ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 華嚴感應傳一卷
  1. 大方広仏華厳経感応伝 (大方廣佛華嚴經感應傳)
  2. 華嚴感應傳一卷

大方広仏華厳経感応伝 (大方廣佛華嚴經感應傳)

「大方廣佛華嚴經感應傳」について

唐 · 惠英撰.胡幽貞纂 著

7,213 字 · 約 24 分

大方広仏華厳経感応伝は、唐代の僧侶・恵英によって記述され、胡幽貞によって編纂された、華厳経に関連する感応の事跡を記録した書物です。本書は唐代の仏教が隆盛を極めた時期に成立し、主に華厳経を誦持し修学することによって得られた霊験と感応の物語を集大成しています。内容は、瑞相の示現、災難の化解、智慧の開顕など具体的な事例に及び、当時の社会における華厳経への篤い信仰を体現しています。この感応伝は、華厳経が中国でどのように流布し受け入れられ、民間の信仰実践と結びついたかを研究する上で重要な文献であり、華厳経の仏教における地位と、信者たちへの深遠な影響を理解するための貴重な参考資料となっています。仏教史上、感応類文献の典型的な代表作の一つとして位置づけられています。


大方廣佛華嚴經感應傳

『大方広仏華厳経感応伝』

四明山大方廣無生居士胡幽貞刊纂

四明山大方廣無生居士胡幽貞 刊纂

此傳本花嚴疏主藏公門徒僧惠英。集為上下兩卷。今予鄙其事外浮詞蕪於祥感。乃筆削以為一卷。俾有見聞於茲祕乘。生難遭想。各勉受持。

この伝本は、花厳疏の主である蔵公の門弟である僧・恵英が、上下二巻にまとめたものである。今、私は、その中に事柄以外の余計な言葉が多く、祥感(めでたい感応)を曇らせていることを嘆き、筆を加えて削り、一巻とした。これによって、この秘められた経典を見聞きする者たちに、めったに巡り会えないものに出会ったという思いを起こさせ、それぞれが心して受持するよう努めることを願うのである。

西域無著菩薩弟天親。少習內氏。長通五部。初業小乘。造小乘論五百部。無著愍其聰頴未發大心。深媚小法非議大教。遂方便示疾。使人呼而誘進之。為其廣說病之因業。天親遂以兄之受持維摩法華涅槃華嚴等經。抗聲轉誦。無著凝聽。且憙且悲。天親覽經數辰。方獲信悟。深敬華嚴一乘。是諸佛境界。遂捨小師大。深自悔咎。欲以利刀斷舌為謝前過。無著誡之曰。向以汝口激揚權教。毀斥真乘。今還以汝口。讚美真乘。自滅深累。何斷舌為。天親於是入山。受持花嚴。後造十地論。有所不通。來問無著。無著未通。昇知足天。請訣慈氏。論纔絕筆。地大震動。論放光明。照數百里。舉國慶異。廣如無著傳中說。

西域の無著菩薩の弟、天親は、幼い頃から仏教を学び、成長して五部の経典に通じた。初めは小乗を学び、小乗の論書五百部を著した。無著はその聡明さを愛しつつも、まだ大乗の心が開かれていないことを憂い、小乗の教えに深く執着して大乗を誹謗しているのを悲しんだ。そこで方便として病を装い、人を遣わして呼び寄せ、誘い導いて、病の因縁について詳しく説いた。

天親は兄が受持していた維摩経・法華経・涅槃経・華厳経などの経典を、声高に読み上げた。無著はそれを静かに聞き、喜びと悲しみの両方を感じた。天親は数日の間これらの経典を読んで、ようやく悟りを得た。華厳の一乗の教えが諸仏の境地であることを深く敬い、小乗を捨てて大乗に帰依した。深く自分の過ちを悔い、鋭い刀で舌を切って過去の罪を謝そうとした。無著はこれを戒めて言った。

「かつて汝の口で権教を唱え、真実の教えを謗った。今、同じその口で真実の教えを称えれば、深い罪は自然に滅するであろう。どうして舌を切る必要があろうか。」

天親はそこで山に入り、華厳経を受持した。その後、十地論を著したが、分からないことがあり、無著に尋ねた。無著も理解できず、知足天に昇り、慈氏(弥勒菩薩)に請いて教えを乞うた。論が完成した時、大地は大きく震動し、論から光明が放たれて数百里を照らした。国中がこの奇跡を祝った。詳細は無著伝に説かれている通りである。

魏朝并洲僧靈辨。童子出家。精心佛乘。專以花嚴為業。時未有疏論。每思玄旨請益無所。於是嚴飾道場。頂戴華嚴。晝夜行道六年。有餘步步流血。哀請文殊加被。誓通奧典。克誠無替。忽於一夜。感見童真。及明朗悟華嚴法界七處九會。即入微定。皎若當時。猶歷目覩耳聽心領。昔所未了。今無不通。遂於彼洲西懸瓮山中。造華嚴論一百卷。

魏の朝代、并州に霊辨という僧がいました。彼は幼い頃に出家し、一心に仏の教えを求め、特に華厳経を専らとしました。当時、まだ注釈書や論書はなく、深い教えの意味を思惟しても、教えを請う相手がおりませんでした。そこで、彼は道場を厳かに飾り、華厳経を頭に頂き、昼夜問わず修行を続けること六年余り。その間、歩くたびに血が流れました。彼は哀れに文殊菩薩の加護を請い、この奥深い教えを究め尽くすことを誓いました。その誠の心は決して変わることはありませんでした。

ある夜、忽然として童子の姿を感得し、明らかに華厳の法界、七処九会を悟りました。すなわち深い定に入り、その悟りは鮮明で、まるで目の当たりにし、耳で聞き、心で受け止めるかのようでした。かつて理解できなかったことは、今や通じないものはありませんでした。そこで彼は并州の西、瓮山という山の中に、華厳論一百巻を著したのです。

東晉沙門支法領。幼年出家。心行精志。悲嘆能仁滅後正教淩替。乃往西天詢求聖典。行至于闐。忽遇西來三藏一乘法主佛馱跋陀羅。此云覺賢。釋迦種姓甘露飯王之裔孫也。是大乘三果人。即當第三地菩薩。將華嚴梵本三萬六千餘偈來。若於經中有所不通。即昇兜率。請問彌勒世尊。法領哀請三藏慈降震旦流通華嚴。依請而來京師安置。行坐不與凡同。或於窓牖間。出入無礙。同住諸僧。悉皆驚異。咸謂之魔。眾僧遂問三藏曰。法師得過人法耶。三藏對曰。吾今已得。諸師乃集京城僧眾。作法羯磨。而欲擯棄。而三藏遂攝衣鉢昇空。現諸神變騰身。坐飛南往揚洲。如鳥翔空。舉眾愕悔。不可復追。以義熙十四年三月十四日。於建業謝司空寺。造護淨法堂。翻譯華嚴。當譯經時。堂前忽然化出一池。每日旦有二青衣。從池而出。於經堂中。洒掃研墨給侍。際暮還宿池中。相傳釋云。此經久在龍宮。龍王慶此翻譯故。乃躬自給侍耳。後因改此寺為興嚴寺。同翻譯沙門法業惠嚴惠觀等。從三藏筆授。吳郡太守孟顗。右衛將軍褚叔度等為檀越。至元熙二年六月十日譯畢。後至宋永初二年十二月二十日。與梵本再校勘已。宋主請求那跋陀羅三藏講此經。三藏恨以方音未通。不盡經旨。乃入道場請念觀音。未盈七日。遂夢易漢首於梵頭。因即洞解秦言。時號換頭三藏是也。佛馱跋陀羅三藏。初至關中。問鳩摩羅什法師曰。汝所譯經論云何。什曰。法華維摩等經。中百十二門等論。三藏曰。如君所譯。未出人度外。何足廣置大名。時關中盛稱三藏。為大論師。他日秦主姚興。請三藏於東宮持論。座下學士三千餘人。釋有生肇融叡等。儒有謝靈運費長房等。皆莫敢舉問。什公乃抗聲問曰。君以云何為正見。三藏曰。謂見一切法空。什曰。既空何所見。對曰。見空可非無見。什曰。空可見否。三藏曰。空不可見。什又問。君以云何破色空。三藏曰。色無自體。聚眾微以成色。扸色至微。所以色空。什曰。君以扸色至微令色空。當云何復破極微空。三藏曰。眾人皆以方分。分之明極微空。吾意不然。什曰。於意云何。三藏曰。由一微故有眾微。由眾微故有一微。微無自性。何扸之有。什公聞此。茫然不知是何言說。遂不復問。時眾皆莫達三藏一乘深旨。又宗輔什公乃謂。三藏無答。於是休論。三藏歸院已。生肇寶雲等。又詣問欲決前義云。什公未曉所談。三藏曰。此義難了。吾言甚易。什自懵耳。什後又自問亦如前。答終莫之究。幽貞問。此什公論錄於一乘。有道形沙門。欲同窺一乘之論。俱聞三藏之說故。附出此中。

東晉の沙門、支法領は幼い頃に出家しました。心を尽くし、志を堅く持ち、仏陀が入滅された後に正しい教えが衰えていくことを悲しみ、西方へ聖典を求めに旅立ちました。于闐に至ったとき、西方から来た三蔵法師、仏陀跋陀羅(ふだばだら。漢訳では覚賢)に出会いました。彼は釈迦族の出身で、甘露飯王の子孫であり、大乗の三果の人、すなわち第三地の菩薩でした。華厳経の梵本三万六千余偈を持って来ていたのです。経典の中で分からないことがあれば、兜率天に昇って弥勒世尊に質問したといいます。

法領は三蔵に請い、慈悲をもって震旦(中国)に来て華厳経を広めてほしいと願いました。請いに応じて京師にやって来た三蔵は、歩くのも座るのも常人とは異なり、時には窓や壁を通り抜けることもでき、自由自在でした。共に住んでいた僧たちは皆驚き怪しみ、魔だと言いました。僧たちは三蔵に問いました。「法師は人を超えた法を得たのですか。」三蔵は答えました。「私はすでに得ています。」そこで僧たちは京師の僧侶を集め、羯磨(くじょう)の作法を行って追放しようとしました。すると三蔵は衣と鉢をまとって空中に昇り、神通力を現して身体を舞い上がらせ、鳥のように空を飛んで南方の揚州へ去ってしまいました。皆は愕然とし、後悔しましたが、追うことはできませんでした。

義熙十四年三月十四日、建業の謝司空寺に護浄法堂を建て、華厳経の翻訳にあたりました。翻訳の最中、堂の前に突然ひとつの池が現れ、毎朝二人の青衣の者が池から現れ、経堂で掃除をし、墨をすり、給仕しました。夕方になると池に戻っていきました。伝えられるところによると、この経典は長く龍宮にあったが、龍王がこの翻訳を喜び、自ら給仕したのだといいます。後にこの寺は興厳寺と改名されました。

共に翻訳した沙門の法業、惠嚴、惠觀らは三蔵から筆授を受け、呉郡太守の孟顗、右衛将軍の褚叔度らが檀越(施主)となりました。元熙二年六月十日に翻訳が完了し、宋の永初二年十二月二十日に梵本と再校勘が行われました。

宋の主は那跋陀羅三蔵にこの経典を講義するよう求めましたが、三蔵は中国語が通じず、経典の旨を十分に伝えられないことを遺憾に思い、道場に入って観音を念じました。七日も経たないうちに、夢の中で自分の梵頭が漢頭に変わっているのを見ました。それから秦の言葉(中国語)を完全に理解できるようになり、当時「換頭三蔵」と呼ばれました。

仏陀跋陀羅三蔵が初めて関中に来た時、鳩摩羅什法師に問いました。「あなたが翻訳した経論はどうか。」什は答えました。「法華経、維摩経などの経典や、中論、百論、十二門論などの論書です。」三蔵は言いました。「あなたの訳したものは、まだ人の計らいの域を出ていません。どうして大きな名声を広めるに足りましょうか。」当時、関中では三蔵を大論師と盛んに称えていました。

ある日、秦の主姚興は三蔵を東宮に招いて議論を行いました。座下には学士三千余人がおり、仏教側には僧肇、道生、慧融、慧叡らが、儒者側には謝霊運、費長房らがいましたが、皆あえて質問を発することができませんでした。什公は声を張り上げて問いました。「あなたは何をもって正見とするか。」三蔵は答えました。「すべての法が空であることを見ることが正見である。」什は言いました。「既に空であるなら、何を見るのか。」答えました。「空を見ることは、無見ではない。」什は問いました。「空は見ることができるのか。」三蔵は答えました。「空は見ることはできない。」什はまた問いました。「あなたは何をもって色を破って空とするのか。」三蔵は答えました。「色には自らの本体がない。多くの微細な極微が集まって色を成す。色を微細にまで分析すれば、それゆえに色は空である。」什は問いました。「あなたは色を極微にまで分解して色を空とするが、その極微の空をどう破るのか。」三蔵は答えました。「人々は皆、方分(方向や部分)によって極微を空だと明らかにするが、私はそうは思わない。」什が言いました。「あなたの考えはどうか。」三蔵は答えました。「一つの微があるから多くの微があり、多くの微があるから一つの微がある。微には自性がないのだから、何を分析する必要があろうか。」什公はこれを聞いて茫然とし、何の話かも分からず、ついに問うのをやめました。

その時、参会者たちは皆、三蔵の一乗の深い旨を理解できませんでした。什公を宗主と仰ぐ者たちは、三蔵が答えられなかったのだと言い、議論はそこで終わりました。三蔵が院に帰ってから、道生、僧肇、宝雲らがまた訪ねてきて、先ほどの論義を解決しようとしました。什公が理解できなかったことについて、三蔵は言いました。「この義は理解しにくいが、私の言葉は極めて易しい。什自身がおろかなのだ。」什は後になってまた自ら問いましたが、答えは前と同じで、ついに究めることはできませんでした。

幽貞が問う。この什公の論録は一乗に関するものです。道形という沙門がいて、一乗の論を共に覗き見たいと思い、三蔵の説を聞きたいと願ったので、ここに附記して出します。

北齊惠炬法師。幼而厭俗。長業華嚴。十五六年。於道場中。六時禮旋。晝夜誦持。初無懈歇。於寐夢中見一童子。自稱善財。告惠炬言。師既能研精華嚴。欲究佛境。明日向南來。與師聰明藥。令師得悟經旨。惠炬明朝具陳諸僧。遂香湯洗浴。身服淨衣。手執香爐。歸命三寶。願所尋求。必獲如夢。即與童子南行。心口專志。恒念文殊。緣路數里。忽見一池。方圓半里。雜花匝岸。中有菖蒲。意思菖蒲是聰明藥。爰命從童入水採之。忽獲一根大如車軸。歸寺丸合。纔服棗許。便覺輕安神爽。日誦萬言。因獲精解華嚴。造此經疏十餘卷。講經五十遍。

北斉の惠炬法師は、幼い頃から俗世を厭い、成長して『華厳経』を学びました。十五、六年の間、道場で朝夕六時に礼拝し、昼夜問わず読誦し続け、少しも怠ることがありませんでした。ある夜の夢の中で、一人の童子が現れ、自ら善財と名乗って、惠炬に言いました。「師よ、すでに『華厳経』の精緻な教えを研鑽し、仏の境地を究めようとされている。明日、南の方へ来なさい。師に聰明薬を授け、経の心を悟らせましょう。」

惠炬は翌朝、このことを僧侶たちに詳しく話し、香湯で身を清め、清らかな衣をまとい、香炉を手に三宝に帰依し、「どうか夢の通り、求めるものが得られますように」と祈りました。そして童子と共に南へ向かいました。心を一つに専念し、常に文殊菩薩を念じながら、数里ほど歩くと、突然ひとつの池が現れました。周囲は半里ほどで、色とりどりの花が岸を囲み、中には菖蒲が生えていました。惠炬はこれこそ聰明薬だと思い、供の童子に池に入って採らせました。すると、車軸ほどの大きさの菖蒲が一本手に入りました。

寺に戻って薬丸に調合し、わずかに棗の実ほどの大きさを服用したところ、身は軽やかに安らぎ、心はすっきりと冴え渡り、一日に一万言を暗誦できるようになりました。こうして『華厳経』を精しく理解することができ、この経の疏(注釈書)を十数巻書き、講経は五十回に及びました。

大唐永徽年中。有居士樊玄智。華嚴藏公之同學。弱冠參道。五經三藏內道被通。專以華嚴為業。居方洲山中。初餌松葉。六十餘年誦持不替。五十年前。感其所居。地涌甘泉。供足不啻。林生美菓。樹樹繁實。遠近採取。無所罣礙。忽雨深雪。行李不通。齋糧時竭。於是則有山神。送藥狀似醍醐。味甘於乳。喫之一匙。七日不飢。益加心力。身輕目明。若夜禮誦。自有燈現。晝日誦經。則眾鳥集聽。山神眷屬。現身圍繞。異香時來。奇果每至。有時夜誦。口放光明。照及四十餘里。光色如金。遠近驚異。或有人往尋到山。唯見居士誦經口中光明。時年九十有二。無疾而終。荼毘之時。牙齒變為舍利。獲百餘粒。悉放光明。數日不歇。于時僧俗收之。竪塔供養。

大唐永徽年間、居士の樊玄智という方がおりました。華嚴蔵公の同門で、二十歳で佛道を志し、五經や三藏など內道の教えに通じておりました。特に華嚴の教えを修行の本とし、方洲の山中に住んでいました。初めは松の葉を食べ、六十餘年にわたって誦經をやめることはありませんでした。五十年前のこと、その住んでいた所に地から甘い泉が湧き出て、必要な分を十分に供えてくれました。林には美味しい果物が生り、どの木にも實がたわわに実りました。遠くからも近くからも人々が採りに來て、何の妨げもありませんでした。

ある時、突然深い雪が降り、道が通じなくなりました。食料もその時には盡きてしまいました。すると山の神が現れ、醍醐のような薬を屆けてくれました。その味は乳よりも甘く、一度に匙一杯を食べると七日間も空腹を感じませんでした。さらに心身はより一層力強くなり、身體は輕やかに、目ははっきりと見えるようになりました。

夜に禮拝や誦經をすると、自然と燈明が現れました。晝に經を誦すれば、多くの鳥が集まって來て聴きました。山の神の眷屬たちは姿を現して周囲を取り巻きました。異なる香りが時折漂い、珍しい果物がいつも屆けられました。

ある夜、誦經をしていると、口から光明が放たれ、その光は四十餘里にまで屆きました。その色は金色のようで、遠くの人々も驚き怪しみました。あるいは、その不思議を求めて山に尋ねて來る人がいましたが、居士が經を誦している口から光明が放たれているのを見るだけでありました。

その時、年は九十二歳。病むことなく終わりを迎えました。荼毘の際、その歯は舍利となり、百餘粒が得られました。すべてが光明を放ち、數日間消えることがありませんでした。その時、僧侶や在家の人々がこれを集め、塔を建てて供養したのでした。

永徽年中。禪定寺有兩僧。名道祥惠悟。咸隱太白山中。祥即持誦涅槃。悟即持誦華嚴。服餌松禾。六時禮懺。晝夜誦持。積有年歲。忽於一時見一居士。鬢髮皓首。所衣潔素。儀容恢美。前來設禮。庠序而言。弊居設齋。欲請一僧。僧曰。此唯二僧。俱往可不。居士曰。弟子貧家。本擬請一僧。僧問意欲交誰行云。請華嚴法師。悟遂赴請。隨居士行。可百餘步。居士於是。騰身於空中問悟曰。師何不昇空。悟對曰。貧道無翅。昇空未得。居士問悟。師猶未得神通耶。悟答曰。實未得。居士却從空下。安致悟於居士衣襟中坐。又令冥目。于時只聞耳邊颼颼風聲。可半食頃。還放履地。遂令開目。不知到處。環視唯見大山。觀其屋宇。皆是湧出。延悟入堂。禮佛纔畢。忽見五百異僧。執錫持盂。翔空而至。悟敬異僧。寧敢居上。遂徙下行。居士來語曰。師受持華嚴。是佛境界。何得於小聖下坐。遂却引悟。坐於五百聖眾之上。齋後洗漱已。諸聖便騰空而去。居士乃遣人擎一床寶物。將以䞋悟。令與呪願。悟曰。貧道來不由地。居士携攝至此。自迴不得。請垂送歸。誦經報德。居士曰。本所齋意在師一人。雖有五百羅漢來食。皆臨時相請耳。師且與呪願。當即發遣人。送歸本居。悟與呪願已。庭前有三五童子。各可六七歲。居士呼之。又重標名於一童子遽來。居士語曰。汝可祇事此法師。童子便請於悟曰。師暫開口。悟即依開。童子觀之云。師甚多病。童子即將手。向身上摩。遂取少藥。大如麻子。分為三丸。與悟吞之。又請開口。童子忽飛入口中。悟當時便騰虛。還本所居。住空中謂祥曰。向蒙神仙居士請齋。遂獲神通。今欲暫之蓬萊金闕紫微等宮。以持誦本業。言訖辭祥。攝三衣瓶鉢及所受經。昇空而去。

永徽年間、禪定寺に二人の僧がいた。名を道祥と惠悟といった。二人とも太白山に隠棲していた。道祥は『涅槃経』を誦持し、惠悟は『華厳経』を誦持していた。松の実を食べ、六時(終日)にわたり礼拝し懺悔し、昼夜怠らず誦経を続けること、すでに長い年月が経っていた。

ある時、忽然と一人の居士が現れた。鬢髪は白く、身にまとう衣は清らかで白く、風貌は立派で美しかった。彼は進み出て礼をし、ゆったりとした所作で言った。

「私の家で斎(ほどこし)を設けたいのですが、僧侶を一人お招きしたいのです」

僧(道祥)が言った。「ここにはただ二人の僧がいるだけです。二人とも参りましょうか?」

居士が言った。「私は貧しい身の上でございます。もともと一人の僧侺をお招きしようと思っておりました」

僧が尋ねた。「どなたを連れて行くおつもりか?」

「『華厳経』の法師(惠悟)をお招きしたいのです」

そこで惠悟は招きに応じて、居士に従って行った。百歩ばかり進んだ時、居士は身体を空中に躍らせて惠悟に問うた。

「師よ、どうして空に昇らないのですか?」

惠悟は答えた。「私は貧しい修行者で、翼がありません。まだ空に昇ることはできません」

居士は惠悟に問うた。「師はまだ神通を得ておられないのですか?」

惠悟は答えた。「本当に、まだ得ておりません」

居士は空から降りてきて、惠悟を自分の衣の襟の中に安座させ、目を閉じるように言った。その時、ただ耳元で颼颼と風の音が聞こえるだけであった。およそ半刻(食事の半分の時間)ほどで、また降ろされて地面に立った。目を開けるように言われ、開けてみると、どこに来たのか分からなかった。周囲を見渡すとただ大きな山が見えるだけであった。その家々を見ると、すべてが地から湧き出たかのようであった。

惠悟は堂に招き入れられ、仏に礼拝し終えたところで、忽然と五百人の異僧が錫杖と鉢を持ち、空を翔けてやって来るのを見た。惠悟は異僧たちを敬い、どうして自分の方が上座に坐れようかと、下座に移ろうとした。居士が来て言った。

「師は『華厳経』を受持しておられます。これは仏の境界であり、どうして小さな聖者の下に坐れるでしょうか」

そこで惠悟を導き、五百人の聖衆の上座に坐らせた。斎が終わり、漱ぎ洗いを終えると、諸聖は空に翔け上がって去って行った。居士は人に命じて一床の宝物を運ばせ、惠悟に布施し、呪願(祈願の言葉)を唱えるよう求めた。

惠悟が言った。「私は貧しい修行者で、地上から来たわけではありません。居士に携えられてこの地に至りました。自分だけでは帰ることもできません。どうか送り届けてください。そして経を誦し、その徳に報いたいと思います」

居士が言った。「もともと招いたのは、師お一人のためでした。五百の羅漢が来て食事されたのは、すべて臨時の招きに応じられたものです。まず師が呪願を唱えていただければ、すぐに人を遣わして、もとの住処にお送りいたしましょう」

惠悟が呪願を唱え終えると、庭前に三五人の童子がいた。それぞれ六七歳ばかりであった。居士が呼びかけ、さらに名を呼び重ねると、一人の童子がすぐにやって来た。居士は言った。

「あなたはこの法師に仕えなさい」

童子は惠悟に請うた。「師よ、しばらく口をお開けください」

惠悟がその通りに口を開けると、童子はその中を覗いて言った。

「師はたいそう病を多くお持ちです」

童子は手を惠悟の身体に這わせ、少しの薬を取り出した。麻の実ほどの大きさで、それを三つの丸薬に分けて惠悟に飲ませた。また口を開けるよう請い、童子は忽然と口の中に飛び込んだ。惠悟はその場でたちまち虚空中に昇り、もとの住処に還った。

空中に留まって道祥に言った。「先ほど、神仙の居士の斎に招かれ、神通を得ることができました。今はしばらく蓬莱・金闕・紫微などの宮殿に参り、もとの経を誦持しようと思います」

言い終えると、道祥に別れを告げ、三衣・瓶・鉢および受けていた経典を取り、空に昇って去って行った。

顯慶年中。九隴山有一尼師。志精佛乘華嚴祕藏。入山受持。二十餘載。禮誦無替。依教修行。性定心寂。遂證惠眼。得因陀羅網境界。十方世界微塵剎海九會道場。了了明見。如鏡中像焉。

顕慶年間、九隴山に一人の尼僧がいました。彼女は仏の教え、特に華厳経の尊い教えを深く志し、山に入って二十余年もの間、その教えを心に刻み、読経を欠かすことなく修行に励みました。その修行により心は静まり、智慧の眼が開かれました。そして、因陀羅網(因陀羅の網目のような広大な世界)の境地を悟り、十方世界の無数の世界や九つの法会の道場を、鏡に映る影のように鮮明に見通すことができたのでした。

總章元年。西域有三藏梵僧。來至京洛。高宗師事。道俗歸敬。華嚴藏公。猶為童子。頂禮三藏。請受菩薩戒。時眾白三藏言。此童子誦得華嚴大經。兼解其義。三藏驚歎曰。華嚴一乘是諸佛祕藏。難可遭遇。況通其義。若有人誦得華嚴淨行一品。其人已得菩薩淨戒具足。不復更受菩薩戒。西域傳記中說。有人轉華嚴經。以洗手水。滴著一蟻子。其蟻命終。生忉利天。而況有人能得受持。當知此童子。於後必當廣大饒益。能施群生無生甘露。

總章元年、西域より三蔵法師の梵僧が来て都の洛陽に到着しました。高宗皇帝は師として敬い、僧侶も在家も皆、その徳を敬い帰依しました。華厳の蔵公はまだ幼い子どもでしたが、三蔵法師に頂礼し、菩薩戒を請い受けました。

その時、人々が三蔵法師に申し上げました。「この子どもは『華厳経』という大経典を暗誦し、その意味も理解しております」

三蔵法師は驚き嘆賞して言われました。「『華厳経』の一乗の教えは、諸仏の秘められた宝であり、めったに出会えるものではない。ましてやその意味を理解することはなおさら難しい。もしある人が『華厳経』の『浄行品』の一品だけでも暗誦できたなら、その人はすでに菩薩の清らかな戒めを完全に得ているのであり、改めて菩薩戒を受け直す必要はない。

西域の伝記にはこう記されている。ある人が『華厳経』を転読し、その手を洗った水の滴が一匹の蟻に落ちた。その蟻は命終えた後、忉利天に生まれたという。ましてや、この経典を受持する人があればなおさらである。

この子どもは、将来必ず広大な利益を施し、すべての生きとし生けるものに、生まれも死にもない甘露の教えを与えるであろう」と。

上元年中。洛州敬愛寺有僧。生緣在鄭州。歸奉覲所親。行及鄭洲界。暮宿店家。次有僧來。不知名號。亦投店宿。與前來僧。並房安置。其後來僧謂主人曰。貧道遠來。疲頓餒乏。主人有酒酤三升。有肉買一斤。具有資直。請速致之。無至遲也。主人遽依請辦。僧盡噉之。其敬愛律師。怒而訶之。身披法服。對俗士恣噉酒肉。不知慚愧。其僧默而不答。至於初夜。索水漱口。端身趺坐。緩發梵音。誦大方廣佛華嚴經。初標品題。次誦如是我聞一時佛在摩竭提國寂滅道場。其僧口角兩邊。俱發光明。狀若金色。聞者垂淚。見者發心。律師亦生羨慕。竊自念言。彼酒肉僧。乃能誦斯大經。比至三更。猶聞誦經聲聲不絕。四袟欲滿。口中光明。轉更增熾。遍於庭宇。透於孔隙。照明兩房。律師初不知是光而云。彼客何不息燈。損主人油。律師因起如廁。方窺見金色光明自僧之口兩角而出。誦至五帙已上。其光漸收。却入僧口。夜五更誦終六帙。僧乃却臥。須臾天明。律師涕泣。而來五體投地。求哀懺過。輕謗賢聖。願罪消滅。

上元年間のこと、洛州の敬愛寺に一人の僧がいた。生まれは鄭州であり、故郷に帰って親族を訪ねる途中であった。鄭州の境にさしかかり、夕方に宿屋へ泊まった。そこへもう一人の僧がやって来て、名も告げず同じ宿に泊まった。先にいた僧と同じ部屋に案内された。

後から来た僧は主人に言った。「私は遠くから来て、疲れ果てお腹も空いております。酒を三升、肉を一斤お求めください。代金はありますゆえ、どうか早くお持ちください。」主人はすぐに用意した。僧はそれをすべて平らげた。

敬愛寺の律師はこれを見て怒り、叱りつけた。「法衣を身にまといながら、俗人の前で酒や肉をほしいままに食べるとは。恥を知れ。」その僧は黙って答えなかった。

夜に入り、その僧は水を求めて口を漱ぎ、身を正して座を組み、ゆるやかに梵音を発して『大方広仏華厳経』を誦え始めた。初めに品題を唱え、次に「如是我聞、一時仏在摩竭提国寂滅道場」と誦えた。

その僧の口の両端から光が放たれた。金色のようであった。聞く者は涙を流し、見る者は心を発した。律師もまた羨ましく思い、ひそかに思った。「あの酒肉を食らう僧が、このような大経を誦えるとは。」

三更にいたるまで、誦経の声は絶え間なく続いた。四帙が終わろうとする頃、口の光はますます盛んになり、庭に満ち、隙間を通って二つの部屋を照らした。律師ははじめ光とは気づかず言った。「あの客はなぜ灯を消さないのか。主人の油を無駄にしている。」

律師が起き上がって便所に行くと、初めて金色の光が僧の口の両端から出ているのを見た。五帙以上を誦えた頃、光は次第に収まり、僧の口に戻っていった。夜明け前に六帙を誦え終え、僧は横になって休んだ。

やがて夜が明けた。律師は涙を流してやって来て、五体投地し、懺悔して言った。「賢聖を軽んじ謗った罪を、どうか消し去ってくださいませ。」

儀鳳年中。西域有二梵僧。至五臺山。齎蓮花執香爐。肘膝行步。向山頂禮文殊大聖。遇一尼師在巖石間松樹下繩床上。端然獨坐口誦華嚴。時景方暮。尼謂梵僧曰。尼不合與大僧同宿。大德且去。明日更來。僧曰。深山路遙。無所投寄。願不見遣。尼曰。君不去某不可住。當入深山。僧徘徊慚懼。莫知所之。尼曰。但下前谷。彼有禪窟。僧依而住。往尋果見禪窟。相去可五里餘。二僧一心合掌。手捧香爐。面北遙禮。傾心聽經。聆聆於耳。初啟經題。稱如是我聞。乃遙見其尼。身處繩床。面南而坐。口中放光。赫如金色。皎在前峯。誦經兩帙已上。其光盛於谷南可方圓十里。與晝無異。經至四帙。其光稍稍却收。至六帙都畢。其光並入尼口。華嚴經菩薩住處品云。震旦國東北方有菩薩住處。名清涼山。過去諸菩薩。恒於中住。今有菩薩。名文殊師利。與萬菩薩俱。其山在岱洲南忻洲東北。名五臺山。首楞嚴三昧經云。文殊是過去平等世界龍種上尊王佛。又央崛摩羅經云。文殊是東方歡喜世界摩尼寶積佛。彼神尼之境界。必文殊之分化。以示梵僧也。

儀鳳年間(唐の高宗の時代)、西域から二人のインド僧が五台山にやって来ました。蓮の花を捧げ持ち、香炉を手にして、ひざと肘で歩みながら、山頂に向かって文殊大聖を礼拝しました。

そこで、岩の間の松の木の下に設けられた縄の床に、一人の尼僧が端然と座り、『華厳経』を口ずさんでいるのに出会いました。時はちょうど夕暮れでした。尼僧はインド僧たちに言いました。

「私は尼僧ですから、大僧(僧侶)の方々と同じ場所に泊まるわけにはいきません。どうかお坊様方はお帰りください。明日、またいらっしゃってください。」

僧たちは言いました。「深い山の中、道のりも遠く、宿を頼る場所もありません。どうかお見捨てにならずに。」

尼僧は言いました。「あなた方がお帰りにならないなら、私はここに留まれません。深い山の中に入ってしまいます。」

僧たちはためらい、恐れ、どうしてよいか分かりませんでした。尼僧は言いました。「ただ前の谷にお下りなさい。そこに禅窟(坐禅のための洞窟)があります。」

僧たちはその言葉に従って行き、探し求めたところ、果たして禅窟を見つけました。距離はおよそ五里余りでした。

二人の僧は一心に合掌し、手に香炉を捧げ持ち、北を向いて遠くから礼拝しました。心を尽くして経を聴きました。その声は耳に鮮明に響いてきました。最初に経の題目が唱えられ、「如是我聞(このように私は聞いた)」と称えられたのです。

すると遠くにその尼僧の姿が見えました。縄の床に座り、南を向いていました。その口からは光が放たれ、金色に輝いて、眼前の峰を明るく照らしていました。

経を二巻ほど読誦したとき、その光は谷の南に方円十里ほどに盛んに広がり、昼と変わりありませんでした。経が四巻に及ぶと、その光は次第に引き始めました。六巻に至ってすべてが終わると、その光はすべて尼僧の口の中に入っていきました。

『華厳経』「菩薩住処品」にはこうあります。「震旦国(中国)の東北の方角に菩薩の住処があり、その名を清涼山という。過去のすべての菩薩たちが常にここに住んでいた。今、文殊師利という菩薩がいて、一万の菩薩とともにここにいる。」その山は岱州の南、忻州の東北にあり、五台山という名です。

『首楞厳三昧経』にはこうあります。「文殊は過去の平等世界の龍種上尊王仏である。」また『央崛摩羅経』にはこうあります。「文殊は東方の歓喜世界の摩尼宝積仏である。」

あの神異な尼僧の境地は、必ずや文殊菩薩の化身が、インド僧たちに示されたものなのでしょう。

垂拱初年。有中天竺三藏法師日照。遠將梵典來此傳譯。高宗詔太原寺安置。召集京城大德僧。共譯大華嚴密嚴等十餘部經。僧道成薄塵圓測意應等證義。複禮思玄等執筆。惠智等譯語。時華嚴藏公在寺。因翻譯次問三藏曰。西域頗有受持一乘獲感應否。三藏曰。貧道比尋師。至於南天夜。宿一寺有大德六十餘僧。皆誦華嚴為業。以文殊為上座。寺僧有亡者。以誦得華嚴經者。次補其處。每以日暮來集。焚香禮懺。各誦一卷華嚴。以為恒准。此寺本輪伽鳥捨寶造之。緣眾僧誦華嚴經。其鳥遂感生天。其餘感應甚多。不可備述。垂拱三年四月中。華嚴藏公。於大慈恩寺。講華嚴經。寺僧曇衍為講主散講。設無遮會。後藏公往崇福寺。巡謁大德成塵二律師。時塵律師報藏公曰。今夏賢安坊中郭神亮檀越。身死經七日。却蘇入寺禮拜。見薄塵自云。傾忽暴亡。近蒙更生。當時有使者三人。來追至平等王所。問罪福已。當合受罪。令付使者引送地獄。垂將欲入。忽見一僧云。我欲救汝地獄之苦。教汝誦一行偈。神亮驚懼。請僧救護。早賜偈文。僧誦偈曰。若人欲了知三世一切佛應當如是觀心造諸如來。神亮乃志心誦此偈數遍。神亮及合同受罪者數千萬人。因此皆得離苦。不入地獄。斯皆檀越所說。當知此偈能破地獄。誠叵思議。藏答塵曰。此偈乃華嚴第四會中偈文。塵初不記是華嚴。猶未全信藏公。乃索十行品撿看。果是十行偈中最後偈也。塵公歎曰。纔聞一偈。千萬人一時脫苦。況受持全部。講通深義耶。

垂拱年間の初め、中インドの三蔵法師・日照(にっしょう)が、はるばる梵典を携えてこの地に来て翻訳を行った。高宗は太原寺に安置するよう詔し、京城の高僧らを集め、『大華厳経』『密厳経』など十余部の経典を共に翻訳した。僧の道成・薄塵・円測・意応らは証義を務め、復礼・思玄らは筆を執り、恵智らは通訳を担当した。当時、華厳の蔵公(法蔵)もこの寺におり、翻訳の合間に三蔵(日照)に尋ねた。「西域では、一乗(の教え)を受持して感応を得た人はいるでしょうか。」三蔵は答えた。「私はこれまで師を求めて南方インドに至りました。ある夜、一つの寺に宿りましたが、そこには六十余人の高徳の僧がおり、皆『華厳経』を誦することを持ち場としていました。文殊菩薩を上座としていました。寺の僧が亡くなると、『華厳経』をよく誦する者がその席を継ぎました。毎日日暮れに集まり、香を焚き礼拝し懺悔し、各人一卷ずつ『華厳経』を誦するのを常としていました。この寺はもともと輪伽鳥が宝を捨てて建てたものです。僧たちが『華厳経』を誦するゆえに、その鳥はついに感じて天に生まれました。そのほかの感応も非常に多く、すべてを述べることはできません。」

垂拱三年四月のこと。華厳の蔵公は大慈恩寺で『華厳経』を講じた。寺の僧・曇衍が講主となって講義を広め、無遮会を設けた。その後、蔵公は崇福寺に赴き、高徳の成・塵という二人の律師に会いに行った。その時、塵律師が蔵公に告げた。「今夏、賢安坊の郭神亮という檀越が、死んで七日を経て蘇り、寺に来て礼拝しました。私(薄塵)に会って自ら言いました。『突然亡くなりましたが、間もなく再び生を得ました。その時、使いの者が三人来て、平等王の所に連れて行かれました。罪と福を問われ、罪を受けるべきとされました。使いに命じて地獄に送らせました。まさに地獄に入ろうとした時、忽然と一人の僧が現れ、こう言いました。「私はあなたの地獄の苦しみを救いましょう。一行の偈を教えます。」神亮は驚き恐れ、僧に救護を請い、早く偈を賜りたいと願いました。僧は偈を誦しました。「若人欲了知 三世一切仏 応当如是観 心造諸如来(もし人が三世の一切の仏を知り尽くさんと欲せば、まさにこのように観ずべし。心が諸仏を造ると)」。神亮は心を込めてこの偈を何度も誦しました。すると神亮と共に罪を受けるはずだった数千万の人が、皆この苦しみを離れ、地獄に入らずに済みました。これはすべて檀越が語ったことです。この偈が地獄を破ることができるというのは、誠に思いを超えた不思議なことです。」蔵公は塵律師に答えた。「この偈は『華厳経』の第四会にある偈文です。」塵律師は最初、これが『華厳経』にあるとは覚えておらず、蔵公を完全には信じていなかった。蔵公は『十行品』を求めて調べさせたところ、果たしてこれは十行の偈の中の最後の偈であった。塵律師は叹じて言った。「わずかに一偈を聞いただけで、千万の人が一時に苦しみを脱した。ましてや全部を受持し、深い義を講じ通すならば、なおさらであろう。」

垂拱三年。惠英比丘。從藏公於慈恩寺座下。聽講華嚴已。巡院經行。至翻譯院時。與慈恩弘志法師楚國寺光法師偕行。藏公謂諸德曰。西域有勒那三藏法師。唐云寶意。講華嚴。聽眾數千。忽有二人。形貌端嚴。身光赫奕。於大眾前禮三藏曰。弟子從忉利天帝釋使來。請法師天上。講華嚴經。願垂即行。三藏曰。貧道講猶未畢。未可相隨。畢即依請。使者曰。幾時當畢。三藏曰。猶有兩帙。使者又云。願畢在早。當更親迎。三藏許已。忽即不見。及講欲終纔收經了。使者又來。當時都講梵音維那等。法師於高座上。一時遷化。隨使赴於釋宮。講讚大乘深旨。當知華嚴祕藏。天上人間無不宗重。

垂拱三年のこと、比丘の惠英は慈恩寺において藏公の指導のもとで『華嚴経』の講義を聴聞しました。講義の後、院内を歩いていたところ、翻訳院に至りました。その時、慈恩寺の弘志法師と楚國寺の光法師が共に同行していました。藏公は徳のある僧侶たちにこう語りました。「西域に勒那三藏法師という方がおられました。唐の言葉で『寶意』といいます。この方が『華嚴経』を講じたところ、何千人もの聴衆が集まりました。ところがある時、突然二人の人物が現れました。その容貌は端正で、身からは赫々たる光明を放っていました。彼らは大衆の前で三藏法師に礼をして申しました。『私は忉利天の帝釋天の使いとして参りました。天上にて『華嚴経』を講じていただきたく、法師を天上へお連れするよう命じられました。どうかすぐにご同行ください』と。三藏法師は答えました。『私はまだ講義を終えていません。すぐに従うことはできません。講義が終わり次第、お言葉に従いましょう』と。使いの者は尋ねました。『いつ頃終わりますか』と。三藏法師は答えました。『まだ二帙(きち)分が残っています』と。すると使いの者は言いました。『どうか早く終えられますよう。その時はまた改めて迎えに参ります』と。三藏法師がこれを承諾すると、使いの者は忽然と姿を消しました。そして、講義がまさに終わろうとして経典をただちに収めた時、使いの者が再び現れました。その時、講義を補佐していた都講や梵音を担当する維那などの人々を前に、法師は高座の上でそのまま遷化し、使いに従って帝釋天の宮殿へと赴きました。そして天上において大乗の深遠な教えを講じ讃嘆したということです。ここに知るべきです。『華嚴経』の秘められた宝典は、天上・人間のいずれの世界においても尊ばれ、重んじられているということを。

天授元年。華嚴藏公。歸覲祖母到曾洲。牧宰香花郊迎至二年。請講華嚴。說法之次議及邪正。時有少道士。在側歸報弘道觀主。北寺講師。誹謗道尊。觀主聞之甚怒。明晨領諸道士三十餘人。來至講所。面興慍色。口發麁言。謂藏公曰。但自講經。何故論道門事。藏公曰。貧道自講華嚴。無他論毀。觀主問曰。一切諸法。悉皆平等耶。藏公對曰。諸法亦平等亦不平等。觀主又問。何法平等。何法不平等。答曰。一切法不出二種。一者真諦二者俗諦。若約真諦。無此無彼。無自無他。非淨非穢。一切皆離。故平等也。若約俗諦。有善有惡。有尊有卑。有邪有正。豈得平等耶。道士詞窮無對。猶嗔不解。於如來所。生毒害言。歸觀經一宿。明朝洗面手。忽眉髮一時俱落。通身瘡疱方生悔心。歸敬三寶。求哀藏公。誓願受持華嚴經一百遍。轉誦向二年。猶有十遍未畢。忽感眉髮重生身瘡皆愈。曾洲道俗。無不見聞。

天授元年のことでした。華厳宗の賢首大師(法蔵)が、祖母をお訪ねするために曾州へ帰りました。その地の役人たちは花や香を捧げて郊外まで出迎え、二年目には華厳経の講義を依頼しました。説法の際、正しい教えと間違った教えについて論じることがありました。

そのとき、そばにいた若い道士がいて、帰ってから弘道観の観主に「北の寺の講師が道教の尊い教えを誹謗している」と告げました。観主はこれを聞いて非常に怒り、翌朝、道士三十余人を率いて講義の場所にやって来ました。顔には怒りの色をあらわし、口からは荒々しい言葉を発して、賢首大師に言いました。

「ただお前の経典を講じればよいではないか。なぜ道教のことを論じるのか。」

賢首大師は答えました。「貧道はただ華厳経を説いているだけで、他を論じたり毀損したりはしておりません。」

観主が尋ねました。「一切の諸法は、すべて平等なのであるか。」

賢首大師は答えました。「諸法は平等でもあり、平等ではありません。」

観主がまた尋ねました。「どの法が平等であり、どの法が平等でないのか。」

答えました。「一切の法は、二種類を出ることはありません。一つは真諦(真実の真理)、もう一つは俗諦(世俗の真理)です。真諦の立場から見れば、これもなくあれもなく、自分もなく他者もなく、清らかでも汚れてもおらず、すべての分別を離れているがゆえに平等です。しかし俗諦の立場から見れば、善もあり悪もあり、尊いもあり卑しいもあり、正しいもあり邪なもあり、どうして平等でありえましょうか。」

道士は言葉に詰まって答えられず、それでも怒りは収まらず、如来の教えに対して害意を抱きました。観に帰って一夜を過ごし、翌朝、顔を洗い手を清めていると、突然、眉と髪が一時にすべて抜け落ち、全身にできものが生じました。そこでようやく悔い改める心が生まれ、三宝に帰依し、賢首大師に哀れみを求めて、華厳経を百回読誦することを誓いました。

転読すること約二年、まだ十回を残すばかりのとき、ふと眉と髪が再び生え、全身のできものもすべて癒えました。曾州の道俗、見聞きしない者はなかったということです。

聖曆元年。則天太后。詔請于闐三藏實叉難陀。與大德十餘人。於東都佛授記寺。翻譯華嚴。僧復禮綴文。藏公筆授。沙門戰陀提婆等譯語。僧法寶弘景波崙惠儼去塵等審覆證義。太史太子中舍膺福衛事參軍于師逸等。同共翻譯。則天與三藏大德等。於內遍空寺。親御法筵。製序刊定。其夜則天。夢見天雨甘露。比至五更。果有微雨。香水之雨。又於內苑庭沼中。生一莖百葉蓮華。綠枝紅葩香艶超倫。蓮花有三種。一人間華有十葉。二天上華有百葉。三淨土華有千葉。今內苑生百葉者。明是天華也。則天嘉此。翻譯瑞應。詔出花椂使中官。送向佛授記寺翻譯之所。舉寺僧眾。及懷洲大雲寺什法師。在悉同觀覩。敬歎希奇。至聖曆二年十月八日。譯新經訖。詔請藏公。於佛授記寺。講此新經。至華藏世界品。講堂及寺院。地皆震動。舉眾驚異。都維那惠表僧弘景等。連狀聞奏。勅批云。昨敷演微言。弘揚祕賾。初譯之日。夢甘露以呈祥。開講之晨。感地動而標異。斯乃如來降迹。用符九會之文。豈朕庸虛敢當六種之震。披覽來狀。欣暢兼懷。

聖暦元年、則天太后は詔を下し、于闐の三蔵実叉難陀を請じ、大徳十数名と共に東都の仏授記寺において『華厳経』の翻訳を行わせた。僧の復礼が文章を整え、蔵公が筆を授かり、沙門の戦陀提婆らが通訳を務め、僧の法宝・弘景・波崙・恵儼・去塵らが校閲と義理の確認に当たった。太史の太子中舍・膺福、衛事参軍の于師逸らも共に翻訳に参加した。則天は三蔵や大徳らと共に内の遍空寺において、自ら法筵を開き、序文を撰して刊定した。その夜、則天は夢で天から甘露が降るのを見た。五更に至ると、実際に小雨が降り、香りのある水の雨となった。また、内苑の庭の池には、一本の茎に百葉の蓮の花が生じ、緑の枝に紅の花びらが香り美しく、比類ないものであった。蓮の花には三種ある。一つは人間界の花で十葉、二つは天上の花で百葉、三つは浄土の花で千葉である。今、内苑に百葉の蓮が生じたのは、これは天上の花であることを示している。則天はこれを喜び、翻訳の瑞応として、詔を下して花を中官に持たせ、仏授記寺の翻訳の場所に送らせた。寺の僧衆と懐州大雲寺の什法師らは皆、共にこれを見て、希有なこととして敬い嘆じた。聖暦二年十月八日に至り、新経の翻訳が終わった。詔を下して蔵公を請じ、仏授記寺においてこの新経を講じさせた。『華蔵世界品』に至った時、講堂と寺院一帯の地が皆震動し、衆人は皆驚き怪しんだ。都維那の恵表、僧の弘景らは引き続いて状を連ねて奏聞した。勅命の批答にはこうあった。「昨日、微細な言葉を述べ広め、深奥な義を弘め明らかにした。初めて翻訳した日に、夢に甘露が降って瑞祥を示し、講義の始まる朝には、地の震動を感じて異変を標した。これはすなわち如来が迹を降ろし、九会の文に符応されたのである。どうして朕のような庸虚な者が、よく六種の震動に当たることがあろうか。来た状を披覧して、欣喜と暢びる思いを懷く。」

聖曆年中。于闐三藏實叉難陀。於佛授記寺。翻譯華嚴。向藏公曰。本國有沙彌。名彌伽薄。持十戒。雖未受具。身意清淨。專誦華嚴。於一日中。有二使者。至作禮。狀貌偉麗。身有光明。彌伽怪異。問所從來。使者對曰。弟子自降忉利。帝釋使來。請師誦華嚴經。願垂即行。伽曰未審。天帝何緣。見命而誦經耶。使者曰。帝與脩羅戰時。每被淩迫。帝以天眼。觀視閻浮。欲求念誦加護。縱有羅漢。未辦斯事。唯見法師專精華嚴。心遊佛境。可為人天福田。所以見迎耳。師曰。貧道必能有所饒益。豈敢辭耶。於是受請。閉目俄頃便至天宮。帝釋喜曰。每被修羅見擾。故屈師來。師受持華嚴。諸天護持。善神影衛。請為誦經。以禳彼敵。帝即脫天冠。擬於虛空。忽然化出殿堂。七寶所成。四門八牖。摩尼眾寶之所莊飾。懸繒幡蓋。間列花香。以為供養。請入殿坐蓮花座。誦華嚴經。經聲寥亮。遍徹天宮。帝釋即領三十三天四兵侍衛萬眾圍遶。坐於寶臺。乘空而行。向其鬪所。脩羅軍眾。覩此威靈。即便退衂。徒侶潛竄於藕孔中。帝釋却請師天宮。供養施以七珍異寶。帝釋又白師言。若須長生之藥。亦當奉上。請住天宮。無見辭也。師曰。割愛出家。求無上道。世間珍異。及長生事。非所志焉。帝於是五體投地。一心頂禮曰。願成菩提時。誓相濟脫。莫見棄遺。廼遣使送還閻浮。所有衣服。皆染天香。終身不滅。後終願生淨土。實叉三藏。具識此沙彌者矣。

聖暦年間、于闐の三蔵・実叉難陀(シクシャーナンダ)が仏授記寺で『華厳経』を翻訳していたときのことです。彼は蔵公にこう語りました。

「わが国に弥伽薄(メーガバ)という沙弥がおりました。十戒を受けてはいましたが、正式な具足戒はまだ受けておりませんでした。しかし、その身と思いは清らかで、ひたすら『華厳経』を読誦しておりました。

ある日のこと、二人の使いが彼の前に現れ、礼をしました。その姿は立派で美しく、身からは光が放たれていました。弥伽薄は不思議に思い、どこから来たのかと尋ねました。使いは答えました。

『私は忉利天(とうりてん)から降りてまいりました。帝釈天の命を受け、あなた様に『華厳経』の読誦をお願いするために参りました。どうかすぐにご同行ください』

弥伽薄は言いました。「帝釈天がどうしてこのような私に経を誦せよとお命じになるのでしょうか」

使いは答えました。「帝釈天は阿修羅との戦いのたびに、押され苦しめられてきました。帝釈天は天眼で閻浮提(えんぶだい)を見渡し、読誦によって加護を得られる方を求めておられます。たとえ阿羅漢であっても、この業は果たせません。ただ、あなた様だけが『華厳経』に専念し、心は仏の境地に游ばれているのをお見になりました。あなた様こそ、人々と天の人々の福田であられます。だからこそ、お迎えに参ったのです」

弥伽薄は言いました。「貧道が必ずやお役に立てるというのであれば、辞退する理由がありましょうか」

こうして招きを受けた彼は、目を閉じると、たちまち天宮に到着しました。帝釈天は喜んで言いました。「毎度阿修羅に悩まされておりました。そこで、あなた様にお越しいただいたのです。あなた様が『華厳経』をお守りになれば、諸天もお守りし、善神たちが影のようにお護りするでしょう。どうか読誦して、あの敵を退けてください」

帝釈天は天冠を外し、虚空に向かって捧げると、そこに忽然と殿堂が現れました。七宝で作られ、四つの門と八つの窓があり、摩尼の宝珠であらゆる飾りが施されていました。天蓋や旗が掛けられ、花と香が並べられ、供養としました。

弥伽薄は殿堂に入り、蓮華座に坐って『華厳経』を読誦しました。その声は清らかに響き渡り、天宮全体に充ち満ちました。帝釈天は三十三天の者たちを率い、四兵の侍衛と万人の群衆が囲む中、宝台に坐して空を行き、戦場へ向かいました。

阿修羅の軍勢はこの威霊を目の当たりにし、たちまち退却し、その徒党は蓮の茎の穴にまで身を隠しました。

帝釈天は再び弥伽薄を天宮に招き、七珍の異宝を捧げて供養しました。そしてこう申し上げました。「もし長生の薬がお入り用でしたら、それも差し上げましょう。どうかこの天宮に永くお留まりください。お辞退なさらないでください」

弥伽薄は答えました。「私は愛を断ち切り、家を出て、無上の道を求めております。世の珍しい宝物や長生のことも、私の志すところではありません」

帝釈天はこれを聞いて五体投地し、一心に頂礼して言いました。「あなた様が菩提を成就なさる時、どうか私を救い導いてください。どうか私をお見捨てにならないでください」

そして使いを遣わして弥伽薄を閻浮提に送り帰しました。彼の衣服は全て天の香りに染まり、その香りは生涯消えることはありませんでした。後に彼は浄土への往生を願って、その願いを果たしたといいます。

実叉難陀三蔵は、この沙弥のことをよく知っておられたのです。」

聖曆年中。于闐三藏實叉難陀云。龜茲國中。唯習小乘。不知釋迦分化百億。現種種身雲。示新境界。不信華嚴大經。有梵僧。從天竺將華嚴梵本。至其國中。小乘師等。皆無信受。梵僧遂留經而歸。小乘諸師。廼以經投棄於井經於井中。放光赫如火聚。夜諸師覩之。疑謂金寶。至明集議。使人漉之。乃是前所棄華嚴經也。諸師稍為驚異。遂却收歸經藏中龕安置。他日忽見梵本。在其藏內最上隔。諸師念言。此非我釋迦所說耶。吾見有少異。乃收入藏中。何人輒將向此上隔。又以梵本。置於下龕。僧眾躬鎖藏門。自掌鑰鉤。明日開藏。還見華嚴在其上隔。諸師方悟一乘大教威靈如此。慚悔過責。信慕漸生矣。

聖暦年間、于闐の三蔵・実叉難陀がこう語った。亀茲国では小乗のみを学び、釈迦が百億の世界に分かれて様々な姿を現し、新たな境地を示したことを知らなかった。彼らは華厳経の大経典を信じなかった。あるインドの僧侶が、天竺から華厳経の梵本を持ってその国に来たが、小乗の僧たちは誰も信じ受け入れなかった。そこでインドの僧侶は経典を置いて帰ってしまった。小乗の僧たちはその経典を井戸に投げ捨てた。すると井戸の中から、火の塊のように光り輝く光が放たれた。夜になり僧たちがそれを見て、金や宝であろうと疑った。翌朝になると皆で集まって評議し、使いを遣わして引き上げさせたところ、それは前に捨てた華厳経であった。僧たちは少し驚き怪しんだが、そのまま経蔵に収めて龕の中に安置した。ところがある日、ふと見ると梵本が経蔵の中の最上段にあった。僧たちは言った、「これは我らが釈迦の説かれたものではないのか。少し異なるところがあると思い、蔵に収めたものを、誰が勝手にこの上段へ置いたのか」と。そしてまた梵本を下の龕に置き、僧たちは自ら蔵の扉に鍵をかけ、鍵を自分たちで管理した。次の日、蔵を開けると、また華厳経が上段にあるのが見えた。そこで僧たちはようやく、一乗の大教の威力がこのように霊験あらたかであることを悟り、恥じ入り悔い改め、次第に信仰の念が生じるようになった。

證聖年中。花陰鄧元英(有本名元爽)有一親友。忽染時患。死經七日却穌。謂元爽曰。見冥道宮吏將追君父。文案欲成。急修功德以禳之。元英驚懼曰。修何功德。而疾獲免。彼人云。急寫大華嚴經一部。若遲大期不遠。元英乃遽市買紙。向隣寺伏禪師院。請禪師與名召經生。如法護淨。一時書寫。未俞旬日。經已周畢。辦齋慶之。於後遂免斯厄。元英仍依母服哀切在懷。至其冬十一月中。於母墳所舊種蜀葵寒枯之莖。忽生花葉。芳[卄/(麩-夫+玉)]榮艶。五彩含英。斯蓋寫經之感也。洲縣以之聞奏。則天嗟異。賜立孝門。降勅旌表。

証聖年間、花陰の鄧元英(別名・元爽という本もある)に一人の親友がいた。その親友が突然流行病にかかり、死んで七日後に蘇生した。彼は元英にこう言った。「冥土の役人があなたのお父上を連れて行こうとしている。文章はすでにできあがろうとしている。すぐにでも功徳を積んで、この災いを払うのだ。」元英は驚き恐れて言った。「どのような功徳を積めば、すぐに免れることができるのか。」その人は言った。「急いで『大華厳経』一部を書き写しなさい。遅れれば命は長くない。」元英はすぐに紙を買い求め、近くの寺の伏禅師の院を訪ね、禅師に請うて名の知れた写経生を呼び、法にのっとり清浄を守って、一斉に書き写させた。十日も経たないうちに、経典はすでに書き終えられた。斎を設けてこれを祝った。その後、その厄難を免れることができた。元英はさらに母の喪に服し、深切な悲しみを心に抱いていた。その年の冬の十一月、母の墓のそばに昔植えた蜀葵の、寒さで枯れた茎に、忽然として花や葉が生じ、芳しく美しく茂り、五色に彩られて輝いた。これは経典を書き写した感応によるものである。州や県はこれを奏上し、則天武后は驚き讚嘆し、孝行の門を建てることを賜り、勅命を下して旌表(表彰)した。

如意元年。降洲有二童女。皆性識靜正。眇年依師姑。誦華嚴經。得三十餘卷。師姑戒行。精苦常誦華嚴為業。欲教二女令得剃度。無幾師姑忽然端坐而終。二女朝朝。詣墳所號泣。經於三年。墳上忽生紅蓮五莖。二女覩華感異。益以號慕。忽見一梵僧。神儀甚偉。來問女曰。汝何哀號如是。女對曰。於和尚所。誦習華嚴。志求出家。不圖無感。師姑早喪。僧曰。汝既能懇求剃落。何憂不果。僧乃於懷中。出一甎像方圓六七寸。以授二女。而告之曰。汝將此像。於家供養。不久當獲出家。女得像已禮謝梵僧。少頃忽然不見。女即將歸家。如法供養。精懃信敬。一心無怠。其像方圓。日長一寸。十日間。無日不長。後至丈餘。洲縣知之。兼花檢覆聞奏。則天異之。詔遣二女。兼花根莖同入發墓取花。乃見花莖透棺而出。破棺取根。根自師姑舌上而生。光彩鮮艶。洲縣同見。二女至京召入內。則天自手執刀落髮。并賜三衣瓶鉢等。俱配天女寺。因此便出勅天下諸寺。各度僧尼二人。

如意元年のこと、降州に二人の童女がおりました。二人とも生まれつき心が静かで正しく、幼い頃に尼僧の師匠のもとで『華厳経』を学び、三十余巻を読み終えました。師匠は戒律をよく守り、修行に励み、いつも『華厳経』を唱えることを日課としておりました。師匠は二人の少女を剃度させたいと望んでいましたが、間もなく師匠は忽然と座ったまま生涯を終えました。

二人の少女は毎朝、師匠の墓所に参り、声を上げて泣きました。三年が過ぎた頃、墓の上に突然、紅蓮が五茎生えました。二人はその蓮の花を見て不思議に思い、ますます悲しみ慕いました。すると突然、一人のインドの僧侶が現れました。姿は非常に立派で、少女たちに尋ねました。「あなたたちはどうしてそんなに悲しげに泣いているのですか。」少女たちは答えました。「師匠のもとで『華厳経』を学び、出家を志しておりました。しかし願いが届かず、師匠は早くに亡くなってしまわれました。」

僧侶は言いました。「あなたたちがそれほど強く剃度を願うなら、どうして叶わないことがありましょう。それを案ずることはありません。」僧侶は懐から、縦横六七寸ほどの磚(せん)でできた仏像を取り出し、二人の少女に授けて言いました。「この像を家に持ち帰り、丁寧に供養しなさい。そうすれば、やがて出家することができるでしょう。」少女たちは仏像を受け取り、僧侶に礼を述べました。しばらくすると、僧侶は忽然と姿を消しました。

少女たちは仏像を家に持ち帰り、教えの通りに供養しました。心を込めて、怠ることなく一心に礼拝し続けました。すると、その仏像は毎日一寸ずつ大きくなり、十日間、一日も欠かさず大きくなりました。その後も育ち続け、ついには丈余(約三メートル)になりました。

州や県の役人たちはこのことを知り、花の調査と確認を行ったのち、朝廷に報告しました。則天武后はこれを不思議に思い、詔を下して二人の少女と花の根茎を一緒に都に送らせました。そして墓を開かせて花を取り出させました。見ると、花の茎は棺を突き抜けて外へ出ていたのです。棺を壊して根を取ると、その根は師匠の舌の上から生えていました。光り輝き、鮮やかで美しいさまは、州や県の人々がみな見ました。

二人の少女は都に到着すると宮中に召し入れられ、則天武后はみずから刀を手に取り、その髪を落として出家させました。そして三衣や瓶鉢などを与え、天女寺に住まわせました。このことから、天下のすべての寺に勅令が下され、それぞれ僧尼二人ずつを剃度することになりました。

大足年中。楊洲大雲。有僧弘寶。美儀貌善誦經。每自恃懱於人。忽然一日眉上鬢下。出一瘤癭。其大如桃。旬日之間。漸長三寸餘。其僧耻之不出房門。於寺醫療。日更增甚。因自思惟。此疾有二因緣。一則過去業感。二由見在輕慢賢聖。遂即發願。於其房中。轉讀華嚴經一百遍。晝夜香花精懇禮懺。轉經至六十遍。夜中忽夢。有人來語之曰。汝欲愈病。吾與汝醫。以手執刀。截却其癭。弘便驚覺。至明具向諸僧廣說。於是癭上生瘡。瘡中出膿。經於一月。其疾全瘥。亦無瘡盤。楊洲僧筠。入洛具以此事。說於花嚴藏公。

大足年間のこと、楊州の大雲寺に弘宝という僧がおりました。顔立ちが美しく、経を唱えるのが上手でありましたが、いつも自分を恃んで人を軽んじるのでした。ところがある日、突然に眉の上、髪の生え際の下に、一つのこぶができました。その大きさは桃のようであり、十日ほどの間に、三寸余りにまで次第に大きくなりました。その僧は恥ずかしくて部屋の外に出られず、寺の中で治療を受けましたが、日ごとにますます大きくなるばかりでありました。そこで自ら考えました。「この病には二つの因縁がある。一つには過去の業によって感ぜられたもの、二つには現在の軽慢によって賢聖を軽んじたことによるものだ。」それで心に誓いを立て、自分の部屋の中で『華厳経』を百回読誦し、昼夜香花を供えて心を込めて礼拝し懺悔しました。経を六十回まで転読したとき、夜中の夢の中に、忽然として人が来てこう言うのでした。「あなたは病を癒やしたいのか。私があなたを治してあげよう。」その人は手に刀を持ち、そのこぶを切り落としました。弘宝は驚いて目を覚ましました。明くる朝、詳しく僧たちにこのことを話しました。するとそのこぶの上にできものが生じ、その中から膿が出ました。一ヶ月の後、その病はすっかり治り、ただの跡も残りませんでした。楊州の僧である筠が、洛陽に入り、このことを詳しく花嚴蔵公に語ったのであります。

西京崇福寺大德惠招法師。或云惠祐。華嚴藏公之同學也。學行精苦。自小師事儼和尚。專業華嚴。偏誦性起一品三卷。新譯名如來出現品。以為恒業。其僧好靜。未居崇福寺。已前久禪誦在山。每於靜夜洗漱焚香。坐於繩床。而誦斯品。忽於一夜正誦經時。而有十餘菩薩。從地踴出。坐蓮花臺。身相金色。光明赫然。合掌跪而聽經。誦經纔終。便沒不見。惠招密向藏公。自說此靈感事。藏公轉向門人惠諒惠雲玄觀如琮等。而說之也。

西京崇福寺の大徳、惠招法師(あるいは惠祐ともいう)は、華嚴の藏公(法藏)の同門の学友である。学問と行持は真剣で、幼い頃から儼和尚に師事し、華嚴を専門に学んだ。特に「性起」の一品、三巻を偏に誦持した(新訳では「如来出現品」という)。これを日々の恒常の業としていた。

この僧は静けさを好み、崇福寺に住む以前は、長い間、山で禅定と誦経に勤しんでいた。毎晩、静かな夜になると、顔を洗い、香を焚き、縄床に座ってこの経を誦えた。

ある夜、ちょうど経を誦している最中のこと、十数体の菩薩が地から湧き出で、蓮華の台座に座り、体は金色に輝き、光明が赫々と照り映えていた。彼らは合掌してひざまずき、経を聴聞した。誦経が終わると、すぐに消え去って見えなくなった。

惠招は密かに藏公にこの霊感の出来事を語った。藏公はこれを門人の惠諒、惠雲、玄觀、如琮らに伝えて話したのである。

永徽年中。定洲有禪師。名修德。學徒數萬。禪之領袖也。而專業華嚴。欲寫斯經敬為宗故。先以沈香漬水。而種楮樹。樹大取皮造紙。而用寫經。經生筆匠造紙等三人。大小便並皆洗浴護淨。每一卷了。施以十縑。裝染周畢。設齋慶讚。香函盛之。志心禮拜。當設齋日。道俗雲趨。初開函時。金光遠照。徹百餘里。山東五十餘洲。皆來禮經。關外道俗無不聞知。時有閹人劉謙之。北齊第三王子之從者也。

永徽の頃、定州に修徳という名の禅師がいました。弟子は数万人にのぼり、禅門の指導者でした。彼は華厳経を特に大切にし、その経典を書き写すことを心から願っていました。そこで、沈香を水に浸した液で楮の木を育て、木が大きくなったら皮を取って紙を作り、その紙で経典を書き写しました。写経をする人、筆を作る人、紙を作る人、この三人は大小便のたびに必ず沐浴し、身を清めました。経典一巻を書き上げるごとに、絹十匹を施し物としました。装丁がすべて整うと、斎(ほどこし)を設けて慶び讃え、香で清めた箱に経典を納めて、心を込めて礼拝しました。斎を行ったその日には、僧俗問わず多くの人々が雲のように集まりました。最初に箱を開けた時、金色の光が遠くまで照り渡り、百余里に達しました。山東地方の五十余りの州から人々が来て、この経典を礼拝しました。関外の僧俗も、皆この話を聞かない者はいませんでした。時に、劉謙之という宮仕えの者がいました。北斉の第三王子に仕える者でした。

齊太和年中。王子燒身。以供養文殊菩薩。謙之薄殘缺。乃發心住五臺山。專業華嚴。晝夜受持。六時禮懺。頻歷歲時。精懇匪懈。乃感文殊加護。忽然鬚鬢自生。根體具備。聲韻雅朗。人尠及之。既復形鬚。單懇彌志洞曉經旨。乃製華嚴論六百卷。

斉の太和年間、王子が自らの身を焼いて文殊菩薩に供養した。しかし謙之は容貌が衰え欠けていたため、五台山に住むことを心に誓った。彼は華厳経を専門に学び、昼夜絶えず受け持ち、六時礼懺(ろくじらいさん)を行った。長い年月を経ても精進を怠らなかった。その結果、文殊菩薩のご加護を受け、突然、髭や髪が自然に生え揃い、身体も完全に備わり、声も美しく響き渡った。人々は彼に及ぶ者はいなかった。そして再び身なりが整った後、さらに心を込めて経典の真髄を深く悟り、『華厳論』六百巻を著したのである。

幽貞竊聞。西薩遮俱槃國山中。有具足下本一十萬偈不思議解脫大方廣佛華嚴經。唯願此經。早得具足。傳譯此土。普利一切有情。幽貞以有唐建中癸亥紀。敬發此願。為此歸命文。於諸禮佛時次。及十二部經而禮之。不禮佛時。念持此歸命文。華嚴有不可說剎海微塵數偈品。豈貝葉所能傳寫。皆諸大菩薩陀羅尼力之所記持。海雲比丘所受持經。以大海量墨須彌山聚筆。書寫一品。猶不可窮少分。龍樹祖師。於龍宮見文字結集所傳之經。有上中下三本。上本有十箇三千大千世界微塵數偈一四天下微塵數品。中本有四十九萬八千八百偈一千二百品。下本有十萬偈四十八品。其上中之本。亦非閻浮人力可能受持。所以西域。唯有下本十萬偈經。今在彼國山中。此土所譯八十卷經。梵偈唯四萬五千。於十萬中。乃略出耳。幽貞悲此土經猶未具故。廣發是願。附出此傳。蓋欲勸諸道者見之。皆同禮念哀請。下本經具足。早傳此土也。傳中僧所教檀越神亮誦偈。是前所譯經本也。後譯偈言。

幽貞はひそかに伺いました。西のサーサカ國の山中に、下本十万偈を完備した、思議を超えた解脱を示す『大方広仏華厳経』が存在するとのことです。どうかこの経典が早く完全な形でこの地に伝わり、すべての有情を広く利益しますように。幽貞は唐の建中癸亥の年に、心を込めてこの誓いを立て、この帰命文を作りました。諸仏に礼拝する時には、十二部経とともにこれに礼拝します。仏に礼拝しない時も、心を込めてこの帰命文を念じます。華厳経には数え切れないほどの世界の微塵の数ほどの偈や品があります。それは貝葉に書き写せるものではなく、すべて大菩薩の陀羅尼の力によって記憶され保持されているものです。海雲比丘が受持した経典では、大海の量の墨と須弥山を積み上げたような筆を用いて一品を書き写そうとしても、その一部も尽くすことはできません。竜樹菩薩は竜宮で文字によって編集され伝えられた経典を見ましたが、それには上・中・下の三本がありました。上本には十の三千大千世界の微塵の数ほどの偈と、一四天下の微塵の数ほどの品があります。中本には四十九万八千八百偈と千二百品があります。下本には十万偈と四十八品があります。その上本と中本は、閻浮提の人々の力では受持できないものです。それゆえ西域には下本十万偈の経典のみが存在し、今もその国の山中にあります。この地で翻訳された八十巻の経典は、梵語の偈でわずか四万五千であり、十万の中から略出したものにすぎません。幽貞はこの地の経典がまだ完全でないことを悲しみ、このように広く誓いを立てました。この伝記を付すのは、修行者たちがこれを見て、皆がともに礼拝し念じ、哀れんで請い求め、下本の経典が完全な形で早くこの地に伝わることを願うからです。伝記の中で僧が檀越の神亮に教えて誦させた偈は、以前に翻訳された経本です。後の翻訳の偈にはこうあります。

若人欲了知 三世一切佛
應觀法界性 一切唯心造

若人がすべてを理解したいと願うなら、三世のすべての仏を、法界の本質を観じるべきである。すべては心がつくり出すものだから。

上元年中。孫思邈服流珠丹雲母粉。生一百五十歲。顏如處子。至長安說齊魏間事。有如目覩。書寫此經七百五十部。其時
太宗欲讀佛經問邈。何經為大。邈云。華嚴經佛所尊大。帝曰。近玄奘三藏。譯大般若六百卷。何不為大。而八十卷華嚴經。獨得大乎。邈答云。華嚴法界具一切。於一門中。可演出大千經卷。般若經乃是華嚴中一門耳。太宗方悟。乃受持華嚴一乘祕教。亦名大不思議解脫經。功用大故。感應亦大。道者欲學佛心慧。了佛境界。證佛地位。依此一乘法性悔而修行者。不歷地位。初發心時便成正覺。悉與三世諸如來等。譬如眾流一滴之水。纔入海中即名海水。若依大乘二乘權教。備修萬行。綿歷多劫。不如聞是經。以少方便疾得菩提。經云。此經不入一切眾生之手。唯除菩薩摩訶薩。一切聲聞緣覺。不得此經。何況受持。若菩薩億那由他劫。行六波羅蜜。不聞此經。雖聞不信。是等猶為假名菩薩。若有經卷地如來塔廟。禮拜供養。彼眾生等。具足善根。滅煩惱患。得賢聖樂。吾徒其勉之。予師事禪祖無名公側。聞普賢大行海印深定法界體性。方知華嚴釋氏宗極。所以刊修此傳。廣示未聞也。
華嚴感應傳一卷

華厳感応伝 一卷


CBETA コード: T2074

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません