緣起聖道經
縁起聖道経
大唐三藏法師玄奘奉 詔譯
大唐三蔵法師玄奘奉詔訳
如是我聞:
私が聞いたところでは、次のように語られました。
一時薄伽梵在室羅筏國,住誓多林給孤獨園,與大苾芻眾千二百五十人俱,及諸菩薩摩訶薩等無量大眾。
ある時、世尊(ブッダ)はシュラーヴァスティーのジェータ林にある給孤独園の精舎におられた。そして、千二百五十人の大いなる修行者(比丘)たち、さらには多くの大きな菩薩たちをはじめとする無数の人々と共におられた。
爾時世尊告諸大眾:「吾未證得三菩提時,獨處空閑,寂然宴坐,發意思惟:『甚奇!世間沈淪苦海,都不覺知出離之法,深可哀愍。謂雖有生、有老、有死,此沒、彼生,而諸有情不能如實知生、老死出離之法。』
その時、世尊は大衆に告げられました。
「私がまだ悟りを開いていなかった頃、ひとり静かな場所で瞑想し、こう考えました。『なんと不思議なことだ。世の中の人々は苦しみの海に沈みながら、そこから抜け出す方法にまったく気づかない。本当に哀れむべきことだ。確かに、生があり、老いがあり、死がある。こちらで命が終わり、あちらで新たに生まれる。しかし、人々は生・老・死からの解放の道を、ありのままに理解することができないのだ。』
「我復思惟:『由誰有故而有老死?如是老死復由何緣?』我於此事如理思時,便生如是如實現觀:『由有生故便有老死。如是老死由生為緣。』
さらに、このように考えました: 「何があるから老いと死があるのか? また、老いと死は何を縁としているのか?」 このことを理にかなった形で考えた時、次のような明らかな真実の観察が生まれました: 「生があるから老いと死がある。このように、老いと死は生を縁として起こる。」
「我復思惟:『由誰有故而得有生?如是生者復由何緣?』我於此事如理思時,便生如是如實現觀:『由有有故便得有生。如是生者由有為緣。』
「さらに、私は考えました。『何があるから生があるのだろう? その生は何を縁として起こるのだろう?』と。このことを道理にかなって考えたとき、私はこのような如実の観察を生じました。『「有」があるから「生」がある。そして、この生は「有」を縁として起こるのだ。』と。」
「我復思惟:『由誰有故而得有有?如是有者復由何緣?』我於此事如理思時,便生如是如實現觀:『由有取故便得有有。如是有者由取為緣。』
さらに、私はこう考えました。 「何があるから『存在』が成り立つのか。この『存在』は何をよりどころとしているのか。」 このことを理にかなった方法で考察していると、次のような明確な理解が生まれました。 「執着があるから存在が成り立つ。この存在は執着を縁として生じるのだ。」
「我復思惟:『由誰有故而得有取?如是取者復由何緣?』我於此事如理思時,便生如是如實現觀:『由有愛故便得有取。如是取者由愛為緣。』
さらに、私はこう考えました。 『何があれば執着が生じるのか。そして、その執着は何を原因として起こるのか。』 このことを道理に従って考えたとき、次のような明確な洞察が生まれました。 『渇愛(あい)があるからこそ執着が生じる。そして、執着は渇愛を縁として起こる。』
「我復思惟:『由誰有故而得有愛?如是愛者復由何緣?』我於此事如理思時,便生如是如實現觀:『由有受故便得有愛。如是愛者由受為緣。』
さらに私はこう考えました。 『何があれば愛執が生じるのか。また、その愛執は何を原因として起こるのか。』 このことを理にかなった方法でよく考えたとき、次のような明らかな洞察が得られました。 『感受があるからこそ、愛執が生じるのだ。この愛執は感受を縁として起こるのである。』」
「我復思惟:『由誰有故而得有受?如是受者復由何緣?』我於此事如理思時,便生如是如實現觀:『由有觸故便得有受。如是受者由觸為緣。』
さらに、私はこう考えました。「何が存在するゆえに、感受が存在するのか。また、この感受は何を縁として生じるのか。」このことを道理に沿って考えていたとき、次のようなありのままの真実の観察が生じました。「接触があるゆえに、感受が存在する。そして、この感受は接触を縁として生じる。」
「我復思惟:『由誰有故而得有觸?如是觸者復由何緣?』我於此事如理思時,便生如是如實現觀:『由有六處便得有觸。如是觸者六處為緣。』
さらに私はこう考えました。『何が存在するから、触れるという感覚が生じるのだろうか。そして、この触れる感覚は何を原因とするのだろうか。』
このことを道理に従って考えたとき、次のようなありのままの洞察が生まれました。『六つの感覚器官があるから、触れる感覚が生じる。この触れる感覚は、六つの感覚器官を原因とするのだ。』
「我復思惟:『由誰有故而有六處?如是六處復由何緣?』我於此事如理思時,便生如是如實現觀:『由有名色便有六處。如是六處名色為緣。』
さらに、私はこのように考えました。『何があるゆえに六処が存在するのか。また、この六処は何を縁として生じるのか。』と。このことを道理に従って考えたとき、次のような確かな理解が生じました。『名色があるゆえに六処が存在する。六処はこの名色を縁として生じるのだ。』と。
「我復思惟:『由誰有故而有名色?如是名色復由何緣?』我於此事如理思時,便生如是如實現觀:『由有識故便有名色。如是名色由識為緣。』
そこで、私はさらに考えました。 何があるから、名色(なまえと形あるもの)があるのだろうか。 そして、その名色は、何をよりどころとして生じるのだろうか、と。
このことを道理にかなった方法で観察しているうちに、次のような確かな理解が生まれました。 「認識作用があるから、名色が存在する。 このようにして、名色は認識作用を縁として生じるのである。」
「我齊此識,意便退還,不越度轉,謂:『識為緣而有名色;名色為緣而有六處;六處為緣而有其觸;觸為緣受;受為緣愛;愛為緣取;取為緣有;有為緣生;生為緣故便有老死、愁、歎、憂、苦、擾、惱生起。如是積集純大苦聚。』
私の心はこの認識にとどまり、それ以上進むことはなかった。すなわち、「認識が条件となって名前と形が生じ、名前と形が条件となって六つの感覚器官が生じ、六つの感覚器官が条件となって接触が生じ、接触が条件となって感覚が生じ、感覚が条件となって渇望が生じ、渇望が条件となって執着が生じ、執着が条件となって存在が生じ、存在が条件となって誕生が生じ、誕生が条件となって老いや死、嘆き、悲しみ、苦しみ、悩み、絶望が生じる。このようにして、純粋な大きな苦しみの塊が集まり積み重なる」と。
「我復思惟:『無有誰故而無老死?由誰滅故老死隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無有生故便無老死。由生滅故老死隨滅。』
さらに、このように考えました。『何がなくなれば老いと死がなくなるのだろうか。何が滅びれば、老いと死も滅びるのだろうか。』そこで私は、このことを理にかなった方法で考えると、次のようなありのままの観察が生じました。『生がなければ老いと死はない。生が滅びるので、老いと死も滅びるのだ。』
「我復思惟:『無有誰故而無有生?由誰滅故此生隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無有有故便無有生。由有滅故生即隨滅。』
さらに私は考えました: 「何がなくなれば、生まれがないのか。何が滅すれば、この生まれるものがそれに従って滅するのか。」
私はこのことを理にかなったまま思考した時、このようなあるがままの観察が生じました: 「存在するものがないから、生まれることもない。存在するものが滅するから、生まれるものもそれにつれて滅する。」
「我復思惟:『無有誰故而無有有?由誰滅故此有隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無有取故便無有有。由取滅故有即隨滅。』
さらに私は考えました。『何が存在しないことによって、所有も存在しないのか?何が滅びることによって、この所有も共に滅びるのか?』と。このように道理に従って考えているとき、このようなありのままの観察が生まれました。『執着がなければ、所有も存在しない。執着が滅びれば、所有も共に滅びる。』と。
「我復思惟:『無有誰故而無有取?由誰滅故此取隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無有愛故便無有取。由愛滅故取即隨滅。』
「我復思惟:『無有誰故而無有愛?由誰滅故此愛隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無有受故便無有愛。由受滅故愛即隨滅。』
さらに私は考えました。『何がなければ執着もなくなるのか。何が滅びれば執着も共に滅びるのか。』こうして理にかなった方法で考えを巡らせていたところ、次のようなありのままの悟りが生じました。『感受がなければ執着はない。感受が滅びれば執着も共に滅びるのだ。』
「我復思惟:『無有誰故而無有受?由誰滅故此受隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無有觸故便無有受。由觸滅故受即隨滅。』
さらに私は考えました。「何がなければ、感覚は生じないのか。何が滅びることで、この感覚もまた滅びるのか。」と。このように道理に従って考えを巡らせたとき、次のようなはっきりとした理解が生じました。「接触がなければ、感覚は生じない。接触が滅びることで、感覚もまた滅びるのだ。」と。
「我復思惟:『無有誰故而無有觸?由誰滅故此觸隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無六處故便無有觸。六處滅故觸即隨滅。』
そこで私はこう考えました。 「何がなくなれば、触れるという感覚(触)はなくなるのか。何が滅すれば、それに従って触も滅するのか。」 そのように道理に従って正しく考えていると、このような如実の観察が生じました。 「六つの感覚の基盤(六処)がなければ、触も存在しない。六処が滅するならば、触もそれに従って滅する。」
「我復思惟:『無有誰故而無六處?由誰滅故六處隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無名色故便無六處。名色滅故六處隨滅。』
「私はさらにこう考えました。『何がなくなれば六つの認識の場がなくなるのだろうか。何が滅びれば六つの認識の場も滅びるのだろうか。』このように理にかなった考えをめぐらせた時、次のような真実の観察が生まれました。『名前と形(名色)がなければ六つの認識の場はない。名前と形が滅びれば六つの認識の場も滅びる。』」
「我復思惟:『無有誰故而無名色?由誰滅故名色隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無有識故便無名色。由識滅故名色隨滅。』
そこで、私はさらに考えました。「何がなくなると、名前と形(名色)はなくなるのだろうか。何が消えると、名前と形も消えるのだろうか。」と。
このように道理にかなった考えを巡らせていると、次のような明確な理解が生まれました。「認識(識)がなくなると、名前と形(名色)はなくなる。認識が消えると、名前と形も消えるのだ。」と。
「我復思惟:『無有誰故而無有識?由誰滅故此識隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無有行故便無有識。由行滅故識即隨滅。』
「我復思惟:『無有誰故而無有行?由誰滅故此行隨滅?』我即於此如理思時,便生如是如實現觀:『無無明故便無有行。無明滅故行即隨滅;由行滅故識亦隨滅;由識滅故名色隨滅;名色滅故六處隨滅;六處滅故觸亦隨滅;由觸滅故受亦隨滅;由受滅故愛亦隨滅;由愛滅故取亦隨滅;由取滅故有亦隨滅;由有滅故生亦隨滅;由生滅故老死、愁、歎、憂、苦、擾、惱皆亦隨滅。如是永滅純大苦聚。』
「我復思惟:『我今證得舊道、舊徑、舊所行跡、古昔諸仙之所遊履。』
「譬如有人遊行曠野、嶮穢、稠林,歘然值遇舊道、舊徑、舊所行跡、古昔諸人甞所遊履。彼即尋行。既尋行已,見舊城郭、古昔王都,園林、池沼無不具足,淨妙街衢甚可愛樂。其人見已,如是思惟:『我今宜應速詣王所,啟白斯事。』爾時彼人便到王所,啟白王言:『大王當知!我有因緣遊行曠野、嶮穢、稠林,歘然值遇舊道、舊徑、舊所行跡、古昔諸人甞所遊履。我即尋行。既尋行已,見舊城郭、古昔王都,園林池沼無不具足,淨妙街衢甚可愛樂。大王!今者若都彼城,定使大王昌隆廣大,安隱,豐樂,人民熾盛。』爾時其王便都彼城。後時王都昌隆廣大,安隱,豐樂,人民熾盛。
「我亦如是。今已證得舊道、舊徑、舊所行跡、古昔諸仙甞所遊履。何等名為舊道、舊徑、舊所行跡、古昔諸仙甞所遊履?當知即是八支聖道,謂初正見,次正思惟、正語、正業、正命、正勤、正念、正定,惟至第八。如是名為舊道、舊徑、舊所行跡、古昔諸仙甞所遊履。我昔尋行。既尋行已,曾見老死,見老死集,見老死滅,見於老死趣滅行跡。如是曾見生、有、取、愛、受、觸、六處、名色、識、行,曾見行集,曾見行滅,曾見於行趣滅行跡。我於此法自然通達。現等覺已,告諸苾芻、諸苾芻尼、鄔波索迦、鄔波斯迦,及告種種外道、沙門、諸婆羅門、雜出家類無量大眾。是諸苾芻若於此中能正修行成能證者,便能證得正理法善。諸苾芻、苾芻尼、鄔波索迦、鄔波斯迦無量大眾,若於此中能正修行成能證者,便能證得正理法善。如是乃能增廣梵行,亦當饒益無量眾生,為諸天人正善開示。」
時諸苾芻及諸菩薩摩訶薩等無量大眾,聞佛所說,歎未曾有,皆大歡喜,信受奉行。
緣起聖道經