大乘法界無差別論
大乗法界無差別論
堅慧菩薩造
堅慧菩薩造
大唐于闐三藏提雲般若等譯
唐の于闐三蔵・提雲般若ら訳
稽首菩提心, 能為勝方便,
得離生老死, 病苦依過失。
菩提心に、敬礼します。 それはすぐれた善巧方便であり、 生・老・死という苦しみや 病の苦しみ、そのよりどころとなる過失から 逃れることを可能にします。
菩提心略說有十二種義,是此論體,諸聰慧者應如次知,所謂果故、因故、自性故、異名故、無差別故、分住故、無染故、常恒故、相應故、不作義利故、作義利故、一性故。此中最初顯示菩提心果,令見勝利;次即說彼所起之因;然後安立此出生相,及顯異名而無差別;於一切位無有染著。常與淨法而共相應。不淨位中無諸功用,於清淨位能作利益一性涅槃。應知如是十二種義,今此論中次第開闡。
菩提心について、その意味を大きく十二の項目にまとめることができる。この十二の項目こそが、この論典の核心である。聡明な修行者は、以下の通りに順を追って理解すべきである。
すなわち、 1. 果(もたらされる結果) 2. 因(生じる原因) 3. 自性(本来の性質) 4. 異名(異なる呼び名) 5. 無差別(相互の区別がないこと) 6. 分住(段階に応じた住まい方) 7. 無染(煩わしさに染まらないこと) 8. 常恒(永遠に変わらないこと) 9. 相応(清らかな法と調和すること) 10. 不作義利(汚れた状態では特別な働きがないこと) 11. 作義利(清らかな状態では利益をもたらすこと) 12. 一性(最終的には一つの性質に帰すること)
初めに菩提心の「果」を示し、その功徳を知らせる。次に、その菩提心を生じさせる「因」について述べる。その後、菩提心が生じる様相(自性)を明らかにし、さらに様々な「異名」を挙げながらも、それらが本質的に「無差別」であることを示す。
あらゆる段階において、菩提心は煩悩に「無染」であり、常に清らかな法と「相応」している。汚れた状態(凡夫の位)では特別な働き(義利)を示さないが(不作義利)、清らかな状態(悟りの位)では大きな利益をもたらす(作義利)。そして最終的には、すべてが一つの涅槃の性質に帰する(一性)。
以上の十二の意味が、この論典において順を追って詳細に説かれていることを知るべきである。
何者名為菩提心果?謂最寂靜涅盤界。此唯諸佛所證,非餘能得。所以者何?唯佛如來能永滅盡一切微細煩惱熱故。於中無生,永不復生意生諸蘊故;無老,此功德增上殊勝圓滿究竟無衰變故;無死,永捨離不思議變易死故;無病,一切煩惱所知障病及與習氣皆永斷故;無苦,依無始時來無明住地所有習氣皆永除故;無過失,一切身語意誤犯不行故。此則由菩提心為最上方便不退失因,一切功德至於究竟而得彼果,彼果者即涅盤界。何者為涅盤界?謂諸佛所有轉依相不思議法身。以菩提心是不思議果因,如白月初分,故今頂禮。復次頌曰:
何をもって菩提心の果と名付けるか。 それは、最も寂静なる涅槃の境地である。 これは諸仏のみが証するものであり、それ以外の者が得ることはできない。 なぜなら、仏・如来のみが一切の微細な煩悩の熱を永く滅尽し尽くすことができるからである。 その中には「生」はなく、再び意生の諸蘊が生じることは永遠にない。 「老」はない。この功徳は増上し殊勝で、円満究竟であり、衰え変わることがないからである。 「死」はない。思議を超えた変異の死を永遠に捨て離れたからである。 「病」はない。一切の煩悩障・所知障の病およびその習気が全て永く断たれたからである。 「苦」はない。無始の時より来た無明住地のすべての習気が永く除かれたからである。 「過失」はない。一切の身・語・意の誤った犯行が行われないからである。 これこそ、菩提心を最上の方便とし、退失しない因として、一切の功徳が究竟に至り、その果を得たものである。その果こそが涅槃の境地である。 何をもって涅槃の境地とするか。 諸仏が有する、所依が転じた相である、思議を超えた法身である。 菩提心は思議を超えた果の因であり、白月の初めの部分のようなものである。ゆえに今、礼拝する。 さらに、頌をもって説く。
能益世善法, 聖法及諸佛,
所依寶處如, 如地海種子。
復次菩提心如地,一切世間善苗生長所依故;如海,一切聖法珍寶積聚處所故;如種子,一切佛樹出生相續之因故。如是已說菩提心果。
さらに、菩提心は大地のようなものです。なぜなら、この世のあらゆる善い芽生えが育つための土台となるからです。 また、海のようなものです。なぜなら、あらゆる聖なる教えという宝が集まる場所だからです。 また、種子のようなものです。なぜなら、すべての仏という木々が絶えず生まれ出る原因となるからです。 このようにして、菩提心の果実について述べました。
云何此因?頌曰:
信為其種子, 般若為其母,
三昧為胎藏, 大悲乳養人。
復次云何此因積集?應知如轉輪王子,其中於法深信為菩提心種子,智慧通達為母,三昧為胎藏,由定樂住一切善法得安立故。大悲為乳母,以哀愍眾生於生死中無有厭倦,一切種智得圓滿故。
また、この因はどのようにして積み集められるのでしょうか?知られるべきです、たとえば転輪聖王の王子のように。その中で、法に対する深い信心が菩提心の種子であり、智慧による通達が母であり、三昧が胎蔵であり、禅定の楽に安住することによってすべての善法が確立されるからです。大悲心は乳母であり、哀れみによって衆生を生死のうちにあっても厭うことがなく、一切種智が円満に成就されるからです。
云何自性?頌曰:
自性とは何か。頌(詩句)にこうある。
自性無染著, 如火寶空水,
白法所成就, 猶如大山王。
自らの本質は汚れなきものであり、 火、宝、虚空、水のようである。 清らかな善によって成就された姿は、 まるで大きな山の王のようである。
復次應知此菩提心因積集已有二種相,謂離染清淨相、白法所成相。離染清淨相者,謂即此心自性不染,又出客塵煩惱障得清淨。譬如火摩尼寶虛空水等為灰垢雲土所覆翳時,雖其自性無所染著,然猶遠離灰等故,令火等得清淨。如是一切眾生自性無差別心,雖貪等煩惱所不能染,然猶遠離貪等故,其心得清淨。白法所成相者,謂如是自性清淨心為一切白法所依,即以一切白淨法而成其性。如說須彌山眾寶所依,即以眾寶而合成故。
さらに知るべし、この菩提心は、因(原因)を積み集めた後に、二つの相(特徴)がある。すなわち、汚れを離れた清らかな相と、善い法によって成り立つ相である。
「汚れを離れた清らかな相」とは、この心の本来の性質は汚れていないが、さらに客塵(外から来る汚れ)である煩悩の障りを離れて清らかになることをいう。譬えば、火や摩尼宝珠、虚空、水などが、灰や垢、雲、土によって覆われ隠された時、その本来の性質は何ら汚れてはいないが、それでも灰などを離れることによって、火などは清らかになる。このように、全ての衆生の本来の性質に差別のない心は、貪りなどの煩悩によって汚されることはないが、それでも貪りなどを離れることによって、その心は清らかになるのである。
「善い法によって成り立つ相」とは、このように本来清らかな心が、全ての善い法のよりどころとなり、すなわち全ての清らかな善い法をもってその性質を成すことをいう。ちょうど、須弥山が多くの宝のよりどころであり、多くの宝をもって合成されていると言われるのと同じである。
云何異名?頌曰:
異なる呼び名とは何でしょうか。偈頌(詩句)に曰く——
至於成佛位, 不名菩提心,
名為阿羅訶, 淨我樂常度。
此心性明潔, 與法界同體,
如來依此心, 說不思議法。
復次此菩提心,永離一切客塵過惡,不離一切功德成就,得四種最上波羅蜜,名如來法身。如說「世尊如來法身,即是常波羅蜜、樂波羅蜜、我波羅蜜、淨波羅蜜。」如來法身即是客塵煩惱所染自性清淨心差別名字。又如說「舍利弗!此清淨法性即是法界,我依此自性清淨心、說不思議法。」
さらに、この菩提心は、あらゆる外来的な汚れや過ちから永遠に離れており、あらゆる功徳の完成を備えています。そして、四つの最も優れた波羅蜜(完成)をそなえ、如来の法身と名づけられます。すなわち、「世尊の如来の法身とは、常(永遠)の波羅蜜・楽(至福)の波羅蜜・我(真の自己)の波羅蜜・浄(清らかさ)の波羅蜜である」と説かれています。如来の法身とは、外来的な煩悩に染まりながらも、本来清らかな自性(本性)の心を指す別の名前なのです。
また、次のようにも説かれています。「舎利弗よ、この清らかな法(真理)の性質こそが法界である。私はこの自性清らかな心に基づいて、言葉を超えた不思議な法を説くのである。」
云何無差別?頌曰:
いかにして無差別なのか。偈に曰く、
法身眾生中, 本無差別相,
無作無初盡, 亦無有染濁。
法空智所知, 無相聖所行,
一切法依止, 斷常皆悉離。
あらゆる存在の本質において、もともと差別のすがたはありません。 つくられたものではなく、始まりも終わりもなく、汚れも濁りもありません。 すべての現象が空であるという智慧によって知られるものであり、姿形のない聖者の境地です。 全ての現象のよりどころであり、永遠や断滅といった見解を全て離れたものです。
復次此菩提心,在於一切眾生身中,有十種無差別相。所謂無作,以無為故;無初,以無起故;無盡,以無滅故;無染濁,以自性清淨故;性空智所知,以一切法無我一味相故;無形相,以無諸根故;聖所行,以是佛大聖境界故;一切法所依,以染淨諸法所依止故;非常,以是雜染非常法性故;非斷,以是清淨非斷法性故。
さらに、この菩提心はすべての衆生の身の中にあり、十の差別のない相を持っています。すなわち、作るものではない(無為だから)、初めがない(起こりがないから)、尽きることがない(滅することがないから)、汚れがない(自性が清らかだから)、空の智慧が知るところである(すべての法に我がなく一味であるから)、形相がない(諸根がないから)、聖者の行うところである(仏の大聖の境地だから)、すべての法のよりどころである(汚れと清らかさの諸法が依りどころとするから)、常ではない(雑染が常ではない法性だから)、断ではない(清らかで断ではない法性だから)。
云何分位?頌曰:
どのような分け方があるのか。偈頌にこうある。
不淨眾生界, 染中淨菩薩,
最極清淨者, 是說為如來。
汚れに満ちた凡夫の世界にあって、 その汚れの中で清らかに生きる菩薩、 そして最も清らかな境地に達した者、 これを如来と呼ぶのです。
復次此菩提心無差別相故,不淨位中名眾生界,於染淨位名為菩薩,最清淨位說名如來。如說「舍利弗!即此法身為本際,無邊煩惱藏所纏,從無始來生死趣中生滅流轉,說名眾生界。復次舍利弗!即此法身,厭離生死漂流之苦,捨於一切諸欲境界,於十波羅蜜及八萬四千法門中為求菩提而修諸行,說名菩薩。復次舍利弗!即此法身,解脫一切煩惱藏,遠離一切苦,永除一切煩惱隨煩惱垢,清淨極清淨最極清淨,住於法性,至一切眾生所觀察地,盡一切所知之地,昇無二丈夫處,得無障礙無所著一切法自在力,說名如來、應、正等覺。是故舍利弗!眾生界不異法身,法身不異眾生界。眾生界即是法身,法身即是眾生界。此但名異非義有別。」
さらに、この菩提心には区別のない性質があるため、 清らかでない状態では「衆生界」と名づけられ、 清らかと清らかでない状態が混ざっている状態では「菩薩」と呼ばれ、 最も清らかな状態では「如来」と言われる。
例えば、こうである。「舎利弗よ、この法身こそが根本であり、 限りのない煩悩の蔵に纏われ、 始まりなき時から生と死の世界の中で生まれ変わり、流転し続けるものを、 衆生界と言うのである。
さらに、舎利弗よ、この法身が、生と死の漂流という苦しみを嫌い離れ、 あらゆる欲望の対象を捨て、 十波羅蜜や八万四千の法門において、 悟りを求めて様々な修行を行うものを、 菩薩と言うのである。
さらに、舎利弗よ、この法身が、 あらゆる煩悩の蔵から解脱し、 すべての苦しみから遠く離れ、 すべての煩悩や随煩悩の汚れを永遠に除き去り、 清らか、極めて清らか、最も極めて清らかとなり、 法の本質に安住し、 あらゆる衆生が観察する境地に至り、 あらゆる認識されるべきものを尽くした境地に達し、 比類なき丈夫の境地に昇り、 障りなく、執着なく、あらゆる法において自在な力を得たものを、 如来、応供、正等覚者と言うのである。
それゆえ、舎利弗よ、 衆生界は法身と異なるものではなく、 法身は衆生界と異なるものではない。 衆生界、すなわち法身であり、 法身、すなわち衆生界である。 これは名前が異なるだけであって、その本質に違いがあるわけではない。」
云何無染?頌曰:
いかにして無染(むぜん)となるか。偈(げ)に曰く。
譬如明淨日, 為雲之所翳,
煩惱雲若除, 法身日明顯。
例えば、清らかに輝く太陽が雲に覆われているように、 煩悩という雲が晴れれば、真実の身体(法身)という太陽は明らかに現れる。
此復云何?於不淨位中現有無量諸煩惱,而不為染。譬如日輪,為雲所覆而性常清淨。此心亦爾,彼雜煩惱但為客故。
さらにどういうことかというと、不清浄な状態にあっても、無数の煩悩が現れているが、それによって心が染まることはない。たとえば太陽が雲に覆われても、その本質は常に清浄であるように、この心もまた同じである。それらの煩悩は、ただ一時的に現れているにすぎないからである。
云何常恒?頌曰:
何をもって「常恒(永遠に変わらない)」というのか。この偈(うた)のように説かれている。
譬如劫盡火, 不能燒虛空,
如是老病死, 不能燒法界。
如一切世間, 依虛空起盡,
諸根亦如是, 依無為生滅。
例えば、世界が終わりに燃え盛る火も、虚空(くう)を焼くことはできない。 同じように、老いや病、死も、法界(ほっかい)を焼くことはできない。 あらゆる世の中のすべてが、虚空に依りながら生じたり消えたりするように、 すべての感覚器官もまた、無為(むい)に依りながら生じたり消えたりするのである。
復次云何於此現有生老死而言是常?譬如虛空,雖劫災火起,不能為害。法界亦爾,是故經言「世尊!生死者但隨俗說有。世尊!死者諸根隱沒,生者諸根新起,非如來藏有生老死若沒若起。世尊!如來藏過有為相,寂靜常住,不變不斷故。」
さらに、なぜ今ここに生・老・病・死があるのに、それを常住だと言うのか。たとえば虚空が、劫の大火災が起きても害されないのと同じである。法界もまたそうである。だからこそ経典にはこう説かれている。「世尊よ、生死とはただ世俗に従って仮に説かれたものです。世尊よ、死とは諸根が隠れ没することであり、生とは諸根が新たに生じることです。しかし如来蔵には、生・老・死、あるいは没したり生じたりすることはありません。世尊よ、如来蔵は有為の相を超え、寂静にして常住であり、変わらず断絶することもないからです。」
云何相應?頌曰:
どのように対応するのでしょうか。偈に曰く:
如光明熱色, 與燈無異相,
如是諸佛法, 於法性亦然。
煩惱性相離, 空彼客煩惱,
淨法常相應, 不空無垢法。
光明が熱や色を帯びているように、 灯りと全く異なる相はありません。 それと同じく、諸仏の教えも、 法性においては同じなのです。
煩悩の性質や形は実体がなく、 客として現れる煩悩も空です。 清らかな法は常に調和しており、 不空であり、汚れのない法なのです。
復次云何未成正覺而言於此佛法相應?譬如光明熱色等與燈無有異相,諸佛法於法身亦如是。如說「舍利弗!諸佛法身有功德法,譬如燈有光明熱色不離不脫,摩尼寶珠光色形狀亦復如是。舍利弗!如來所說諸佛法身智功德法不離不脫者,所謂過恒河沙如來法也。」復次如說「有二種如來藏空智。何等為二?所謂空如來藏,一切煩惱若離若脫智;不空如來藏,過恒河沙不思議諸佛法不離不脫智。」
では、まだ正覚を成就していない者が、どうしてこの仏法と相応すると言えるのか。例えば、光や熱といった性質は灯りと異なるものではない。諸仏の法も、法身においても同様である。
次のように説かれている。「舎利弗よ、諸仏の法身には功徳の法が備わっている。例えば、灯りに光や熱という性質が備わり、それらが離れたり失われたりしないのと同じである。摩尼宝珠の光や色や形もまた同様である。舎利弗よ、如来が説かれた、諸仏の法身における智慧と功徳の法が離れたり失われたりしないというのは、すなわち、恒河沙の数を超えた如来の法のことである。」
また、次のようにも説かれている。「如来蔵に関する空の智慧には二種類がある。どのような二つか。すなわち、空の如来蔵――あらゆる煩悩が離れ、解脱しているという智慧であり、不空の如来蔵――恒河沙の数を超えた、不可思議な諸仏の法が、離れず失われないという智慧である。」
云何不作義利?頌曰:
いかにして利益とならないのか。偈に曰く:
煩惱藏纏覆, 不能益眾生,
如蓮華未開, 如金在糞中,
亦如月盛滿, 阿脩羅所蝕。
煩悩に覆われ閉ざされているので、 衆生を助けることができない。 それはまるで、まだ開かない蓮の花のようであり、 また、汚れた泥の中にある黄金のようなもの。 さらに、満月が 阿修羅に蝕まれているのにも似ている。
復次眾生法身即與如是功德相應,何故無有如來德用?應知此如蓮未開,諸惡見葉共包裹故。如金墮廁,在於覺觀糞穢中故。如滿月被蝕,我慢羅睺所執取故。如池水被濁,貪欲塵土所混雜故。如金山被翳,瞋恚泥垢所封著故。如虛空被覆,癡愚重雲之所蔽故。如日未出,在無明習氣地中故。如世界未成,在六處水大藏中故。如雲無雨,相違緣現前故。總為頌曰:
さらに、衆生の法身はすでにこのような功徳と相応しているのに、なぜ如来の徳用がないのでしょうか。これを知るべきです。ちょうど蓮の花がまだ開かず、悪見の葉に包まれているようなものです。金が厠に落ち、覚観という糞穢の中にあるようなものです。満月が蝕まれ、我慢という羅睺に捕らえられているようなものです。池の水が濁り、貪欲という塵土に混ざっているようなものです。金山が覆われ、瞋恚という泥垢に封じられているようなものです。虚空が覆われ、愚痴という重雲に蔽われているようなものです。太陽がまだ昇らず、無明の習気の地にあるようなものです。世界がまだ成らず、六処の水大の蔵の中にあるようなものです。雲が雨を降らさず、違う縁が目前にあるようなものです。総じて頌にまとめると、
如蓮金等未開顯, 佛體客塵翳亦然,
是時功德不自益, 反此則能為大利。
蓮や金がまだ開かれずに輝きを隠しているように、 仏の本質も客塵(煩悩)に覆われているときは同じである。 そうした時は、その功徳は自らを益することもなく、 しかしそれが開かれるならば、大きな利益をもたらすのである。
云何作義利?頌曰:
義とは何か、その利益とは何か。詩で説く。
如池無垢濁, 如蓮大開敷;
亦如上真金, 洗除眾糞穢;
如虛空清淨, 朗月星圍繞,
離欲解脫時, 功德亦如是。
譬如日明現, 威光遍世間,
如地生眾穀, 如海出眾寶,
如是益眾生, 令從諸有脫。
了知諸有性, 而起於大悲,
若盡若不盡, 斯皆無所著。
佛心如大雲, 住於實際空,
三昧總持法, 甘雨隨時降,
一切諸善苗, 因此而生長。
汚れのない池に、 大輪の蓮が咲き誇るように。 また、不純物を洗い流した、 最高の純金のように。
雲一つない虚空を、 満月が星々に囲まれて輝くように、 欲望から解き放たれたその時、 その功徳もまた同じく輝く。
例えば、朝日が昇り、 その光が世界を照らし出すように。 大地が穀物を生み出し、 大海が宝を生み出すように。
そのように、悟りを得た者は、 すべての衆生を苦しみから救い出す。 世界の本質を見極め、 深い慈しみの心を起こす。
世界が尽きても尽きなくても、 それらに執着することは一切ない。
仏の心は、大いなる雲のようなもの。 永遠不変の真理の虚空に住み、 悟りと教えの法雨を、 適切な時に降り注ぐ。
そして、あらゆる善の苗は、 その雨によって育っていく。
此偈中義與前相反,應知則是清淨法身,遠離客塵眾患故、成就自性功德故。證斯法者則名如來、應、正等覺,於常住寂靜清涼不思議涅盤界恒受安樂,為一切眾生之所歸仰。
この偈の意味は前のものとは逆であり、これは清浄法身が客塵(一時的な汚れ)や衆患(様々な苦しみ)から遠く離れているからであり、自性の功徳が成就しているからであると知るべきです。この法を証得する者は、如来・応供・正等覚(完全に悟った者)と呼ばれ、常住にして寂静・清涼・不可思議な涅槃の境地において常に安楽を受け、一切の衆生の帰依するところとなるのです。
云何一性?頌曰:
どのようなものが一つの性質(一性)なのでしょうか?その答えを示す偈(うた)は次の通りです。
此即是法身, 亦即是如來,
如是亦即是, 聖諦第一義。
涅盤不異佛, 猶如冷即水,
功德不相離, 故無異涅盤。
これは法身であり、これがすなわち如来です。 これこそが、聖なる真理の第一義です。 涅槃は仏と異なるものではなく、まるで冷たさと水のように、 その功徳は切り離せないので、涅槃と異なることはないのです。
若如來法身異涅盤者,經中不應作如是說。如彼頌曰:
もし如来の法身が涅槃とは異なるものであるならば、経典の中でそのように説かれることはないでしょう。あの偈頌にもある通りです。
「眾生界清淨, 應知即法身,
法身即涅盤, 涅盤即如來。」
「すべての生きとし生けるものの世界が清らかであること、それを法身(真理そのものの体)と知るべきです。 その法身こそが涅槃(さとりの境地)であり、涅槃こそが如来(悟りを開いた者)なのです。」
復次如有經言「世尊!即此阿耨多羅三藐三菩提名涅盤界,即此涅盤界名如來法身。世尊!無異如來、無異法身,言如來者即法身也。」復次應知此亦不異苦滅諦,是故經言「非以苦壞名苦滅諦。言苦滅者,以從本已來無作無起、無生無滅、無盡離盡、常恒不變無有斷絕、自性清淨遠離一切煩惱藏、具足過恒河沙不離不脫智不思議諸佛法,是故說名如來法身。世尊!即此如來法身,未離煩惱藏,說名如來藏。世尊!如來藏智是如來空智。世尊!如來藏者,一切聲聞獨覺本所不見、本所不證,唯佛世尊永壞一切煩惱藏、具修一切苦滅道之所證得。」是故當知佛與涅盤無有差別,譬如冷觸不異於水。復次應知,唯有一乘道。若不爾者,異此應有餘涅盤故。同一法界豈有下劣涅盤、勝妙涅盤耶?亦不可言由下中上勝劣諸因而得一果,以現見因差別果亦差別故。是故經言「世尊!實無勝劣差別法證得涅盤。世尊平等諸法證於涅盤,世尊平等智、平等解脫、平等解脫見證得涅盤。是故世尊!涅盤界者名為一味,所謂平等味解脫味也。」
さらに、経典にはこう説かれています。「世尊よ、この阿耨多羅三藐三菩提(無上正等覚)こそが涅槃界であり、この涅槃界こそが如来の法身であります。世尊よ、如来と法身に異なるものはなく、如来と言うのはすなわち法身のことです。」また、これは苦滅諦と異なるものではないと知るべきです。ゆえに経典は「苦が壊れるから苦滅諦というのではない。苦滅とは、もとより無作であり、無起であり、無生無滅であり、尽きることなく離れることもなく、常に変わらず断絶もなく、自性清浄であらゆる煩悩の覆いを離れ、恒河沙の数を超えた、離れず脱しない不可思議な諸仏の智慧の法を具えていることから、これを如来法身と名づける。世尊よ、この如来法身がまだ煩悩の覆いを離れていないものを、如来蔵と名づける。世尊よ、如来蔵の智慧は如来の空の智慧である。世尊よ、如来蔵はすべての声聞や独覚が本来見ることなく、本来証することもないものであり、ただ仏世尊のみが、一切の煩悩の覆いを永遠に断ち、すべての苦滅の道を修め尽くして証得するものである。」ゆえに、仏と涅槃に差別はないと知るべきです。例えば、冷たさの感覚が水と異ならないのと同じです。また、ただ一つの乗(道)があるだけであると知るべきです。もしそうでなければ、これとは別に余分な涅槃があることになるからです。同じ一つの法界であるのに、どうして劣った涅槃や勝れた涅槃があり得ましょうか。また、下・中・上の勝劣の諸因によって一つの果を得るとも言えません。因に差別があれば果にも差別があるのが明らかだからです。ゆえに経典はこう説かれています。「世尊よ、実に勝劣の差別がある法が涅槃を証得することはありません。世尊よ、平等な諸法が涅槃を証得し、世尊よ、平等な智、平等な解脱、平等な解脱の見が涅槃を証得します。ゆえに世尊よ、涅槃界は一味と呼ばれます。すなわち平等の味、解脱の味です。」
大乘法界無差別論
大乗法界無差別論
此論,丹藏與國、宋二藏不同。此則丹本,有五字四句二十四頌,間挾七言一偈。離為十二段,段段各釋。吾祖賢首疏所釋者,此本也。按彼國、宋兩本,有七字四句二十偈,一舉並出,後方次第釋之。其初偈曰「法界不生亦不滅,無老病死無蘊過,由彼發勝菩提心,是故我今稽首禮」者是也。今按《開元錄》及賢首疏,並以此論為單譯。而國、宋兩本與此丹本文雖有異,義則無殊,必是開元之後後代重譯也;但未詳何代何人之譯,此須待勘。二藏直以彼為提雲般若譯者,錯耳。
この論典については、丹蔵本と国・宋の二蔵本で内容が異なっている。こちらは丹本であり、五字四句の二十四頌があり、間に七言の一偈を挟んでいる。これを十二段に分け、各段でそれぞれ解説している。我が祖師である賢首大師が疏において釈義したのは、この本である。一方、国・宋の二本は、七字四句の二十偈を一度に列挙した後、順を追って解説している。その冒頭の偈は「法界は生ぜず亦滅せず、老病死無く蘊過無し、彼によりて勝菩提心を発す、是の故に我今稽首して礼す」というものである。今、『開元録』および賢首疏を確認すると、いずれもこの論を単訳としている。しかし国・宋の二本とこの丹本では、文章に違いがあるものの、その意味するところに差はない。必ずや開元年間以降に後代が重訳したものであろう。ただ、いつの時代の誰による訳なのかは詳らかでなく、これはさらに検討を要する。両蔵本はこれを直接、提雲般若の訳としているが、それは誤りである。