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法華問答 (法華問答)

「法華問答」について

8,878 字 · 約 30 分

『法華問答』は、中国唐代の高僧・湛然によって著された仏教の論疏です。この書は天台宗発展の重要な時期に誕生し、問答形式で『妙法蓮華経』の深遠な教えを解き明かしています。主な内容は、一乗思想・諸法実相・権実二智といった核心的な概念を中心に展開され、修行者が『法華経』に対して抱く多くの疑問に体系的に答えています。この著作は天台教学における重要な補助文献と見なされ、後世の『法華経』と天台哲学の理解に深い影響を与えました。漢伝仏教の経典注釈体系の中でも重要な位置を占め、法華思想と天台止観を研究する上での権威ある典籍の一つです。


法華問答

法華問答

蓮花顯教登聞據顯即異故說無量義經。後方□□□□□□同故十七名中無量義經且法花 問。依於三法而說法花。云何名三法 答。論說依於三法者。一依三昧。謂無量義處三昧。二依器世間。謂天雨四花地六振動。三依眾生世間。謂四眾八部心生歡悅。依此三法而說法花 問。彌勒文殊俱當補處。有何勝劣。一疑一決 答。彌勒是次近當成佛。何以能疑復能何。文殊是分遠過去佛。所以能解復答。雖迹同補處。而實次有高下問 文殊以何智答彌勒問 答。依德以宿命智現見過去二相。謂因相果相。因者謂見自身過去次種種事故。果相者謂見自身過去說種種法故。依此智以答彌勒問也。

蓮華の教えが顕わされ、聞くに値するものとなった。顕教であるがゆえに、そのあり方はそれぞれ異なる。故に『無量義経』が説かれたのである。その後、方々に広まり、その本質は同じであるから、十七の名のうちに『無量義経』があり、また『法華経』がある。

問い:三つの法に依って『法華経』が説かれるというが、その三法とは何か。 答え:論によれば、三つの法に依るという。第一は三昧に依ることで、すなわち無量義処三昧である。第二は器世間に依ることで、すなわち天が四種の花を降らせ、大地が六種に震動することをいう。第三は衆生世間に依ることで、すなわち四衆八部の心に歓喜が生じることをいう。この三法に依って『法華経』が説かれるのである。

問い:弥勒と文殊はともに補処の菩薩とされるが、どのような優劣があるのか。一方は疑いを抱き、他方は決断を下すのはなぜか。 答え:弥勒は次に近く仏となるべき者である。なぜ疑うことができ、またどうして答えられるのか。文殊は遠い過去に仏となった者である。それゆえに理解し、また答えることができるのである。その跡はともに補処と同じであっても、実は次第に高下があるからである。

問い:文殊はどのような智慧をもって弥勒の問いに答えたのか。 答え:その徳に依り、宿命智によって過去の二つの相を現に見るからである。すなわち因相と果相である。因相とは、自身の過去に次々と種々の事を行ったことを見ることをいう。果相とは、自身の過去に種々の法を説いたことを見ることをいう。この智慧に依って、弥勒の問いに答えたのである。

方便品十條 問。方便品五分破二明一。云何五分云何破二明一 答。五分者。一歎妙法功德分。二歎法師功德分。三疑請分。四授記分。五斷疑分。破二明一者。破二乘執明一乘道。何者歎妙法分標所明一。歎師分示能明之人。疑請分即所破之二機。授記分是能破之一道。斷疑分更總定時處。通明機五分略同一乘義現故。曰五分破二明一 問。諸佛智慧甚深無量。何者是智慧何者甚深答。智慧有二種。一一切諸佛如理智。二一切種智。謂如無量智。甚深亦二種。一證甚深。謂理法。二阿含甚深。謂教法阿含。此翻為淨教 問。證明甚深有五。何者是五 答。一義甚深。二實體甚深。三內證甚深。四依止甚深。五無上甚深 問。論說法師功德有四種。何者是四 答。一往成就。謂起眾生機。二教化成就。謂六通身是。三功德畢竟成就。謂智定圓滿。四說成就。謂四辯說法。是名法師四種功德 問。止止不須說者如智慧周萬物慈洽。四生何不當機即說而便唱土以要諸者何 答。洪鐘雖響。必待擊而方鳴。大聖雖慈。亦待請而方說。若請而說。或致自讚之機有情方便令生企道之教 問。示悟入云何著外示答。開是開佛果。謂一切智。示示是佛體。謂真如法身。悟佛障。謂無明煩惱。入是佛圓。謂令入不退地。是名開示悟入著外問。經云若比丘實得阿羅漢。若不信此法無有是處。若示一切聲聞皆應授記。云何決定性聲聞阿羅漢而不授記作佛 答。依佛教故生信。自未解故不記。故上文言信佛悟故隨順此經。非己智分即其證也 問。諸法從本來常自寂滅相者。此一偈顯何法體 答。此偈明三種佛性。諸法從本來常自寂滅相者。自性住佛性。佛子行道已者是引出佛性。來世當作佛者。是至得果佛性 問。是法住法位一偈顯何義 答。此偈明諸佛三身。是法住法位者。明法身者。道前為法住。在道復為法住。時滯生死為世間。在法位時證涅槃常住。於道場知己者。明應身知法身。道師方便說者。是化身。為眾生說法身 問。何故於三七日中思惟而不說法 答。先受三昧樂故。梵王未來請故。眾生根未熟故。所以於三七日中不說法。

方便品十箇条

問:方便品の五分破二明一とは、どのような五分であり、どのように二を破って一を明らかにするのでしょうか。 答:五分とは、第一に妙法の功徳を讃歎する分、第二に法師の功徳を讃歎する分、第三に疑いと請いの分、第四に授記の分、第五に疑いを断ずる分です。破二明一とは、二乗の執着を破って一乗の道を明らかにすることです。すなわち、妙法を讃歎する分は明らかにすべき一乗を標し、師を讃歎する分は明らかにする人を示し、疑いと請いの分は破るべき二乗の機根であり、授記の分は破る一乗の道であり、疑いを断ずる分はさらに総じて時と処を定め、機根を通じて五分を明らかにし、略して一乗の義を現すのです。これを五分破二明一といいます。

問:諸仏の智慧は甚深無量であるといいますが、何が智慧であり、何が甚深なのでしょうか。 答:智慧には二種あります。一つは一切の諸仏の如理智、もう一つは一切種智です。これは無量の智慧の如くであることをいいます。甚深にも二種あります。一つは証甚深で、理法を指します。もう一つは阿含甚深で、教法を指します。阿含はここでは清浄な教えと訳されます。

問:証明甚深には五つあるといいますが、それは何でしょうか。 答:一に義甚深、二に実体甚深、三に内証甚深、四に依止甚深、五に無上甚深です。

問:論に法師の功徳には四種あるといいますが、それは何でしょうか。 答:一に往成就で、衆生の機根を起こすこと。二に教化成就で、六通の身であること。三に功徳畢竟成就で、智慧と禅定が円満であること。四に説成就で、四つの弁才をもって説法すること。これが法師の四種の功徳です。

問:「止止不須説」とありますが、智慧は万物に遍く、慈悲は四生に及ぶのですから、なぜ機根に応じてすぐに説かず、敢えて方便を設けて求める者を集めるのでしょうか。 答:大きな鐘は響くとしても、必ず打たれて初めて鳴ります。大聖は慈悲深くとも、請いがあって初めて説法します。請いがあって説くならば、自らを讃える機会となることもあり、衆生に方便を施して道を求める心を起こさせる教えとなるのです。

問:開示悟入とはどのようなもので、なぜ外に示すのでしょうか。 答:開とは仏果を開くことで、一切智を指します。示とは仏の本体を示すことで、真如法身を指します。悟とは仏の障りを悟ることで、無明煩悩を指します。入とは仏の円満に入ることで、不退の地に入らせることを指します。これを開示悟入といい、外に示すのです。

問:経に「もし比丘が実際に阿羅漢を得たならば、この法を信じないことはありえない」とあります。もし一切の声聞が皆授記されるべきであるならば、なぜ決定性の声聞である阿羅漢は授記されて仏とならないのでしょうか。 答:仏の教えに依って信じるからであり、自ら理解していないから授記されないのです。したがって、上の文に「仏を信じて悟るがゆえにこの経に随順する」とあり、自らの智慧の分ではないことがその証拠です。

問:「諸法は本来より常に自ら寂滅の相なり」という一偈は、どのような法の本体を顕しているのでしょうか。 答:この偈は三種の仏性を明らかにしています。「諸法は本来より常に自ら寂滅の相なり」は自性住仏性、「仏子行道已」は引出仏性、「来世当作仏」は至得果仏性です。

問:「是法住法位」の一偈はどのような意義を顕しているのでしょうか。 答:この偈は諸仏の三身を明らかにしています。「是法住法位」は法身を明らかにし、道の前を法住とし、道において再び法住とします。時には生死に滞って世間となり、法位の時に涅槃常住を証します。「於道場知己」は応身が法身を知ることを明らかにし、「道師方便説」は化身で、衆生のために法身を説くのです。

問:なぜ三七日の間、思惟して説法しなかったのでしょうか。 答:まず三昧の楽を受けるため、梵王がまだ請い来たらず、衆生の根機が未熟であったため、三七日の間説法しなかったのです。

譬喻品二十二條 問。論說十種對治及十種無上名顯何義。并列其名 答。十種對治顯破三義。十種無上顯明一義。十種對治者。七喻三平等。七譬者。一火宅譬。二窮子譬。三藥草譬。四化城譬。五繫珠譬。六髻珠譬。七醫師譬。三平等者。一乘平等。二世間涅槃平等。三身平等。七譬對治有煩惱人病。三平等對治無煩惱人顛倒信。用此十對治破二十障。十無上者。一種子無上雲雨示現。二修行無上大通智勝如來示現。三增上無上商譬示現。四解無上繫譬珠示現。五淨土無上寶塔品示現。六說無上解珠譬示現。七教化力無上踊出品示現。八菩提無上壽量品示現。九涅槃無上醫師譬示現。十勝妙力無上餘殘修多羅示現。用此十種顯菩薩道 問。國邑聚落有大長者。國邑聚洛譬何法。有大長者譬何人答。國邑聚洛譬如□境。有大長者譬如來身。國為大處譬如來智慧境。以一切世界為境故。邑為中處譬如來神通境。以十億三千界為境故。聚落為小處譬如來說法境。以三千大千世界為境 問。長者見是大火從四面起。大火譬何法。四面譬何法 答。大火譬苦體。謂苦苦壞苦。四面譬苦具。謂生老病死。如來以他心智知眾生三苦之火。從生老病死而發故。言從四面起。生為東面。老為南面。病為西面。死為北面 問。譬如長者有一火宅譬何法復以何法為體 答。火宅譬於三界。以眾以眾生本識為體。本體者籠括空有網羅。天地攝摶色根含藏識種時歷三僧祇位階。五十聚悠悠長道故謂之火宅。舊翻阿賴耶識為家識。斯火宅之馳也 問。何故火宅唯有一門而復狹小 答。唯一佛教能背火宅。諸外道教不能出故曰唯有一門。小乘教中不人人小乘闊度眾生所以言狹小。今小乘求大菩提。何以言小。然則大能權小所以菩薩從中而出不心怖大所以二乘不問大門。而以是故窮子門側則悔來至此。長者放命便則外走也 問。是火宅中有五百人。人數何限獨以五百為數 答。五百人者喻五道種子。以十業為因以十使為緣。因一使發十使發百業。一道有一百五道即五百故。以五百人譬五道種子也 問。當以衣裓若以机案從舍出之。衣裓机案各譬何法答。衣裓譬甚深禪定。机案譬平等大惠。禪定能起三十二相。令物至信大惠能說力所畏。今物生智。以此二用從舍出之 問。云何名為東西走戲視父而已 答。東方為苦諦。西方為集諦。北方為滅諦。南方為道諦。子證苦即是走戲東西。父證滅道即是往還南北。東能隨逐。但可顧瞻而已。雖未隨父。終有會化之期故言視父 問。云何名皆四衢道中露地而坐 答。四衢道中。謂四諦心見中學地有障可言覆無學障盡故言路。所作已辦故言而坐 問。門外三車譬於何法 答。譬三乘。羊車譬小。鹿車譬中乘。牛車譬大乘。羊形小而力小故譬聲聞小乘。鹿形中而力中故譬緣覺中乘。牛形大而力大故譬菩薩乘問。三車譬智。化城譬何意 答。車是遊戲之具故以譬智。城是息疲之所故譬斷 問。設車以誘諸子言不其開問以出諸子言一不言三何也 答。問可貴賤同行所以言一不言三。車則尊卑別載所以言二不言一 問。何故門外引子智以三車道中自子而以一城何也 答。車是獨載之物。是故言三以外引。城是眾苦之所是故言以總入 問。諸子出於門外不見車而索車。諸子苦於道中不見城何故不索 答。車為虛指令取之不得。是以索之。城為實化入入即是得何須索之。說引息有霑實雨用以門外有索道中不索問。何故火宅之中乃言諸子爭出火宅。化城中乃言眾人前入化城 答。諸子在家以生死為火宅。由求離故。何以爭出。眾人苦道以涅槃為化城。由求諸故所以言前入 問。火宅中何故言汝等出來。化城中何故言汝等去來 答。火宅是舊苦之處。前說未有出故喚言出來。化城是中息之所。說息己故喚言去來 問。云何名互相推排競共馳走爭出火宅 答。互相推排者為所狹小。競共馳走者。譬登八正之路。爭出火宅者。譬免五痛之災。五痛者破五戒得五燒為五痛。出無量壽經 問。云何名等一大車復駕以白牛答。以一切智為大車。駕以白牛者。以大悲為白牛。車以運載為義。悲拔苦為能非智運拔眾生如牛引物故。涅槃云。是故稱佛為大非牛 問。云名故名物貪麁弊色聲香味觸答。色聲香味觸是五言言界故。言麁污人稱弊也 問。長者門內許子三車。而門外與一車。於三則許當不與。於一則與而不許。此非長者虛妄耶 答。長者全其軀命利益事實故非虛妄 問。經云如來利益一切人生三界。未審五生中以何生生於三界 答。五生中以最後生而生三界。五生者。一息苦生。二隨類生。三最勝生。四增上生。五最後生問。經言火宅何法是宅。何法是火 答。三界為宅。三苦為火。苦受以苦苦為火。樂受以壞苦為火。捨受以行苦為火。欲界具三火。無色界具一火。是故火名火宅。

譬喩品二十二条

問:論で十種の対治と十種の無上を説いていますが、これはどのような意味を表し、その名称を挙げてください。 答:十種の対治は、三つの誤りを破ることを表します。十種の無上は、一つの真理を明らかにすることを表します。 十種の対治とは、七つの譬喩と三つの平等です。 七つの譬喩とは、一に火宅の譬喩、二に窮子の譬喩、三に薬草の譬喩、四に化城の譬喩、五に繫珠の譬喩、六に髻珠の譬喩、七に醫師の譬喩です。 三つの平等とは、一に一乗平等、二に世間涅槃平等、三に身平等です。 七つの譬喩は煩悩を持つ人の病に対治し、三つの平等は煩悩がなくとも誤った信仰を持つ人の倒見に対治します。この十の対治を用いて二十の障りを破ります。 十の無上とは、一に種子無上(雲雨示現)、二に修行無上(大通智勝如来示現)、三に増上無上(商譬示現)、四に解無上(繫珠譬示現)、五に浄土無上(宝塔品示現)、六に説無上(解珠譬示現)、七に教化力無上(踊出品示現)、八に菩提無上(寿量品示現)、九に涅槃無上(醫師譬示現)、十に勝妙力無上(余残修多羅示現)です。この十種を用いて菩薩道を顕わします。

問:「国邑聚落に大長者有り」とあります。国邑聚落は何の法に譬え、大長者は誰に譬えているのですか。 答:国邑聚落は如来の境界に譬え、大長者は如来の身に譬えています。国は大きな処として如来の智慧の境界に譬え、一切世界を境とするからです。邑は中ほどの処として如来の神通の境界に譬え、十億三千世界を境とするからです。聚落は小さな処として如来の説法の境界に譬え、三千大千世界を境とするからです。

問:「長者は是の大火、四面より起るを見る」とあります。大火は何の法に譬え、四面は何の法に譬えているのですか。 答:大火は苦そのもの(苦苦・壊苦)に譬え、四面は苦を生じさせるもの(生老病死)に譬えています。如来は他心智によって、衆生の三苦の火が生老病死から発することを知っておられるので、「四面より起る」と言われるのです。生を東面に、老を南面に、病を西面に、死を北面に譬えます。

問:「譬えば長者に一の火宅有り」とは何の法に譬え、また何の法を体としているのですか。 答:火宅は三界に譬え、衆生の本識を体としています。本識とは、空と有を包み込み、天地を網羅し、色と根を摂取し、識の種子を蔵するもので、三阿僧祇劫の時を経て五十位の階梯を踏む、悠々たる長い道のりです。故に火宅と言うのです。旧訳では阿頼耶識を「家識」と訳しましたが、これが火宅を馳せ巡るものなのです。

問:なぜ火宅にはただ一つの門しかなく、しかも狭小なのでしょうか。 答:ただ仏教のみが火宅を背にすることができ、諸々の外道の教えでは出ることができないので、「唯だ一つの門有り」と言うのです。小乗教ではすべての人を小乗に導くわけではないので、衆生を度すことが広くはない、故に「狭小」と言うのです。では、今の小乗が大菩提を求めるなら、なぜ「小」と言うのでしょうか。しかし、大は小を権(仮)とすることができるので、菩薩はそこから出ても大を怖れないのです。それゆえ、二乗は大門を問わず、故に窮子は門の側でここへ来たことを悔い、長者が命じればすぐに外へ走り出るのです。

問:「是の火宅の中に五百人有り」とあります。人数は限りがあるのに、なぜ特に五百を数とするのですか。 答:五百人は五道の種子に譬えています。十業を因とし、十使を縁として、一つの因から十使が発し、十使から百業が発します。一道に百あり、五道で五百となるので、五百人を以て五道の種子に譬えるのです。

問:「当に衣裓を以てし、若しくは机案を以てして、舍より之を出さん」とあります。衣裓と机案はそれぞれ何の法に譬えているのですか。 答:衣裓は甚深の禅定に譬え、机案は平等の大慧に譬えています。禅定は三十二相を起こし、人々をして深く信じさせることができます。大慧は十力・四無畏を説き、人々をして智慧を生じさせることができます。この二つの働きを用いて、家から出すのです。

問:「東西に走り戲れ、父を視るのみ」とはどういう意味ですか。 答:東方を苦諦、西方を集諦、北方を滅諦、南方を道諦に譬えます。子が苦を証することは東西に走り戲れることであり、父が滅・道を証することは南北に往還することです。子は東(苦)に随い逐うだけで、ただ顧みるのみです。まだ父に随っていなくとも、やがて教化に出会う時があるので、「父を視る」と言うのです。

問:「皆な四衢の道中、露地に坐す」とはどういう意味ですか。 答:四衢の道中とは、四諦の心を見る中学地を言います。障りがあれば覆われていると言え、無学で障りが尽きれば露(あらわ)と言います。なすべきことを為し終えたので、「而坐す」と言うのです。

問:門外の三車は何の法に譬えているのですか。 答:三乗に譬えています。羊車は小乗に、鹿車は中乗に、牛車は大乗に譬えます。羊は形が小さく力も小さいので声聞の小乗に譬え、鹿は形も力も中ほどなので縁覚の中乗に譬え、牛は形が大きく力も大きいので菩薩乗に譬えるのです。

問:三車は智慧に譬えていますが、化城はどのような意味に譬えているのですか。 答:車は遊戯の道具なので智慧に譬え、城は疲れを休める所なので断(煩悩を断じること)に譬えるのです。

問:車を設けて諸子を誘う時は「三」と言わず「一」と言い、諸子を出そうとする時は「一」と言わず「三」と言うのはなぜですか。 答:門は貴賤が共に行く所なので「一」と言い「三」と言わず、車は尊卑が別々に乗るものなので「三」と言い「一」と言わないのです。

問:なぜ門外では三車をもって子を導き、道中では一城をもって子を導くのですか。 答:車は一人で乗るものなので、外へ導く時は「三」と言います。城は多くの人が苦を休める所なので、総じて入る時は「一」と言うのです。

問:諸子は門外に出て車を見ないのに車を求めます。諸子は道中で苦しみ城を見ないのに、なぜ求めないのですか。 答:車は虚の指令(仮の約束)なので、取ることができず、それゆえ求めます。城は実の化現(真実の変化した姿)なので、入れば即ち得るものであり、何も求める必要がないのです。誘いと休息には、実の雨が降り注ぐ用いがあるので、門外では求め、道中では求めないと言うのです。

問:なぜ火宅の中では「諸子、争いて火宅を出ん」と言い、化城の中では「眾人、前に化城に入れ」と言うのですか。 答:諸子は家にいるので生死を火宅とし、離れようと求めるから、争って出ようとするのです。眾人は苦の道にあるので涅槃を化城とし、それを求めようとするから、前に進んで入ろうと言うのです。

問:火宅の中ではなぜ「汝等、出来」と言い、化城の中ではなぜ「汝等、去来」と言うのですか。 答:火宅は古くからの苦の処であり、前に説いた時にはまだ出ていなかったので「出来」と呼びかけます。化城は途中で休む所であり、休息を説き終えたので「去来」と呼びかけるのです。

問:「互いに推し排ち、競い共に馳せ走り、争いて火宅を出ん」とはどういう意味ですか。 答:互いに推し排つとは、門が狭小であることを言います。競い共に馳せ走るとは、八正道の路に登ることに譬えます。争いて火宅を出んとは、五痛の災いを免れることに譬えます。五痛とは、五戒を破って五焼を得ることを言い、これが五痛となります(『無量寿経』による)。

問:「等しき一大車、復た白牛を駕す」とはどういう意味ですか。 答:一切智を大車に譬えます。白牛を駕すとは、大悲を白牛に譬えます。車は運び載せることを意味し、悲は苦を抜くことを働きとします。智慧だけでは衆生を運び抜くことができず、牛が物を引くようなものだからです。故に『涅槃経』に、「是の故に仏を称して大悲の牛と為す」と説かれているのです。

問:「物を貪り、麁弊の色声香味触有り」とはどういう意味ですか。 答:色声香味触は五境であり、言うまでもなく粗悪で、人を汚すので弊(悪い)と言うのです。

問:長者は門内で子に三車を許しましたが、門外では一車を与えました。三については許して与えず、一については与えて許さない。これは長者の虚妄ではありませんか。 答:長者は彼らの身命を全うし、利益を与えることが事実であるので、虚妄ではないのです。

問:経に「如来は一切衆生を利益して三界に生ず」とありますが、五生の中でどの生をもって三界に生ずるのでしょうか。 答:五生の中の最後生をもって三界に生じます。五生とは、一に息苦生、二に随類生、三に最勝生、四に増上生、五に最後生です。

問:経に「火宅」と言いますが、何が宅で、何が火なのですか。 答:三界が宅であり、三苦が火です。苦受は苦苦を火とし、楽受は壊苦を火とし、捨受は行苦を火とします。欲界には三つの火が具わり、無色界には一つの火が具わります。それ故に火宅と言うのです。

信解品三條 問。窮子五十餘年。何名五十年後得一日之價 答。以五十二賢聖為五十餘年。所謂十信十解十行十迴向十地。是名五十。菩薩等覺二位名日餘年。小乘示得涅槃故云一日之價。

信解品第三の問い。 「放蕩息子が五十余年を過ごした後、どうして一日分の賃金を得たと言えるのか」

答え。 五十二の賢聖の位を、五十余年と喩えている。すなわち、十信・十解・十行・十廻向・十地の五十の位を指す。菩薩の等覚・妙覚の二つの位は「余年」とされる。小乗の教えでは涅槃を得たと示すため、「一日の価」と説かれるのである。

藥草喻品一條 問。三草二木各喻何人答。小草喻凡夫。中草喻二乘。大草喻地前菩薩。大木喻後三地菩薩。小木喻初地至七地菩薩。是名三草二木所譬之人。
授記品二條 問。聲聞有幾種授記。何者聲聞作佛 答。授應化聲聞退菩提心。聲聞作佛以根熟故。決定性及增上慢不授作佛以根未熟故 問。若前後二俱授記作佛可使破二明一。後既不授作佛應非破二明一答。授通授記故四種皆破。據外授記故兩不記 問。菩薩發心理應進發。有何障礙退作聲聞。假顯退由示其性弱 答。此至本發大心希大果中間須行八萬四千波羅蜜行。後經三大阿僧祇時。雖言鼓玄掉於法流怯長波而自息。由是菩薩退作聲聞。故上文言佛道長遠久受勤者乃可得成。我等疲極。今言退還即自證也。

授記品の二つの条 問い。声聞には何種類の授記がありますか。どのような声聞が仏となるのでしょうか。

答え。応化の声聞と退菩提心の声聞には仏となる授記を与えます。それは根機が熟しているからです。決定性の声聞と増上慢の声聞には仏となる授記を与えません。それは根機がまだ熟していないからです。

問い。もし前の二つ(応化・退菩提心)と後の二つ(決定性・増上慢)の両方に授記を与えて仏となるとするなら、二乗を破って一乗を明らかにするということができます。しかし、後の二つには授記を与えないのであれば、二乗を破って一乗を明らかにするとは言えないのではないでしょうか。

答え。授記には通じて授けるものがあるので、四種類すべてを破るのです。ただし、外に現れた授記に限って言えば、後の二つには授記を与えないということです。

問い。菩薩は菩提心を発起したなら、当然進んで修行すべきです。どうして障害があって退転し、声聞になることがあるのでしょうか。仮に退転の理由を示すことで、その性質の弱さを表しているのでしょうか。

答え。これは、本来大いなる心を発し、大いなる果報を願いながら、その途中で八万四千の波羅蜜行を修めなければならず、さらに三大阿僧祇劫という長い時を経なければならないからです。たとえ法の流れに身を任せようとしても、長い波に怯えて自ら息んでしまうことがあると言われています。それゆえ、菩薩が退転して声聞となるのです。ですから、先の文に「仏道は長遠であり、長く勤めを受けて初めて成就することができる。我々は疲れ果ててしまった」とあるのは、この退転を自ら証しているのです。

化城喻品一條 問。如來初立作城引接何人。後滅引接何人 答。為引凡夫至聖故。立作城為喻。小乘入大乘故滅為作滅作差別問。兵將破敵應酬重賞。何故不解明珠乃賜田宅。為是輪王有燒為是將士動一輕仰頓所由使無監 答。王心神珠價重唱賞不伐之勳。佛以妙法經擬被罰群之力。若使勳輕賞重眷屬必致驚嗟。法大機小。菩薩能無怪或所以未解明珠且賜田宅。

化城の喩えについて一つの問いがあります。問う:如来が初めに城を築いて人々を導き入れたのは誰のためか。後に城を滅ぼして導き入れたのは誰のためか。

答える:凡夫を聖なる境地へ導くために、城を築く喩えを用いたのです。小乗から大乗へ入らせるために、城を滅ぼす喩えを用いたのです。これが、築くことと滅ぼすことの違いです。

問う:兵士が敵を破ったなら、重い褒賞を与えるべきです。なぜ宝珠を解き明かさず、田や屋敷を与えるのでしょうか。これは輪王に過ちがあるのか、それとも将兵の働きが軽かったからか。その理由を知りたいのです。

答える:王は心の宝珠が価値高いことを知り、戦わずして勝った功績を称えて褒賞を与えます。仏は妙法の経典をもって、罰せられる群れの力を擬えます。もし功績が軽いのに褒賞が重ければ、眷属は必ず驚き嘆くでしょう。法は大きいが機根が小さいなら、菩薩も怪しむことがないでしょうか。それゆえ、宝珠を解き明かさず、まず田や屋敷を与えるのです。

壽量品一條 問。時我及眾僧俱出靈鷲山者。為是報佛為是應佛。若是報佛靈鷲山即是應報土。若是應佛不應道常在靈鷲山答。實是報佛故常在靈鷲山。由現應相故現有滅不滅。靈鷲山者。約體即法性之山鷲應說是靈鷲山故。論云如來淨土即第一義諦攝。

寿量品一問 問う。時に我及び衆僧、共に霊鷲山を出づる者は、報仏なるか、応仏なるか。もし報仏ならば、霊鷲山は即ち応報土なり。もし応仏ならば、常に霊鷲山に在ると道うべからず。答えて曰く、実に報仏なるが故に、常に霊鷲山に在り。応相を現すことによりて、滅すること有り、滅せざること有り。霊鷲山とは、体に約せば即ち法性の山なり。鷲応は是れ霊鷲山と説くが故に。論に云う、如来の浄土は即ち第一義諦に摂すと。

法師功德品一條 問。持經人得幾種功德。仰顯其數。又得六根清淨。何故功德多少不同者 答。六根淨土令得千功德。顯數者。以十善為本。一善以九善助成十善。各九即九十善。通其本十即為一百。自持經得一百。勸人持經得一百。自勸人讚嘆持經人得一百成四百。即此此十善從心所生生善。三心有其三品。謂上中下。以經力故。上品心中得四百。中品心中得四百。下品心中並得四百。合三令成一千二百功德。眼鼻身三根。以持經功用劣故。唯得中下品。各得八百功德。三八二十四即二千四百。耳舌意三根。以持經功德能勝故。得具三品心別各四百。一根一千二百。三根三千六百帖。前二千四百合成六千功德 問。經云種種諸瓔珞無能識其價聞香智貴賤出處及所在者。此乃是鼻識所知應言臭。何故言聞。未知所以假碓各并辯其人。於何所任得此功德能也 答。六根雖殊心識是一。鼻雖受入分別。是以遙臭故義同。於耳故言聞也。何行位者四依法者。若依經文即有五種。法師受持讀誦解說書寫即通凡也。故法花論云。此得六根清淨。謂凡夫人以經力故得勝根用。又云。諦根亦互用。一一根中皆得。乃色聞香別味覺觸故。下文言雖未得菩薩無漏法生鼻而是持經者即其證也 問。何名八萬四千波羅蜜。具數列名 答。波羅蜜名西域梵音此翻名到彼岸。行此諸行過生死何登涅槃彼岸也。列數者。佛具三百五度功德。始從放光乃至涅槃有三百五十度功德。一一功德以六波羅蜜助成。計當二千一百。又云。四大并六塵即為十。此各具二千一百。計當二萬一千。得四四別二萬一千即八萬四千法門也 問。一百八煩惱何者是 答。十使煩惱為本。十使者。貪瞋慢癡無明名鈍使。薩迦耶見邊見見取戒取邪見名利使。此十於三界四諦。四諦各十。下欲界即四十。色無色界八諦。中各除瞋。即八九七十二。通言四十即一百一十二。此謂見道也。修道中有貪瞋無明慢薩迦耶見邊見。欲界具六色。無色界各除瞋並有五。即為十。通下界六即十六。謂修道煩惱通凡合一百二十八煩惱。前一百一十二見道所斷。後十六修道所斷。初地各見道二地已者名修道。此謂大乘見修煩惱 問。信解品中明何義 答。信解品中明窮子譬。對聲聞人一向倒。此即是聲聞種姓人。如來方便於獲大寶。故論云。聲聞人一向增上慢我乘與如來乘等無差別。對此顛倒故說窮子喻 問。信解品中長者是何身。脫珍御服著垢衣裳是何。長者化何等人設具釋 答。寂滅道場無畏之莊嚴。飾革麗身。盧舍那身所說之法。是花羅等教。所被之機純諸菩薩。鹿苑中脫珍御服著弊垢衣者。是釋迦身所說之法。是四謗法苦集滅道五乘難眾。是人天等乘機有大小教有淺深 問。藥草喻品明何義 答。藥草喻品中對治求大乘人一向到此。是菩薩種性人。教雖一味等被三。藥草喻中明一味之雨。三草用潤合知根外破其迷一故。論云。大乘人一向增上慢無別。聲聞辟支佛乘對治此顛倒故說藥草喻 問。十二因緣假釋名出體一一具釋 答。親生名因助發為緣。列不同有其十二者。一無明.二行.三識.四名色.五六入.六觸.七受.八愛.九取.十有.十一生.十二老死。迷心不了故曰無明。感果遷謝目之為行。現心了別名之為識。四名名色。陰名色根。心名六入。和會根塵名之為觸。領納違順名為受。於境深著名之為愛。四方追求名之為取。能有當果名之為有。未來初起曰生。根德衰變為老。果根代曰死。釋名如是。言體性者。無明愛取以煩惱為體。行有二種以業道體。現在五果。未來生老死以苦道為體 問。五百弟子授記品中明何義 答。對治無定人。散亂心即是菩薩種性人習道不進。要昔大善修空邪僻故名散亂。繫珠譬中。示衣珠令其記憶。故論云。散亂心人實無有定。過去有大乘善根而不覺知。被不求大乘。於狹劣心中生虛妄解。以為第一乘。於治此故說寶珠譬。妙亦是合解無上故。論云亦現令解無上。故說繫珠譬 問。記云繫珠衣喻何法。珠喻何法。何時得珠。何時失珠 答。衣喻阿賴耶識所勳為因。法珠喻聲聞。法花一乘之教。發菩提心修菩提行能勳本識。猶若繫珠。何時失珠者。大遍晦過之後沙彌息教之時背教既遙。又流生死妄於本解故曰失珠。何時得珠者。釋迦出世演教靈山還得本悟故稱得珠 問。授記品中明何義 答此品明與四大聲聞迦葉須菩提迦旋延目連等授記。亦名受記。如來談與記名之為授。弟子領記名之為受 問。化城喻中明何義 答。明對治有定之實無而有增上慢。即凡夫有漏定實非涅槃。於中妄起生涅槃相故名為倒。以權立化城進近令違故。論云。實無有增上慢人。以有世間三摩拔提實無涅槃生涅槃相。對治此故說化城喻 問。聲聞緣覺各得涅槃。如何共住化城 答。二涅槃同離一障謂煩惱障故曰一城 問。云何名大乘。何者為一乘 答。一是攝五之總名大是四三之別稱故。下經云。十方世界由唯有一乘法。唯此一事實餘二則非真。除佛方便說。五乘雖復殊分究竟同歸一法。言大乘者。為對三根故稱大也。下文又言。菩薩求此乘故名為摩薩。言一者一味平等理也 問。如來功德超越十方讀誦之至未逾三界。云何罵佛尚輕嗔持經至得罪乃重 答。若就因為論。因有厚薄。境有尊卑。則罵佛甚重。毀持經人極輕。令就違順境中以明輕重。如來心在平等門中離愛憎。出入到去八風心行平等毀譽不動其罪即輕。始行菩薩代弘經利益眾生。慈悲攝化廣度一切物廢化斷利佛種。就化為論故言罪重。

法師功徳品一問

問:経典を持つ人は、いくつの功徳を得るのでしょうか。その数を示してください。また、六根清浄を得ると言いますが、なぜ功徳の多少に違いがあるのですか。

答:六根清浄の功徳は千二百功徳とされています。その数を示すと、十善を基本とします。一つの善に九つの善が助けとなって十善を成し、それぞれに九つあるので九十善。基本の十と合わせれば百となります。自分で経典を持つことにより百、人に勧めて持たせることで百、自ら人を勧め、経典を持つ人を讃嘆することで百、合わせて四百となります。この十善は心から生じる善であり、心には三品(上・中・下)があります。経典の力によって、上品の心で四百、中品の心で四百、下品の心でも四百を得て、合わせて千二百功徳となります。眼・鼻・身の三根は、経典を持つ功徳の働きが劣るため、中品と下品のみを得て、それぞれ八百功徳となります。三つで八百ずつなので、合わせて二千四百功徳です。耳・舌・意の三根は、経典を持つ功徳が勝れているため、三品すべてを得て、それぞれ四百ずつ、一つの根で千二百、三根で三千六百功徳です。先の二千四百と合わせて、合計六千功徳となります。

問:経典に「さまざまな瓔珞、その価を知る者なし。香を聞いて貴賤を知り、その出処と所在を知る」とあります。これは鼻識が知るもので、本来は「嗅ぐ」と言うべきですが、なぜ「聞く」と言うのでしょうか。また、どのような人が、どこでこの功徳を得る能力を持つのでしょうか。

答:六根は異なりますが、心識は一つです。鼻は香りを受け入れて分別しますが、遠くの香りを嗅ぐという点では、耳が聞くことと意味が同じであるため、「聞く」と言うのです。どのような行位かと言えば、四依法に依る者です。経文によれば五種類あり、法師が経典を受持・読誦・解説・書写する者は、凡夫にも通じます。したがって『法華論』に、これによって六根清浄を得るとあります。つまり凡夫でも、経典の力によって勝れた根の働きを得るのです。また、諸根は互いに用いることができ、一つの根で色を見、香りを聞き、味を別け、触を覚えることができるとあります。後の文に「菩薩の無漏法生鼻を得ずといえども、これ経典を持つ者なり」とあるのが、その証拠です。

問:八万四千波羅蜜とは何ですか。その数と名前を挙げてください。

答:波羅蜜は西域の梵語で、彼岸に到るという意味です。これらの行を修めれば、生死を超えて涅槃の彼岸に至ります。その数を挙げると、仏は三百五十の功徳を具えています。放光から涅槃に至るまで、三百五十の功徳があり、それぞれの功徳を六波羅蜜が助け成します。計算すると二千一百となります。また、四大と六塵を合わせて十とし、これらがそれぞれ二千一百を具えるので、二万一千となります。四つの四に分けて二万一千ずつとすれば、八万四千の法門となります。

問:百八煩悩とは何ですか。

答:十の煩悩(十使)が根本です。十使とは、貪・瞋・慢・癡・無明を鈍使とし、薩迦耶見・辺見・見取・戒取・邪見を利使とします。これら十の煩悩が三界四諦に配され、四諦それぞれに十あり、欲界では四十となります。色界・無色界では八諦それぞれに瞋を除くので、八つずつで七十二、欲界の四十と合わせて百十二となります。これが見道で断つ煩悩です。修道では、貪・瞋・無明・慢・薩迦耶見・辺見があり、欲界では六つ、色界・無色界ではそれぞれ瞋を除いて五つずつなので、合わせて十、欲界の六と合わせて十六となります。これが修道の煩悩で、凡夫と合わせて百二十八煩悩となります。前の百十二は見道で断ち、後の十六は修道で断ちます。初地では見道、二地以降では修道と呼ばれ、これが大乗の見修煩悩です。

問:信解品ではどのような意味を明らかにしていますか。

答:信解品では、窮子の譬えを説き、声聞の人々の偏った見解に対します。これは声聞種性の人々で、如来が方便をもって大いなる宝を得させるためです。したがって論に、声聞の人々は増上慢に陥り、自分の乗と如来の乗に差別がないと思い込んでいるとあります。この誤った見解に対し、窮子の譬えを説くのです。

問:信解品の長者はどのような身ですか。珍宝の衣を脱ぎ、汚れた衣を着るとは何を意味しますか。長者はどのような人々を教化するのですか。

答:寂滅道場における無畏の荘厳、すなわち盧舎那仏の身で説かれた法は、華厳などの教えであり、その機根は純粋に菩薩たちです。鹿野苑で珍宝の衣を脱ぎ、汚れた衣を着るとは、釈迦仏の身で説かれた法であり、四諦や五乗の教えで、人天などの機根には大小があり、教えには浅深があります。

問:薬草喩品ではどのような意味を明らかにしていますか。

答:薬草喩品では、大乗を求める人々の偏った見解に対します。これは菩薩種性の人々で、教えは一味であっても三種の薬草を潤すように、機根に応じて与えられます。論に、大乗の人々は増上慢に陥り、声聞・縁覚の乗に差別がないと思い込んでいるとあります。この誤った見解に対し、薬草の譬えを説くのです。

問:十二因縁について、その名前と本体を説明してください。

答:直接に生じさせるものを因、助け発させるものを縁といい、十二に分かれます。一に無明、二に行、三に識、四に名色、五に六入、六に触、七に受、八に愛、九に取、十に有、十一に生、十二に老死です。心が迷って明らかでないのを無明といい、果報を招いて移り変わるのを行といいます。現前の心が了別するのを識といい、四つの名を名色といいます。五蘊を色根といい、心を六入といいます。根と塵が和合するのを触といい、違順を領納するのを受といいます。境に深く執着するのを愛といい、四方に追求するのを取といいます。未来の果報を生じさせる力を有といい、未来に初めて生起するのを生といいます。諸根が衰えるのを老といい、命が尽きるのを死といいます。本体については、無明・愛・取は煩悩を本体とし、行・有の二つは業を本体とします。現在の五果と未来の生・老死は苦を本体とします。

問:五百弟子授記品ではどのような意味を明らかにしていますか。

答:定まらない人々、すなわち散乱心の菩薩種性の人々に対します。彼らは過去に大乗の善根を修めながらも空に偏り、進歩しないため散乱と呼ばれます。繫珠の譬えで、衣の中の宝珠を示して記憶させます。論に、散乱心の人は実は定まっておらず、過去に大乗の善根を持ちながらも気づかず、大乗を求めないため、狭い心で虚妄の解釈を第一の乗と思い込んでいるとあります。これに対し、宝珠の譬えを説くのです。妙もまた無上を解するために合わせて説かれ、論に無上を解することを示すため、繫珠の譬えを説くとあります。

問:記にいう繫珠衣の譬えは何を表し、珠は何を表しますか。いつ珠を得て、いつ珠を失うのですか。

答:衣は阿頼耶識に薫習される因を表し、珠は声聞法に対する法華一乗の教えを表します。菩提心を発して菩提行を修めれば、本識を薫習することになり、珠を衣に繫ぐようなものです。いつ珠を失うかといえば、大般涅槃の後、沙弥の教えが止んだ時、教えから遠ざかり、生死に流転して本来の理解を忘れるため、珠を失うといいます。いつ珠を得るかといえば、釈迦が出世して霊山で教えを説き、本来の悟りを取り戻す時、珠を得るというのです。

問:授記品ではどのような意味を明らかにしていますか。

答:この品では、四大声聞である迦葉・須菩提・迦旋延・目連などに授記することを明らかにします。授記とも受記ともいい、如来が記を説くのを授、弟子が記を受けるのを受といいます。

問:化城喩ではどのような意味を明らかにしていますか。

答:定まったものと思い込む増上慢の人々に対します。凡夫の有漏の定は実は涅槃ではなく、その中で涅槃と思い込む誤りです。権方便として化城を立て、進むことを促すためです。論に、実は涅槃ではないのに涅槃と思い込む増上慢の人々に対し、化城の譬えを説くとあります。

問:声聞と縁覚はそれぞれ涅槃を得ますが、なぜ同じ化城に住むのですか。

答:二乗の涅槃は同じく煩悩障を離れるため、一つの城に住むというのです。

問:大乗とは何ですか。一乗とは何ですか。

答:一は五乗を総摂する名称であり、大は四乗・三乗に対する別称です。経に「十方世界にはただ一乗の法のみあり。ただこの一事実のみ、余の二は真ならず。ただし仏の方便説を除く」とあります。五乗は異なっても、究竟には一法に帰します。大乗というのは、三乗の根機に対し、大いなる乗と呼ぶのです。また、菩薩がこの乗を求めるため、摩訶薩というのです。一とは、一味平等の理です。

問:如来の功徳は十方を超え、読誦の功徳は三界を超えません。それなのに、仏を罵る罪は軽く、経典を持つ人を謗る罪は重いのはなぜですか。

答:因について論じれば、因には厚薄があり、境には尊卑があります。仏を罵ることは甚だ重く、経典を持つ人を謗ることは極めて軽いです。しかし、違順の境について軽重を明らかにすれば、如来の心は平等の門にあり、愛憎を離れ、八風に動じず、毀誉によって心が動かないため、その罪は軽いです。始行の菩薩は経典を弘通し、衆生を利益し、慈悲をもって一切を度化します。その教化を廃し、利益を断ち、仏種を絶つことは、教化について論じれば罪が重いというのです。

壽量品約判三佛菩提。三者法菩提故。下經言釋官託生伽耶來。此是化菩提。又言諸善男子。我實成佛以來。經無量無邊那由他劫。此是根佛菩提。又經言非實非虛非如非異不如三界見於三界。此是法菩提也 問。長短無乖有無願返。云何六十小劫。謂如食頃理隔言違若為分雪 答。六十之與食頃俱為時收雖復長短不同草不識心變異。若心存分別則長有殊。若三界唯心則長短無二。是以須彌納芥子萬國俱舉毛端。斯乃心長則長亦非定有長短 問。何因履水躍火俱稱名而不禮拜。求男請女則拜而不稱名者何設具釋 答。觀音化物救難為懷既號觀音。理須稱歎。孤獨請求男女難苦未絕身躬所以得蜜禮拜牟過水火之災交恐命將殞。遂急但得稱名何假屈身禮拜 問。提婆達多品中明何義 答。品內顯法花經有三。一由達多者說此法花故。自致成佛有成佛力。二由文殊說此法花經故。無邊菩薩悟道故廣大力。三由龍女修行現身成佛故。即速疾力問。云何藥王其有讀誦法花經者。當知是人以佛莊嚴則為如來肩所荷擔其義云何答。此是諸品中經文。謂入如來室著如來衣坐如來座故。以莊嚴乃至肩所荷擔也 問。此經云開方便門示真實相 答。方便門者。開小乘方便門。入一佛乘是真實 問 見寶塔品中明何義 答。明清淨國土無上。故論云。示現清淨國土無上故。示現多寶如來塔問。云何名有功德人 答。是有學聲聞人。斷少煩惱故有功德。解珠譬中。前賜由宅明與小果。後賜明珠與大眾故為對治論云。有功德人說大乘法。而非大乘對治。此說王解髻中明珠與之譬喻亦名說無上 問。從地踊出品中明何義 答。明教化眾眾無上故。論云。示現教化眾生無上故。說無量菩薩從地踊出 問云何對治不舉功德人 答。即三乘種性人。佛說一乘不肯受持修習故。醫師譬中。明醫師設增權身癡子始眼妙藥佛現滅度鈍性萬修一乘故。論云。無功德人於第一乘不舉功德。說第一乘不取對治。此故說醫師譬喻。應知復是涅槃無上。故論云。不現涅槃無上故說醫師譬 問。何名陀羅尼用何為體 答。亦以惠為體故。涅槃云。陀羅尼者亦大念。亦名無事惠念者定也。定能生惠故。維摩經云念定持即其義也 問。何名呪 答。呪辭不出三義。或說三寶功德使聞者發心。或說大神力勢使諸魔驚退。或說甚深法相使聞者得悟 問。方便品中為小乘人說九部經。十二部中不說何經 答。無授記經。無無自說經。無方廣經 問。經云。中有人言。汝諸子等先因遊戲來入此定中。有人言。汝諸子等是何人來入此宅從何處來答。聞有人言中十方諸佛言來入此宅者。凡夫人等行雖未出願門。已出其人夫本願故來入此宅 問。汝來說法必有要歸。未審此經以何為宗旨 答。諸師辯宗各各不同。今依徵宗有二種。一者體宗。二者用宗。非二非一。是其體宗。破三歸一。是其用宗。法無二會。對器得名。會假歸真。形三一立三名無遣一號亦三故。法句經云。一亦不為一為欲破諸數淺識之所聞見一以為一即其義也。淨法師以一乘為宗 問。佛說法花經。何以不入法花三昧。乃入無量義處三昧 答。法花論云。此大乘修多羅有十七種名。第一名無量義處經。第十六名法花。故知入無量義處三昧即入法花三昧 問。何故欲說法花。在眉間豪相放光不在餘處放光 答。說此法花。欲表一乘中道故在眉間放光 問。此經既明一乘甚深之行。何故不告菩薩乃告聲聞 答。論明有五義。故不告聲聞為諸聲聞所化事故。二為諸聲聞迴取大菩提故。三為談諸聲聞恐怖弱故。四為令解人善思念故。五為諸聲聞不起所作已辦心故 問。法花會上乃有一萬二千聲聞。故獨告舍利不告餘人 答。舍剎弗與如來相應。是以獨告舍利不告餘人 問。佛放光明計應普照。何因唯照有頂已還不照空處已上 答。解有二種。一二乘先是色法唯在有頂不及空處以上。二就大乘解。如來光者遍一切無物不照 故經說言上到有頂下至水際。此就化相說遍通十方據大乘說 問。經云有比丘實得阿羅漢。若不信此法無有是處其義云何答。謂退菩提心聲聞及應化聲聞得成阿羅漢者。於法花一乘之法決定生信。此乘無有是處 問。云何名五濁。何者是五濁 答。濁亂不清淨名之為濁。濁義不同有其五。經一劫二煩惱三眾生四見五命。劫者時也。劫中有為濁故曰劫濁。煩惱者令四住他門名煩惱。煩惱迷心名為煩惱濁。眾勞亂行人名為煩惱濁。法成生名眾生濁。邪見決斷名為見濁。違持色以名之為命體從名命濁五何壽命申夭名為命濁。出體者以衣食等命緣為劫濁體。以貪瞋癡三毒為煩惱濁體。以命根為眾生濁體。以五見便為見濁。以命根為體 問。現瑞何故彌勒生疑正說之中由子騰清 答。現瑞通來一部經因果之義。唯佛能了窮子未知。所以彌勒疑也。正說之偏對身子。身子是執異之瑞故。生疑致請也 問。既云樂小法者。何故復言貪著於生死 答。現在機緣於過去久遠貪著於生死。又解樂於小法則是貪著於生死。以小涅槃即是大乘生死 問。人天善根既所德。云何此經比已來佛道 答。人天善根比是德佛之違緣故云成佛也 問。何為兩足尊 答。或心定惠為兩足。或以權實為兩足。或以緣行為兩足。或以人天為兩足 問。故云何名觀樹亦經行 答。如來在此樹下。成道念根樹思故。達行者本為取道故坐命得道意是故經行問 佛為眾生故出計應說法。何事待請耶答。論云。佛雖不須請而令請者獲福 問。諸天請不明人請耶 答。天勝人故明請不明人也 問。譬喻品中明何義 答。品內明初據舍利弗記。後明火宅譬對治求勢力人倒求增上慢。此是欲界凡夫無勝壞界理實麁弊非樂計樂故名倒求。火宅譬中光明三車。拔其大苦緣合入理與其大乘。論云。以世間諸煩惱熾然。人天以為妙境。對治此相說火宅譬 問。此經大宗破三歸一味知破三會云何同異 答。據病為言則破三歸。約行為悟則會三歸一。病則俱破而不會。行則俱會而不破 問。昔以說諸大乘經為菩薩行。今何因緣復後菩薩行假釋 答。菩薩有二種。一者直往。二者迴小入大。直往者。花嚴坐下為諸菩薩說大乘經名無量義經菩薩法佛所護念等故。下文言除先修習學小乘者如來之人今我得中是經入於佛惠。迴小入大者。即令法花坐廣說譬喻。心宿草菴漸淺長等事 問。云何是度五百由旬。何者是化來。何者是寶所 答。五百比是要法三界為三百二百喻習二乘涅槃。後一百即四住習二乘迴心已知初地。已知為一百即五百。若以二乘為二百者有妨。以化城是東果已度竟故。化城已後方便度二百。然二乘未過寶何故須進途二百二界即五道故不通為五百總為五百。言化城者無而忽有名之為化。防非捍敵目之為城。度三百由旬眾人度退。商主方便權說二乘滅諦涅槃解其疲倦。今前進同趣寶所。言寶者諸師不同。隨人有異。今案此文位當種性羅漢迴心位當十信。若論斷或初地齊功心位同十信。論其究竟佛地方息進求。今就大乘果滿故言實。何者藏法師以三界為三百。二原為二即五百。惠淨法師以五道為五百。三途為三百。人天二百即五百。并此以宗三類不同。地意即同 問。如來十八不共法何者是 答。一身無失。二口無失念無失。四無不定心。五無異相。六不知以捨心。七欲無減。八念無減。九智無減。十通無減。十解脫無減。十解脫知見無減。十三身業修智慧行。十四口業修智慧行。十五意業修智慧智慧者無障。十七智慧知未來無障。十八智慧智見在無障。如業身三四口意三。皆悉已離三業清淨故言無失。乃至智慧懸鑒三世皆悉通達故言無事。此十八者唯佛獨證。菩薩聲聞皆莫能得故言不共。疏言體者八法為體。謂思相欲勝解念定惠勤問。何名十力 答。十力者。一處非處力。二業力。三定力。四四根力。五念力。六性力。七過處道力。八宿命力。九天眼力。十漏盡力問。經云五眾之生滅未知。何者是五眾。假出所數列名釋義 答。五眾者五陰也。列名者。色受相行識也。色有青黃赤白。乃至識有八種。五各非一稱為眾。亦可言此之五陰乃有眾多生滅故。涅槃經云。五陰名眾生。眾生名五陰。即其證也 問。經云即方便說涅槃真實法。何者是涅槃真實法 答。一切真涅槃妄相真實無生無涅槃。是名為究竟。即是真實也。不滅名為涅槃。俱為眾生起或不順正理。廣造諸業流浪生死。對生死故說有涅槃。若能知生死涅槃本來二不是真實故。上文言我雖說涅槃是亦非真滅。又言諸法從本來常自寂滅相。楞伽又言。我所說者妄智識滅名為涅槃。即其證也 問。此經既云破三歸一味知三外則有一三內即有一 答。三內即有一。非是三外別有一所以得知。初出現道樹徘徊三七觀機無堪受大乘者。何以於一開三分途漸引靈山會上根器方成。攝彼三權總歸一處。故知三一本自無殊。汝等所行是菩薩道。即其證也 問。經云道場所得法。未知何者是道場何名所得法 答。道場者。菩提樹下金剛寶坐。得道處中謂之為場。所得法者。三無數修因成果滿湛覺真如是得法故。涅槃經云。諸佛世尊。從六波羅蜜三十七品十一空求至大涅槃。即其義也問。經云日月燈明佛為妙光菩薩說妙法花經。滿六十劫時會經者乃如食頃。此即多少相違長短乖反 答。燈明出世救物為懷悲願不窮。時經六十群機慕道渴仰憶深稟教恬神說如食頃故。下文言是時眾中無有一人若身若心而生懈倦。亦可言燈明神力長中短短中現長轉彼心識令如食頃故。下文言釋迦牟尼佛乃四眾默然而坐。經五十小劫。佛神力故。令諸大眾謂如半日 問。經云大通智勝佛十劫坐道場佛法不現前不得成佛道。何故久坐十劫不得成佛。何名法不現前 答。據論實行因滿名成。為物潛形示言始就稟機赴感延促任情。緣彼群品經停十劫化物未暢法不現前。機教相應方言乃現故。大威德世尊。為度眾生故。於無量億歲爾乃成佛 問。大通智勝佛。即轉十二行法輪。未知何者是十二行法輪。假出數列名解義答。十二行法輪者。謂三轉四諦謂也。三轉者。一示相轉。二勸修。三引證。示相者謂此是苦。此是集。此是滅。此是道。勸修者。謂者汝應證道汝應修。引證者。謂引已以為證者。我已知集。我已斷滅。我已證道。我已修三四即是十二也。又解四諦各有四行即十二。苦諦下四行者。謂因舉有緣。滅諦下四行者。謂滅正妙離。道諦下四行者。謂道如我四諦諦別三轉四行各有十二行。今言十二者。以四諦俱同三共十二。舉其通數言十二行法輪。

寿量品は、三つの仏の菩提について約束し判断しています。三つとは法菩提のことです。下の経文に「釈迦は宮殿に生まれ、伽耶に来た」とあります。これは化菩提です。また「諸善男子よ、私は実に成仏して以来、無量無辺那由他劫を経ている」とあります。これは報仏菩提です。また経文に「実でもなく虚でもなく、如でもなく異でもなく、三界を見るが如く三界を見ない」とあります。これは法菩提です。

問い:長短に矛盾はなく、有無は願いに応じて返るというのに、どうして六十小劫が「食頃の如し」と言えるのでしょうか。理に隔たり、言葉に矛盾があるように思えますが、どのように弁明されますか。

答え:六十劫も食頃も、ともに時間に含まれます。長短は異なりますが、心が変わらなければ違いはありません。もし心が分別を起こせば、長短に違いが生じます。もし三界が唯心ならば、長短は二つではありません。だから須弥山が芥子を納め、万国が毛先に集まるのです。これは心が長ければ長くなるのであって、定まった長短があるわけではありません。

問い:なぜ水を歩き火を飛び越える時は名を称えるだけで礼拝せず、男子を求め女子を請う時は礼拝するのに名を称えないのでしょうか。詳しく説明してください。

答え:観音は衆生を教化し、救済を本懐としています。観音と号する以上、理にかなって称嘆すべきです。孤独で男女を求める願いは、苦難が絶えず、自らが身を屈めて礼拝するからです。水火の災難は命を失う恐れがあるため、急いで名を称えるだけで、わざわざ身を屈めて礼拝する必要はありません。

問い:提婆達多品はどのような意義を明らかにしていますか。

答え:品の中では、法華経には三つの力があることを示しています。第一に、達多がこの法華経を説いたため、自ら成仏し、成仏の力を得ました。第二に、文殊がこの法華経を説いたため、無辺の菩薩が悟りを開き、広大な力を得ました。第三に、龍女が修行し、現身成仏したため、速やかな力を得ました。

問い:薬王菩薩が「法華経を読誦する者は、仏の荘厳をもって如来の肩に担われる」とあるのは、どういう意味ですか。

答え:これは諸品の中の経文です。如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐ることを意味します。それ故に荘厳され、肩に担われるのです。

問い:この経に「方便の門を開き、真実の相を示す」とありますが。

答え:方便の門とは、小乗の方便の門を開き、一仏乗に入ることが真実です。

問い:見宝塔品はどのような意義を明らかにしていますか。

答え:清浄な国土が無上であることを明らかにしています。故に論に「清浄な国土の無上を示すため、多宝如来の塔を示す」とあります。

問い:どのような人を有功德の人と言いますか。

答え:有学の声聞の人です。少ない煩悩を断じたので功德があります。珠の譬えの中で、前に家屋を与えて小果を示し、後に明珠を与えて大衆に与えたのは、対治のためです。論に「功德ある人が大乗法を説くが、大乗の対治ではない」とあります。これが王が髻中の明珠を解いて与える譬えであり、無上の説とも言います。

問い:地踊出品はどのような意義を明らかにしていますか。

答え:衆生を教化することが無上であることを明らかにしています。論に「衆生教化の無上を示すため、無量の菩薩が地から踊り出ることを説く」とあります。

問い:功德を挙げない人への対治とは何ですか。

答え:三乗の種性の人です。仏が一乗を説いても、受け持って修習しないからです。医師の譬えの中で、医師が権巧方便を用いて癡子に眼を開かせ、妙薬を与えるように、仏が滅度を示して鈍根の者が一乗を修めることを説いています。論に「功德なき人は第一乗に対して功德を挙げず、第一乗を説いても対治を取らない」とあります。これが医師の譬えを説く理由です。また、涅槃が無上であることも示しています。論に「涅槃を現さない無上を示すため、医師の譬えを説く」とあります。

問い:陀羅尼とは何ですか。何を体としますか。

答え:慧を体とします。涅槃経に「陀羅尼はまた大念であり、また無事の慧とも言う。念とは定であり、定は慧を生じる」とあります。維摩経に「念定持」とあるのもこの意味です。

問い:呪とは何ですか。

答え:呪の言葉は三つの意義を出ません。三宝の功德を説いて聞く者に発心させたり、大いなる神力の勢いを説いて諸魔を驚退させたり、甚深な法相を説いて聞く者に悟りを得させたりします。

問い:方便品で小乗の人に九部経を説いていますが、十二部経の中で説かれていないのは何ですか。

答え:授記経、無自説経、方広経です。

問い:経に「中に人が言う。汝ら諸子らは先に遊戯のためにこの宅に入った」とあり、また「汝ら諸子らは何者か、この宅に入り、どこから来たのか」とありますが。

答え:十方諸仏が「この宅に入る」と言うのは、凡夫の人々が行いはまだ願いの門を出ていませんが、すでにその人の本願を出ているからです。故にこの宅に入るのです。

問い:あなたが説法するには必ず要帰がありますが、この経は何を宗旨としますか。

答え:諸師が宗旨を弁じるのにそれぞれ異なります。今、微宗に依れば二種あります。一つは体宗、二つは用宗です。二でもなく一でもないのが体宗です。三を破って一に帰するのが用宗です。法には二つの会いはなく、器に対して名を得ます。仮を会して真に帰すれば、三の形が立ち、一の名も三となります。故に法句経に「一もまた一とせず、諸数の破ることを欲し、浅い識見が一を見て一と為す」とあります。これがその意味です。浄法師は一乗を宗旨とします。

問い:仏が法華経を説くのに、なぜ法華三昧に入らず、無量義処三昧に入るのですか。

答え:法華論に「この大乗修多羅には十七種の名がある。第一の名は無量義処経、第十六の名は法華である」とあります。故に無量義処三昧に入ることは、法華三昧に入ることだと分かります。

問い:なぜ法華を説こうとする時、眉間の白毫相から光を放ち、他の場所からは放たないのですか。

答え:この法華を説くのは、一乗の中道を表したいからです。故に眉間から光を放ちます。

問い:この経は一乗の甚深なる行いを明らかにしているのに、なぜ菩薩に告げず、声聞に告げるのですか。

答え:論に五つの意義があると明かされています。第一に、諸声聞が教化の対象であるため。第二に、諸声聞が大菩提を迴向して取るため。第三に、諸声聞の恐怖と弱さを談ずるため。第四に、解く人に善く思念させるため。第五に、諸声聞に所作已辦の心を起こさせないためです。

問い:法華会には一万二千の声聞がいますが、なぜ舎利弗だけに告げ、他の人には告げないのですか。

答え:舎利弗は如来と相応しているからです。故に舎利弗だけに告げ、他の人には告げません。

問い:仏が光明を放てば、普く照らすはずです。なぜ有頂天まで照らし、空処以上は照らさないのですか。

答え:解釈に二種あります。第一に、二乗はもともと色法であり、有頂天まで及び、空処以上には及ばないためです。第二に、大乗の解釈によれば、如来の光は一切に遍く、照らさないものはありません。故に経に「上は有頂天に至り、下は水際に至る」と説かれています。これは化相について説き、十方に遍く通じることを大乗に基づいて説いているのです。

問い:経に「比丘が実に阿羅漢を得たならば、もしこの法を信じなければ是の処無し」とありますが、その意味は何ですか。

答え:退菩提心の声聞や応化の声聞が阿羅漢を得たとしても、法華の一乗の法に対して決して生じる信心はありません。この乗には是の処が無いのです。

問い:五濁とは何ですか。何が五濁ですか。

答え:濁乱して清浄でないことを濁と言います。濁の意義は異なり、五つあります。経に一に劫、二に煩悩、三に衆生、四に見、五に命とあります。劫とは時です。劫の中に有為の濁があるので劫濁と言います。煩悩とは四住を他門にさせ、煩悩と言います。煩悩が心を迷わせるので煩悩濁と言います。衆労が行人を乱すので煩悩濁と言います。法が生を成すので衆生濁と言います。邪見が決断するので見濁と言います。色を違えて持つので命と言い、体は名に従うので命濁と言います。寿命が長短するので命濁と言います。体を出すものは、衣食などの命の縁を劫濁の体とし、貪瞋癡の三毒を煩悩濁の体とし、命根を衆生濁の体とし、五見を便として見濁とし、命根を体とします。

問い:現瑞の時、なぜ弥勒が疑いを生じ、正説の中で由子が清らかに騰るのですか。

答え:現瑞は一部の経の因果の意義を通じて来ます。ただ仏のみが了知でき、窮子は未知です。だから弥勒が疑うのです。正説は偏って身子に対し、身子は異なる瑞相を執するからです。故に疑いを生じて請うのです。

問い:「小法を楽む者」と言うのに、なぜまた「生死に貪着する」と言うのですか。

答え:現在の機縁は過去の久遠において生死に貪着していたからです。また、小法を楽むことは生死に貪着することであると解釈します。小涅槃はすなわち大乗の生死だからです。

問い:人天の善根は既に德とする所ですが、なぜこの経は仏道に比べられるのですか。

答え:人天の善根は仏に違う縁であるからです。故に「仏となる」と言うのです。

問い:両足尊とは何ですか。

答え:心の定慧を両足とする説、権実を両足とする説、縁行を両足とする説、人天を両足とする説があります。

問い:なぜ「樹を観てまた経行する」と言うのですか。

答え:如来がこの樹下で成道し、根樹を思うからです。達行者は本来、道を取るために坐し、命を得て道意を得るからです。故に経行するのです。

問い:仏は衆生のために出て、当然説法すべきです。なぜ請いを待つのですか。

答え:論に「仏は請いを必要としないが、請う者に福を得させるため」とあります。

問い:諸天が請うのは、人が請わないからですか。

答え:天は人に勝るからです。故に天が請うことを明らかにし、人が請うことを明らかにしないのです。

問い:譬喩品はどのような意義を明らかにしていますか。

答え:品の中では、初めに舎利弗の記を据え、後に火宅の譬えを明らかにし、勢力を求める人の倒求と増上慢に対治しています。これは欲界の凡夫が勝れた界の理を壊し、実は粗弊であるのに楽と計るので倒求と言います。火宅の譬えの中で、三車の光明は大苦を抜き、縁が合って理に入り、大乗を与えます。論に「世間の諸煩悩が熾然として、人天を妙境と為す。この相に対治して火宅の譬えを説く」とあります。

問い:この経の大いなる宗は三を破って一味に帰することですが、三を破り会うこととどう違うのですか。

答え:病に据えて言えば三を破って帰します。行いに約して悟れば三を会して一に帰します。病はともに破って会わず、行いはともに会って破りません。

問い:昔は諸大乗経を菩薩行として説きましたが、今なぜまた菩薩行を後にしますか。仮に解釈してください。

答え:菩薩には二種あります。一つは直往、二つは回小入大です。直往の菩薩は、華厳座の下で諸菩薩のために大乗経を説き、無量義経や菩薩法仏所護念などを名づけます。故に下の文に「先に修習して小乗を学ぶ者を除く、如来の人、今我が是の経を得て仏慧に入る」とあります。回小入大の菩薩は、法華座で広く譬喩を説き、心宿草菴や漸浅長などの事を説きます。

問い:五百由旬を度るとは何ですか。化城とは何ですか。宝所とは何ですか。

答え:五百は要法であり、三界を三百とし、二百は習二乗の涅槃を喩えます。後の一百は四住の習二乗が回心して初地を知ることを喩えます。初地を知ることを一百とすれば五百となります。もし二乗を二百とすれば妨げがあります。化城は仮の果であり、既に度ったからです。化城の後、方便で二百を度ります。しかし二乗はまだ宝所を過ぎていません。なぜ二百を進む必要があるのですか。二界は五道であるため、五百を通じて五百と総称します。化城とは、無から忽然と現れるので化と言い、非を防ぎ敵を捍ぐので城と言います。三百由旬を度り、衆人が退くのを防ぎます。商主は方便として権に二乗の滅諦涅槃を説き、その疲れを解き、前進させて宝所に趣かせます。宝とは諸師によって異なります。人に随って異なるのです。今この文に案ずれば、種性の阿羅漢が回心する位は十信に当たります。もし断惑を論ずれば初地と功を同じくし、心位は十信と同じです。その究竟を論ずれば、仏地でようやく進求を息めます。今、大乗の果が満ちる故に宝と言います。蔵法師は三界を三百とし、二原を二百として五百とします。恵浄法師は五道を五百とし、三途を三百とし、人天を二百として五百とします。これらを宗として三類が異なりますが、地の意は同じです。

問い:如来の十八不共法とは何ですか。

答え:一に身に失無く、二に口に失無く、三に念に失無く、四に不定心無く、五に異相無く、六に不知を以て捨心無く、七に欲に減無く、八に念に減無く、九に智に減無く、十に通に減無く、十一に解脱に減無く、十二に解脱知見に減無く、十三に身業に智慧の行を修し、十四に口業に智慧の行を修し、十五に意業に智慧の行を修し、十六に智慧に過去の事に障無く、十七に智慧に未来の事に障無く、十八に智慧に現在の事に障無く。身口意の三業は既に離れ、三業清浄である故に失無しと言います。乃至智慧は三世を懸けて鑒み、皆悉く通達する故に事無しと言います。この十八はただ仏のみが独り証し、菩薩や声聞は皆得ることができない故に不共と言います。疏に体を言えば、八法を体とします。思・相・欲・勝解・念・定・慧・勤です。

問い:十力とは何ですか。

答え:十力とは、一に処非処力、二に業力、三に定力、四に根力、五に念力、六に性力、七に過処道力、八に宿命力、九に天眼力、十に漏尽力です。

問い:経に「五衆の生滅」とありますが、何が五衆ですか。数と名を挙げて意味を解釈してください。

答え:五衆とは五陰です。名を挙げれば、色・受・想・行・識です。色には青黄赤白があり、乃至識には八種あります。五つそれぞれが一でないので衆と言います。また、この五陰には多くの生滅があるからとも言えます。涅槃経に「五陰を衆生と名づけ、衆生を五陰と名づける」とあります。これがその証です。

問い:経に「即ち方便として涅槃の真実法を説く」とありますが、何が涅槃の真実法ですか。

問。經云大聖轉法輪度苦惱眾生。未知大聖是□轉何法輪云何名轉 答。大聖者謂大通智勝佛也。斯乃十方無比三界獨尊。神化通機故言大聖。轉法輪者以已所得說據群機法從佛流謂之為轉。輪者以修環運動為義。如來放命機攝眾生。以機行教轉凡成聖故曰法輪。轉何輪者對彼三根轉三乘教。謂四諦十二緣六波羅蜜也。惣而言之法輪有三。一名轉法輪。二名照法輪。三名轉輪。三乘別機教俱識未得究竟。為一乘所收有遷動之名為轉。為大菩薩等說諸部波若。顯理途明照彼大機名照法輪。大乘頓教果得圓滿。惣苞三乘眾聖共臻諸佛護念名持法輪。今明大通三輪俱轉故。上文言時三轉十二法輪。及廣說十二因緣法。為十六王子說阿耨菩提法。即其義也 問。經言百福相莊嚴何者是 答。如來具三十二相。一相中皆以百福者。以十善業為本。十善者始從不殺乃至不邪見。翻其十惡即名十善。即此十善即五十心初心猛利得五十福。後心終成得五十福即成百福 問。經云入邪見稠林。若有若無等具足六十二。六十二見者何 答。六十二見者。謂世間常無常亦常亦無常非常非無常等四句。有邊無邊亦有邊亦無邊非邊非非邊等四句。如如不如如非如如非非如如等四句。三四十二句偈迷五陰。一一陰中各作十二句即六十帖。是身命各異命異二句即成六十二。

問:経典に「大聖が法輪を転じて苦悩の衆生を度す」とありますが、大聖とは誰であり、どのような法輪を転じるのでしょうか。また、「転じる」とはどういう意味ですか。

答:大聖とは、大通智勝仏のことです。この方は十方世界に比類なく、三界の中で唯一尊い存在であり、その神妙な教化はあらゆる機根に通じるため、「大聖」と称されます。法輪を転じるとは、自ら悟られた法を、衆生の機根に応じて説き示すことです。法が仏から流れ出ることを「転じる」と言います。「輪」とは、円環が回転して動くことを意味します。如来が教えを放ち、衆生の機根をとらえて、その機根に応じた教えによって凡夫を聖者へと転じさせるため、「法輪」と呼ぶのです。

どのような輪を転じるかと言えば、三種の機根に対応して三乗の教えを転じます。すなわち、四諦・十二因縁・六波羅蜜です。総括すれば、法輪には三種類あります。一つは「転法輪」、二つ目は「照法輪」、三つ目は「持法輪」です。三乗のそれぞれの機根と教えは、まだ完全な悟りを得ておらず、一乗の教えに収められる段階にあるため、変化・移動があるという意味で「転」と言います。大菩薩などに対して諸部の般若経を説き、真理の道を明らかに照らし出し、大いなる機根を目覚めさせることを「照法輪」と言います。大乗の頓教は、悟りの結果が円満に得られ、三乗を総括し、すべての聖者が共に至り、諸仏に護念されるため、「持法輪」と言います。今、大通智勝仏が三つの法輪をすべて転じたことを明らかにしています。ですから、先の経文に「時に三転十二法輪」とあり、さらに十二因縁法を広く説き、十六王子に対して阿耨多羅三藐三菩提の法を説かれたのです。これがその意味です。

問:経典に「百福の相をもって荘厳す」とありますが、それはどのようなものですか。

答:如来は三十二相を備えていますが、その一つの相ひとつに、すべて百福が具わっています。百福とは、十善業を根本とします。十善とは、不殺生から始まり、不邪見に至るまで、十悪を反転させたものです。この十善が、五十の心となります。初めの心が強く鋭利であれば五十福を得、後の心が完成すれば五十福を得て、合わせて百福となります。

問:経典に「邪見の稠林に入り、若有若無など六十二を具足す」とありますが、六十二見とは何ですか。

答:六十二見とは、世間は常住である、無常である、常住でもあり無常でもある、常住でもなく無常でもない、という四句。有辺である、無辺である、有辺でもあり無辺でもある、有辺でもなく無辺でもない、という四句。如如である、不如如である、如如でもなく不如如でもない、という四句。これら三組の四句、計十二句が五陰に迷い、それぞれの陰ごとに十二句を立てると六十となります。さらに、身と命は異なる、命と身は異なる、という二句を加えて、合わせて六十二となります。


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