攝大乘論抄
乃是大乘之副軸。建正法之勝幢。破異部於當時。□邪正於末代轉梵輪於像季。續千載之餘風。致令羊鹿之輪息駕□□之輪更開論其興也。乃於佛涅槃後千一百餘年。但以去聖時□□法襄未。群邪映路僻執交途。遂令唯識之理潛隱不通。時有四□菩薩出現於世。號曰阿僧伽。此云無著。亦名無礙。其人內潛□□□法性之際。外應群機而助興法雨。集二王之勝相。錄三性之法印。欲□生及□情於唯識悟非安之實諦。遂依傍大宗制造斯論矣。然菩薩次弟婆藪槃豆。此曰天親。其人如理之智內融。如量之解秀發。□□□嗟本論辭義淵玄恐後代眾生抱迷不悟。遂即披尋決定要制造釋論以解本文。於是破二乘以歸一戴。摧異見已同會一心。唯識之道遂爾再通。無性之理於茲重顯也。
第二次明藏攝分齊者。然顯理□□□乃有塵沙。今且據要而論。對所詮三故教則為三。約所為二故教則為二。言其三者。一曰修多羅。此云綖亦名經。以綖能貫花。經能持緯義用相似。但以此方重於經名不貴綖稱。是以翻譯家逐其所重故。廢綖名存於經目。譬聖人言教能貫穿法相使不差失 令法久住與經綖相似。從譬立名。即詮定教也 者毘那耶。此云滅。以身口意惡□燒行者義同火然。戒能滅之故稱滅。此從功能彰目 教從所詮亦名為滅。即詮戒行教也 三者阿毘達磨。此云無比法亦云對法。欲破煩惱□分別法相。無分別慧最為殊勝。更無有法能比此者故曰無比法。此從無他得名。教從所詮亦名無比法。此即詮慧教。若名對法者。即阿毘是能對智。達磨是所對法。即從境用立名。此後二藏皆從所詮得名也。問。若然者。何故下釋論云。為說三種修學別立修多羅。為成依戒依心學故立毘那耶。以此文驗。應修多羅詮三行。毘那耶詮二行也 答。有二義。一相成門。以三學行互相助成。能詮之教亦有兼正。此文即是兼詮助□故云說三。成二宗意為成詮定戒也。為別本末故阿毘達磨不論□□理。理實通有也。二剋性門。修多羅中雖說戒慧。自屬毘那耶阿毘達磨。阿毘達磨中雖說心戒。自屬餘二藏亦爾。毘婆沙中亦作此二釋也。此論即是阿毘達磨藏攝對所為機二者。以根有利鈍之殊。於法則有淺深之異。□聲聞鈍根約分別性立於三藏。為成聲聞行法故。判為聲聞藏。由聲聞所立十一種色。十四不相應四十七心心法。及三無為。此七十五法悉是事法故屬分別性也。對菩薩利根通約分別依他真實性立於三藏。為成菩薩行法故。判為菩薩藏。問。經云。為諸緣覺說因緣觀法。即緣覺亦有教。何故不立藏。答。依普曜經。三乘教即立三藏。今依此論及地持論。所以不立緣覺藏者。以似佛為說因緣觀者。即是似聞他音而得悟道。與聲聞同並判入聲聞藏攝。唯據上達利根人出在無佛法時無教可聞。宜以思修力故自悟因緣而得道果。即有行故得立乘。無教可聞故不立藏也。聲聞藏內有二。一立性教門。以其人於和合陰內解無神我。於陰等別法計有定性。如說色色自性。心心自性執。三世一切法皆有定性。以未達法空故也 二破性教門。此人機根稍利。亦解無神我。知陰等別法緣集故有本無自性。此即分達法空也。此二人觀解雖相有淺深。同似聞他音而悟小果故。總對所為判為聲聞藏也 菩薩藏內有二。一是顯示教。此遣分別性內所有諸法。如經說色空乃至涅槃畢竟體空。此即無相大乘亦名顯示教門。二就依他真實說如實因緣如如真實無垢等法。此即緣起大乘自性住乘亦名祕密教門。此二所詮雖相有淺深。同為菩薩利根進成大行而悟大果故。總判為菩薩藏。此論二教中通二教。若說三無性空等即顯教。若說初相等即是祕密攝也。
第二に、経蔵の区分について明らかにする。
真理を顕す教えは無数にあるが、今は重要な点に絞って論じる。教えは、示す対象が三つあることから三種に分けられ、また対象となる人が二種あることから二種に分けられる。
三種とは、第一に「修多羅」である。これを「綖(いと)」とも訳し、「経」とも呼ぶ。糸が花を貫くように、経が縦糸を保持するように、意味や働きが似ているからである。しかし、この国では「経」という名を重んじ、「綖」という呼び方を貴ばない。そこで翻訳家たちは、重視される方に従い、「綖」の名を省いて「経」の語を用いたのである。聖人の言葉の教えは、法のすがたを貫き通して誤りをなくし、法を長く保つという点で、経や綖と似ている。このたとえに基づいて名づけられたものであり、これは禅定の教えを説くものである。
第二に「毘那耶」である。これを「滅」と訳す。身・口・意の悪が修行者を焼き尽くすのは、火と同じである。戒律はそれを滅ぼすことができるので、「滅」と呼ぶ。これはその働きに基づいて名づけられたものであり、教えは説かれる内容に従って「滅」とも呼ばれる。これは戒律の教えを説くものである。
第三に「阿毘達磨」である。これを「無比法」とも「対法」とも訳す。煩悩を破り、法のすがたをそれぞれに弁別するには、分別を超えた智慧が最も優れている。これに並ぶ法は他にないので、「無比法」と呼ぶ。これは他に比べるものがないことから名づけられた名である。教えは説かれる内容に従って「無比法」とも呼ばれる。これは智慧の教えを説くものである。もし「対法」と呼ぶならば、「阿毘」は対する智慧、「達磨」は対する法であり、境と用に基づいて名づけられたものである。後の二つの蔵は、いずれも説かれる内容に従って名づけられたものである。
問う。もしそうならば、なぜ後の釈論に「三種の修学を説くために別に修多羅を立てる。戒と心の学に依って学を成すために毘那耶を立てる」とあるのか。この文から考えれば、修多羅は三つの行を説き、毘那耶は二つの行を説くべきではないか。
答える。二つの意味がある。第一に「相成門」である。三つの学の行は互いに助け合って成り立つ。教えを説くものにも、主要なものと補助的なものがある。この文は、補助的に説くことを示して「三を説く」と言い、二つを成すという意味は、禅定と戒律を説くことを成すという主旨である。本と末を区別するため、阿毘達磨については論じていないが、道理としては実際に三つすべてに通じているのである。第二に「剋性門」である。修多羅の中で戒や智慧を説くことがあっても、それは本来毘那耶や阿毘達磨に属する。阿毘達磨の中で心や戒を説くことがあっても、それは本来他の二つの蔵に属する。毘婆沙論でも、この二つの解釈が行われている。この論は、阿毘達磨蔵に含まれる。
次に、対象となる機根が二種であることについて論じる。根機には利根と鈍根の違いがあるため、法には浅いものと深いものがある。声聞は鈍根であり、分別性に基づいて三蔵を立てる。声聞の行法を成就させるため、声聞蔵と分類する。なぜなら、声聞が立てる十一種の色、十四種の不相応、四十七種の心・心所、三種の無為、これら七十五の法はすべて事象の法であり、分別性に属するからである。一方、菩薩は利根であり、分別性・依他性・真実性のすべてに通じて三蔵を立てる。菩薩の行法を成就させるため、菩薩蔵と分類する。
問う。経典には「縁覚のために因縁の観法を説く」とあり、縁覚にも教えはある。なぜ蔵を立てないのか。
答える。『普曜経』によれば、三乗の教えには三蔵が立てられる。しかし、今この論と『地持論』に従い、縁覚蔵を立てない理由は、縁覚も仏のために因縁の観法を説かれるのを聞いて悟りを得るという点で、声聞と同じであり、声聞蔵に含められるからである。ただ、特に優れた利根の者が、仏法のない時代に生まれ、教えを聞くことができず、思惟と修行の力によって自ら因縁を悟り、道果を得る場合がある。その場合は行があるので乗は立てられるが、教えを聞くことがないので蔵は立てられないのである。
声聞蔵には二つある。第一に「立性教門」である。これは、和合した五蘊の中に神我はないと理解するが、個々の法には固定的な性質があると考える立場である。例えば、「色には色の自性がある」「心には心の自性がある」と執着し、三世のすべての法に固定的な性質があると考える。これは、法の空を理解していないからである。第二に「破性教門」である。この人の機根はやや鋭く、やはり神我がないことを理解し、個々の法は縁によって集まったものであり、本来固定的な自性はないと知る。これは、法の空を部分的に理解したものである。この二つの人の観解には浅い深いの違いがあるが、いずれも他者の教えを聞いて小さな果報を悟る点で同じである。したがって、対象となる者を総合して声聞蔵と分類するのである。
菩薩蔵にも二つある。第一に「顕示教」である。これは、分別性の中のすべての法を打ち払うものである。例えば、経典に「色は空である」「涅槃も究極的には体が空である」と説かれるように、これは無相大乗であり、「顕示教門」とも呼ばれる。第二に、依他性と真実性に基づいて、あるがままの因縁や、あるがままの真実・無垢などの法を説くものである。これは縁起大乗・自性住乗であり、「秘密教門」とも呼ばれる。この二つの教えの内容には浅い深いの違いがあるが、いずれも菩薩の利根の者が大いなる行を成就し、大いなる果報を悟るためのものである。したがって、総合して菩薩蔵と分類する。この論は、二つの教えの両方に通じている。三無性の空などを説くならば顕示教であり、初相などを説くならば秘密教に含まれる。
第三次明教下所詮宗旨者。准下文意宗旨有二。一約二諦。二約佛性 言二諦者。若論世諦即以唯識為所詮宗旨。若說真諦即以二無我真如為所詮宗旨。故下釋云。一切法以識為相。以真如為體故。又云。知塵無所有是通達真。知唯有識是通達俗也 二約性者。論聖人興教意。正欲顯理成行行成得果故。初二勝相即自性住佛性。於中初勝相。若論心功能即是如實因緣。若據實是心真如。故下釋云。此即此阿黎耶識界以解為性。此界有五義等也。亦名不空如來藏。地經亦明緣阿黎耶識作第一義諦觀即心真如也。何者。是染染依止觀。此明心功能與十二因緣染法為依止。即如實因緣也。第二勝相中。若就相即是三性是前因緣所生果。若據實三性本不有即無三性名空真如亦名空如來藏。故下論云。如取不有故三性成無性也。此空不空二種真如法相所攝。二實體無二故。初二勝相名自性住佛性也。其間六勝相名引出佛性。由行成治障顯出自性住理故名引出也。後二勝相名至得果佛性。由得至果位遂前自性住因引出因故名至得果也。聖人興教意為成此三故。以三種佛性為所詮宗旨也。故下文言。若欲釋佛體及因果。其數如此故說次第。故知十勝相是三種佛性也。論能詮教體。即執性宗有二所以。音聲性色法為體 故彼論云。佛語語情故。二依經本即以名味等不相應法為體。破性宗以二念已去相續似聲為體。即法入攝意識知。大乘宗以似音聲性色識為體故。論音聲所詮名句味也。
第三に、教えの下に示される所詮の宗旨について明らかにする。下の文の意味に従えば、宗旨には二つある。一つは二諦についてであり、二つは仏性についてである。
二諦について言えば、世俗諦を論じる場合は、唯識を所詮の宗旨とする。真諦を説く場合は、二無我と真如を所詮の宗旨とする。故に、後の解釈に「一切法は識を相とし、真如を体とする」とあり、また「塵が無所有であることを知るのは、真を達することである。唯識のみであることを知るのは、俗を達することである」とある。
二つ目の性について言えば、聖人が教えを興す意図は、正しくは理を顕わし行を成し、行が成り果を得ることを目指すものである。ゆえに、初めの二つの勝相は自性住仏性である。その中の初めの勝相は、心の機能を論じれば、如実因縁である。実体に基づけば、心真如である。故に後の解釈に「この阿黎耶識の界は、解を性とする。この界には五つの義がある等」とあり、また不空如来蔵とも呼ばれる。地経にも、阿黎耶識に縁りて第一義諦観を作すことは、心真如であると明かされている。それはなぜか。染に染まる依止を観ずることである。これは、心の機能が十二因縁の染法の依止となることを明かし、即ち如実因縁である。
第二の勝相において、相に基づけば、これは三性であり、先の因縁によって生じた果である。実体に基づけば、三性は元々存在しないのであり、三性なしと名づけて空真如、また空如来蔵とも呼ぶ。故に後の論に「取が存在しないのと同様に、三性は無性となる」とある。この空と不空の二種の真如は、法相に摂せられる。二つの実体は無二であるため、初めの二つの勝相は自性住仏性と名づけられる。
その間の六つの勝相は引出仏性と名づけられる。行を成し障を治することによって、自性住の理を顕わし出すからである。後の二つの勝相は至得果仏性と名づけられる。果位に至り得ることによって、先の自性住の因と引出の因を成就するからである。聖人が教えを興す意図は、この三つを成すためであり、三種の仏性を所詮の宗旨とする。故に下の文に「もし仏の体および因果を釈しようとすれば、その数はこのようである。故に次第を説く」とある。これにより、十の勝相は三種の仏性であると知られる。
教えの体を能詮とする論については、性を執する宗には二つの理由がある。音声は色法を体とする。故に彼の論に「仏の語は語と情とによる」とある。二つ目に、経本に基づけば、名・句・文などの不相応法を体とする。性を破する宗は、二念以降に相続する似声を体とする。これは法処に摂せられ、意識が知るものである。大乗宗は、似音声なる性色識を体とする。故に、音声によって詮される名・句・文であると論じられる。
第四次釋論之題目 所言攝者。汎論攝義有四種。一以文攝文。如以攝大乘論四字為本即攝一部文教皆盡故。下文言。又部當類相攝故名藏也。二以義攝義。如以依止相為本攝一切義皆盡故。下文言。此依止是應知等九義所依藏故言所攝也。三以義攝文。一切文教皆依義施設故。故下論明。由證真如理能攝文及義故名持也。四以文攝義。即此攝大乘論文是也。論文雖簡略。總攝諸部大乘所詮之義。為十種勝相聚。此文下此即以文攝義故名攝也 言大者有三種。一體大。即目前空不空二種真如平等不增減故也。二相大。即真如體上具恒沙無漏性功德差別故。名相舉一一德皆遍滿法界故常故。故名大也。三用大。即此真如在因有任持染淨內熏等用。至果有起應化二身無住處涅槃等用。舉一一用皆遍法界故常故。所以名大。雖情見有廢興。用恒常也 乘者有三種。一理乘。即初二勝相自性住佛性。二行乘。即中六勝相引出佛性。三果乘。即後二勝相至德果佛性。故下釋論明。乘有三義。一性。二隨。三德也。三世諸佛菩薩依乘。此法別如來地故名乘也 論者有四種。一難論。如中百等。二集義論。如毘曇成實地持等。三釋宗論。如法華論往生論等。四釋文論。如智度十地論等。此之四種通名論者。皆假為賓主問答往伏論量道理故名論也。依止者此阿黎識。是一切諸法所依止也。諸依止中此識最勝故名勝相。於此相內有於四品故名中。眾名者依止乃食。眾名在初故名第一也。
三寶不同有其三種 一者同相。即佛性之理分為三也。即性理覺照義是佛。軌則義是法。同性宣和是僧義。雖有三義而體是一不異故名同相 二別相三寶者。一名寶佛。法身用真常五陰為體。報身修成五陰為體。化身即以化用五陰為體。理教行果等名法。菩薩聲僧等為僧也 三住持三寶。即取佛形像等為佛。紙素等文字為法。阿難迦葉等及凡夫比丘以為僧體。若阿難迦葉等形像等僧及佛法并用四塵為體。若取凡夫僧以有漏五陰為體。
三宝には三つの異なる種類がある。 第一に「同相三宝」とは、すなわち仏性の理が三分されたものである。すなわち、性理が覚照する働きを仏とし、軌則の義を法とし、性が同じくして和合することを僧の義とする。三つの義があるが、その体は一つであり異ならないため、「同相」と名づける。
第二に「別相三宝」とは、一つに「宝仏」をいう。法身は真常の五陰を体とし、報身は修行によって成就した五陰を体とし、化身は教化の働きとしての五陰を体とする。理・教・行・果などを法と名づけ、菩薩や声聞の僧などを僧とする。
第三に「住持三宝」とは、すなわち仏の形像などを仏とし、紙や布などに記された文字を法とし、阿難や迦葉などの聖者および凡夫の比丘を僧の体とする。阿難・迦葉などの形像や僧、ならびに仏法は、すべて四塵を体とする。凡夫の僧を取るならば、有漏の五陰を体とする。
三藏義二門分別 修多羅此云綖。以能連持諸法相故 毘那耶名滅。滅身口業非故。此二並從義用受名 阿毘達磨者有二。一云無比法。即從相形勝義為名。二名對治法。以所觀之法所得之法是所對。智為能對。此即從心境合目通名。藏者從義立名 二明體者。三藏同以音聲色識為體。
三蔵には二つの意味がある。第一に、経(修多羅)とは「綖(いと)」という意味である。それは諸法の相を連続して保つ働きを持つからである。第二に、律(毘那耶)は「滅」という意味であり、身体と口の悪業を滅するからである。この二つは、その意味と働きに基づいて名付けられている。
論(阿毘達磨)には二つの解釈がある。一つは「無比法」すなわち比べるもののない法という意味で、これはその相が他のものより優れているという観点からの名称である。もう一つは「対治法」という意味で、観察の対象となる法や得られる法が「対」であり、智慧が「能対」となる。これは心と境を合わせた総称である。
そして「蔵」とは、その意味に基づいて名付けられたものである。
次に、三蔵の本体について説明する。三蔵は、いずれも音声・色・識をその本体とする。
二藏義二門分別。一名。一者菩薩。二聲聞。教上根之徒行二利之行教名菩薩藏。為下根之人行自利行自利教名聲聞 二明體。雖就人立二不同。論體同前三藏。
経典には二つの教えの蔵があり、二つの観点から分別される。第一に名称。一つ目は菩薩、二つ目は声聞である。上根の人々に二利の行を教える教えを菩薩蔵といい、下根の人々に自利の行を教える教えを声聞蔵という。第二に体。人に基づいて二つの違いを立てているが、その体については先に述べた三蔵と同じである。
立藏九因。因名所以之義有三對三 一就障分三。初愛分障。唯是修式。二業障。即身口意三不善。即苦樂二邊因之而起。三自見取障。即以諸見為通首取迷理十使也。二體。初後二體以意為性。中間一種通三業為體 第二三者。具詮三學說修多羅。本末通詮故。又修多是教。三學三門並依教生故作是說。毘那耶成二。以依戒生定故作是說。阿毘達唯慧。以是未知但言慧也 第三三者法義。宣說法義因果是修多羅。以此藏宣說語言故。成就法義毘那耶。由於持犯無疑所以故成因果法義也。法義勝智由阿毘達磨。以此藏生智勝故能了法義也。
経蔵を立てる九つの理由。因とは「理由」という意味で、三つの対がある。
第一に、障りに基づいて三つに分ける。 一、愛の障り(貪愛の障り)は、修行によってのみ断たれる。 二、業の障り(業の障り)は、身・口・意の三つの不善業である。苦と楽の二つの極端は、これによって生じる。 三、見取の障り(我執の見解の障り)は、様々な邪見を総称し、最初に真理を迷う十の煩悩(十使)を捉えるものである。
第二に、その体(本体)について。 最初と最後の二つの障りの体は、意(心)をその本性とする。 中間の一つ(業の障り)は、三業(身・口・意)すべてをその体とする。
第三に、三つ目の三組とは、三学(戒・定・慧)を完全に説き示すために修多羅(経典)が説かれることである。根本と末梢を共に説くからである。また、修多羅は教えであり、三学と三つの門(三学の入口)はすべてこの教えに依って生じるので、このように説くのである。
毘奈耶(律)は二つを成就させる。戒に依って定が生じるからである。阿毘達磨(論)は慧のみである。未知のものを慧によって知るからである。
第三に三つ目の三組とは、法(教え)と義(意味)である。法と義、因果を説き示すのが修多羅である。この蔵が言葉を宣説するからである。毘奈耶は法と義を成就させる。持戒と犯戒について疑いがないからであり、因果の法義を成就させるからである。阿毘達磨は、法と義に関する優れた智慧である。この蔵が智慧を生じることに優れているからであり、それによって法義を理解できるからである。
無悔義十法二門分別。一持戒。二無悔。三心安。四得憙。五問猗。六樂。七定。八見如實。九厭離。十解脫 二體性者。是中前六中。初一是持戒為因。後五是戒果。同是戒學攝。並是定因。第七是定果。即慧因。第八是慧果。第九是慧用。第十是三學所問果。若就三業出體。初一通三業。中八唯以心為體。後一以無為為體。若三學。前六是戒。中一是定。次二是慧。後一是前三所得果無為也。
無悔の意味を説く十の法と二つの門について、次のように分別する。一に戒を持ち、二に悔いなく、三に心安らかであり、四に喜びを得、五に身の安らいを得、六に楽を感じ、七に定を得、八に如実に見、九に厭離し、十に解脱する。
その体性について述べる。この中の前の六つについては、初めの一(持戒)が因であり、後の五つは戒の果である。それらは同じく戒学に含まれ、いずれも定の因となる。第七(定)は戒の果であり、慧の因となる。第八(慧)は慧そのものの果である。第九(厭離)は慧の働きである。第十(解脱)は三学の究極の果である。
三業の観点から体を明かすと、初めの一(持戒)は身・口・意の三業にわたる。中の八つは心のみを体とする。最後の一(解脱)は無為を体とする。
三学の観点から見ると、前の六つは戒であり、中の一つは定であり、次の二つは慧であり、最後の一つはこれら三学の得る果、すなわち無為である。
三藏通用五義三分別門。一名。二體。三住地一名者。謂熏.覺.寂.通.解脫。熏者由聞思習之不已熏識成種。即從譬為名。覺者由修慧力故能覺察真理故名覺。寂者遠離能所之執名寂。通者若有能所之執即不通。由無能所故平等故通也。解脫者若不通真理可不解脫。由達理故得解脫也。後四並修慧勝用之美立名 二體者。熏之一種用聞思為性。中三用修慧為體。後之一種用無為為體三位者。若通一一位皆有此五義。若別而言之。熏在地前。覺在初地。寂在二地至七地。通在八地至十地解脫在佛地。
三蔵(経・律・論)の教えには、すべてに共通する五つの意味があります。これを三つの区分(三分別門)に分けて説明します。
第一に「名称」、第二に「本体」、第三に「住地」です。
まず「名称」(名)について。五つの名称とは、「薫(くん)」「覚(かく)」「寂(じゃく)」「通(つう)」「解脱(げだつ)」です。
「薫(くん)」とは、聞くこと、考えること、修めることを絶え間なく行うことで、心に種(しゅ)を薫じつけることをいいます。これは比喩から名づけられたものです。
「覚(かく)」とは、修行によって得られる智慧(慧)の力によって、真理をはっきりと見極めることができることから、この名があります。
「寂(じゃく)」とは、主体と客体(能所)への執着を遠く離れていることをいいます。
「通(つう)」とは、もし主体と客体への執着があれば、真理に通じることはできません。執着がないからこそ平等であり、通じるのです。
「解脱(げだつ)」とは、もし真理に通じていなければ、解脱することはできません。真理に達するからこそ、解脱を得るのです。
後の四つ(覚・寂・通・解脱)は、修行による智慧の優れた働きの美称として名づけられたものです。
次に「本体」(体)について。「薫」の一種は、聞くことと考え(聞思)をその本性とします。中の三つ(覚・寂・通)は、修行による智慧(修慧)をその本体とします。最後の一つ(解脱)は、無為(作為を超えたもの)をその本体とします。
最後に「住地」(位)について。五つの意味は、修行のすべての段階(位)に通じてありますが、特に区別して
別用四義 修多羅四義二門分別名體 名者。一依。處人用為教所依故。二相。謂真俗等相日相形彼此等。三法。即諸法自性故名法也。四義。即義用之義故名義也 二體者。依體即以色以及後智勝用之德為體。相者用一切諸法真俗為性。法者用陰等諸法以之為體也。義者即用教法為性。由依此法能生道滅戒故。
四つの義を用いる(修多羅の四義)。 二つの観点(門)で「名」と「体」を分けて説明する。 「名」とは、第一に「依」(よりどころ)。場所・人・用途が教えの拠り所となることによる。第二に「相」(すがた)。真諦・俗諦などの相を「相」と言い、形や彼此(あれこれ)を指す。第三に「法」(ほう)。諸法の自性そのものであるから「法」と名づける。第四に「義」(ぎ)。すなわち義用(意味と働き)の義であるから「義」と名づける。
「体」とは、第一に「依」の体。すなわち色や後得智の勝れた用の徳を体とする。第二に「相」の体。すべての諸法の真諦・俗諦を性とする。第三に「法」の体。すなわち五蘊などの諸法をもって体とする。第四に「義」の体。すなわち教法を性とする。この法によって道・滅・戒が生じるからである。
五陰義二門分別。一陰名。二體 一名有通名別名。五陰者。五是數。陰者積聚。以解陰即從數義為名。別者謂色受想行識。形礙以解色。領納以明受。取相相是想。行是起作為義。識了別是識。並義果受稱也 二體。色陰以色識為性。中三陰以隨用以心法為性。行中亦可不是心身口業等。識陰通取六七八等為識陰體。
五陰について、二つの観点から説明します。第一に陰の名称、第二にその本質です。
一、名称には通名と別名があります。「五陰」の「五」は数です。「陰」は積み重なりを意味します。「陰」を解釈するなら、その名は数の意味に由来します。別名とは、色・受・想・行・識を指します。「色」は形や障りをもって説明します。「受」は受け入れることによって明らかにします。「想」は像を捉えることです。「行」は起こし作ることの意味です。「識」は了別することです。これらはみな、その意味に基づいて名付けられたものです。
二、本質について。色陰は、色と識をその本性とします。中の三つの陰(受・想・行)は、心の働きに随って心法をその本性とします。ただし、行の中には心に属さないもの、つまり身体や言葉の業などもあります。識陰は、第六識・第七識・第八識などを総合して、その本質とします。
十八界二門分別。一名。二體 名者。分前色作五根五塵及無作色。用前三陰作法界。用前識陰作界即六識界。六塵謂色聲香味等。六根謂明眼界耳鼻舌界身界意界。六識名同根 二體。同陰不須分別。
十八の世界(十八界)は二つの観点から説明されます。第一に名称、第二にその本質です。
名称について説明します。「色」を五つの感覚器官(五根)と五つの感覚対象(五塵)、そして「無作色」(意志によって生じた目に見えない色)に分けます。「法界」には先に述べた三つの「蘊」(受・想・行)を含め、「識蘊」を使って「識界」とします。これが六つの識界(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)です。六つの感覚対象(六塵)とは、色・声・香・味・触・法のことです。六つの感覚器官(六根)とは、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界です。六つの識の名称は、それぞれ対応する根
十二入名體 謂六塵此十法是識入處名入處名入。從義為名也 體者。與陰不異也。但約義為入也。
十二入の名前と実体について。六つの塵(色・声・香・味・触・法)を指す。この十の法(六根と六塵のうち、特に六塵を指す)は、識が入り込む場所であることから「入」または「入処」と名付けられ、その意味に基づいて名づけられたものである。「体」とは、五蘊(色・受・想・行・識)と異なるものではない。ただ、その働きや意味に着目して「入」と説かれたのである。
四諦義二門分別。一名。二體 通名諦即實故。故名諦。名者。謂苦集滅道。苦者逼迫為義。集者招感為義。此二過義受名。滅者能滅三毒火故名滅。道者能生為義。此二從功用為名 二體者有二。一就相。出體相。即用苦無常等理為苦。因等理為集。道如等理為道。滅正等理為滅。此就相出。二就實。若大乘即一味真如為苦實。乃至為道體實。即經云。有實即無作四諦也。
四諦の意味を二つの側面から説明する。第一に名称、第二にその本体である。
「諦」と総称されるのは、それが真実であるからである。その名称とは、苦・集・滅・道を指す。「苦」とは、人を悩ませ追い詰めるという意味である。「集」とは、原因を呼び寄せるという意味である。この二つは、過ちや苦しみの性質に基づいて名付けられている。「滅」とは、三毒の火を消し去ることができるという意味である。「道」とは、悟りを生み出すという意味である。この二つは、その働きや効力に基づいて名付けられている。
第二に、その本体については二つの見方がある。一つは、現象の相に基づいて本体を明らかにする立場である。この立場では、苦しみの無常といった道理を「苦」とし、原因の道理を「集」とし、道が平等である道理を「道」とし、滅が正しく平等である道理を「滅」とする。これは相に基づいて説かれたものである。
もう一つは、真実の立場である。大乗の教えでは、一つの味わいの真如そのものを苦の本体とし、さらに道の本体ともする。すなわち経典に「真実が有るとは、すなわち無作の四諦である」と説かれているのがこれである。
次明定義二門分別。一名。二體 名者。謂初禪地二禪地三禪地四禪地。禪者名思惟修亦名功德叢林。二體。四禪有十八支。即已之為體。禪支有十八。初禪有五。覺觀為治。憙樂為利益。一心為定體 二禪有四支。內淨喜樂一心。內淨是治。中二是利益。後一心是定體。三禪有五支。行捨淨念安慧。捨念慧是治。樂是利益。一心是體。樂一心。四禪有四支。捨念不苦不樂一心捨念是治。不苦不樂是利益。一心是定體 二體者。以九法為。謂覺觀受猗定行捨念慧。受分為四。猗分二。即初二禪中樂行捨及念各分為二。定分四。餘四不分。
■定義を二つの側面から説明します。一つは「名」、もう一つは「体」です。
【名】 「初禅地」「二禅地」「三禅地」「四禅地」を指します。「禅」とは、思考を集中して修めること(思惟修)を意味し、また「功徳の叢林」とも呼ばれます。
【体】 四禅には合計十八の「支(し)」があり、それがそのまま禅の本質(体)となります。
・初禅には五つの支があります。 ・「覚(かく)」と「観(かん)」は心を整える作用(治) ・「喜」と「楽」は心に利益をもたらす作用(利益) ・「一心」は禅定の本体(定体)
・二禅には四つの支があります。 ・「内浄(ないじょう)」は心を整える作用(治) ・「喜」と「楽」は心を利益する作用(利益) ・「一心」は禅定の本体(定体)
・三禅には五つの支があります。 ・「行捨(ぎょうしゃ)」「念」「慧」は心を整える作用(治) ・「楽」は心を利益する作用(利益) ・「一心」は禅定の本体(定体)
・四禅には四つの支があります。 ・「捨」と「念」は心を整える作用(治) ・「不苦不楽(ふくふらく)」は心を利益する作用(利益) ・「一心」は禅定の本体(定体)
【もう一つの「体」の捉え方】 第九の働き(九法)によっても体を説明できます。それは「覚」「観」「受」「猗(い)」「定」「行」「捨」「念」「慧」です。
・「受」は四つの場合に分かれます。 ・「猗」は二つの場合(初禅と二禅の「楽」)に分かれます。 ・「行捨」と「念」もそれぞれ二つの場合に分かれます
四無色義名體 名者。一空處。二識處。三無所有處。並從方便行相立名。四於方便中作空識等解而修故。四非想非處。從相形過義立名。形下名無想。就實猶有細想是過也二體者。以四陰心為體。但上下別不立支者。以是苦道故。樂道者立支。苦道不立支。四禪邊亦爾。
四無色定の名称とその本質について解説します。
名称については、第一に空無辺処、第二に識無辺処、第三に無所有処です。これらはいずれも修行の方法や、その境地のあり方に基づいて名付けられています。なぜなら、これらの修行では、空や識などの観想を修行の手段として実践するからです。第四の非想非非想処は、その境地の特徴と、それ以前の境地との比較に基づいて名付けられています。より粗い想いがある下の境地と比べて、「無想」と名付けられていますが、実際には微細な想いが残っており、それが欠点となります。
本質については、これら四つの無色定はすべて、心(受・想・行・識の四蘊)をその本質としています。ただ、上の境地と下の境地の違いがあるものの、禅定の支え(禅支)を立てないのは、これらの境地が苦の道であるからです。楽の道には禅支を立てますが
十一切入義名體 名者。地水火風青黃赤白空處識。此等十法各遍一切無有間故名遍。入為識緣故名入。通名即從數及義為名也。別名即從境為名也 二體者。小乘中前八以無會善根為性。眷屬四陰五陰也。空識以四陰為體。大乘同以唯識無塵智為體。或以意言唯識為體也。三智分別但加行智也。
十遍入の意味と名称・その体について 名称とは、地・水・火・風・青・黄・赤・白・空処・識処である。 これら十の法は、それぞれがすべてに遍く、間隔なく広がるため「遍」という。 また、識のよりどころとなるため「入」と名づける。 総称としては、その数と意味に基づいて名づけられたものである。 個別の名称は、それぞれの対象(境)によって名づけられている。
次に体について。 小乗においては、前の八つは無貪・無瞋・無痴の善根をその性質とする。 その仲間としては、四陰または五陰である。 空処と識処は、四陰を体とする。 大乗では、いずれも唯識・無塵の智慧を体とする。 あるいは、言葉による認識である唯識を体とするとも説かれる。
三つ目の智慧の分別としては、ただ加行智のみである。
無諍三昧二種分別名體 名者。無諍者以五因來將護眾生不生煩惱不與他諍。即從無過立名也 二體者。明諸佛菩薩以如量智大悲心將護眾生。用此如量智為體也。小乘以等智為體。成論唯聖得故。以名用無漏智定為體。
**無諍三昧の二種分別:名と体**
**「名」について** 「無諍」とは、五つの因によって衆生を守り導き、相手に悩みを生じさせず、他と争わないことです。これは過ちがないという点から名付けられています。
**「体」について** 諸仏や菩薩は、如量智(あるがままの智慧)と大悲心によって衆生を守り導きます。この如量智がその体です。
一方、小乗では等智(世間の智慧)を体とします。『成実論』では、聖者だけが得るものとして、無漏の智慧と禅定を体としています。
阿毘達磨四義二名體 一對二數三伏四解。對者。生死涅槃是所對。智是能對。即從相形之義立名。數者。明說一法重重顯之。伏者。能伏諸說名伏。解者。由此教令前二藏法相明了可見名解。此三從功能勝義立名 二體者。唯取論教為體。雖就所詮明於四義。但言取教有此勝用即同教出體。若取所生用體即以聞慧為體。
阿毘達磨には四つの意味と二つの体がある。四つの意味とは、対・数・伏・解である。
まず「対」とは、生死と涅槃が対する対象であり、智慧はそれに対する主体である。すなわち、互いに向き合うという関係から名付けられたのである。
次に「数」とは、一つの法を明らかに説いて、これを繰り返し示すことである。
「伏」とは、諸々の異説を抑え込む力があることから、この名がある。
「解」とは、この教えによって、経蔵と律蔵の法の相が明らかにはっきりと理解できるようになることから、この名がある。
これら三つは、そのはたらきの優れた意味から名付けられたものである。
次に「二体」とは、もっぱら論の教えを体とするということである。たとえ説かれた内容について四つの意味を明らかにするとしても、単に教えをとらえて、このようなすぐれたはたらきがあると言うならば、それは教えをそのまま体とすることと同じである。もし、そこから生じるはたらきを体とするならば、聞いて理解する智慧を体とするのである。
九種方便。出如實論。以五分論伏破。即立義等五。以四方便難彼義。於彼立有二方便。一檢具五分不。二設具五分復離三過不。即相違不實不定。若具三過不須破自壞也。二檢彼難亦須二方便。一檢難具五分不。二須識彼退意。但彼難者恥受屈。不自受屈言。且休更待後論。即令言下受伏。若不識彼語而為解說。即自無知為是須識彼退意。
九種の巧みな方法は『如実論』に由来する。五分論法によって相手の説を打ち破る。すなわち、「立義」など五つの要素を用いる。さらに四つの巧みな方法で相手の論義を批判する。相手の主張に対しては二つの方法を用いる。第一に、五分論法が備わっているかどうかを調べること。第二に、五分論法が備わっていたとしても、さらに三つの過失(相違・不実・不定)を免れているかどうかを調べること。もし三つの過失があれば、わざわざ論破するまでもなく、自ら崩れ去る。次に、相手の批判に対しても二つの方法を用いる。第一に、その批判が五分論法を備えているかどうかを調べること。第二に、相手が引き下がろうとしている意図を見抜くこと。相手は恥辱を受けて屈することを嫌い、「まあいい、また後で論じよう」と言って自ら負けを認めようとしない。そこで、すぐにその言葉のうちに相手が屈服したことを認めさせる。もし相手の言葉の真意を理解せずに説明を続ければ、自ら無知をさらすことになる。ゆえに、相手が退こうとする意図を見抜くことが
八方便義有二。一名。二體 名者。五分論即五。一立義。二引證。三譬。四合譬。五結。三方便者。相違不實不定。以五分伏破。以三方便伏彼破。以三方便伏彼立也 若論體。雖約教新但取聞思二慧以之為體。若就教即以識聲為性也。
八方便の意味するところは二つあります。一つは名称、もう一つはその本質です。
名称について言えば、「五分論」の五つとは、第一に「意義を立てる」、第二に「引用して証明する」、第三に「たとえ話」、第四に「たとえを合わせる」、第五に「結論づける」です。「三方便」とは、「矛盾している」「確かではない」「定まっていない」という三つの状態を指します。これらに対して「五分論」を用いて打ち負かし、「三方便」によって相手の論破を抑え、また「三方便」によって相手の主張を成立させるのです。
その本質について論じるならば、教えに基づいて初歩者を導くという観点からは、単に「聞くこと」と「考えること」という二つの智慧を取って本質とします。もし教えそのものに基づく
五篇二門名體 一名者。波羅夷此云極惡。即從重過立名。二僧伽婆尸沙此云僧殘。壞僧行不具 即從所壞及過受名。三名波逸提此云墮。即從果為名(由犯此必墮惡道故)四名提舍尼此云向彼悔。即從對治方便立名也。五名戒叉加羅尼此云應當學。即從能防行立名。通名篇者。以罪類均等者立之一處名篇。即從義受名 二體者。同用身口意作無作業為體。若別身口作無作用色為體。意業用思為體七聚者。更加惡作惡說聚。加偷蘭遮聚。此云大障道 得名者。惡作惡說者。即以身所作名惡作。口所說名惡說也。大障道若犯此必障聖道故名大障道。並從過為名 體性與五篇同以身口意已之為體。
五篇・二門の名と体
一、名について。 まず「波羅夷」は、この言葉で「極悪」を意味します。重大な過ちに基づいて名付けられています。 二、「僧伽婆尸沙」は「僧残」と訳されます。僧団の修行を壊し、完全ではない状態を指します。壊された対象とその過ちに基づいて名付けられています。 三、「波逸提」は「堕」と訳されます。これは結果に基づいて名付けられています。〈注釈〉この戒を破ると必ず悪道に落ちるからです。 四、「提舍尼」は「向彼悔」と訳されます。これは対処法としての方便に基づいて名付けられています。 五、「戒叉加羅尼」は「应当学」と訳されます。これは防ぐ行いの能力に基づいて名付けられています。
「篇」という総称は、罪の種類が等しいものを一か所にまとめたものです。その意味に基づいて名付けられています。
二、体について。 すべて共通して、身・口・意の三業によって生じる無作の業を体とします。 別々に見ると、身と口による行為は無作の色法を体とし、意業は思慮を体とします。
七聚について。さらに「悪作」「悪説」の聚と、「偷蘭遮」の聚が加わります。「偷蘭遮」は「大障道」と訳されます。 名の由来は、「悪作」と「悪説」は、身で行うことを「悪作」、口で言うことを「悪説」と呼びます。「大障道」は、これに触れると必ず聖なる道を妨げるため、そう名付けられています。いずれも過ちに基づいて名付けられています。 体性は五篇と同じで、身・口・意の三業をもって体としています。
緣起四因義名體 名。一無知。由自無明解之智。即無他立名。二放逸。咨心神名放逸。過立名。三煩惱熾盛。由或增上不覺生染犯戒違道。四輕慢。由心輕戒不生敬重故犯佛戒。並從過立名 二體性者。無知即無明使。放逸即貪使。由貪故放逸。煩惱熾盛即通貪嗔二惑及纏垢一切惑。輕慢唯是慢使。若三聚中出體唯是心。
縁起の四因は、その意味と名称と本質について説明します。
名称について: 第一は「無知」です。自己の無明によって智慧を覆い隠し、それ以外の理由はないことから名づけられます。 第二は「放逸」です。心を自由に振る舞わせることを放逸と言い、過ちがあることから名づけられます。 第三は「煩悩熾盛」です。煩悩が盛んになることにより、自覚なく染まり、戒を破り、道に背くことから名づけられます。 第四は「軽慢」です。心が戒を軽んじ、敬重の心が生じないために仏の戒を犯すことから、その過ちによって名づけられます。
本質について: 無知の本質は無明の煩悩です。放逸の本質は貪りの煩悩であり、貪りがあるために放逸となります。煩悩熾盛の本質は、貪りと怒りの二つの惑い、さらに纏や垢などのあらゆる煩悩に通じます。軽慢の本質は、ただ慢の煩悩のみです。三聚(律・戒・経)の中からその本質を取り出すなら
八種造業具。一名二體 名者。三業中由一不由二有三。由二不由一有三。具三業有一。不由三業有一。由一有三者。一由心不由身口。二由身不由心口。三由口不由身心。由二有三者。由心身不由口。由身口不由心。由心口不由身。七由身口心具犯。不由心口身而犯有二義。一者方便復悔過前使人罪成取罪成時故能教者得罪。不由三也。二妄語誑外國女人亦爾。初時不解未犯。後犯時復無三業也 體者。身口二以色識為體。心以意識為性。
八種の造業の具について述べます。第一に名、第二に体です。
名とは、三業のうち、一つの業によってなされ、二つによってはなされない場合が三つあります。二つによってなされ、一つによってはなされない場合が三つあります。三業をすべて具して行う場合が一つあります。三業によらずに行う場合が一つあります。
一つの業による三つとは、第一に心によってなされ、身と口によってはなされないもの。第二に身によってなされ、心と口によってはなされないもの。第三に口によってなされ、身と心によってはなされないもの。
二つによる三つとは、心と身によってなされ、口によってはなされないもの。身と口によってなされ、心によってはなされないもの。心と口によってなされ、身によってはなされないもの。
第七は、身と口と心の三つを具して犯すものです。心と口と身によらずに犯す場合には、二つの意味があります。第一は、方便として悔い改める前に人をして罪を成立させ、罪が成立する時を取るがゆえに、教える者に罪が生じます。三業によらないのです。第二は、妄語によって外国の女人を誑かす場合も同様です。初めの時には理解せず、まだ犯していません。後に犯す時には、また三業がありません。
体とは、身と口の二つは色と識を体とし、心は意識を性とするのです。
毘那耶四二名體 名者。一罪過。從過受名。二緣起。則犯戒之緣。從義立名。三還淨。明戒還同昔淨。四出離。明於罪得出也。此二並從離過受名 體者。罪過如五篇七聚中辨。緣起如或四或八中說。還淨出離即以方便中身口意善業為體。
毘那耶には四つの名と体がある。名とは、第一に「罪過」。過ちに従って名付けられた。第二に「縁起」。戒を犯すきっかけであり、その意味から名付けられた。第三に「還浄」。戒がかつての清らかさに戻ることを明らかにする。第四に「出離」。過ちから抜け出せることを明らかにする。この二つは、過ちから離れることに従って名付けられた。
体とは、罪過は五篇・七聚などに示されている通りである。縁起は四つや八つの場合に説かれている通りである。還浄と出離は、実践の方法として、身・口・意の善い行いをその体とする。
出離有七事 一各發路遮相讀。從義為名。二受與學罰。即從義方便立名。三先制復開。四更捨。五轉依比丘比丘尼。六如實觀。七法爾。並從義為名也 二體。各發路用心口二業為性。亦可三業為體。二受與學罰即以身口意三業為性。三先制後開以色識為體。四更捨與先制同。五轉依唯約色。即以色為體。六如實觀即如苦無常無我涅槃寂滅四法印為體。苦無常是有為。無我涅槃寂滅是無為。七法爾即以四真諦為體。大乘即以法空之理為四諦體。小乘名有作。大乘名無作。此中但取有作四諦也。
出家には七つの事がある。第一に「各發路遮」と読み、意味に従って名付ける。第二に「受與學罰」、これも意味に従って方便として名を立てる。第三に「先に制したものを後で開くこと」、第四に「更に捨てること」、第五に「比丘・比丘尼が依り変わること」、第六に「如実に観ること」、第七に「法爾(自然の道理)」であり、いずれも意味に従って名付ける。
次に体(本質)について述べる。第一の「各發路」は、心と口の二業を性(本質)とする。また三業を体とすることもできる。第二の「受與學罰」は、身・口・意の三業を性とする。第三の「先に制したものを後で開くこと」は、色(物質)と識(認識)を体とする。第四の「更に捨てること」は、先に制したものと同様である。第五の「比丘・比丘尼が依り変わること」は、専ら色についてであり、色を体とする。第六の「如実に観ること」は、苦・無常・無我・涅槃寂静という四つの法印を体とする。苦と無常は有為の法であり、無我と涅槃寂静は無為の法である。第七の「法爾」は、四つの真諦(四諦)を体とする。
大乗では、法が空であるという道理をもって四諦の体とする。小乗では「有作」と呼び、大乗では「無作」と呼ぶ。ここでは、ただ有作の四諦を取るものとする。
毘那耶復四義名體 一人。即從數似者為名。二立制。已說過失立非梵行戒。已說訶欲等過失。三分別。已略立制更廣釋。即比丘者著搪截衣。四決判明持犯等相。此三並從義為名。二體者。總以二法為體。明人無體還用五陰實法為性。後三以色識法為體。以是音聲性故。
毘那耶にはさらに四つの意味と名称・本体がある。
一つ目は「人」。これは人数に基づいて名づけられたものである。 二つ目は「立制」。すでに過ちを説いて非梵行の戒律を定め、すでに欲望などを呵責する過ちを説いた。 三つ目は「分別」。すでに大まかに制戒を立て、さらに広く解説する。すなわち「比丘は継ぎはぎの衣を着る」などである。 四つ目は「決判」。持戒と犯戒の相などを明らかにする。 これらの三つは、いずれもその意味に基づいて名称とされている。
二つ目に「本体」について述べる。総じて二つの法を本体とする。「人」には本体がなく、五蘊という実法をその性質として用いる。後の三つは、色と識の法を本体とする。それらは音声という性質によるからである。
十勝相名體 名者。一應知依止。二應知。此二從境及勸辭為名。三應知入。從境智及勸辭為名。四入因果。從所成智及能成行住立名。五入因果修差別。因果是行。修是方便。差別是位。從行及能修方便位義立名。三學相者。戒等是行。體依之與。學是心功能。即從行及心功能為名。九學果寂滅相學是因。果是位。寂是義。即從因位義立名。十智差別。智是體。差別是義。從體義受名。通名勝相。勝小乘等即於形勝義立名 二體者。初相以梨耶為體。二以三性。三以唯識無分別智。四以六度行為體。五以十地為性。六以三聚戒行為體。七四定為體。八三智為體。九以無住處涅槃為體。十以三身為體。
十の殊勝な相の名称とその本体について説明する。 名称について言えば、 第一は「知るべき依り所」、第二は「知るべきもの」である。これは、対象と教えの言葉から名づけられた。 第三は「知るべきものへの入り方」であり、対象・智慧・教えの言葉から名づけられた。 第四は「因果への入り方」であり、成就される智慧と成就する行・住の立場から名づけられた。 第五は「因果への入りの修行の差別」である。因果は行であり、修は方便、差別は位である。行と、修行できる方便・位の意味から名づけられた。 第六から第八までは三学の相である。戒などは行であり、その本体はそれに依って成り立つ。学は心の機能であり、行と心の機能から名づけられた。 第九は「学の果である寂滅の相」である。学は因、果は位、寂は意味であり、因・位・意味から名づけられた。 第十は「智慧の差別」である。智慧は体、差別は意味であり、体と意味から名づけられた。 これらを総称して「殊勝な相」という。小乗などよりも優れているという、形と勝れた意味から名づけられたのである。
次にその本体について述べる。 第一の相はアーラヤ識を本体とする。 第二は三性を本体とする。 第三は唯識の無分別智を本体とする。 第四は六波羅蜜の行を本体とする。 第五は十地を本体とする。 第六は三聚の戒行を本体とする。 第七は四つの定を本体とする。 第八は三つの智慧を本体とする。 第九は無住処涅槃を本体とする。 第十は三身を本体とする。
聖教勝五種有二名體 一正說非方便不同半教。第二破小乘僻執以正對破不了也。第三大乘有小乘無。第四是大菩提因。第五會眾生得一切智 體者。前二用大乘教法為體。即後三即十義為體。
聖なる教えは、五つの点で優れており、二つの呼び名とその本質があります。 第一に、正しい説法であり方便ではない点で、完全な教え(半教)とは異なります。 第二に、小乗の偏った執着を打ち破り、正しい教えでそれらを対決・打破する点で、未だ悟りを得ていないことに対応します。 第三に、大乗には存在するが小乗には存在しない教えです。 第四に、これらは大いなる悟り(菩提)の因です。 第五に、全ての衆生を集めて一切智を得させるものです。
その本質について言えば、最初の二つは大乗の教えを本質としています。 後の三つは、十の意味をその本質としています。
三次第義名體名者 一境有次第。作緣生識名境。二正行次第。行不倒故名之正行。三果有次第。起遂前因名之為果。此三並義為名 二體者。與前十相體同。以前二相是境。即先有後空。中六是行。即先劣後勝。後二相是果。即先法後人。以明次也。
三つの「次第」という教えの意味と本質について説明します。
**第一に、境の次第** 因縁によって心が生じる対象となるものを「境」と呼びます。
**第二に、正行の次第** 行いが正しく、迷いのない状態を「正行」と呼びます。
**第三に、果の次第** 原因に従って結果が現れることを「果」と呼びます。 これらの三つが「次第」という意味を形作っています。
**次に、その本質について** 先に述べた十の相と同じ性質を持っています。 最初の二つの相(境)は、先に存在するものから後に空へと向かうものです。 中央の六つの相(行)は、初めは劣ったものから後に優れたものへと進みます。 最後の二つの相(果)は、先に教えが現れ、後に人が悟るという順
四道理名體。出如實論中。一因果道理。初相是通因。第二相是通果。中六是別因。後二是別果。與此通別因果不違。二相待道理。即因果相待大小相待也。三證成道理。即十義以相證成也。如無生成滅等逆順相證也。亦可此中十義與菩提因果不相違。故證智成十義唯顯也。即是立義等五分論義也。四法如道理。若一切法智如是法如。若別別有體則非法如道理即有三。一無我如。二無常如。三寂靜如 二體者。前三道理即用十相為體。但約義分三。第四以通理為性。即法空真如是。
三量名體 名。一現量。凡聖所知事非過未名現量。即量度從事時義為名。二教量。即教受之義。三比量。比即比度亦是義。此一從義為名 二體者。若現量即凡聖所知諸法為體。即真俗也。教量即用大乘教為體。即是色識為性。比量即用加行智尋思如實等智為體也。若能用三量四道理智即唯思慧智為性。
三種の「量」の名称とその本質について説明する。
第一は「現量」である。凡夫や聖者が知るところの、過去や未来ではない現在の事柄を「現量」という。これは、現在進行している事柄をそのまま認識するという意味から名づけられた。
第二は「教量」である。これは、教えを受け入れるという意味である。
第三は「比量」である。「比」とは比較・推測という意味であり、やはり推論の意味を持つ。これらはいずれもその意味に基づいて名づけられたものである。
次に、これらの本質について述べる。
現量の本質は、凡夫や聖者が認識するあらゆる現象、すなわち真諦と俗諦である。 教量の本質は、大乗の教えを用いることである。すなわち、物質的なものと認識作用をその性質とする。 比量の本質は、加行智(修行によって得られる智慧)や尋思(正しく考えること)・如実(あるがままに知ること)などの智慧を用いることである。
これらの三量や四種の道理を理解する智慧を用いる
五種藏義體名 一體類義。體者是實類之言流類也。一切眾生取體雖多。然識不異從體義立名。二因義因者即由緣與他也。行法為緣。三生義。生者即是能生長。二從功能義立名。但因取與因作因。生則就果也。四真實義。明此識在世不破出世不盡。此就相形勝義立名。五藏義。明此識體聚積恒沙功德。從勝義立名 二體者。同用本覺解心如來藏以之為性。
**五つの「蔵」の意味とその名について**
一、体(たい)という意味。 「体」とは実体・本質を指し、「類」とは流れや種類を意味する。一切の衆生がとる「体」は多様であるが、識(しき)に違いはなく、この本質に基づいて名が立てられる。
二、因(いん)という意味。 「因」とは縁(えん)であり、他にきっかけを与えることである。修行や実践が縁となる。
三、生(しょう)という意味。 「生」とは、成長させる力を持つことである。因が与え役を担うのに対し、生はその結果を指す。
四、真実(しんじつ)という意味。 この識(阿頼耶識)は、世の中にあって壊れず、出世間においても尽きることがない。このように、世間と出世間の両方において際立った性質を持つことから名づけられる。
五、蔵(ぞう)という意味。 この識の本体には、無限の功徳が集まっている。この優れた特質に基づいて名づけられる。
**二、その本質について** これらの五つの意味はすべて、本来の覚り(本覚)の心と如来蔵(にょらいぞう)を根本の性質としている。
四種差別義名體 名者。一生死因。即煩惱業。二者報道。即以似色心為體。三涅槃因。即用八修正行為體。四涅槃果。即取三身四種涅槃為體。
四つの区別ある法の意味と体について、その名前とは、 一、生死の原因。すなわち煩悩と業。 二、報いの器。すなわち似せた色と心を体とする。 三、涅槃の原因。すなわち八つの正しい修行を体とする。 四、涅槃の果報。すなわち三つの身と四種の涅槃を体とする。
五種不淨品。一者邪師。即取外道抳五陰及方便五陰為體。二者邪弟子。同前。三邪戒。用善不善三業為性。四邪定。八禪定為體。五邪慧。用善不善邪思慧意業為體。此法無文。別出名相傳出。
五つの不浄の品目: 第一に、邪な師——外道の五陰および方便五陰を体とする者。 第二に、邪な弟子——同上の者。 第三に、邪な戒律——善悪の三業をその性質とする。 第四に、邪な禅定——八つの禅定をその体とする。 第五に、邪な智慧——善悪の誤った思惟と意業をその性質とする。 これらの教えは経典には明記されていないが、別に名相を挙げて伝えられたものである。
二取名體 一者色根習氣。用根種子為體。二者色相習氣。用色塵種子為體。解者用色心二種習氣為二種取體。深密經云。一者謂依色心根取。二者依於不分別言語戲論薰習而取。
二つの執取の本体:第一は、物質的な感官(色根)の潜在的傾向(習気)であり、感官の種子を本体とする。第二は、物質的な対象(色相)の潜在的傾向であり、物質の対象の種子を本体とする。解釈者は、物質と心の二つの潜在的傾向を、二つの執取の本体とする。『深密経』にはこうある。「第一は、物質と心の感官に基づく執取。第二は、分別されない言葉による遊戯的な論議の熏習に基づく執取。
二種意名體 一能與彼生依止。即取次第滅及本識意為體。亦名不染污意。二名染污意。以恒與四惑相應相故。即從過立。即第七識以為體。
二種類の「意」という名称とその体について説明します。第一に、「意」は、それによって生じるものの拠り所(依止)となるものです。これは、刹那ごとに滅する心(次第滅)と、根本となる心(本識)という「意」をその体とします。これはまた、「汚れなき意(不染污意)」とも呼ばれます。第二に、「染まった意(染污意)」と呼ばれるものがあります。これは常に四つの煩悩(四惑)と対応しているからです。この名称は、その過ちに基づいて付けられています。そして、これが第七識(末那識)をその体とするものです。
四惑名體 一身見。積聚名身。對境明白名見。從假及義為名。二我慢。我是境。慢是心。三我愛。此二從心境為名。四無明。對治明故名無明。從過為名 二體。同用第七心為體。隨義分四使亦可四數也。
**四つの惑い(四惑)の名前とその意味について**
1. **身見(しんけん)** 「身」とは、五蘊が集まってできた自分自身のことを指します。「見」とは、その対象をはっきりと理解する心の働きです。この名前は、仮の存在(自分というもの)と、そこから生じる誤った見解に由来します。
2. **我慢(がまん)** 「我」は自分という対象、「慢」は心の状態、つまり高ぶった心を表します。
3. **我愛(があい)** この二つ(我慢と我愛)は、対象(自分)と心の状態から名前がつけられています。
4. **無明(むみょう)** 真理を明らかにする智慧(明)に対抗する
三界義二名體 名者。一欲界。欲者即是淫欲及段食欲。界是生性之義。三色界。色即勝色報等欲即色欲也。界與前同。此二從因義為名。三無色界。斷除色欲由無色欲而生名無色界。從所無立名也 二體者。若欲色二界即用色業心業果報五陰及當界欲愛色惑為體。無色界用心業煩惱及四心報為體。
三界の意味とその構成要素について説明します。
まず名前についてです。第一に欲界。欲とは、淫欲と段食への欲求のことです。界とは、それが生じる性質という意味です。第二に色界。色とは優れた色の報いなどを指し、欲とは色に対する欲求のことです。界の意味は前と同じです。この二つは、因(原因)の側面から名付けられています。第三に無色界。これは色への欲求を断ち切ったことで、その欲求がないことから生まれる世界であり、無色界と名付けられています。存在しないものに基づいて名付けられたものです。
次に、その実体(体)についてです。欲界と色界については、身体と心の活動の業(行為)による報いとしての五陰(五蘊)と、それぞれの世界における欲への執着と色への煩悩がその実体となります。無色界については、心の活動である業と煩悩、そして四つの心の報いがその実体となります。
心意識義二名體者 一心。種種義。從義為名。二者意。能生他故名意。三識。取塵了別名識。此二功能力用為名 二體者。若通而言之。八識皆有此義。若別而言之。七識名以心執我茲長生死故。第八識意能與他生依止故。第六識心正能取塵了別故。
心・意・識について、その名称と実体を説明します。
まず名称についてです。第一に「心」は、さまざまなはたらきを持つことから、そのはたらきをもとに名づけられました。第二に「意」は、他のものを生み出す力があることから名づけられました。第三に「識」は、対象(塵)を捉え、それをはっきりと見分けることから名づけられました。これら三つの名称は、それぞれのはたらきや力能に基づいています。
次に実体についてです。広く全体で見れば、八つの識すべてがこれらの性質を持っています。しかし、個別に見ると、第七識(末那識)は「心」と呼ばれ、自己に執着することで生死を長く続けさせるからです。第八識(阿頼耶識)は「意」と呼ばれ、他のものに存在のよりどころを与えるからです。第六識(意識)は「心」
茲長十義名體 名者。一增上緣。與他作不障礙名增上緣。二緣緣。與緣作緣名緣緣。三解相。相識體是解性。四共作。能所共成因果也。五染污。用持他染法名染污。六業熏習。持業故名業熏習。七因。與他為依持因。八果。與他為所生果也。九道。就相為五道。十地。就相為三界九地 體者。阿梨識功能為體。以取能茲長故報。
茲に十の義、その名称と体について述べる。
名称とは、第一に「増上縁」。他のものに対して障りとならないので、増上縁という。第二に「縁縁」。縁に対して縁となるので、縁縁という。第三に「解相」。相と識の体は解の性質である。第四に「共作」。能作と所作が共に因果を成り立たせる。第五に「染汚」。他を染める法を持ち運ぶので、染汚という。第六に「業熏習」。業を保持するので、業熏習という。第七に「因」。他のものに対して依りどころとなる因である。第八に「果」。他のものに対して生じさせる果である。第九に「道」。その相によって五道となる。第十に「地」。その相によって三界九地となる。
体とは、阿梨耶識の機能を体とする。なぜなら、この滋養生長を取り持つことによって、報いとなるからである。
滋長三義名體 一由此十法令心相續。即本功能自相續滋長緣也。三義記是能重十法即因。二此心能攝持一切法種子。即由本識成此種子即滋長。本記名緣因。三所滋長。即三界果報也 二體者有二。若前一用本識為體。後二是能熏法。於中初是色心習氣。第二是三界果。即與前三界體同。若依本記。中間一種本識為體。餘二能熏法為體。
滋長(じちょう)には三つの意味とその本体があります。
第一に、この十の法(事柄)によって心の連続(心相続)が作られます。つまり、もともとの働きが自分自身の連続において滋長する縁(きっかけ)となるということです。「三義記」では、この十の法が原因(因)であると説かれています。
第二に、この心はすべての法の種子を保持し、包み込む力があります。つまり、根本となる心(本識)によってこれらの種子が成立し、それが滋長するのです。これは「本記」では「縁因」と呼ばれています。
第三に、滋長されるもの、すなわち三界(欲界・色界・無色界)の結果(果報)です。
次に、その本体についてですが、二つの説があります。もし最初の意味を採用するなら、本体は根本となる心(本識)です。後の二つの意味は、能熏法(あらゆる現象を生み出すもと)が本体となります。このうち初めは物質と心の習気(習慣的なエネルギー)であり、第二は三界の結果(果報)であり、これは先に述べた三界の本体と同じものです。
「本記」の説によれば、中間の意味(第二
增壹中四種識名體 名者。喜樂.愛.習.著阿梨。此等喜樂愛並是能熏。世尊就不了教相以能熏從所熏說也。體與前不異。若取所從。喜樂等體者即喜樂愛著。此三貪習氣為體。若習阿梨耶已通貪嗔癡等習氣為體也。
**増一阿含における四種の識の名称とその本体**
名称とは、「喜楽」「愛」「習」「著」「阿梨」です。 これらの「喜楽」「愛」などは、いずれも「能熏(心に印象を刻む側)」です。 世尊(釈尊)は、まだ完全ではない教えの段階では、わかりやすく説明するために、能熏であるものを、あたかも所熏(印象を刻まれる側)であるかのように表現されました。 本体は、先に述べたものと変わりません。 もし、その本体がどこから来るかという点に着目するなら、 「喜楽」などの本体とは、すなわち「喜楽」「愛」「著」の三つの煩悩の習気(潜在的な力)です。 一方、「習阿梨耶(アーラヤ識に習気が刻まれる
二愛名體 一有愛。緣有生愛名有愛。二無有愛。緣報斷生愛名無有愛。並從心境為名二體者。用心習氣以為體。即人我執也。通見修。
「二つの愛とその本質 一つ目は「有愛(うあい)」——存在への執着から生まれる愛。 二つ目は「無有愛(むうあい)」——報いの断絶への執着から生まれる愛。 これらは、心が対象とする境によって名づけられている。
その本質とは、心にはたらく習気(しゅうけ)であり、それはつまり「人我執(にんがしゅう)」である。 この執着は、見惑・修惑の両方にはたらくものである。」
四倒二名體 一不淨淨倒。三十六物穢惡名不淨。即過淨者望計以為妙。非淨計淨名倒。二苦計為樂。三界皆為三苦所切名苦。以愛少苦記之為樂。三無常常倒。生滅無常計不生滅名常。四無我我倒。不自在故名無我。妄計自在有其神主名我。倒者皆解與境違名倒。並從過義立名 二體。用二見半為體。即身見取則樂得。斷見即邊見之半。即無常常息也。
四つの倒錯(四倒)には、二つの観点があります。一つはその「名称」、もう一つはその「本体」です。
まず名称について、第一に、「不浄を浄とする倒錯」があります。この身体は三十六の不浄物で構成され、汚れや穢れに満ちているため「不浄」と呼ばれます。ところが、世の中の人はこれを清らかで素晴らしいものだと誤って考え、「不浄であるものを浄である」と見なすのが倒錯です。
第二に、「苦を楽とする倒錯」です。三つの世界(三界)はすべて、三種類の苦しみ(三苦)に苛まれているため「苦」なのです。それにもかかわらず、わずかな楽しみに執着して、それを「楽」だと見なすのが倒錯です。
第三に、「無常を常とする倒錯」です。すべてのものは生まれては滅びる無常の性質を持っているのに、それを不生不滅の「常」であると誤って考えるのが倒錯です。
第四に、「無我を我とする倒錯」です。本来、自在な主体がないため「無我」と呼ばれるのに、誤って自在な主体や永遠の魂(神我)があると主張するのが倒錯です。
「倒錯」とは、正しい理解(境)に反する誤
四愛名體 一飲食。二衣服。三住處。四有無有愛。並從心境為名 體者。同以愛心習氣為體 四種希有無正文出。
四つの愛着の名称とその本質: 第一に飲食、第二に衣服、第三に住居、第四に「有と無」への愛着。 これらはすべて、心と境遇に基づいて名づけられている。 その本質とは、共通して愛着の心の習慣的な力によるものである。 この四つの愛着については、経典の本文中に直接の記述はない。
別義有三。一別意。如來本說阿梨耶意為顯功德不欲說此義。二別名。但說名不說識義。三別義。大乘微細境別彼苦等智也。
別の意味には三つあります。第一に、別の意図。如来がもともとアーラヤ(阿梨耶)という意味を説いたのは、功徳を明らかにするためであり、その意味を説こうとしたわけではありません。第二に、別の名称。名称だけを説いて、識の意味は説いていません。第三に、別の意義。大乗の微細な境地は、あの苦などの智慧とは別なものです。
三相名體 一自相。自是別他之名。即相形受名。二因相。因是功能。與他作因故。即功能立號。三果相。果酬他能熏法起名之為果。即從果義立目。相者即事相。事相為相。即從義為名 體者。若通同以本識心功能為體。別而語。因取持他生他等義為體。果取從他生邊為果體自相取前因果即為自相體也。
【三相の意味と本体】 一、自相(じそう)-これは「他」と区別するための名称です。すなわち、形あるものとして他と比較されて名づけられます。
二、因相(いんそう)-「因」には働き(機能)があります。他のものに対して原因となるからです。すなわち、その働きによって名称が与えられます。
三、果相(かそう)-「果」は他の働きに応じて生じるものです。他からの作用(熏習)を受けて法(現象)が起こることを「果」と呼びます。すなわち、結果としての意味から名称が定められます。
「相」とは、具体的な事柄や形(事相)を指します。形あるものが「相」であり、その意味から名づけられています。
「体」とは、共通して言えば、根本的な心(本識)の働きを本体とします。個別に言えば、「因」では他を支え、他を生み出す働きを本体とし、「果」では他から生じる側面を果の本体とします。「自相」は、原因(因)と結果(
三時義二名體 名者。一方便時。非正為作業為是正前緣分名方便時。二正作時。正作業根本名正。為正作時。三作後慶快名作後時。並相形受號 二體者。若三時同於一事者。若是善即善。惡無記即用惡無記。三業為體。亦即身口心也。若前後不共成一者。此即不定隨前事說。
三つの時の意味と、その名称・本体について説明します。
まず名称ですが、 第一に「方便時」といいます。これは、本来の目的として直接作業を行うのではなく、その前段階としての準備や縁を作る時を指します。 第二に「正作時」といいます。これは、本来の作業の根本を正しく行う時です。 第三に「作後慶快時」といいます。これは、作業を終えた後の喜びや満足感を感じる時です。 これらの名称は、互いに関連し合って付けられています。
次に本体についてです。 もし三つの時がすべて一つの行為に関する場合、その行為が善であれば善、悪・無記(善でも悪でもないもの)であれば、それに従って悪・無記が本体となります。その本体とは、具体的には身業(身体の動作)、口業(言葉)、意業(心)の三つです。 もし三つの時がそれぞれ別々の行為で、一つの結果にならない場合は、その時々の行為に従って説明がなされるため、一定しません。
自作等三業義名體 一名者。一自作。自相形之名作。運動之義。即從相形及義為名。二教他作。教即是緣。他即相形是義。從相形及義為名。三隨喜作。識逐他善惡等事。名之為隨。情生適悅為喜。一向從心為名 二體者。若自作教他通而言之。用身口意三業為性。若隨喜作唯是意業為性。亦得通身口二業。
自作など三つの業の意味と名称、その体について説明します。
**一名について**
一に「自作」とは、自ら形を作り出すという意味で、動作という義を含みます。つまり、形と義に基づいて名づけられています。
二に「教他作」とは、教えることが縁であり、他とは形を指し、それが義となります。これも形と義に基づいて名づけられています。
三に「随喜作」とは、心が他人の善悪などの行いを追うことを「随」といい、心に喜びが生じることを「喜」といいます。これは一貫して心に基づいて名づけられています。
**二体について**
自作と教他作については、広く言えば、身・口・意の三業をその性質とします。一方、随喜作については、意業のみをその性質としますが、身業や口業も関係することがあります。
三緣生名體 名者。一自性緣生。自之言體。性之因。亦可是不改為義。緣是因義。生是果。從體因及果義為名。二愛非愛。善報順情名愛。惡報違情名非愛。從義為名。三受用。即識能納境名取塵名用。從心功能為名 體者。自性以阿梨為體。愛非愛通方便果報五陰為體。受用六識為體。
三つの縁生について、その名称と本質を説明します。
まず名称について。 第一に「自性縁生」です。「自」は体そのものを、「性」は原因を意味し、また不変であるという意味もあります。「縁」は原因、「生」は結果を指します。つまり、体と原因と結果の意味から名づけられています。
第二に「愛・非愛」です。善い報いは心にかなうので「愛」といい、悪い報いは心に反するので「非愛」といいます。これはその意味から名づけられています。
第三に「受用」です。これは識が対象を受け取ることを「取(とる)」、「塵(じん)」と言い、それを用いることを「用」と言います。心の働きから名づけられています。
次に本質について。 「自性」はアーラヤ識を本質とします。 「愛・非愛」は、方便と果報の五蘊を本質とします。 「受用」は六識を本質とします。
二種生身名體 一善道生身。惡道生身。善惡是因。道是通生之義。報果名生身。以依止為義從因果及義為名。體與愛非愛同。
二種の生身を体と名づく。一には善道の生身、二には悪道の生身。善悪は因であり、道は通じて生ずる義である。報果を生身と名づけ、依止を義と為す。因果および義に従って名を為す。体は愛・非愛と同じである。
三業名體 名者。一罪業。三途苦果名之為罪。從過為名。二福業。業體善巧能生於樂果名福。從義用為名。三不動業。所得果於地於趣不可動。如欲界惡業得於人天業於惡道受故不名定故。從用為名 二體者。罪業用身口意為體。福用欲界善身口意三業為體。不動業用與同時定意思及身口七支定共無作業為體也。
三業の名称とその本体について説明します。
【名称】 一、罪業:三途(地獄・餓鬼・畜生)の苦しい果報をもたらすものを罪といいます。これは、過ちから名づけられたものです。
二、福業:その行い自体が巧みであり、楽しい果報を生み出すものを福といいます。これは、その義理と働きから名づけられたものです。
三、不動業:得られる果報が、その場所(地)や生存状態(趣)において動かすことができないものです。例えば、欲界の悪業は、人天の果報を得ることもあれば、悪道で受けることもあるため、「定まったもの」とは言えません。不動業は、その働きから名づけられています。
【本体】 罪業は、身体と口と心の三つの働き(身口意)をその本体とします。 福業は、欲界における善なる身体・口・心の三つの働き(身口意)をその本体とします。 不動業は、その行為と同時に生じる定心(禅定の心)の意思と、身体・口の七つの行為(身三口四)に伴って生じる
十二因緣義二名體 一無明。從無他立名。二行。起作後果名行。三識。了別名識。此二從用立名。四名色。名通一切心法。色即似色等。從義及體立名。五六入。六是數。入是義。以通心入出故。從數義受名。六觸。即心觸塵也。七受。納取前境名受。亦是用也。八愛。染心著境名愛。即義名。此三從義用為名。九取。由前愛心更增上發業名取。從義用為名。十有。即見在業能得當果名有。從果為名。十一生。即新諸根起名之生即果。從果為名。十二老死。諸根衰變名老。神識遷謝名死。從過立名二體者。總用煩惱業報為性。於中差別者。前緣起中。無明是煩惱。行是業。識等五是報。後緣起中。愛取是煩惱。有是業。生老死是報。若總而言之。無明愛取是煩惱。行有是業。餘七是報。時分別皆通五陰。以中陰入識支中也。
十二因緣の意味とその本質
1. **無明**:他に依らず、自らによって名称が立てられる。 2. **行**:後の結果を生み起こす働きであることから「行」と名づける。 3. **識**:対象を識別することから「識」と名づける。これら二つ(行・識)は、その働きに基づいて名称が立てられる。 4. **名色**:「名」は心のあらゆる働きを包括する。「色」は物質的な形のようなものを指す。これらは、その本質(義)と実体(体)に基づいて名称が立てられる。 5. **六入**:「六」は数であり、「入」は本質(義)である。心が出入りする通路であることから、数と本質に基づいて名称が与えられる。 6. **触**:心が対象に触れることである。 7. **受**:目の前の対象を受け入れ取ることから「受」と名づける。これも働きに基づく。 8. **愛**:心が汚れ、対象に執着することから「愛」と名づける。これは本質(義)に基づく名称である。これら三つ(触・受・愛)は、その本質(義)と働きに基づいて名称が立てられる。 9. **取**:前の「愛」の心がさらに強まって、行為(業)を起こすことから「取」と名づける。本質(義)と働きに基づいて名称が立てられる。 10. **有**:現在の行為(業)が未来の結果を得る原因となることから「有」と名づける。結果に基づいて名称が立てられる。 11. **生**:新たな感覚器官(諸根)が生じることを「生」と名づける。これは結果であり、結果に基づいて名称が立てられる。 12. **老死**:感覚器官が衰え変化することを「老」と呼び、精神(神識)が移り変わり滅することを「死」と呼ぶ。経過した状態に基づいて名称が立てられる。
「二体(二つの本質)」について:概して、煩悩・業・報(結果)をその本性とする。その中での違いは、前半の縁起(無明・行・識・名色・六入・触・受)においては、無明は煩悩であり、行は業であり、識から受までの五つは報(結果)である。後半の縁起(愛・取・有・生・老死)においては、愛と取は煩悩であり、有は業であり、生と老死は報
三道義 即煩惱道。沾污淨心名為煩惱。以能生業故名道。從過及用為名。二業道。造作名業。能生報故名道。三報道。酬遂前因名報。能生煩惱及業名道。從義及用為名 二體者。煩惱用心習氣為體。業用身口意三業為性。報用五陰為體。
【三つの道の意味】 第一に「煩惱道(ぼんのうどう)」とは、清らかな心を汚すものを煩惱といい、それが次の業を生み出す原因となるため「道」と名づけられる。これは過去の過失と作用に基づく命名である。 第二に「業道(ごうどう)」とは、作り行うことを業といい、それが未来の報いを生む原因となるため「道」と名づけられる。これは行為と作用に基づく命名である。 第三に「報道(ほうどう)」とは、過去の原因に応じて結果を与えることを報といい、それが再び煩惱や業を生み出す原因となるため「道」と名づけられる。これは性質と作用に基づく命名である。
【三つの本質】 煩惱の本質は心の習気(しゅうけ=習慣的な傾向)である。業の本質は身
迷等三惑義名者 一無知。即凡夫由無明故名無知。即無他受名。二疑知。即疑當體為名。三顛倒知。違返正義名顛倒。心決執名知。從義用為名 體者。無知即四鈍使。疑即疑使。顛倒即五邪見。總十使。亦可是凡夫菩薩二乘等三人。
「迷いなどの三つの惑い」という意味の名称について述べます。 第一は「無知」です。これは凡夫が無明によって迷っているため「無知」と呼びます。他から教えを受け入れないことから名づけられました。 第二は「疑知」です。これは迷いの本体である「疑い」に基づいて名づけられました。 第三は「顛倒知」です。正しい道理に反することを「顚倒」と呼び、心が固く執着することを「知」と呼びます。その性質と働きに従って名づけられました。
これらの本体を説明すると、 ・「無知」は四つの鈍い煩悩(貪・瞋・癡・慢)に当たります。 ・「疑」は疑いの煩悩そのものです。 ・「顚倒」は五つの悪い
二種見。一不平等見。四見是邊中常見我見戒取見見取。常見為本二不平等不會因果正道理故。從過義立名。亦可外道因即定因不可為果。果即定果不可為因。故非平等。二無因。即是邪見也。執無之心壞正因理名無因。即從所無立名。
二種類の「見」があります。第一は不平等見です。四つの見、すなわち辺見、常見、我見、戒取見、見取見のうち、常見を根本として、因果の正しい道理に合わないことから不平等となります。「過ち」という観点から名づけられています。あるいは、外道においては「因」は定まった因であって果となることはなく、「果」は定まった果であって因となることはないと考えるため、平等ではありません。
第二は無因見です。これはすなわち邪見です。「無」と執着する心が正しい因の道理を損なうことから「無因」と名づけられます。すなわち「無いもの」という観点から名が立てられています。
僧佉二十五諦約五義分別。一由別有總。別是變異。總是自性。二由末有本。變異是末。自性是本。末中有貪瞋癡即知自性亦有。三由事有能。事是事。能用。能作萬物。由能有體故能如此。體即自性。四因果差別。因是自性。果即變果也。五由三有無分別。由變異入自性故無分別也二十五諦。自性是本。從自性生智。從智生我慢。我慢生五唯量。五唯量成五大。五大成十一根。五唯量即五塵。五大即四大加空。十一根等五根上加手足口大便男女隨一并心平根。加我知即為二十五也。
「サーンキヤ学派の二十五諦(にじゅうごたい)」について、五つの観点から説明します。
第一に、全体から個別へと見ること。個別のものは変化したものであり、全体は「自性(じしょう)」という根本原理です。
第二に、枝葉から根本へと考えること。変化したものは枝葉であり、自性が根本です。枝葉に貪り・怒り・無知があるなら、根本の自性にもそれらがあると知るべきです。
第三に、働きからその能力へと見ること。「働き」とは現象であり、「能力」とは万物を生み出す力です。この能力には支える本体があり、それが自性です。
第四に、原因と結果の違い。原因は自性であり、結果は変化したもの(変果)です。
第五に、三つのものがあるにもかかわらず、区別がないこと。変化したものが自性に帰すると、もはや区別はなくなります。
二十五諦とは:自性が根本です。自性から「智(ち)」が生まれ、智から「我慢(がまん=自我意識)」が生じます。我慢から五つの微細な要素(五唯量=色・声・香・味・触)が生じ、それらが五つの大きな要素(五大=地・水・火・風・空)となります。五大から十一根(五つの感覚器官+五つの行動器官+心)が生まれます。これに「我知(がち=自我認識)」を加えて二十五とします。
六執名體 名。一計自性。自之言體。性言因。即體用為名。二宿作。事謝於往名之為宿。宿能得報名作。從義用為名。三自在變化。自在者報法。隨心名自在。改易色形名變。無而忽有名化。即從勝用為名。四八自在我。作用無礙名自在。自在之者因我。即體義為名。五無因。邪心緣於壞事名之為無。因者即所無之因也。即從心行及無為名。六執我作者受。我者是心。計是神主之體。作者即我能作因。受者受即受者即我能也。從體及用為名二體者。自性以常見即邊見少分我見戒取為性。宿作少分邪見。亦可見戒取見為性。自在有常見有戒取亦有見取。八自在我以我見及戒取見為體。因是邪見為體。我作者受以邪見我見邊見戒取見四見為體。總而言五見為體。
六つの執着の名称とその本質について。
**名称** 一、自性(じしょう)を計る。「自」とは本体を意味し、「性」とは原因を指す。すなわち、本体とその働きを名称の由来とする。 二、宿作(しゅくさ)。出来事が過去に終わっていることを「宿」と呼び、過去の行いが報いを生むことを「作」という。これは、意味や働きに基づいた名称である。 三、自在変化(じざいへんげ)。「自在」とは報いとしての法(存在)である。心のままであることを「自在」といい、姿や形を変えることを「変」、無かったものが突然現れることを「化」と呼ぶ。これは、優れた働きに基づいた名称である。 四、八自在我(はちじざいが)。働きに妨げがないことを「自在」といい、その自在をもつ主体が「我」である。すなわち、本体としての意味を名称の由来とする。 五、無因(むいん)。誤った心が破壊された事柄に執着することを「無」と呼び、「因」とは、その存在しない原因のことである。これは、心の働きや否定されるものに基づいた名称である。 六、執我作者受(しゅうがさくしゃじゅ)。「我」は心であり、これを神や主の本体として計る。「作者」とは、私が行為の原因となること、「受者」とは、私が感受する主体であること。これらは、本体とその働きに基づいた名称である。
**本体** 自性は、常見(じょうけん)・辺見(へんけん)の一部・我見(がけん)・戒取見(かいしゅけん)をその性質とする。 宿作は、邪見(じゃけん)の一部、あるいは見取見(けんしゅけん)・戒取見を性質とする。 自在は、常見・戒取見・見取見を含む。 八自在我は、我見と戒取見を本体とする。 無因は、邪見を本体とする。 我作者受は、邪見・我見・辺見・戒取見の四つの見解を本体とする。 総じて言えば、五つの見解(五見)がその本体である。
二十五諦。此是僧佉取加毘羅仙人義。從定起作此執。此是色界地中煩惱之心。八萬劫外不覺名之為冥。即迷無明喚之為冥。從冥生大即以業為大。受生之無名大。百論名覺。覺生慢慢是中陰。陰兩間生識。百論名我心。從我生二即色心。色有二十一。五塵五大五根五業加心平等為二十一。心法有三。染麁黑。通前二十四。覺與我心為二十六。男女二根一人不並故言二十五也。
二十五諦とは、この派が迦毘羅仙人の説を取ったものである。禅定(瞑想)から起きて、このような考えを立てた。これは色界(物質的な世界)の中にある、煩悩に基づく心の状態を指す。八万劫(非常に長い時間)の外にあるものに気づかないことを「冥(くらやみ)」と呼ぶ。つまり、無明(むみょう、無知)に迷っている状態を「冥」と名付けたのである。この「冥」から「大」が生まれる。ここで言う「大」は「業(ごう、行為)」のことであり、生を受けようとする無明を「大」と呼ぶ。『百論(ひゃくろん)』ではこれを「覚(かく)」と言う。覚から「慢(まん、慢心)」が生まれ、慢は「中陰(ちゅういん、死後の間の状態)」である。「陰」と「陰」の間に「識(しき、認識)」が生まれる。『百論』ではこれを「我心(がしん)」と言う。この「我」から二つが生まれる。すなわち「色(しき、物質)」と「心(しん、心)」である。色には二十一の要素がある。五塵(ごじん、色・声・香・味・触)、五大(ごだい、地・水・火・風・空
八自在名體 一於細最細。二於大最大。三遍至。四隨意。五無繫屬。六變化。七常無變異。八清淨無憂 體同以我為體。就能分八也。
八つの自在とその本体 一、微細なものよりもさらに微細であること 二、大きなものよりもさらに大きいこと 三、至る所に遍在すること 四、意のままに働くこと 五、何にも束縛されないこと 六、自在に変化すること 七、常に変わることがないこと 八、清らかで憂いがないこと
これらの本体はすべて「我」を本体としており、そのはたらきによって八つに分けられるのです。
二種子名體 名者。一外種子。體非情道名外。從義為名。二內種子。體是情道之心名內。從義為名。通名種子。從義用為名 體者。內用色心習氣為體。亦可業煩惱報為性。外種用色等四塵為體。
二つの種子の名前と本質について説明します。
「名前」とは、第一に外の種子です。その本質は情道(生きとし生けるもの)ではないため「外」と名付け、その意味に基づいて名づけられます。第二に内の種子です。その本質は情道の心であるため「内」と名付け、その意味に基づいて名づけられます。両方とも「種子」と総称されるのは、その意味と働きに基づくからです。
「本質」とは、内の種子の場合は、色(物質)と心の習気(潜在的な力)を本質とします。また、業(行為)、煩悩(苦しみの原因)、報(結果)を本性とすることもできます。外の種子の場合は、色などの四つの塵(感覚対象)を本
生引二因義名體 名者。一生因。親能辨果名生。所生是果名生。能生名因。從功能及果為名。二引因。餘世力持名引。並從功能為名二體者。若內生引因業種子為性 但取令報未有令有是生。盡後不壞由業引也 故論云。種子有二能。一能生。二能引。若外種子用色形四塵為體。
生と引の二つの因の意味とその体について説明します。
まず「名」について。 第一に「生因」とは、直接的にはたらきかけて果を生み出すことをいいます。生み出されるものが「果」であり、生み出す力を「因」と呼びます。この名称は、そのはたらきと結果に基づいてつけられています。
第二に「引因」とは、残された勢力が持続して引き続きはたらくことをいいます。これもそのはたらきに基づいて名づけられています。
次に「体」について。 内なる生因と引因は、業の種子をその本性とします。つまり、まだ報いが現れていないものを現れさせるはたらきが「生」であり、その後の消滅を防ぎ、業の力によって持続させるはたらきが「引」です。
このため、論には次のように説かれています。「種子には二つのはたらきがある。一つは生み出すはたらき、二つは引き続くはたらきである。」
外なる種子の場合は、色や
三差別。一依止。眼等諸根各別各別不同。發識名依止。從義及功能為名。二各別緣塵。諸識取塵各別異生識名塵。從義為名。三別覺觀別想。並是作意不同也。覺觀前方便作意。別想是對塵取相差別作意也。並從義用為名。
3つの違いがある。 1. 依止(よりどころ)とは 眼などの諸根(感覚器官)はそれぞれ異なっている。これらに基づいて認識(識)が生じることから、「依止」と名づける。これはその性質とはたらきに基づく名称である。 2. 各別に塵(対象)をとらえることとは 諸々の認識が、それぞれ別々に対象(塵)をとらえて認識を生じることから「塵」と名づける。これはその性質に基づく名称である。 3. 別々の覚り・観察・想いとは これらはすべて心の働き(作意)の違いである。覚り・観察は、心を集中させる前の段階における心の働きである。別々の想いは、対象(塵)の特徴をとらえる際の
四緣名義名體 一者因緣。親能得果名因。用因為緣故名因緣。從功用及義為名。二增上緣。用增上法為緣名增上緣。三次第緣。前心與後次第法為因名次第緣。從果為名。四緣緣。所生是心法。與緣為緣名緣緣。故受二緣之名。從義為名 體者。因緣用本識中種子上心同性法親生法為因緣也。亦可但取種子也。次第緣通色心二法為體。增上緣通一切法也。唯除自己。緣緣亦爾也。
四つの縁の名前と意味、その実体について 一、因縁(いんねん)。直接的に結果をもたらすものを因といい、因を縁として用いることから因縁と名づける。これは、その働きと意味に基づいて名づけられたものである。 二、増上縁(ぞうじょうえん)。増上の働きを持つ法を縁として用いることから、増上縁と名づける。 三、等無間縁(とうむけんえん)。前の心が、後の心に等しく間断なく次第する法の原因となることから、等無間縁と名づける。これは結果に基づいて名づけられたものである。 四、所縁縁(しょえんえん)。生じるものは心の法であり、それが縁となるものに対して縁となることから、所縁縁と名づける。したがって、二つの縁という名を受ける。これは意味に基づいて名づけられたものである。 実体について言えば、因縁は、根本識(阿頼耶識)の種子のうち、心と同一の性質の法が、直接的に法を生じさせることを因縁とする。また、単に種子そのものを指すこともできる。等無間縁は、心と色(物質)の二つの法をその実体とする。増上縁は、あら
二增上名體 名者。一不相離增上。用同時生法故。從義為名。二但有。即是相待之義為名 二體者。色心等一切法為體。如似無明生行有二力苦等是不相離修道但有也。如無明相望既爾。餘法亦爾。
二つの「増上」の名称とその体(本質)について説明します。
まず名称についてです。 第一は「不相離増上」(離れない増上)であり、これは作用が同時に生じる法(現象)であることから、その意味合いをもって名づけられます。 第二は「但有」(ただ存在するのみ)であり、これは相互に関係し合うという意味合いをもって名づけられます。
次に体(本質)についてです。 色(物質)や心(精神)など、あらゆる法(現象)がその体となります。 例えば、無明(無知)が行(行為)を生み出す場合、そこには二つの力があります。苦しみなどの結果は「不相離」の修道であり、無明がただ行と対照的に存在することは「但有」にあたります。 このように、無明の例がそうである
三種道理 一淨留。二不淨品。三順道理。從戒業而生。體是有流名不淨。從過為名。體是無流及有流八定名淨。從離過為名。若立阿梨耶即順滅定等道理。從義為名 體者。若取約三以立義理者。即因聞思智為體。若所約法者。不淨品用煩惱業報為體。淨品以世出世聞思修三慧為體。順道理以有為無為法為體。以若取滅定以無為為體。若因果以有為為體。
三種の道理がある。第一は「清浄」、第二は「不浄品」、第三は「道理に従うこと」である。 戒律と善業から生じるものを、その本質に「流れ(煩悩の影響)」があるため「不浄」と名づける。 過ちを離れることから名づけられたものを、その本質に「無流(煩悩のない状態)」と「有流(煩悩のある状態)」の八つの定があるため「清浄」と名づける。 もし阿梨耶識を立てるならば、それは滅尽定などの道理に従うものである。その意味から名づけられたものである。 「体」について述べる。もし三つの区分に基づいて意味を立てるならば、それは聞慧・思慧・修慧を体とする。もし対象となる法について言えば、不浄品は煩悩と業と報いを体とし、清浄品は世間と出世間の聞慧・思慧・修慧の三慧を体とする。順道理は有為法と無為法を体とする。もし滅尽定を取れば、無為法を体とし、もし因果を取れば、有為法を体とする。
大小惑義名體 一大惑。二小惑。大小是相形惑是過。從義及過為名 二體者。大惑以十使為體。以具五義故。小惑以纏垢為體。不具五義故。
大と小の惑いの意味とその本質 第一に「大惑」、第二に「小惑」。「大」と「小」は互いを対比した呼び方であり、「惑」とは誤りや過ちを意味します。この名称は、その意味と過ちに基づいてつけられています。
次に「本質」について。大惑の本質は「十使」(十の煩悩)であり、五つの特徴をすべて備えているからです。小惑の本質は「纏い」と「汚れ」であり、五つの特徴を備えていないからです。
本識三義異六七識 一執持無廢。以取持報邊無一念間故而不持。二通攝持諸根。明此識不扁持一根。三體是果報無記。能與果為依持體故。故並從義功能為名 體是本識無別。
本識(第八識)には三つの特徴があり、これは第六識・第七識とは異なります。
第一に、絶え間なく執持し、放棄しないこと。これは、果報を保持するという観点から、一瞬の間もなく執持し続けるという意味です。
第二に、すべての感官を統一的に保持すること。この識は、特定の一つの感官だけを偏って保持するのではありません。
第三に、その体は果報としての無記(善悪どちらでもない性質)であり、果報の依りどころとなる体として機能します。
以上の三つは、その働きや機能に基づいて名称がつけられたものです。本体としては本識と別のものではありません。
四食名體 名者。一段食。從相為名。二觸食。觸對諸塵故。三思食。以有所思求故。此二從功用為名。四識食。以是心識故名識。從體用為名。通名食者。從功能為名。以能成生故二體者。段以似色識為體。觸以六識為體。思以業思求食思以意識為體。食以阿梨耶為體。
四種の食の名称と本体について。
名称とは、第一に「段食」。これは食物の形や状態に基づいて名づけられた。第二に「触食」。これは感覚が様々な対象に触れることによる。第三に「思食」。これは何かを思い求め願うことによる。この二つはその働きによって名づけられた。第四に「識食」。これは心識であることから識食と名づけられ、その本体と働きによって名づけられた。これらの総称として「食」と呼ばれるのは、その機能による。すなわち、生命を維持し成長させる働きがあるからである。
本体について述べれば、段食は物質的なもの(似色)と識を本体とする。触食は六つの認識(六識)を本体とする。思食は行為を思うはたらきと食物を求める思いは、意識を本体とする。識食はアーラヤ識(根本識)を本体とする。
受生四義名體 一以染污為根。用中陰意識為體。二散動亦意識為體。前取三性別。今約定散別。三有餘用罪福不動三業為性。四果報為體。是阿梨耶識為報作體故。
受生には四つの意味とその本質があります。 第一に、煩悩に染まった意識が根拠となり、中有の意識がその本質です。 第二に、散乱した心(意識)もまた本質であり、前の教えでは三性(善・悪・無記)によって区別しましたが、ここでは心が定まっているか散っているかによって区別します。 第三に、残された業として、罪・福・動かない三つの業(身体・言葉・心の行い)がその性質です。 第四に、果報そのものが本質であり、これが阿頼耶識(あらやしき)が報いの基体となる理由です。
色界欲界法有四種不同名體 一麁細。欲界心無定故麁。色界有定故細。二動靜異。三自性修異。四繫縛出離異。並從功能及相形為名 二體者。欲界以聞思慧為性。色界以聞思修為體。
色界と欲界の法には、次の四つの違いがあり、これがその名前と本質を表しています。
第一に、粗さと細やかさの違いです。欲界の心は定まっていないため粗く、色界には定まった状態があるため細やかです。 第二に、動きと静けさの違いです。 第三に、自らの性質による修行の違いです。 第四に、しばりつけと離脱の違いです。 これらはすべて、そのはたらきや相互の形に基づいて名づけられています。
次に、その本質について説明します。 欲界における法の本質は、聞くことと考えることによる智慧です。 色界における法の本質は、聞くこと、考えること、そして修行による実践です。
正見二因義名體 一從他聞。從義及境為名。二自正思惟。從義心功能為名 二體者。以聞思為體。
正見には二つの原因がある。その意味と実体について説明する。
一つ目は「他から聞くこと」である。これは、教えの意味と対象に基づいて名づけられる。 二つ目は「自ら正しく考えること」である。これは、意味を理解する心の働きに基づいて名づけられる。
この二つの実体とは、聞くこと(聞)と考えること(思)である。
出世中 問。論主出世心從來不生。云何得成出世種子 答。有二因緣故成。不同彼宗也。一者增上緣。明此大乘教乃從最清淨法界所流。故知增上緣不同彼故得使成出世。明小乘中不知教從本性出。是以不同。二因緣不同。明小乘中立三世性有。世間諸行不成出世因。從彼教亦不生。若思我大乘立義。乃至凡夫身中人天十善亦能作因生聞熏習問。若世間心習出世法可得以生出世法。如十善等本不習作出世解。云何能出世也答。有二義故此得生出世法。一者此十善緣何法故。乃由如來藏力使之而生。由緣處不別所以能生出世法也 二者如來立此十善之教意。欲生眾生出世法。由此二種義故。所以能生出世法也。故論云。一切所行之善無非大淨清方便也。小乘法亦爾。
問う:論主の出世の心は、本来からして生じたことがありません。どうして出世の種子となり得るのでしょうか。
答える:二つの因縁によって成り立つのであり、彼の宗(小乗)とは異なります。
第一に「増上縁」です。この大乗の教えは、最も清らかな法界から流れ出たものです。したがって、増上縁が彼(小乗)とは異なるため、出世の種子となり得るのです。小乗では、教えが本性から出たものであることを知らないため、異なるのです。
第二に「因縁」の違いです。小乗では三世の法は実有であると立て、世間の諸行は出世の因とはならず、それらの教えからも出世は生じません。しかし、我々の大乗の立義を考えれば、凡夫の身における人天の十善でさえも、因となって(出世の)聞熏習を生むことができるのです。
問う:もし世間の心で出世の法を習えば、それによって出世の法を生み出すことができるのでしょうか。例えば十善などは、もともと出世の解を習うものではありません。どうして出世することができるのでしょうか。
答える:二つの意味があるから、これによって出世の法を生み出すことができます。
第一に、この十善が何に縁るかと言えば、如来蔵の力によってそれが生じるのです。縁るところが別ではないため、出世の法を生み出すことができるのです。
第二に、如来がこの十善の教えを立てた意図は、衆生に出世の法を生じさせようとするためです。この二つの意味があるから、出世の法を生み出すことができるのです。
したがって論に言う「すべての行われる善は、みな大いなる清浄の方便である」と。小乗の法もまた同じです。
信等四法 名。一信樂大乘信。是求樂是樂欲。大乘是境。從心境為名。二般若。三虛空器三昧。虛空器是境。三昧是定。從境體為名。四大悲。二四從功能為名 二體。信即用聞慧心為體。般若即用無我知為體。虛空三昧用三無性定為體。大悲即用大悲事定為體。約智即加行智。
信などの四つの教えには、名前があります。一つ目は「大乗への信を楽(ねが)うこと」です。これは、楽を求め、それを欲することです。「大乗」とは教えの境地であり、心と境地を合わせて名づけられています。二つ目は「般若(はんにゃ)」。三つ目は「虚空器三昧(こくうきざんまい)」。虚空器とは境地を示し、三昧は静かな心の統一を指し、境地とその本体を合わせて名づけられています。四つ目は「大悲(だいひ)」。二番目と四番目の教えは、それぞれの働きによって名づけられています。
次に、その本体についてです。信とは、聞く智慧(ちえ)のはたらきを本体とします。般若とは、無我(むが)の智慧を知ることを本体とします。虚空三昧は、三無性(さんむしょう)の静かな心の統一を本体とします。大悲とは、大きな悲しみの実践における静かな心の統一
四德儀名體 名者。一淨德。斷除鄙惡名之為淨得。即離過為名。二我。自在名我。從用為名。三樂自體寂泊名之為樂。亦可適悅為樂。從義用立名。四常。體無住滅名常。亦可四種。皆從離過為名 體者。通而言之。同阿黎解性為體。亦可用法身為性。
四つの徳の名前とその本質について説明します。
名前とは、第一に「浄徳」です。粗悪なものを断ち除くことを「浄」と呼び、過ちを離れることから名付けられています。第二に「我」は、自在であることを「我」と名付け、その働きから名づけられています。第三に「楽」は、本質が静かにとどまることを「楽」と名付け、また心地よさを楽しむことも「楽」とします。これは義理や働きから名づけられています。第四に「常」は、本質に消滅や留まりがないことを「常」と名付けます。また、この四つはすべて、過ちを離れることから名づけられています。
本質とは、広く言えば、阿頼耶識の性質を本質とします。また、法身を性質とすることもできます。
五分法身名體 戒身。防非為戒。定身。止亂為定。慧身。照察為慧。此三從用為名。解脫。從離過受名。知見身。可境生心名知。明白名見。從義用受名 體者。若通而言。則用無分別智為體 若別而為論。戒以三聚淨戒為體。四定體無分別智為體。解脫則戒定等邊見無或無為為體。知見身以後智為體。
五分法身の名前とその本質について: 戒身:悪を防ぐことを戒とする。 定身:心の乱れを静めることを定とする。 慧身:物事を明らかに観察することを慧とする。これら三つは、その働きに基づいて名づけられている。 解脱:過ちから離れることによって名づけられる。 知見身:対象に応じて心が生じることを「知」、はっきりと見えることを「見」という。その意味と働きに基づいて名づけられている。 本質について言えば、広く捉えるなら、無分別智をその本質とする。個別に論じるなら、戒は三聚浄戒をその本質とする。定は無分別智をその本質とする。解脱は戒や定などの修行の果てに、誤った見解や煩わしさがなくなり、作為のない状態をその本質とする。知見身は、その後得られる智をその本質とする。
出世中三慧義名體 名。一者聞慧。聞者即耳識眾緣取得前聲名聞。慧者則意識分別名之為慧。二思慧。靜心諦察名之為思。三修慧。增明義是修義。修慧非聞思。由聞等生故名修。聞等慧即是並從因為名 二體。三慧不同。皆以意識心中隨用慧數已之為性。
出世間における三つの智慧(三慧)の意味とその本質について説明します。
まず名称です。 第一は「聞慧(もんえ)」です。「聞」とは耳の認識が様々な条件によって音声を捉えることを言い、「慧」とは意識がそれらを分別することを智慧と呼びます。
第二は「思慧(しえ)」です。心を静めて深く観察することを「思」と言います。
第三は「修慧(しゅえ)」です。明らかさを増していくことが「修」の意味です。修慧は聞慧や思慧そのものではありませんが、それらによって生じるものなので「修」と呼ばれます。聞慧や思慧は、その原因に基づいて名付けられています。
次に本質です。 これら三つの智慧は異なっていますが、すべて意識の心の中で働く智慧という心の働きをその本性としています。
解脫分等三善二名體 名者。一解脫分。解脫是果。分是因。與果為因分故。二通達分。通達是見理之心即是果。用分不異前。此二從果及因義立名。三通達品。通達者證見於理不見能所名為通達。即功能之義。品者品別。則功能之義立名也 二體者。若前二正體唯取聞思二慧以為體性。前是聞。後是思。亦通思修二慧為性也。即是意業。若通前後眷屬。則通身口意三業以之為性。若正取通達。則唯修慧亦唯意業為體。若取出世心已去。即通身口意三業為體。
解脱分など三つの善の二つの名と体。名とは、第一に解脱分です。解脱は果であり、分は因です。果に対して因となる分であるからです。第二に通達分です。通達は理を見る心であり、すなわち果です。用分が前と異ならないことはありません。この二つは果と因の義から名を立てています。第三に通達品です。通達とは、理を証見して能所を見ないことを通達と名づけます。すなわち功能の義です。品とは品別であり、功能の義から名を立てています。第二に体とは、前の二つについては、正体はただ聞思の二慧のみを取って体性とします。前は聞であり、後は思です。また思修の二慧を通じて性とします。すなわち意業です。もし前後の眷属を通じれば、身口意の三業を通じてこれを性とします。もし正しく通達を取れば、ただ修慧のみであり、またただ意業のみを体とします。もし出世の心已去を取れば、すなわち身口意の三業を通じて体とします。
聞有三義名體 一聞資糧。由音聲名味句等資成聞慧及耳識。從義用果為名。二聞體。聞是用。體即義。從義及用為名。三聞果。謂聞慧及聞所了法門並由聞而成。果是義。即因受名 二體。聞資糧用音聲色識為體。聞體用取識為體。聞果用意識及所緣法門等為體。
「聞」という語には、三つの意味とその内容(名体)があります。 第一に、**「聞の資糧(しりょう)」**です。これは、声や言葉、文、意味などの要素によって、聞くという智慧(聞慧)や耳の認識(耳識)が育まれます。その働きから生まれる結果に基づいて名づけられたものです。 第二に、**「聞の体(たい)」**です。聞くという行為は「用(はたらき)」であり、その本体は「義(意味・内容)」です。この「義」と「用」の両方に基づいて名づけられています。 第三に、**「聞の果(か)」**です。これは、聞く智慧(聞慧)と、聞くことによって理解される教え(法門)のことを指します。これらはすべて「聞く」という行為によって成り立ちます。結果である「果」が「義」にあたるため、その原因である「聞」という語によって名前がつけ
四種對治二名者 依釋論出。一除滅對治。除之與滅即聞思伏惑之力。二遠離對治。遠離由聞思使障遠離也。此二從能治功用立名。三杇壞對治。杇即聞思力使業無有力用名杇壞。從義立名亦可同。四依攝對治。依即行者心功能。攝即佛菩薩大悲心。即從能所受名。通對治從道功能立名 二體者。若論初所治見報煩惱業。第二生報。第三後報煩惱業。第四取八難中佛前佛後世智𮗿聰生盲等及北方長壽天等難為體。若取能治同用十信已上聞思為性 亦可通修慧。
四つの対治法の名称について、『釈論』に基づいて説明する。 第一は「除滅対治」である。「除」と「滅」は、聞思の力によって惑(わずらい)を伏せることを指す。 第二は「遠離対治」である。「遠離」とは、聞思によって障りから遠く離れることを意味する。 これら二つは、対治する側の働き・功徳によって名付けられた。 第三は「杇壊対治」である。「杇」とは、聞思の力によって業(ごう)がその力を失うことを「杇壊」と言う。 これは意義に基づいて名付けられたものであり、先の二つと同じと見なすこともできる。 第四は「依摂対治」である。「依」とは修行者の心の働きであり、「摂」とは仏・菩薩の大悲の心である。 これは、与える側と受ける側の関係に基づいて名付けられた。 総じて「対治」という言葉は、道の働き・功徳に基づいて名付けられたものである。
二、その本質について述べる。 もし、対治されるものを論じるならば、 第一は、現世での果報をもたらす煩悩と業(見報)である。 第二は、次の生での果報(生報)である。 第三は、さらに後の生での果報(後報)である。 第四は、八難の中でも、仏の前後に生まれること、世智(世間の知恵)・辯聡(弁舌の才)・生盲(生まれつきの盲目)など、そして北方の長寿天などの難を対象とする。
もし、対治する側を取
多聞四義名體二 一多聞因。謂用菩提心為體 二多聞依止。即善知識佛菩薩五陰為體。三多聞清淨。即六波羅行為體。四多聞果。即根本智後得二智為體。
多聞には四つの意味があり、その本体(体)もまた二つに分けられます。
第一に「多聞の因」とは、菩提心を本体とします。 第二に「多聞の依止」とは、善知識や仏・菩薩の五陰(五蘊)を本体とします。 第三に「多聞の清浄」とは、六波羅蜜を本体とします。 第四に「多聞の果」とは、根本智と後得智の二つの智慧を本体とします。
於滅定中滅心定有心。依俱舍論中。明滅心定中有心者。是婆須蜜多羅立此義。瞿沙論師以三和生觸等難之。彼引阿羅漢受不生愛為例也。又依婆沙云。問。入彼定時。徐心數法盡滅。何故世尊但說滅受想定耶。答。譬喻者說。滅定中有心。彼作是說。入彼定時。唯此二法滅故。定是心不相應行。名滅受想定。身作隥得成就定者四大不動故名定。問。定與滅何別。答。滅一剎那定是久相續。問。何故但名滅受想定。答。心之數中有二種根非根。說受已說根者。說想已說非根性者。
滅定中には心が存在する、という主張がある。『倶舎論』によれば、滅心定の中に心があると説くのは、ヴァスミトラ(婆須蜜多羅)が立てた義である。瞿沙論師(ゴーシャ師)は、「三和合から触が生じる」などの論理でこれを難じた。彼は阿羅漢が「受」を生じない(不生愛の)例を引いて反論している。
また『婆沙論』によれば、問う——「この定に入る時、徐々に心と心所法はすべて滅する。それなのに、なぜ世尊はただ『滅受想定』とだけ説かれたのか?」答える——譬喩者は「滅定の中に心がある」と説く。彼はこう主張する——「この定に入る時、この二つの法(受と想)だけが滅するからである。定は心不相応行であり、『滅受想定』と名づける。身体を調え、成就を得て定を成す。四大が動かないから、これを定という。」問う——「定と滅との違いは何か?」答える——「滅は一刹那であり、定は長く相続するものである。」問う——「なぜただ『滅受想定』とのみ名づけるのか?」答える——「心所法の中に、二種のものがある。根(優れたもの)と非根(劣ったもの)である。『受』を説いて根を説き、『想』を説いて非根の性質を説いたのである。」
二無心定義二名體 名者。一無想定。即從無過立名。二滅心定。滅即定之功力名滅。定是不動義。即從用及義為名 二體者。大乘無定文出。以義論之。用菩薩無漏慧求故。即是慧數心不生故名為數滅。無為為定體也。無想定亦為凡夫心所求故。亦用此非數滅。無為體更須問之。
二つの無心の定義——名称と本体
【名称について】 一つは「無想定」。これは煩悩を超えた境地から名づけられています。 二つ目は「滅心定」。「滅」とは定の働きによる力を指し、「定」は動かないという意味です。つまり、その働きと意義から名づけられたものです。
【本体について】 大乗仏教には明確な経典の記述はありませんが、道理に基づいて論じます。 菩薩は煩悩を離れた智慧(無漏慧)を求めるため、これが智慧の働き(慧数)です。心が生じない状態を「数滅」と呼びます。無為を定の本体としています。 無想定も、凡夫が心から求めるものであるため、これも「非数滅」を用います。無為を本体とすることについては、さらに深く問う必要があります。
十過失名義 一定義。不立心令定不成也。二解相及境生過。立心則有心境緣塵生過失也。三與善根相應過。立心必有無貪等善根生與心相應過。四惡無記不相應故過。若是心不可立惡無記地法無故。五想及受生過故。若定有心法有受想生起過也。六三和生觸過故。若定有心即須有根有塵三法合故即生觸也。七滅想不滅受過。違聖說滅想受定以佛說想受俱無故。八作意信等生過。若立有心信等則相隨起定故。九以能離所過。若立心不許有想受則違能所不相離過。十立並不齊過。以出入息非身一切行。例心法受想是心王一切行。此義不例故。
十の過失の名義
一、定義の過失:心を立てなければ、定は成立しないこと。
二、解相および境を生じる過失:心を立てれば、心があり、境や塵に縁って過失が生じること。
三、善根と相応する過失:心を立てれば、必ず無貪等の善根が生じ、心と相応する過失があること。
四、悪・無記と相応しない過失:「もし心ならば、悪や無記の地の法は存在しない」という理由による過失。
五、想および受を生じる過失:もし定かに心があれば、法には受や想が生じるという過失があること。
六、三和が生じて触を生じる過失:もし定かに心があれば、すなわち根と塵があり、三つの法が合わさることで、すなわち触が生じること。
七、想を滅しても受を滅さない過失:聖者が「想と受を共に滅する定」と説かれたことに反する。仏は想と受が共に無いと説かれたからである。
八、作意や信等が生じる過失:もし心を立てれば、信等がそれに随って起き、定となるからである。
九、能離と所離の過失:もし心を立てて想・受を許さなければ、能と所が離れないという道理に反する過失があること。
十、立て方が斉しくない過失:出入息は身のすべての行ではない。これに例えて、心法・受・想は心王のすべての行である。この義は例えられないからである。
二種解相名體 一有分別者。心有勝功能名之為有。有之力用名為分別。從義用為名。二無分別。力用輕微名為無。所無之法名為分別。從無他為名 體者。無分別即是六識為體。有分別唯用意識為體。
**二種の「解相」の名と体**
1. **有分別** 心に優れたはたらきがあることを「有」と名づける。そのはたらきの力を「分別」という。 こちらは、意味とはたらきに基づいて名づけられたものである。
2. **無分別** はたらきの力がわずかであることを「無」という。欠けているものを「分別」と名づける。 こちらは、「無い」という状態と、その対象に基づいて名づけられたものである。
**【体(本体)】** - 「無分別」の体は、六識(眼・耳・鼻・舌・身・意の識)である。 - 「有分別」の体は、ただ意識のみである。
四種無記名體。是正量部義 名者。一有覆無記。體是惑性。覆沒聖道名有覆。從過立名。二無覆無記。即非是惑性。不覆聖道名無覆。從無過立名也。三自性無記。自是簡他之名。性之言體。從及相形為名。自性中分四。謂報生威儀變化功巧。四真實無記。體非有為生滅名真實。從義為名。名無記者。不記善惡名無記。又不能記苦樂等果。從義為名 體。第一用七識為性。上二界惑意識亦是。第二無記用本識為體。第三用果報等四無記為體。第四用無為為體。
四種の無記(無記名體)について。これは正量部の教義である。
「名」とは、一に有覆無記である。その体は惑い(煩惱)の性質を持つ。聖道を覆い隠すことから「有覆」といい、過失に基づいて名づけられる。 二に無覆無記である。これは惑いの性質ではなく、聖道を覆わないことから「無覆」といい、過失がないことに基づいて名づけられる。 三に自性無記である。これは自ら他のものと区別する名称である。「性」とは体を意味し、互いに関わり合う形に基づいて名づけられる。自性は四つに分かれる。すなわち、報生・威儀・変化・功巧である。 四に真実無記である。その体は有為の生滅ではないことから「真実」といい、その意味に基づいて名づけられる。
「無記」と名づけるのは、善悪を記さないことから「無記」という。また、苦楽などの果報を記すことができないことから、その意味に基づいて名づけられる。
「体」については、第一の有覆無記は第七識を体とする。上二界の惑いである意識もこれに含まれる。 第二の無覆無記は、根本(本識)を体とする。 第三の自性無記は、果報など四つの無記を体とする。 第四の真実無記は、無為を体とする。
二種名名體 一言說名。從體為名。二思惟名。思惟是心之力用。從功用為名 二體有二所以。一者同以音聲為性。以論云同以音聲為本故。問。如思惟云何是聲。答。是意分別名意故亦名聲。二者今言聲是本者不是體義。乃是因義。言說正以聲為體。思惟以心為體。問。若爾何故云同以聲為本。答。言是本者。思惟之名。因言而有意地方始分別故言為本也。又問。若爾七識云何。答。七識有助他意識義。意識亦有成七識力。若不爾者。七識不得治七識。既有治義。明知亦有資義。以有資故有遠心音聲為本也。
一つの名前には、二つの種類があります。第一に「言語によって名付ける」もの。これは、そのものの本質を捉えて名付ける方法です。第二に「思惟によって名付ける」もの。思惟とは心の力と働きであり、その働きに基づいて名付ける方法です。
二つの本質(体)には、二つの理由があります。第一に、どちらも音声を性質としていることです。これは、論書に「どちらも同じく音声を根本とする」とあるからです。 問い:思惟がどうして音声と言えるのですか? 答え:それは心が分別することを意味(意)と言うからであり、それゆえに音声とも呼ばれるのです。 第二に、ここで「音声が根本である」と言うのは、本質(体)という意味ではありません。むしろ「因」(原因)という意味です。すなわち、言語は正しく音声を本質としますが、思惟は心を本質とします。 問い:それならば、なぜ「同じく音声を根本とする」と言うのですか? 答え:ここで「根本」と言うのは、思惟という名前が、言葉があって初めて意味(意)が生じ、そこから分別が始まるからです。だから「言葉が根本である」と言うのです。
さらに問い:それならば、第七識(末那識)はどうなのですか? 答え:第七識には、第六意識(意識)を助ける働きがあります。また、第六意識にも第七識を成立させる力があります。もしそうでなければ、第七識は自分自身を対治(治める)することができません。実際に対治の働きがある以上、明らかに助け合う働きもあるのです。その助け合いがあるからこそ、遠い心の基盤としての音声が根本となるのです。
色心次第生。是正量部義。立前色生後色次第緣。心亦爾。彼計為因緣。今破不許有次第緣也。
色と心が次々に生じるというのは、正量部の説です。「まず色が生じ、その後に色が次第縁となる。心も同様である」と彼らは考え、これを因縁としています。ここでは、次第縁が存在するという考えを破り、認めないのです。
十一種相根名體 名者。一共相。山河等是眾所共用名共相。二不共相。內報情道各自不與他共名不共相。三有受受者。是情道覺受。四不受體。非情道無覺名不受。五麁重相。於理事法中心功能名麁重。六細輕。於理事中心有功能名細輕。七有受相。業法得報即盡名有受。八不受。或法得報更增名不受。九譬喻相。比類名譬。以近況深名喻。十具相惑法未為治損名為具相。十一不具相。惑法為道所損名不具相。二體者有通有別。先通者。此十一相中。一一皆用意為即體。本識為依持體十一識悉皆如此。二約別者。相雖十一。約之為五。前之四相。共相無受生。此二用山河大地等依報及此種子等為即體。不共相有受生用各別內入種子為體。麁重相用一切惑及不善種子等為即體。細輕相用有流信等為體。有受用業報等為體。不受相用一切惑為體。譬喻相用執意二識四倒為體。問。何意立譬喻相識。答。前不受相從名言熏習生。未明惑中意報二識本末。所以為此故來也。具相不具相。用靜地惑為不具相。用欲界一切惑為具相體。
十一種の相には「名」と「体」がある。
まず「名」について。 第一は「共相」。山河など、すべての衆生に共通して用いられるものを「共相」という。 第二は「不共相」。内なる報いや心の世界は、それぞれが他と共有しないものを「不共相」という。 第三は「有受」。(感受があるもの。)これは心による覚知のこと。 第四は「不受体」。(感受がないもの。)無情のものは覚知がないので「不受体」という。 第五は「麁重相」。理と事のはたらきについて、心の機能が粗いことを「麁重相」という。 第六は「細軽」。(細やかで軽やかな相。)理と事のはたらきについて、心に優れた機能があることを「細軽」という。 第七は「有受相」。業によって報いを受け、それが尽きるものを「有受相」という。 第八は「不受」。(感受しないもの。)あるいは、法が報いを得て、さらに増長するものを「不受」という。 第九は「譬喩相」。たとえて類推することを「譬」、身近なことで深い道理を示すことを「喩」という。 第十は「具相」。煩悩の法が未だ対治によって損なわれていないものを「具相」という。 第十一は「不具相」。煩悩の法が道によって損なわれたものを「不具相」という。
次に「体」について。これには「通」と「別」がある。 まず「通」とは、これら十一の相の一つ一つにおいて、すべて「意」をその即体とし、「本識(阿頼耶識)」を依持する体とする。十一の識はすべてこの通りである。 次に「別」とは、相は十一あるが、まとめると五つになる。 前の四つの相については、共相と無受生は、この二者は山河・大地などの依報およびその種子などを即体とする。 不共相と有受生は、はたらきがそれぞれ異なり、内なる各入の種子を体とする。 麁重相は、一切の煩悩および不善の種子などを即体とする。 細軽相は、有流(煩悩に流される)の信などを体とする。 有受は、業や報いなどを体とする。 不受相は、一切の煩悩を体とする。 譬喩相は、執意・意の二識と四つの倒見を体とする。
問う。「なぜ譬喩相の識を立てるのか。」 答える。先に述べた不受相は、名言の熏習から生じるが、煩悩における意と報いの二識の本末を明らかにしていない。そのためにこの譬喩相が立てられたのである。 具相と不具相については、静地(上界)の煩悩を不具相とし、欲界の一切の煩悩を具相の体とする。
二結名體 一麁重結。惑體妄心而起。名之為麁。結縛為義。從過受名。二相結。所取名相繫縛名結。從境義及過為名 體者即用心惑及皮惑為體。相用心惑為性。麁重用皮惑為體。
二つの結びつきとその本質 一、粗重(そじゅう)の結びつき。迷いの本体は虚妄の心から生じます。これを「粗」と名づけ、絡みつき縛ることを意味とします。その過失から名づけられました。
二、相(そう)の結びつき。捉えられる対象である「相」に執着して縛られることを「結」といいます。境涯の意味と過失から名づけられました。
本質について言えば、心の迷い(用心惑)と表面の迷い(皮惑)を本体とします。相の結びつきは心の迷いを本性とし、粗重の結びつきは表面の迷いを本体とします。
皮等三惑名體 名者。一皮惑。二肉惑。三心惑。並從喻及過立名 二體。若三聚論體。唯心習為體。若就識出體。皮惑通六識為體。心惑唯意識為體。若肉惑則以意執二識所起惑為體。
皮などの三つの惑いの名称と本体について。
名称とは、第一に皮惑、第二に肉惑、第三に心惑である。これらはいずれも譬えとその過ちに基づいて名付けられたものである。
次に本体について。三つの集まり(三聚)から見た場合、その本体は心の習慣(心習)のみを本体とする。識の観点から本体を考えると、皮惑は六識すべてにわたって本体とする。心惑は意識のみを本体とする。肉惑は、意と識の二つによって生じる惑いを本体とする。
四種世間。即見聞覺知。照境名見。耳識隨生名聞。鼻舌身三識名覺。意名知 體者以六識為體。若就本唯用意識為體。問。七識四中是何。答。四中名知。
**四つの世間**とは、見、聞、覚、知のことです。 境(対象)を映しとることを「見」、耳の意識がそれに伴って生じることを「聞」、鼻・舌・身の三つの意識を「覚」、心の意識を「知」と呼びます。
その**体(本体)**は、六つの意識をその体とします。 ただし、根本的に言えば、ただ意識だけをその体とするのです。
**問い**:第七識はこの四つのうちどれにあたりますか。 **答え**:四つのうち「知」にあたります。
第二相三性義名體 一依他性。依即本識之能。他即能熏。諸法能所全目。二分別性。識心了境名分別。從義為名。二真實性。體非似故名真。不同依他處故無體名實。即離為名。性者即是性類故名性。從義為名 二體者。且約一門出之。依他用第八識為體。分別即用六七識及所取塵習氣等為體。真實即用四真實為體。即有垢如及無垢如無垢道十二部教為體。
第二節「三性」の意味とその体について 1. 依他性:「依」とは根本の識(阿頼耶識)の働きを指す。「他」とは、種子を熏習するあらゆる現象を指す。すなわち、諸法における能動と受動のすべてを総称する。 2. 分別性:心が対象を了知し分別することを「分別」と名づける。その働き(分別する側)に基づいて名前がつけられている。 3. 真実性:その体が似而非なるものではないから「真」とよび、依他性のように仮の拠り所があるわけではないから「実」とよぶ。すなわち、迷いと別れて離れた境地を指す。ここでいう「性」とは、その本質、種類を意味するものであり、働きに基づいて名称がつけられている。
次に、これらの「体」について、一つの側面から説明する。 - 依他性の体:第八識(阿頼耶識)を体とする。 - 分別性の体:第六識・第七識、ならびにそれらが捉える対象(塵)や習気などを体とする。 - 真実性の体:四種の真実を体とする。すなわち、煩悩に覆われたままの真如(有垢如
十一識名體 名者。一身識。身是依止之義。亦是聚義。二身者。七識是執身之者。三受者。受納之受是用。四應受。塵是識境。名應取義名受。五正受。用在當今即相形之義。並從義為名。六世。法有流動名世。又前中後異名世。從時義為名。七數。即法有一二三名數。從義為名。八處。五大等法是正報所依之所名處。從義為名。九言說。聲有詮法名言。披陳名說。因為名。十自他差別。自他即相形義。差別於自他有多相不同。即相形及義為名。十一善惡兩道。順益名善。違損名惡。兩是數。道是義名。即從用數義受名 二體者有通有別。若通而言之。此十一識以六七心境以之為性。若別而論之。則隨相而說也。身識用五根為體。身者用七識為體。受者用意界為體。應受六塵為體。正受用六識為體。世數用十八界為體。處用五大為體。即四塵。自他差別內報十八界為體。善惡兩道十八界為體。
十一種の識の名称とその体について説明します。
**名称について**
第一に、身識(しんしき)。「身」とはよりどころという意味であり、また集まりという意味でもあります。 第二に、身者(しんじゃ)。第七識は「身」に執着するものです。 第三に、受者(じゅしゃ)。受け取るという働きを指します。 第四に、応受(おうじゅ)。認識の対象である「塵」は、識が捉えるべきものという意味で「受」と名付けられます。 第五に、正受(しょうじゅ)。その働きが今まさに現れていることを指し、姿や形の働きを示します。これらはすべて、その意味合いから名付けられています。 第六に、世(せ)。すべての現象は移り変わるものであることから「世」と名付けられます。また、過去・現在・未来と異なることからも「世」と呼びます。時間の意味から名付けられています。 第七に、数(すう)。存在には一、二、三という数量的な区別があります。この意味から名付けられています。 第八に、処(しょ)。五大などの物質は、主体がよりどころとする場所であり、「処」と名付けられます。この意味から名付けられています。 第九に、言説(ごんせつ)。音声には、意味を伝える言葉が含まれており、これを述べることを「説」と言います。この働きから名付けられています。 第十に、自他差別(じたしゃべつ)。「自」と「他」は互いを対比させる意味です。自他の間には多くの異なる様相があり、その対比と意味から名付けられています。 第十一に、善悪両道(ぜんあくりょうどう)。道理にかなって益をもたらすものを「善」、それに反して害をなすものを「悪」と言います。「両」は数のことであり、「道」は意味を表します。これらは、働き、数、意味から名付けられています。
**体について** 体には共通した面と個別の面があります。大まかに言えば、これら十一種の識は、すべて第六意識と第七末那識の心の働きをその本性としています。個別に論じるならば、それぞれの特徴に従って説明されます。 身識は、五つの感覚器官(五根)を体とします。 身者は、第七識を体とします。 受者は、意という認識の領域(意界)を体とします。 応受は、六つの認識対象(六塵)を体とします。 正受は、六つの認識機能(六識)を体とします。 世と数は、十八の領域(十八界)を体とします。 処は、五大(地・水・火・風・空)を体とします。これは、四つの微細な物質(色・香・味・触)を指します。 自他差別は、内なる心身の主体である十八界を体とします。 善悪両道も、十八界を体とします
四識義二門分別二名體 名者。一似塵識。明體無所有相似昔心名似。生識曰塵。從識變故名識。從義及體為名也。二似根識。似識同前。增上是根義。從義用為名。三似我識。我者計人有體名我。從彼體義受名。四似識識。識即了別之用。從用為名 二體者。以色等六塵識為體。法塵通取六七心變。若約十一識出體別。應受世數處言就識為體。似根識以六根為體。十一識中取身者受者為體。似我識用意執二法為體。十一識中取自他差別為體。似識識用六七識為體。十一識中取正受識及身者取了別義邊為體。善惡兩道通四識也。
(一)名称の説明 ① 似塵識:その本体には実質がないが、これまでの心に似ていることから「似」と名づけ、認識を生じさせるものを「塵」という。識から変化したものなので「識」と呼び、その意味と体に基づいて名づけられた。 ② 似根識:「似」と「識」は前と同じ。優れた働きを持つものを「根」といい、その意味と働きから名づけられた。 ③ 似我識:「我」とは、人に実体があると考えることであり、その体の意味から名づけられた。 ④ 似識識:「識」とは識別する働きであり、その働きから名づけられた。
(二)本体の説明 似塵識は、色・声・香・味・触・法の六つの認識対象を本体とする。法塵は第六識と第七識の心の働きをも含む。十一識の観点から体を区分するならば、それぞれの世界や場所に応じて識を体とすると考えるべきである。 似根識は、六つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)を体とする。十一識の中では、「身者」と「受者」を体とする。 似我識は、意と執着の二つの法を体とする。十一識の中では、自己と他者の区別を体とする。 似識識は、第六識と第七識を体とする。十一識の中では、「正受識」と「身者」における識別の働きの側面を体とする。善・悪の両方の道において、これら四つの識は共に働く。
是時三義二門分別。一名。二體 名者。一平等時。明心離高下往正平等。離過為名。二和合時。即說聽兩心相符名和合。從義為名。三轉輪時。明如來說法能受眾生八正道與世輪轉相似。從法譬為名 二體者。總以佛及菩薩後得智大悲心為體。
三義を二門に分けて説明する。第一は名、第二は体である。名とは、第一に平等時。心が高下を離れ、正しく平等に向かうこと、過ちを離れることをもって名とする。第二に和合時。すなわち説く者と聴く者の心が相応ずることを和合といい、その意味から名とする。第三に転輪時。如来が説法し、衆生に八正道を受容させる様子が世間の輪宝の転ずることに似ていることから、法と譬えをもって名とする。第二の体とは、総じて仏および菩薩の後得智と大悲心を体とする。
外執立有色三義 一眼識未生先已有色。二識變為色亦是有色。三由了別色心故知有色。
三つの理由で、外界には色(物質的なもの)が存在すると考えられます。 第一に、眼識が生じる前からすでに色が存在しているからです。 第二に、心が変化して生じた色も、確かに存在するからです。 第三に、色を認識する心があることから、色が存在するとわかるからです。
四生二門分別名體 名者。一胎生。胎者是始。從時為名。亦可從相為名。二濕生。水之湋漬名之為濕。因而生。從所依為名。三一卵生。是㲉一卵。從相為名。四化生。諸根頓有名化。生由化有名化生。從義為名。通名生。從種類義立名。亦可從果為名 二體者。胎生用欲界五陰為體。濕一卵亦爾。化生三界五陰性。問。無色無色。云何云是化生有五陰耶。答。若依小乘。無無色非四生攝。今依大乘。無色亦有色故具五陰。以瓔珞經無色有化生。是以是化此生通五道也。
四種の生まれの分類(四生)について、その名称と実体を説明します。
まず名称についてです。第一は胎生です。「胎」は始まりを意味し、時間的な観点から名付けられています。あるいは、その形態に基づいて名付けられたとも言えます。第二は湿生です。水が沁み込んで湿った状態を「湿」と言います。そこから生まれるため、依りどころとなるものに基づいて名付けられています。第三は卵生です。これは殻の中の一つの卵のことです。その形態に基づいて名付けられています。第四は化生です。諸々の感覚器官が突然にそろって生じることを「化」と言い、そのような「化」によって生まれることから「化生」と名付けられています。これはその性質に基づく名称です。これら四つに共通する「生」という語は、種類に分類されるという意味から名付けられています。あるいは、結果として生まれるという側面から名付けられたとも言えます。
次に実体(体)についてです。胎生の実体は、欲界の五陰です。湿生と卵生も同様です。化生の実体は、三界における五陰の性質です。
問い:無色界には形がありません。それなのに、なぜ化生でありながら五陰を備えていると言えるのでしょうか。
答え:小乗の教えに従えば、無色界のものが四生のいずれにも含まれないということはありません。しかし、今ここでは大乗の教えに従って説明します。大乗では、無色界にも形があると考えるため、五陰を備えているのです。『瓔珞経』には「無色界には化生がある」と説かれており、それゆえ、この
四界義名體 名者。即三界名體同前已出。第四無流界。流是過。用無流而生名界。從無過及義為名。用菩薩變易五陰為體。
四界の意味とその体について。名とは、三界の名と体については前にすでに述べたとおりである。 第四の無流界について。「流」とは過ちを意味する。無流によって生じることから界と名づける。過ちがなく、またその意味に基づいて名づけられたのである。菩薩の変易の五陰をその体とする。
六界二門分別名體 名者。地水火風空識。即六大。界之言性亦是因義。從用義為名二體者。前四即觸塵攝。即以色識為體。空大用太虛無為為體。從心變約心是有為。小乘一向有為空。識界若親成唯是意識。若取發助明通取七識。若依持為論通本識。唯取有為有流不取無流。以是三界生故即體如此。
六界と二門について、名前と本質を分別する。 「名」とは、地・水・火・風・空・識、すなわち六大のことである。「界」という言葉は、本性や因(原因)を意味し、また働きに基づく名前でもある。 「体」とは、前の四つ(地・水・火・風)は触覚に含まれ、これらは色と識を本質とする。 空大は、その働きとしては太虚(無限の虚空)・無為を体とするが、心に従って変ずるものとしては有為である。小乗では、常に空を有為とする。 識界について、直接的に成立するものとしては唯だ意識である。もし助けて明らかにするものを取るなら、七識すべてを含む。もし依存する基盤として論じるなら、根本識(阿頼耶識)に通じる。 ただし、有為で煩悩を伴うもの(有流)のみを取り、無為で煩悩を離れたもの(無流)は取らない。なぜなら、これらは三界(欲界・色界・無
十八界名體 名者。六識即眼耳鼻舌身意。並從根為名。六塵通一切法。即色聲香味觸法。六根即眼耳鼻舌身意 二體者。六塵用色識及識為性。意根六識生後皆名意。即通六識。若意門明義。本識七識心皆有生之義悉名根。前五唯色識為體。六識若取本即以意識心為體。以立一意識故不許有別體五識也。隨用有六體此無所仿。
十八界の名称とその本質について。
**名称について** 六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識であり、これらはすべてそれぞれの根(器官)に基づいて名付けられている。 六塵とは、あらゆる法(現象)に通じるもので、すなわち色・声・香・味・触・法である。 六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意である。
**本質について** 六塵は、色や識などの性質をその本質とする。 意根については、六識が生じた後はすべて「意」と呼ばれる。これは六識全体に通じる名称である。もし「意門」の意味で解釈するならば、根本識(阿頼耶識)や末那識などの心も、すべて「生じる」という働きを持つことから、根と見なされる。 前五識(眼・耳・鼻・舌・身の五識)は、もっぱら色識をその本質とする。 六識について、その根本を取るならば、意識の心を本質とする。なぜなら、ただ一つの意識があるとされるため、五識に別個の本質を認めないからである
十二入名體 即六根六煩。以六識入意根中故。即是十二入。生識以解入。根塵皆生故 體與十八界同。
十二入とは、その名の通り、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六境(色・声・香・味・触・法)を指します。これらは、六識が意根の中に入ることから「十二入」と呼ばれます。また、これらは認識を生み出す「入る」働きを持ち、根と境の両方から認識が生じます。したがって、その本質は十八界と同じです。
五陰亦爾。以五根五塵入色陰中。六識意根入識陰。法塵入分為三陰。此三法義分。性是界。生識解入。積聚是陰義。
五つの集まり(五陰)もこれと同じです。五つの感覚器官と五つの対象は「色陰(物質的な集まり)」に入ります。六つの認識と意識(意根)は「識陰(認識の集まり)」に入ります。心の対象(法塵、ダルマ)は分けられて、残りの三つの集まり(受陰・想陰・行陰)となります。これら三つの要素(三法)は意味の上で分類されたものです。その本質は「領域(界)」であり、認識が生じて理解を取り入れます。蓄積すること(積聚)、これが「陰(集まり)」という意味です。
三種唯識觀義名體 名者。一唯量。二唯二。三種種類。言唯量者。唯之言觸量即識量。從義為名。言唯二者。二是數。從義及數為名。三種種即境法非一名種種。類是流類。即從義為名。觀者即觀察之義為名。亦可三觀並從心境為名。以觀是心唯量等是境故 二體者。三觀雖同以聞思修為體。若地前地上加行道中即以聞等三慧為體。正入地即以正證修慧為體。
三種の唯識観の意味と名称について説明します。
【名称】 「唯量」「唯二」「種種」の三つです。 「唯量」とは、「唯」は接触を意味し、「量」は認識作用すなわち識の働きを指します。その意味内容に基づいて名付けられました。 「唯二」とは、「二」は数を表します。その意味と数に基づいて名付けられました。 「三種種」とは、対象となるあらゆる事物や法が一つではないことから「種種」と言います。「類」とは種類や系統のことを指します。これらもその意味内容に基づいて名付けられました。 「観」とは、観察するという意味に基づいて名付けられています。また、これら三つの観はすべて、心と対象の関係に基づいて名付けられたとも言えます。なぜなら、「観」は心の働きであり、「唯量」などはその観察の対象となるからです。
【本体】 三つの観は、同じく「聞・思・修」の三慧をその本体としています。 菩薩が修道の階位において、地前(十地に入る前)や地上(十地の位)や加行道(準備段階)にある時は、「聞・思・修」の三つの智慧を本体とします。 そして、正しく十地に入る段階では、直接的に真理を
二無身義名體 一無色身。二無生身。色即以礙為義。生即心等起故名生。無是義名。從義及相為名。通名身以依止為義。從功能為名 二體者。無色身用因緣色陰為體。前言無者取無實身。無生用因緣四陰為體。言無身亦取無實四陰也。
#### 「二無身」の意味と本体
**一、無色身** **二、無生身**
「色」とは、妨げる性質を意味します。 「生」とは、心などが生じることを意味します。 「無」は「ない」という意味を持つ名称です。 これらの意味や性質に基づいて名称が付けられています。 「身」は、拠り所となる性質を意味し、その働きから名付けられています。
#### 「二無身」の本体
**無色身**:因縁によって生じる色蘊(物質的な要素)を本体とします。 ここで「無」と言うのは、実在する身体ではないという意味です。
**無生身**:因縁によって生じる受・想・行・識の四蘊(精神的な要素)を本体とします。 「無身」と言うのも、実在する
唯識四智義名體。名者。一知相違識相。知者即菩薩觀心。相違識相是境。二由見無境界識。由之言已知是能知之智。無境界識是所觀。三由知離功用。由思慧解知即凡。以離功用應成正智名離功用。從能智及義為名也。四由知義隨逐三慧。此及前二並從心境為名。亦可從心境及義為名 二體者。此四同以思慧解心為性非餘。亦可通用聞慧為體。
唯識の四智の義(意味)と名と体について説明します。
名について: 第一は「相違識相を知る」です。「知る」とは菩薩の観心(観察する心)を指します。「相違識相」は境(対象)です。 第二は「無境界識を見るによる」です。「による」とは、すでに知っている能知之智(認識する智慧)を示します。「無境界識」は観察される対象です。 第三は「功用を離れるを知るによる」です。「思慧の解によって知る」とは凡夫の認識です。「功用を離れる」によって正智となるべきであり、これを「功用を離れる」と名付けます。能智(認識する智慧)と義(意味)から名付けられたものです。 第四は「義が三慧に随って逐うを知る」です。この第四と前の第一・第二は、いずれも心と境から名付けられています。また、心・境・義から名付けることもできます。
体について: これら四つは、同じく思慧の解心(思慧によって理解する心)をその体(本性)とし、他のものではありません。また、共通して聞慧を体とすることもできます。
十六諦名體 名者。苦下有四。即苦無常空無我。苦逼迫為義。遷流不住是無常。空是無所有名空。不自在是無我。空是無他為名。餘三從過為名。集下有四。即因集有緣。因是生方便義。集是集起之義。有即能有當果之名。緣者能與果為緣。並從力用為名。道下有四。即道如迹乘。道以通生為義。為聖人所行名迹。運以解乘。如不異義。三世諸佛此道不異故名如。從義為名。餘三從功能為名。滅有四。即滅止妙離。滅三毒名滅。正則三火止也。妙滅體無戒名妙。從義為名。離是離惑之義。此三無過為名。諦以實為義。從義為名 二體者有二。一約事出體。即苦等為苦等體。即是果義。以業煩惱等四法為體。道用無流聖道為體。通色心。滅用事滅無為為體。二約通出者。即本覺心真如以之為體。
十六諦の名と体について説明します。
「名」について。苦諦には四つの名称があり、それは苦・無常・空・無我です。「苦」は心身を逼め悩ますという意味です。「無常」は移り変わってとどまらないことです。「空」は実体のないことを意味します。「無我」は自在でないことです。「空」は他によるものであるという意味です。残りの三つは、その過ちに基づいて名づけられています。
集諦にも四つの名称があり、因・集・有・縁です。「因」は生を起こすはたらきという意味です。「集」は苦を集め起こすという意味です。「有」は未来の果報を招くという意味です。「縁」は果報の縁となるという意味です。これらはすべて、その力用に基づいて名づけられています。
道諦にも四つの名称があり、道・如・迹・乗です。「道」は真理に通じて涅槃に至らせるという意味です。「迹」は聖人が歩まれた道という意味です。「乗」は煩悩を乗り越えるはたらきという意味です。「如」は真理と異ならないという意味で、三世の諸仏の道はこの道と異ならないことから「如」と呼ばれます。これはその意味に基づいて名づけられています。残りの三つはその機能に基づいて名づけられています。
滅諦にも四つの名称があり、滅・止・妙・離です。「滅」は三毒を滅ぼすという意味です。「止」は三つの煩悩の火を止めるという意味です。「妙」は滅の体に過失のないことを意味します。これはその意味に基づいて名づけられています。「離」は煩悩を離れるという意味です。この三つは過ちがないことに基づいて名づけられています。
「諦」は真理という意味で、その意味に基づいて名づけられています。
次に「体」について。体には二つの説があります。第一に、事相に基づいて体を立てる説です。これは、苦などの諸法がそれぞれ苦などの体であるというものです。つまり、苦諦は果報であるという意味です。そして、業や煩悩などの四つの法を体とします。道諦は、煩悩のない聖なる道を体とし、色法と心法の両方に通じます。滅諦は、煩悩が滅した無為を体とします。第二に、普遍的な立場から体を立てる説です。これは、本来の覚りである心、真如を体とするというものです。
五種真實即行體離五種散動說五真實也。又離五識分別亦名五種無分。即以無分別定慧為體。約離障說五也。佛性論中五種無多別。一無為。二無別異。三離二邊。四解脫。五自性清淨。五種真實。一無二。二過言說。三過覺觀。四過一異。五一味清淨。
五つの真實(真実)とは、修行の本質が五つの散動(心の動揺)から離れていることを説くものです。また、五つの識による分別を離れていることから、五つの無分別とも呼ばれます。つまり、無分別の定(瞑想)と慧(智慧)をその本質とし、障害を離れるという観点から五つに分けて説かれています。
『仏性論』における五つの無分別も、大きな違いはありません。すなわち、一に無為、二に無別異、三に二辺を離れること、四に解脱、五に自性清浄です。
五つの真實とは、次の通りです。一に無二(対立がない)、二に言説を超える、三に覚観(思考)を超える、四に一と異を超える、五に一味清浄(ひとつの味わいとして清らか)です。
三分別名體 名。一自性分別。謂五識。自是別他之名。性亦可是體即性類。即體義為名。二憶持。追緣名憶。憶不忘名持。從用為名。三顯示。境非今有顯示令有名顯示。從用為名體者二義不同。一者小乘。自性是覺數為體。憶已念為體。顯示以慧為性。二大乘體者。自性六七識。皆有緣現在並是自性分別。其餘二種唯是意識。緣過去為懷持。分別緣未來為顯示分別也。
分別という言葉には、二つの意味があります。
第一に、自性分別(じしょうふんべつ)とは、五つの感覚認識(五識)のことです。これは、他のものから自分を区別するという意味の「分別」です。「性」は「体」、つまり本質や種類を表し、「体」という言葉は本質そのものを指す名称として使われます。
第二に、憶持分別(おくじふんべつ)とは、過去のことを思い起こして(憶)、忘れずに心に留めておく(持)ことです。その働きに基づいた名称です。
第三に、表示分別(ひょうじふんべつ)とは、目の前にはない対象を、はっきりと示して(表示)認識させることです。これもその働きに基づいた名称です。
「分別」の本体については、小乗と大乗で二つの異なる見解があります。
1. **小乗の立場**:自性分別の本体は「覚」(感覚そのもの)です。憶持分別の本体は「念」(記憶)です。表示分別の本体は「慧」(知性)です。
2. **大乗の立場**:自性分別の本体は、第六意識と第七末那識にあります。どちらも現在の対象を認識する働きが、自性分別にあたります。残りの二つの分別(憶持と表示)は、唯だ第六意識だけの働き
自言有二。一者諸熏習各異。各從自因生名自。二者諸法實無所有從心生故名自耳。體者用淨不淨品法為體 云何分別但如萬物相不如一物相。問意何故意識心本無有心。何不唯一無相乃作如此萬物相也。
答えるならば、一切のものは本来ただ心が作り出す幻のようなものにすぎません。それぞれ異なる習気(心に染みついた習慣)によって、あたかも別々のもののように見えるのです。個々の現象は、それぞれ固有の原因から生じるので「自」と呼びます。しかし、あらゆる存在には実体がなく、心の働きによって現れるにすぎません。その意味でも「自」と呼べるのです。
その本体は、清らかな作用(浄品)と清らかでない作用(不浄品)という二種の法をその体としています。では、どのように区別するのでしょうか。ちょうど、あらゆる万物が互いに異なって見えるように、一つだけの姿として固定したものではないからです。
質問の意図はこうです。「なぜ意識や心というもの
六因名體 名。一境界。法能生心名境界。生義。從義為名。二相貌。明心取境相狀。從義為名。三觀見。明心快判明了目為觀見。從義為名。四緣起。起報之緣名緣起。從方便為名五言說。宣說之聲名言。言有所了名說。亦從方便為名。六增益。於三無性理執有人法名增益。從過為名 體者。若約識明體即以意識為體。若三惑出體唯心惑為性。
六因の名称とその本質について説明します。
名称について。
第一に「境界」。法が心を生じさせることを「境界」と言います。「生じさせる」という意味から、その働きに基づいて名付けられました。
第二に「相貌」。心が対象を捉えるときの様子や形を明らかにするものです。その働きに基づいて名付けられました。
第三に「観見」。心が素早く判断し、はっきりと見極めることを「観見」としています。その働きに基づいて名付けられました。
第四に「縁起」。果報を生じさせる縁となることを「縁起」と言います。修行の手段に基づいて名付けられました。
第五に「言説」。語り伝える音声を「言」と言います。言葉には意味を明らかにするはたらきがあり、それを「説」と言います。これも修行の手段に基づいて名付けられました。
第六に「増益」。三無性の真理に対して、人や法が実在すると執着することを「増益」と言います。過ちに基づいて名付けられました。
本質について。 もし識を中心にその本質を説明するなら、意識をその本質とします。 もし三惑という観点からその本質を説明するなら、心の
三熏習義名體 一名言熏習。聲有表詮名之為說從義為名。識熏習了別名識。從用為名。二色識。色即礙義。當體為名。識識。識六識即用。後識即體。體用為名。見識熏習者。明自名見。見體名識得名同前。三煩惱。從過為名。業者。造作名業。從用為名。果報。酬因名果。遂因名報。從義為名 二體者。前五以心惑為性。煩惱用皮肉二惑為體。業用三業為性。亦可三聚為性。果報用五陰為體 通色以。
三種類の熏習(くんじゅう)の意味とその体(たい)について説明します。
第一に「名言熏習(みょうごんくんじゅう)」です。「声」には表現や説明を表す「表詮(ひょうせん)」の意味があり、それを「説」と呼びます。これは意味(義)に基づいて名づけられたものです。 「識熏習(しきくんじゅう)」。「識」は了別(りょうべつ)することを意味し、これは働き(用)に基づいて名づけられています。
第二に「色識(しきしき)」。「色」は障礙(しょうげ)の意味で、そのもの自体(当体)を指して名づけられています。また「識識(しきしき)」のうち、前の「識」は六識(ろくしき)という働きを、後の「識」はその本体(たい)を指し、体と用に基づいて名づけられています。 「見識熏習(けんしきくんじゅう)」は、自らが見ることを明らかにするものです。「見」の本体を「識」と名づけ、その名の由来は先述と同じです。
第三に「煩惱(ぼんのう)」は、過ち(か)に基づいて名づけられています。 「業(ごう)」は造作(ぞうさ)を意味し、働きに基づいて名づけられています。 「果報(かほう)」は、原因に報いることを「
依他體類及義名體者 體類義有二種。一果報體類。酬因名果。遂因名報。為他依持名體。類即流類。約他諸法非一也。即從所依及功能義用受名。二聞思等體類。得名相同。但世出為別也 二體者。雖約能依分二。論體皆以本識一心功體為體 二依他義者。明此識雖約體分二。然此二法皆不偏為一心作所緣境。由不偏為一心境故名依他義也。
分別二義二門名體 名。一自性分別。知他諸法之體各別不與他共。共心簡他之義。性之□體。識緣此境名為分別。即□相□體用為名也。亦可一向□用為名。二分別差別識有了。
三つの区分がある。第一は「自性分別」である。これは、それぞれのものが持つ独自の性質を認識する心の働きを指す。たとえば、他のものとは異なる独自の性質(体)を正しく見分けることをいう。「識」がこの「対象(境)」に触れることを「分別」と呼ぶ。つまり、これは「体と用(はたらき)」の両方を指す名称であるともいえるし、あるいは専ら「用(はたらき)」だけをさす名称であるともいえる。
第二は「分別の差別」である。「識」にはこのようなはたらきが備わっている。