淨土十疑論序
浄土十疑論序
宋無為子楊傑述
宋の無為子楊傑が述べる
愛不重不生娑婆,念不一不生極樂。娑婆,穢土也;極樂,淨土也。娑婆之壽有量;彼土之壽則無量矣。娑婆備諸苦;彼土則安養無苦矣。娑婆隨業轉輪生死;彼土一往則永證無生法忍,若願度生,則任意自在,不為諸業轉矣。其淨穢、壽量、苦樂、生死,如是差別,而眾生冥然不知,可不哀哉?
愛が深くなければ娑婆に生まれず、念が一筋でなければ極楽に生まれない。
娑婆は穢れた世界であり、極楽は清らかな浄土である。
娑婆の寿命には限りがあるが、極楽の寿命は無量である。
娑婆にはあらゆる苦しみが備わっているが、極楽には安らぎと苦しみのない世界がある。
娑婆では業に従って生死を繰り返すが、極楽に往生すれば永遠に無生法忍を証し、もし衆生を救おうと願えば自在に行動でき、もはや諸々の業に縛られることはない。
このように、浄土と穢土、寿命の長短、苦楽、生死のあり方にはこれほどの違いがあるのに、衆生は暗くもこれに気づかない。なんと哀れなことだろうか。
阿彌陀佛,淨土攝受之主也;釋迦如來,指導淨土之師也。觀音、勢至,助佛揚化者也。是以如來一代教典,處處叮嚀,勸往生也。
阿弥陀仏は、浄土に迎え入れる主であり、釈迦如来は、浄土へと導く師です。観音菩薩と勢至菩薩は、仏の教化を助ける方々です。このため、釈迦如来の教えは、あらゆるところで、往生を勧めているのです。
阿彌陀佛與觀音、勢至,乘大願船,泛生死海,不著此岸、不留彼岸、不止中流,唯以濟度為佛事。是故《阿彌陀經》云:「若有善男子、善女人,聞說阿彌陀佛,執持名號,若一日乃至七日,一心不亂。其人臨命終時,阿彌陀佛與諸聖眾現在其前,是人終時,心不顛倒,即得往生極樂國土。」又經云:「十方眾生,聞我名號,憶念我國,植諸德本,至心迴向,欲生我國,不果遂者,不取正覺。」所以祇洹精舍無常院,令病者面西,作往生淨土想。蓋彌陀光明遍照法界念佛眾生,攝取不捨。聖、凡一體,機、感相應。諸佛心內眾生,塵塵極樂;眾生心中淨土,念念彌陀。
阿弥陀仏と観音、勢至の菩薩は、大願の船に乗り、生死の海を渡られます。この岸に執着せず、あの岸に留まらず、流れの中途で立ち止まることもなく、ただ衆生を救い導くことを仏の務めとされています。
ですから『阿弥陀経』にはこう説かれています。「もし善男子、善女人が、阿弥陀仏のことを聞き、その名号を心に抱き、一日から七日まで一心に乱れずに念じるならば、その人が命終わろうとする時、阿弥陀仏と聖なる方々がその前に現れます。その人は命終わる時、心が乱れることなく、ただちに極楽国土に往生することができるのです」
また、経典にはこうも説かれています。「十方の衆生が、私の名号を聞き、私の国を思い、さまざまな善根を積み、真心から回向して、私の国に生まれたいと願うならば、それが叶わないようなら、私はさとりを開きません」
それゆえ、祇洹精舎の無常院では、病人に西方を向かせ、浄土に往生することを思い描かせたのです。阿弥陀仏の光明は法界に遍く照らし、念仏する衆生を見捨てることなく摂り取ってくださるからです。
聖なる方も凡夫も一体であり、衆生の機と仏の感応は相応じ合います。諸仏の心の中の衆生は、塵一つ一つが極楽であり、衆生の心の中の浄土は、一念一念が阿弥陀仏なのです。
吾以是觀之,智慧者易生,能斷疑故;禪定者易生,不散亂故;持戒者易生,遠諸染故;布施者易生,不我有故;忍辱者易生,不瞋恚故;精進者易生,不退轉故;不造善、不作惡者易生,念能一故;諸惡已作、業報已現者易生,實慚懼故。雖有眾善,若無誠信心、無深心、無迴向發願心者,則不得上上品生矣。
このように見てくると、智慧は生じやすい。なぜなら疑いを断つことができるからだ。禅定は生じやすい。なぜなら心が散らばらないからだ。戒律を守ることは生じやすい。なぜならあらゆる汚れから遠ざかるからだ。布施は生じやすい。なぜなら「私のもの」という執着がないからだ。忍辱は生じやすい。なぜなら怒りや憎しみがないからだ。精進は生じやすい。なぜなら退転しないからだ。善を造らず悪も作らないことは生じやすい。なぜなら念が一つに定まるからだ。あらゆる悪行をすでに行い、その業報がすでに現れている者は生じやすい。なぜなら真に恥じ恐れるからだ。
しかし、たとえ多くの善があっても、もし誠実な信心がなく、深い心がなく、回向発願の心がなければ、最上の品に生まれることはできないのである。
噫!彌陀甚易持,淨土甚易往,眾生不能持、不能往,佛如眾生何?夫造惡業入苦趣,念彌陀生極樂,二者皆佛言也。世人憂墮地獄,而疑往生者,不亦惑哉?
ああ、阿弥陀仏の名号はとても唱えやすく、浄土へはとても往生しやすいのに、衆生は唱えることもできず、往生することもできない。仏は衆生をどうしようもないのだろうか。悪業を造って苦しみの世界に堕ちることも、阿弥陀仏を念じて極楽に生まれることも、どちらも仏の説かれたことである。世の人は地獄に堕ちることを憂いながら、往生を疑うとは、なんと迷っていることか。
晉慧遠法師,與當時高士劉遺民等,結白蓮社於廬山,蓋致精誠於此爾。其後七百年,僧、俗修持,獲感應者非一,咸見于淨土傳記,豈誣也哉?
晋の慧遠法師は、当時の高士・劉遺民らとともに、廬山に白蓮社を結び、ここに精誠を尽くされました。その後七百年、僧侶や在家の修行者たちが、感応を得た例は少なくなく、すべて浄土伝記に記されています。どうして偽りといえましょうか。
然贊輔彌陀教觀者,其書山積。唯天台智者大師《淨土十疑論》最為首冠,援引聖言,開決群惑,萬年闇室,日至而頓有餘光;千里水程,舟具而不勞自力,非法藏後身不能至於是也。
阿弥陀仏の教えと観法を称賛し補う書物は、山のように積まれています。しかし、天台宗の智者大師の『浄土十疑論』こそが、その中でも最も優れた冠たるものです。聖なる言葉を引き、多くの人々の迷いを解き明かしています。万年の暗闇に閉ざされた部屋に、太陽が昇ればたちまち光が満ちるように。千里の水路を、舟が備わっていれば自らの力に頼らずに進めるように。法蔵菩薩の生まれ変わりでなければ、このような境地には至れないでしょう。
傑頃於都下甞獲斯文,讀示所知,無不生信,自遭酷罰,感寤益深,將廣其傳,因為序引(熙寧九年仲秋述)。
かつて都にてこの経文を手にし、知人に示して読ませると、誰もが信じを起こさぬ者はなかった。自ら厳しい罰を受けてからは、その感銘と悟りはますます深まり、広く世に伝えようと、序文を記すことにした(熙寧九年仲秋に述ぶ)。
淨土十疑論
浄土十疑論
隋、天台智者大師說
隋の天台智者大師の説