上堂
お堂に上がります。
萬曆甲寅二月吉日。眾請師開法於雲門傳忠廣孝寺。結制上堂。拈帖子云。有目皆見。有耳皆聞。公驗分明。更無藏覆。大眾未委。仰煩維那對眾宣讀。讀竟。指座云。這段因緣。乃雲門老人一千年前斷不了的公案。煩山僧與他結欵。及到此間。已有須彌燈王如來。與大眾真實說了也。不可更要山僧納敗闕好。還會麼。如不會。莫謂山僧相瞞去也。陞座拈香云。這一瓣香。遇賤即貴。逢彊即弱。無明林裏栽來。煩惱場中湧出。特伸供養十方常住三寶本師釋迦牟尼萬德世尊。靈山會上諸大菩薩緣覺聲。聞西天東土歷代祖師護法天龍。並仗此香。普同供養。惟冀一音圓演。隨類各聞。法雨普霑於沙界。慈雲廣布於大千。再拈云。如天普葢。似地普擎。四域八荒。均霑化育。端為祝延今上皇帝萬歲。惟冀風以時。雨以時。人民感有道之君。巍巍乎。蕩蕩乎。在處樂無為之化。再拈云。一生辛苦。半世殷勤。撞著沒眼睛的老和尚授我折脚鐺子。特為拈出。雖然家醜不可外揚。也要人天證據。供養北京大覺堂上嗣曹洞正宗第二十六代清凉大和尚。用酬法乳之恩。次伸供養雲棲堂上蓮池大和尚。用報授戒之恩。惟冀生生恒作度人師。世世常為善導者。斂衣就坐云。香已拈了。若是佛法。不敢說個元字脚。何也。不見經云。是法寂滅相。不可以言宣。諸佛榜文證明。更教說個甚麼。雖然如此。事無一向。今日結制之辰。不可杜口去也。山僧直以十方總作一個大伽藍使一切人行住坐臥。盡在裏許。動靜云為。著衣喫飯。屙屎放尿。待客迎賓。也在裏許。止靜放參。也在裏許。甚是縱橫。甚是自在。無可不可。豈不謂無礙大解脫門。若是初心學者。既無如是威光。且向三條椽下。七尺單前。放下身心。牙關齩定。各將本參話頭頓在面前。如靠須彌山相似。直教心心無間。念念無虧。行住坐臥也如是。屙屎放尿也如是。著衣喫飯也如是。動靜忙閒也如是。打成一片。不較多也。正好前進。若不前進。正所謂墮在死水。古人所棄。若是活水神龍。定向洪波浩渺處興雲布雨。今有一等將個阿彌陀佛記在懷中。昏沉散亂。打作一團。不分皂白。虗度一生。或有強作主宰。半昏半醒。坐得一兩炷香。喚作坐禪得定。或有向方冊中記得名相。謂之通教。或有向古人方便語中。記得兩句。謂之悟道。謂之通宗。如是等有一百二十種癡禪。如永明所論。爾今槩天下莫能逃其所斥。若是真正為生死的。決定不入此邪見叢中。更有一般參禪之流。從善知識邊。領個萬法歸一一歸何處。口雖提持。心不綿密。大似春禽晝啼。有甚用處。予勸兄弟。各將自己本參話頭。著實參去。定有下落。若肯相委。從今日始。挺起脊梁。抵死挨拶。必無相賺。如未即信。更有一偈奉勸。偈曰。挺起脊梁生銕鑄。放下面皮莫回顧。直如香象絕金鎻。若不如是何劫悟。
万暦甲寅年二月の吉日、大衆が師に請い、雲門の伝忠広孝寺において法を開演された。結制の上堂に際し、貼り紙を手にして仰せられた。「目ある者はみな見、耳ある者はみな聞く。証拠は明らかで、隠し立てするものは何もない。大衆がまだご存知ないようなので、維那に読み上げさせよう」。読み終えて、座を指して仰せられた。「この因縁は、雲門老人が一千年前に断ち切れなかった公案である。山僧が代わりに決着をつけることとなった。ここに至るや、すでに須弥燈王如来が大衆に真実を説き明かしておられる。山僧が改めて失敗をさらすことはないだろう。わかるであろうか。もしわからなければ、山僧がごまかしていると思ってはならない。」座に上り、香を手にして仰せられた。「この一瓣の香は、賤しきに遇えば貴く、強きに逢えば弱くなる。無明の林の中で育ち、煩悩の場から湧き出たものである。これを十方常住の三宝、本師釈迦牟尼万徳世尊、霊山会上の諸大菩薩・縁覚・声聞、西天東土の歴代祖師、護法の天龍に捧げ、この香をもって等しく供養する。ただ 、一音が円かに演じられ、類に随って各々が聞き、法雨が沙界に普く潤い、慈雲が大千に広く覆うことを願う。」再び香を手にして仰せられた。「天のごとく普く覆い、地のごとく普く支える。四方八方、すべてが慈しみの教化を蒙る。今上皇帝の万歳を祈念し、風は時に従い、雨も時に従い、人民が有道の君主を感じ、その徳はいとも広大で、至る所で無為の教化を楽しむことを願う。」再び香を手にして仰せられた。「一生苦労し、半世努めても、目の見えない老和尚に突き当たり、折れた鐺子を授けられた。これを特に取り出して示す。家中の恥は外に言わぬものだが、人天の証拠としてもらいたい。北京大覚堂上、曹洞正宗第二十六代の清凉大和尚に捧げ、法乳の恩に報いる。次に、雲棲堂上の蓮池大和尚に捧げ、授戒の恩に報いる。ただ、生生世世にわたって常に人を導く師となり、世々に善き導き手たらんことを願う。」衣を整えて座に着き、仰せられた。「香はすでに焚いた。もし佛法についてなら、『元』の字の脚すらも語るまい。なぜか。経に『この法は寂滅の相であり、言葉で説くことはできない』とあるではないか。諸仏の証文が明らかなのに、さらに何を説けというのか。とはいえ、事は一様ではない。今日は結制の日であるから、口を閉ざすわけにはいかない。山僧は、十方を一つの大伽藍として、一切の人の行住坐臥がすべてその中にあるようにする。動静言語、着衣喫飯、糞尿の排泄、客を迎えて応対することも、すべてその中にある。止静や放参も、すべてその中にある。実に縦横無尽で、自在であり、何ごとも妨げがない。これを『無礙大解脱門』と言わずして何であろうか。もし初心の修行者なら、そのような威光はないのだから、三本の梁の下、七尺の座の前にて、身心を放下し、歯を食いしばり、各自が本参の話頭を目前に置き、須弥山に寄りかかるようにせよ。心は間断なく、念は欠けることなく、行住坐臥もそのように、糞尿の排泄もそのように、着衣喫飯もそのように、動静忙閒もそのようにして、一つの塊となれ。それで十分というものではない。さらに前進すべきである。前進しなければ、古人が捨てた死水に落ちるというものだ。もし活水の神龍ならば、必ず洪波浩渺のところに赴き、雲を起こし雨を降らせるであろう。今、ある種の者は、阿弥陀仏を懐に抱きながら、昏沈散乱でひと塊まりとなり、白黒も分けずに虚しく一生を過ごす。あるいは強いて主宰しようとして、半昏半醒のまま一、二炷の香を坐り、坐禅の定を得たという。あるいは方冊の中から名相を覚え、これを通教という。あるいは古人の方便の言葉の中に、二言三言を覚え、悟道したとか通宗したとか言う。このような痴禅は、永明が論じたように百二十種もある。今や天下の誰もがその非難を逃れられない。本当に生死のための者ならば、必ずこの邪見の叢には入らないであろう。さらにまた、一類の参禅の輩は、善知識から「万法は一に帰し、一は何処に帰するか」と受け取る。口では唱えても、心は綿密ではない。まるで春の鳥が昼に鳴くようで、何の役にも立たない。私は兄弟に勧める。各自が自分の本参の話頭を、真剣に参究せよ。必ず落ち着くところがあるはずだ。もし信じるならば、今日から背筋を伸ばし、死にものぐるいで打ち込め。決して欺くことはない。もしまだ信じられなければ、一つの偈を贈ろう。偈に曰く、 脊梁を挺て 生鉄の如くに鑄て 面皮を放て 顧みること莫れ 直に香象の如く 金鎖を絶ち 若し此くの如くならずんば 何れの劫か悟らん
觀音示現日上堂。今此娑婆國。聲論得宣明。初心易成就。實以聞中入。已過關者。各安本位。未過關者。新雲門與你發機。拍尺云。聞麼。諒非耳聾。決定是聞。既聞已。作麼生說個入的道理。會麼。若也不會。山僧用老婆心引葛藤去也。經云。初於聞中。入流忘所。所入既寂。動靜二相。了然不生。如是漸增。聞所聞盡。盡聞不住。覺所覺空。空覺極圓。空所空滅。生滅既滅。寂滅現前。大眾。看看。此是菩薩所說。為什麼出山僧口。若是山僧所說。為什麼說是菩薩事。兄弟。不得作山僧看。亦不得作菩薩看。各人貼向自己鼻尖上。仔細體究。還推得到菩薩分上麼。還推得到山僧分上麼。正當恁麼時。說是山僧。却是菩薩。說是菩薩。却是山僧。說是山僧菩薩。與你料掉沒交涉。說是你。與菩薩山僧。料掉沒交涉。若恁麼覷得破。觀世音菩薩即今年今月今日今時降生。亦即於此時成道。放大光明。現大神變。轉大法輪。於一一手結無量寶印。一一口宣無量密呪。狀似湧泉。利益無量眾生。以正眼看來。猶是一場大夢。何況西禮白華。東朝普怛。一向推在他人分上。自己脚跟下一段光明蹉過不知。若作如是見解。菩薩豈在今日降生。已於無量劫前滅度了也。拈拄杖云。菩薩降生也。見麼。良久云。是處是彌勒。無門無善財。
観音示現の日、上堂して言う。
「今、この娑婆世界において、声による論義が明らかに説かれている。初心者でも悟りを得やすい。実際、聴くことによって入るのだ。すでに関所を越えた者は、それぞれ自分の場所に落ち着きなさい。まだ関所を越えていない者には、新雲門があなたのために発機しよう。」
拍尺して言う。「聞こえるか。たぶん耳が聞こえないわけではない。確かに聞こえている。では、聞こえた上で、どのようにして『入る』という道理を説くのか。わかるか。もしわからなければ、山僧が老婆心で葛藤を引き起こそう。
経に言う。『初めに聴くことの中にあって、流れに入り、対象を忘れる。入る所すでに寂にして、動と静の二相、了然として生じない。このようにして徐々に増し、聞くものと聞かれるものが尽きる。聞くことを尽くしても住せず、覚えるものと覚えられるものが空になる。空の覚えが極めて円かになり、空と空にされるものが滅する。生と滅がすでに滅すれば、寂滅が現前する。』
大衆、よく見なさい。これは菩薩の説かれたことである。なぜ山僧の口から出るのか。もし山僧の説くことなら、なぜ菩薩の事と言うのか。兄弟よ、これを山僧のものと思ってはならない。また菩薩のものと思ってもならない。各自、自分の鼻先に貼り付けて、よく吟味しなさい。これを菩薩の立場にまで押しやれるか。山僧の立場にまで押しやれるか。
まさにその時、これを山僧と言うならば、それは菩薩である。菩薩と言うならば、それは山僧である。山僧とか菩薩とか言っても、あなたには何の関係もない。あなたとか菩薩とか山僧とか言っても、何の関係もない。もしこのように打ち破ることができれば、観世音菩薩は今年、今月、今日、今時、降誕したのである。また、この時をもって成道し、大光明を放ち、大神変を現し、大法輪を転じ、一つ一つの手で無量の宝印を結び、一つ一つの口で無量の密呪を宣べる。それは湧き出る泉のようであり、無量の衆生を利益する。正しい眼で見れば、これもまだ一大夢に過ぎない。ましてや、西に白華を礼し、東に普陀に参詣し、いつも他人の分に押しやって、自分の足元の一段の光明を見過ごして知らないなど。もしそのような見解を抱くなら、菩薩はどうして今日降誕するだろうか。すでに無量劫の前に滅度してしまったのである。
柱杖を拈って言う。「菩薩が降誕した。見えるか。」しばらくして言う。「至る所に弥勒あり、門なきに善財なし。」
上堂。雲門扇子𨁝跳。今日拈來好笑。云何露柱懷胎。生個兒子高呌。大眾。且道是何音響。還有人知消息麼。若無人知。山僧代通去也。作哇哇聲。復云。諸人若還解笑。一切不曾欠少。若欲更問如何。驢年去也未了。眾中還有問話的麼。若有。出來。祇要打草驚蛇。僧纔出。師云。真是一場業地。捉拄杖下座。
上堂して言う。「雲門の扇子が跳ね上がった。今日、それを取り出して笑うのも面白い。なぜ露柱が妊娠し、息子を産んで大声で叫んだのか。皆さん、一体これは何の音か。誰かその消息を知っている者はいるか。もし知る者がいなければ、この山僧が代わりに通じさせよう。」と言って「ワーワー」と声を出す。さらに言う。「皆さんがもし笑いを解するなら、一切のものに欠けることはない。もしさらに問おうとするならば、驢年のことさえも終わっていない。皆さんの中で問いを出したい者はいるか。もしいるなら出て来なさい。ただ草を打って蛇を驚かせるだけだ。」僧がちょうど出て来ると、師は言う。「まったくもって業の境地だ。」と杖を取って座を下りた。
上堂。維那白槌云。法筵龍象眾。當觀第一義。師云。木上座未舉已前。早是漏泄了也。既舉已後。也有為人處。不教人舉心動念。牽眸側耳。何也。你若舉眼則瞎却汝眼。側耳則塞却汝耳。動念則塞斷汝意根。這個木上座有如是英勇。如是威光。如是自在。如是力用。時有僧拈蒲團出外。師云。且喜。若真正恁麼。釋迦牟尼佛是諸人左右的奴。達磨老臊胡是通事舍人。三乘十二分教是破故紙。一千七百則公案是著故破草鞋。大眾。適來有人聞恁麼舉。已領出門外去也。教山僧更說個什麼即得。還會麼。若也未會。不妨山僧向十字街頭說書去也。清明時節雨紛紛。路上行人欲斷魂。借問酒家何處有。牧童遙指杏花村。這孩子錯指人路也不知。若是問山僧。借問佛法何處有。但向他道。陶公嶺在面前存。
眾檀越請上堂。九十日春將過。光陰暗裏虗度。浮生何事忙忙。這個從來未悟。悟不悟。且放過。老僧無半文。要稱敵國富。大眾。且道憑何節目。敢爾大言。予知其間無有少法可得。時中不將元字脚誑諕諸人。尋常阿碌碌地。不顧人情隨分去也。雖然。即今城中善友得得入山。豈可緘口不言。聊向古人方便門頭。權引數言。影響佛事去也。大眾。人身難得。中土難生。佛法難聞。道場難入。你諸人既已入山。四難已越。所謂人身難得今已得。中土難生今已生。佛法難聞今已聞。道場難入今已入。既出四難。越超常類。宜當自慶。更有一難。所謂生死。只這一事。無論在家出家。共是一樁無難得難的大事因緣也。從上古人莫不繇此超出。以其具大智慧。大力量。擔當如是大事。頓然割恩愛。別家鄉。棄名利。息貪嗔。然後捨所難捨。忍所難忍。行所難行。故得證所難證。超出人天之上。故稱大勇猛世尊也。然這一著子。羣生等有。但不能如聖賢用心。故成差別。若能直下承當。心佛眾生。三皆平等要見從上已來曾甚麼人恁麼來。不見龐居士把百萬家財沉向湘江。專心在道。問馬祖曰。不與萬法為侶者是什麼人。祖曰。待汝一口吸盡西江水。即向汝道。士便禮拜。噫。老龐佛法為重。把百萬家財。棄如弊帚。則其所問不與萬法為侶。宜其然矣。馬祖看孔著楔。但道一口吸盡。可為今古一人而已。以山僧公論。則老龐佛法有餘。世法不足。爭似此間眾友入山供眾。非惟眾僧安心行道。其種福德於劫劫生生。乃至成佛。莫可窮盡。較他擲於無用江水又何如耶。你諸友則世法有餘。佛法不足。何也。未能如老龐這漢不與萬法為侶。若能直下自信。我也許你吸盡西江去。若未得如是。且把個生從何來死從何往的話頭。頓在面前。朝暮提持。倘得一念回光。必然與老龐把手千古之上。如不相委。不免葛藤自收去也。良久云。啼得血流無用處。不如緘口過殘春。
皆様の檀越様がお招きくださり、上堂いたします。 九十日の春もまもなく過ぎ行き、光陰は闇の中で虚しく過ぎ去ります。浮生、何にそんなに忙しいのか。このことについて、まだ悟りを得ていません。悟ろうが悟るまいが、ひとまずそれは置きましょう。老僧には一文の金もありませんが、敵国の富さえも称えると言う。皆様、一体どういうわけで、こんな大きなことを言えるのかお聞かせください。
私は承知しています。その中には、わずかな法さえも得るものはないのです。時の中にあっても、「元」という言葉を使って人の目を惑わすことはしません。いつも通り、ただ愚直に、人の情けに構わず、そのまま進んでいくのです。とはいえ、今、都の善友たちがわざわざ山に入ってきてくださいました。口を閉ざして何も言わないわけにはいきません。ひとまず、古の人の方便の入り口に従って、いくつかの言葉をかりて、形ばかりの仏事といたしましょう。
皆様、人の身は得難く、中央の国に生まれることは難しく、仏法を聞くことは難しく、道場に入ることは難しいのです。あなた方はすでに山に入り、この四つの難を越えました。すなわち、人の身は得難いが今得た、中央の国に生まれ難いが今生まれた、仏法は聞き難いが今聞いた、道場は入り難いが今入った、と。四つの難を出でて、常の類を超えたのですから、自らを喜ぶべきです。
さらに一つの難があります。それは生死でございます。この一事だけは、在家であろうと出家であろうと、同じく一つの、難なくして難である大きな因縁なのです。古よりの人々は、皆これによって超え出ました。大きな智慧、大きな力を持ち、このような大事を担い、たちどころに恩愛を断ち切り、故郷に別れを告げ、名利を捨て、貪りや怒りをやめ、その後、捨て難きを捨て、忍び難きを忍び、行い難きを行いました。それゆえに、証し難きを証し、人天の上を超え出で、大勇猛の世尊と称せられるのです。
しかし、この一つのこと、あらゆる生けるものに等しくあります。ただ、聖賢のように心を用いることができないために、差別が生じるのです。もし、まっすぐに受け止めることができれば、心も仏も衆生も、三つは皆平等であり、古より、どのような人がこのようにして来たのかを知ることができるでしょう。 かつて龐居士が百万の家財を湘江に沈め、一心に道に向かい、馬祖に問うたのを見なかったでしょうか。「万法と共にしない者は、何という者ですか」と。祖は答えました。「お前が一口で西江の水を飲み干すのを待って、お前に答えてやろう」と。居士はすぐに礼拝しました。ああ、龐居士は仏法を重んじ、百万の家財を塵芥のように捨てたのです。ですから、彼が「万法と共にしない者」を問うたのも、当然のことと言えましょう。馬祖は状況を見て楔を打ち込み、「一口に飲み干せ」と言っただけで、まさに古今を通じてただ一人の人物といえるでしょう。
山僧の公平な意見では、龐居士は仏法においては豊かですが、世法においては不足しています。どうしてこちらの皆様が山に入って僧侶に供養するのと比べられましょうか。ただ僧侶が心安らかに道を行うだけでなく、劫々生生にわたって福徳を積み、ついには成仏に至るまで、尽きることがありません。それを、無駄な江水に捨てることと比べて、どうでありましょうか。
あなた方は、世法においては豊かですが、仏法においては不足しています。なぜでしょうか。まだ龐居士という者のように、「万法と共にしない」ことができないからです。もし、まっすぐに自ら信じることができれば、私もあなたが西江を飲み干すことを許しましょう。もしそれができなければ、ひとまず「生はどこから来て、死はどこへ行くのか」という話頭を目の前に置き、朝夕に持ち続けなさい。もし一念の回光を得ることができれば、必ずや龐居士と手を携えて千古の上に立つでしょう。もしそれを受け入れなければ、やむを得ず、この上に絡む葛藤も、自ら収めるほかありません。
しばらくして言いました。 「血を吐くほどに叫んでも無駄なことだ。口を閉じて残りの春を過ごすに如くはない。」
上堂。春夏秋冬四季分。爾今一分往前過。禪和日用事如何。今日不了何劫悟。大眾。纔說進堂。又是兩月矣。若已透關。不在限內。如未透關的。也須著些精彩始得。不可只麼度時。便當參禪也。葢此事不屬文言。不因工夫。在活路上觸著磕著自己曠劫事。乃名了事。昔者藥山參石頭。問曰。三乘十二分教某甲麤知。但祖師西來意不明。乞和尚開示。頭曰。恁麼不得。不恁麼不得。恁麼不恁麼總不得。山不契。往問馬祖。祖曰。有時教伊揚眉瞬目。有時不教伊揚眉瞬目。有時道伊揚眉瞬目的是。有時道伊揚眉瞬目的不是。山豁然大悟。便禮拜。祖曰。汝見個什麼道理。便恁麼。山曰。我在石頭處。大似蚊子上銕牛。直得無下口處。祖曰。汝會也。兄弟。他既稱三乘十二分教麤知。到這裏無下口處。豈言語道理可到也。又一日石上打坐。石頭問曰。子在此作麼。山曰。一物不為。頭曰。恁麼則閑坐耶。山曰。閑坐即為也。兄弟。既云閑坐即為。豈是工夫所到耶。爾今兄弟不能悟道。病多在此。或有不信用工。祇向冊子上記些閑言剩語。抵對得人。便謂了事。不知正是所知障。或有不信直下領會一著子。執住工夫。終日死堆堆地。古人目為黑山鬼窟。或有不信直下休歇。定謂有悟。日久成狂。或有不信有悟。將個現前無明身心。認為自己。終世疑惑。或有身雖入堂而心在世緣。或有隨爾上下而無一心參扣。如是等皆名邪見。若是真正參禪的。定不向這裏安身。將個本參話頭頓在面前。久久緣熟。自然開悟。切不得於自心中起閑伎倆。塞却悟門。所以德山云。毫𨤲繫念。三途業因。瞥爾情生。萬劫覊鎻。聖名凡號總是虗聲。殊相劣形俱為幻色。但有毫端許言及本末者。皆為自欺也。兄弟。見山僧恁麼舉揚。不可便謂了事人也。若能迴光返炤。則我不汝欺。若謂我已悟道。則汝失却一隻眼。大眾。山僧到此弄鬼眼睛且不悟道。諸方目為折脚法師上講堂。我謂女棃園搬貞節記。這個正是抱贓自首也。良久。捉拄杖卓三下云。未明有說皆成謗。明了無言亦不容。下座。
上堂。春夏秋冬、四季が巡る。その一刹那一刹那、あなたがたは前に進んでいる。禅僧の日常の大事とは何か。今日を悟らねば、いつの劫に悟るのか。皆さん、「入堂」と言ったかと思えば、もう二ヶ月が過ぎました。もしすでに関門を突破したなら、期限は関係ありません。しかし、まだ突破していないなら、しっかりと気を引き締めなければなりません。ただ何となく時を過ごしているだけでは、坐禅をしているとは言えません。
なぜなら、この大事は言葉や文字に属さず、修行の功にもよらないからです。活きた道の上で、自らの無始以来の大事にぶつかり気づくこと、これを「了事」と言うのです。
昔、薬山禅師が石頭和尚に参じた時のこと。問うて言いました。「三乗十二分教は、おおよそ知っております。しかし、祖師西来の意だけがわかりません。和尚、どうかご開示ください。」石頭和尚は言いました。「そうするのも不可、そうしないのも不可。そうするのもそうしないのも、すべて不可。」薬山は納得できず、馬祖大師のもとへ行きました。馬祖は言いました。「時に彼に眉をひそめ瞬きをすることを許し、時にそれを許さない。時にその行為が正しいと言い、時に正しくないと言う。」薬山ははっと大悟し、礼拝しました。馬祖が「いったいどのような道理を見て、そうしたのか」と問うと、薬山は答えました。「私は石頭和尚のところで、まるで蚊が鉄牛に止まったように、まさに口を付けるところがありませんでした。」馬祖は「お前は理解したのだ」と言いました。
皆さん、彼は「三乗十二分教を粗方知っている」と言いながら、ここに来て口を付けるところがなかったのです。どうして言葉や道理が届くものでしょうか。
またある日、薬山が石の上に坐っていると、石頭和尚が問いました。「あなたはここで何をしているのか。」薬山は「何もしておりません」と答えました。石頭は「それならば、ただ暇に坐っているのか」と言いました。薬山は「暇に坐るということも、また『為す』ことです」と答えました。
皆さん、「暇に坐ることは為すことだ」と言うならば、それは功によるものなのでしょうか。
あなたがたが悟りを得られない病の多くは、ここにあります。ある者は、工夫を信ぜず、ただ冊子に書き付けた余計な言葉を覚え、人に言い返すだけで「了事」したと言う。これはまさに「所知障」だと知るべきです。ある者は、そのまま悟ることを信ぜず、工夫に執着し、一日中死んだように座り込む。古人はこれを「黒山の鬼窟」と呼びました。ある者は、そのまま休み止まることを信ぜず、必ず悟りがあると決めつけ、長く続ければ狂人になります。ある者は、悟りがあることを信ぜず、目の前の無明の身心をそのまま自分だと思い込み、一生迷い続けます。ある者は、身は堂にありながら心は世間の縁にあり、あるいはあなたに従って上下しても一心に参究しない。このようなものは、すべて邪見と呼ばれます。
真に参禅する者なら、決してこのような所に身を置かず、本来の公案(本参話頭)を目の前に置き、長く続けて縁が熟せば、自然に開悟するでしょう。決して自らの心の中に小さな技を起こし、悟りの門を塞いではなりません。
だから徳山禅師は言っています。「わずかな執着も、三悪道の業因となる。一瞬の情欲の発生は、万劫の繋縛となる。聖なる名も凡なる号も、すべて虚声に過ぎない。殊勝な相も劣った形も、すべて幻の色である。ただ毛先ほどの言説でもって本末を語るならば、すべては自らの欺きである。」
皆さん。山僧がこのように挙揚したからといって、すぐに「了事した人」と思ってはいけません。もしあなたがたが光を返して自らを照らすことができれば、私はあなたを欺きません。もし「私はもう悟った」と思うなら、あなたは一隻の眼を失っているのです。
皆さん。山僧はここで茶番を演じているのであって、悟ったわけではありません。世の人は私を「足を折った法師が講堂に上る」と呼びます。私はあなたに言います。「それは役者が貞節記を演じるようなものだ。まさに贓物を抱えて自首するのと同じだ。」と。
しばらく間を置いて、杖を手に取り三度床を突き、「明らかでなければ、説くことすべて誹謗となる。明らかになれば、言葉なきも容れられない。」と言い、下座した。
雲門廣孝寺秋日結制上堂。縱橫全在我。殺活豈繇他。秋到梧桐落。春來樹樹花。若能圓會得。何必問周遮。所以古人或時現獅子王哮吼。直得百怪千妖無地潛藏。或時弄野狐精伎倆。任他四聖六凡各稱奇特。雖然如是。不可被拄杖子瞞却。驀拈拄杖云。看看。拄杖子能縱能奪。能殺能活。有如是奇特。大眾。且道拄杖子奇特在什麼處。不見道喚作拄杖子則觸。不喚作拄杖子則背。不得有言。不得無言。不得轉機。不得著語。你諸人還知落處麼。時有僧出。師即打云。你欠伶俐。僧無語。復云。凡所聽法。當審來歷。向你道不得轉機。不得著語。你欲呈閑伎倆耶。今時人見恁麼舉。便豎一指。或喝一聲。或禮一拜。或拂袖出眾。謂之不落圈套了也。何故見山僧恁麼舉。你便弄閑伎倆。尋常聞鴉鳴鵲噪時。為什麼不豎指禮拜。只如你豎指禮拜。還當得生死邊事麼。若當得。我許你都是。如當不得。且莫掠虗。也須仔細看看。
上堂。十方坐斷。凡聖不通。把住要津。千差路絕。直得孤逈逈。峭危危。壁立萬仞。全身擔荷。有如是氣岸。具如是伎倆。然後可以氣吞佛祖。白眼諸方。作個了事人也。若不得恁麼地。也不得草草。當自知時節。昔者德山老人嘗云。般若有相無相。惟我知焉。千劫學佛細行。萬劫學佛威儀。尚不得成佛。南方一類魔子。敢言直指人心見性成佛。我當摟其窠穴。絕其狐種。報佛深恩。繇是擔䟽出蜀。路逢婆子。買點心。婆問曰。擔上什麼文字。答曰。青龍䟽鈔。曰。講何經。答曰。金剛經。婆曰。我有一問。若道得。施與點心。若道不得。且請別買。曰。但問。婆云。過去心不可得。未來心不可得。現在心不可得。上座點那個心。德山不知所答。這漢蜀中開海一般大口。只消一個婆子。死去十分了也。指見龍潭。向吹滅紙燭處。豁然大悟。次日於法堂上燒䟽云。窮諸玄辯。似一毫置於太虗。竭世樞機。如一滴投於巨海。休休。自後盤結草菴。呵佛罵祖。今時兄弟見恁麼簡易。便不肯做功夫。祇向古人建化門頭。東窺西看。學一兩句活語。便欲罷參也。曾不知德山在蜀中便云般若有相無相。惟我知焉。其用功亦多多矣。及到龍潭得悟。始知從前所學。如一毫一滴。今日之悟。如太虗滄海。始酬他一生所學。兄弟。你們都稱悟道。能如德山一生所學。混入靈源。如太虗滄海也未。能如他這樣坐得斷也未。二六時中真得恁麼相應也未。宗教融通無礙也未。若不得如此。切不得自棄。我多見兄弟行動之間。都稱無礙。纔坐起來。便昏沉了也。魔王佔舍了也。只個昏沉。尚然如此。何況臨命終時。五陰將離。四大分散。要敵他生死也大難大難。兄弟。還肯山僧恁麼舉麼。若也不肯。拄杖子為你截斷去也。拈拄杖云。楖栗橫擔不顧人。直入千峰萬峰去。
(法座にのぼりて)十方世界を断ち切れば、凡夫も聖者も通れず、要所を押さえれば千差万別の道も絶える。そのまま孤高にそびえ、断崖絶壁のように立ちはだかり、全身で荷う。そのような気概と力量があってこそ、仏祖を飲み込み、諸方を白眼視し、一人前の禅者となれる。もしその境地に至らねば、いい加減に済ませてはならぬ。自ら時節を知るべきだ。
昔、徳山禅師はこう言った。「般若には相も無相もあり、ただ我のみが知る。千劫かけて修行し、万劫かけて威儀を学んでも、なお成仏は叶わない。ところが南方の魔どもは、『直指人心、見性成仏』などと語る。我は彼らの巣を壊し、狐の種を絶ち、仏の深恩に報いよう」。
こうして疏鈔を担いで蜀を出ると、老婆に出会い、点心を買おうとした。老婆が問う。「担いでいるのは何の文字か」。答える。「青龍疏鈔です」。「何の経典を講じるのか」。「金剛経です」。「一つ問う。答えられたら点心を施そう。答えられなければ、他で買いなさい」。「お聞きしましょう」。
老婆が言う。「過去心は得られず、未来心は得られず、現在心も得られず。上座はどの心を指すのか」。徳山は答えられなかった。
かの男は蜀で大口を叩いていたが、ただ一人の老婆に完敗した。そして龍潭を訪ね、紙燭を吹き消す場面で大悟した。翌日、法堂で疏鈔を焼き捨てて言った。「あらゆる玄妙な議論を窮めても、毛一本を虚空に置くようなもの。世のすべての枢機を使い果たしても、一滴を大海に注ぐようなものだ。もういい、もういい」。
その後、草庵を結び、仏を罵り祖を叱った。
今の修行者たちは、このように簡易な悟りを見て、修行を怠る。古人の方便の跡を覗き見て、一、二の巧みな言葉を覚えれば、それで参究をやめてしまう。
まことに知るがよい。徳山は蜀で「般若有相無相、ただ我のみが知る」と言った。その修行は並大抵ではなかった。龍潭で悟って初めて、以前の学びが毛一本・一滴のようなものであり、今回の悟りが虚空・大海のようなものだと知り、一生の学びが報われたのだ。
僧たちよ。あなた方は悟りを称しながら、徳山のように一生の学びを霊源に混ぜ、虚空・大海のごとくにできているか。彼のように断ち切れているか。昼夜、真に相応しているか。宗と教を融通無碍にできているか。もしそうでなければ、決して自らを捨ててはならぬ。
私は多くの僧が、行動の間は「無碍」と称しながら、座ればすぐに昏沈するのを見てきた。魔王に占拠されたのだ。ただの昏沈すらこうである。ましてや命終の時、五陰が離れ、四大が散ずる時、生死に立ち向かうのは至難の業だ。
僧たちよ。山僧のこの話を認めるか。もし認めねば、この杖でお前たちを断ち切ろう。
(杖を拈って)「栗の杖を横に担いで人を顧みず、まっすぐ千峰万峰へと入る」。
上堂。良久云。這個笑具。世尊於二千年前曾恁麼來。當時靈山聖流。尚似依稀。幸有文殊老人白槌云。諦觀法王法。法王法如是。大眾。且如世尊陞座。你諸人也陞座。世尊默然。你諸人也默然。於中還有法王法也無。具通方眼的看看。切不得推在世尊分上。文殊老人分明道出你諸人趺坐默然處一著子道理。自是你諸人不會。一向推在聖賢分上了。若真實如你諸人見處。則使他諸佛坐也坐不得。臥也臥不得。行也行不得。住也住不得。何也。葢為你諸人作佛法商量。致使他無容身處也。山僧到此。無可分訴。聊伸一偈。布施大眾去也。行住坐臥本尋常。何必將心起較量。爭似扁舟垂釣客。蕭然一曲在滄浪。
説法の席に上がり、しばし黙してから言われた。
「この笑い種(たね)よ。世尊は二千年前、まさにこのようにされた。その当時、霊鷲山の聖徒たちでさえ、まだおぼろげにしか理解していなかった。幸いにも文殊菩薩が白槌(はくつい)を打って、『よくよく法王の法を観ぜよ。法王の法はかくのごとし』と告げたのだ。
諸君よ。世尊が座に上がられたように、あなたがたも座に上がる。世尊が黙されたように、あなたがたも黙する。その中に、はたして法王の法があるのか、ないのか? 世界を見通す目を持つ者よ、よく見極めたまえ。決してそれを世尊の手柄に押しつけてはならない。
文殊菩薩ははっきりと、あなたがたが結跏趺坐して黙している、まさにその一点の道理を示しておられる。ただ、あなたがたがそれを理解せず、一方的に聖賢の手柄にしてしまっているだけだ。 もし本当にあなたがたの見解どおりなら、諸仏は座ることも、臥すことも、行くことも、止まることもできなくなってしまう。なぜか? あなたがたがすべてを『仏法』という枠で解釈するから、彼らの居場所がなくなってしまうのだ。
山僧(私)はここに至って、もはや言い訳のしようもない。そこで、ひとつの偈(げ)を差し出して、皆さんに布施しよう。
行住坐臥(ぎょうじゅうざが) 本來尋常(ほんらいじんじょう) 何ぞ必ずしも將心(しょうしん)して 較量(きょうりょう)を起さん 爭(いかん)ぞ似(に)んや 扁舟(へんしゅう)の垂釣(すいちょう)の客(かく) 蕭然(しょうぜん)として一曲(いっきょく) 滄浪(そうろう)に在るに
(行く、立つ、座る、臥す、すべてが本来ごく普通のこと。 わざわざ心を用いて、比べ計ろうとする必要があるだろうか。 むし
上堂。幾遊城廓幾歸山。酷熱猶知行路難。寄語林泉無事客。衣單下事莫顢頇。默默深究。重重細參。直待冷灰荳爆。方可隨處安閒。山僧自愧道乏聖賢。未能脫然入纏無累。爭似你諸人三條椽下。七尺單前。全身放下。滿擔承當。湛湛澄澄。凝然一片。似超山僧一百萬倍也。未審你諸人還有這利益也無。曾到遮個境界也無。兄弟。且道這個境界。當時有什麼人恁麼舉。不見洞山解制云。秋初夏末。兄弟家或東或西。直須向萬里無寸草處去。良久云。只如萬里無寸草。作麼生去。眾無對者。有過劉陽遇石霜混跡茶坊。問云。什麼處來。答曰。洞山來。曰。有何言句。僧舉前話。霜云。何不道出門便是草。僧舉似洞山。山云。劉陽有古佛。汝等應知。山僧扭轉機關。向你諸人道。直教不出門亦是草。你諸人還有緇素得出。分辨清濁的麼。若有定得。雖然不出娑婆界。管取全身入帝鄉。
〔法話〕師が言われた。
「何度も町を巡り、また山に帰る。厳しい暑さの中、行き道の困難を身に染みて知る。心して林泉の閑人に伝えよ。衣一件の下、修行の事を疎かにしてはならない。静かに深く探求し、重ねて細かく参究せよ。冷えた灰の中から豆が弾けるまで、そこではじめてどこにいても安らかでいられる。山僧は自らに恥じる、聖賢の道に乏しく、俗縛に巻かれながらも解脱できずにいる。それに比べて、あなた方が三本の梁の下、七尺の寝所の前で、全身を投げ出し、全力で荷を担い、澄み切って、一片に凝り固まっている様は、山僧を百萬倍も超えている。はたしてあなた方には、このような利益があるだろうか。この境地に達したことがあるだろうか。兄弟たちよ、さてこの境地を、昔どんな人がこのように挙げ示しただろうか。洞山和尚の夏安居の終わりの言葉を見よ。『秋が来て夏が終わった。兄弟たちよ、東へ行き、西へ行くならば、必ず万里に草一本もないところへ向かえ』しばらくして言われた。『ただ、万里に草一本もない、というが、どうやって行くのか』その場に答える者がいなかった。時に、ある僧が劉陽を通り、石霜和尚の茶坊で言葉を交わした。『どこから来たのか』『洞山から来ました』『どんな言葉があったか』僧が先ほどの話をしたところ、石霜は言われた。『なぜ、門を出ればそこが草だ、と言わなかったのか』僧が洞山にこの話をしたところ、洞山は言われた。『劉陽には古仏がおられる。あなた方は知るべきだ』山僧はこの仕掛けを方向転換し、あなた方にこう言おう。『門を出なくても、そこもまた草である』と。あなた方は、黒と白を見分け、清濁をはっきりさせることができるだろうか。もし定まることができるなら、娑婆世界を出ることなくとも、必ずや全身で仏の国土に入るであろう。」
上堂。五月五日天中節。赤口白舌盡消滅。桃符艾虎滿頭插。雄黃菖蒲和酒哈酩酊不知歲月移。千妖百怪皆驅殺。誰管他魔來佛來。一齊都按著。大眾。何故如此。不見道護生須是殺。殺盡始安居。要知殺的道理麼。趂此良辰。以艾葉為旗。以菖蒲為劍。以猛利心。挺英雄膽。不管他是耶非耶。得耶失耶。聖耶凡耶。佛耶魔耶。乃至貪嗔癡所搆世出世間一切諸煩惱賊。提起一刀兩段。直得淨躶躶。光爍爍。圓陀陀。活潑潑。作一個世出世間無好得好的大丈夫也。兄弟。還有這個人真得恁麼地麼。若不得恁麼。山僧有個護身符相送大眾去也。拈拄杖云。看看。太上老君急急如律令勑。問答次。復舉昔者西天大耳三藏自稱得他心通。肅宗詔南陽忠國師驗之。問曰。說汝得他心通是否。答曰。是。國師良久。問曰。汝道老僧即今在什麼處。藏曰。和尚是一國之師。何得向天津橋看弄猢猻。良久。又曰。汝道老僧即今在什麼處。藏曰。和尚是一國之師。何得往渭河看競渡。良久。又問。汝道即今在什麼處。藏罔措。國師叱曰。野狐精。他心通在什麼處。諸方皆謂前二度是他受用身。三藏得見。後一度是自受用身。三藏不見。惟山僧見處不然。且如國師向渭河看競渡。是國師。不是國師。還有會得的麼。若也會得。拄杖子為你證明。若也不會。三十棒自領出去。何故如此。不見道相罵饒你接嘴。吐涶饒你潑水。
説法の席にて。五月五日は端午の節句。赤い口や白い舌の災いも全て消え去る。桃の木の札や艾の虎を頭に飾り、ショウブとヨモギを酒に浸して酔い、歳月の移ろいも忘れる。千の妖怪も百の怪物もみな追い払う。魔が来ようが仏が来ようが、かまうものか。すべてを押さえつけるのだ。
皆の衆、なぜそうするのか。見えないか、「命を護るには殺さねばならず、殺し尽くして初めて安らかに住める」と。殺しの道理を知りたいか。この良い機会に、艾の葉を旗とし、菖蒲を剣とし、猛利な心で英雄の胆力を奮い起こせ。それが正しいか正しくないか、得るか失うか、聖か凡か、仏か魔か、さらには貪り・怒り・愚痴から作られる世の中と世の外のあらゆる煩悩の賊を、すべて一刀の下に断ち切れ。そうすれば、まさに裸で清らかに、光り輝き、丸くおおらかで、生き生きと活動する、世の中も世の外も超えた、何者にもとらわれない大丈夫となれるのだ。
兄弟たちよ、このような人物が本当にその境地に達しているだろうか。もし達していなければ、山僧が護身符を皆に贈ろう。杖を取り上げて言う。「見よ、太上老君の命により、急ぎ急ぎ法のままに成せ」と。
問答の後、昔の話を挙げる。昔、西天の大耳三蔵が「他心通」を得たと自称した。そこで粛宗皇帝は南陽の忠国師に彼を試すよう命じた。国師が問う。「お前は他心通を得たと言うが、本当か。」三蔵は「そうです」と答えた。国師はしばらく沈黙し、問う。「今、老僧はどこにいると思う。」三蔵は「和尚は一国の師でありながら、どうして天津橋で猿回しを見ておられるのですか」と言った。さらにしばらくして国師が再び問う。「では、今、老僧はどこにおる。」三蔵は「和尚は一国の師でありながら、なぜ渭河の競漕を見物しておられるのですか」と言った。さらにしばらくして国師が問う。「では、今はどこにいる。」三蔵は答えに窮した。国師は叱りつけた。「野狐の精め。お前の他心通はどこにある。」
世の多くの人は、最初の二度は他者に現れた姿で三蔵が捉えたが、後の一度は自己の内に現れた姿で三蔵には見えなかったと言う。しかし、山僧の見方は異なる。国師が渭河で競漕を見ていたのは、国師なのか、国師ではないのか。理解できる者があるか。もし理解できるなら、この杖が証明しよう。もし理解できなければ、三十の棒を自分で受けて出て行け。なぜか。言うまでもない、「罵り合いにはお前の口を貸してやる、唾を吐くにはお前の水をまかせてやる」と。
上堂。集眾良久。乃曰。從來不恁麼。如今始恁麼。已被世尊先道破了。不可更要撒尿撒屎。汙汝諸兄弟心田。所以不煩維那白槌也。天炎珍重。下座。
上堂し、しばらくの間、僧侶たちを集めた後、こう述べられた。
「かねてから、そうではなかった。 今になって、そうなった。 しかし、これはすでに世尊によって先に説き明かされている。 だから、今さら小便や大便をすることではない。 皆さんの心の田んぼを汚してはいけない。 だから、維那が白槌(はくつい)をするまでもないのだ。 暑いので、どうかお大事に。」 そう言って、法座を下りられた。
上堂。南山鱉鼻蛇。雲門拄杖子。長慶解推倒。玄沙却扶起。休教看脚下。切莫揣懷裏。一并與拈來。噫。難瞞拄杖子。大眾。且道拄杖子有甚長處。敢爾這般開得大口。還會麼。若不會。新雲門與你下些註脚。只為拄杖子有炤有用。有縱有奪。有收有放。有殺有活。你若上前來。他能拒你。你若退後去。他能勾你。你若立住。他能打你。正當恁麼時。山僧向東邊一點。西邊一點。中間一點。且道那一句是炤。那一句是用。那一句是縱。那一句是奪。那一句是收。那一句是放。那一句是殺。那一句是活。若也簡點得出。許你參學事畢。其或未然。閑言及剩語。緘口最為強。
説法席に登って言う。
南山の鼈鼻蛇、雲門の杖、長慶はこれを打ち倒すと言い、玄沙は逆に起こそうとする。「足元を見るな」「懐に入れるな」と言うなかれ。すべてをひとまとめにして手に取れ。ああ、杖を欺くことは難しい。諸君、さあ言え、この杖にいったい何の長所があって、このように大言壮語できるのか。わかるか?もしわからなければ、新たな雲門がお前に註釈を加えよう。
ただ杖には照らしがあり、働きがあり、許しがあり、奪いがあり、収めがあり、放ちがあり、殺しがあり、活かしがある。お前が前に出れば、杖はお前を拒む。お前が後に退けば、杖はお前を引き寄せる。お前が立ち止まれば、杖はお前を打つ。
まさにそのような時、山僧は東側に少し、西側に少し、真ん中に少し指し示す。さあ言え、どの一句が照らしであり、どの一句が働きであり、どの一句が許しであり、どの一句が奪いであり、どの一句が収めであり、どの一句が放ちであり、どの一句が殺しであり、どの一句が活かしか。
もしそれを指摘できれば、お前の参学は終わったと認めよう。もしできなければ、無駄話や余計な言葉は口を閉じてしまうのが一番だ。
會稽雲門湛然澄禪師語錄卷第一
会稽雲門湛然澄禅師語録 巻第一