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title: "菩薩戒疏隨見錄 · 又"
description: "菩薩戒疏隨見錄由明末高僧蕅益智旭今釋大師造。該書撰於明末佛教復興期是對菩薩戒本的重要註疏。內容系統闡釋梵網經菩薩戒的戒相持犯及深層義理融匯天台與律學思想。其特色在於結合實修以隨見錄形式提挈綱要契理契機。在漢傳佛教中該疏被尊為菩薩戒研究的權威典籍之一對明清以降的戒律實踐與菩薩道弘傳影響深遠為居士菩薩戒的重要理論依據。"
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### 又

> また

譚圓教者。必以華嚴為宗。疏主引之云。初發心住。便成正覺。所有功德。三世諸佛。歎不能盡。而復云。初發心住。證一分三德。破一分無明。是有四十分無明未破也。立一圓鏡。於此方便。畫為四十一分。三德以喻光。無明以喻垢。先破後證。先證後破。不出此一分。則顯一分光。存四十分垢。全成垢鏡。即至地上。半光半垢。安得圓明。若云明體自圓。垢相漸去。則所謂明者解耳。非證也。亦分證耳。非圓證也。方山長者云。十住初位。即十行十向。十地等覺。互相貫通。一位得五十法門。位位中二千五百。總別之義齊現。立一圓鏡。於此一則一現。多則多現。半則半現。滿則滿現。重重涉入。則重重現。人自見其一多半滿。重重現影。而有次第。本鏡圓明。無次第不次第。見八歲龍女。一念成佛。豈於南方無垢世界。猶有分破之無明。若此初住位非圓證。則所謂便成正覺。義亦不合。并所謂初隨喜心。圓聞妙理。一法一切法。一切法一法。非一非一切。起圓信解。而修圓行。一行一切行。其義俱不成矣。且如理則頓悟乘悟併銷。則理尚不存。豈事猶有礙。若有待除之事。仍有未銷之理。此義較然。必無兩立。故方山云。有三種五位十地。一修假詮假智假真如。二修分真分證一分真如。三頓修頓證佛境圓滿真如。如解深密經。但立十地斷惑分劑。仁王經五位十地。從凡漸習。積行多生。或謂。地前斷惑。地上見道。是權教假真如門。涅槃經十住菩薩。少分見性。乃至十地。未能了了。即分修分證真如。瓔珞經菩薩入聖位。但法性流中。心心寂滅。自然流入妙覺大海。此為圓教正宗。而方山尚云。華嚴經意即不然。識滅時亡情塵頓絕。設凡夫住世百年。及以多劫。而於自己。不見須臾可遷。不見當成佛。不見已成佛。不見現成佛。更有何生不成佛。更有何生而成佛。圓覺云。惟除頓覺人。併法不隨順。自非出格悟門。決不信有此沒量大人境界也。

> 円教を語る者は、必ず華厳経を根本とする。疏主（澄観）が引用して言うには、「初発心住の位に至れば、直ちに正覚を成じ、その所有する功徳は、三世の諸仏も称え尽くすことができない」と。さらに、「初発心住において、一分の三徳を証し、一分の無明を破る。しかし、まだ四十分の無明が破られていない」とも述べている。ここに一つの円鏡を立て、その上に便宜的に四十一の区分を描くならば、三徳は光に喩えられ、無明は垢に喩えられる。先に破り後に証する場合も、先に証し後に破る場合も、この一区分を離れることはない。一区分の光が現れると、四十の垢が残り、鏡は全く垢に覆われた状態となる。地上の位に至っても、光と垢が半々であり、どうして円満明瞭であり得ようか。もし「明体は本来円満であり、垢の相は次第に去る」と言うならば、その「明」とは理解のことであり、証悟ではない。また、それは分証であって、円証ではない。方山長者は言う、「十住の初位において、すでに十行・十向・十地・等覚が互いに貫通し、一位において五十の法門を得、位々に二千五百の総別の義が同時に現れる。一つの円鏡を立てれば、一であれば一が現れ、多であれば多が現れ、半であれば半が現れ、満ちれば満ちたものが現れる。重々に互いに入り込めば、重々に現れる。人は自らその一・多・半・満、重々たる影を見るが、そこには次第がある。しかし本鏡の円明には、次第もなければ非次第もない」と。八歳の龍女が一念で仏となったことを見よ。南方の無垢世界において、まだ分け破られるべき無明があるだろうか。もしこの初住の位が円証でないならば、「直ちに正覚を成ず」という意味にも合わない。また、「初随喜心において円満に妙理を聞き、一法は一切法、一切法は一法、一でもなく一切でもないことを知り、円満な信解を起こして円満な行を修め、一行は一切行である」という教えも成立しなくなる。さらに、理においては頓悟し、悟りとともに一切が消え去るならば、理さえも存せず、どうして事に妨げがあろうか。もし除くべき事が残り、まだ消え去らない理があるならば、この意味は明らかであり、両立することは決してない。故に方山は言う、「三種の五位十地がある。一つは、仮の詮・仮の智・仮の真如を修めるもの。二つは、分真・分証の一分真如を修めるもの。三つは、頓修頓証によって仏境の円満真如を修めるもの」と。例えば『解深密経』はただ十地の惑を断つ分限を立て、『仁王経』の五位十地は凡夫から次第に習い、多くの生を積み重ねるものである。あるいは、地前に惑を断ち、地上で見道するのは、権教の仮真如の門であると言われる。『涅槃経』では、十住の菩薩は少分に性を見るが、十地に至ってもまだ明らかでないとされ、これは分修分証の真如である。『瓔珞経』では、菩薩が聖位に入れば、ただ法性の流れの中で心心寂滅し、自然に妙覚の大海に流入するとされる。これが円教の正宗である。しかし方山はさらに言う、「華厳経の意はそうではない。識が滅し、情塵が頓絶すれば、たとえ凡夫が世に百年、あるいは多劫を住しても、自己において一瞬の変化も見ず、成仏すべきものも見ず、すでに成仏したものも見ず、現在成仏しているものも見ない。さらに、どの生において成仏しないことがあろうか。どの生において成仏することがあろうか」と。『円覚経』に言う、「ただ頓覚の人を除いては、法にも随順しない」と。もし並外れた悟りの門でなければ、決してこの測り知れない大人の境界を信じることはできない。