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  1. 大乗縁生論一巻 (大乘緣生論一卷)
  1. 大乗縁生論 (大乘緣生論)
  2. 大乗縁生論一巻 (大乘緣生論一卷)

大乗縁生論 (大乘緣生論)

「大乘緣生論」について

唐 · 欝楞迦造 著 · 底本の訳者:不空

4,379 字 · 約 15 分

『大乗縁生論』は、インドの論師である欝楞迦によって作られ、唐代の高僧・不空三蔵によって漢訳されました。この論は大乗仏教の典籍に属し、縁起の思想を核心として、すべての現象が因縁によって和合して生じ、自性が空であるという深い意味を明らかにし、唯識と中観の学説を融合させています。論の中では十二縁起を体系的に分析し、解脱に対する般若智慧の重要性を強調しています。この論は大乗仏教の縁起理論を研究する上で重要な文献であり、漢伝仏教思想の発展に深遠な影響を与え、特に唯識学派と中観学派の教義融合に理論的根拠を提供しました。


大乘緣生論一卷(聖者欝楞迦造)
開府儀同三司特進試鴻臚卿肅國公食邑三千戶賜紫贈司空諡大鑒正號大廣智大興善寺三藏沙門不空奉 詔譯

開府儀同三司・特進・試鴻臚卿・肅国公・食邑三千戸・紫衣賜与・司空

從一生於三, 從三轉生六,
六二二更六, 從六亦生六。
從六有於三, 此三復有三,
三復生於四, 四復生於三。
從三生於一, 彼一復生七,
於中所有苦, 牟尼說皆攝。
十二種差別, 智士說為空,
緣生支力故, 應知十二法。
無知與業識, 名色根三和,
領渴及以取, 集生熟次終。
初八九煩惱, 第二第十業,
餘七皆是苦, 三攝十二法。
初二是過去, 後二未來時,
餘八是現在, 此謂三時法。
煩惱業感報, 報還生煩惱,
煩惱復生業, 亦由業有報。
離惱何有業? 離業何有報?
無報則離惱, 此三各寂滅。
五支因生果, 名為煩惱業,
七支以為果, 七種苦應知。
因中空無果, 果中亦無因,
因中亦無因, 果中亦無果,
智者空相應。 世中四種支,
因果合故有, 煩惱業果合,
應許為六分。 有節所攝故,
二節及三略, 因果雜為節,
三四節總略。 二三二三二,
苦位有五法, 作者及藏界,
境轉生流行。 迷惑發起果,
等流果為二, 相應根分中,
一一三二分。 熱惱缺短果,
轉出等流果, 相應餘分中,
二一一一法。 此有十二種,
和合故緣生, 無眾生無命,
空無慧以知。 無我無我所,
無我無我中, 四種無知空,
餘支亦如是, 斷常二邊離,
此即是中道。 若覺已成就,
覺體是諸佛, 覺已於眾中,
聖仙說無我。 曾於城喻經,
導師說此義, 迦栴延經說,
正見及空見, 破邏遇拏經,
亦說殊勝空。 緣生若正知,
彼知空相應, 緣生若不知,
亦不知彼空。 於空若起慢,
於蘊不生厭, 彼名惡趣空,
則迷緣生義。 緣生不迷故,
離慢彼知空, 及厭於蘊故,
不迷於業果。 業作緣續生,
亦非不緣此, 空緣當有此,
業報受用具。 十二支差別,
先已說緣生, 彼煩惱業苦,
三中如法攝, 從三生於二,
從二生於七, 從七復生三。
有輪如是轉, 一切皆因果,
從空生於空, 從法生於法。
藉緣生煩惱, 藉緣亦生業,
藉緣亦生報, 無一不有緣。
誦燈印鏡音, 日光種子醋,
蘊續不移時, 智應觀彼二。

一から三が生じ、三から六が生じる。 六は二と二に分かれ、さらに六となり、六からまた六が生じる。 六には三があり、この三にはさらに三があり、 三から四が生じ、四からまた三が生じる。 三から一が生じ、その一から七が生じる。 この中にあるすべての苦しみは、牟尼(釈尊)が説くところのものに含まれる。 十二種の区別あるものは、智者によって空と説かれ、 縁起の支えの力によって、十二の法を知るべきである。

無明と業識、名色と六入、触、受、愛、取、有、生、老死。 最初の八と九は煩悩、第二と第十は業、 残りの七つはすべて苦であり、三つに十二の法が含まれる。 最初の二つは過去、最後の二つは未来、 残りの八つは現在、これが三時の法である。

煩悩と業が報いを招き、報いがまた煩悩を生む。 煩悩がまた業を生み、業によって報いがある。 煩悩がなければ業はなく、業がなければ報いはない。 報いがなければ煩悩は離れ、この三つはそれぞれ寂滅する。

五つの支えが因となって果を生じ、煩悩と業と呼ばれる。 七つの支えが果となり、七種の苦を知るべきである。 因の中に果はなく、果の中にも因はない。 因の中にも因はなく、果の中にも果はない。 智者は空に相応じる。世の中には四種の支えがあり、 因果が合わさるゆえに存在し、煩悩と業と果が合わさり、 六分として認められるべきである。

節によって含まれるゆえに、二節と三略があり、 因果が混ざり合って節となり、三と四の節が総略となる。 二、三、二、三、二、苦の位には五法があり、 作者と蔵界、境が転じて生じ流行する。 迷いが果を起こし、等流果は二つとなり、 相応の根の分け目において、一、一、三、二に分かれる。

熱悩と欠乏の果、転出と等流果、 相応の残りの分け目において、二、一、一、一の法がある。 これら十二種は、和合するゆえに縁起し、 衆生もなく命もなく、空であり智慧もなく知られる。 我もなく我所もなく、我もなく我の中にもなく、 四種の無知は空であり、残りの支えもまた同じである。 断と常の二辺を離れ、これが中道である。

もし覚りが成就すれば、覚りの本体は諸仏であり、 覚った者は衆中において、聖仙が無我を説く。 かつて城喩経において、導師がこの義を説き、 迦旃延経において説かれる、正見と空見。 破邏遇拏経においても、殊勝なる空が説かれる。 縁起を正しく知れば、その者は空に相応じることを知る。 縁起を知らなければ、その空も知ることができない。 空に対して慢心を起こせば、蘊に対して厭離が生じず、 それは悪趣の空と呼ばれ、縁起の義に迷うことになる。

縁起に迷わないゆえに、慢心を離れて空を知り、 また蘊に対して厭離するゆえに、業と果に迷わない。 業が縁となって続いて生じ、またこれに縁らないこともなく、 空の縁によってこれがあるべきであり、業報を受けるための道具である。

十二支の区別は、先に縁起として説かれた。 それら煩悩と業と苦は、三つの中に法として含まれ、 三から二が生じ、二から七が生じ、七からまた三が生じる。 有輪はこのように転じ、すべては因果であり、 空から空が生じ、法から法が生じる。 縁によって煩悩が生じ、縁によって業も生じ、 縁によって報いも生じ、一つとして縁のないものはない。

誦経と灯明と印と鏡と音声、日光と種子と酢、 蘊は続いて移ることなく、智者はそれら二つを観るべきである。

緣生三十論本竟。

縁起の三十の論がここに終わりました。

緣生三十論,我當隨順次第解釋。

縁起三十論を、私は順を追って分かりやすく解き明かしていきます。

從一生於三, 從三轉生六,
六二二更六, 從六亦生六。

一から三が生じ、三から六が生じる。 六から二と二が生じ、さらに六からまた六が生じる。

從一生於三者謂無知,此無知者說名無明。於苦集滅道中不覺知故名為無知,由故則有福、非福、不動,說名三行。及身行、口行、心行等從其轉生。從三轉生六者,從三行生六識身,所謂眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。六二者,彼六識身轉生二種,所謂名、色。二更六者,名色二種轉生六處,所謂眼處、耳處、鼻處、舌處、身處、意處。從六亦生六者,從彼六處轉生六觸,所謂眼觸、耳觸、鼻觸、舌觸、身觸、意觸。

一つのものから三つのものが生じると言われるのは、無知のことです。この無知を無明と言います。 苦・集・滅・道について覚知しないから無知と呼ばれるのです。それゆえに、福・非福・不動という三つの行が生じます。 そして、身行・口行・心行などがそれから転じて生まれます。

三つから六つが生じるとは、三つの行から六つの識身が生じることを指します。すなわち、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識です。

六つから二つが生じるとは、その六つの識身から二つのもの、すなわち名と色が転じて生まれることです。

二つからさらに六つが生じるとは、名と色の二つから六つの処が転じて生まれることです。すなわち、眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処です。

六つからまた六つが生じるとは、その六つの処から六つの触が転じて生まれることです。すなわち、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触です。

從六有於三, 此三復有三,
三復生於四, 四復生於三。

六から三が生じ、 この三がさらに三を生み、 三が四を生み出し、 四がまた三を生む。

從六有於三者,從彼六觸轉生三受,所謂樂受、苦受、不苦不樂受。此三復有三者,還從彼等三受轉生三種愛,所謂欲愛、有愛、無有愛。從三復生於四者,從彼三種愛轉生四取,所謂欲取、見取、戒禁取、我語取。從四復生於三者,從彼四取轉生三有,所謂欲有、色有、無色有。

六から三が生じるとは、六つの触れから三つの受が生じることを指します。つまり、楽受、苦受、不苦不楽受です。

この三つからさらに三つが生じるとは、それら三つの受から三つの愛が生じることを指します。つまり、欲愛、有愛、無有愛です。

三から四が生じるとは、それら三つの愛から四つの取が生じることを指します。つまり、欲取、見取、戒禁取、我語取です。

四から三が生じるとは、それら四つの取から三つの有が生じることを指します。つまり、欲有、色有、無色有です。

從三生於一, 彼一復生七,
於中所有苦, 牟尼說皆攝。

三つの生まれから一つのものが生じ、 その一つのものからまた七つが生まれる。 その中にあるすべての苦しみは、 牟尼(釈尊)が説くところのものに含まれる。

從三生於一者,還以彼等三有作緣,生當來一種生。彼一復生七者,還從一當有老、死、愁、歎、苦、憂、惱等七種。於中所有苦牟尼說皆攝者,於中無明為始、苦為終,無量種苦,世尊略說皆此所攝。

三つの存在から一つの存在が生じるとは、その三つの存在を縁として、未来の一つの生が生まれることを指します。その一つの存在からさらに七つのものが生じるとは、その一つの未来の存在から、老い、死、悲しみ、嘆き、苦しみ、憂い、悩みという七つのものが生まれることです。この中に含まれるすべての苦しみについて、牟尼(釈尊)は「すべてこれに収まる」と説かれました。つまり、無明を始まりとし、苦を終わりとする無量の苦しみを、世尊は簡潔にこの中に収められたのです。

十二種差別, 智士說為空,
緣生支力故, 應知十二法。

十二の異なる区別は、 智者によって空と説かれ、 縁起の力によって生じるから、 十二の法を知るべきである。

十二種差別智士說為空者,此無知等差別有十二支,彼一切皆自性空,應當知如此所說唯是空。法從空生、空從法生,法由緣生支法故。應當知十二法者,若以次第生支力故,彼十二法如是應知。彼中迷惑相者是無明,彼行句處積集當有相者是行,彼識句處次受生支轉出相者是識,彼名色句處名身色身和合相者是名色,彼六處句安置根相者是六處,彼觸句處眼色識共聚相者是觸,彼受句處愛非愛顛倒受用相者是受,彼愛句處無厭足相者是愛,彼取句處執持攝取相者是取,彼有句處名身色身相者是有,彼生句處蘊生起相者是生,彼老句處成熟相者是老,彼死句處命根斷者是死,彼愁句處怱遽相者是愁,彼歎句處哭聲者是歎,彼苦句處身逼惱相者是苦,彼憂句處心逼惱相者是憂,彼諸熱惱句處損害相者是惱。

十二種の区別ある智を説いて空とするもの、これは無知などの区別が十二支にあるが、それらすべては自性が空であり、このように説かれているのはただ空であると知るべきである。法は空から生じ、空は法から生じる。法は縁によって支法が生じるからである。十二の法は、順序に従って支が生じる力によって、そのように知るべきである。

その中で、迷いの相が無明である。行の句のところで、未来の相が積み集められるのが行である。識の句のところで、次に生を受ける支が転じ出るのが識である。名色の句のところで、名身と色身が和合する相が名色である。六処の句で、根が安置される相が六処である。触の句のところで、眼と色と識が共に集まる相が触である。受の句のところで、愛すべきものと愛すべからざるものに逆に受用する相が受である。愛の句のところで、飽くことを知らぬ相が愛である。取の句のところで、執持し摂取する相が取である。有の句のところで、名身と色身の相があるである。生の句のところで、蘊が生起する相が生である。老の句のところで、成熟する相が老である。死の句のところで、命根が断たれるのが死である。愁の句のところで、慌ただしい相が愁である。歎の句のところで、泣き声が歎である。苦の句のところで、身に逼悩される相が苦である。憂の句のところで、心に逼悩される相が憂である。諸々の熱悩の句のところで、損害される相が悩である。

無知與業識, 名色根三和,
領渴及以取, 集出熟後邊。

無知と業識があり、 名色と六根の三つの和合がある。 感受と渇愛、そして執着があり、 集まり、生じ、熟し、そして後の縁となる。

於中無知者是無明,業者行,識者是了別,名色五蘊聚,根者是處,三和者是觸,領納者是受,渴者是愛,取者是執持,受用者是有,起者是生,熟者是老,後邊者是死。

この中で、無知とは無明のこと、業とは行のこと、識とは分別すること、名色とは五蘊の集まり、根とは処のこと、三和とは触のこと、領納とは受のこと、渇きとは愛のこと、取とは執着すること、受用とは有のこと、起きるとは生のこと、熟すとは老のこと、終わりとは死のことです。

又此等差別相攝,我當次第說之。於中煩惱業差別。

また、これらの違いと相互の関係について、順を追って説明しましょう。まずは煩悩と業の違いからです。

初八九煩惱, 第二第十業,
餘七皆是苦, 三攝十二法。

初めの八つと九つは煩悩であり、 第二と第十は業である。 残りの七つは全て苦であり、 これら三つで十二の法をまとめる。

三煩惱者,無明、愛、取。二業者,行,有。七報者,識、名色、六處、觸、受、生、老死等。此十二法三種所攝。又時差別。

三つの煩悩とは、無明(無知)、愛(執着)、取(執取)です。 二つの業とは、行(形成作用)、有(存在)です。 七つの報いとは、識(認識)、名色(心身)、六処(六つの感覚器官)、触(接触)、受(感受)、生(誕生)、老死(老いと死)などです。 これら十二の法は、三種類にまとめられます。 また、時間的な違いもあります。

初二是過去, 後二未來時,
餘八是現在, 此謂三時法。
無明、行初二種過去時,生、老死後二種未來,識、名色、六處、觸、受、愛、取、有八種現在時。
又此等各各次第相生。
煩惱業感報, 報還生煩惱,
煩惱復生業, 亦由業有報。
煩惱、業、報三種如前所說。由彼煩惱故有業,由業故有報,還由報故有煩惱,由煩惱故有業,由業故有報。
問曰:由煩惱盡各各寂滅,其義云何?答言:
離惱何有業? 離業何有報?
無報則離惱, 此三各寂滅。
若其此心無煩惱染則不集業,若不作業則不受報,若滅報者亦不生煩惱,如是此三各各寂滅。
又此等有因果分。
五支因生果, 名為煩惱業,
七分以為果, 七種苦應知。
五種因名為煩惱業者,如前所說,無明、行、愛、取、有是也。七種果轉生者,亦如前所說七種苦,所謂識、名色、六處、觸、受、生、老死是也。
又此因果二種空。
因中空無果, 果中亦無因,
因中亦無因, 果中亦無果,
智者空相應。
若此所說因果二種,於中若因空果亦空,果空因亦空。因空因亦空,果空果亦空,於此四句際當與相應。
又此更有分別。
世中四種支, 因果合故有,
煩惱業果合, 應許為六支。
世中四種支因果合故有者,所說三世五種因,共七種果,總略為四種,次第有四種分。於中無明、行,過去時二法為初分。識、名色、六處、觸、受,現在時為第二分。愛、取、有,亦是現在時為第三分。生、老死,未來時二法為第四分。此謂四種分也。煩惱業果結許為六分者,煩惱、業、報三種,結為二根,則為六分。於中無明乃至受以無明為根,愛乃至老死為愛根。無明根中無明是煩惱分,行是業分,識、名色、六處、觸、受是報分。愛根中愛取是煩惱分,有是業分,生、老死是報分。
又節分總略。
有節所攝故, 二節及三略,
因果雜為節, 三四節總略。
有節為本,發起二節,所謂有、生兩間是第一節,行、識兩間是第二節。此二節並為業果節。受、愛中因果共雜是第三節。此之三節,復為四種總略。無明、行二種是第一總略。識、名色、六處、觸、受五種是第二總略。愛、取、有三種是第三總略。生、老死二種是第四總略。此謂三節及四總略。
又此等法中位時差別。
二三二三二, 苦位有五法,
作者及藏界, 境轉生流行。
法者,無明、行說為二種。識、名色、六處說為三種。觸、受說為二種。愛、取、有說為三種。又二者,生、老死說為二種。此等五法,是苦位中作者、胎藏、境界、發轉、出生、於中流行,如數當知。於中無明、行二種說為苦位中作者,識、名色、六處三種說為苦位中胎藏,觸、受二種說為苦位中境界,愛、取、有三種說為苦位中發轉,生老、死二種說為苦位中流行。
又果差別。
迷惑發起果, 報流果為二,
相應根分中, 一一三二分。
如前所說,此無明根及愛根,於無明根初分中迷惑發起報等流,名四種果。一一三二數分之道,隨其次第當與相應。於中無明是迷惑果,行是發起果,識、名色、六處是報果,觸、受是等流果。
復有餘殘果。
熱惱缺短果, 轉出等流果,
相應餘分中, 二一一一法。
如前所說第二愛根分中,熱惱、缺短、轉生、等流果等,隨其數分二一一一,於此法中當與相應。於中愛取是熱惱果,有是缺短果,生是轉出果,老死是等流果。如是此等則有八果。
此有十二種, 和合故緣生,
無眾生無命, 空無以慧知。
如是無明(古譯無明,今無知乃正也)為初,老死為後,有十二支,和合勝故各各緣生。而無眾生、無壽命、空無,以慧應知。於中無眾生者,以不牢固故。無壽命者,以無我故。空者,無作者,以無作者故。
無我無我所, 無我無我中,
四種無知空, 餘支亦如是。
無知是無我。此中無知是無我所,以無我故無我中無無知。四種無知無我所中亦無無知空。如四種次第無知空,如是行等餘支亦皆是空,應當知之。
斷常二邊離, 此即是中道,
若覺已成就, 覺體是諸佛。
有是常執、無是斷執,此二邊由此生,緣故生彼。彼諸有中,若離二邊即契中道。若不知此是義,則諸外道墮於二邊。若覺悟已是則一切諸佛,如佛於世間能成就非餘。
覺已於眾中, 聖仙說無我,
曾於城喻經, 導師說此義。
彼亦是此中道覺已,於諸眾中,佛說無我無我所。汝等比丘當知,謂著我我所,愚童凡夫寡聞之類。隨假施設中復我及我所。比丘生時但苦生,滅時但苦滅。如城喻經中導師已說義。又:
迦旃延經說, 正見及空見,
破邏具拏經, 亦說殊勝空。
此等三經及以餘處,如是之相世尊已廣說。
緣生若正知, 彼知空相應,
緣生若不知, 亦不知彼空。
於前所說緣生若有正知,彼知無異。彼復何知?謂知於空。緣生若不知亦不知空者,於此緣生若其不知,亦於彼空不能解入應知之。
於空若起慢, 則不厭於蘊,
若有彼無見, 則迷緣生義。
於空若起慢則不厭,若起空慢則於五蘊中不生厭離。若有彼無見則迷緣生義者,若復由於無見迷此緣生義故,則於四種見中隨取何見,一者斷見、二者常見、三者自在化語、四者一切宿業作。
緣生不迷故, 離慢彼知空,
及厭於蘊故, 不迷於業果。
緣生不迷故離慢彼知空者,於前所說各各緣生中若無迷心,及於執取我我所中若得離慢,彼則如法能入於空。及厭於蘊故不迷於業果者,五蘊中執取我我所故,則遍世間輪轉不息。於彼蘊中厭離故,於業果相續則無顛倒亦不迷惑。
又此義云何?
業作緣續生, 亦非不緣此,
空緣當有此, 業報受用具。
業作緣續生亦非不緣此者,煩惱業報如前所說,彼以如是善不善業,推遣眾生傍及上下相續而生,若非此業則不作緣。若不然者,則不作業受報、已作業而失。空緣當有此業報受用具者,若由此等善不善業有報受用,自性是空、本無有我,作緣發生彼性空亦應當知。彼義今更略說。
十二支差別, 前已說緣生,
彼煩惱業苦, 三中如法攝。
無明為初、老死為後,是十二支緣生差別,如前所說。彼中三是煩惱,二是業,七是苦,皆已攝入。
從三生於二, 從二生於七,
從七復生三, 有輪如是轉。
無明、愛、取三種所生行有二種,彼二所生識、名色、六處、觸、受、生、老死七支。彼七支中如前所說還生三種,彼三復其二更七。是故二種次第不斷,此之有輪如是轉。
因果生諸世, 無別有眾生,
唯是於空法, 還自生空法。
因果生諸世無別有眾生者,無明、行、愛、取、有五種名因,識、名色、六處、觸、受、生、老死七種名果。此等所有普遍世間,若我、若眾生、若壽、若生者、若丈夫、若人、若作者,是等分別唯虛誑,應當知之。彼云何生?唯是於空法還自生空法,謂自性空中假名煩惱業果,唯有空假名煩惱業果法生,此是其義。
藉緣生煩惱, 藉緣亦生業,
藉緣亦生報, 無一不有緣。
若有煩惱則有種種無量業,及種種業所生果報,彼皆因共緣,應當知之無有一法無因緣者。又為明彼義,今更說譬喻。
誦燈印鏡音, 日光種子醋,
眾續不移轉, 智應觀彼二。
如誦,有教誦者、受誦者,所有教誦不移轉受誦,何故教誦者仍安,安故其教誦者亦不相續。何以故?自不自故。如燈次第生,非是初燈移轉,亦非第二無因而生。如是印與像二種、面與鏡二種、音與響二種、日與火二種、種子與芽二種、醋與舌唌二種。二種此等所有皆不移轉,亦非不生,亦非無因而生。彼二種五蘊相續次第轉,非初蘊而移轉,而第二蘊亦非不生,亦非無因而生。智者於此蘊相續次第不移轉,應當正觀。又內外相應有十種,皆當知。於中外十種者,一者非常故、二者非斷故、三者不移轉故、四者因果相繫無中間故、五者非彼體故、六者非別異故、七者無作者故、八者非無因故、九者剎那滅故、十者同類果相繫故。彼外所有種子滅無餘故、非常牙出生故、非斷種子滅無餘已、其牙本無今有生故、不移轉彼所相續無有斷絕因果相繼故、無中間種子牙差別故、非彼體從出生故、非別異因緣和合故、無作者種子為因故、非無因種子牙莖枝葉花菓等展轉相生故、剎那滅甜醋醎苦辛澁隨因差別果轉出故。同類果相繫,於中內十種者,一者死邊蘊滅無餘故非常;二者得次生支蘊故非斷;三者死邊蘊滅無餘已次生支蘊本無今有生故不移轉;四者蘊相續無有斷絕,因果相繼故無中間;五者死邊次生支蘊差別故非彼體;六者從彼出生故非別異;七者因緣和合故無作者;八者煩惱業為因故非無因;九者迦邏羅、頞浮陀、箄尸、伽那、奄佉、出胎、嬰孩、童子、少年、長宿等,展轉相生故剎那滅;十者善不善薰。隨因差別果轉出故,同類果相繫。
又有三偈:
如燈焰轉生, 識身亦如是,
前際與後際, 亦無有積集。
不生亦有生, 破壞不和合,
所生亦無住, 而此作業轉。
若於彼緣生, 而能觀知空,
若知彼施設, 則契於中道。
於中無明、行、愛、取、有是為集諦,識、名色、六處、觸、受、生、老死是為苦諦。彼十二支,道諦者令彼滅證方便,所謂念處、正勤、如意足、根、力、覺支、八聖道名為道諦。
大乘緣生論一卷

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