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仏説仏医経 (佛說佛醫經)

「佛說佛醫經」について

呉 · 底本の訳者:竺律炎共支越

1,660 字 · 約 6 分

『仏説仏医経』は、三国時代の訳経師である竺律炎と支越によって共訳されました。この経典は、仏教が中国に伝来した初期の時期に成立し、古代インドの医学と仏教教義の初期の融合を反映しています。内容は、病気の原因が単に四大の不調和によるだけでなく、貪・瞋・癡などの煩悩や悪業と深く関わっていることを体系的に説き、飲食の節制や禅定による心の修養などの対処法を提示しています。また、具体的な治療法や養生の指針も含まれています。この経典は仏教医学の重要な基礎文献であり、医療実践を初めて修行と因果の次元に高め、仏教の身心の健康に対する全体的な視点を深く示しています。後世の仏教医学および中国伝統医学の発展に、独自の思想的資源を提供しました。


佛說佛醫經

仏説仏医経

吳天竺沙門竺律炎共支越譯

呉の天竺僧 竺律炎・共支越 共訳

人身中本有四病:一者、地;二者、水;三者、火;四者、風。風增,氣起;火增,熱起;水增,寒起;土增,力盛。本從是四病,起四百四病。土屬身,水屬口,火屬眼,風屬耳。火少寒多,目冥。春正月、二月、三月寒多,夏四月、五月、六月風多,秋七月、八月、九月熱多,冬十月、十一月、十二月有風有寒。何以故春寒多?以萬物皆生,為寒出,故寒多。何以故夏風多?以萬物榮華、陰陽合聚,故風多。何以故秋熱多?以萬物成熟,故熱多。何以故冬有風有寒?以萬物終亡熱去,故有風寒。

人間の体にはもともと四つの病があります。第一に地、第二に水、第三に火、第四に風です。風が増すと気が起こり、火が増すと熱が起こり、水が増すと寒さが起こり、土が増すと力が強まります。この四つの病から、四百四の病が生じます。土は体に属し、水は口に属し、火は目に属し、風は耳に属します。火が少なく寒が多いと、目がかすみます。

春の一月、二月、三月は寒さが多く、夏の四月、五月、六月は風が多く、秋の七月、八月、九月は暑さが多く、冬の十月、十一月、十二月には風と寒さがあります。なぜ春は寒さが多いのかというと、万物が生まれ出るときに寒さが現れるからです。なぜ夏は風が多いのかというと、万物が盛んに育ち、陰と陽が集まり合うからです。なぜ秋は暑さが多いのかというと、万物が成熟するからです。なぜ冬に風と寒さがあるのかというと、万物が終わりを迎えて熱が去るからです。

三月、四月、五月、六月、七月得臥。何以故?風多故身放。八月、九月、十月、十一月、十二月、正月、二月不得臥。何以故?寒多故身縮。

三月、四月、五月、六月、七月には横になることができます。なぜなら、風が多いため身体が伸びるからです。八月、九月、十月、十一月、十二月、一月、二月には横になることができません。なぜなら、寒さが多いため身体が縮むからです。

春三月有寒,不得食麥、豆,宜食粳米、醍醐諸熱物。夏三月有風,不得食芋、豆、麥,宜食粳米、乳、酪。秋三月有熱,不得食粳米、醍醐,宜食細米、麨、蜜、稻、黍。冬三月有風寒,陽興陰合,宜食粳米、胡豆、羹、醍醐。有時臥風起,有時滅;有時臥火起有時滅。有寒起有時滅。

春の三ヶ月は寒さがあるので、麦や豆類を食べず、粳米や醍醐などの温かいものを食べるとよい。 夏の三ヶ月は風があるので、芋、豆、麦を食べず、粳米や乳、酪を食べるとよい。 秋の三ヶ月は熱があるので、粳米や醍醐を食べず、精白米、餅、蜜、稲、黍を食べるとよい。 冬の三ヶ月は風寒があり、陽が盛んになり陰と調和するので、粳米、胡豆、汁物、醍醐を食べるとよい。 時に風が起きては消え、時に火が起きては消える。 時に寒さが起きては消えることもある。

人得病有十因緣:一者、久坐不飯;二者、食無貸;三者、憂愁;四者、疲極;五者、婬泆;六者、瞋恚;七者、忍大便;八者、忍小便;九者、制上風;十者、制下風。從是十因緣生病。

人が病気になる原因は十あります。 第一に、長く座ったままで食事をしないこと。 第二に、食べすぎること。 第三に、心配や悲しみを抱えること。 第四に、極度の疲労。 第五に、欲情にふけること。 第六に、怒りや憎しみを持つこと。 第七に、大便を我慢すること。 第八に、小便を我慢すること。 第九に、おならを我慢すること。 第十に、下の息(便意やおなら)を抑え込むこと。 これらの十の原因によって、人は病気になります。

佛言:「有九因緣,命未當盡為橫盡:一、不應飯為飯,二、為不量飯,三、為不習飯,四、為不出生,五、為止熟,六、為不持戒,七、為近惡知識,八、為入里不時不如法行,九、為可避不避。如是九因緣,人命為橫盡。

仏は言われた。 「九つの因縁によって、人の寿命が尽きるべきでないのに、横死することがある。 第一に、食べるべきでないものを食べること。 第二に、食事の量をわきまえないこと。 第三に、食べ物に慣れていないこと(体に合わないものを食べること)。 第四に、体内の排泄を促さないこと。 第五に、排泄を我慢して止めること。 第六に、戒律を守らないこと。 第七に、悪友に近づくこと。 第八に、村に入る時に時節をわきまえず、正しくない行いをすること。 第九に、避けるべき災いを避けないこと。 この九つの因縁によって、人の命は横死してしまうのである。」

「不應飯為飯,謂不可意飯,亦謂不隨四時食,亦為以飯復飯,是為不應飯為飯。不量飯者,謂不知節度,多食過足,是為不量飯。不習飯者,謂不時食。若至他郡國,不知俗宜飯食未習,不稍稍飯,是為不習飯。不出生者,謂飯物未消復上飯,若服藥吐下不盡便食來,是為不出生。止熟者,謂大便、小便來時不即時行,噫吐、下風來時,制是為止熟。不持戒者,謂犯五戒,現世間盜,犯他人婦女者,便入縣官,或刻、或死、或得棓榜壓死、若餓死、或得脫外從怨家得首死、或驚怖憂愁死,是為不持戒。近惡知識者,謂他人作惡便來及人。何以故?不離惡知識故。惡人不計當坐之,是為近惡知識。入里不知時不如法行者,謂晨暮行,亦有魍魎諍鬪者,若有長吏追捕而不避,若入他家舍,妄視不可視、妄聽不可聽、妄犯不可犯、妄念不可念,是為入不知時不如法行。可避不避者,謂弊牛、馬、狾、狗、蚖、蛇、虫,水、火、坑、穽、犇車、馳馬,拔刀醉人、惡人。亦若干,是為可避不避。

「ご飯を食べてはいけないのにご飯を食べる」とは、心から望ましくない食事のことです。また、季節に合わせて四時(四季)に従って食べないことも含みます。さらに、既に食べたのに重ねて食べること、これらを「ご飯を食べてはいけないのにご飯を食べる」と言います。

「量を考えずに食べる」とは、節度を知らずに過度に食べること、満腹を通り越して食べることを言います。これを「量を考えずに食べる」と言います。

「食事に慣れていない」とは、適切な時を選ばずに食べることです。他の国や地域へ行った時に、その土地の食事習慣を知らず、徐々に慣れずに食べることを「食事に慣れていない」と言います。

「出し尽くさない」とは、前の食事がまだ消化されていないのに次の食事を取ることです。また、薬を飲んで吐いたり下したりした後、完全に出し切らないうちに食事を始めることもこれに当たります。これを「出し尽くさない」と言います。

「排出を止める」とは、便意や尿意を感じた時にすぐに行かず、また、げっぷや吐き気、排ガスなどを我慢することです。これらを「排出を止める」と言います。

「戒律を守らない」とは、五戒を犯すことです。現世で盗みを働いたり、他人の妻を犯したりすると、官憲の手に渡り、拷問を受けたり、死に至ったり、棍棒で打たれて死んだり、飢え死にしたり、あるいは逃亡しても恨みを持つ者に首をはねられて死んだり、恐怖や憂いで死ぬことになります。これらを「戒律を守らない」と言います。

「悪い知識(悪友)に近づく」とは、他人が悪事を働けばその報いが自分にも及ぶことを言います。なぜなら、悪い知識から離れないからです。悪人は自分がその報いを受けるとは考えません。これが「悪い知識に近づく」ということです。

「村に入る時に時機をわきまえず、正しい行いをしない」とは、早朝や夕暮れに行くことで、物の怪や争いごとに巻き込まれたり、役人に追われているのに避けなかったりすることです。また、他人の家に入って、見てはならないものを見、聞いてはならないことを聞き、犯してはならないことを犯し、思ってはならないことを思うことです。これらを「村に入る時に時機をわきまえず、正しい行いをしない」と言います。

「避けるべきものを避けない」とは、凶暴な牛、馬、狂犬、蛇、毒虫、水難、火難、落とし穴、走る車、駆ける馬、抜刀した者、酔っ払い、悪人など、多くの危険から逃れようとしないことです。これらを「避けるべきものを避けない」と言います。

「如是九因緣,人命未盡為盡。黠人當識是,當避是,已避得兩福:一者得長壽,及得聞道好語,亦得久行道。」

このように九つの因縁によって、人の寿命は尽きていないにもかかわらず、尽きてしまうことがあります。賢い人はこれをよく認識し、これらを避けるべきです。避けることによって二つの福を得ることができます。一つ目は長寿を得ること、もう一つは素晴らしい教えを聞き、長く修行の道を歩むことができることです。

佛言:「有四飯:一、為子飯,二、為三百矛斫飯,三、為皮革虫生出飯,四、為災飯。子飯者,謂人貪味食肉時,便自校計念:『是肉皆我前世時父母、兄弟、妻子親屬,亦從是不得脫生死!』已得是意便止貪,是為子飯。三百矛斫飯者,謂飯隨味念復念其殃,無有數能不念味便得脫。又矛斫人為亡身,已生念復念有若干受苦,為三百矛斫飯。皮革虫生出飯者,謂人念味,亦一切萬物憂家中事,便穿人意,意作萬端為出去,是為皮革虫生飯。災飯者,謂一生死行皆為災飯,如火燒萬物,人所行皆當來惱身,劇火焚萬物故言災。所以言飯者,謂人所可意念人,故言飯也。

仏が言われた。「四つの『飯』(餌)がある。第一に子の飯、第二に三百の矛で刺す飯、第三に皮の中からの虫が生まれる飯、第四に災いの飯である。

子の飯とは、人が味に貪り肉を食べる時に、自分でよく考えて『この肉はみな、私の前世の父母、兄弟、妻、子、親族であり、このために生死から逃れられないのだ』と思うことである。そのように思い至れば貪りをやめる。これを子の飯という。

三百の矛で刺す飯とは、食事の味に執着し、その報いを思い、無限の苦しみを数えずにはいられず、味を思わなければ解脱できるのに、なお矛で刺されるように身を滅ぼし、次々と多くの苦しみを受けることを思う。これを三百の矛で刺す飯という。

皮の中からの虫が生まれる飯とは、人が味を思い、またすべてのものごとや家庭のことを憂うことで、人の心を穿ち、心は千々に乱れて外へ出て行く。これを皮の中からの虫が生まれる飯という。

災いの飯とは、一切の生と死の行いがすべて災いの飯である。火が万物を焼き尽くすように、人の行いはすべて将来自身を苦しめる。火が万物を焼くよりも激しいので、災いというのである。

それらを『飯』と言うのは、人が思い念じるものを餌とするからである。」

「人食肉譬如食其子,諸畜生皆為我作父母、兄弟、妻子,不可數。亦有六因緣不得食肉:一者、莫自殺;二者、莫教殺;三者、莫與殺同心;四者、見殺;五者、聞殺;六者、疑為我故殺。無是六意得食肉,不食者有六疑。人能不食肉者,得不驚怖福。」

人が肉を食べることは、まるで自分の子を食べるようなものです。あらゆる生き物は、数えきれないほどの過去世において、私の父母、兄弟、妻子であったのです。また、六つの理由により肉を食べてはなりません。第一に、自ら殺してはならない。第二に、他者に殺させてはならない。第三に、殺すことに心から同意してはならない。第四に、自分のために殺されるのを見てはならない。第五に、自分のために殺されると聞いてはならない。第六に、自分のために殺されたと疑ってはならない。この六つの心がなければ、肉を食べてもよいのです。しかし、食べない場合には六つの疑いがあります。人が肉を食べないならば、驚きや恐れのない福徳を得ることができるでしょう。

佛言:「食多有五罪:一者、多睡眠;二者、多病;三者、多婬;四者、不能諷誦經;五者、多著世間。何以故?人貪婬、人知色味,瞋恚知橫至味,癡人知飯食味。《律經》說:『人貪味,味復味得生不得美味。』」

仏陀は言われた。「食べ過ぎには五つの罪がある。第一に、多く眠ること。第二に、多く病むこと。第三に、多く欲情すること。第四に、経典を唱え学ぶことができないこと。第五に、世間のことに強く執着すること。なぜか?人は欲情に貪れば、人は色欲の味を知り、怒りに任せれば無理に得る味を知り、愚か者は食事の味を知るからである。『律経』に説かれる。『人は味に執着し、味を追い求めてさらに味を得るが、真の美味を得ることはない。』」

佛言:「一食者為欲斷生死,亦隨貪不能行道,為得天眼自知所從來生去至何所。人不念死,多食,常念婦人,皆墮百四十惡,中天皆用飯故。犯十惡後生便失人形,墮畜生中。既得作人,飢渴血出,瞋恚傍生,於愛內生於貪。佛說有大福,自飢以飯與人,令人得命,是為大福。後生饒飲食,乏瞋恚,亦無所施,施亦不得,但意恣貪婬,亦無所施,但得意恣,非我所有。一錢以上,不得取故,作貪欲空,自苦作罪。道人不有憂愁,憂隨怒,愁隨貪。我輩有死歲、有死月、有死日、有死時,亦不知、亦不畏、亦不行道、亦不持戒,東走西走,憂銅憂鐵,憂田宅、奴婢,但益人惱、增人苦,為種畜生習。」

仏陀はこう説かれた。「一日一食の修行をするのは、生死の流れを断ち切ろうとするためである。しかしながら、人は貪りの心に従えば、正しい道を歩むことはできない。天眼を得て、自らの来たところ、赴くところを知るためには、死を顧みずに多くを食べ、常に女を想う心を断たねばならない。そうした行いによって百四十の悪に堕ち、寿命が尽きるのも、すべて飲食の故である。

十の悪を行えば、後の生では人の姿を失い、畜生の世界に落ちる。たとえ人として生まれても、飢えと渇きに血を流し、怒りの心で生き物を傷つけ、愛欲から貪りが生じる。仏陀は言う。大いなる福徳があるとは、自ら飢えながらも他人に食べ物を与え、他に命を得させることである。これこそが大いなる福徳である。

そうすれば後に生まれ変わった時、飲食に恵まれ、怒りが少なくなる。しかし施す心がなく、たとえ施しても得ることはない。ただ心のままに貪りと淫らな行いにふける。また施すこともなく、ただ心のままに振る舞い、これは我が所有するものではないと知るべきである。一銭以上のものでも、不正に取ってはならない。貪りのために虚しく苦しみ自らの罪を作り出すのだ。

修行者は憂いを持つことがない。憂いは怒りに従い、愁いは貪りに従うからである。我らには死の年、死の月、死の日、死の瞬間がある。それらを知らず、恐れず、道を行ぜず、戒めを守らず、あちこちと走り回り、銅や鉄を憂い、田畑や家屋、奴婢を憂い、ただ人の悩みを増し、人の苦しみを増し、畜生の習慣を身につけるのである。」

佛言:「人治生,譬如蜂作蜜。採取眾華,勤苦積日已成,人便攻取去。唐自苦,不得自給。人求是念,是憂有憂,無飢渴勤苦。合聚財物,未死,憂五家分,或水、火、盜賊、縣官、病痛,多不如意。己死,他人得之。身當得其罪,毒痛不可言。五分者:一者、火分;二者、水分;三者、盜賊分;四者、縣官分;五者、貧昆弟分。何為無憂所有?人不計是五分憂,苦劇不棄,是憂苦有萬端,結在腹中,離道遠法。人法生賈作,得利,不當喜;不得利,亦不當憂;是皆前世宿命所致。人有貪,貪便不得利。正使得一天下財物,亦不能猛自用之,亦不隨人去,但益人結、但有苦惱、但種後世緣因。緣因如火,如火無所不燒。我輩不覺,是黠不敢妄搖,知為增苦種罪。」

仏は仰せになった。「人が生きていく様は、ちょうど蜜蜂が蜜を作るようなものだ。様々な花を集め、苦労して日々を積み重ね、ようやく蜜ができたかと思うと、人はそれを奪い取ってしまう。ただ苦労するだけで、自分で使い切ることはできない。人はこう考え、こう憂い、あるものは憂い、ないものは飢えや渇きの苦しみを受ける。財を集めても、死ぬ前に五つのものに奪われる憂いがある。すなわち、水、火、盗賊、役人、病痛であり、思い通りにならないことの方が多い。死んでしまえば、他人がそれを手にする。自らはその罪を受けることになり、その苦しみは言葉に尽くせないほどである。五つの分け前とは、第一に火の分け前、第二に水の分け前、第三に盗賊の分け前、第四に役人の分け前、第五に貧しい兄弟の分け前である。では、なぜ憂いがないのか。人はこの五つの分け前について考えず、その苦しみが烈しいにもかかわらず捨てることができない。この憂い苦しみには無数の種類があり、心の中に結びつき、道から遠ざかり、法に反している。人は生まれながらに商売をする。利益を得ても喜んではならず、利益を得なくても憂えてはならない。これらはすべて前世の宿命によるものである。人に貪りの心があれば、貪るゆえに利益を得られない。たとえ天下の財物をすべて手に入れても、それを自由に使い切ることはできず、また死後に持っていくこともできない。ただ人の煩悩を増し、苦悩を生み、後の世の縁因を種まくだけである。縁因は火のようなもので、火は焼かないものがない。私たちはこれに気づかない。賢い者はみだりに動かず、苦しみを増やし罪の種をまくことを知っている。」

佛說佛醫經

仏説仏医経


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