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  1. 縁生論 (緣生論)
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縁生論 (緣生論)

「緣生論」について

隋 · 欝楞迦造 著 · 底本の訳者:達磨笈多

4,793 字 · 約 16 分

『縁生論』は、古代インドの論師ウッランガによって著された重要な仏教論書で、隋代の訳経僧ダルマグプタによって漢訳されました。本論は偈頌の形式で十二縁起の思想を解釈し、無明から老死に至る輪廻の過程と、その滅尽の原理を体系的に論じています。その核心は我執を破り、縁起性空の深遠な意義を明らかにすることにあります。この論はアビダルマ体系に属し、部派仏教の縁起理論に関する精髄を凝縮したもので、仏教の因果哲学と解脱の道を研究する上で重要な文献です。漢伝仏教においては承前啓後の学術的役割を果たし、後世の唯識と中観の縁起思想に対する理解に深遠な影響を与えています。


緣生論序

縁生論序

原是一心,積為三界,癡流漫遠,苦樹欝高,欲討其際,難測其本。理極實相之門,筌窮假名之域,五因七果、十有二分緣生之法,總備於此,凡則迷而起妄,聖則悟以通真,下似免浮,上如象度。大哉妙覺,淵乎洞盡,十地與雙林俱暢,聞城共稻芉咸敷。至若此經,獨苞彼例,彼所未說,此乃具演。攀緣為首,對治為末,總則一十一門,別則百二十問。其旨微而密、其詞約而隱,經之綱目,攝在茲焉。并有聖者欝楞迦,附此經旨作論。顯發其論也,遍取三乘之意,不執一部之筌,先立偈章,後興論釋,偈有三十,故亦名三十論也。大業二年十月,南賢豆國(舊名天竺者訛也)三藏法師達磨笈多,與故翻經法師彥琮,在東都上林園,依林邑所獲賢豆梵本,譯為隋言。三年九月其功乃竟,經二卷,論一卷。三藏師,究論閑明、義解沈密;琮法師,博通經論、兼善梵文。共對葉本,更相扣擊,一言靡遺,三覆逾審,辭頗簡質,意存允正,比之昔人,差無尤失,真曰法燈,足稱智藏。願窮後際,常益世間。云爾。

もとは一心であり、積もって三界となりました。無明の流れは限りなく広がり、苦しみの樹は高くそびえています。その果てを尋ねようとしても、その本を測ることは難しいのです。

理は実相の門に極まり、言葉の道具は仮名の領域を尽くします。五因・七果、十二有支の縁生の法は、すべてここに備わっています。凡夫は迷って妄念を起こし、聖者は悟って真理に通じます。下は浮きを免れるかのようであり、上は象が渡るかのようです。大いなるかな、妙覚よ。深くして隅々まで尽くし、十地と双林はともに暢び、聞城と稲芉はともに開き広がります。

この経に至っては、ただにかの例を包み、かの説かなかったところを、ここではことごとく演べています。攀縁を初めとし、対治を終わりとし、総じては十一門、別しては百二十問です。その趣旨は微細で密であり、その言葉は簡約で含みがあります。経の綱目は、ここに収まっているのです。

また聖者鬱楞迦が、この経の趣旨に付して論を作りました。その論を顕発するにあたり、広く三乗の意を取って、一部の言葉の道具に執着せず、まず偈の章を立て、後に論の釈を起こしています。偈は三十あるので、三十論とも名づけられます。

大業二年十月、南賢豆国(古くは天竺と名づけたのは誤りです)の三蔵法師達磨笈多が、故翻経法師彦琮とともに、東都上林園において、林邑で得た賢豆の梵本に基づいて、隋の言葉に訳しました。三年九月にその功はついに成就し、経二巻、論一巻となりました。三蔵師は論を究めて明らかに通じ、義解は深く密です。琮法師は経論に博通し、兼ねて梵文にも優れています。ともに葉本に向かい、互いに問い質し、一言も遺さず、三度繰り返してさらに審らかにしました。言葉はやや簡素で質朴ですが、意は公正で正しいことを保っています。昔の人に比べても、大きな過ちはまずありません。まことに法灯と言うべく、智蔵と称するに足ります。願わくは後の際を尽くして、常に世間を益せんことを。

緣生論

縁生論

聖者欝楞迦造

聖者鬱楞迦造

大隋南印度三藏達磨笈多譯

大隋・南インドの三蔵、達磨笈多(だるまぎゅうた)訳

從一生於三, 從三轉生六,
六二二更六, 從六亦生六。
從六有於三, 此三復有三,
三復生於四, 四復生於三。
從三生於一, 彼一復生七,
於中所有苦, 牟尼說皆攝。
十二種差別, 善淨說為空,
緣生分力故, 應知十二法。
無智與業識, 名色根三和,
知渴及以取, 集出熟後邊。
初八九煩惱, 第二第十業,
餘七皆是苦, 三攝十二法。
初二是過去, 後二未來時,
餘八是現在, 此謂三時法。
惱起業感報, 報還生煩惱,
煩惱復生業, 亦由業有報。
離惱何有業? 業壞亦無報?
無報則離惱, 此三各自滅。
五分因生果, 名為煩惱業,
七分以為果, 七種苦應念。
因中空無果, 因中亦無因,
果中空無因, 果中亦無果,
因果二俱空, 智者與相應。

一から三が生じ、三から転じて六が生じます。 六から二と二、さらに六が生じ、六からまた六が生じます。 六から三があり、この三からまた三が生じます。 三からまた四が生じ、四からまた三が生じます。 三から一が生じ、その一からまた七が生じます。 その中にあるすべての苦しみは、牟尼がみな摂すると説かれました。 十二種の区別を、善く清らかな方が空と説かれました。 縁生の分の力によるので、十二の法を知るべきです。 無智と業と識、名色と根の三和、 知と渇と取、集と出と熟と後辺です。 初めの八と九は煩悩、第二と第十は業、 残りの七つはみな苦であり、三つが十二の法を摂します。 初めの二つは過去、後の二つは未来の時、 残りの八つは現在であり、これを三時の法といいます。 煩悩が起こって業が報いを感じ、報いがまた煩悩を生み、 煩悩がまた業を生み、また業によって報いがあります。 煩悩を離れてどうして業がありましょう。業が壊れればまた報いもありません。 報いがなければ煩悩を離れ、この三つはそれぞれ自ら滅します。 五分は因が果を生むのであり、これを煩悩と業と名づけます。 七分を果とし、七種の苦を念じるべきです。 因の中は空で果はなく、因の中にもまた因はありません。 果の中は空で因はなく、果の中にもまた果はありません。 因果の二つはともに空であり、智慧ある者はこれと相応します。

(梵本一偈今為一偈半)

(梵本では一偈のところを、今は一偈半としています)

世中四種分, 因果合故有,
煩惱業果合, 念欲為六分。
有節所攝故, 二節及三略,
因果雜為節, 三四節總略。
二二三三二, 苦時有五法,
作者胎境界, 發轉生流行。
迷惑發起果, 報流果為二,
相應根分中, 一一三二分。
熱惱貧乏果, 轉出津流果,
相應他分中, 二一一一法。
此有十二種, 等力緣自生,
無眾生無命, 無動以慧知。
無我無我所, 無我無我因,
四種無智空, 餘分亦如是。
斷常二邊離, 此即是中道,
若覺已成就, 覺體是諸佛。
覺已於眾中, 仙聖說無我,
曾於城喻經, 導師說此義。
迦栴延經說, 正見及空見,
破邏具膩經,
亦說殊勝空。 緣生若正知,
彼知空相應, 緣生若不知,
亦不知彼空。 於空若起慢,
則不厭受眾, 若有彼無見,
則迷緣生義。 緣生不迷故,
離慢彼知空, 及厭受眾故,
不迷業果合。 業作緣續生,
亦非不緣此, 空緣當有此,
業報受用具。 十二分差別,
前已說緣生, 彼煩惱業苦,
三中如法攝。 三中生於二,
二中生於七, 七中復生三,
有輪如是轉。 因果諸生世,
無別有眾生, 唯是於空法,
還自生空法。 藉緣生煩惱,
藉緣亦生業, 藉緣亦生報,
無一不有緣。 誦燈印鏡音,
日光種子酢, 眾續不超到,
智應觀彼二。

世の中の四種の分かれは、因果が合わさるからあります。 煩悩と業と果が合わさり、念と欲とで六分となります。 有節に摂められるので、二節と三略があり、 因果が雑じり合って節となり、三四節を総略します。 二・二・三・三・二と、苦の時には五つの法があり、 作者と胎と境界と、発・転・生・流行です。 迷惑が発起する果と、報流の果とで二つとなり、 相応の根の分のうちで、一つ一つが三ないし二に分かれます。 熱悩と貧乏の果と、転出津流の果と、 相応の他の分のうちで、二・一・一・一の法です。 これには十二種があり、等しい力の縁によって自ら生じます。 衆生もなく命もなく、動くこともないと、慧によって知ります。 無我であり無我所であり、無我には我の因もありません。 四種の無智は空であり、残りの分もまた同じです。 断と常の二つの辺を離れ、これがすなわち中道です。 もし覚ってすでに成就すれば、覚の体は諸仏です。 覚ってのち会衆のうちで、仙聖は無我を説きました。 かつて城喩経において、導師はこの義を説かれました。 迦栴延経には正見と空見を説き、(張宿の名です)破邏具膩経にも、 また殊勝な空を説いています。縁生をもし正しく知れば、 その知は空に相応します。縁生をもし知らなければ、 その空をも知りません。空に対してもし慢を起こせば、 則ち衆を受けることを厭いません。もし彼に無見があれば、 則ち縁生の義に迷います。縁生に迷わないゆえに、 慢を離れて彼は空を知り、また衆を受けることを厭うゆえに、 業と果の合わさることに迷いません。業が作られ縁が続いて生じ、 またこの縁によらないことはありません。空の縁があってまさにこれあり、 業の報いと受用の具が備わります。十二分の差別は、 前にすでに縁生を説きました。かの煩悩と業と苦は、 三つのうちに如法に摂められます。三つのうちから二つが生じ、 二つのうちから七つが生じ、七つのうちからまた三つが生じ、 有輪はこのように回っています。因果の諸々の生の世には、 別に衆生があるのではありません。ただこれ空の法が、 還って自ら空の法を生じるだけです。縁を藉て煩悩が生じ、 縁を藉てまた業が生じ、縁を藉てまた報いが生じ、 一つとして縁のないものはありません。誦・灯・印・鏡・音、 日光・種子・酢、衆の相続は超え到ることはなく、 智はまさに彼の二つを観ずべきです。

緣生三十論本竟緣生三十論,我當隨順次第解釋。

『縁生三十論』の本文はこれで終わります。『縁生三十論』を、私は順序にしたがってこれから解釈しましょう。

從一生於三, 從三轉生六,
六二二更六, 從六亦生六。

一から三が生じ、三から六が転じ生じます。 六から二が二つ、さらに六が生じ、六からもまた六が生じます。

從一生於三者,一謂無智,此無智者說名無明,於苦集滅道中不覺知故,名為無智。由無智故則有福、非福、不動說名三行,及身行、口行、心行等從其轉生。從三轉生六者,從彼三行生六識身,所謂眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。六二者,彼六識身轉生二種,所謂名、色。二更六者,名色二種轉生六入,所謂眼入、耳入、鼻入、舌入、身入、意入。從六亦生六者,從彼六入轉生六觸,所謂眼觸、耳觸、鼻觸、舌觸、身觸、意觸。
從六有於三, 此三復有三,
三復生於四, 四復生於三。
從六有於三者,從彼六觸轉生三受,所謂樂受、苦受、不苦不樂受。此三復有三者,還從彼等三受轉生三種渴愛,所謂欲渴愛、有渴愛、無有渴愛。三復生於四者,從彼三種渴愛轉生四取,所謂欲取、見取、戒苦行取、我語取。四復生於三者,從彼四取轉生三有,所謂欲有、色有、無色有。
從三生於一, 彼一復生七,
於中所有苦, 牟尼說皆攝。
從三生於一者,還以彼等三有作緣,生當來一種生。彼一復生七者,還從彼一,當有老、死、憂、悲、苦、惱、困等七種。於中所有苦牟尼說皆攝者,於中無明為始、困為終,無量種苦,世尊略說,皆此所攝。
十二種差別, 善淨說為空,
緣生分力故, 應知十二法。
十二種差別善淨說為空者,此無智等各別不雜,有十二分。又彼皆自性空,應當正見如此所說唯是空法、自生空法。緣生分力故應知十二法者,若以次第生分力故,彼十二法如是應知,彼中迷惑相者是無明;彼行句處,積集當有相者是行;彼識句處,次受生分轉出相者是識;彼名色句處,名身色身和合相者是名色;彼六入句處,相安置相者是六入;彼觸句處,眼、色、識共聚相者是觸;彼受句處,愛不愛受用相者是受;彼渴愛句處,無厭足相者是渴愛;彼取句處,執持攝取相者是取;彼有句處,名身色身相者是有;彼生句處,五眾出生相者是生;彼老句處,成熟相者是老;彼死句處,命根斷者是死;彼憂句處,高舉相者是憂;彼悲句處,哭聲者是悲;彼苦句處,身燒熱相者是苦;彼惱句處,心逼惱相者是惱;彼困句處,極疲乏相者是困。
無智與業識, 名色根三和,
知渴及以取, 集出熟後邊。
於中無智者是無明。業者是行。識者是解。名色者是五眾總聚。根者是入。三和者是觸。知者是受。渴者是渴愛。取者是執持。集者是有。出者是生。熟者是老。後邊者是死。
又此等差別相攝,我當次第說之。於中業、煩惱、報差別:
初八九煩惱, 第二第十業,
餘七皆是苦, 三攝十二法。
三煩惱者,無明、渴愛、取。二業者,行、有。七報者,識、名色、六入、觸、受、生、老死等。此十二法,三種所攝。
又時差別:
初二是過去, 後二未來時,
餘八是現在, 此謂三時法。
無明、行初二種,過去時中。生、老死後二種,未來時中。識、名色、六入、觸、受、渴愛、取、有八種,現在時中。
又此等各各次第相生。
惱起業感報, 報還生煩惱,
煩惱復生業, 亦由業有報。
煩惱、業、報三種如前所說,由彼煩惱故有業,由業故有報,還由報故有煩惱,由煩惱故有業,由業故有報。
問曰:由煩惱盡各各寂滅。其義云何?答曰:
離惱何有業, 業壞亦無報,
無報則離惱, 此三各自滅。
若其此心無煩惱染則不集業,若不作業則不受報,若滅報者亦不生煩惱。如是此三各各自滅。
又此等有因果分。
五分因生果, 名為煩惱業,
七分以為果, 七種苦應念。
五種因名為煩惱業者,如前所說無明、行、渴愛、取、有是也。七種果轉生者,亦如前所說七種苦,所謂識、名色、六入、觸、受、生、老死是也。又此因果二種空。
因中空無果, 因中亦無因,
果中空無因, 果中亦無果,
因果二俱空, 智者與相應。
若此所說因果二種,於中若因空果,果亦空因;如是因亦空因,果亦空果。於此四際,當與相應。
又此更有別分。
世中四種分, 因果合故有,
煩惱業果合, 念欲為六分。
世中四種分因果合故有者,道中五種因及七種果和合,故總略為四種,次第有四種分。於中無明、行,過去時中,二法為第一分。識、名色、六入、觸、受,現在時中,為第二分。渴、愛、取、有亦是現在時中,為第三分。生、老死,未來時中,二法為第四分。此謂四種分也。煩惱業果合念欲為六分者,煩惱、業、報三種和合,以次第故,於二根本有六種分。於中無明所攝乃至受,以無明為根。渴愛所攝乃至老死,以渴愛為根。無明根中,無明是煩惱分,行是業分,識、名色、六入、觸、受是報分。渴愛根中,渴愛、取是煩惱分,有是業分,生,老死是報分。
又節分總略。
有節所攝故, 二節及三略,
因果雜為節, 三四節總略。
有節為本,發起二節,所謂有、生兩間為第一節,行、識兩間是第二節,此二並為業果節。受、渴愛中因果共雜是第三節。此之三節復為四種總略。無明、行二種是第一總略,識、名色、六入、觸、受五種是第二總略,渴愛、取、有三種是第三總略,生、老死二種是第四總略。此謂三節及四總略。
又此等法中住時差別。
二二三三二, 苦時有五法,
作者胎境界, 發轉生流行。
二二法者,無明、行說為二種,識、名色說為二種。三三者,六入、觸、受說為三種,渴愛、取、有說為三種。又二者,生、老死說為二種。此等五法,是苦時中作者、胎藏、境界、發轉、出生,於中流行,如數當知。於中無明、行二種,說為苦時中作者,應如是見。識、名色二種,說為苦時中胎藏,應如是見。六入、觸、受三種,說為苦時中境界。渴愛、取、有三種,說為苦時中發轉。生、老死二種,說為苦時中出生。
又果差別。
迷惑發起果, 報流果為二,
相應根分中, 一一三二分。
如前所說,此無明根及渴愛根,於無明根第一分中迷惑,發起報流,名四種果。一一三二數分之中,隨其次第當與相應。於中無明是迷惑果,行是發起果,識、名色、六入是報果,觸、受是津流果。復有餘殘果。
熱惱貧乏果, 轉出津流果,
相應他分中, 二一一一法。
如前所說第二渴愛根分中,熱惱貧乏轉生津流果等,隨其數分二一一一,於此法中當與相應。於中渴愛、取是熱惱果,有是貧乏果,生是轉出果,老死是津流果。如是此等則有八果。
此有十二種, 等力緣自生,
無眾生無命, 無動以慧知。
如是無明為初、老死為邊,有十二分,平等勝故各各緣生,而無眾生、無壽命、無動作,以慧應知。於中無眾生者,以不牢固故。無壽命者,以無我故。無動作者,以無作者故。
無我無我所, 無我無我因,
四種無智空, 餘分亦如是。
於無我中無智、無我所中無智、無我中無智、無我因中無智,此中以無我故,四種無智空。如四種次第無智空,如是行等餘分亦皆是空,應當知之。
斷常二邊離, 此即是中道,
若覺已成就, 覺體是諸佛。
有是常攝、無是斷攝,如此二邊彼作緣,彼處,彼處諸有轉生。離此二邊即是中道,若無智諸外道則墮於邊,若已覺悟諸佛世尊,則為覺體。於此世間獨能成就,餘人悉無此義。
覺已於眾中, 仙聖說無我,
曾於城喻經, 導師說此義。
彼亦是此中道覺已,於諸眾中佛說無我。所謂比丘!有我、我所,小兒凡夫無聞之類,順墮假名;於中無復我及我所。比丘!生時但苦生,滅時但苦滅。如《城喻經》中導師已說此義。又:
迦栴延經說, 正見及空見,
破邏具膩經, 亦說殊勝空。
此等三經及以餘處,如是之相世尊已說彼亦是此。
緣生若正知, 彼知空相應,
緣生若不知, 亦不知彼空。
於前所說緣生,若有正知,彼知無異。彼復何知?謂知於空。緣生若不知亦不知彼空者,於此緣生若其不知,亦於彼空不能解入。應當知之。
於空若起慢, 則不厭受眾,
若有彼無見, 則迷緣生義。
於空若起慢則不厭受眾者,若起空慢,則於五受眾中不生厭離。若有彼無見則迷緣生義者,若復由於無見迷此緣生義故,則於四種見中隨取何見,一者斷見、二者常見、三者自在化語、四者唯依宿世所作。
緣生不迷故, 離慢彼知空,
及厭受眾故, 不迷業果合。
緣生不迷故離慢彼知空者,於前所說各各緣生中若無迷心,及於攝取我我所中若得離慢,彼則如法能入於空。及厭受眾故不迷業果合者,五受眾中攝取我我所故,則遍世間輪轉不息;於彼受眾起厭離故,於此業果相續則無顛倒亦不迷惑。
又問:此義云何?
業作緣續生, 亦非不緣此,
空緣當有此, 業報受用具。
業作緣續生亦非不緣此者,煩惱業染如前所說,彼以如是淨不淨業,推遣眾生傍及上下相續而生。若非此業,則不作緣。若不然者,則未作竟而來,及已作竟而失(來謂業未作竟其果即來,失謂業已作竟其果便失)。空緣當有此業報受用具者,若由此等淨不淨業有報受用,則自性是空。本無有我、作緣發生,彼自性空亦應當知。彼義今更略說。
十二分差別, 前已說緣生,
彼煩惱業苦, 三中如法攝。
無明為初、老死為邊,是十二分緣生差別,如前所說。彼中三是煩惱、二是業、七是苦,皆已攝入。
三中生於二, 二中生於七,
七中復生三, 有輪如是轉。
無明、渴愛、取三種所生行有二種,彼二所生識、名色、六入、觸、受、生、老死七分。彼七分中如前所說還生三種,彼三復二,其二更七。是故二種次第不斷,此之有輪如是普轉。
因果諸生世, 無別有眾生,
唯是於空法, 還自生空法。
因果諸生世無別有眾生者,無明、行、渴愛、取、有五種名因,識、名色、六入、觸、受、生、老死七種名果,此等所有普遍世間。若我、若眾生、若壽、若生者、若丈夫、若人、若作者,是等為首,次第分別,其唯虛誑,應當知之。彼云何生?唯是於空法還自生空法,謂自性空中假名煩惱、業、果,唯有別空假名煩惱、業、果法生。此是其義。
藉緣生煩惱, 藉緣亦生業,
藉緣亦生報, 無一不有緣。
若有煩惱,則有種種無量種業,及種種業所生果報。彼皆共因共緣,應當知之。無有一處無因緣者。
又為明彼義,今更說譬喻。
誦燈印鏡音, 日光種子酢,
眾續不超到, 智應觀彼二。
如誦,有教誦者、受誦者,所有教誦不到受誦。何以故?教誦者仍安住故。其教誦者亦不相續。何以故?自不生故。如燈次第生,非是初燈超到,亦非第二無因而生。如是印與像二種、面與鏡二種、音與響二種、日與火二種、種子與芽二種、酢與舌涎二種,此等所有皆不超到,亦非不生,亦非無因而生。彼二種五受眾相續到時,非是初受眾超到,而第二受眾亦非不生亦非無因而生。智者於此受眾相續不超而次第到,應當正觀。
又外內受用俱有十種,皆應當見。於中外十種者,一者非常故、二者非斷故、三者不超到故、四者無中間故、五者非彼體故、六者非別異故、七者無作者故、八者非無因故、九者念念空故、十者同類果相繫故。彼外所有種子滅無餘故、非常芽出生故、非斷種子滅無餘已,其芽本無今有生故不超到。彼所相續無有斷絕,因果相繫故無中間。種子芽差別故非彼體,從彼出生故非別異,因緣和合故無作者,種子為因故非無因。種子芽莖枝葉花果等傳傳相生故念念空。甜酢醎苦辛澁隨因差別果轉出,故同類果相繫於中。內十種者,一者死邊受眾滅無餘故非常;二者得次生分受眾故非斷;三者死邊受眾滅無餘已,次生分受眾,本無今有生,故不超到;四者受眾相續無有斷絕,因果相繫故無中間;五者死邊次生分受眾差別故非彼體;六者從彼出生故非別異;七者因緣和合故無作者;八者煩惱業為因故非無因;九者迦羅邏、頞浮陀、箄尸、伽那奢佉、出胎、嬰孩、童子、少年、長宿等傳傳相生,故念念空;十者善不善熏,隨因差別果轉出,故同類果相繫。
又有三偈:
如燈炎轉生, 識身亦如是,
先際與後際, 亦無有聚集。
無生亦有生, 破壞無相著,
生已亦無住, 而此作業轉。
若於彼緣生, 而能觀知空,
為其施設教, 彼亦是中道。
於中無明、行、渴愛、取、有,是為集諦。識、名色、六入、觸、受、生、老死,是為苦諦。彼等十二分滅,是為滅諦。若於緣生如實能知,是為道諦。
緣生論

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