梵網經疏上
梵網経疏 上
法銑撰
法銑撰
將釋此文即是隨智之戒能破無明喻之於日隨心之戒清凉適神比之於月隨戒之嚴身可觀故如瓔珞次約人辨勝者三世菩薩由戒道成以此彰戒威力也是謂指前無勞妄改。
この文の意味を解き明かすと、智慧に従う戒は無明を破ることができ、それを太陽に例える。心に従う戒は涼やかで心に適い、それを月に例える。戒に従って身を厳かに整えると、見るに値するので、それを瓔珞(ようらく)のようだと例える。次に、人について優れていることを述べると、三世の菩薩たちは戒の道によって成就した。これによって戒の力を明らかに示している。これは前述の通りであり、無理に改変してはならない。
次彰益勸修文中分四初有九句勅聽勸持次有五句舉益勸信三有六句舉益勸受後有二句結成敬聽初文四義初有二句結前正誦初句指前舍那下句彰己同誦次有二句誡令受持舊學之人無勞復誡但云新學頂戴身業珍敬受持意業存誡領納為受蘊守曰持三有二句訓令轉授初句明前受持下句教令轉受復有三句勑令審聽既欲受持事須審聽聽若不審則有謬聞之失錯傳之過故令諦聽靜察為諦尋聲曰聽此句正令諦聽下之二句出所聽法戒者所詮之行藏者能詮之教即戒之藏故如開宗斛木叉同前第二勸信中三義初之一句教令諦信次有二句出所信境自信作佛決定無疑即是唯識論中希望之信信佛是已成之佛決定無疑即是唯識論中樂欲之信信者心淨為性即十一善中信所為體後有兩句結信之益由淨信故清心心所惡法不生即名具戒故涅槃云戒者但是遮惡法若不作惡是名持戒第三勸受有其二義初有二句勸令受戒下有四句彰受之益初勸受中以凡有心皆有佛性有佛性故必定成佛故堪受此大乘之戒攝者受也無煩輙改下明益中言入佛位者以未受時名為外道令創受戒與佛齊功名入佛位以其戒善量同法界窮盡未來與佛身中所有戒行其體齊等約此為言云入佛位非證理同名入佛位也故下結云位同大覺已真是諸佛子從佛戒生名為佛子若證是同應名佛也第四二句結成敬聽者以前文中勅令諦聽時眾承命虔恭頂受此結時會敬聽之相非勸聽也。
まず、功徳を明らかにし修行を勧める文の中では、四つに分かれています。最初に九つの句があり、聞くことを命じ、受持を勧めます。次に五つの句があり、功徳を挙げて信を勧めます。三番目に六つの句があり、功徳を挙げて受け入れを勧めます。最後に二つの句があり、敬って聞くことをまとめています。
最初の文には四つの意味があります。最初の二つの句は、前の部分をまとめて正しく誦することを示しています。初めの句は舎那を指し、次の句は自分も同じく誦することを明らかにしています。次の二つの句は、戒めを守り受持するよう命じています。しかし、すでに学んだ人には改めて戒める必要はなく、新しく学ぶ人に対してのみ、身を清めて敬い受持し、心に戒めを保つよう説いています。「受」とは受け入れること、「持」とは心に保ち続けることです。三番目の二つの句は、他に伝えて教えるよう訓示しています。初めの句は、前に受持したことを明らかにし、次の句は、他に転じて受けさせるよう教えています。さらに三つの句があり、よく聞くよう命じています。すでに受持しようとするなら、よく聞くことが必要であり、聞くことが確かでなければ、誤った聞き方や誤った伝え方をする過ちがあるからです。それゆえ、よく聞くよう命じています。静かに観察することを「諦」といい、声を追って聞くことを「聴」といいます。この句はまさに、よく聞くよう命じています。次の二つの句は、聞くべき法を示しています。「戒」とは示されている実践であり、「蔵」とはそれを示す教え、すなわち戒の蔵です。例えば、宗を開くのと同じで、木叉も前と同じです。
第二の勧めの信については、三つの意味があります。最初の一句は、よく信じるよう教えています。次の二つの句は、信じるべき対象を示しています。自分が仏になれると確信し、疑いを持たないこと、これが唯識論でいう希望の信です。仏はすでに成就した仏であると信じ、疑いを持たないこと、これが唯識論でいう楽欲の信です。信とは心が清らかであることを本質とし、十一の善心所の中で信がその体です。最後の二つの句は、信の功徳をまとめています。清らかな信によって心と心所が清められ、悪い心が生じなくなり、これで戒を完全に備えたことになります。ゆえに涅槃経には、「戒とは単に悪を防ぐ法であり、悪を行わなければ、これを持戒という」とあります。
第三の勧めの受け入れについては、二つの意味があります。最初の二つの句は、戒を受け入れるよう勧めています。次の四つの句は、受け入れる功徳を示しています。最初の勧めの受け入れでは、心ある者は皆仏性を持ち、仏性があるゆえに必ず仏になれるため、この大乗の戒を受け入れるにふさわしいと説いています。「摂」は受けることです。「無煩輙改」の後、功徳を示す部分で「仏の位に入る」と言うのは、戒を受けていない時は外道と呼ばれるものが、初めて戒を受けると仏と功徳が等しくなり、仏の位に入るという意味です。その戒の善は法界と量を同じくし、未来際まで尽きることなく、仏の身の中にあるすべての戒行とその体が等しいのです。この観点から「仏の位に入る」と言うのであり、真理を証得して同じになることを「仏の位に入る」と言うのではありません。ゆえに後にまとめて「位は大覚と同じであり、まことに諸仏の子である」と述べています。仏の戒から生まれるので仏の子といい、もし証得が同じならば、仏と呼ばれるべきだからです。
第四の二つの句は、敬って聞くことをまとめています。これは、前の文でよく聞くよう命じられた時、聴衆が命を受けて謹んで受け止めた様子であり、この部分はその時の会衆の敬って聞く様子を結んで示したものであり、聞くことを勧めているのではありません。
自下第三對機正說文中分二初經家序列次告諸菩薩下對機正誦初文分四一序說戒時處二序所結戒相三序口光表瑞四序大眾敬聽初中爾時者是此化佛從報佛所領戒却還至此之時故云爾時也初坐菩提樹下者舉時處也初即時樹下舉處唯上偈中成佛已後方接塵眾詣報佛聽戒復還道場方誦本戒今言初者以成佛竟未法餘處未說餘經此經在初於樹下說第二七日方說華嚴此舉誦戒之時意不在成佛也。
次に、第三に、機根に応じた正しい説法である。文中、初めに経家の序列があり、次に「諸菩薩に告げたまわく」以下が機根に応じた正しい読誦である。初めの文は四つに分かれる。一に、戒を説く時と場所を序すること。二に、結戒の相を序すること。三に、口から光を放つ瑞相を序すること。四に、大衆が敬って聴くことを序すること。
初めのうち、「爾時」とは、この化身仏が報身仏のところから戒を授けられ、還って来た時を指す。故に「爾時」と言うのである。「初めに菩提樹の下に坐したまう」とは、時と場所を挙げたものである。「初め」とは、その時を指し、「樹下」とは場所を挙げたものである。ただ、前の偈において「成仏した後」とあり、その後、衆生を迎えて報身仏のもとへ戒を聴きに行き、再び道場に還って、自ら根本の戒を読誦したのである。今ここで「初め」と言うのは、成仏した後、他の場所で他の経典を説く前に、この経典が最初に樹の下で説かれ、第二七日目に華厳経が説かれたからである。これは読誦の時を挙げたものであり、成仏そのものを意図したものではない。
次序戒相於中有二初辨結戒次會異名以此戒中定其犯目位列防非故名為結以初誦出名為初結非是初制名初結也兼異聲聞持犯藉請然後制戒五年已後方結木叉過十二年方說廣教問所以不同者答菩薩是本三世同行聲聞戒末諸佛或異又復菩薩之戒經生不失聲聞之戒唯盡一形又復菩薩利根聞即能受聲聞根鈍預制謗生以斯三義初復不等波羅提木叉如前所解此示戒名孝順等者教其起行念思敬養名之為孝受遵教命名之為順父母等者出孝順境父母謂是生育恩也師僧有訓導恩也三寶即是救護恩也不知恩德無異畜生豈名大乘菩薩也父母有二一現生父母二過去父母故下文云一切眾生皆是父母於現父母竭誠供養勸發大心當成佛道故曾參云言孝者謂喻父母以道參但養也於過去父母為講大乘經律以救冥途又救一切眾生離苦獲安修行成佛皆名孝順過去父母師僧二類孝順亦然又復聞教奉行為報恩德三寶恩者若無其佛法起無由若無其法無所生解若無僧傳聞則無所故知三寶於我恩深四分律云若人因我得聞佛法僧名此恩難報非是衣食臥具醫藥所能報恩三者是數寶者是喻帶數從喻為名依寶性論寶有六義頌云真實世希有明淨及勢力能莊嚴世間最上不變等佛如上解法有二義一持自性義如色等法常守質礙等性二軌生物解義如無常等法生人無常等解僧伽此翻為眾和合即是僧家義用故四分律云僧者四人若過和合者一羯磨一說戒攝體從用直翻和合故涅槃云僧名和合和合有二一者世和合名聲聞僧二者第一義和合名菩薩僧又攝用從體但翻為眾此經下云孝順父母師眾若體用合翻於僧即智論云秦言眾多比丘和合一處是名僧伽孝順即是辨孝功能眾行之先故名至道次會異名者由孝順故能滅諸惡順教無違即名持戒故云孝順名為戒又能禁勤身心制御諸惡復名制止制即止故故云制止。
まず戒の相を説明します。その中に二つの点があります。第一に戒を結び定めることを明かし、次に異なる名称を統一します。この戒において犯すべき内容を定め、過ちを防ぐための項目を並べているので「結」と名付けます。最初に読み上げて戒を明かすことを「初結」と言い、戒を最初に制定したという意味ではありません。
声聞乗と違い、菩薩は請願があって戒を授けます。戒律は教えを説いてから制定され、五年を経て初めて木叉(戒律)を結び、十二年を過ぎて広範な教えが説かれます。
問:なぜ異なるのでしょうか? 答:菩薩は三世に共通する根本であり、声聞戒は末梢であり諸仏によって異なる場合があります。また、菩薩の戒は生涯を超えても失われることがなく、声聞の戒は一生に限られます。さらに、菩薩は利根であり聞けば即座に受けることができますが、声聞は根が鈍く、あらかじめ戒を制定すると誹謗が生じるからです。これらの三つの理由により、当初から平等ではありません。
波羅提木叉については既に解釈した通りです。
これは戒の名を示し、孝順などを挙げて修行の実践を教えます。思いやり敬い養うことを「孝」と言い、教えを受け従い守ることを「順」と言います。父母などは孝順の対象を示し、父母は生育の恩、師僧は教導の恩、三宝は救護の恩です。もし恩徳を知らなければ畜生と変わりなく、どうして大乗の菩薩と言えるでしょうか。
父母には二種類あります。一つは現在の父母、もう一つは過去世の父母です。経典に「すべての衆生は皆父母である」とあります。現在の父母には心を尽くして供養し、大いなる心を起こさせて仏道を成就させるべきです。曾参が言う「孝とは父母を道をもって諭すこと」というのは、ただ養うだけではありません。過去の父母には大乗の経律を説いて冥途の苦しみから救います。また、すべての衆生を苦しみから救い安楽を得させ、修行して仏となることも、すべて過去の父母に対する孝順と言えます。師僧に対する孝順も同様です。
さらに、教えを聞き実践することは恩に報いることです。三宝の恩について、もし仏陀がいなければ教えが生じる機会はなく、教えがなければ理解が得られず、僧がいなければ伝え聞くことができません。よって三宝が私にとって恩が深いことがわかります。四分律に「もし人が私によって仏法僧の名を聞くことができれば、この恩は衣食や寝具、薬で報いることができるものではない」とあります。
「三」は数のことで、「宝」は比喩です。数字を帯び比喩から名がつきました。宝性論によれば、宝には六つの意味があります。偈頌に「真実、世に希有、明浄、および勢力、世間を荘厳し、最上にして不変なり」などとあります。
仏は上述のように解釈されます。法には二つの意味があります。第一に「自性を持する義」で、色などの法が常に質礙などの性質を守ること。第二に「軌則によって物の解を生じる義」で、無常などの法が人に無常の理解を生じさせることです。
僧伽は「衆」あるいは「和合」と翻訳されます。これは僧家の意味と働きです。四分律に「僧とは四人以上で和合すること」とあります。羯磨と説戒によって一体となることを和合と言います。体から用を摂めて直に「和合」と翻訳するので、涅槃経に「僧とは和合を意味する」とあります。和合には二種類あり、世俗の和合を声聞僧、第一義の和合を菩薩僧と言います。また、用から体を摂めて「衆」とだけ翻訳することもあります。この経典では「父母と師と衆に孝順せよ」とあります。もし体と用を合わせて翻訳すれば、大智度論にいう「多くの比丘が和合して一処にいることを僧伽と言う」となります。
孝順は孝の機能を明かし、すべての行の先頭であるため「至道」と名付けられます。次に異なる名称を統一します。孝順によってすべての悪を滅ぼし、教えに従い違反しないことを「戒を持つ」と言うので、「孝順を戒と名付ける」のです。また、心身を制御しすべての悪を防ぐことを「制止」とも言い、制すれば止むがゆえに「制止」と名付けられます。
三放光表瑞者令生信也又戒能破惡如光滅暗故先放光將說戒故次文云是故戒光從口出。
三度にわたって光明を放ち瑞相を示されたのは、人々に信心を起こさせるためである。また、戒めは悪を打ち破る力があり、その光明が闇を滅ぼすように、まず光を放たれたのである。これから戒めについて説こうとなさったから、その次に「ゆえに戒の光が口から出る」と説かれている。
四序眾敬聽有云由前放光令眾集者今現文意先集也如其未集前與誰說教令孝順今解此中大眾即是前接往舍那所之徒眾也未接往前應有集眾文中略無文中分二初先舉眾次合掌下正明敬聽前中四眾一菩薩眾二色天眾三欲天眾四人王眾初可知下三須釋十八梵者初禪三天一梵眾二梵輔三大梵正理釋云廣善所生故名為梵梵即大故名為大梵由彼獲得中間定故最初生故最後歿故威德勝故故名為大大梵所領故名梵眾於大梵前所列侍衛故名梵輔今解十八皆離欲故名之為梵二禪三天一少光二無量光三極光淨正理云自地天內光明最小故名少光光明轉勝量難測故名無量光光明遍照自地處故名極光淨三禪三天一少淨二無量淨三遍淨意地樂受說名為淨於自地中此淨最劣故名少淨此淨轉增量難測故名無量淨此淨周普故名遍淨四禪九天一無雲天以下空中天所居地如雲密合故名有雲此上諸天更無雲地在無雲首故曰無雲二福生天更無異生勝方所可往生故說名福生三廣果天異生果中此最勝故故名廣果此天多是異生所居四無想天已上五淨居天言淨居者離欲諸聖以聖道水濯煩惱垢故名為淨淨身所止故名淨居或此天中無異生雜純聖所止故名淨居此釋通名次別名者一者無繁天繁謂繁雜或謂繁廣無繁雜中此最初故又繁廣中此最劣故故名無繁二者無熱已善伏除雜修靜慮上中品障意樂調柔離諸熱惱故名無熱三者善現已得上品雜修靜慮果德易彰故名善現四者善見雜修靜慮除其定障餘品至微見極清徹故名善見五色究竟天更無有處於有色中能過於此名色究竟或此已到眾苦所依身最後邊故名色究竟六欲天者一四大王眾天四王是主眾是所部即是須彌諸層級上及七金山日月星等諸天類也二三十三天在妙高山頂帝釋居中四面各有八臣總成三十三梵云忉利三夜摩天此經云𦦨此云時分受五欲境有時分故(晝夜八時)四都史多舊云兜率此云知足於五欲境生知足故五樂變化天謂彼天中樂變號境於中受用六他化自在天所受號境餘天為化得自在故十六國者如長阿含說一央伽國二摩竭國三迦尸國四居薩羅國五䟦祇國六未羅國七支提國八䟦沙國九居樓國十槃闍羅國十一阿濕波國十二婆蹉國十三薩羅婆國十四乾陀羅國十五𣫍設沙國十六阿梨提國問上偈文中各接微塵眾此中少者今解前據報佛境界徒眾實多此據化佛境界所以故少如花嚴中菩薩雲集聲聞不覩問所以無有比丘等四答以初成道未度比丘及尼眾故在家二眾攝在第一菩薩眾中故智論云若菩薩必在四眾中有四眾不入菩薩眾中何以故是人不發菩薩心言我當作佛故今聽此戒皆是大心是故攝在菩薩眾中又復多是地前菩薩化佛機故又復三界無色天以無緣故仁王具有故彼文云佛放大光照三界中復頂上出千寶蓮華上至非想非非想天光亦復爾時無色界雨無量變大香花香如車輪花如須彌山王如雲而下問既其無色如何得雨香花諸論解云無業果色有定果色於理無違今尋大法皷經云佛告迦葉無色天是有為數無色天有色迦葉白佛無色天有色是佛境界非我等境界涅槃經亦同准此望於凡夫及以二乘名為無色非彼見故約佛所觀而實有色又約五趣而無地獄陀羅尼經有神呪拔苦故彼經有修大乘心必須容預故使此無又無八部無緣故也。
四つの集まりの皆さん、よく聞いてください。
かつて、説法の前に光を放って大衆を集めたという話がありますが、今この経文の流れでは、まず大衆が集まっています。もし集まっていない段階で誰かに教えを説いたとすれば、それは親孝行を勧めるためだったでしょう。ここでいう「大衆」とは、盧舎那仏のもとに集まった弟子たちのことです。盧舎那仏のもとへ向かう前に、大衆が集まったという記述が省略されているのです。この文章は二つに分けられます。まず大衆を挙げ、次に「合掌」以下で、正式に敬聴の様子を述べています。
大衆は四つのグループからなります。第一に菩薩の集まり、第二に色界の天人の集まり、第三に欲界の天人の集まり、第四に人間の王たちの集まりです。最初の菩薩衆は説明の必要はありませんが、残りの三つについては解説が必要です。
「十八梵」とは、初禅三天(梵衆天、梵輔天、大梵天)、二禅三天(少光天、無量光天、極光浄天)、三禅三天(少浄天、無量浄天、遍浄天)、四禅九天(無雲天、福生天、広果天、無想天、無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天)を指します。これらは皆、欲を離れているので「梵」と呼ばれます。
「六欲天」とは、四大王衆天、三十三天(忉利天)、(昼夜八時)夜摩天(焔天)、都史多天(兜率天)、楽変化天、他化自在天のことです。
「十六国」とは、長阿含経によれば、央伽国、摩竭国、迦尸国、居薩羅国、跋祇国、未羅国、支提国、跋沙国、居楼国、槃闍羅国、阿湿波国、婆蹉国、薩羅婆国、乾陀羅国、𣫍設沙国、阿梨提国です。
質問:上の偈文には「微塵の数の大衆」とありましたが、ここではその数が少ないのはなぜですか? 答え:前者は報身仏の境界における本当に多くの弟子たちの姿です。ここでは化身仏の境界における姿なので、数が少ないのです。華厳経では菩薩が雲のように集まるが、声聞はそれを見ることができなかった、とあります。
質問:なぜ比丘や比丘尼などの姿がないのですか? 答え:仏が成道したばかりで、まだ比丘や比丘尼たちを教化していなかったからです。在家の二衆(優婆塞、優婆夷)は、第一の菩薩衆に含まれています。『大智度論』にもあるように、菩薩は必ず四衆の中にいます。しかし逆に、四衆の中には菩薩衆に含まれない者もいます。それは、彼らが「私は仏になる」という菩薩の心を発していないからです。この戒を聞いている者は皆、大いなる心を持つ者なので、菩薩衆に含まれているのです。また、その多くは地前の菩薩であり、化身仏の教えを受ける器だからです。
また、三界のうち無色界の天人は、縁が無いのでここには現れません。『仁王経』にはありますが、そこでは「仏が大光を放ち三界を照らし、さらに頂上から千の宝蓮華を出して非想非非想天にまで至らせた。その時、無色界からも無量の変幻の大香花が雨のように降った」とあります。
質問:無色界に色がないのなら、どうして香華を降らせることができるのですか? 答:諸論の解説では、無色界には業によって生じる果報の色(業果色)はないが、禅定によって生じる色(定果色)はある、とされています。これは道理にかなっています。『大法鼓経』には、仏が迦葉に「無色天は有為の数に入る。無色天には色がある」と告げたとあります。迦葉が「無色天に色があるとは、仏の境界であって、私たちの境界ではない」と言うと、『涅槃経』も同様です。凡夫や二乗から見れば無色と呼ばれるだけで、彼らの眼には見えないのです。仏の眼から見れば、実は色があるのです。
また、五趣のうち地獄がここに現れないのは、陀羅尼経には神呪による救済があるからです。大乗の心を修める者は、余裕を持って臨む必要があるため、ここでは地獄が現れないのです。また、八部衆も縁が無いので現れません。
上來列眾以下敬聽合掌身恭至心誠篤聽佛誦等正明聽也聽謂能聽佛誦等者出所聽也一切佛大乘戒者以此戒諸佛同說簡異小乘故曰大乘故智論云戒為大乘能致重寶至涅槃城此能至大處名為大乘上文亦云微塵菩薩眾由是成正覺亦是諸佛大人乘是戒故名為大乘亦是觀音彌勒諸大士等之所乘故名為大乘又復接機寬故名為大乘以有心者皆許受故。
さあ、これより皆さんは、心を一つにして聴きなさい。
手を合わせ、身を正し、心を尽くして誠実に、仏が唱える経文を聴きなさい。これが「聴」の正しい意味です。
「聴」とは、聴く能力のことであり、「仏が唱える」とは、聴かれる内容を指します。
「一切仏大乗戒」とは、この戒をすべての仏が同じく説かれることから、小乗と区別して「大乗」と呼びます。
ゆえに『大智度論』には、「戒は大乗であり、それによって尊い宝を得て涅槃の城に至る。この戒は大いなる境地に至らせるものであるから、大乗と名づける」と説かれています。
先の文にも「微塵の菩薩衆も、これによって正覚を成就する」とあり、これもまた、諸仏や大いなる人々が乗る戒であるから「大乗」と呼ばれます。
また、観音や弥勒といった大菩薩たちも、この戒に乗るから「大乗」と呼ばれるのです。
さらに、この戒は受け入れる器(機)が広いことから「大乗」と名づけられています。心ある者なら誰でも受けることが許されているからです。
自下第二對機正誦文中分四一明自誦兼勸他誦二是故戒光下辨戒深勝勸令修學三佛子諦聽下勸令受戒辨機寬廣四佛告下廣陳犯相結勸奉持初文又二先明自誦次勸他誦初文每至半月佛自誦戒猶如小乘略教之法月有黑白重言半月又復但至半月即自誦戒誦非一時故重言也此戒即是諸佛之法故云諸佛法戒自下勸他以十信初創求大道名為發心故仁王經言十善菩薩發大心長別三界苦輪海以信初心超於後九而舉十住文云乃至十住是三賢之初入位之始堪成當果故云發超十行轉勝增益善根故云長養十迴向轉更堅固名曰金剛十地能生一切德行故名為地此釋通名次釋別名言十信者瓔珞經謂信心念心精進心慧心定心不退心迴向心護心戒心願心佛子修行是十心若經一劫二劫三劫乃得入初住位中增修百法明門所謂十信心心有十故修百法明門問仁王起信經十千劫方入十住何故瓔珞唯至三劫答劫有大小根有利鈍行有勤惰不可一准准瓔珞經若一劫等明知不定起信仁王舉其極遠於中若進若退故經十千又十住婆沙有現師不退故彼問云若佛所說有易行道疾得至阿惟越致地方便願為說之答曰如汝所說是儜弱怯劣無有大心非是丈夫至幹之言也若必欲聞此方便者今當說之佛法有無量門如世道有難有易陸道步行則苦水道乘船則樂菩薩亦爾或有勤行精進或有以方便易行疾至阿惟越致者如偈說十佛名執持稱名號并懺悔等如常所行既有此文幸同行者早求不退無棄時日十發趣者一者捨心國土城邑田宅金銀明珠男女己身有為諸物一切皆捨無為無相我人知見假令成故二者戒心戒非戒無受者一切性離一道清淨故三者忍心有無相慧體性一切空空忍一切處忍名無生行忍四者進心若四威儀一切時行伏空假會法性蹬無生山五者定心寂滅無相無量行無量心三昧六者慧心空慧非無緣智體名心分別一切法假名主者與道通洞七者願心以無量妙行願求菩提無量功德以求為本八者護心護三寶護一切行功德使外道八倒惡邪見不嬈九者喜心見他人得樂常生喜悅也十者頂心是人最上智如人頂滅我見見等文云諸佛當知從是十發趣入堅法忍中十長養心向果一者慈心使一切眾生得慈樂果二者悲心救一切眾生無量苦故三者喜心悅喜無生使諸眾生入佛法家常起歡喜四者捨心無造無相空法中於善惡二中平等一照五者施心財施法施皆如如相六者好語心謂入愛語三昧以聖法語教諸眾生發起善根七者利益心入利益三昧現一切身口意於六道中受無量苦不以為患但益人為利八者同心以無我智同生無二無量身入諸六道一切事同九者空心復從定心觀慧證空心心靜緣而不動轉十者慧心觀諸邪見結患等縛無決定性順忍空同故諸佛當知從是長養入堅修忍中十金剛心一者信心一切法行以信為首眾德根本不起邪見信信寂滅二者念心常修六念及第一義三者深心於二諦中深深入空無去來幻化受果而無受者四者達心達一切法空如如想不可得五者直心入無生智直行於空三界主者結縛而不受六者不退心不入一切凡夫地不退一道照七者大乘心解脫一空載一切眾生度三界河入佛海故八者無想心妄想解脫照般若波羅蜜無二三世行如如一諦而行一切佛一切賢聖皆同無生空故九者慧心無量法界無作無受一切佛教化方便法我皆集在心中光明照性入一切法十者不壞心入聖地起智八魔不壞諸佛當知從十金剛入賢聖忍中十地一體性平等地出生佛家坐佛性地凡夫因果畢竟不受大樂歡喜常入二諦而在第一義中信忍空慧常現前故二體性善慧地清淨明達一切善根從觀入大空慧方便道智中見諸眾生無非苦諦觀四諦法度眾生苦三體性光明地以三明解了智知三世一切佛法門十二分教等四體性爾涅槃地謂此地修七覺品入善權方便化一切眾使見佛體常樂我淨經文又云爾真𦦨俗不斷不常梵云爾𦦨此云智母即真俗境能生智故名為智母五體性慧照地有十種力品生起一切功德以一慧方便知善惡二業六體性華嚴地能於一切世界中十神通明智品以示一切眾生種種變化天眼智知微塵細色成大色天耳智知十方三世六道音聲天身智於一念中知一切色非色非男非女形天他心智知眾生心天人智知眾生宿世苦樂等天解脫智知眾生解脫天定智知眾生心定不定等天覺智知一切眾生已成佛未成佛天念智知眾生受命久近天行智知賢聖行願七體性滿足地謂十八不共聖人智品下地所不共於一切國土中示現作佛八體性佛乳地入法王位三昧其智知佛乳三昧故為大法師破壞四魔入佛境界九體性佛華嚴地以佛威儀如來三昧自在王定出入無時於十方三千世界一時成佛十體性佛境界地其大慧空空復空如虗空平等智神虗體一法同法性故名如來爾時坐寶蓮華一切佛與授記手摩其頂瑜伽云應知此中由能攝持菩薩義故說名為地唯識云總攝有為無為功德以為自性與所修行為勝依持令得生長故名為地問何故三賢十聖名義不同答三賢十地位歷三祇時既久長行願非一故諸聖教各舉一行立名不同義亦有異然位無別故此經中前之三地皆云略開如毛頭許即此義也又位位中名有重者以名雖重行深淺義不重也。
次に、第二の「対機正誦」の文中は四つに分かれる。一に「自誦」を明かし、併せて他に誦することを勧める。二に「是故戒光」より下は、戒の深勝を弁じて修学を勧める。三に「佛子諦聽」より下は、戒を受けることを勧め、機の広いことを弁じる。四に「佛告」より下は、広く犯相を述べて、奉持を勧める。
初めの文はさらに二つに分かれる。先ず自誦を明かし、次に他に誦することを勧める。
初めの文は、半月ごとに仏が自ら戒を誦する。あたかも小乗の略教の法のごとく、月に黒白があり、半月と重ねて言う。またただ半月になるとすぐに自ら戒を誦す。誦するのは一時に限らず、ゆえに重ねて言うのである。この戒はすなわち諸仏の法である。ゆえに「諸仏の法戒」という。
「自」より下は他に勧める。十信の初めに初めて大道を求める心を起こすことを「発心」という。ゆえに『仁王経』に言う、「十善の菩薩、大心を発して、長く三界の苦輪の海を別る」。信心の初心をもって後の九に超える。そして十住の文を挙げて言う。「乃至十住」とは、三賢の初めに入る位の始まりで、当来の果を成すに堪える。ゆえに「発」という。十行に超えることは、転じて勝れ、善根を増益する。ゆえに「長養」という。十回向は転じてさらに堅固となり、名づけて「金剛」という。十地は一切の功徳を生ずる能う。ゆえに「地」という。
この解釈は通名を明かす。次に別名を釈す。「十信」について言えば、『瓔珞経』に「信心・念心・精進心・慧心・定心・不退心・回向心・護心・戒心・願心」という。仏子はこの十心を修行する。もし一劫、二劫、三劫を経れば、やっと初住の位に入り、百法明門を増修する。いわゆる「十信心、心に十あり。ゆえに百法明門を修する」である。
問う、「仁王経」や「起信論」では十千劫を経て十住に入ると説くのに、どうして『瓔珞経』ではただ三劫にすぎるのか。
答え、劫には大小があり、根には利鈍があり、行には勤惰がある。一概には定められない。『瓔珞経』に「もし一劫、等」とあるのは、明らかに不定であることを知るべきだ。「起信論」や「仁王経」はその極めて遠いことを挙げている。その中で進んだり退いたりするものがあるので、ゆえに十千劫を経るのである。また『十住婆沙』には、現に師の退かないことがある。ゆえに彼の問いにある、「もし仏の説くところに、易行道ありて、疾く阿惟越致の地に至る方便あらば、願わくはそのために説きたまえ」と。答えていわく、「汝が言うところの如きは、儜弱怯劣にして大心なく、これ丈夫の至幹の言にあらず。もし必ずこの方便を聞かんと欲せば、今まさに説くべし。仏法に無量の門あり。世道に難易あるがごとし。陸道を歩行すれば苦しく、水道に乗船すれば楽し。菩薩もまたしかり。あるいは勤行精進するあり。あるいは方便をもって易く行じ、疾く阿惟越致に至る。偈に説くがごとし、十仏の名を持ち、名号を執持して称え、ならびに懺悔等をなす、常に修行する所の如し」。すでにこの文がある。幸い同行の者は、早く不退を求め、時日を棄つることなかれ。
十発趣とは、
一には捨心。国城、田宅、金銀、明珠、男女、己が身の有為の諸物、一切を皆捨てる。無為、無相、我人、知見、仮に成すも故なり。
二には戒心。戒も非戒も受くる者なし。一切性は離れ、一道清浄の故。
三には忍心。有無の相の慧体性、一切の空空、一切の処に忍ぶ。忍を名づけて無生行忍という。
四には進心。もし四威儀、一切の時に行じ、空を伏し、仮に会し、法性に登り、無生の山に至る。
五には定心。寂滅、無相、無量の行、無量の心、三昧。
六には慧心。空慧は無縁の智にあらず。体の名は心。一切の法を分別する。仮名の主者は道と通じて洞徹す。
七には願心。無量の妙行をもって菩提を願求す。無量の功徳は求むるをもって本とす。
八には護心。三宝を護し、一切の行の功徳を護し、外道の八倒、悪邪見の嬈すことをせしめず。
九には喜心。他人の楽を得るを見て、常に喜悦を生ず。
十には頂心。この人は最上の智、人の頂のごとし。我見等を見滅す。文にいう、「諸仏まさに知るべし。この十発趣より入って堅法忍の中の十長養心に向かう」と。
十長養心とは、
一には慈心。一切衆生に慈楽の果を得せしむ。
二には悲心。一切衆生の無量の苦を救う。
三には喜心。無生を悦喜し、諸衆生をして仏法の家に入らしめ、常に歓喜を起こす。
四には捨心。無造、無相、空の法の中において、善悪の二の中に平等に一照す。
五には施心。財施も法施も、皆如如の相のごとし。
六には好語心。愛語三昧に入り、聖法の語をもって諸衆生を教え、善根を起こさせる。
七には利益心。利益三昧に入り、現に一切の身口意をもって六道の中において無量の苦を受け、患いとせず、ただ人を益するをもって利とす。
八には同心。無我の智をもって、無二、無量の身に同生し、諸の六道に入り、一切の事を同じくす。
九には空心。復た定心よりして慧を観じ、空を証し、心静かに縁を照らして動転せず。
十には慧心。諸の邪見、結患等の縛を観じて、決定の性なし。忍に順じ、空と同じ。ゆえに「諸仏まさに知るべし。この長養より入って堅修忍の中の十金剛心に入る」と。
十金剛心とは、
一には信心。一切の法行は信をもって首となす。衆徳の根本なり。邪見を起こさず、寂滅を信ず。
二には念心。常に六念および第一義を修す。
三には深心。二諦の中に深く空に入る。去来幻化の果を受けて、受くる者なし。
四には達心。一切法空を達して、如如の想を得べからず。
五には直心。無生智に入り、直く空に行ず。三界の主者は結縛にして受けず。
六には不退心。一切の凡夫の地に入らず、一道を退かず、照らす。
七には大乗心。一空に解脱し、一切衆生を載せて三界の河を渡り、仏海に入る。
八には無想心。妄想解脱し、般若波羅蜜を照らす。三世の行なく、如如一諦に行ず。一切の仏、一切の賢聖、みな同じく無生空の故。
九には慧心。無量の法界は、作なく受くるなし。一切の仏教の化導の方便の法、我皆これを心中に集め、光明、性を照らして、一切の法に入る。
十には不壊心。聖地に入り、智を起こし、八魔も壊さず。諸仏まさに知るべし。この十金剛より入って賢聖忍の中の十地に入る。
十地とは、
一に体性平等地。仏家に出生し、仏性の地に坐す。凡夫の因果は畢竟して受けず。大楽歓喜、常に二諦に入り、而して第一義の中にあり。信忍空慧、常に現前する故。
二に体性善慧地。清浄明達、一切の善根を観より大空慧に入る。方便道智の中において、諸衆生の苦諦にあらざるはなし。四諦法を観じて衆生の苦を度す。
三に体性光明地。三明解了の智をもって、三世一切の仏法門、十二分教等を知る。
四に体性爾涅槃地。ここに七覚品を修して善権方便に入り、一切衆を化して仏体の常楽我浄を見せしむ。経文にまたいう、「爾の真𦦨、俗の不断不常」。梵語の「爾𦦨」とは、これ智母、すなわち真俗の境、智を生ずるゆえに、名づけて智母という。
五に体性慧照地。十種の力品あり、一切の功徳を生起す。一慧の方便をもって善悪の二業を知る。
六に体性華厳地。一切の世界の中に十神通明智品をもって一切衆生に種種の変化を示す。天眼智は微塵の細色を知り、大色を成す。天耳智は十方三世、六道の音声を知る。天身智は一念の中に一切の色、非色、非男、非女の形を知る。天他心智は衆生の心を知る。天人智は衆生の宿世の苦楽等を知る。天解脱智は衆生の解脱を知る。天定智は衆生の心の定不定等を知る。天覚智は一切衆生の已に成仏せるか未だ成仏せざるかを知る。天念智は衆生の寿命の久近を知る。天行智は賢聖の行願を知る。
七に体性満足地。十八不共の聖人智品、下地の共ならざる所。一切の国土の中に示現して仏を作す。
八に体性佛乳地。法王位の三昧に入る。その智は仏の乳三昧を知る。ゆえに大法師となり、四魔を破壊し、仏の境界に入る。
九に体性佛華厳地。仏の威儀、如来の三昧自在王定をもって、出入時にあらず。十方三千世界に一時に成仏す。
十に体性佛境界地。その大慧は空、空を復た空とす。虚空の平等智のごとし。神虗の体は一なり。法は法性に同じ。ゆえに如来と名づく。爾の時、宝蓮華に坐し、一切の仏は記を授け、手をもってその頂を摩す。
『瑜伽』にいう、「ここに由って能く菩薩の義を摂持するが故に、地と説き名づく」。『唯識』にいう、「有為無為の功徳を総摂して自性となす。修行と所修とを勝依持と為し、生長せしむることを得せしむ。ゆえに地と名づく」。
問う、どうして三賢と十聖で名義が異なるのか。
答え、三賢十聖の位は三祇を歴ること久しく、行願も一つにあらず。ゆえに諸聖教はそれぞれ一の行を挙げて名を立てる。異なることはあるが、位に別はない。ゆえにこの経の中の前の三地は、みな「略して開くこと毛頭の許りの如し」という。すなわちこれ義である。また位位の中に名の重なるものがあるのは、名は重なるが、行の深淺により、義は重ならないのである。
自下第二辨戒深勝勸令修學文中分二初嘆深勝次諸佛子應受下勸令修學初文又二初明戒深次諸佛之本下辨其戒勝初文是故戒光從口出者此一句結前生後言是故者是前自誦兼勸他故由斯口出說戒之光又解我所以勸汝誦者前口放無量光故故勸汝誦以我從初至今成佛常誦此戒是以今誦口出光明如智論中有一年少三藏比丘於迦葉佛時在大眾中演說迦葉無量法門自是以來口出妙香世世不絕恒如今日而說偈言草木諸華香此香氣超絕能悅一切心世世常不滅類同此也又能滅惡如光破暗從喻名光戒即光故名為戒光准次釋中多約後義下正嘆深有緣非無因者出深所由故光光下正顯深也初文有解云有緣者謂此戒法三無數劫修習圓滿因所生故遮無因論又有緣者佛大慈悲本願因力有情感佛增上緣力如是戒光必有因緣此即釋前光出因緣令所解者欲顯戒光甚深所以由從因緣即無自性無自性故畢竟是空故非青等此與下文而張本也文通兩勢後為正義若不爾者如何以解非青黃等以光即是青黃相故光即戒戒不孤起必託因緣若以教為戒即佛悲願為因眾生機感為緣若以身中所受之戒即菩提心為因師受為緣因緣生故所以無性由無性故非青黃等下正顯深故光光等者由前從緣以如是義故故云故也若作前解則云非無因故光今不同之光光等者光即戒也戒相眾多故重言也於中四句一非青等二非色心三非有無四非因果由從緣生空空無自性故十二門論云眾因緣生法是則無自性若無自性者云何有是法以即空故非青黃等五次非色心者若約戒教文字性離無有文字故非色心若約所受亦即空故而非色心又解無表戒體依思種立無質礙故非色無緣慮故非心故涅槃云雖無形色而可護持雖無觸對善脩方便可得具足三離有無者從緣無性即緣非戒離緣無戒非即非離中間亦無故非有也然則有此離相之戒故云非無故天親般若論云以無物故名無法相空無我理非無故無非法相又無相故非有緣起故非無四離因果者以無自性因果俱空故非因果故中論云若法因待成是法還成待今則無因待亦無所成法又約戒教以佛悲願為因故非因能成眾菩薩之果故非果也若約所受以菩薩心而為因故故非因以能成就菩薩故果故非果也雖有二義文中戒光從於口出又次下文勸令應誦以教為戒也次彰戒勝於中三句初句戒雖非果而能剋果故云諸佛之本原此句約果以顯勝次句戒雖非因而能作因故云行菩薩之根本第三通為大眾之本前約位高此約初位故為兩句此二約因以顯勝也自下結勸修學是大眾等舉所學受持如前背文為誦尋義進脩並名為學。
以下は、指定された中国語仏典の日本語訳です。
第二に、戒の深遠さと勝れた点を明らかにし、修行者にその学びを勧める文は、二つに分かれる。最初に深遠さと勝れた点を嘆じ、次に「諸仏子よ、受けるべし」から修行を勧めている。最初の文はさらに二つに分かれ、初めに戒の深遠さを明かし、次に「諸仏の本」からその戒の勝れた点を論じる。
初めの「この故に戒の光、口より出ず」とは、この一句で前を結び後を生ず。「是の故に」とは、前に自ら誦し、兼ねて他を勧めたことによる。それによって、説戒の光が口より出たのである。また、私があなたに誦するを勧めた理由は、前に口から無量の光を放ったからである。ゆえに誦するを勧めたのだ。私は最初から現在に至るまで成仏し、常にこの戒を誦してきた。今、誦することによって口から光明が出る。『大智度論』にあるように、かつて迦葉仏の時、ある若い三蔵比丘が大衆の中で迦葉の無量の法門を説いた。それ以来、その口から妙なる香りが出て、世々絶えることなく、常に今日のようであった。偈に言う。「草木や諸々の花の香り、この香りは気高く超絶し、一切の心を楽しませ、世々常に滅せず。」これと同類である。また、悪を滅ぼすことは光が闇を破るようなものである。譬えから光と名づける。戒は光であるから、戒光と名づける。「准次釈」の中では、多くは後の義による。以下、正に深遠さを嘆じる。「縁有りて非ず、因無きに非ず」とは、深遠さの所以を出す。「光光」以下の文で、正に深遠さを顕す。
初めの文には解釈がある。「有縁」とは、この戒法は三無数劫の修習円満して因により生じたものだから、無因論を遮する。また「有縁」とは、仏の大慈悲の本願の因力と、有情が仏に感じることの増上縁の力による。このような戒の光は必ず因縁がある。これは前の光出の因縁を釈し、解する者に戒光の甚深さを顕し示す。因縁によるから、自性は無い。自性が無いから、畢竟空である。ゆえに青等ではない。これは下文の張本となる。文は両勢に通じるが、後の方が正義である。もしそうでなければ、どうして青黄等にあらずと解するのか。光はすなわち青黄の相だからである。光はすなわち戒であり、戒は孤起せず、必ず因縁に託る。もし教を戒とすれば、仏の悲願を因とし、衆生の機感を縁とする。もし身に受けるところの戒とすれば、菩提心を因とし、師の受を縁とする。因縁により生ずるから、無性である。無性により、青黄等にあらず。以下、正に深遠さを顕す。「光光等」とは、前に縁に従うことによりこのような義があるから、「故に」というのである。もし前の解釈によれば、「無因にあらず、故に光は今の同じからず」となり、「光光等」とは、光はすなわち戒である。戒相は多いから重言した。その中に四句ある。一に青等にあらず、二に色心にあらず、三に有無にあらず、四に因果にあらず。因縁により生じて、空空にして自性無いからである。ゆえに『十二門論』に言う。「衆因縁生法是、則無自性。若無自性者、云何有是法」。即ち空であるから青黄等ではない。
第五に、「色心にあらず」とは、もし約戒教すれば、文字の性は離れて、文字は無い。ゆえに色心にあらず。もし約所受すれば、即ち空であるから、色心にあらず。また解するに、無表戒体は思種に依って立つ。質礙無き故に色にあらず、縁慮無き故に心にあらず。ゆえに『涅槃経』に言う。「形色無しと雖も、而も護持す可し。触対無しと雖も、善く方便を修して、具足することを得。」「有無を離る」とは、縁によりて無性なるが、即ち縁は戒にあらず。縁を離れて戒無し。即にあらず、離にあらず、中間にも亦た無し。ゆえに「有にあらず」。然るに則ち、この離相の戒があるから「無にあらず」という。ゆえに天親の『般若論』に言う。「無物なれば、名けて無法相と為す。空にして我理無きは、無にあらざる故、非法相無し」と。また、相無き故に有にあらず、縁起故に無にあらず。「因果を離る」とは、無自性により因果俱に空なり。ゆえに因果にあらず。ゆえに『中論』に言う。「若し法因待し成ぜば、是の法還って成ずるを待つ。今は則ち因待無く、亦た成ずる所の法無し」と。また、約戒教すれば、仏の悲願を因と為す。故に因にあらず。能く衆菩薩の果を成ずるが故に、果にあらず。もし約所受すれば、菩薩心を以て因と為す。故に因にあらず。能く菩薩を成就するが故に、果にあらず。二義有れども、文中「戒光口より出ず」と言い、また下文に「誦すべし」と勧めるので、教を以て戒と為す。
次に戒の勝れた点を彰す。その中に三句ある。初句、戒は果にあらざれども、能く果に克つ。ゆえに「諸仏の本源」という。この句は果に約して勝れた点を顕す。次の句、戒は因にあらざれども、能く因と作る。ゆえに「菩薩行の根本」という。第三に、通じて大衆の本と為す。前は位の高きに約し、これは初位に約す。故に二句となる。この二つは因に約して勝れた点を顕す。自ら以下、結んで修学を勧める。「是の大衆等」とは、学ぶ所を示す。「受持」とは、前の如く文を背にして誦す。義を尋ねて進修し、並びに学と名づく。
自下第三辨機勸受佛子諦聽警眾勅聽若欲受戒者辨情所為國王以下明受之機文列十八變化人者即龍鬼等而能變形本形惟得恐變不得故別舉之但解法師語辨得之由以法師語是增上慢緣雖有受心無緣不發即是牛羊等類中邊不同皆不發戒亦猶有種無雨而不生牙皆名第一清淨者辨得之益以其三聚戒具兼防意惡以對聲聞皆名第一清淨者准此亦是勸受之言。
次に、第三に「機を弁じて受けを勧める」。
仏子よ、よく聞け。衆生に勧めて、聞くことを命じる。
もし戒を受けようとする者がいるなら、その心の目的を弁別せよ。
国王以下、戒を受ける機根(きこん)を明かす。
文中に「変化する人」とは、竜や鬼などである。彼らは姿を変えることができるが、本来の姿でいることを恐れ、変わりたいと思うので、特に別に挙げられている。
ただし、法師の言葉を理解できることが、戒を得る条件である。法師の言葉は、増上慢(ぞうじょうまん)の縁となるからだ。
戒を受けようとする心があっても、縁がなければ戒は発動しない。牛や羊などの類がそうである。中辺(ちゅうへん)が異なるため、いずれも戒を発することはない。ちょうど種があっても雨が降らず、芽が出ないようなものである。
これらすべてを「第一清浄」と呼ぶのは、戒を得る利益を弁別しているからである。三聚浄戒(さんじゅじょうかい)は、身・口・意の悪を防ぐことにより、声聞(しょうもん)の戒と比較して、いずれも「第一清浄」とされる。
これもまた、戒を受けよと勧める言葉である。
自下第四廣陳犯相結勸奉持大文分二初廣陳犯相次諸佛子聽是十重四十八下總結勸修前文又二先明重戒次辨輕垢前文有三一舉數勸持二列名辨相三總結勸持初文有五一告所為人二略舉其名數三舉失勸誦四舉例勸學五結說勸持初文合是經家提舉次段有十種者舉數波羅提木义者出名第三段中初明不誦之失故云若受等次彰佛自誦故云我亦如是誦作此言者擊令誦也前舉失中非菩薩者失其位非佛種子者失其因也前失現行之行後失如來之種由不誦戒不識持犯戒行不存故非菩薩又復不熏以成佛種二俱失也又解此乃過分擊令誦戒不誦能持計不應失也第四段舉三世學勸令學義及修行也第五結勸中已略說等此結前也應當學等此勸持也。
第四に、広く犯相を説き、結論として護持を勧める。この大きな文は二つに分かれる。まず広く犯相を述べ、次に「諸の仏子よ聞け、この十重・四十八の軽戒を」と総括して修行を勧める。
前の文はさらに二つあり、先に重戒を明かし、次に軽垢を分別する。前の文には三つの部分がある。一に、数の挙げて持戒を勧める。二に、戒名を列挙してその相を明かす。三に、結んで持戒を勧める。最初の部分には五つある。一に、説法の対象を告げる。二に、大まかにその戒名と数を挙げる。三に、過ちを示して誦戒を勧める。四に、例を挙げて学びを促す。五に、結んで持戒を勧める。
最初の文は、経典の編者が述べたものである。次の「十種あり」というのは、数を挙げたものである。「波羅提木叉」というのは、戒名を示したものである。第三段では、まず誦戒しないことの過ちを明かす。ゆえに「若し受けて等」という言葉がある。次に、仏ご自身が誦戒されたことを明かす。ゆえに「我もまた如是に誦す」と言う。これらの言葉を述べるのは、強く誦戒を促すためである。
前に挙げた過ちのうち、「菩薩に非ず」というのは、その位を失うことを言う。「仏の種子に非ず」というのは、その因を失うことを言う。前の過ちは現行の行いを失い、後の過ちは如来の種子を失うことになる。戒を誦せず、持つことと犯すことを知らなければ、戒の行いが存在しないゆえに、菩薩ではないのである。また、戒を熏修して仏の種子を成就することもない。これら二つが共に失われる。あるいは、これは度を過ぎて誦戒を促すものであり、誦戒しないことが持ちこたえられるはずがない、という解釈もある。
第四段は、過去・現在・未来の三世の学びを挙げて、その義を学び、また修行することを勧める。第五段の結びの勧めで「已に略説す」などと言うのは、前の内容をまとめたものである。「当に学ぶべし」などと言うのは、護持を勧めたものである。
自下第二列名辨相先解其義十門分別第一彰其犯因第二彰其犯具第三配於業道第四定其三時第五明其次第第六辨其遮性第七明其犯境第八明其輕重第九彰其來報第十諸部相攝。
これから第二の部分として、戒律の名称を列挙し、その意味を明らかにします。まず、その内容を理解するために、十の項目に分けて説明します。
第一に、犯戒の原因を示す。 第二に、犯戒の条件を示す。 第三に、業報の道筋に照らし合わせる。 第四に、三つの時期を定める。 第五に、その順序を明らかにする。 第六に、遮戒と性戒を区別する。 第七に、犯戒の対象を明らかにする。 第八に、その重さと軽さを明らかにする。 第九に、その将来の報いを示す。 第十に、諸部派の教えを相互にまとめる。
初門犯因者犯此十重三毒為因若論究竟者殺毀及瞋由瞋究竟盜妄說過三報究竟婬慳酤酒自讚由貪究竟謗之一戒由癡究竟殺三起者優婆塞戒經云若為貪故害命是名從貪若殺怨家是名從嗔殺老父母是名從癡皆起害心由瞋究竟盜三起者自為己身妻子眷屬貪他財物與往劫奪是名從貪盜怨家物是名從嗔劫奪下姓是名從癡三究竟者情有所期名貪究竟燒埋成犯由瞋究竟互用成犯由癡究竟此約違教不同瑜伽婬三起者若人自樂行非梵行是名從瞋於所生母作非梵行是名從貪婬怨眷屬是名從癡境悅暢思由貪究竟妄三起者若為財利自受快樂是名從貪為壞怨故是名從瞋若畏他怨是名從癡結成究竟亦由貪等故四分律云有三種妄語得波羅夷貪恚癡酒三起者義云為貪直故是名從貪酤與怨家令醉亂故是名從瞋不信有罪而酤酒者是名從癡以財悅心無瞋究竟說三起者貪名利故兩說他過是名從貪說怨家過是名從瞋說師父過是名從癡三毒現前可得成犯三報究竟讚毀三起者經文唯說毀三起也為財利罵詈婦兒是名從貪向怨家說他所惡事是名從瞋說他往昔先人之過是名從癡皆暢忿情由瞋究竟自讚三起今義解云規求名利是名從貪為勝怨故是名從瞋無德謂德自讚名癡為暢愚情瞋非究竟慳三起者屬貪瑜伽云於非怨有情財物資具起如是心願當屬我名貪所生貪欲業道若於財物不計為好但九慳事故起如是心凡彼所有皆當屬我名瞋所生若作是計諸有欲生釋梵世主妙世界中獲大福祐多癡所生義解慳三若恡財物擬死自恣是從貪起瞋他不施是從瞋生謂施無福是從癡生並暢貪情由貪究竟瞋三起者若為財利稱譽安樂起損害心名貪所生從怨對想起損害心名瞋所生住外道法於正沙門增惡他見及壞彼見兼疑害人名癡所生然約究竟皆瞋現前故瞋究竟謗即邪見從三起者若作是心撥無與彼於王等獲大供養即以此義起於邪見名貪所生邪見業道若作是心若言有施違害於我彼由增恚起於邪見言無有施名瞋所生由不如理觀察由此方便所引尋伺發起邪見名癡所生依於瑜伽由癡究竟若依四分諸戒皆有癡心究竟以彼文中有愚癡五犯又更一義若約位齊起心即犯十戒皆以三報究竟。
初めに犯因を説く。これら十重の戒を犯す因は、三毒である。究極的に論じれば、殺生・毀辱・瞋は、瞋によって究竟する。盗・妄語・過説は、三報によって究竟する。婬・慳・酤酒・自讚は、貪によって究竟する。謗の一戒は、癡によって究竟する。
殺生の三起について、『優婆塞戒経』に曰く、「もし貪欲の故に命を害すれば、これを貪より生ずと名づく。もし怨家を殺せば、これを瞋より生ずと名づく。もし老いたる父母を殺せば、これを癡より生ずと名づく。いずれも害心を起こし、瞋によって究竟する」と。
盗の三起とは、自己の身や妻子眷属のために、他人の財物を貪り、奪い取ることを、貪より生ずと名づく。怨家の物を盗むことを、瞋より生ずと名づく。下賤の者から奪うことを、癡より生ずと名づく。三究竟とは、心に期するところがあることを、貪究竟と名づく。焼埋して犯すことを、瞋究竟と名づく。互いに用いて犯すことを、癡究竟と名づく。これは教えに違うことに基づくもので、瑜伽とは異なる。
婬の三起とは、もし人が自ら楽んで非梵行を行うことを、瞋より生ずと名づく。生母に対して非梵行を行うことを、貪より生ずと名づく。怨家の眷属と婬することを、癡より生ずと名づく。境に心が暢び悦ぶことを、貪によって究竟する。
妄語の三起とは、もし財利のために自ら快楽を受けることを、貪より生ずと名づく。怨みを壊すために、瞋より生ずと名づく。もし他者の怨みを畏れるゆえに、癡より生ずと名づく。結局は究極に至ることも、貪等による。故に『四分律』に曰く、「三種の妄語あり。波羅夷を得る。貪・恚・癡なり」と。
酤酒の三起とは、義に曰く、「貪直のために、これを貪より生ずと名づく。怨家に酤って酔わせ乱させるために、瞋より生ずと名づく。罪あることを信ぜずして酒を酤ぐを、癡より生ずと名づく。財をもって心を悦ばせるも、瞋の究竟はなし」と。
過説の三起とは、名利を貪って両方に他者の過ちを説くことを、貪より生ずと名づく。怨家の過ちを説くを、瞋より生ずと名づく。師父の過ちを説くを、癡より生ずと名づく。三毒が現前すれば、犯すことを得。三報によって究竟する。
讚毀の三起とは、経文にはただ毀の三起のみを説く。財利のために婦児を罵るを、貪より生ずと名づく。怨家に向かって他所の悪事を説くを、瞋より生ずと名づく。他人の往昔の先人の過ちを説くを、癡より生ずと名づく。いずれも忿りの情を暢べ、瞋によって究竟する。
自讚の三起とは、今の義解に曰く、名利を求めることを、貪より生ずと名づく。怨みに勝つために、瞋より生ずと名づく。徳なきに徳ありと謂いて自ら讚ずるを、癡より生ずと名づく。愚かな情を暢べるも、瞋は究竟にあらず。
慳の三起とは、貪に属す。瑜伽に曰く、「怨みにあらざる有情の財物・資具に対して、かかる心を起こす。願わくば、まさに我が有たらんことを。これを貪所生の貪欲業道と名づく。もし財物を良しとせず、ただ慳の事のために、かかる心を起こす。凡そ彼の所有は、みなまさに我が有たらんことを。これを瞋所生と名づく。もしかかる計をなす。諸々の欲生・釈梵世主・妙世界中において、大いなる福祐を得んことを。多くは癡所生なり」と。義解の慳の三とは、もし財物を吝んで、死に臨んで自ら恣にすることを、貪より起すとす。瞋って他に施さざるを、瞋より生ずとす。施すに福なしと謂うを、癡より生ずとす。いずれも貪情を暢べ、貪によって究竟する。
瞋の三起とは、もし財利・称譽・安楽のために損害心を起こすを、貪所生と名づく。怨對の想いより損害心を起こすを、瞋所生と名づく。外道の法に住し、正しき沙門に対して他見を増悪し、およびその見を壊し、兼ねて人を疑い害するを、癡所生と名づく。しかれども究竟に就いては、みな瞋現前するゆえ、瞋によって究竟する。
謗、すなわち邪見は、三より起これり。もしかかる心をなす。王などに施すことなくして大いなる供養を得ることを、すなわちこの義をもって邪見を起こす。これを貪所生の邪見業道と名づく。もしかかる心をなす。もし施ありと言わば、我を違害せん。彼、増恚によって邪見を起こし、施なしと言う。これを瞋所生と名づく。理に如かざる観察により、この方便に引き所の尋伺によって、邪見を発起す。これを癡所生と名づく。瑜伽に基づき、癡によって究竟す。もし『四分』に依れば、諸戒みな癡心によって究竟する。かの文に「愚癡の五犯」あり。また更に一義あり。もし位を斉しくして心を起こせば、すなわち十戒をみな犯し、みな三報によって究竟す。
次約犯具所謂三業此十戒中初三及五皆亦依身犯語有犯義所謂教人殺兼道意如仙人起瞋然屬身業妄說毀謗此四語犯然妄三業現相即身說戒默妄即屬意業然屬語業業性異故不究竟故慳瞋二戒是意業犯瞋通身業加以手打及以刀杖方成犯故若位稍高獨意成犯。
次に、犯戒を成立させる条件について説明する。それは「三業」、つまり身・口・意の三つの行為に基づく。 この十戒のうち、最初と三番目、五番目の戒は、身体による犯行が基本である。ただし、「口(言葉)」による犯行も存在する。例えば、「人を殺せ」と教える場合や、仙人が怒りの心を起こした例があるが、これらは身業に属する。
虚偽の話や誹謗中傷、悪口、二枚舌の四つの戒は、言葉による犯行である。ただし、虚偽の戒については三業すべてが関わる。つまり、「戒を守る」と言いながら実際には破るなど、言葉の上だけでなく身や心でも犯すことがあるため、身業と結びつく場合もある。しかし、基本的には口業に属する。
また、慳(物惜しみ)と瞋(怒り)の二つの戒は、心(意業)による犯行である。ただし、怒りの場合は身体の行為も含まれる。例えば、手で打つ、棒や刀を使うといった行為があって初めて犯戒となるからである。 もし修行の位が高ければ、心だけで犯した場合にも犯戒となる。
三配業道者將此十戒配十業道初四如次配前四業酒戒配貪及以邪見以酒生癡助邪見故若望貪利屬貪業道說配兩舌若直說過則非兩舌離間心說則成兩舌毀配惡口自讚非十慳屬於貪瞋正相當謗屬邪見。
三つの配当について、この十戒を十の業道に配当する。最初の四つは順に前の四つの業に対応する。酒戒は貪りと邪見に配当される。なぜなら酒は愚痴を生じ、邪見を助けるからである。もし利益を貪るという観点から見れば、貪りの業道に属する。両舌に配当するのは、もし直接的に過ちを説くのであれば両舌ではなく、離間の心で説くから両舌となるのである。悪口については、自らを褒めることは十の業には含まれない。慳吝は貪りに属し、瞋恚は正しく対応する。謗りは邪見に属する。
四定三時者優婆塞戒經云十惡道皆有三事一者根本二者方便三者以成己斷他命根若動身作相或口說殺是名根本求刀毒等是名方便殺已自食若與人食歡喜受樂無悔恨心是名後起若自盜取若教人取是名根本若壞垣墻入舍求索乃至手觸是名方便若得物已任意施與賣用句遺心不悔恨是名成已若屬他婦女作非梵行是名根本若遣使往若與信物若以手觸是名方便若事已訖共器飲食歡喜受樂心無悔恨是名成已若於大眾捨離本想虗妄說之是名根本若受他語起往彼說是名方便若事成已受取財物任意施與受樂無悔是名成已經無酤酒義解酤已得直名為根本醞釀方便得直已後恣意受用無悔恨心名為後起說當兩舌能壞和合是名根本若說他過言和合者必有不可若離壞者必有好事是名方便既離壞已受財物等同前妄語若變容色惡口罵詈是名根本起去到彼欲說是惡是名方便若罵詈已還受財物等同前自讚經無對人自譽是名根本起往欲讚是名方便讚已得財隨意受用是名後起慳屬於貪於他財物生貪欲得是名根本發煩惱心是名方便作已得財任意施與不生悔心是名成已若打罵人是名根本(准此嗔戒惡打方犯)若捉杖石是名方便打已生喜受取財物等同前謗善因果真諦賢聖是名根本信受邪書讚嘆稱譽是名方便受已向他分別演說增其邪見受取財物等同前瞋之與貪未得一時其餘八事可得一時五次第者然聲聞戒待犯方制婬戒居先大妄居後以依制戒為先後故此中先後者一以菩薩慈濟為懷殺戒若首二順本業道以殺為初乃至第十謗戒居後以不待犯即為制故故智論云一切寶中人命第一人為命故求財不為財故求命是故佛說十不善道中殺最在初五戒中亦在初若人種種修福德而無不殺生戒則無所益何以故雖在富樂家生勢力豪族而無壽命誰受富樂以是故知諸罪中殺罪最重諸功德中不殺第一世間惜命為第一下制意中六須此意今解十惡身三業中重先輕後以為次第殺重盜次婬最輕也口四過中約就稀數以明次第妄語最數乃至第四惡口最稀意三亦然貪數瞋次邪見最稀故先後也今十戒中前四後四依本業道以為次第中間二戒別為俗制優婆塞戒經中於俗人制於六重而此前六第五一戒為護前四故在第五第六一戒令護佛法故次制之。
四種の区分と三種の段階について、『優婆塞戒経』にはこう説かれています。十の悪道には、いずれにも三つの要素がある。第一に根本、第二に方便、第三に成就である。
他人の命を絶つ場合、身体を動かして動作を示したり、口で殺すと言ったりするのが根本である。刃や毒を求めるなどは方便である。殺した後、自らその肉を食べたり、他人に与えて食べさせ、喜び楽しんで悔いる心がないのが、成就後の状態である。
自ら盗み取ったり、他人に盗ませたりするのが根本である。壁を壊し、家に入り、物を探し求め、手で触れるに至るのが方便である。物を得た後、気ままに施したり売ったり使い、与えた心に悔いがないのが成就である。
他人の妻女と、梵行ならざる行為をするのが根本である。使いを派遣したり、品物を贈ったり、手で触れたりするのが方便である。事が終わった後、共に器で飲食し、喜び楽しみ、心に悔いがないのが成就である。
大衆の中で、本来の考えを捨てて虚偽のことを語るのが根本である。他人の言葉を受け、その場所に行って語るのが方便である。事が成就した後、財物を受け取り、気ままに施し、楽しんで悔いがないのが成就である。
酒を売ることを持って解説(※クンダク この語は「酒を売ること」の意)すると、得た代価を根本と名づける。醸造の過程は方便である。代価を得た後、思うままに受け使い、悔いる心がないのを、後の状態と名づける。
両舌(仲違いをさせる言葉)については、和合を壊す能うものが根本である。もし他人の過失を語り「和合する者には必ず不都合がある。もし離れさせれば必ずよいことがある」と言うのが方便である。離れさせた後、財物などを受け取るのは、前の妄語と同様である。
容貌を変え、悪口を罵るのが根本である。立ち上がってその場に行き、悪口を言おうとするのが方便である。罵った後、財物などを受け取るのも、前と同様である。
自らを誉めることについては、人の前で自ら称賛するのが根本である。立ち上がって称賛しに行こうとするのが方便である。称賛した後、財物を得て心のままに受け使うのを、成就後の状態と名づける。
慳吝(物惜しみ)は貪欲に属する。他人の財物に対して貪って得たいと思うのが根本である。煩悩の心を起こすのが方便である。行って財を得、気ままに施し、悔いる心がないのを成就と名づける。
人を打ち罵るのが根本である。(これに準じれば、瞋恚の戒は、実際に打ったときに犯す。)杖や石を手に取るのが方便である。打った後に喜び、財物などを受け取るのは前と同様である。
善因善果や真実の聖者を謗るのが根本である。邪見の書物を信じ受け、賛嘆するのが方便である。受け入れた後、他人に向けて分別し説き、その邪見を増長させ、財物などを受け取るのは、前の瞋恚や貪欲と同様である。
瞋恚と貪欲は同時に起こることはない。その他の八つの事柄は、同時に起こり得る。
次に、順序について。声聞の戒律は、犯した後に制する。婬戒が最初、大妄語が最後である。これは、犯した後に制する順序に従ったからである。しかしここでの順序は、第一に菩薩の慈悲による救済を旨とするので殺戒が最初、第二に本来の業道に従い殺から始まり、第十の謗戒で終わる。犯す前から制するからである。ゆえに『大智度論』には「一切の宝の中で、人命が最も尊い。人は命のために財を求め、財のために命を求めることはない。ゆえに仏は、十の不善道の中で殺が最も最初にあると言い、五戒の中でも最初にある。もし人が様々に功徳を修めても、不殺生の戒がなければ、何の益もない。なぜか。富楽の家に生まれ、勢力ある豪族であっても、命がなければ誰が富楽を受けるのか。このゆえに諸々の罪の中で殺の罪が最も重く、諸々の功徳の中で不殺が第一である。世間では命を惜しむことが第一である」と説かれている。六つの必要に関する意味のうち、この第六の意味がここに当てはまる。
今、十悪について、身の三業の中では重いものを先に、軽いものを後にして順序とする。殺が最も重く、盗が次、婬が最も軽い。口の四過については、数の多い少ないで順序とする。妄語が最も多く、第四の悪口が最も少ない。意の三つも同様で、貪欲が多く、瞋恚が次、邪見が最も少ない。ゆえにこの順序となる。
今の十戒では、前の四つと後の四つは、本来の業道に従って順序とする。中間の二戒は、特に在家のために制されたものである。『優婆塞戒経』では、在家に対して六つの重戒を制している。この中の前の六つのうち、第五の戒は前の四つを護るために、第五の位置にある。第六の戒は仏法を護らせるために、次に制されたのである。
六遮性者酒戒為遮餘皆是性由佛禁故名之為遮體是不善名之為性又世界中王等共禁名為本戒佛教獨禁名為容名戒。
「六つの遮性について。酒の戒は遮(状況によって禁じられるもの)であり、他のものはすべて性(本質的に悪いもの)である。仏が禁じたから遮と名づけ、その本質が善くないから性と名づける。また、世の中の王などが共に禁じるものを本戒と名づけ、仏教だけが禁じるものを容戒と名づける。」
七明犯境於十戒中位分為二前八局性後二通二以瞋戒中云於眾生中乃至非眾生中皆成犯也以謗戒中佛僧有情法是非情文就情中說謗局人餘通異趣又就人中在家出家謗局出家餘通二位又有情中有凡有聖酤酒唯凡謗境唯聖餘之八戒境通凡聖。
七つの明らかな犯戒の境は、十戒の中では二つに分けられる。前の八つは性に局限され、後の二つは二つに通じる。瞋戒の中では、「衆生の中において、乃至、非衆生の中においても、全て犯戒となる」と説かれる。謗戒の中では、仏・僧は有情であり、法は非情である。文は情に就いて説くが、謗は人に局限され、他は異なる趣に通じる。また、人の中でも在家と出家があり、謗は出家に局限され、他は二つの位に通じる。さらに、有情の中には凡夫と聖者がいる。酤酒は凡夫のみに、謗の境は聖者のみに局限され、残りの八戒の境は凡夫と聖者の双方に通じる。
八輕重者可為五門一約事明二約心說三約三時四約稀數第五約戒初約事者如殺發菩薩心人及羅漢等是名為重反上為輕盜佛物常住物等名之為重餘則稍輕人望餘趣復有輕重前殺亦然婬母汙尼菩薩心人是則為重餘境漸輕稱過人法夷罪謗是則為重餘妄便輕酤與出家菩薩心人是則為重除此應輕說於菩薩出家則重在家小乘是則便輕毀他為重自讚應輕又毀他中聖境持戒是則為重非聖破戒是則為輕於父母師長及賢聖所起恡應重餘則便輕嗔戒於賢聖父母師長是則為重餘則便輕又嗔有情為重無情則輕三寶之中謗法最重是佛次僧輕二約心者貪心為下嗔心為次癡心最重故優婆塞戒經云貪心殺生輕嗔心次癡心重餘戒准同又善心不善及無記心不善為重無記為次善心便輕戒獲功德如瑜伽說又瑜伽論有三品纏如前所引三約三時如優婆塞戒經云或方便重根本成已輕或根本重方便成已輕或成已重方便根本輕(此一時重也)或方便根本重成已輕或方便成已重根本輕或根本成已重方便輕(此二時重也)或方便根本成已重(三時俱重也)或方便根本成已輕(三時俱輕)事雖是一由心力故得輕重果四稀數者十住婆沙云事雖是輕以數習故則成重也准此事重稀則為輕五約戒者謗戒最重殺戒為次嗔為第三盜為第四婬為第五毀他第六說過第七妄語第八慳為第九酒及自讚最居後也讚又輕也。
八つの軽重は、五つの観点から説明できます。
第一に、事柄に基づく説明です。例えば、菩薩の心を発した人や羅漢などを殺すことは重罪であり、その逆は軽罪です。また、仏の物や常住物を盗むことは重罪であり、それ以外はやや軽くなります。人間と他の生き物とでは、重軽の差があります。殺生についても同様です。母親や尼僧、菩薩の心を持つ人と婬することは重罪であり、それ以外の対象は次第に軽くなります。人の法を超えたと称する大妄語は重罪であり、その他の妄語は軽くなります。酒を売ることで出家者や菩薩の心を持つ人が酔うなら重罪であり、それ以外は軽くなります。また、菩薩や出家者に対しては重く、在家の小乗に対しては軽くなります。他人を誹謗することは重く、自らを褒めることは軽くなります。誹謗の中でも、聖者や戒律を守る人を誹謗することは重く、聖者でなく戒律を破る者を誹謗することは軽くなります。父母や師長、賢聖に対して物惜しみすることは重く、それ以外は軽くなります。瞋りの戒においては、賢聖・父母・師長に対して怒ることが重く、それ以外は軽くなります。また、生きとし生けるものに対して怒ることは重く、無情なものに対しては軽くなります。三宝の中では、仏法を誹謗することが最も重く、次に仏、そして僧が軽くなります。
第二に、心に基づく説明です。貪りの心は軽く、瞋りの心は中くらいで、愚痴の心が最も重いのです。『優婆塞戒経』には、「貪りの心で殺生するのは軽く、瞋りの心は次、愚痴の心が最も重い。その他の戒もこれに準ずる」とあります。また、善心・不善心・無記心の中で、不善心が重く、無記心は次、善心は軽くなります。戒による功徳の得方については、『瑜伽論』の説明があります。また、『瑜伽論』には三つの品の纏(煩悩)があり、先に引用した通りです。
第三に、三つの時(三時)に基づく説明です。『優婆塞戒経』には、「方便が重く、根本と成已が軽い場合」や「根本が重く、方便と成已が軽い場合」などがあります。(これは一時が重い場合です。)また、「方便と根本が重く、成已が軽い場合」や「方便と成已が重く、根本が軽い場合」、(これらは二時が重い場合です。)そして「方便・根本・成已の全てが重い場合」(三時全てが重い場合です。)や「方便・根本・成已の全てが軽い場合」(三時全てが軽い場合)があります。同じ事柄でも、心の力によって重い果報と軽い果報が生じるのです。
第四に、回数の多さに基づく説明です。『十住婆沙論』には、「事柄は軽くても、繰り返し行うことで重くなる」とあります。これに基づけば、重い事柄でも回数が少なければ軽くなります。
第五に、戒に基づく説明です。戒律を誹謗することが最も重く、次に殺生、第三に瞋り、第四に盗み、第五に婬、第六に他人を誹謗すること、第七に過ちを言いふらすこと、第八に妄語、第九に物惜しみ、第十に酒、そして自らを褒めることが最も軽いとされています。自らを褒めることはさらに軽いのです。
九感報者准下文云一切皆墮三惡道中二劫三劫明知十戒皆三受以由犯時有輕重故二劫三劫時節不同又約十惡根本業道明感報者如善生經是十惡業決定當得地獄果報或有餓鬼或有畜生餘果則得人中短命(殺果)貧窮乏財(盜果)婦不貞廉(邪行果)有所言說人不信受(妄果)無有親厚(兩舌果)常被誹謗(惡口果)耳不聞善好之聲(綺語果也上等流果也)能令外物四大衰微無有真實惡風暴雨臭穢敗壞土地不平無有七寶多有石沙味不具定(此增上果)然經不明意三報也婆沙云諸有貪欲從彼處沒來生人中貪欲猛利是等流果所感外物多分損減是增上果諸有嗔恚來生人中嗔恚猛利是等流果所感外物多分枯悴是增上果諸有邪見來生人中愚癡猛利是等流果所感外物多分零落乏少花菓或全無果是增上果。
(報いについての解釈)以下の経典によれば、「すべての者は三悪道に堕ち、二劫から三劫の間、そこにとどまる」とある。これは十戒がいずれも三つの受け止め方(三受)に分類されることを示している。戒を犯す際に軽重の差があるため、二劫、三劫と時節が異なるのである。
また、十悪の根本的な業道に基づいて報いを明らかにすると、『善生経』には次のように説かれている。これらの十悪業は、必ず地獄の果報をもたらす。あるいは餓鬼、あるいは畜生となる。その余りの果報として、人間に生まれても短命であり(殺生の果報)、貧しくて財産に乏しく(盗みの果報)、妻は貞節ではなく(邪淫の果報)、語るところ人に信じてもらえず(妄語の果報)、親しい者がおらず(両舌の果報)、常に誹謗され(悪口の果報)、耳に善い声を聞くことがない(綺語の果報。以上は等流果である)。さらに、外の物質世界(四大)を衰微させ、真実がなく、悪風や暴雨、汚らわしいものが起こり、土地は平らでなく、七宝もなく、石や砂が多く、味わいも十分ではない(これは増上果である)。
しかし、同経では意の三業(貪・瞋・邪見)の報いについては明らかにしていない。『婆沙論』にはこうある。欲望(貪欲)のある者は、その場所から没した後、人間に生まれても貪欲が猛烈である。これが等流果である。感応する外物は多くが損なわれ減る。これが増上果である。怒り(瞋恚)のある者は、人間に生まれても瞋恚が猛烈である。これが等流果である。感応する外物は多くが枯れ衰える。これが増上果である。誤った見解(邪見)のある者は、人間に生まれても愚かさが猛烈である。これが等流果である。感応する外物は多くが散り失せ、花や果実に乏しく、あるいは全く果実がない。これが増上果である。
十諸部相攝者依菩薩善戒經出家菩薩有八重戒即此十中初四及後四是也以出家菩薩先受聲聞戒具前四重後受菩薩戒更加後四故有八也二依善生經在家菩薩有六重戒即此中初六是也三依瑜伽地持有四重戒即此後四此中十戒通攝道俗統該諸部也。
十の戒を諸部と照らし合わせると、『菩薩善戒経』によれば、出家した菩薩には八つの重い戒があります。これはこの十戒のうち、最初の四つと最後の四つに当たります。なぜなら、出家した菩薩はまず声聞戒を受けて前の四つの重い戒を具え、その後、菩薩戒を受けてさらに後ろの四つの戒を加えるため、合わせて八つとなるからです。
次に、『善生経』によれば、在家の菩薩には六つの重い戒があります。これはこの十戒のうち、最初の六つです。
さらに、『瑜伽師地論』によれば、四つの重い戒があります。これはこの十戒のうち、最後の四つです。
このように、十戒は出家者と在家者の戒を広く含み、さまざまな経典の教えを統合しているのです。
自下釋文此十重戒即為十段頌曰。
以下は、この十重戒についての解説であり、十の段に分かれている。これを偈で示す。
教盜婬妄洒 說毀慳嗔謗
教えること、盗むこと、淫らなこと、偽りのこと、酒を慎みなさい。 また、悪口、人の悪口を言うこと、けちること、怒ること、誹謗中傷すること、これらを説いています。
▲初明殺戒。
まず、殺生の戒めについて明らかにします。
先作六門第一制意第二釋名第三具緣成犯第四闕緣之義第五對治第六通塞。
まず、六つの門を作る。 第一に、意図を定める。 第二に、名称を説明する。 第三に、条件を整えて犯しを成すこと。 第四に、条件が欠けた場合の意味。 第五に、対処法。 第六に、通用と妨げについて。
初制意者一通二別通中又二初明總制輕重戒意二明通制十重戒意前教起所因多是前意次通意有四一者為順十業道故二者為成如來種故三者為成菩薩位故故上文云若不誦此戒非佛種子下文復云若犯此戒者不得現身發菩提心亦失國王位等四者與輕戒而為本故若無根本支條不存以斯四義制茲十戒次別制意菩薩理應念彼宿恩存斯孝行觀群生之佛性起常住之悲心廣拔有緣普施無畏今斷物命反結深怨現退勝心當招極苦以斯損故制不聽為。
まず、この経典の趣旨を設ける意図について説明する。その意図には大きく二つあり、一つは全般的な意味、もう一つは個別的な意味である。全般的な意味にはさらに二つの側面がある。第一に、軽重の戒律を設ける全般的な意図を示し、第二に、十の重戒を設ける全般的な意図を示す。元来、教えが生じる原因は、主として前者の意図によるものである。
次に、全般的な意図として四つの要点がある。 第一に、十善業道に沿うためである。 第二に、如来の種性を成就するためである。 第三に、菩薩の位を成就するためである。よって、前の経文に「この戒律を唱えなければ、仏の種子ではない」とあり、後の経文にも「この戒律に違反すれば、現世で菩提心を発することができず、また国王の位などを失う」とある。 第四に、軽い戒律の根本となるためである。もし根本がなければ、枝葉も存続しない。これら四つの意味に基づいて、この十の戒律を設けるのである。
次に、個別的な戒律を設ける意図について述べる。菩薩は本来、過去の恩に思いを馳せ、孝行の心を持ち続け、衆生の仏性を観察し、常住の大悲心を起こし、広く縁ある者を救い、あまねく無畏を施すべきである。ところが、今、命を断つことでかえって深い怨みを結び、現世では勝れた心を退け、来世では極めて苦しい報いを受けることになる。このような損害があるため、戒律を設けて殺生を許さないのである。
次釋名者亦有通別通即是戒能防之行別即殺生所防之過能所通舉故云殺戒所言生者即出入息故涅槃云夫眾生者名出入息斷出入息故名為殺戒等諸佛亦隨俗說說名為殺又五陰和合假名眾生若壞五陰名為殺生亦涅槃云眾生佛性住五陰中若壞五陰名曰殺生若有眾生即墮惡道善生經云若有說言過去已滅未來未生現在無住云何名殺一念不殺微塵不壞若一念不殺多亦不殺云何言殺是義不然何以故雖復現在一念不殺能遮未來故得名殺若有說言色是無記命亦無記云何殺已而得殺罪是義不然何以故如是身命是善惡心器若壞是器遮於善惡心故是故得罪若有垂終其命餘殘有一念在若下刀者是得殺罪四分亦云從初識至後識而斷其命律攝之中必死而殺不得夷罪違經律也加水之露斯之謂矣經文又云或有說言若心在善不善無記悉得殺罪是義不然何以故非惡心殺不得殺罪若使他殺受使之人到已更以苦毒而殺口勅之者唯得作罪受使之兼得二罪作以無作問殺既從緣則無自性無自性故應無有罪答罪雖性空迷情執有故有罪根若證空理悲心行殺如仙預王則無有罪二十唯識問曰若彼三界唯是內心無有身口外境界者以何義故屠獦師等故害猪羊得殺生罪是故應有外色等境答曰死依他心亦有依自心依種種因緣破失自心識此偈明何義如人依鬼毗舍闍等是故失心或依自心是故失自心或有憶念愛不愛事是故失心或有聖人神通轉變前人心識如大迦旃延令婆羅已見惡夢等又毗尼中有一比丘夜踏苽皮謂殺蝦蟇死入惡道是故偈言依種種因緣破失自心識故死依他心亦有依自心以依仙人嗔毗摩質多羅阿修羅王故殺餘眾生此依他心死問五陰生滅此不至彼云何受報答善生經云是義不妨何以故我法或有即作是受(現報)異作異受(後生報也人作天受)無作無受(約第一義無自性故也)汝意若謂異陰異受云何復言相續不斷是義不然何以故譬如置毒乳中至醍醐時故能殺人若言是業何處住者住過去中待時待器得受保報如人服藥藥雖消滅時到則發又如小兒初所學事雖念念滅無有住處然至百年亦不忘失過去之業亦復如是雖無住處時至則受若能了了通達是事是人則能獲無上果。
戒名の解釈には、通と別がある。「通」とは戒そのものであり、防ぐ作用を指す。「別」とは殺生という、防がれるべき過ちを指す。能防と所防を総合して「殺戒」と名付けるのである。
言うところの「生」とは、すなわち出入息である。ゆえに『涅槃経』には「衆生とは、名付けて出入息という。出入息を断つことを、殺と名付けて戒とする」とある。諸仏もまた世俗に従って説き、これを殺と名付けるのである。
また、五陰が和合して仮に衆生と名付ける。もし五陰を壊せば、これを殺生と名付ける。『涅槃経』にも「衆生の仏性は五陰の中に住す。もし五陰を壊せば、これを殺生と名付く」とある。もし衆生あれば、すなわち悪道に堕ちる。
『善生経』には次のようにある。「もし『過去はすでに滅し、未来は未だ生ぜず、現在は住することなし。いかんが殺と名付けるのか。一念も殺さず、微塵も壊さず。もし一念殺さざれば、多くもまた殺さず。どうして殺と言えるのか』と説く者があれば、これは義ではない。なぜなら、現在の一念は殺さずとも、未来を遮ることができるゆえに、殺と名付けるのである。
またもし『色は無記であり、命もまた無記である。どうして殺して殺罪を得るのか』と説く者があれば、これも義ではない。なぜなら、この身と命は善悪の心の器である。もしこの器を壊せば、善悪の心を遮るゆえに、罪を得るのである。
またもし命終に臨んで、その命の余りが一念だけ残っている時、刀を下せば、この者は殺罪を得る。『四分律』にも「初識より後識に至るまで、その命を断つ」とある。『律摂』には、必ず死ぬと分かって殺しても、夷罪を得ないとあるが、これは経律に違反する。水の上の露のようなものである。
経文にはさらに「あるいは『心が善、不善、無記のいずれにあっても、すべて殺罪を得る』と説く者があれば、これは義ではない。なぜなら、悪心で殺さなければ殺罪を得ないからである。もし他人に殺させ、その使われた者が到ってさらに苦毒をもって殺すならば、口で命じた者はただ作罪を得るのみ。使われた者は作と無作の二つの罪を兼ねる」とある。
問う:殺は縁に従うゆえに自性無し。自性無ければ、罪あるべきはずがない。 答う:罪は性空であっても、迷いの情は実有と執着するゆえに、罪の根がある。もし空理を証得し、悲心をもって殺を行えば、仙預王の如く、罪は無い。
『二十唯識論』に問う:「もし三界はただ内心のみで、身口の外の境界が無いならば、なぜ屠師などが猪羊を害して殺生の罪を得るのか。ゆえに外の色などの境が有るべきである」 答う:「死は他心に依り、また自心に依る。種々の因縁によって、自心の識を破り失う」この偈は何の義を明らかにするのか。人が鬼や毘舎闍などに依って心を失うように、また自心に依って自心を失うように、また愛憎の事を憶念して心を失うように、あるいは聖人の神通によって前人の心識を転変する。例えば大迦旃延が婆羅門に悪夢を見せたなど。また『毘尼』に、ある比丘が夜に瓜の皮を踏み、蝦蟇を殺したと思い込んで死後に悪道に入った例がある。ゆえに偈に「種々の因縁によって、自心の識を破り失う」と言う。ゆえに死は他心に依り、また自心に依る。仙人の瞋恚に依って、毘摩質多羅阿修羅王が他の衆生を殺したように、これは他心に依って死ぬのである。
問う:五陰は生滅して、こちらから彼方へは至らない。どうして報いを受けるのか。 答う:『善生経』に「これは妨げにならない。なぜなら、我が法には、あるいは即作即受」(現報)「異作異受」(後生報。人が作りて天に受く)「無作無受」(第一義には自性無きゆえ)とある。あなたの意は「異なる陰が異なる報を受けるなら、なぜ相続して断たずと言うのか」とするかもしれないが、それは義ではない。例えば毒を乳に置けば、醍醐になる時にも人を殺せる。業はどこに住するのかと言えば、過去に住して時と器を待ち、報いを受ける。人が薬を服し、薬は消えても時至れば発現するが如し。また子供が初めて学んだ事も、念念に滅して住処が無くとも、百年に至っても忘れない。過去の業もまた同じく、住処は無くとも時至れば受けるのである。もしこの事を了了に通達すれば、この人は無上の果を得ることができる。
三具緣者亦有通別通緣有三一是受菩薩戒人以不受戒人則無犯故經云有犯名菩薩無犯名外道文云若佛子故二是住自性謂非犯等以無犯故三無開緣謂即救生無間苦等此三遍該一切諸戒故名通緣次別緣者依十地論五緣一是他身簡自身故二是眾生簡杭等故三有眾生想簡迷心故四起害心簡無心故五正加害簡方便故依對法論亦具五緣一事謂有情數二意樂謂有此想及必害意三方便謂為害故加刀杖等四煩惱謂貪瞋癡五究竟謂彼有情由此方便故或無間死或後時死合此二論想具七緣一他身二眾生三眾生想四殺心五有三毒六興方便七斷命通別合論十緣成犯。
三つの戒を備える因縁(さんえん)には、共通する因縁と個別の因縁がある。共通する因縁には三つある。第一に、菩薩戒を受けている人であること。戒を受けていない人には犯戒はない。経典に「犯戒ある者を菩薩といい、犯戒なき者を外道という」とあり、論書にも「仏子は故意に犯す」とある。第二に、自らの性質(自性)にあること、すなわち犯戒ではない状態にあること。犯戒がないからである。第三に、開許の因縁がないこと、すなわちただちに命を救うなど、苦しみを間断なく救う場合を除く。これら三つはすべての戒律に共通するため、「共通の因縁」という。
次に、個別の因縁は、『十地論』に基づけば五つの因縁がある。第一に、他者の身体であること。自身を除く。第二に、生きとし生けるものであること。草木などではない。第三に、生きとし生けるものという思いがあること。迷いの心(間違い)を除く。第四に、害そうとする心が生じること。無心の行為を除く。第五に、実際の加害行為があること。準備段階だけでは不十分。
また、『対法論』に基づけば、同じく五つの因縁がある。第一に、対象(事):有情の生きものであること。第二に、意図(意楽):そういう思いと、必ず害そうとする意志があること。第三に、手段(方便):害するために刃物や杖などを用いること。第四に、煩悩(煩悩):貪欲・瞋恚・愚痴があること。第五に、結果(究竟):その手段により、対象の生命が即座に、または後に終わること。
この二つの論を合わせると、七つの因縁が整う。一、他者の身体。二、有情の生きもの。三、有情という思い。四、殺そうとする心。五、三つの毒(貪・瞋・癡)がある。六、手段を講じる。七、命を絶つ。
この共通の因縁と個別の因縁を合わせると、十の因縁が揃って犯戒が成立する。
四闕緣者先闕通緣若闕初緣無違教夷有業道罪故善生經云但有二人同共作罪一者受戒二不受戒受戒者罪重不受戒者罪輕何以故毀佛語故闕第二緣若未狂前已興方便合有輕垢若始末皆狂則都不犯故律云癡狂心亂痛惱所纏闕第三緣若為救生反成持戒故清淨毗尼經云問頗有犯戒名尸波羅蜜耶答言有若菩薩多益一切眾生不自觀戒如是毀戒是尸波羅蜜次闕別緣若闕初緣以瞋恨故而自殺者合得輕垢若以善心燒身供養及施眾生翻成福也闕第二緣非情來替作有情想及起疑心各一輕垢若闕第三緣實是有情作無情想本迷無犯轉想輕垢生疑二義闕第四緣誤錯無犯若以瞋故而作打心犯第九戒闕第五緣內無煩惱作利物心反生功德如瑜伽論闕第六緣但起單心唯犯輕垢若位稍高能自禁心而不制止單心亦重闕第七緣初興方便即止犯輕垢若斫未死而便止者犯重輕垢然方便罪有其二種一者進趣二者不成言進趣者心觀前事造境求成業有自他心分尅漫步步輕垢名進趣罪及前事諧覽因成果不成罪者又分七種一者闕緣方便違教成保言必假菩薩病捨等生罪非究竟若約菩薩無捨戒法唯病救生二緣辨闕二境強方便懷毒造境希望事成前境既強殺等不遂三緣若方便造境成犯要藉眾緣緣既差違殺等非遂四境差方便將欲起作事藉前境非情差本謬暢思心五善心息方便壞毒之造前事未成忽生善心惡息非重六想心方便前是有情想次須當境迷情謂杌轉想為怪七疑心方便犯因心成事須竅徹猶預不決心劣成輕此有二義若其通境疑生制而不得事成非重若預疑生懷疑故殺還成重罪五分無疑應約後義今將此七闕前十緣闕緣方便闕前通緣境差方便闕初二緣想疑二種闕第三緣境強緣差心息苦闕殺心方便斷命心息又闕第五三毒或不應具七至下別明疑一不定如瞋非情及謗佛法則無境強。
四つの「縁が欠ける」ケースについて。まず「通縁(共通の条件)」が欠ける場合。 第一の縁を欠くと戒律違反の重罪にはならないが、業道の罪はある。『善生経』に「同じく罪を作る者でも、戒を受けた者と受けていない者とでは、戒を受けた者の罪の方が重い。なぜなら仏の言葉を毀るからである」とある。 第二の縁を欠く場合、発狂する前にすでに方便(殺害の準備)を起こしていれば、軽い垢(とがめ)がある。最初から最後まで発狂していれば、まったく犯さない。律に「心が狂い、意識が乱れ、苦痛に悩まされている」とある通りである。 第三の縁を欠く場合、もし命を救おうとして殺したなら、むしろ戒を守ることになる。『清浄毘尼経』に「戒を犯すことが、はたして波羅蜜となりうるか」と問い、「ある。もし菩薩が多くの衆生のために自らの戒を顧みずして壊すなら、これこそが戒波羅蜜である」と答えている。
次に「別縁(個別の条件)」が欠ける場合。 第一の縁を欠く場合、瞋恨の心で自殺すれば軽い垢となる。善心で焼身供養を行い、あるいは身を衆生に施すなら、かえって福となる。 第二の縁を欠く場合、本来は有情でないものを有情と思い込み、あるいは疑いを起こせば、それぞれ軽い垢となる。 第三の縁を欠く場合、実際には有情であるものを無情と思い込み、最初から迷っていれば犯さない。途中で思い直せば軽い垢。疑いの場合は二通りある。 第四の縁を欠く場合、誤って行えば犯さない。もし瞋恨の心で打つ心を起こせば、第九の戒を犯す。 第五の縁を欠く場合、内に煩悩がなく、利他の心で行えば、かえって功徳を生む。『瑜伽論』に説く通りである。 第六の縁を欠く場合、単なる心だけであれば軽い垢。しかし位の高い菩薩が自らの心を制御できず、制止しなければ、単なる心でも重い。 第七の縁を欠く場合、最初に方便を起こしただけで止めれば軽い垢。もし殺そうとしてまだ死なないうちに止めても、重いか軽いかは場合による。
方便(殺害の準備)の罪には二種ある。一つは「進趣(実行に進むこと)」、もう一つは「不成(成功しないこと)」である。 「進趣」とは、心が対象に向かい、成就を求めること。行為に自他の区別があり、心が分かれ、歩むごとに軽い垢となる。これを「進趣の罪」という。そして事が成就し、因が実を結んでも、罪は成立しない。 「不成の罪」はさらに七種に分かれる。 一、縁を欠く方便:戒律に違反しても、菩薩が病などを理由に捨戒することはないと定めれば、罪は究竟しない。菩薩に捨戒の法はなく、ただ病を救うことと生き物を救うことの二つの縁にかかわる。 二、境が強い方便:毒心を抱き、事の成就を望むが、対象の境が強く、殺害などが成就しない。 三、縁が異なる方便:犯行を成就させるには衆縁が必要だが、縁がそろわず殺害などが成就しない。 四、境が異なる方便:行為を起こそうとする対象が、本来の対象と異なり、心の思いがそらされる。 五、善心が生じた方便:毒心で事を起こそうとしてまだ成就しないうちに、急に善心が生じて悪念が息み、重くはない。 六、想い違いの方便:本来は有情であるものを、迷って無情と思う。後に気づいても軽い。 七、疑いの方便:犯行は心によって成るが、事に臨んで迷い決断できず、心が弱ければ軽い。これには二つの意味がある。もし対象に対して疑いを抱き、制されても事が成就しなければ重くない。もし事前に疑いを抱きながらも疑いのために殺せば、重罪となる。五分に疑いがないなら、後者の意味に従うべきである。
今、これら七種を先の十縁にあてはめる。 「縁を欠く方便」は、先の通縁を欠く場合にあたる。 「境が異なる方便」は、第一・第二の縁を欠く場合にあたる。 「想い違い」と「疑い」の二種は、第三の縁を欠く場合にあたる。 「境が強い」「縁が異なる」「心が息む」の三つは、殺心の方便にあたる。命を断つ心が息むので、第五の縁(三毒)を欠くともいえる。ただし、必ずしも七つすべてに当てはまるとは限らず、詳細は後述する。 疑いの一つは不定である。例えば、無情のものに対する瞋りや、仏法を誹謗する場合には、「境が強い」という条件は当てはまらない。
五對治者文云應起常住慈悲心即是對治今隨義別可為二門一通二別通對治者善生經云有智之人既受戒已常觀三事不作惡行一者自為謂自證知此是惡事我今云何而自欺誑二者為世有得清淨天眼天耳及得他心我若作惡必當見我我當云何而不慚愧而作惡耶三者為法觀如來法清淨無染得現在利度於彼岸我為是法受持禁戒次別對治略申四意一起慈悲戒文自說二觀佛性如常不輕悉記一切當得作佛以是義故應生禮敬豈容有殺三念勝緣如智論云或可蟻子在前成佛此事難知若斷彼命與彼無緣不蒙彼化四念難事所謂念苦難行苦行如薩埵王子捨身救虎如尸毗王割肉代鴿又如比丘不飲虫水渴而死又如比丘護鵝命故自受鞭撻又如鹿王代母鹿命又如船板比丘海水讓板又如菩薩商主入海採寶海中船壞以劒自害身載五百人得到海岸如王夫人以割乳房救飢產婦如此等誠規足為龜鏡觀之自勵寧容有殺。
五つの対治法については、「経文に『常に慈悲の心を起こすべし』とあるのが、これに対治する」と述べられています。ここで、意味に従って区別し、二つの門とすることができます。一は「通」、二は「別」です。
通の対治法とは、『善生経』に「智慧ある人は、戒を受けたならば、常に三つの事を観察して、悪行を行わない。第一に自己のためとは、自らこれを悪事と知りながら、どうして自分を欺いて悪事を行えようかと自ら証知すること。第二に世間のためとは、清浄な天眼・天耳・他心通を得た者がいて、もし私が悪を行えば必ず見られるであろう。その時どうして恥ずかしく思わずに悪を行えようかと考えること。第三に法のためとは、如来の法は清らかで汚れがなく、現世において利益を得て彼岸に至ることを観察し、私はこの法のために戒律を受持する」と説かれていることです。
次に別の対治法について、その大意を四つ挙げます。
第一に、慈悲の心を起こすこと。戒文に自ら説かれている通りである。 第二に、仏性が常住であることを観ずること。常不軽菩薩が全ての者に「あなたは必ず仏になるであろう」と記別したように、この意味から礼拝敬愛の心を生じさせるべきであり、どうして殺生が許されようか。 第三に、勝れた縁を念ずること。例えば『大智度論』に「蟻でさえも将来仏になることがある。このことは計り知れない。もしその命を断てば、その縁から遠ざかり、その教化を受けることができない」とある。 第四に、難事を念ずること。すなわち、苦難を耐え忍ぶ修行を思うべし。例えば、薩埵王子が身を投げて虎を救ったこと、尸毘王が自分の肉を切って鳩の代わりにしたこと、また比丘が虫のいる水を飲まずに渇き死んだこと、また比丘が鵞鳥の命を守るために自ら鞭打ちを受けたこと、また鹿王が母鹿の代わりに命を捧げたこと、また船板比丘が海で船板を譲ったこと、また菩薩の商主が海に入り宝を採り、船が壊れた際に自ら剣で身を傷つけて五百人の者を岸に運んだこと、また王夫人が自らの乳房を切り取って飢えた産婦を救ったことなど、これらのような誠実な模範は、まさに鏡とすべきものです。これらを観じて自ら励むならば、どうして殺生などできましょうか。
六通局者通有二一通諸戒如清淨毗尼經為益眾生不自觀戒如是毀戒名尸波羅蜜二通此戒如瑜伽云謂如菩薩見劫盜賊為貪財故欲教多生或復欲害大德聲聞獨覺菩薩或復欲造多無間業見是事已發心思惟我若斷彼惡眾生命當墮地獄如其不斷無間業成當受大苦我當殺彼墮那落迦終不令其受無間苦如是思已於彼眾生或以善心或無記心知此事已為當來故深生慚愧以憐愍心而斷彼命於菩薩戒無所違犯生多功德次局者上不應起一念害心何況殺命是故閇也。
六通を局所的に見ると、通には二つの意味があります。 第一に、戒律を通して見る場合です。『清浄毘尼経』にあるように、衆生の利益のために、自らの戒律を観察することなく、戒を破ることも「尸波羅蜜(戒波羅蜜)」とされます。 第二に、この戒を広く解釈する場合です。『瑜伽師地論』に次のようにあります。例えば菩薩が、盗賊が財産を得ようとして多くの人を殺そうとしている、あるいは高徳の声聞、独覚、菩薩を害そうとしている、または多くの無間業を犯そうとしているのを見たとします。この時、菩薩は「もし私がその悪い衆生の命を断てば、地獄に堕ちるだろう。しかし、命を断たなければ、その者は無間業を完成させて大きな苦しみを受けることになる。私はその者を殺して地獄に堕ちても、どうしても無間の苦しみを受けさせてはならない」と考えます。そう考えた後、その衆生に対して、善心あるいは無記心をもって、この事を理解し、未来のため深く慚愧し、憐れみの心でその命を断つならば、菩薩の戒律に違反することはなく、多くの功徳を生じます。
次に、狭義の解釈です。上の立場では、害そうという一念の心すら起こしてはならず、ましてや殺生など絶対にできないとされるため、この場合は戒が閉じられているのです。
次釋文中分四一舉能犯戒人二出所防過三而菩薩下教修對治四而反下明違結犯初中若者善見論云若者總名不屬一人隨有佛法具戒之徒皆持犯法言佛子者從佛口生從法化生得佛法分名為佛子今此文中以受佛戒名入佛位即是戒從佛生名為佛子故上文云眾生受佛戒即入諸佛位等即此義也四分亦云從佛戒所生爾乃是真生此即小乘戒生名佛子依寶性論信從佛生名為佛子彼文云大乘信為子般若以為父母禪胎大悲乳諸佛如實子約佛地論聖名佛子故彼文云由佛教力彼聖生名為佛子准此以慧為子若約法華二乘迴心名真佛子如舍利弗云今日乃知真是佛子由聞法華知得成佛乃悟以前亦名真子依瓔珞經十住不退菩薩之心名為佛子依寶性論初地名為佛子依楞伽經八地菩薩名最勝子今此文中正約初義傍兼餘義理亦無傷以初發心乃至十地皆誦此戒故知通也。
次に釈文を分けて四つとする。一には能く戒を犯す人を挙げ、二には防ぐ所の過を出だし、三には「しかるに菩薩」の下、教えを修して対治し、四には「しかるに反って」の下、違犯の結びを明かす。
初めの「若し」とは、善見論にいう。「若し」は総名であり、一人に属さず、仏法に随う具戒の徒、皆、持犯の法を有す。「仏子」というは、仏の口より生まれ、法より化生し、仏法の分を得て、仏子と名づく。今、この文中、仏の戒を受くるによりて仏の位に入ることを名づけ、すなわち戒、仏より生ずるをもって仏子と名づく。ゆえに上文に「衆生、仏戒を受くれば、すなわち諸仏の位に入る」等というは、即ちこの義なり。
四分律にもまた「仏戒より生ずる所、すなわち是れ真生なり」という。これすなわち小乗戒に生ずるを名づけて仏子とす。宝性論に依れば、「信、仏より生ずるをもって仏子と名づく」。彼の文に「大乗は信を子とし、般若をもって母とし、禅を胎とし、大悲を乳とし、諸仏の実の子」とあり。仏地論によれば、聖を名づけて仏子とす。故に彼の文に「仏の教力により、彼の聖を生ずるをもって仏子と名づく」と。これに准ずれば、慧をもって子とす。
法華経に約すれば、二乗の回心して真の仏子となる。舎利弗の「今日、乃ち真に仏子なることを知る」というが如し。法華を聞くによりて、成仏を得ることを知り、乃ち以前を悟るをもってまた真子と名づく。瓔珞経に依れば、十住不退の菩薩の心を名づけて仏子とす。宝性論に依れば、初地を名づけて仏子とす。楞伽経に依れば、八地の菩薩を最勝子と名づく。
今、此の文中、正に初義に約し、傍らに余義を兼ぬとも、理にまた傷なわず。初発心より乃至十地まで、皆、此の戒を誦するをもって、通ずることを知るなり。
次所防過文中分三一明殺業二明殺因三明殺境初殺業中文舉六種一者自殺二教他殺三方便殺者聞他欲死方便與刀繩索藥等四讚歎殺者如律所云汝生便受苦死則受樂用語而死者夷五見作隨喜者或見殺怨家或心規由肉分而心生喜皆得重罪六呪殺者以誦呪呪他令使死也殺相眾多如律廣列其中更有魔禱藥殺坑穽機撥咒殺最希超舉最希故云乃至如呪龍令入管等次舉殺因前舉殺業無因不成故次舉因此四何別三毒殺心以之為因刀杖為緣巧施計䇿為法身口進趣為業又有解殺法云謂依先師法而行殺生此有二種一有外道經云殺羊祠天得生天上二有外道經說諸苦行者必得生天如莊嚴論說有老婆羅門說外道婆羅門書令國王信之投火死者得生天上後時王問師比丘知已語王言先遣伊入火坑彼即不去如是等書名為殺法亦有本中殺業為初皆得無妨三所殺境越其勝境但使有命皆得殺罪故云乃至瑜伽云與壽和合現存活故名為命者誤落開緣故云不得故殺。
次に防ぐべき過ちの中で、本文は三つに分かれる。一つ目は殺生の業、二つ目は殺生の因、三つ目は殺生の境である。 初めに殺生の業について、本文では六種類が挙げられている。 一、自ら殺すこと。 二、他人に殺すよう教えること。 三、方便で殺すこと。これは、人が死にたいと思っているのを聞き、方便として刀や縄、薬などを与えることである。 四、殺生を讚嘆すること。例えば律に「汝は生きれば苦しみを受け、死ねば楽を受ける」と言い、言葉によって死に至らしめることは、重い罪となる。 五、見て喜ぶこと。例えば怨敵が殺されるのを見たり、肉の分配にあずかろうと内心で喜ぶこと。これらも重罪となる。 六、呪いで殺すこと。呪文を唱えて人を死なせることである。 殺生の相は多く、律に広く列挙されている。その中には、魔の祈祷、薬による殺害、穴や罠、仕掛け、呪いによる殺害などがあり、呪いによる殺害は最も稀である。そのため「乃至(ないし)」とされ、例えば竜を呪って管の中に入れるようなものである。
次に殺生の因を挙げる。先に殺生の業を挙げたが、因がなければ業は成り立たないため、次に因を挙げるのである。 この四つの因の違いは何か。三毒による殺意が因であり、刀や杖が縁であり、巧みな計略が法であり、身・口の動作が業である。 また、殺法についての解釈もある。これは先師の教えに従って殺生を行うことである。これには二種ある。 一、外道の経典に「羊を殺して天に祭れば、天に生まれ変わる」とあるもの。 二、外道の経典に「諸々の苦行を行えば必ず天に生まれる」と説くもの。例えば荘厳論に、ある老婆羅門が外道の書物を使って王に「火に飛び込んで死ねば天に生まれる」と信じ込ませた話がある。後に王がその師である比丘に問うと、比丘は「先にあの人を火坑に入れよ」と言い、彼は行かなかった。このような書物を殺法という。 また、別の本文では殺生の業を最初に置くものもあるが、いずれも差し支えない。
三、殺生の境について。最も勝れた境を超える者であっても、命あるものであれば殺生の罪を得る。そのため「乃至(ないし)」とされる。 瑜伽論には「寿と和合して現に生きているものを、命ある者という」とある。 誤って殺した場合は開許の縁となる。そのため「故意に殺してはならない」とされる。
三教起對治文中有二一起慈孝心二作救護事初文先舉修行人故云是菩薩也應起三心謂於卑境起慈悲心若尊境所起孝順心前文常住有其二義一制常起暫勿令息故云常住二起離相平等之慈故云常住前約世諦次約勝義於樂眾生而起慈心於其苦境而起悲心起孝可知又於一切眾生通起三心以皆曾為父母等故次作救事言方便者攝化有軌名方可為權巧稱便言救護者有其五義一於卑境作救拔事順前慈悲於尊境所作護持事順前孝意二於已在苦者救命得脫未入苦者護令不入三在苦者救之受樂者護之四以救故不受苦果以護故不種苦因五救護但是拔濟異名由前三心生救護事也。
三つの教えが対治を起こす文中には、二つの意味があります。第一に、慈愛と孝順の心を起こすこと、第二に、救済と保護の行いをすることです。初めの文では、まず修行者について述べているため、「これこそ菩薩である」とされています。菩薩は三つの心を起こすべきです。すなわち、低い境遇にある者に対しては慈悲の心を、高い地位にある者に対しては孝順の心を起こすということです。
前述の「常住」には二つの意味があります。一つは、常に慈悲の心を起こし続け、決してやめさせないようにすることを「常住」とします。もう一つは、執着を離れた平等の慈愛を起こすことを「常住」とします。前者は世俗の真理に基づき、後者は最高の真理に基づいています。楽しい境遇にある衆生には慈しみの心を起こし、苦しみの中にある衆生には悲しみの心を起こします。「孝」を起こすことについては、説明するまでもなく明らかです。また、すべての衆生に対して、この三つの心を等しく起こすべきです。なぜなら、すべての衆生は過去世において互いに父母であったからです。
次に、救済の行いについて述べます。「方便」とは、教化し導くための適切な方法を意味し、「方」は正しい道筋、「便」は巧みで柔軟な手段を指します。「救護」には五つの意味があります。第一に、低い境遇にある者に対しては救い出す行いを、高い境遇にある者に対しては守り支える行いを行います。これは、前者が慈悲の心に、後者が孝順の心に従うものです。第二に、すでに苦しみの中にある者は救って苦しみから逃れさせ、まだ苦しみに入っていない者は守って入れないようにすることです。第三に、苦しみの中にある者は救い、楽しい境遇にある者は守ることです。第四に、救うことによって苦しみの結果を受けず、守ることによって苦しみの原因を植えないことです。第五に、救護とは単に抜き差し、救い助けることを別の言葉で表したものです。これらは、先に述べた三つの心によって生じる救護の行いなのです。
違而結犯中有二句初違制起犯次結示罪名違前慈救故云而反言自恣者不犯對治縱其貪瞋故云自恣兼生慶躍故云快樂意言殺生者正彰其過是菩薩者指出犯人波羅夷者彰其犯因斯即梵音此云他勝處釋有二義一煩惱魔等名之為他聖道為自若犯此戒退失墮落令魔得勝名地勝處二望同類名之為他若犯此戒為他持者之所勝也又翻為墮故僧祇云非唯失道不入二種僧中亦乃捨身便入阿鼻地獄生報不久甚可怖畏。
戒律に違反して結犯する中に、二つの句がある。まず、制止に背いて犯行を起こすこと。次に、罪名を結んで示すことである。これは、先の慈悲を救う教えに背くので「而反」と言う。自恣とは、犯さないための対治法をせず、その貪りや怒りを放縦することを言う。ゆえに「自恣」と言い、さらに喜びを生じることから「快楽」と言う。「殺生」と言うのは、まさにその過ちを明らかにする。この菩薩とは、犯人を指し示す。「波羅夷」とは、その犯す因縁を明らかにする。これはサンスクリット語で、ここでは「他勝処」と訳す。その解釈に二つの意味がある。第一に、煩悩や魔などを「他」と呼び、聖なる道を「自」とする。もしこの戒律を犯せば、退失堕落して魔を勝利させることから「地勝処」と言う。第二に、同じ修行者を「他」と見なす。もしこの戒律を犯せば、戒律を保つ者に打ち負かされる。また、「堕」とも訳される。ゆえに『僧祇律』に、「ただ道を失うだけでなく、二種の僧伽の中に入れず、さらに死後すぐに阿鼻地獄に入る。その果報は遠くなく、非常に恐ろしい」とある。
▲第二盜戒。
**第二の盗みの戒め**
六門同前。
六つの門はすべて同じです。
初制意者凡是資財形命之本稟識之類保重是同菩薩理應常行給濟以身血肉惠施於人速具三檀早圓四攝反行盜竊損物非輕違慈寔深制之不許次釋名者非理損財名之為盜舉其所防以別能持故名盜戒問盜有多名公向強取名之為劫私竊往取稱之曰偷主不捨故名不與取何故今者獨標盜稱答劫偷名狹攝損不周不與取名又濫非盜可為四句一與取非盜可知二與取是盜如多論云行三番餅錯得四是三不與取是盜可知四不與取非盜如親友意及暫取等盜名既寬又無非濫故獨標也三具緣者通緣如前別緣同上亦具七緣一非己物諸無主物雖非己有亦不成重故次第二須明有主物雖有主轉想則輕故次第三作有主想想雖當境無心不成故次第四明有盜心心雖念盜不與三毒但為救生亦無有犯故次第五須有煩惱煩惱雖行不與方便不成損主是故第六須有方便方便雖興若未離處未成屬己是以第七舉離本處。
盗戒の意味を説明します。
まず、制定の意図について。およそ財物や資産は、生命を維持するための根本です。意識を持つ生きとし生けるものは皆、これを大切に思っています。菩薩は本来、常に施しを行い、自身の肉や血をもって他者に施し、速やかに三檀(財施・法施・無畏施)を成就し、四摂法(布施・愛語・利行・同事)を円満にすべきです。それにもかかわらず、盗みを働くことは、他者への損害が軽くありません。慈悲の心に背くこと、この上なく深いものがあります。ゆえにこれを禁じるのです。
次に名称の説明。道理に反して他者の財を損なうことを「盗」といいます。禁じる対象を挙げて、戒を守ることを示すため、この戒を「盗戒」と名づけます。
問:盗には様々な呼び名があります。公然と力ずくで取るのを「劫」、こっそりと取るのを「偷」、所有者が許さないのに取るのを「不与取」といいます。なぜ今、特に「盗」の名称を掲げるのですか。
答:「劫」や「偷」は意味が狭く、すべての損害行為をカバーできません。「不与取」という名称は、盗みに当たらない場合を含んでしまう恐れがあります。これは四つのケースで説明できます。 一、「与取」で盗みでないケースは明白です。 二、「与取」で盗みとなるケース。例えば、多くの論書にあるように、三種類の餅を配った際に、誤って四つ目を得た場合などです。 三、「不与取」で盗みとなるケースは明白です。 四、「不与取」で盗みでないケース。親友の意図による場合や、一時的に借りる場合などです。 「盗」という名称は意味が広く、濫用の恐れもないため、特にこの名称を掲げるのです。
三、成立条件について。共通の条件は前の通りです。別の条件も同様に、七つの条件を備えます。 第一に、自分の物でないこと。所有者のない物は、自分の物でなくても重い罪にはなりません。そのため、第二に、所有者のある物であることが必要です。所有者があっても、誤った認識があれば罪は軽くなります。そのため、第三に、所有者があると確かに認識していることが必要です。認識があっても、心に盗みの意図がなければ成立しません。そのため、第四に、盗む心があることが必要です。心に盗みの念があっても、三毒(貪・瞋・痴)を伴わず、ただ他者を救うためのものであれば、犯しにはなりません。そのため、第五に、煩悩があることが必要です。煩悩があっても、手段を伴わなければ、所有者に損害を与えられません。そのため、第六に、手段があることが必要です。手段があっても、物が元の場所から離れていなければ、自分のものになったとは言えません。そのため、第七に、物が元の場所から離れることが必要です。
四闕緣者若闕初緣取於己衣作他物想盜得輕垢罪闕第二緣作有主想疑各一輕垢闕第三緣作無主想本迷無犯轉想獲輕疑則成重不同於殺制不得故又菩薩戒本制於心疑分當本故成重也闕第四緣暫取等想全不犯故闕第五緣但為救苦反成功德闕第六緣有盜心故得輕垢罪闕七亦同。
四つの欠ける縁について: 最初の縁(対象が自身の所有物でないこと)が欠けた場合、自分の衣服を他人の物だと思って盗めば、軽い垢罪となる。 第二の縁(他人の所有物であると認識すること)が欠けた場合、「持ち主あり」と思うが疑いがある場合、それぞれ軽い垢罪となる。 第三の縁(無主の物であると認識すること)が欠けた場合、最初から迷っていれば無罪。後に考えを変えれば軽い垢罪となり、疑いがあれば重罪となる。殺生の場合とは異なり、故意によるものではないためである。また、菩薩戒本では心の疑いに関する規定があり、その本義により重罪となる。 第四の縁(一時的に取るなどの意図)が欠けた場合、全く犯さない。 第五の縁(救済のための行為)が欠けた場合、苦しみを救うためであれば、かえって功徳となる。 第六の縁(盗む心)が欠けた場合、盗む心があるため軽い垢罪となる。 第七も同様である。
五對治者略申四意一孝順心一切眾生曾為父母寧容盜損二慈悲心愍傷貧苦三惠施心財物身肉無所恡惜念須達長者尸毗王如前所引尚應惠施寧容盜損四少欲行故莊嚴論偈云若人展手施是手為嚴勝受者能縮手嚴勝復過彼。
五つの対治法について、簡潔に四つの要点を述べます。
第一に、孝順の心です。すべての生きとし生けるものは、かつて自分の父母であったことがあるのですから、どうして盗んだり損なったりできましょうか。
第二に、慈悲の心です。貧しく苦しむ者たちを哀れみ、慈しむ心です。
第三に、恵施の心です。財物や自分の身の肉さえも惜しむことなく施す心です。須達長者や尸毘王の例(前に引用した通り)を思えば、施すべきであって、盗んだり損なったりするはずがありません。
第四に、少欲の行いです。『荘厳論』の偈に曰く、「もし人が手を差し出して施せば、その手は最も勝れたものとなる。受ける者が手を引っ込めれば、その勝れたことはさらにそれに勝る」とあります。
六通局者通有三義一約親友二約救苦三約密意初義者四分律中具七法者名為親厚一難作能作二難與能與三難忍能忍四密事相報五互相䨱藏六遭苦不捨七貧賤不輕如是七法人能行者是親善友即開取物不犯盜罪次救苦者瑜伽戒云又菩薩見劫盜賊奪他財物若僧伽物窣堵波物取多物已執為己有縱情受用菩薩見已起憐愍心於彼有情發生利益安樂之意樂隨力所能逼而奪取勿令受用如是財故當受長夜無義無利由此因緣所奪財物若僧伽物還復僧伽窣堵波物還窣堵波若有情物還復有情又見眾生若園林主取僧伽物窣堵波物言是己有縱情受用菩薩見已思惟彼意起憐愍心勿令因此邪受用業當受長夜無義無利隨力所能癈其所主菩薩如是雖不與取而無違犯生多功德三密意者如梁攝論云何菩薩行奪非他所與謂菩薩教化眾生不從王主及父母等之所得故次塞者乃至起念則便成犯故文殊問經云若起盜想犯波羅夷。
六通を局所的に見ると、「盗み」を取る(取得する行為)には三つの意味がある。第一に親しい友人に関すること、第二に苦しみを救うこと、第三に秘密の意図に関することである。
初めの意味について、『四分律』には、七つの徳行を備える者を「親しい厚い友」と名付けている。その七つとは、第一に難しい仕事を進んで行うこと、第二に難しい施しを惜しみなく与えること、第三に耐え難いことを耐え忍ぶこと、第四に秘密の事柄を互いに打ち明けること、第五に互いに過ちを隠し守ること、第六に苦しみの時に見捨てないこと、第七に貧しく賤しい者を軽んじないことである。この七つの行いを実践できる者は、真の親しい善友である。そのような場合は、相手の物を取っても盗みの罪にはならない。
次に苦しみを救う場合について、『瑜伽菩薩戒』にはこう説かれている。「また、菩薩は、強盗が他者の財物を奪い、あるいは僧伽の物や卒塔婆の物を大量に奪い取って、自分の物として所有し、勝手気ままに使い楽しんでいるのを見たとする。菩薩はこれを見て、憐れみの心を起こし、その有情に対して利益と安楽の意欲を起こす。自分の力の及ぶ限り、その財物を強制的に奪い取り、そのような財物を享受させることで、当人が長い間にわたって無意味で無利益な苦しみを受けることのないようにする。この因縁によって、奪い取った財物が僧伽の物であれば僧伽に返し、卒塔婆の物であれば卒塔婆に返し、有情の物であればその有情に返すのである。」
「また、ある衆生が園林の主でありながら、僧伽の物や卒塔婆の物を自分の物であると言って、勝手に使っているのを菩薩が見たとする。菩薩はそれを見て、その者の意図を考え、憐れみの心を起こす。このような誤った享受の業によって、当人が長い間にわたって無意味で無利益な苦しみを受けることのないように、自分の力の及ぶ限り、その主の権限を取り除く。菩薩はこのように、与えられていないにもかかわらず取っても、違反にはならず、多くの功徳を生じるのである。」
第三の秘密の意図について、『摂大乗論』では次のように問う。「なぜ菩薩は、他者から与えられたものではなくとも、盗みの行いをすることができるのか。」そして答える。「菩薩が衆生を教化する場合、王や主君、あるいは父母などから与えられた物に限らないからである。」
次に「塞ぐ」という意味については、悪い心が一度でも起こると、それだけで犯したことになる。よって『文殊師利問経』にはこうある。「もし盗みの心を起こせば、波羅夷(最も重い罪)を犯すことになる。」
次釋文中同前四段初句同前。
続いて、この文章の説明を行う。最初の四つの段落の最初の文は、前と同じである。
次所防過中亦有三義一明盜業次出盜因三明主物初業有四讚盜隨喜理亦應犯文中略無自教可知方便盜者或託王官或假名聞而取他物言呪盜者如呪物過開餘本在後准前殺戒及義次第理合在前依四分律盜心有五盜業亦五初五者一黑暗心癡心犯也如僧祇中互用成重二邪心謂貪心犯也心規利養詐現善相即邪命也三曲戾心謂嗔心犯示瞋怒相求財是也四不善心謂具前三心名不善也五常有盜他物心謂垣壞侵奪必得不疑次五者一決定取謂方便已成決得為限二恐怯取謂恃形勝勢令他畏也三寄物取或今抵拒或復少還四見取伺他慢藏得便而取也五倚託取或假名聞威德或託最勢是也盜因者盜心三毒以之為因鍬钁及伴以之為緣巧知計䇿以之為法身口進趣方便名業三取盜主物者鬼神有主明物主也一針一草出所盜物上從三寶次及人天鬼神劫賊皆得為主超舉最下故云乃至然小乘中則分輕重大乘之中唯除北州餘皆犯重又不同小乘滿五方重故云一切財物一針一草不得故盜若無故心不在犯限故云不得故盜。
次に、防ぐべき過ちの中にも三つの意味があります。 第一に盗みの業を明らかにし、第二に盗みの因を挙げ、第三に主のある物を明らかにします。
初めに、業には四つがあります。 賛嘆して盗むこと、喜んで盗むこと。理の上から言えば、これらも犯戒に当たりますが、文中には省略されています。 自分で行う盗みは説明するまでもありません。 方便による盗みとは、王や役人の力を借りたり、名声を偽って他人の物を取ることです。 呪いによる盗みとは、呪文で物を動かすなどの方法です。 その他の詳細は後にありますが、殺戒の順序と道理からすれば、本来は先に来るべきものです。
四分律によれば、盗みの心には五つがあり、盗みの業にも五つがあります。 最初の五つとは、 一、暗黒心…無知によって犯すものです。僧祇律にあるように、物を誤って使って重罪となることがあります。 二、邪心…貪りの心で犯すものです。利益を求めて善人のふりをする、いわゆる邪命です。 三、曲がりくねった心…怒りの心で犯すものです。怒りの相を見せて財物を求めることです。 四、不善心…上記の三つの心を全て備えた心です。 五、常に他人の物を盗もうとする心…垣根を破って奪い取ろうとし、必ず得ようとする心です。
次の五つとは、 一、決定して取る…手段が整い、必ず得ようとすることです。 二、怖がらせて取る…勢いや強さを頼みに、相手を恐れさせて取ることです。 三、預けて取る…返済を拒んだり、一部だけ返したりすることです。 四、見て取る…相手の油断を見計らって取ることです。 五、頼って取る…名声や威徳、または勢いを借りて取ることです。
盗みの因とは、盗みの心、すなわち三毒を因とし、鋤や鍬、仲間を縁とし、巧みな策略を知ることを方法とし、身と口の進み行く方便を業とします。
三つ目に、主のある物を盗むことについて。 鬼神に主がある場合も、明らかに主のある物です。 盗む物の範囲は、一本の針、一筋の草に至るまでです。 主とは、三宝を始め、人、天、鬼神、盗賊に至るまで、全て主となり得ます。 最も下のものまで挙げるために「乃至」と言います。 しかし、小乗では軽重を分けますが、大乗では北州を除いて全てが重罪となります。 また、小乗のように五銭(満五)で重罪となるわけではなく、一切の財物、一本の針、一筋の草も、故意に盗んではならないとされます。 故意がなければ犯戒の限りではないため、「不得故盜(故意に盗んではならない)」と言うのです。
三教起對治於中有二初教起對治心次教與利樂事初中應起四心一佛性心二孝順心三慈四悲以上生字道及於下初二上位下二下位各為一合應觀一切皆有佛性當得作佛不可侵損又一切眾生曾為父母故須孝順寧容盜損緣下位時應起慈悲況當盜損又解依於佛性起下三心由佛性故當得成佛故須孝順由有佛性現可救護故起慈悲又解由此佛性有二義故起後三心一常住義經云其藥真味停留在山猶如滿月二隨緣義經云隨其流處有種種味約初義故生孝順心如常不輕敬四眾等約後義故起慈悲心如常慘菩薩愍四眾等又佛性有三約引出佛性及至得果佛性可尊敬故生孝順心約自性住佛性在纏可愍起慈悲心又一切眾生昔為父母今則疎隔望昔生孝順望今生慈悲次教與利樂者謂依前心而起此行言常助者無休息也生福者使種樂因生樂者令得樂果又解福者富也與其財富令生安樂故云生福生樂准瑜伽論但生現樂而無福利或二俱無菩薩不作但生福利或二俱生菩薩皆作此文具二說令作也。
三つの教えは、対治を起こすためにある。その中に二つの段階がある。第一に、心に対治を起こす教え、第二に、利益と安楽を与える教えである。
初めに、四つの心を起こすべきである。 一、仏性の心 二、孝順の心 三、慈 四、悲 以上は、上位と下位に関わる。初めの二つは上位、後の二つは下位であり、それぞれ一つにまとめられる。 すべてのものには仏性があり、いつかは仏となるべきであり、そこに侵したり損なったりしてはならないと観ずべきである。また、すべての衆生は過去に父母であったことがあるので、孝順にしなければならず、ましてや盗んだり損なったりしてよいはずがない。 下位に関しては、慈しみと悲しみの心を起こすべきであり、ましてや盗んだり損なったりしてよいはずがない。
また、仏性に基づいて後の三つの心を起こすと解釈する。仏性があるからこそ、やがて仏となることができるので、孝順を必要とする。仏性があるからこそ、今すぐに救い守ることができるので、慈しみと悲しみを起こすのである。
また、この仏性には二つの意味があるので、後の三つの心が生じると解釈する。 一、常住の意味。経典には、「その薬の真の味は、山の中にとどまり、満月のようである」とある。 二、随縁の意味。経典には、「その流れに従うところに、さまざまな味がある」とある。 初めの意味に基づき、孝順の心を生じる。例えば、常に不軽菩薩が四衆を敬ったように。 後の意味に基づき、慈しみと悲しみの心を生じる。例えば、常に惨菩薩が四衆を哀れんだように。
また、仏性には三つの種類がある。引出仏性と至得果仏性は尊敬に値するので、孝順の心を生じる。自性住仏性は煩悩の中にあるので、哀れみ慈しみの心を生じる。
次に、利益と安楽を与える教えとは、前述の心に基づいてこの行を起こすことである。「常に助ける」とは、休みなく続けることである。「福を生じる」とは、楽しみの因を植えさせることである。「楽を生じる」とは、楽の果報を得させることである。 また、別の解釈では、「福」とは富である。その財産の富を与え、安楽を生じさせるから、「福を生じ、楽を生じる」という。 『瑜伽論』によれば、ただ現在の楽を生じるだけで、福利はない場合もある。また、その両方ともない場合もある。菩薩はそのようなことはせず、ただ福利を生じるか、またはその両方を生じさせる。この文では、二つの説を挙げて、どちらも行うべきであるとしている。
四違而結犯謂違前對治之行故云而反更盜等且出喜心犯故云人物然盜佛物涅槃犯蘭僧祇重約聲聞結佛在得夷滅後蘭罪今此戒文但言有主佛既成主理結夷𮘧然善生經守塔人邊得罪者以佛滅後人所守護故從人結俱舍兩說一云若有盜取窣堵波物彼於如來得偷蘭瑜伽盜罪以佛欲入涅槃時哀愍世間總受所施有餘師說望守護者正理亦同然以前釋於理為正故論云則彼自盜應無有罪是則前說於理為勝今詳經論經據有主論約無主及主自盜故不同也若盜法物唯望護主以法非情無心受施不同佛也盜佛及經亦望護主盜僧物者常住現前皆結夷罪不同小乘論滿不滿次示罪名可知成論問云一切外物皆共業所生劫盜何得罪答曰雖從共業因生因有強弱若人業因緣強又加功力此物則屬婆沙云財主於財攝受守護餘則不然是故唯於財主得罪非餘復次財主於財作己有想盜者於彼作財主想是故唯於財主得罪非餘二論少異成論釋出得罪之意婆沙釋從財主結意也。
四つの違背により戒を犯すというのは、先に述べた対治の行に背くことである。それゆえ「反って」と言い、さらに盗みなどをなすことである。また、喜びの心から犯す場合があることから「且つ」と言う。人と物の区別について、仏物を盗んだ場合は『涅槃経』では蘭罪(偷蘭遮)とされ、僧祇重罪となる。声聞の戒律では、仏在世の場合は夷罪(波羅夷)となるが、滅後は蘭罪となる。今、この戒文には「主あり」とある。仏がすでに主である以上、道理上、夷罪と結ぶべきである。ただし、『善生経』では、塔を守る者のそばで罪を得ると説く。これは、仏滅後は人が守護するものであるから、人に従って罪を結ぶのである。 『倶舎論』には二説ある。一つには、もし窣堵波(ストゥパ)の物を盗んだならば、その人は如来に対して偷蘭遮を得るとする。また『瑜伽論』では、仏が入滅しようとする時、世間を哀れんで施物をすべて受けられたため、盗罪は守護する者に対して結ぶとされる。他の師の説では、守護する者を望むとし、『正理』も同様である。しかし、前の説(如来に対して罪を得る説)が道理にかなっている。なぜなら、もしそうでなければ、「それ自体が盗むならば罪がないことになる」からである。よって、前の説が道理に優れている。今、経論を詳しく見ると、経は「主あり」に基づき、論は「主なし」および「主が自ら盗む」場合に基づくため、異なるのである。 もし法物を盗んだ場合は、ただ守護する者に対してのみ罪を結ぶ。法は情なきものであり、心なく施しを受けることがないからである(仏とは異なる)。仏や経典を盗む場合も、守護する者に対して罪を結ぶ。僧物を盗む場合は、常住・現前のいずれも皆、夷罪を結ぶ。これは小乗のように、満・不満によって論じるのとは異なる。次に、罪名を示せば明らかとなる。 『成実論』の問い:一切の外の物は皆、共業によって生じるものである。それなのに、劫盗(盗み)になぜ罪があるのか。 答え:共業によって生じても、因には強弱がある。もし人の業因縁が強く、さらに功力を加えたならば、この物はその人に属するのである。 『婆沙論』(『大毘婆沙論』)にはこうある。財主は財に対して摂受・守護するが、他の者はそうではない。それゆえ、財主に対してのみ罪を得るのであって、他の者に対してではない。さらに、財主は財について「わがもの」と思う。盗む者は、その財主に対して「財主である」と思う。それゆえ、財主に対してのみ罪を得るのであって、他の者に対してではない。この二つの論は少し異なるが、『成実論』は罪を得る理由を釈し、『婆沙論』は財主に対して罪を結ぶ意味を説いている。
▲第三婬戒。
**第三条 不淫戒**
多くの人が間違った想像を抱くのは、性欲に惑わされることから始まります。 すでに修行の道に入った者であれば、もうこれにとらわれてはいけません。 もし逃れられずにこの戒めを破るなら、それは善い育て方を無駄にしてしまうようなものです。
智論云戒律為今世取涅槃故婬欲在初白衣不爾殺戒在初為求福德故菩薩不爾無量世中往返生死修諸福德十善為舊戒餘戒為客。
『大智度論』にはこう説かれています。
「戒律は、この世で涅槃を得るためにあるので、在家者(出家していない人)に対しては、婬欲の戒めが最初に置かれる。しかし、在家者はそうではない。彼らのためには殺生の戒めが最初に置かれる。それは功徳を求めるためである。菩薩はそうではない。菩薩は無数の世にわたって生死を往き来し、あらゆる功徳を修める。十善(十の善行)は古くからの戒めであり、その他の戒めは後から付け加えられたものである。」
六門同前。
六つの門はすべて同じです。
初制意者菩薩理應常修梵行慈心愍物淨法與人絕生死之輪迴出愛獄之枷鏁超陰界入荷負眾生今乃縱彼邪心躭茲穢迹自掛魔網何能益他故智論云婬欲雖不惱眾生以繫縛心故為大罪由斯損故制不聽為。
そもそもこの戒を制定した意図は、菩薩は本来、常に清らかな行い(梵行)を修め、慈しみの心で全ての生き物を哀れみ、清らかな教えを人々に与えるべきである。それにより生死の輪廻を絶ち、愛欲という牢獄の枷を脱し、五陰や十八界の執着を超えて、全ての生き物を背負い導く存在であるはずなのに、もし邪な心に身を任せ、こうした不浄な行いに耽るならば、それは自ら悪魔の網にかかるようなものであり、どうして他者を救済できようか。ゆえに『大智度論』には、「婬欲は直接的に衆生を悩ますわけではないが、心を束縛するという理由で大罪とされる」と説かれている。このように自他に損害をもたらすからこそ、戒律によってこれを禁じているのである。
次釋名者文但舉婬不標邪稱今詳此戒通於道俗文不可以並彰約道以制但言婬也故善生經六重之中言邪婬也躭滯欲穢是名婬也此即所防戒即能防能所合彰故名婬戒律中名不淨行戒及非梵行所為穢汙名不淨行乖離奇行名非梵行言邪婬者瑜伽云若行不應行戒於非支非時非處非量非理皆欲邪行若於母等所護名不應行除產門外皆名非支若穢下時胎圓滿時飲兒乳時受齋戒時或有病時所謂有病不宜習欲是名非時若諸尊重所集會處或靈廟中或大眾前或堅硬地高下不平令不安穩說名非處過量而行名為非量量者極至於五過名非量不依世禮故名非理自行媒他皆名邪行智論問曰人守人瞋守法破法應名邪婬自妻何以為邪答既聽受一日戒墮於法中本雖是妻今不自在過受戒時則非法守有身婬婦人以身重故厭本所習又為傷身乳兒時婬其母乳則竭又復心着婬欲不復讚兒非道之道非女根故女心不樂強以非理故邪婬問曰若夫主不知不見不惱他有何罪答曰以其邪故是故有罪復次此有種種罪過未妻之情異身同體奪他所愛破其本心是名為賊復有重罪惡名醜聲為人所憎或畏刑戮又畏夫主傍人所知多懷妄語聖人所呵罪中之罪。
戒名を釈するにあたり、経文には単に「婬」とだけ挙げて「邪」とは標していない。今、この戒が道俗を通じたものであることを詳しく考えるならば、経文において両者を並べて顕わすことはできない。道に対しては制約することをもって戒とし、単に婬とのみ言うのである。故に『善生経』の六重の中では「邪婬」と言う。欲の穢れに耽り滞ることを婬と名づける。これがすなわち防ぐべき所であり、戒がすなわち防ぐ能である。能と所を合わせて顕わすから、婬戒と名づける。律においては「不浄行戒」および「非梵行」と名づける。行いが穢れ汚れていることを不浄行と言い、清らかな行いから乖離することを非梵行と言う。
「邪婬」とは何か。瑜伽論にはこう説かれている。「もし行うべきでない行いをなす戒において、非支・非時・非処・非量・非理にわたる婬欲の行いをすべて邪行とする」と。もし母などに守護されている者に対して行うのを「行うべきでない」と言う。産門を除くすべてを「非支」と言う。もし月経の時、胎が円満した時、乳児に乳を飲ませる時、斎戒を受けた時、あるいは病気の時(すなわち病気があって習欲すべきでない時)を「非時」と言う。もし諸々の尊い方々が集まられる場所、あるいは霊廟の中、大衆の前、あるいは堅く硬い地面や高低が不平で安穏でない所を「非処」と言う。量を過ぎて行うことを「非量」と言う。量は極めて五回までである。これを過ぎれば非量と名づける。世の礼に従わないことを「非理」と言う。自ら媒妁して他者に行わせることもすべて邪行である。
智論において問答がある。「問う、人が人を守り、法が法を守るならば、法を破るのは邪婬と名づけるべきである。自らの妻であれば、どうして邪とされるのか」。答える。「もし一日戒を受け、法の中に堕ちたならば、本来は妻であっても今は自在ではない。戒を受ける時を過ぎれば、法に非ずとして守る者がある。身ある婦人と婬する者は、身を重んじるがゆえに本来の習いを厭い、また身を傷つけるからである。乳児に乳を飲ませる時に婬すれば、その母乳は竭き、また心が婬欲に執着すれば、もはや児を讚えることはない。非道の道は女根でないゆえ、女心は楽しまない。強いて非理をもって行うから、邪婬である」。
「問う、もし夫主が知らず、見ず、他者に悩まさなければ、何の罪があるのか」。答える。「邪であるがゆえに、この故に罪がある。またこのことには種々の罪過がある。妻としての情は、異身同体である。彼の愛する所を奪い、その本心を破る。これを賊と名づける。また重い罪があり、悪名・醜声をもって人に憎まれ、あるいは刑戮を畏れ、また夫主や傍人の知る所を畏れ、多く妄語を懐く。聖人の呵するところ、罪の中の罪である」。
三具緣者別緣亦七一是有情死屍未壞亦同犯也長尾弱背自婬成犯不同前二有簡自身二是正境謂女三男二以餘身分不犯重故三起彼想若約邪婬以於他妻生自妻想本迷不犯轉想獲輕若出家人以本迷正道為非道想或獲輕垢轉想獲夷律文成重應據此說四有婬心以睡眠等一切無有婬意不犯五有三毒以在家菩薩方便化生開不犯故六興方便單心但輕七與境合入侵毛分則成犯限若為怨逼但具六緣一是有情二是正境三起彼想四為怨逼五向與境合六受樂犯。
三つの具縁について、別縁として七つある。
第一に、「有情(うじょう)の死屍(しし)が未だ壊れていない」場合も、同様の犯(おか)しとなる。長尾・弱背・自婬(じいん)も犯しとなるが、前の二つとは異なり、自身(じしん)には限らない。
第二に、「正境(しょうきょう)」とは、女三男二を指す。その他の身体の部分では重罪(じゅうざい)にはならないからである。
第三に、「彼想(ひそう)を起(お)こす」について。邪婬(じゃいん)に関しては、他者の妻を自分の妻と思い込む場合、根本的に迷っていれば犯さないが、途中で想いが変われば軽罪(けいざい)となる。出家者(しゅっけしゃ)の場合、根本的に迷って正道(しょうどう)を非道(ひどう)と思う場合、軽罪となることもある。途中で想いが変われば夷罪(いざい)となる。律文(りつもん)では重罪とされており、これはこの説に基づくべきであろう。
第四に、「婬心(いんしん)がある」こと。睡眠時など、一切婬意(いんい)がなければ犯さない。
第五に、「三毒(さんどく)がある」こと。在家(ざいけ)の菩薩(ぼさつ)は、方便(ほうべん)を用いて衆生(しゅじょう)を教化するため、犯さないと開(ひら)かれているからである。
第六に、「方便(ほうべん)を起こす」こと。ただ心だけであれば軽い。
第七に、「境(きょう)と合う」こと。毛の先ほどでも入れば、犯しの限界となる。
もし怨敵(おんてき)に逼(せま)られた場合、六つの縁が具わる。 第一に「有情」、第二に「正境」、第三に「彼想を起こす」、第四に「怨敵に逼られる」、第五に「境と合おうとする」、第六に「楽(らく)を受ける」こと。これが犯しとなる。
四闕緣者若闕初緣則闕第二但犯輕垢若闕第二未必闕初闕第三緣如具緣中說起疑全犯闕第四緣全是無犯闕第五緣反獲功德闕第六緣單心輕垢闕第七緣亦輕垢也義分輕重次前亦然怨逼闕緣比而可解通別合論但六方便謂除疑也。
四つの縁が欠ける場合について: - 第一の縁が欠ければ、第二の縁も欠けることになるが、軽い罪にとどまる。 - 第二の縁が欠けても、必ずしも第一の縁が欠けるわけではない。 - 第三の縁が欠ける場合は、具縁の説明にある通り、疑いを生じると完全な犯行となる。 - 第四の縁が欠ける場合は、全くの無犯となる。 - 第五の縁が欠けると、かえって功徳を得る。 - 第六の縁が欠けると、心だけであれば軽い罪となる。 - 第七の縁が欠ける場合も、軽い罪となる。
このように、意味によって軽重が分かれる。前の場合も同様である。 怨みによって強いられた場合に縁が欠けることも、類推して理解できる。 通(一般的)と別(特定的)を合わせて述べれば、六つの方便がある。ただし、疑いはこれに含まれない。
五對治者略申四意一起不淨觀以此正治貪欲病故二觀欲多過律云如毒蛇領如輪力轉如履鋒刃等三滅除惡覺以惡覺觀能生欲心當以正智止其思想如有頌云。
五つの対治法について、簡潔に四つの要点を示す。 一、不淨観を起こす。これは、貪欲の病を正しく治すためである。 二、欲望に多くの過失があると観ずる。律には「毒蛇の頭の如く、車輪の力の如く回転し、刃の上を歩くが如し」とある。 三、悪しき思考を滅する。悪しき思考は欲心を生むゆえ、正しい智慧をもってその考えを止めるべきである。偈に曰く。
欲欲知汝本 但從思想生 我今不思汝
汝還不得生 四護世間如 正法念經云
世間果得苦 皆由於女婦 非少非中年
莫不由此因 女人壞世間 令善悉滅盡
天中大繫縛 莫過於女色 女人縛諸天
將至三惡道
あなたの欲の根源を知りたいと思う。それはただ、思いから生まれる。 私が今、あなたを思わなければ、 あなたは生まれることもできない。
世の中を守る四つの天(四天王)の教えに、『正法念経』にはこうある。
世の中の苦しみの結果は、すべて女性に原因がある。 若者も年寄りも、例外なくこれが原因だ。 女性は世の中を壊し、善いものをすべて消し去る。
天界で最も強い束縛は、女性の色香に勝るものはない。 女性は天の神々さえも縛りつけ、 地獄・餓鬼・畜生の三つの悪道に引きずり込む。
六通局者通中謂入位菩薩在家之者為化眾生有開不犯如瑜伽戒本云又如菩薩處在居家見有世色現無繫屬習婬欲法繼心菩薩求非梵行菩薩見已作是思惟勿令心恚多生非福若隨其欲便得自在方便安處令種善根亦當令其捨不善業住慈愍心行非梵行雖習如是穢染之法而無所犯生多功德出家菩薩護聲聞聖所教誡令不壞滅一切不應行非梵行二局者如涅槃云復有菩薩自言戒淨雖不與彼女人身合嘲調談笑於壁障外遙聞女人瓔珞環釧種種諸聲心生愛着如是菩薩成就欲法毀破淨戒汙辱梵行令戒雜穢不得名為淨戒具足復有菩薩自言戒淨雖復不與女人和合言語嘲調聽其音聲見男女相隨心生染着及為生天受五欲樂而持禁戒如是菩薩成就欲法毀破淨戒汙辱梵行令戒雜汙不得名為淨戒具足。
六通に限界がある場合、その「通」とは、菩薩の位に入った在家の者が衆生を教化するために、開いて犯さないことを意味する。例えば『瑜伽戒本』にこうある。「また、ある菩薩が在家の身でありながら、世の中に束縛のない美色を見て、淫欲の法に親しもうと心を動かし、菩薩に非梵行を求める者がある。菩薩はこれを見て、『心に怒りを起こさせ、多くの不善を生じさせてはならない。もし相手の欲に従えば、自在を得て、方便を用いて安らかに置き、善根を植えさせることができる。また不善の業を捨てさせるべきだ。慈愍の心に住して非梵行を行うならば、このような汚れた法を習いながらも、犯すところはなく、多くの功徳を生じるであろう』と考える。出家の菩薩は、声聞の聖なる教誡を護り、それを壊滅させないために、一切非梵行を行うべきではない。」
第二に限界がある場合、例えば『涅槃経』にこうある。「また、ある菩薩が自ら戒は清浄であると言いながら、女人と身を合わせることはなくとも、からかい合い、笑い合い、話し合い、壁の外から女人の瓔珞や環釧の様々な音を聞いて、心に愛着を生じる。このような菩薩は、欲の法を成就し、清浄な戒を破り、梵行を汚し、戒を雑穢たらしめ、清浄な戒を具足したとは言えない。また、ある菩薩が自ら戒は清浄であると言いながら、女人と言葉を交わしたりからかったりすることはなくとも、その声を聞き、男女が互いに連れ添う様子を見て、心に染着を生じ、あるいは天に生まれて五欲の楽しみを受けるために戒律を保つ。このような菩薩は、欲の法を成就し、清浄な戒を破り、梵行を汚し、戒を雑汚たらしめ、清浄な戒を具足したとは言えない。」
次釋文中同前四段次所防過中亦有三段初婬業中略標過境者欲明故犯言次須陳有人云此執筆家著准前文中不合有者理不然也自教可知言一切者如律文中舉二十種越男黃門二形等類唯舉女人故云乃至下舉境中但明餘趣亦不重舉若無此文収境不盡不得故者簡怨逼等無故心也有云簡悞准於此文及集論等明有境想此謂故婬於女非謂本心擬婬外色悞婬女人成本迷也三舉婬因婬心毒以之為因傍人引致及梯蹬等以之為緣巧施計䇿令事成辦名之為法身口進趣名之為業三出犯境舉三趣境及以非道超畜生及黃門等故云乃至此之乃至通及諸天及以鬼神神則善惡雜報威力勝鬼然鬼趣攝言非道者下部及口三而菩薩下教起對治初起勝心次起勝行前中曾為父母故起孝心現為下位應起慈悲夫寄在後次起勝行中初教救護義同上解次教與淨行謂以梵行教示於人名之為與四而反下明違結犯違前對治故云而反此中二意一教他故云而反更起一切人婬下明自作又有二意一婬欲熾盛不擇畜生二不識羞慚汙及母等越神人天中庸之境故云乃至無慈悲心彰其過也惡法與他令沉苦海失禪定等及三乘樂名無慈悲下示罪名可知。
次に、教えの文章のうち、最初の四つの節と同じく、防ぐべき過失についても三段に分かれる。
第一の婬(いん)の業において、まず過失の対象を略して示すのは、わざと犯すことを明らかにするためである。次に述べるべきは「ある人が言うには」とあるもので、この筆者は前の文章に照らして「あるべきでない」と考えるが、道理から言えばそうではない。自らの教えによって明らかである。
「一切」と言うのは、律の文章のうち、二十種の男、黄門(去勢された者)、二形(両性具有)などの類を挙げるが、ただ女人のみを挙げている。故に「乃至(ないし)」と言うのである。下の境を挙げる段では、ただ他の趣(生存の領域)を明らかにし、重ねて挙げることはしない。もしこの文章がなければ、境を収め尽くせない。「故(わざと)なければ得ず」は、怨(うらみ)による強要などを区別し、故心(わざと行う心)がないものを除くのである。ある者は「誤りを簡(えら)ぶ」と言うが、この文章や『集論』などによれば、境の想(認識)があることを明らかにする。これは故(わざと)の婬を女に対して行うことであって、本心が他の色(対象)に婬しようとして誤って女人に婬するのは、根本的な迷い(誤認)に当たるという意味ではない。
三つ目に、婬の因を挙げる。婬心の毒を以てこれが因となる。傍らから人を引き連れて来ることや梯(はしご)・蹬(あがり台)などを以てこれが縁となる。巧みに計略を施して事を成し遂げさせることを「法」と言い、身と口の進み行くところを「業」と言う。
三つ目に、犯す境を出(い)だす。三つの趣の境と非道(まじわりとして正しくない場所)を挙げ、畜生および黄門などを超えて示す。故に「乃至」と言う。この「乃至」は諸天および鬼神にも通じる。神は善悪雑報(善悪の混じった報い)であり、威力は鬼に勝るが、やはり鬼趣に含まれる。「非道」と言うのは、下部(陰部)および口(くち)である。
「三にして」から以下は、菩薩が対治(対処法)を教える段である。最初に勝心(すぐれた心)を起こし、次に勝行(すぐれた行い)を起こす。前の段では「曾(かつ)て父母と為したれば」と言い、孝心を起こすべきことを示す。現(げん)に下位にあれば、慈悲を起こすべきである。「夫(そ)れ寄(よ)りて後に」の次は、勝行を起こす段である。初めに救い護ることを教えるのは、意味は上の解釈と同じである。次に「浄行を与う」と教えるのは、梵行(清らかな行い)を以て人に示し教えることを「与う」と言うのである。
「四にして」の「而(しか)して反(かえ)って」以下は、違犯(教えに背くこと)を明らかにして結ぶ。前の対治に背くことから「而して反って」と言う。ここに二つの意味がある。一つは他を教えることであり、「而して反って更に一切の人婬を起す」と言う、これである。二つ目は自ら行うことを明かし、また二つの意味がある。一つは婬欲が盛んで畜生を選ばないこと。二つ目は羞慚(はじ)を知らず、母などをも汚すことである。「神人天の中庸の境を越える」ことから、「乃至」と言い、「慈悲心無し」とその過ちを示すのである。
悪法を他に与えて苦海に沈めさせ、禅定などを失わせ、三乗の楽をも失わせることを「慈悲無し」と言う。下に罪名を示すのは、知るべきである。
▲第四故妄語戒。
**第四条 うそをついてはいけないという戒め**
六門同前。
六つの門はすべて同じです。
初別制意者誠諦之語菩薩所宜實相薰心真言導物不顧身命何況財榮今乃違見背心欺誑前境䨱澡盤而棄水曳曲木於稠林賢聖所呵天神不護失利處重故須制之。
まず、この戒律を設けた意図について述べる。 誠実で真実の言葉は、菩薩にとってふさわしいものである。 実相の智慧で心を培い、真実の教え(真言)によって人々を導く者は、 わが身や命さえ顧みない。ましてや財産や名誉など、なおさらである。
それにもかかわらず、今、戒律に背き、心に反して、目の前の相手を欺き、 あたかも洗面器の水を捨てるかのように(善行を)捨て去り、 曲がった木を茂みに引きずり込むかのように(悪道に導く)とは、 賢聖たちが呵責し、天神も加護しないところである。 利益を失い、過ちは重い。ゆえに、これを制する必要があるのである。
次釋名者有心起犯為故言不稱實為妄陳彰在口為語能防業本為戒智論妄語者不淨心欲誑他䨱隱實出異語出口業是名妄語又云四種口業中妄語最重故。
さて、「妄語戒」の名を解釈します。「心に起これ(悪しき思いが生じ)、犯すことをもって」を「故」とし、「実(真実)を称えないことを」を「妄」とし、「口に陳べ表すことを」を「語」とし、「業の根本を防ぐことができることを」を「戒」とします。『大智度論』にはこう説かれています。「妄語とは、清らかでない心で、他を欺こうと欲し、真実を覆い隠し、偽りの言葉を出すことをいう。口の業によって、これを妄語と名づける。」また、「四種の口の業の中で、妄語が最も重い」とも説かれています。
三具緣者別緣亦七一對眾生二起彼想三起誑心四具三毒五䨱實事六言辨了七他領解。
三つの具備すべき条件とは、別して七つある。第一に、相手が人であること。第二に、その相手を人と認識すること。第三に、だまそうという心を起こすこと。第四に、三つの煩悩(貪・瞋・痴)を持っていること。第五に、実際の事実を隠すこと。第六に、言葉で明確に言い表すこと。第七に、相手がその意味を理解すること。
四闕緣者若闕初緣無情來替迷為有情得輕垢罪疑亦同然知是無情獨語無犯闕第二緣實是有情作非情想本迷無罪轉想輕垢疑有二義同前殺戒闕第三緣戲笑無犯闕第四緣無罪獲福闕第五緣不䨱實事失口無犯故律開云欲說此錯說彼不犯闕六七緣皆輕垢也。
四つの欠ける条件について説明します。
第一の条件(対象が有情であること)を欠く場合:本来無情のものを誤って有情と思い込んだ場合は、軽い罪(軽垢罪)となります。疑惑の場合も同様です。無情のものと知っていて独り言を言った場合は、罪にはなりません。
第二の条件(有情についての想い)を欠く場合:実際は有情であるのに無情と想ってしまった、本来の誤解によるものは無罪です。途中で思い至った場合は軽い罪となります。疑惑については、殺生戒の時と同じく二つの解釈があります。
第三の条件(殺害の意図)を欠く場合:冗談で行った場合は罪にはなりません。
第四の条件(手段の実行)を欠く場合:罪なく福徳を得ます。
第五の条件(相手の理解)を欠く場合:事実を重ねて言わなかった、あるいは言い間違えた場合は罪にはなりません。戒律でも「これを言おうとしてあれを言った場合」は不犯と開かれています。
第六・第七の条件を欠く場合は、いずれも軽い罪(軽垢罪)となります。
五對治者略舉四種一實語行十地經云離於妄語常作實語諦語時語是菩薩(二地菩薩)乃至夢中不起覆見無心誑他何况故妄語二者觀過如智論云妄語之人先自誑身然後誑人以實為虗以虗為實虗實顛倒不受善法譬如覆瓶水不得入妄語之心無慚愧閇塞天道涅槃之門應觀此罪勿令復作三觀實利亦智論云復次觀知實語其利甚廣實語之自從已出甚為易得如是功德居家出家人共有此利善人之相四觀果報智論云呵多比丘雖行法施以妄語故死入地獄。
五つの対治法のうち、四つを略説します。
第一に、真実の言葉を実践すること。『十地経』にはこう説かれています。「妄語を離れ、常に真実の言葉、確かな言葉、時宜にかなった言葉を語る。この菩薩(第二地の菩薩)は、夢の中でさえ、偽りの見解を起こさず、他を欺こうとする心がない。ましてや故意に妄語をすることなどありえない。」
第二に、過ちを観察すること。『智度論』にはこうあります。「妄語をする人は、まず自分自身を欺き、次に他人を欺く。真実を虚偽とし、虚偽を真実とする。虚実を顛倒させ、善法を受け入れない。ちょうど、覆われた瓶に水が入らないように、妄語の心には慚愧がなく、天道と涅槃への門を塞いでしまう。この罪をよく観察し、再び起こさないようにせよ。」
第三に、真実の利益を観察すること。同じく『智度論』にはこうあります。「さらに、真実の言葉をよく観察すれば、その利益は非常に広大である。真実の言葉は、自分自身から出るものであり、極めて容易に得られる。このような功徳は、在家・出家を問わず、すべての人に共通する利益であり、善き人の姿である。」
第四に、果報を観察すること。『智度論』にはこうあります。「呵多比丘は、法施を行っていたが、妄語のゆえに死後、地獄に落ちた。」
六通局者通者如瑜伽云又如菩薩為多有情解脫命難囹圄縛難刖手足難劓鼻割耳剜眼等難雖諸菩薩為身命難亦不正知說於妄語以要言之菩薩唯觀有情義利非無義利自無染心唯為饒益諸有情故覆想正知而說異語說是語時於菩薩戒無所違犯生多功德局者謂若自為起念便犯如文殊問經云但起一念妄語想犯波羅夷資糧論偈云雖由實語死退失轉輪王及以諸天王唯應作實語以性重故殞命不開。
六通における「通」とは、例えば『瑜伽師地論』に次のように説かれています。また、菩薩が多くの衆生を、命の危難、牢獄の束縛、足を切られる難、鼻を削がれる難、耳を切られる難、目をえぐられる難などから救うために、たとえ自身の身や命が危険にさらされても、正しく知りながら虚偽の言葉を語ることはありません。要するに、菩薩はただ有情の利益を観察し、無意味なことはせず、自らは汚れた心なく、もっぱら諸々の有情を利益するために、思いを隠し正知をもって異なる言葉を語ります。このような言葉を語る時、菩薩の戒律に違反することはなく、多くの功徳を生じるのです。
「局」とは、もし自分のためにという思いが生じれば、ただちに犯すことを意味します。例えば『文殊問経』に説かれるように、「ただ一つの虚偽の言葉を語ろうという思いが起きれば、波羅夷を犯す」とあります。また『資糧論』の偈に言うには、「たとえ真実の言葉によって死に至り、転輪王や諸々の天人の位を失うとしても、ただ真実の言葉を語るべきである。なぜなら、これは性として重い罪であり、命を失っても許されないからである」と。
次釋文中次所防過先明妄業文舉三種自教可知方便妄語假說異事令他得解如云我今日不入初禪等又設置方便如作書等次舉妄因誑心三毒為因身口為緣計䇿及所稱為法發動身口為業三不見下明妄差別謂三業異不見言見等口業妄也身意可知越於稱聖重罪謗他但舉小妄故云乃至八種境中但舉其二聞觸知三略不明耳前不見等以無為境如直不見答言我見成於妄語若實聞知答言我見亦成妄語後四見等以有為境若實眼見而言不見及聞觸知皆成妄語舉初例後但有二句身妄語者謂即現相如有問言是阿羅漢者起即便起立成妄語也心妄語者謂說戒時默妄者是三教起對治中二句初起自行故云常生正語亦利他行正語可知令他不生倒解名為正見四明違結罪中邪語邪見反前可知言邪業者依邪見起行名為邪業又解語業起妄名為邪語意業起妄名為邪見身業起妄名為邪業自起尚輕教他至重故偏牒之而結罪也。
次に、この文で防ごうとする過ちについて説明する。まず、虚妄の業を明らかにするために、文では三種類を挙げている。自ら教えることは自明である。
方便の虚妄とは、仮に異なる事柄を言って、相手に理解を得させることである。例えば、「私は今日、初禅に入らない」などと言うことや、手紙を書くなどの方便を設けることである。
次に、虚妄の因としての誑心を挙げる。三毒を因とし、身と口を縁とする。策略を巡らせ、それを「法」と呼び、身と口を動かして業とする。
「三見ざる」以下の部分では、虚妄の違いを明らかにする。三業の違いとして、見ていないのに見たと言うなどは、口業の虚妄である。身と意については、言うまでもない。聖者と称することを越え、重い罪で他を謗ることである。ただ、小妄を挙げているので、「乃至八種の境」と言うが、そのうちの二つだけを挙げて、聞く・触れる・知るの三つは略して明らかにしていない。
先の「見ざる」などは、無為を境とする。実際には見ていないのに「見た」と答えるのが虚妄となる。実際に聞いたり知ったりしたのに「見た」と答えるのも虚妄となる。後の「見る」などは、有為を境とする。実際に目で見たのに「見えない」と言ったり、聞く・触れる・知ることに関しても虚妄となる。最初の例で後の例を挙げれば、ただ二つの句がある。
身の虚妄とは、形相を示すことである。例えば、「あなたは阿羅漢ですか」と問われて、すぐに起ち上がるなどの動作があれば、それだけで虚妄となる。
心の虚妄とは、戒を説く時に黙って虚偽を犯すことである。
三つの教えが起こることに対する対治には二つの句がある。初めに、自ら行を起こすことを「常に正しい語を生ずる」といい、また、他を利する行でもある。「正しい語」とは、相手に誤った理解を生じさせないことを「正見」という。
第四に、違背と結罪を明かす。邪語と邪見は、先の説明と逆である。邪業とは、邪見に従って行を起こすことを邪業という。また、語業が虚妄を起こすのを邪語、意業が虚妄を起こすのを邪見、身業が虚妄を起こすのを邪業と解する。自ら起こすのはまだ軽いが、他に教えるのは重いので、特にそれを挙げて結罪するのである。
菩薩戒疏上(終)
菩薩戒疏 上