妙存第七
妙存第七
無名曰:夫言由名起,名以相生。相因可相,無相無名;無名無說,無說無聞。經曰:「涅槃非法、非非法。無聞無說,非心所知。」吾何敢言之?而子欲聞之耶!雖然,善吉有言:「眾人若能以無心而受、無聽而聽者,吾當以無言言之。」庶述其言,亦可以言。淨名曰:「不離煩惱而得涅槃。」天女曰:「不出魔界而入佛界。」然則玄道在於妙悟,妙悟在於即真,即真即有無齊觀,齊觀即彼己莫二。所以天地與我同根,萬物與我一體。同我則非復有無,異我則乖於會通。所以不出不在而道存乎其間矣。何則?夫至人虛心冥照,理無不統。懷六合於胸中而靈鑒有餘,鏡萬有於方寸而其神常虛。至能拔玄根於未始,即群動以靜心。恬淡淵默,妙契自然。所以處有不有,居無不無。居無不無,故不無於無;處有不有,故不有於有。故能不出有無而不在有無者也。然則法無有無之相,聖無有無之知。聖無有無之知,則無心於內;法無有無之相,則無數於外。於外無數、於內無心,彼此寂滅,物我冥一,怕爾無朕,乃曰涅槃。涅槃若此,圖度絕矣。豈容可責之於有無之內,又可徵之有無之外耶?
無名は言う。言葉は名によって生じ、名は形相によって生まれる。形相は互いに因縁を成すゆえに形相があるが、形相がなければ名もない。名がなければ説くこともなく、説くことがなければ聞くこともない。経典にはこうある。「涅槃は法でもなく、非法でもない。聞くこともなく、説くこともなく、心で知ることもできない。」どうして私が語ることができようか。それなのに、あなたはそれを聞こうとするのか。とはいえ、善吉(須菩提)はこう言っている。「もし人々が無心で受け、無心で聞くことができるなら、私は無言で語ろう。」それならば、言葉を述べることも、また言葉で語ることもできるだろう。浄名(維摩詰)は言う。「煩悩を離れずして涅槃を得る。」天女は言う。「魔界を出ずして仏界に入る。」それゆえ、玄妙な道は妙悟にあり、妙悟は即真(真理に即すること)にある。即真とは有と無をともに観ること、ともに観るとは彼と己が二つでないことである。それゆえ、天地も私と根を同じくし、万物も私と一体である。私と同体ならば、もはや有も無もなく、私と異なるならば、会通(一体となること)に背く。それゆえ、出ずることも在ることもなく、その間に道は存するのである。なぜか。至人は虚心で冥々と照らし、理を統べないことはない。胸中に六合を抱きながら霊妙な鑑識は余りあり、方寸(心)に万有を映しながらその神は常に虚ろである。究極には未だ始まらぬ玄妙な根元を抜き取り、群動(さまざまな動き)を即して静かな心となる。恬淡として淵く黙し、自然に妙なる契りをなす。それゆえ、有に処しても有とせず、無に居ても無としない。無に居ても無としないゆえ、無に執着せず、有に処しても有とせぬゆえ、有に執着しない。それゆえ、有無を出でずして有無に在らず、ということができるのである。それゆえ、法には有無の相がなく、聖人には有無の知がない。聖人に有無の知がなければ、内に心なく、法に有無の相がなければ、外に数(区別)がない。外に数なく、内に心なければ、彼と此は寂滅し、物と我は冥々として一つとなる。穏やかにして兆しなく、これを涅槃という。涅槃がこのようなものであれば、推し量ることは絶える。どうして有無の内に責め求め、また有無の外に証拠を求めることができようか。