毘尼(戒律)の肝要は、大いなる菩提心を抱く人々が、衆生を利益し、修行して悟りを証得するための根本です。凡そ人がこの文を読み、この願いを起こし、この行いを実践するならば、それは即ち円覚そのものと等しく、少しの違いもありません。衆生を救済し、仏道を求めんと欲するならば、必ず行いを一心に専念しなければなりません。そうすれば自然に自利利他の二つの功徳が成就されます。もし行いと願いが未だ整っていなければ、悟りへと証入する道はないのです。 (**以下は制約に従い、この行注釈を出力しません**) (注:原文の「毗尼」は「律」を指すため、仏教用語
先の和尚はこれを哀れみ、『華厳経』の浄行品や密教の部から偈や呪文を再び選び出し、一巻にまとめて『毗尼日用切要』と題しました。初心者がこれを熟読玩味し、朝夕実践することで、徐々に悟りの果実を成就し、布施を無駄に受けたり、時間を虚しく過ごすことのないようにとの願いが込められています。
曰く、大聖が人々を導くには、戒が最も重要であると。先聖も後聖も、その道筋は同じです。昔、和尚が弟子たちを戒めて言いました。「この『日用』という書は、一乗の妙法であり、修行への基盤である。事相においては身心を整え、理においては円満な悟りに帰する。決してただの偈や呪文と軽んじてはならない」と。この切要の功徳は、まことに素晴らしいものです。生涯を通じて行じ続け、決して怠ってはなりません。
私は和尚に仕えるのが遅れましたが、幸いにもその鞭撻を受け、駑馬のように前進し、一瞬の休息も許されませんでした。二十年間、常に慎み励んでまいりました。甲子の春、昭慶寺に滞在した際、皆の求めに応じて講じ、本文に従って注釈を施し、『香乳記』と名づけました。観音様の大悲の手が香乳を施して衆生を救うように、私は浅学ながらも、和尚の法乳の深い恩に報いるため、一片の心香を捧げる次第です。世の風潮が衰退するのを憂い、古鏡を手に取って今を照らす。文章は華美を求めず、言葉は古典に基づいています。もし本書に従って行じ止まることができれば、それは後学の者にとって大きな助けとなるでしょう。