅師が秀円通に次のように言いました。「元青州、慶福建、そしてあなたの三人こそ、わが宗門を大いに盛り立てるであろう。その他の者たちは、各々の素質に応じて道を受け継いでいく者たちである。」

兜率悅禪師。在道吾首眾。時老智和尚居雲蓋。悅一日領數十衲子謁智。智與語未及數句。知悅所蘊深淺。笑曰。觀首座氣質不凡。奈何出言吐氣如醉人耶。悅面熱汗下。曰願和尚不吝慈悲。復與語未幾。又錐劄之。悅茫然。遂領其徒咨聞入室。智笑曰。公首眾說法人也。如某聞見不博。何益於公耶。再四懇之。智曰。老僧無福。道不取信於人。脫受首座禮拜。異日定取謗於某。竟不許。乃問悅曰。首座曾見法昌遇禪師否。曰曾看他語錄自了。可以不願見之。又問。曾見洞山文和尚否。曰關西子。沒頭腦。拕一條布裙作尿臭氣。有甚長處。智曰。首座但向尿臭氣參取。悅依教乃往洞山依止。未久深領奧旨。復往見老智。智曰。首座見關西子後。大事如何。悅曰。若不得和尚指示。洎乎蹉過一生。乃焚香禮謝。後出世嗣法洞山。居常誡其徒。敘其雲蓋指見洞山之語。汝等當以師事智和尚也。後智遷寂。是時照禪師住兜率。乃悅之高弟也。智後事盡得照主之。如師資禮。蓋其不忘付囑也。

ある時、兜率悦禅師は道吾寺で首座として大衆を統率していました。老智和尚が雲蓋山に住んでいた時、悦禅師が数十人の修行僧を連れて彼を訪ねました。話を始めて間もなく、智和尚は悦禅師の実力を即座に見抜き、笑って言いました。「首座は気質が並々ならぬお方ですが、どうしてお言葉が酔人のようでいらっしゃるのですか?」これを聞いて、悦禅師は顔を赤らめ、汗をかきました。「和尚様、どうか慈悲をおかけください」と懇願しました。再び話を始めると、智和尚はさらに鋭く問い詰めました。悦禅師は全く見当がつかなくなり、弟子たちを連れて静かに教えを請うために部屋に入りました。すると智和尚は笑って言いました。「あなたは説法を指導するお立場です。私のような者の見聞が浅い者が、あなたのお役に立てるでしょうか?」再三の懇願にも、智和尚は「老僧は福が薄く、人々に信頼される道を説けません。もし首座の礼拝を受ければ、いつか必ずあなたに謗られるでしょう」と、ついに許しませんでした。

そして悦禅師に尋ねました。「首座は、かつて法昌遇禅師にお目にかかったことはありますか?」「彼の語録を読んで自分で悟りました。お会いする必要はありません」「では、洞山の文和尚はご存知ですか?」「あの関西の人間は、頭が悪くて、汚れた布の腰巻きを垂らし、尿のような臭いを放っています。どこに優れた点がありましょう?」これに対し、智和尚は「首座よ、ただその尿の臭いのところで参究しなさい」と言いました。

悦禅師は教えに従い、洞山に赴いて師事しました。間もなく深い奥義を会得し、再び智和尚のもとを訪れました。智和尚が「首座よ、関西のあの方に会われてから、大事の悟りはどうなりましたか?」と問うと、悦禅師は「もし和尚様のご指示がなければ、一生を無駄にするところでした」と答え、香を焚いて礼拝し感謝しました。

その後、悦禅師は世に現れて洞山の法を継ぎました。常に弟子たちを戒め、雲蓋で智和尚に洞山を指し示された言葉を語り継ぎ、「汝らは智和尚を師として敬いなさい」と言いました。後年、智和尚が遷化した時、兜率にいた照禅師は、悦禅師の高弟でした。智和尚の葬儀の一切は照禅師が取り仕切り、師弟の礼を尽くしました。これは、悦禅師の師に対する託された教えを忘れなかったからです。

師一日云。菩薩人眼見佛性。須是眼見始得。

ある日、師が言いました。「菩薩は自らの眼で仏性を見るのです。必ず、眼で見てこそ、本当に得られるのです。」

大慧普覺禪師宗門武庫終

大慧普覚禅師宗門武庫(終わり)


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